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30

被害者のある犯罪
被害者なき犯罪
反社会的な内心

この三段階をどう扱うべきでしょう。

日本には「被害者なき犯罪」についての掘り下げが薄く、公序良俗を重視し被害者がない犯罪も重罪として扱います。
しかし、被害者なき犯罪と、反社会的な内心の境界は強固でしょうか?

行動がない限り犯罪にはならないと言っても、たとえば君が代斉唱強制裁判では、「行為を強制されることは内心の自由の侵害だ」という主張があります。
それは裁判所には、僕の知る限り完全に否定されていますが。

逆に、保守側・国側から見ても、内心を制御するために行為を強制していると自覚していることは、本当にないのでしょうか?
逆に保守側にとって容認できない、行為を通じた内心の自由、自らの魂の尊厳に関わる宗教的価値の侵害は?

29

信じる……それは、データを重ねることとは違います。
きわめて肉体的なことです。

理性で「信じる」ことはできません。

ごく小さいころからの繰り返された教えによる、人格と同じ深さの物事です。
自分という物語に調和したことでなければ、たとえ数学の定理であっても信じることはできません。

「信じる」を変更できるのは基本的には洗脳だけです。

28

堀江被告の刑罰が重いのは、その態度・内心こそが問題です。
日本は憲法に明記されている内心の自由を、本当はひとかけらも認めていないのです。
少なくとも警察・検察・裁判所・刑務所のセクション+マスコミは。
「改悛の情」が刑期どころか執行猶予、また仮釈放に、これほど大きく関わるのは違憲ではないのでしょうか?
実刑かどうかや刑期がそれで変わるとわかっているなら、それは「心から反省し、その情を態度と言葉で示せ。ただし本当に心からかどうか決めるのは、俺だ」と頭に拳銃を突きつけるのと、どう違うんでしょうか?

それをもっと追求すれば、刑務所、刑罰の本質にいくつか根本的なジレンマがある気がします。

まず「更正」という言葉そのものが、憲法が保障する内心の自由を根本的に侵すのです。
人の内心を自在に書き換えること。それ自体が可能かどうか。憲法が許しているかどうか。許さないとしたら刑罰とはなんなのか。
日本の刑務所は、改悛を非常に重視します。
それも徹底した規律が改悛になる、という絶対前提で、確かに身体的暴力・水や食料の欠乏こそ少ないものの、規律の凄まじさは世界的に…どうなのでしょう。

内心書き換えが不可能なのに可能だという前提で罰するとしたら、それは連合赤軍の総括同様際限のない拷問に陥りかねません。それを止めるメカニズムはどこにあるのでしょう。
内心書き換えが可能だとしても、それにはきわめて残虐で長期間の攻撃が必要になります。
おそらくは不可能……もし内心書き換えが可能だとしたら、再犯は存在しないはずです。
それについてきちんとした議論はこれまであったでしょうか?

刑務所の厳しい規律自体の、もう一つの面。根本的にそこには、きわめて厳しい規律に従う生活が善である、という価値観があります。
そこにいくつか問題が生じます。
まずその価値観を押しつけることの是非。
模範囚が、特に内心から完全に刑務所に順応した人間が本当に模範的な社会人たり得るか……自分で考えることが一切できない、命令されない行動が何もできない人間が社会人生活を送れるのか。結果的に外世界に順応できず刑務所に戻る再犯者を増やすだけではないか。
何より、刑務所での規律生活が「善」であるなら、なぜ国民全員そのようにしないのでしょう。国全部が刑務所であるのが最高善のはずです。

さらに、本当に冤罪である囚人に、刑務所が熱心に「心から反省」することを強いたらどのようなことになるでしょう。
それ以上残虐な暴力を想像することも困難です。

間違いなく、刑務所は収監された堀江被告の「心からの反省」に全力を挙げるでしょう。
どんな微罪を作ってでも刑期を延ばし続けるでしょう。心から反省するまで。

その結果、何十年もして、完全に発狂した状態で釈放されたり、または耐えかねて自殺したりしたとしても…僕は驚きません。
日本という国全体が、一人の人間の内心を根こそぎ叩き壊してやる、と腕まくりしているように見えます。

というより…人の内心、人格を完全否定し、それをあらゆる手段で書き換えようと苦しめ続ける…それは、心・人格・魂に対する死刑では?
生命を死刑にするのと心・人格・魂を死刑にするのと、どちらが残酷でしょうか。
心・人格・魂を殺すこと、正しく書き換えることは善だ、というのが、道徳至上主義の当然の考えかもしれませんが。

一罰百戒。それは、日本国民、特に若い人間全員の心根、内心の底の底に対する、容赦ない鞭なのです。

27

堀江被告実刑判決確定…
この「ホリエモン」は、日本にどれほど深い影響を与えたか。莫大ともなんとも言いようがないです。

少なくとも、若い人間が「変わったことをして大金持ちになる」というロールモデルは、この事件で根こそぎ叩き潰されたのです。
起業しても損するばかりだし、多少成功してもがっちり固まっている世間、社会に叩き潰される。
日本社会に反抗してはならない。
そのメッセージは、若者の骨の髄まで叩き込まれました。

それこそ、安保から大学紛争、連合赤軍に至るまで「この国に革命はない、体制に抵抗しても無意味だ、政治には一切の希望はない」と、今の若者でさえ骨の髄まで叩き込まれ、当の、その全共闘を叩き潰した老人たちさえも若者の覇気のなさ、政治的無関心を嘆くのと同じ質です。

政治にも経済にも、今後何十年、下手をすると江戸時代同様何百年にも渡って、日本の若者には一片の希望を抱くことも許されないのです。

それで若者の保守化とか草食とか嘆いているなど、もはや狂気に見えます。
右手の棍棒で犬を、骨が見えるまで叩きのめした挙句、噛みつきもしない気の弱さに怒ってさらにぶちのめしているようなものです。

どうせ何をやってもダメだ、いっそ殺してくれ。
レールに乗っているなら、それにしがみつく。
今ある夢にしがみつけるなら、現実などどうせ絶望しかないのだから、空虚な夢でもしがみつき続ける。

他に選択肢などないのです。現実に何かしようとしても、徹底的に叩き潰されたのです。

「抵抗は無意味だ」それこそ、日本の現代史が生まれた子供たちから若者全てに叩きこむ、たった一つのメッセージです。

26

やや穏当で比較的楽観的な未来像……基本的にはジェフリー・サックス、ムハマド・ユヌスの理想通り。
技術的特異点なし。核融合なし。軌道エレベーターは……なし?
さほど大きな技術進歩はない。
サハラ砂漠で太陽熱発電し、ヨーロッパまで送電する技術が核心になるでしょうか。

将来の科学技術が予想できないなら、「現在の技術で現実にできること」だけにこだわるべきです。

実際問題として、今後の技術進歩が一切ないとしたら、人類は存続できるのでしょうか?
その場合の、選別縮小システムも計算に入れておくべきなのでは。

25

この大震災がなかったら、今の日本はどうなっているでしょう。
解散総選挙はもう起きていたでしょうか?

第二次鳩山政権と谷垣政権、どちらがましでしょう。
岡田政権や小沢政権でも、石原慎太郎政権でも橋下政権でも。

今の政権が崩壊しようが、解散総選挙の結果自民党政権に戻ろうが、何一つ日本政治に希望はありません。
どの政党も、マスコミもNO……その先に何があるでしょう?歴史はファシズムと教えていますが。

日本は政界・論壇ともに、とことんどうしようもない状態にあります。
政界に存在できるのは、自民と民主ひとくくりにしていい「体制党」「護憲」と「公明党」「タレント」以外は存在できません。

「体制党」
実質的に従米で、革新から見れば保守で保守から見れば売国、福祉国家ビジョンを持たず改革を押し切る力もない、ひたすらマスメディアに引きずられるだけ

「護憲」
実質的に宗教じみた信仰を前提にし、貧困層を見ようとしない

「タレント」
奇矯といえる、ポピュリズムだけでマスメディアが持ち上げた政治家。知事に多い。何度失敗してもまた出てくる。

新自由主義・福祉国家・環境・真の保守…どれも日本には存在できないのです。

そして論壇。保守・護憲共にどれほど狂っているか。
武装中立を論じることもできず、科学はポストモダンの名のもと無視され、将来の多数の貧窮を見ません。
しかも政界と論壇の距離があまりに大きく、体制党は自民民主どちらであっても、左右両方から徹底的に糾弾されるばかりで、その糾弾はどちらも生産的とは程遠いものがあります。
共産党や社民党が政権をとる可能性は皆無で、真の保守は政党すら存在しないのです。
政界で何が起きようと、論壇のどの勢力でもわずかでも認める勢力が政権をとることはまずありえません。
まあ安部元首相が保守の期待を集めましたが、結果は…
間違いなく、左側が持ち上げる首相も同じようになるでしょう。

今後、大連立とか石原新党とか橋下新党とかあるかもしれませんが基本的には何も起きない、そうであればまだましだと思います。

まあ、おぞましい可能性はあります。
北野武氏かスマップの主要メンバー、いやタモリ氏、和田アキコ氏やみのもんた氏、池上彰氏も含めた、テレビドリームチーム…
それ以外に、今まったく新しく政治に登場して政権を取る可能性がわずかでもあるものはないです。
そしてそれが政権をとってしまったら…

もう一つ、日本がチリのように、クーデターから新自由主義のパターンを踏む可能性もあります。
僕は本気で危惧しています。僕だけのようですが。
また、在日米軍が日本に牙をむいたら、ということも考えられていません。
それどころか、アメリカが本気で、自国を核攻撃されてまで日本や台湾を守るかも。

「憲法九条、非戦非武装は今の日本にとって、唯一現実的な道なのです」と叫ぶ人たちを笑える人が何人いるでしょう。

24

再生可能エネルギー否定論がよく言うことに、「有効なら普及しているはずだ、市場が選んでいないのは原理的に使えない証拠だ」があります。

現在使われている技術体系は市場に選ばれたのだから唯一絶対完全だ、と思われそうですが、たとえばアメリカの都市鉄道、大麻の繊維や油など、政治力で潰された技術はたくさんあります。アメリカやヨーロッパの農業にも莫大な補助金が注がれているのです。
それ以前にQWERTYキーボード、軍用小銃のM16やSA80など、どう見てもベストではないけれど普及し使われ続けているものは多くあります。

実際問題、アメリカやヨーロッパでは、この問題はどうされているのでしょう。ドイツでもフランスでも物理法則は変わらないはずでは?なぜドイツは再生可能エネルギー中心、フランスは原発中心なのでしょう?
ドイツはフランスの原発に頼っている、ドイツの脱原発は欺瞞だ……ドイツに聞いたらどうなるのでしょう。

というか、そんな言葉をどれだけ積み上げても、意味があるのでしょうか?
天は完全である、だから惑星の運行軌道はもっとも完全な図形である円でなければならない……それと同じ水準なのでは?
必要なのはデータ、いや実証実験では。

それ以前に、本来「よりよかった」のに失敗した技術、商品はどれほどたくさんあるのでしょう。
どれだけの「もう一つの世界」があるのでしょう。

机に大型液晶ディスプレイを置きQWERTYキーボードとマウスを使うのではなく、高精度小型のブラウン管ディスプレイを双眼鏡のように接眼レンズでのぞき、14鍵ぐらいのピアノに似た鍵盤+親指で操作するホイール状多段シフトで音楽演奏と兼用できる片手キーボードを左手で、ペンタブを右手で入力するパソコン技術だった可能性は、本当にないのでしょうか。

23

アウトドア用にあったら便利そう…

断面が卵形または面取り長方形の筒状握りがある、片手握りで広めの刃の、軽金属かFRP製のスコップ。

それにあわせて、ツルハシ部分の断面がその筒に合う、片方がツルハシのトマホークタイプの手斧。
その手斧の柄も中空バール状に頑丈(FRPでもいい)、柄頭はバール平刃。

三角形や円の組み合わせからは、壁紙として機能するためプレスで無駄なく打ち抜ける形も取れます。
結構面白いですよ、どんな形なら隙間なく無限反復できるか。
まあそれは、群論と幾何学ちょっと組み合わせれば壁紙のパターンは全部出てますけど。

スコップだけでも、棒を入れて延長できます。
あ、サバイバルナイフもそれができると思っている、というかランボー1でその使い方がされましたが、大半は構造上無理です。その用法ができるのは鉄棒削り出しのクリスリーブ、コールドスチールのブッシュマン、あとフクロナガサぐらいです。

柄つき中華鍋に似て、ちょうど頭を覆える形の頑丈な鋼鍋と、それをかぶるための袋も、普段はかぶり、棒を突っこんで穴を掘り水を汲み、砂で磨いて料理に使えて便利ですね。

22

「再生可能エネルギーは使えない」僕がこれに疑いを抱いているのは、知的な判断ではなく感情的なものでしょうか。
再生可能エネルギー文明になって欲しいという願望が、判断をゆがめているのでしょうか。
間違いなく、僕は「再生可能エネルギーは使えない」という論を読むと、不快感を感じます。
その感情が、僕の理性をねじまげて自明な事実を受け入れさせていないのでしょうか。

いや、もっと…もし本当に再生可能エネルギーが使えないのなら、ウランも石炭も石油も天然ガスも、二百年かも三千年かもしれませんがいつかは枯渇します。
その時には結局、人類の大半を殺し、文明もほとんど放棄して木材の自然再生にエネルギーを依存した、「持続可能な焼畑農耕」を全地球でやるほかないのです。
それも長くは持たないでしょう、宇宙進出ができないのなら金属資源が枯渇します。
本当に再生可能エネルギーが使えないのなら、今からその準備をして、本当に重要な文化財や情報を宇宙に打ち上げて別の異星人が使用してくれることを願うべきです。
地球文明に明白な寿命が定まったのなら。
僕が感情で人類文明そのものに対する死刑宣告を受け入れられない、だから「自明」であるはずの、「再生可能エネルギーは使えない」を感情的に受け容れられないだけ…そうなのでしょうか?

二百年後には別の技術があるだろう…そうでしょうか?
今再生可能エネルギーが使えないなら、極超音速スカイフック式軌道エレベーターによる宇宙太陽光発電、洋上風力発電、核融合、海水灌漑…すべて原理的に機能しないのなら、将来もできることは何もないのでは?
少なくとも原子レベルの物理法則、特に熱力学第二法則とエネルギー保存則はどんな将来も変わらないことはほぼ断言できます。

本当に「再生可能エネルギーは使えない」というのは、量子力学が実験結果から明白なのと同じように明白なのでしょうか?
常識から言葉をどれだけ積み上げても、量子力学はおろか惑星の楕円軌道すら人は考えることもできません。
文系の人間が言葉だけをどう積み上げても、それは科学的な判断とは違うのです。

僕は環境保護論者でも護憲派でもありません…環境保護論者に対しては予防原則の過剰、特に海洋施肥に対する反対が気に入りません。護憲派に対しては、侵略された場合を考えろ、非暴力不服従または国民全員自爆の覚悟が必要だ、というだけで充分でしょう。

一方が正しくてもう一方が完全に誤っているのか。
それとも、両方ちゃんと科学的根拠から実証的に積み上げていないのか。

僕は後者だと思いますが…必要なのは、充分に科学的な権威による、医学におけるランダム化プラセポ対照二重盲検治験に匹敵する、明白に実証的な研究です。
ハレー彗星がニュートン力学を、マイケルソン・モーレーの実験が相対性理論を、黒体輻射の観測が量子力学を…さらにどれも人工衛星や加速器による実験が、どんな精度でも明白に証明し続けてくれているように。

この問題は、日本にいるとイデオロギー対立のせいで見えなくなってしまいます。それが、さらに深刻な問題につながっている気がします。
本来なら科学の問題のはずなのに、致命的なほどにイデオロギーの問題になっているのです。

単純に、新自由主義側の人の多くは太陽光・風力は実用にならない夢物語と決めつけ、原発しかないと主張しています。逆に、護憲派で再生可能エネルギーの実用性を否定する人を、僕は見たことがありません。
それどころか、温暖化問題についての主張や捕鯨問題すら、経済的イデオロギーとの相関性がきわめて強いのです。

単純に、新自由主義者は科学的に考えているから、全て正しい結論が出るのは当然なのか。
それとも、先に原発しかない、エコを主張するサヨクはバカだ、という結論があって、それに基づいて科学データではなく「不安定」「拡散している」など言葉の積み上げによって判断しているだけなのか。

なら逆も言えます。護憲派はすべて科学的にも正しく、反する者は政府と資本の御用学者であるだけなのか。

それとも、どちらもまともに考えていない、イデオロギーから結論を出しているのか。

だとしたら……「再生可能エネルギーは使えるのか」という最重要問題には、永遠に答えは出ないことになります。
科学的検討すら、互いに「御用学者のバイアスのかかった」で否定されてしまうのです。

環境保護と左翼の関係の深さ、それゆえに、それに関すること全体に対する保守派の懐疑、否定的感情の強さ。
互いを御用学者と罵りあってきた、水俣病や原発以来の科学をねじ曲げる歴史。
それが積もり積もって、とんでもないことになっているのでは。

といっても、日本の地理条件で、普通に屋根に太陽電池を置いただけで電力がまかなえるとは僕は思っていません。
急ぐべきなのは洋上風力発電、中国奥地や洋上での大規模な太陽熱発電でしょう。
あと、脱原発や二酸化炭素温暖化なら、問題なのは日本ではなく中国やインドだ、という問題もあります。
それを考えれば、砂漠での太陽熱発電や外洋での洋上風力発電・遠距離大電流送電技術の確立が急務でしょう。

本気で、この問題について考えるべきです。

まず……日本での、様々な立場による再生可能エネルギー否定論・肯定論の検討、それぞれの論者の経済イデオロギーをまとめて。
権威のある科学誌による検討、特に再現可能実験による「風車で風車を、太陽電池で太陽電池を」作る実験。できれば大きめな島で化石燃料・ウランとも枯渇したと仮定して再生可能エネルギーで文明生活をする実験。
洋上風力発電など新技術の検討、促進。
アメリカやヨーロッパでの、「再生可能エネルギーの実用性」に関する議論の紹介。
さらに、本当に再生可能エネルギーが使えず、化石燃料・ウランともに枯渇した状態の、文化財を保存し人類の大半を殺すことも含むシミュレーションや実証実験。
それらをきちんとまとめるべきです。

21

「葉隠」で、毎朝死をイメージして死を覚悟する精神修養があります。

でも、イメージよりも、「ウォーターボーディング」…米軍が好むと知られる拷問のほうがいいのでは?
あれは確実に、死そのものをイメージさせるそうです。

少なくとも扇子で腹を切るよりは死のイメージにいいでしょう。

まあ死ぬ危険もありますが。

あと、狼に追われているとイメージして息が切れて走れなくなるまで全力で走るというのもありでしょうか。

20

この震災を総括すれば、「民は最高だが指導者層は最悪だ」になりそうです。

その最悪の菅政権は、阪神大震災の村山政権と比べればどうなのでしょう。

そして、上の総括は、事実なのでしょうか、それともマスコミの合意でしかないのでしょうか?
全ての動きが丁寧に検証されているでしょうか。

しかしどちらも非自民政権、というのは…ひょっとしたら、自民党政権だと、神の守りがあって大震災が起きないのでは、とすら思えてしまいますね。
だとしたら自民党というのはとんでもない力と実績があると言ってもいいでしょう。
そんなはずはありませんが、次にまた自民党政権で十年何もなく、その次に政権交代したらすぐ大震災があったら信じる人が多くなりそうです。
まあ、村山政権は自民党が中核でしたが、首相は非自民でしたし。

もう二度と政権交代はない、でしょうか…
というかこれから、普通に自民党政権に戻って、また二世政治家が一年で辞めるのを、どれぐらい繰り返すんでしょう。
暴発したらしたでろくなことにならないでしょうが。

19日

左翼が鍛えた刃、というか人材や言葉を右翼側が使って社会を破壊することがよくあるようです。

アメリカのネオコンは左側の鋭い研究者が転向したとか。
また日本の「構造改革」という言葉は本来江田氏によるものだとか。

これからの世界を変えるのは、誰が鍛えた刃でしょう。
どんなふうに変わっていくのでしょうか。

18

「国家破産を乗り切る」「新しい時代に」系統の本は、資産のある金持ちか、または東大生向けです。
財産のない高齢フリーターや、地方育ちで平均程度の頭脳しかない子がどうすればいいかはどこにも書いてありません。
従来通りのレールはない、すべては崩壊し実力だけの世界になる……それで生き延びられる実力がなければ?
要するに、死ねとしか言えないので書きようがない、ということでしょうか。

「ある世代に生まれた、下七割の人間」をそれだけで断罪することになんの意味があるでしょう?
努力不足など精神論を言うなら、どの世代も上の世代から見れば怠け者・邪悪・抹殺すべきできそこないであることには変わりないです。
団塊は戦中世代に、戦中世代は維新世代に、維新世代は武士たちによって道徳的・勤勉的に人間失格とされてきました。

弱者切り捨ては言葉だけなら気持ちいいかも知れませんが、想像力がないのでしょうか?
無数の餓死者ひとりひとりの苦しみ、信用と借金でつながった社会網の自壊、最終的には国家という幻想そのものの崩壊にすら結びつくことに。

「標準家族社会モデル(夫がローンを払える金額を稼いでマイホームを買い、妻は専業主婦かパート、妻が子を育て、夫婦双方の親を介護し、保険型の年金で老後を暮らす)を、標準家族を少数エリートとしつつ保ち、脱落者は繁殖を許さず六十になって仕事能力を失ったら自殺させる」
「標準家族社会モデルを否定し、新しい社会システムを作る」
どう見ても選ばれるのは前者です。

17

「工場式畜産」は、あのやり方が唯一絶対なのでしょうか。
本当に効率は最高なのでしょうか。

あらゆるやり方を試してあのやり方に至ったのではなく、「効率」という思想を具現化するために不要な狭さ、家畜にも、従業員にとっても苛酷な環境になっていないでしょうか?

昔と違い、交通の発達した今は移動コストは低下しています。
電気柵の技術も高く低コストです。
なら、少しずつ屋根ごと移動していき、昨日いた場所は耕して畑にするようなやり方も可能なのでは?

狭い面積の高密度飼育…わざわざ大型ファンで冷やしてまで…するのは、土地代の高い都市近郊に工場を作る必要があったからでは?
だとしたら、冷凍長距離輸送・冷蔵高速輸送が可能な今、都市から離れた場所に広大な畜産場を作ることも容易です。

他にも、現代と工場式畜産システムができた時代との違いはあるでしょう。

「工場式畜産」「昔ながら」の二択だけでなく、基本的には工場だけど家畜も安楽、環境にとってもいい、効率もむしろいい、という解はないのでしょうか?

16

ペイアズユーゴー。
日本には震災地域を復興させ人を支援する金もない。職のない若者や増えすぎた老人を食わせ介護する金もない。グローバル経済に不要な地方に補助金や公共事業を出す金もない。
もはや船は沈んだ国に頼るな、全員海に飛びこみ生きられる者は生きよ。サムスンが要求する英語力や国際力を持たない日本人は全員寄生虫だ、駆除せよ。
椅子取りゲームをして、敗者をみんなで火あぶりに…しかもその薪は椅子。それですぐ次の音楽。最後の一人まで。
それは思想という名に値するでしょうか?

身体や精神の障害者と、親戚一同に家族同然の取引先も連帯保証でがんじがらめで自分が倒産すれば何十人も一家心中する斜陽産業下請け小企業の経営者、どちらも「働かざる者食うべからず」「市場に任せよ」の論理では死ぬべきであることには変わりありません。
どちらも生かすか、どちらも殺すか、それとも一方だけを生かすか。

どれを選びますか?

今まで通りを続けて、崩壊したらみんな死ぬか。
生きられる者は生きよ市場に任せよで、何もせず弊害を甘受するか。
市場化を進めつつ計画的に洗練された警察と魔女裁判の複合体を暴走させ、あらゆる弱者を自殺に追い込む静かな大量虐殺で治安と道徳を守るか。
それとも誰もが生きられる前提の下市場化するか。
またはマルクス・老荘・宗教の夢にすがるか。

選べるかどうかも疑問ですけどね。

少なくとも、路上に餓死者の死体があふれ、それを戒めにみんな必死で働き、それでいて政治と治安が安定し、努力で成功していれば冤罪で収容所行きになったりせずほっといてもらえる、なんて夢物語はありません。
貧困と格差の先は、成功者にとっても独裁政権による収容所と財産没収なのです……幸運にそれを免れても、忠誠表明と道徳遵守で生活の隅々まで干渉されます、北朝鮮の特権階級と同様。

あと、鞭と餓死よりも希望と年金の方が、人は熱心に働くことも歴史が教えています。

「無条件に誰も餓死させない、死ぬまで介護する。環境は壊させない、文明は持続可能に。ただしそれ以外は何もしない」という変型新自由主義はありえないでしょうか。
それとも新自由主義の本質に、弱者は餓死させろ、自然はぶっ壊せがあるのでしょうか?

あと、その上で科学はやって欲しいです。アポロ計画やSSCを引き継ぐ企業は自由市場になかったので。

15

「輪姦」という、人間の最も邪悪な行為の一つは、想像以上に人間の発達心理学にとって重要なのでは?

人の男の子は女の子を排除した群れを作ります。
それは、表で騎士道での婦女子の庇護を持つこともありますが、下位道徳として女子に対する強い軽蔑と憎悪、一夫一婦制…恋愛に対する強い反発があります。
ですが強い性欲もあり、恋愛は禁止でも輪姦は皆で楽しみます。少なくともファンタジーとして、ポルノを楽しむことによって。

また体育会系組織の参入儀礼に、買春強要があることも知られています。
それもその変形では。

共に食べることが人間の精神にとってどれほど重要かは知られています。
なら、共に暴力をふるい、性交し、虐殺することも同様に重要なはずです。

羞恥と一夫一婦制が強い人類も、若い雄の輪姦好きだけは例外と言えるのです。

ま、そう考えるなら証拠が必要になるでしょう。
性暴力が、ポルノグラフィーや買春の共同消費も含めて、どの程度人間にとって普遍的なのか…
調べたら人間滅ぼしたくなるのは確実ですが。

それはフェミニズムのイデオロギーで否定されるでしょう…ですが、人類の雄がその邪悪な行為を好むことは、事実です。
かといって性暴力を肯定する根拠に用いてもなりません。
ただありのまま認識すべきでしょう。

僕個人としては単純に、性暴力を目撃したら犯人を殺す。
万一徴兵され、戦友であっても、そのために殺されても。また上官命令なら命じた上官を殺して自殺する。
ただそれだけです。

14

「国民総背番号制」が、首に鎖をかけられると同じだ、テレスクリーンと同じだ、と実質魔術として、感情のレベルで感じてしまう人をどうすればいいのでしょう。

卒業式で日の丸が掲揚され君が代が歌われることが、ハーケンクロイツへの敬礼と同意義に、魔術的な感情でなってしまう人をどうすればいいのでしょう。
指紋押捺に根本的に耐えられない人は。

そう感じることをやめろ、と言うことはできません。
どうなのでしょうか?国は、人の魔術的感性に対して、干渉できないのでしょうか?
魔術的感性も、憲法が保障する内心の自由、個人の尊厳でしょうか…魔術的感性には、差別や好戦性、ファシズム待望など、憲法道徳と相反するものもたくさんあるのに?

宗教と同じ処理しかないのでしょうか……寛容、ただし手綱は渡さない、という。

卒業式では、君が代を式として歌うか歌わないか以外ない訳ではありません。
「宗教かそれにに準ずる理由で歌えない方はご着席を」を容認し、そのかわり着席する側も敬意を払い妨害行為はしない、妨害行動には容赦しない、とするほかないのでは。そうしなければいたずらに殉教者を出します。

または公立校の教員募集要綱に、国旗国歌への忠誠表明義務があることを明記すればいいんでしょうか。
それなら懲戒しても問題にはなりません。

でも、起立拒否者の目的が、国旗国歌法の違憲立法審査や、イデオロギーをマスメディアでアピールするためだったら…被害を受けるのは生徒です。

13

選挙が示している、もう一つの絶望。
まともな候補が出ない以上、そして「石原慎太郎氏に投票する人」が圧倒多数である以上、要するに自由の侵害に歴史は向かうのは避けられないです。

結局のところ、歴史そのものが「内心の自由の侵害」に向かっているのです。

内心は取り締まれます。人間を家畜化する方法によって。適切な見せしめと社会の空気によって。
そして、日本人ほど深く屈服している集団はありません。北朝鮮や中国の人民よりも。
日本人の、特に若者には生来、「抵抗は無意味だ」と絶対的に刻み込まれているのです。
違う?自主武装中立の可能性を、論ずることを容認する人は日本に何人いるでしょう?左側は反護憲的だと、右側は国益を損じると論ずること自体を禁じます。それに抵抗する気もないのです、誰も。
というか保守派はもとより道徳絶対、全員内面も道徳的になるまで鞭打てですし、また護憲派も(天皇条項以外の)日本国憲法に反する内心の存在は絶対に認めないでしょう。
保守と護憲のどちらでもない人が、日本の言葉の世界のどこにいられるでしょうか?

統治権力、特に警察と学校には、ほとんど本能として性道徳粛清・表現規制があります。
何をどうしようと、安定した社会そのものが、その社会に対する不満・批判が強まり、警察などの圧力が積み増し、道徳を高めようという人間の自然な衝動から規制が強まっていくのです。

それ以前に、どの国も警察国家でないことのほうが変なのです。
警察国家にしたければ、ただ、「全ての人は首輪をつけ、鎖を(ぶらぶらしないよう、身体に巻いて)つけよ」それだけでいいのです。
実害はない、と言う、考えず秩序の側に立ち続ける多数派はそれに従います。
だが一定率でそれが嫌な性格の人がおり、逆らうでしょう。とにかく他人に束縛されたくない、という人が、遺伝子的に一定数いるのです……人をなぶり殺しにすることを好む人が一定数いるのと同様に。人を支配したい欲がきわめて強い人が一定数いるのと同様に。進化心理学的には、どれも群れを分割してリスクを分散し、敵を攻撃し、群れを導くのに必要な人材でした。
それが警察にとってはつけめになります。
逆らう者を暴力的に取り締まれば、一定数は暴力的に反撃します。
とにかく鎖が嫌いだ、というのは本質的な犯罪因子なのです、警察にとっては。
それを、情報を支配しているのは警察ですから、「逆らう者が警官に暴力をふるった」と、公敵として扱うわけです。
それによって言論の自由も断ち切られます。首輪に反対する者は公の敵、暴力的反体制派だからです。
そしてあとは過激派が暴力をエスカレートし、それに弾圧もエスカレートしてより多くの人が警察を恨み……警察にとっては敵が多ければ多いほどいいのです。
憎まれれば憎まれるほど、敵が増えれば増えるほど自らの予算も増えるのですから。
非暴力抵抗をしようとすれば、スパイを紛れ込ませて過激化すればいいのです。人は過激化の傾向が、動物としてきわめて強いので。

また自由を求める声は、常に攻撃されます。秩序を求める声は賞賛されます。それが人間の本能です。
青少年健全育成に反対する者は、熱心に活動すればするほど狂っていると大衆に思われます。
逆に賛成する者は、熱心であればあるほど「心から子供たちを、国の将来を思っている」とされるのです。

最初から勝負がついている戦いなんですよ。人間が人間である以上。

僕はその、人間が人間であること自体が、吐き気がするほど、自分の身体を自ら八つ裂きにしたいほど嫌いなのです。

12

石原都知事4選は、それを喜ぶ人にとっても嘆く人にとっても、桁外れに重要な問題を……僕には露わにしていますが、多数の人からは隠しています。
「何回やっても、まともな対抗馬を一人も出せなかった」ことです。

候補者一覧を見て、絶望に崩れ落ちない人などいるでしょうか……一部政党信者を除いて。

逆に石原都知事の価値観に賛同し、当選に胸をなでおろす人にとっては、喜ぶのではなく後継者を作れなかったことに絶望すべきでしょう。極秘に実用化された不老不死技術に間に合ったのでなければ。
十二年作れなかったのが、あと四年で作れるでしょうか?

左側は一本化に協力しなかったことで互いを責め合ったり、また愚民を責めたりするだけで、どんな人なら勝てるかをまともに考えることはまったくありませんでした。

事実上候補を出せなかった民主党…
そして今の、民主党に対する批判が正しいのなら、日本は戦後六十何年、まともな野党を作ることすらできなかったのです。

左右共に、今の政治世界は候補者育成能力を完全に失ったのです。

それについて、国民の民度を嘆くのも、特に批判的で扇情的なメディアの常です。
だとしても、それが何年経っても解決しない、不治の病であれば、それはまた絶望に他なりません。反省して治るなら、とっくに治っているはずです。

大差当選は、何カ月も前から全財産捨ててもいいほど確信していました。
そしてその確信通りになったことに、底の底のまた底を抜けて絶望しています。

喜ぶ人は後継者がないことに。
怒る人は、ひたすら愚民だのライバル党だのタレント候補だの、責める相手を見つけて責めて。
誰が当選したかなどより、その荒野そのものが徹底的に絶望的なのです。

といっても逃げる場などありません。アメリカでも、オバマ氏が当選しても何も起きませんでした。

11

原発の災害、被災地のライフライン寸断、そして首都圏の停電と電車混乱は、我々が普段いかにエネルギーを中心としたライフラインに依存して生活しているかを痛感させます。
そして原発の、かねてより予告されていたと言っていい災害があります。これを、さらにひどい事態になったとしても、「想定内」と済ませるのでしょうか、それとも原発廃止に舵を切るのでしょうか。

そして、原発を廃止するならば当然考えるべきことは、何をこれからのエネルギーにするか、です。
脱原発のはるか以前に考えなければならないことがたくさんあるのです。
原発論争は戦後のイデオロギー論争に深く組み込まれており、脱原発を訴える活動家と原発以外にないと主張する官僚は、互いに科学さえも共通前提にできない状態なのです。
原発の可否など、もはや神学論争と言っていいでしょう。

停電で痛感していると思います。膨大な電力が、エネルギーがなければ、人は生きられないと。経済大国としての経済活動はおろか、医療すら保てないと。今国土にあふれる危険物を制御することもできないと。食料や燃料自体を運ぶこともできないと。
そのことは、電力不足のまま真夏を迎えたとき、東日本の人間の大半はもう一度痛感するでしょう、多くの死人を出しながら。そのまま忘れないことを願いますが。
短期的には火力発電以外に選択肢はありません。でも長期的には?温暖化の有無は関係ありません、火力発電使い放題が許されるのは、「二酸化炭素温暖化はない」かつ「化石燃料は無限にある」という、まず考えられない場合のみです。
化石燃料について、この震災がなかったとしても世界市場は乱高下し大きな影響を受けていました。さらに今は、エネルギーは機械・空中窒素固定化学肥料を通じて食糧生産とも直結しています。
これからのエネルギーについての議論を始めなければ。
ですが、エネルギーについての議論は、事実上動きません。奇妙なことに、本来科学的にはっきり決まっているはずの前提さえも、全く一致していないのです。しかもそれが、経済学的・政治的な立場で決まっているようにさえ見えるのです。

まずその前提を列挙しましょうか。

●事実かどうかわからない、重要な前提
「太陽光・風力発電は使いものにならない」
「科学技術はこれからも発達する」
「核融合は絶対に不可能」
「原発は火力発電以上に化石燃料を使う」
「化石燃料を燃やし続けたら温暖化で地球環境は崩壊する」
「太陽電池・風力発電共に、資金を注ぎ優遇政策をとれば技術革新・量産効果でコストが下がる
(コストが高く普及しないのは石油・原子力の政治力によって研究費を抑えられ、政策的にも抑圧され、石油や原子力に軍事を加えれば高額の補助金がかかっているから)」
●事実だとほぼわかっている前提
「石油・石炭・天然ガス・ウランは有限」
●事実だとわかっている前提
「非在来石油・天然ガス・石炭・高速増殖炉などを考えに入れれば(温暖化・原発事故を無視すれば)数百年から千年はある」
「地球に注ぐ太陽光・風力のエネルギーはきわめて大きい」

中でも、自然エネルギーが石油の無駄かどうか。
これこそ、原発や温暖化すらすっ飛ばした、人類にとっての最重要問題です。
いやそれ以前に、近代文明を支えられるのか、近代を捨て全人類が改心し江戸時代のように「もったいない」で暮らすなら支えられるのか、それとも石油の無駄なのか。
ここで、多くの人の意識していない前提、方向性としての選択肢が表面化します。
●エネルギー大量消費型文明を「捨てる」「続ける」
○さらに長期的な方向性として、江戸回帰・現状の延長・宇宙進出。
○多分見えていないこと……エネルギー大量消費型文明を捨てる選択肢は、膨大な人間の死を意味しているのではないでしょうか?それともエネルギーを大量消費せず、現状と同じかそれ以上に人道的な社会は可能なのでしょうか?幻想はどちらが?
細かく見ましょう。
●現実を見ていない選択
「原発を続ける」……せいぜい百年の先延ばし。ウランも有限。
「石油は枯渇しない」……石油枯渇・温暖化の両方を否定?
●前提によって変わる、実際どうなるかはっきりしていない選択
「もったいない」物質文明放棄というか江戸回帰というか……現実にはどうなるのでしょう?
「原発も火力も捨てて太陽光・風力を中心に」……「太陽光・風力は使いものにならない」が嘘でなければ成立しません。
または世界人口の大半を殺し、生活水準を江戸時代に落とす必要がある、という前提を隠しての主張でしょうか?
「当分は原発を続け、代替エネルギーは技術革新を待つ」……技術が今後も大きく発達しなければ成立しません。
●なぜか誰も考えない、耳を貸さないこと。技術革新
洋上風力発電、大規模砂漠太陽熱発電、宇宙太陽光発電、外洋施肥、海水灌漑バイオマス、太陽光レーザーで海水からマグネシウムを作って水素にするなど、現在の技術で可能、またはもう少しの技術革新で可能な新エネルギー。
「新しい技術はホラ話」「新しい技術が実用化されるまでには四十年かかる」「科学技術頼りに科学文明を延命させようとするのは間違っている」という、左右双方が持つ強烈なバイアスに、誰もが囚われています。要するに左右両方とも、技術自体が大嫌いなのです。

ここで重大な疑惑があります。
原発や自然エネルギーの評価は、「事実と確認しうるデータ」を「分析」し「判断」したものでしょうか?地球が自転していることや相対性理論が、実験データから数式まで明白に追えるように。
僕が怯えているのは、「太陽光・風力発電は使いものになる/ならない」という命題が、科学的な検討ではなくイデオロギーによって判断されているのではないか、ということです。
本来は、命題そのものは、科学的な検討が可能なはずです。
なのになぜ、その前提命題にすら賛否が一致せず、しかもどちらも確信しているように主張するのでしょう。
「イデオロギー(新自由主義にしても反核にしても)」から先に「判断」し、その判断に合う「データ」を収集して補強していないでしょうか?
最初が「感情(放射能に対する恐怖、科学文明に対する憎悪、サヨクに対する脊髄反射的な反対)」で「判断」し、その補強証拠を集めていることは?
そうでないなら、なぜ護憲系のサイトではどこでも「原発を廃し、自然エネルギーに舵を切れ」という主張で、逆に新自由主義が強いサイトでは「自然エネルギーは使いものにならない」が圧倒的に多いのでしょう。
それこそ、護憲派が捕鯨禁止を、保守派が捕鯨推進反グリーンピースを叫ぶと同様……カソリック信者が何曜日に何を食べていいかも教皇の判断を仰ぐように、科学的であるべき判断までもイデオロギーに汚染されているのでは?
ひょっとしたらですが……たとえば脱原発を主張する人は、「太陽光・風力発電は使いものにならない」という命題が真であっては困ります。真であれば、火力に頼って温暖化を招き最終的には石油枯渇で人類全体がとても苦しい生活をするしかないからです。
それがイデオロギーに反するから、この命題を偽とし、真とする研究者を御用学者と罵倒する……それほど危険なことがあるでしょうか。
逆も同じです。環境保護団体=サヨク=間違っている、だからその命題に賛成する報告を尊重し、逆にそうでない研究者を反核団体の御用学者と決めつけていないでしょうか?
さらに怖いのが、文系の知識だけで散漫なシミュレーションをして、それが絶対に正しいと権威を持って主張され、その受け売りがなされていないかという点です。どちらの立場でも、声高な主張者には文系だったり別分野の学者だったり、それこそフランス哲学が専門の文芸批評家だったり、本当に太陽電池について理解しているか疑問な人が多いのです。
たとえば「太陽電池は高い。コストはエネルギーだ。だから実用にはならない」、それは本当に科学者・技術者の目から見ても正しいのでしょうか?
客観的な実証研究は、全く不可能なのでしょうか。
人はとことん、信じたいものを信じる生き物です。データではなく、信じることだけの知性なのです。
たとえばWWFが発表した、「The Energy Report - 100% Renewable Energy By 2050」は信頼できるでしょうか?
それともこれも、原発推進・新自由主義の側からは御用研究だ、まったくの嘘だといわれるのでしょうか。
では逆に、日本政府と東京電力による研究発表は信頼できるでしょうか?どちらも信頼できないなら、どうすればいいのでしょう。どの党に属しているか、それだけの問題では?でもエネルギーは税率とかとは違い、科学的事実のはずです。

また、これも重要な疑惑といえるでしょう。反原発・自然エネルギー推進を言っている人たちは、本当は「近代物質文明の放棄」が語られない当然の前提にあるのでは?
自然エネルギーの性能が低い、それで今のような生活はできないぐらいは当たり前のことだ、近代文明を捨てるのは最初から前提だ、ということでは?
江戸時代の水準の生活が最初から前提ということは?
だとしたら、それは「代替エネルギー」とはいえません。

問題なのは、「太陽光・風力は使いものにならない」ということが、日本のネットのかなりの部分では、実質常識とされていることです。何人もの政治家や著名人が、地球は丸いんだと同じように語っているのです。常識だから事実、かどうかはわかりません。どんな根拠でそう言っているのでしょう?
逆に反原発側は、どんな根拠で?ソースは?ソース厨と言われるだけでしょうか?
また反原発側にも、膨大なエネルギーを太陽光・風力で賄うつもりなのか、実質的に江戸時代の生活水準で、少しだけエネルギーを風力で賄いたいのか、それとも太陽光・風力発電の実務について根本的に間違っているのか、どれなのでしょうか。
現実にはその生活は、どれほど苦しいものになるでしょう。今冷房を捨てたら膨大な死人が出るのでは?冷蔵庫がなければワクチンも作れません。化学肥料がなければちょっとした天候不順で飢餓に陥り、十人産んで二人生き残る暮らしになるのでは?セメントは?鉄は?間引きや姥捨ても必要になるのでは?
実証的・科学的な、信頼の置ける研究がなければそれを決められないはずです。
あまつさえなぜ、フランス哲学教授など文系知識人や、ましてお笑いタレントが、核融合はダメだと決められるのでしょう?どれだけが、その判断に必要な科学の勉強をして言っているのでしょうか?数冊のベストセラーや新書、ネット記事、仲間たちや党の伝聞、党機関紙の記事だけで判断していませんか?
核融合の可否をいちばん知っているのは、現場の研究者・実験技術者のはずです。
ですが彼らは御用学者、と言われて発言権を奪われます。
徹底的に人は信じたいものを信じ、群れで、イデオロギーで判断するのです。

本当は、我々は自分たちの前にどんな選択肢があるのか、ということすら知らないのではないでしょうか?前提の真偽がわからないというのはそういうことです。
ここでヒントになるのが、「代替医療のトリック(サイモン・シン)」です。
臨床実験には、原理論争を超越して有効性(または無効性)を実証する力があります。呪符でも、本当に有効なら有効性を示せるのです。
確かに信者は読んでも信念を変えないでしょうが、科学的には「ランダム化プラセポ対照二重盲検臨床治験」は絶対です。
代替エネルギーの実用性についてすべきなのは、それではないでしょうか。
代替エネルギーについてだけでも、科学に基づいた公論をつくることはできないのでしょうか。

となれば原発議論をしていても何にもなりません。それ以前の、それ以上に重要な問題を科学的に問うことに絞りましょう。
「再生可能エネルギー(太陽光発電・太陽熱発電・風力発電・波力発電)は石油の無駄」
「革新的なエネルギー技術(核融合・洋上風力発電・宇宙太陽光発電)は今後出ない」
「化石燃料は無限にあり、枯渇を心配する必要はない」
の、三つの前提に話を絞れると思います。

なかでも重要なのは、再生可能エネルギーの可否です。原発や温暖化がどうあれ、石油・天然ガス・石炭・ウランのどれもいつか枯渇するのであれば、その時に再生可能エネルギーが石油の無駄なら文明は維持できません。
これは実際に、実験で検証可能だと思います。どこか……佐渡・淡路など大きめの島で、化石燃料を一切入れず、初期投資の機械だけから「太陽光・風力で太陽電池・風車を作り、そのあまりで文明生活をする」ことができるかどうか試すのです。
要するに、その島は「化石燃料・ウラン枯渇後」であるとして、その状態で化学肥料農業・近代製鉄が機能し、自動車や船や鉄道も造って動かすことができ、もちろん住人は蛇口をひねれば温かい湯が出て冷蔵庫を使って暮らし、さらに「石油で石油を掘る」と同じように「風車で風車を作る」ことができるかどうかを実地で試しましょう。
島で近代的な基礎物資の生産・近代生活の維持・拡大ができるのであれば、それを地球全部にしても問題はないです。
対照実験として同じぐらい大きな島で、従来通り化石燃料製品を輸入して、それで製鉄・化学肥料工場・近代都市生活を行い、そのコストやエネルギー収支比を比較してもいいでしょう。
イデオロギーに支配され、自説に反する論文を「御用学者」と否定するメンタリティを持ち、さらに熱力学の知識に乏しい人々に、数式などをどれだけ並べても、納得させることはできないでしょう。細部まで公開を保ちながら実験し、実地に動かすことが最良だと思います。
原発の賛否は互いに、科学的な対話すら強すぎる不信感で不可能ですが、どちらも飛行機に乗っているのです。飛行機を動かすための物理学は、それ以前に「飛行機に乗っている」という絶対的な経験は、共通前提にできるのです。

ついでに、今停電で苦しんでいるからこそしっかりと議論し、できれば実証研究もしたいのは、一部の環境保護派の言うようなエネルギーをあまり使わない暮らしというのが、具体的にどのようなものなのか、ありていに言えば幼児や老人が生きられるのかです。
もし原子力はだめ、化石燃料は枯渇、再生可能エネルギーは石油の無駄なら、いつかは人類はその状態に追い込まれるのですから。
その状況では、今ある知識と資源でどのような生活ができるか、これまた大きな島で試してもよいのでは。
石油もウランも入らない、石炭も天然ガスも枯渇した、太陽電池も作れない、という状態では、どうなるのでしょう。実質江戸時代と同じです。
まず化学肥料を諦めて最新のマメ科緑肥とトウモロコシ・ジャガイモ・キャッサバなど多収量作物を活用することになります。肉は事実上諦めるべきでしょう。
石油化学製品も諦め、麻や木工品が主になるでしょうか。木綿や絹も大量の肥料が必要なので諦めるべきでしょうか?
エネルギーは薪炭・水力・畜力・人力、最低限の鉄と木で作れる風車に依存しなければなりません。江戸時代を意識した、低技術水準の自給自足生活で……一つの島で何人生きられるか、どの程度の生活水準になるかをきっちり試してみればいいと思います。
医薬に必要なぐらいの電力は保てるか、それとも携帯電話と冷蔵庫ぐらいは可能か、それとも医薬すら諦めて十人産んで二人生き延びれば幸運になるか、どうなるでしょう。
そして日本全体、地球全体にそれを敷衍すれば何人生きられるか……現実的に考えれば、「貴族層が贅沢な生活を続ける」ことだけを全人類の目的として……数はいい加減ですが、現世界人口の二億除いた六十五億を殺し、一億九千万の極貧奴隷が、一千万人だけ近代生活を享受する貴族を支える、という社会に再編する構想も含め、データを蓄積するべきでしょう。

あらためてエネルギーの選択肢を列挙しましょう。
そのいくつかの選択肢は、上記の「前提」によって不可能とされます。どれが実際には可能なのでしょうか。
知られているのは原子力。化石燃料火力。風力・太陽光など。バイオマス。さらに、僕は技術と投資で新しい選択肢を作ることも考えています。後述します。
●原子力、核分裂は、それこそ原発反対者が「そら見たことか」と言うとおり、それ以上の事態が起きようとしています。それとも報道が沈静すれば大した事はなかった、無事な原発も多くある、と忘れることができるでしょうか?
さらにウランも枯渇資源です。長期間人類文明を保つには、高速増殖炉技術も必要でしょうが、それは可能なのでしょうか?世論が許すでしょうか?
●化石燃料火力が当面最も現実的です。ですが、温暖化を無視しても資源価格の乱高下、枯渇も心配されます。それとも、重質だのを考えれば「三十年前もあと三十年、今もあと三十年。三十年後も同じだろう。無限なんだ」でしょうか?
●風力・太陽光は実質無限であり、また自然災害でも地域分散ゆえに多くが生き延びるため強いとされます。しかしエネルギー収支比、不安定などの批判も多く、どこの先進国も何年経ってもごくわずかな割でしかありません。日本での自然エネルギーの大半は製紙工場の黒液再利用であり、風力や太陽電池などは完全に無視できる量なのです。
●バイオマス。余剰アメリカトウモロコシ、アマゾンの大地からサトウキビと現実の政治では巨大な生産量があります。しかしエネルギー量としては微々たるものですし、希少資源である淡水や土壌、再生不能資源となる地下水やリン・カリウム肥料資源を消費しますし、さらに機械燃料・窒素肥料を考えればエネルギー収支的にも……実際はどうなのでしょうか。
さて、ここで技術による可能性もいくつか挙げましょう。
●宇宙太陽光発電。現時点でコストは通常電力と競争でき、軌道エレベータができれば最も安いエネルギー源となるのは疑いありません。さらに軌道エレベータは、スカイフック式ならケブラーなど現存資材で可能です。
●洋上風力発電。特に高緯度海域の嵐を前提に設計すれば、その資源量は莫大です。また今回の震災でも、風車がそびえる巨大船が量産され、被災地や関東沿岸に航けつけるのを妄想しました。
○洋上太陽光発電。日本の広大な領海を活用し、洋上風力とも統合して。
○海水バイオマス。淡水に比べて圧倒的に多い海水を用い、塩生植物をメガフロートで育てたり海に肥料をまいて海藻を養殖したり。これも日本の広大な海洋面積が活きます。アッケシソウは海水で灌漑でき、多量の油を収穫できるそうです。また僕はマングローブとラクダ、砂漠太陽熱・超伝導送電線の複合で、肉と乳製品を作り電気を送れるのではと夢想しています。どれも実証研究が至急必要でしょう。
●大規模太陽熱発電も強力な選択肢ですが、広大な砂漠を持たない日本にとっては不利です。でも中国に原発や火力発電所を作るのを我慢してもらうかわりに太陽熱発電所を作るための技術力を貸すのは、日本にも利益になります。
●核融合。あまりに長く成果がなく、可能かどうかすら怪しいですが、成功報酬は圧倒的です。実質エネルギーが無限になるのです。
●クリーンコールテクノロジー。石炭を燃やして二酸化炭素を地中や海底に埋める。検討に値しないという人も多いですが?
さて、日本は、人類は何を選ぶのでしょう。今ここで考えるべきです。

まず、どの前提も、わかっている・常識だ・検討に値しない・道徳的に受け入れられないなどと決めつけず、かといってトンデモには流されないギリギリの線で、わからないのだから実証研究しようという姿勢が求められると思います。原発推進派も反原発も、立場にかかわらず。
「あなたは、本当にわかっているのですか?」全ての立場の人に、まずそれを聞きます。
僕は何もわかってません、熱力学第二法則とエネルギー保存則、そしてランダム化プラセボ対照二重盲検治験は信じていますが。
そして、もう、少なくとも「自然エネルギーは石油の無駄か」について、はっきりとした主張は信じないことにしましょう。ちゃんと、公の場で、実験をベースに検討したら信じますが、それまでは何もわからない状態を受け入れます。
そして、関連学位もないのに主張する人は、その人自体信じきらないようにしましょう。
できたらまず、権威のある科学雑誌が真剣に上記の「前提」命題を徹底的に検証し、科学ジャーナリスト主導でテレビ放映するのが早いでしょう。それでも耳に入らない人は多いでしょうが、やらないよりましです。
ただそれは、単に僕が、自民党の政治家も護憲運動家も権威と認めていないけれど、「ニュートン」や「日系サイエンス」、「サイエンス」「ネイチャー」、またポピュラー・サイエンスの作家たちや、ノーベル物理学賞受賞者を権威とし、信じているだけなのかもしれません。彼らですら何らかの御用学者と化しているのかもしれません。
だからこそ、欲しいのは実験そのものです。
国策としても国際研究としてもいいですが、国家権力が入ると御用学者と信頼されないかもしれないのが難しいところです。
さらに、大きい島で、比較対照実験で自然エネルギーでの近代文明維持拡張、また自然エネルギーも否定して江戸回帰の実証研究も必要です。

ですが…多分、誰もこの意見には耳を傾けないと思います。おそらく、「原発を脱して太陽に」と主張する人たちも、「不安定な再生可能エネルギーは文明を支えるエネルギーにはなりえない」と断言する人たちも、それ以上考えたくない、実験したり証拠を調べたりしたくないのでしょう。相対性理論同様完璧に決着がついた、墓に埋まったことであり、反対する者は骨の髄から馬鹿で邪悪で相手にするに値しないのでしょう。
どちらも自分は正しいと完全にわかっている、その心地いい状態を変えたくないから。

無力感と徒労感、絶望感に、打ちひしがれるような思いがします。僕だけなのでしょうか…誰も何も知らない、この船は舵が壊れて漂流しているんだ、一番大事な前提を誰も本当には知らないんだ、とわかっているのは。

10

統一地方選でも投票しない若者が悪い、若者も、政治を諦めずに努力しろ、という声もあります。

でも、頑張れば頑張るほど悪くなるようになっていたら?
達人による柔道の寝技や江戸時代に罪人を縛る技術は、脱出しよう楽になろうともがけばもがくほど苦しくなります。

たとえば、護憲の努力を考えてみましょう。
目的はもちろん平和です。
でも、護憲のために努力したら、平和を愛する若者は大抵大きな組織に取り込まれ、自分でものを考えずイデオロギーを鵜呑みにして組織とイデオロギーに奉仕するよう仕込まれます。

また、憲法九条には根源的な問題が二つあります。
「攻められたらどうする?」という問いに誠実に答えるのを拒絶する点です。
そう考えてしまう人は本能的な恐怖を覚え、それで「中ソ共産党に無条件降伏したい売国奴」説に説得力が生じてしまい、こちらも単純に陰謀説と対米従属以外考えていない改憲派に力を与えてしまいます。
断固として非暴力不服従やゲリラを主張する人も、その拷問の恐怖に耐えるだけの正統性を与えてくれるでしょうか?

もう一つは、武装独立という選択肢を考えさせないことです。
これは仮定ですが、平和のための正しい道が武装中立だとしたら?
そう仮定すると、護憲派が努力すれば改憲派も勢いづき、両方に否定される武装中立論はどんどん縮小し…その状況こそ、真の平和の敵にとって都合のいい状態だとしたら?

実際問題として、魅力的な候補者がいない…前歴が何であっても魅力的とはいえない、二世・元官僚・伝統政党が育てた候補・企業人・タレントなど単なる目立ちたがり以外の選択肢が常にないため、食傷してしまいます。
ただ政党とメディアがあるだけです。
そこには、現場で証明された指導力も、党の公式見解でも短すぎるプロパガンダでもない国家百年の理念も見当たりません。
軍隊がない、というのがその点もきついです…アメリカの、「実戦で鍛えられた」英雄という政治家層がありえないのですから。英雄そのものが出る可能性がないのですから。

9

不思議なのが、被災地に関西の工場で小さめの太陽光・太陽熱・風力発電機を大量に作り、避難所などに直結する、ということはなぜ行われていないのでしょう。
一つ一つは小さく不安定でも、大規模施設が必要な火力発電よりも短期間で生産できるはずです。

少なくとも、自動車会社と電気関係の建築会社がちょっと手を組めば、数年間動けばいい、避難所に少し給電できる程度の風力発電所ならすぐ作れるはずです。

電気関係建築屋は、送電塔や小さければ電柱と同じ設計で塔と変圧器を作れます。
自動車会社は、少なくともハイブリッドや電気自動車を研究しているなら、車体同様に鉄板を加工して発電機箱とブレード、車輪の軸と軸受けと変速機と強風用ブレーキ、それに回生ブレーキはそのまま発電機、それにコンピューター制御プログラムを組めばいいのです。
ついでに風が弱い時用に、エンジンと発電機のコンビと蓄電池すらつけることすらできます。
必要なものは全部そろってしまいます。

それ以前に多くの屋根が太陽電池で多くの山に風力発電機があれば、あの地震でもその多くは生き延びて、避難生活もより質の高いものとなったでしょう。

それどころか、避難所にとってソーラークッカー…要するに虫眼鏡で黒い紙を焼くのと同じように、アルミ箔を張ったダンボールで鍋を沸かす…ほど便利な道具はあるでしょうか。
それと、太陽電池でのラジオ・携帯電話充電ができる道具も。

それ以前に二枚の刃が内蔵されてコンセントから直接充電でき、乾電池も使え、USBジャックも内蔵されている携帯電話があれば、多少大きくなってもかまわないのでは?
携帯電話のサイズと形は、取り憑かれたように画一的です。
市場なら自由競争で新しいものができ、よい物が選ばれる、というのは僕には真実だとは思えません。
ヘッドセット+ヘッドマウントディスプレイの携帯電話すら存在しないのです。

また、なぜ政府関係から、太陽・風力発電の促進宣言、関連情報さえこれっぽっちも聞こえないのでしょう。
太陽・風力発電は近代文明を支えるエネルギーにはなりえない、単なるお花畑として無視する、というのが日本政府の、自民党と民主党が合意した公式見解でしょうか?
ならはっきりと表明してください。

8

石原都知事の出馬、そして中曽根康弘氏の著作、どちらにも強い共通点があります。
自分だけが優れたリーダーで、特に若者は全員がダメだ、ということです。

石原都知事は出馬宣言で、後継者を育成できなかったとさえ言っています。
それよりひどい、リーダーシップ欠格宣言はあるでしょうか。自分は無能極まりないと大声で言っているのに他なりません。
国自体の無条件降伏宣言よりもひどいのです、日本は無条件降伏しても人がいたので復興しましたが、今や人がいないのですから滅びるのみです。

「ミラー・ダンス(ルイス・マクマスター・ビジョルド)」で、王国の危機を救い幼帝を支え育て、大方の予想を裏切って成長したグレゴール帝に帝権を譲りつつ、それからも二十年近く首相の座にあり政治を支配していたアラール・ヴォルコシガンの妻が、アラールの急病にあたって、今彼の支えがなかったら国がどうなる、と嘆く部下に、後継者も育てられなかったのだとしたら指導力に重大な欠陥があるということで、そんな卑小な政治家は国にとって有害なだけだ、と言っていますが、まさにそれです。

中曽根氏も、今の政治化・若者全体の悪口を言い続け未来に絶望するなら、何十年も前に、クーデターをやってでも教育制度を作り変えるべきでした。
または孤児院から優秀な子を選び正しく伝統的な教育を施し、外人部隊で実戦経験を積ませて後継者を人工的に作るべきでした。
志を同じくする人を語らい、戦前式軍国教育を全寮制で行う「男塾」を作るべきでした。
それをしなかった、誤った教育制度による後継世代の退廃を座視したのは、勝てない戦争に暴走するより罪が重い、その全ての業績を全否定するに値する大失敗といえます。

どちらもその一点だけでも、リーダーを名乗るには値しません。

後継者を認めないことで、彼ら老いた保守リーダーたちは、自らの業績を否定し、自らの価値観そのものに断罪されているのです。どんな売国者・敗戦指導者よりも致命的に。

それでも、石原氏は圧倒多数で再選されるでしょう。中曽根氏の著作は売れ、影響力を持ち続けるでしょう。
ですがそうであればあるほど、彼らは徹底的に、彼らの価値観が正しいとしてもその尺度で敗北しているのです。後継者を残せなかった、というただ一点で。

といっても、後継者を残せなかったのは彼ら保守リーダーだけではありません。
革新側も後継者の育成には完全に失敗しています。

実際問題、今回の都知事選の候補者を見て、崩れ落ちる思いでした。

7

大規模避難において、さりげなく重大な問題はペットです。
9.11テロで、必死でペットを助け出した話をどこかで読みましたし、今も原発周辺の避難地域・津波での避難民ともに、その苦しみがきわめて強くあるのは間違いのないことです。

人命以外価値はない、ペットなどその場で餓死させろ、それどころか人命すら数字に過ぎないのが軍・官僚の立場です。
でもそれは、人にとってはかなりきついものです。

避難民のペットを救出し引き受けるボランティア、というのも本来は必要なのでは。

というか元々、ここまでの規模になったら…現場近くの避難所が間違っている、至急客船を急行させて沖合いに停止しボートで岸と往復し、避難民とペットをまとめて関西以西の旅館・下宿・病院に移動させるほうがよかったはずです。

人命優先ペットなど捨てるべきだ、という意見もありますが、それは日本国民の圧倒多数にある、「かわいそうなぞう」に号泣した部分を根底から否定するものです。
さらに、戦時中の犬猫供出も思い出されます。それはどれほどの哀しみだったでしょう、歴史からは削除されていますが。
心を否定して、人の世は成立するでしょうか。
無論心だけでは、非暴力不服従の覚悟もなしに九条を訴える愚となるでしょう。
しかし、心を完全に無視してまで、少なくとも僕は生きていたくありません。「かわいそうなぞう」を肯定するまで心を凍らせるぐらいなら、本気で死んだほうがましです。

さらにその「捨てる」論理で言うのなら、被災者の大半は捨てられるべきです。
自衛隊は救助ではなく、虐殺をすべきだったのです。
被災者の多くは「地方」の「第一次産業従事者」です。地方は自ら金を稼げず公共事業・公務員など破綻に瀕した国家財政の寄生虫です。第一次産業ももとより補助金産業、寄生虫です。年金生活の老人も多いです。
彼らは震災がなくても、国富を稼ぎ出すのではなく財政を食いつぶす寄生虫であり、今の被災地のペット同様捨てるべきでしょう。捨てる論理から見れば。

ペットを殺すなら、次は人でしょう。象を殺すと同じ論理でカミカゼで、そして多くの形で民間人も殺していったように。
被災者の次は年金に頼る老人。身体精神障害者。高齢フリーター層。
サムスンやグーグルで稼げるほどの能力を持たない人全て。日本国民の、ほんの数千人以外全員。

捨てて捨てて殺して殺して、その後に何が残るでしょうか。

経済にも、宗教にも、国家にも、科学にも、心にも…どれにも偏らず、どれも無視せず、と正しいポジションはないのでしょうか。

6

自粛、といいますが、震災に応じて「人の生き方自体を、物質的贅沢から変更しろ」という主張もきわめて多くあります。

その考え方を推し進める、「復興」や「自粛」を超えた変化はありえるでしょうか。
人間は、生存できる最低限以上は必要ではない、という前提での経済。
極限的な戦時体制。
欲望の全否定。
全員が貧しく質実剛健な生活をすること、それ自体を目標とする。

そうしたがる人は左右問わずたくさんいると思います。
経済成長を、物欲を否定する人は実に多いのです。
物欲を否定するのは、人類という動物の実質普遍的な好みとさえ言えるかもしれません。

5

要するに「船は沈むぞみんな海に飛び込め」と叫びたがるのは保守でしょうか?
保守というのは本来、船を最後まで守るものでは。

まあ保守の多様性、と言ってもなぜ日本でアメリカの自由絶対型保守?
しかもキリスト教もなしに、無理やり愛国心や自己責任と組み合わせて?

保守といえば道徳、特に性道徳も強調しますが、日本の家父長制的性道徳は伝統とはいえません。
上級武家の結婚以降、さらに明治以後に強いキリスト教の影響を受けてのものです。
武家であっても多くは若衆組など伝統的な若者集団を形成し、その内部では性的通過儀礼は横行していました。それを徹底的に排除したのは明治以降です。
実際あれはなんでしょう。キリスト教邪宗門は神国には一歩も入れない、でも性道徳だけはカルヴァンさえ満足するようなキリスト教…

さらに最近の、新自由主義保守はもっとぶっ飛んでいます。
小さい国家と市場原理主義の結果は、中産階級が撲滅され、道徳警察か魔女裁判、どちらにしても恐怖と虐殺による支配……または無秩序。
どれも、「自由経済・市場主義・イノベーション」とは両立し得ない。
貧困と格差、餓死の容認が行き着くところはそこだけ。

伝統的共同体を経済的に破壊しつつ伝統的共同体の道徳を説く…

まあ、人は矛盾したものです。だから、矛盾が激しく狂った主義主張であればあるほど、支持されるものなのかもしれません。

4

知と反知の戦いとしての歴史も、結構考えるべきかもしれません。

歴史の大半で、知に反する勢力が勝ってきました。
考えるな。研究するな。書くな。教えるな。新しい地を探求するな。

たった一つの例外、西欧文明を除いて。
なぜそれが可能だったのでしょう。
また、それ以外はなぜあれほどに反知が強くあり続けられたのでしょう。

歴史以前に、それは人間の本質とも思えます。

子供たちの中での、犯罪を礼賛し知を軽んじる態度は子供性の本質でしょうか?
それとも「抑圧された日本の子供たち」以外は知を重んじているのでしょうか。

3

人間にとって、暗黙の、理性で否定しても感情は否定しない前提。

また道徳的な前提として、上位者への無条件絶対服従は、どれだけの人が当たり前だと思っているでしょう。
それも立っていろと命じられて忘れられたら、小川のほとりでもそのまま渇き死にする、無論大小便も服も脱がず失禁して。
少なくとも軍関係者は全員当たり前だと思うでしょう。

さらに、内心も含めた絶対服従は?

2

ドラゴンクエストで、ザキ系呪文で死んだ味方って、失禁していないでしょうか。
だとしたら、すぐザオリクで復活してもすごく気持ち悪いんじゃ。

また、書いてる小説での話しですが、人をザキで殺してザオリクで復活させるのを繰り返す、って拷問に当たるでしょうか。

1

道徳の証明不能、根拠のなさ…

根本的な道徳は幼児期の親からの強制力によるしつけを源泉とし、それは論証体系とはまったく違うものです。むしろ魔術の言葉で組み上げるほうがまだ正確な描写ができるでしょう。
完全な根拠から明晰な論証で築ける体系ではありません、人はそれを好みますが。

「真理とは何か」科学的にはかなり答えられています。宇宙開闢と、最初の生命自体だけを除いて。
ですがそれが「なぜ、私なの?」となれば、全て偶然と人間の物語脳のなすこととしか言えません。
そこには道徳は本質的に無根拠、群れが生存するのに役に立ってきたとは言える、というだけです。

また道徳は、それほど絶対のものでしょうか。
たとえば人は一般に、獣欲を悪、宗教道徳を善とします。
ですが僕はそう思いません。
宗教道徳は魔女裁判や全体主義に容易に結びつく、悪しき結果を生み出す衝動なのです。
暴力がなくても、「心から回心するまで」「あらゆる欲望を心の底から捨てるまで」全ての人に言葉と態度と心からの愛情で責め立てられる世界は、最悪を通り越した地獄にほかなりません。
過剰な道徳もまた、世界を非道徳的にするのです。

かといって道徳を否定し、社会に順応すること、それが唯一絶対の善……内面も含めて。
これ以上悪魔じみた道徳を、僕は知りません。

というか、根本的には、二つの生き方があります。
上の人に言われたことをそのまま正しいと受け入れ、その通りに生きるか。
それともそれを疑い、自分でどうするか探すか。
どちらも危ういものです。

正しいと疑わなければホロコーストの加害者かもしれません。
正しさを疑った結果が底なしの自分探しやカルトかもしれません。いや、ホロコースト自体、教会と王や皇帝の権威を疑った結果だったのかもしれません。

さらに、「自分の直観」さえも絶対正しいとは限りません。魔女裁判やホロコーストは「人間の本性」によるものですから、人の心の深いところがそれを正しいとします。

もう一つの選択が、目的を群れの存続・自己の快楽・神の命令の実現のどれに置くかです。