枕元の計算用紙

ホーム ブログ

1999年7月 8月 9月 10月 11月 12月
2000年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2001年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2002年1月 2月 3月 4日 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2004年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2005年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2006年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2007年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2008年1月 2月 3月

2008年4月

1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日

30

日本、アメリカ、そして世界を変えることは誰にもできないのでしょうか。
若者は理想に燃えるものですが、ここしばらくはどうしているのでしょう。

冷戦の終わりは、完全な絶望をも意味していたのでしょうか。マルクス主義以外に希望はなかったのでしょうか?
ニューエイジ、ガンジー主義、解放の神学などはどうなったのでしょう。
ネグリらは新しい希望をもたらしているのでしょうか…理解さえろくにできないのですが。

日本では最近若年貧困層が新しい運動をしているようですが、それも残酷に双葉も出ないうちに徹底的に叩き潰される予感がひしひしとするのです。
日本の社会システムには絶対勝てない、という感じがして限りなく落ちていくような無力感があるのです。

いや、「自分は世界を変えることができる」と信じなければ人は生きていくことも難しいのでは?
自分がいてもいなくても、今自殺しても、自分が生まれなかった世界も何も変わらない、と確信した上で生きられるでしょうか?
それとも、飢えに迫られてただ生存するのが精一杯に…年中無休一日16時間労働または餓死の世界になるから悩む余裕などすぐなくなるでしょうか。

29

アメリカにはもう希望はないでしょうか…

多くの貧困者がいる格差大国から脱する希望は。
軍産複合体から解放される希望は。
再び…いや、初めて本当に自由にものが言える国になる希望は…アメリカでは共産主義はおろか社会民主主義も、また無神論も口に出すのは難しいです。
民主化の希望は。
最貧者がまともな教育を受けられる希望は。

そして日本にも。
世界にも。

貧富の格差が極度に増し、そして貧者は戦争だけが希望になる、というのは日本もアメリカも必然でしょうか。

28

「アドルフ・ヒトラーにそっくり」である人にとって、それは呪いと恵みどちらでしょう。

少なくとも、まともな知能があって西欧に行くことができれば、決して食いっぱぐれることはありません。
しかも多くの人がうらやむ仕事に就くことができるのです…俳優という。ヒトラー役者は常に必要とされていますから。
でもその苦悩はどれほどのものでしょうか。
真摯に俳優を志していれば、アカデミー主演男優賞を決して得られないことについては?
常に人類史上最悪の悪魔とされる人物を演ずることも苦悩の種にならないでしょうか?その悪魔に感情移入し、自分はヒトラーだと自己暗示をかけて演じている自分に恐怖しないでしょうか?
他の役もやりたい、と言って認められるでしょうか?

ではもし彼が、ヒトラーとの酷似を意識する前から俳優ではなく画家になりたいと思い、努力し…受験期にヒトラーに似ているとはっきりしてきたら?
本人にとっても美術学校の試験官にとっても悪夢でしょう。
誰がヒトラーそっくりの受験生を落とせるでしょうか…よく「もしあの時合格していれば二流画家で済んだのに」と言われているのです。
逆に絵の才能があって合格したとしても、それで合格したのでは、という疑惑はつきまとうでしょう。また有名になるのは早いでしょうが、それは絵の才能よりも外見によるものだ、ということを常に意識することになるでしょう。

そしてもし、多くの先祖や友人の先祖をホロコーストで殺されたユダヤ人の家に生まれたら?
親ですら自分を忌み嫌うことに絶望し、顔を焼きたくなるかもしれません。
全般的に普段の生活や結婚、友情などはどうなるでしょう。
子供の頃は?少なくともヒトラーの子供時代の写真・画像はそれほど普及しておらず、印象もそれほどありませんのでいじめは懸念しなくていいでしょう。
決して政治家や、指導的な立場にはなれないというのも呪いといえそうです。

といってもまあ、ひげをそり落としたヒトラー本人が目の前にいても…まして二十歳であれば誰も気づかないかもしれません。ひげさえ生やさなければ問題はないのかも。
また顔は全く似ていなくて、カリスマが似ている人もいるかもしれません。

何より大きな苦悩は、外見と内面に本当に関係がないのかでしょう。
周囲は関係があるとみなして彼を邪悪と思うかもしれませんし、彼自身も自分が邪悪ではないかと悩むことになるでしょう。

27

共産主義は弾圧による強権の理由になってきました。
武力革命の可能性は言論・集会・思想信条などの自由、選挙権などを与えない理由になります。
その弾圧と過激化・テロの悪循環があれば、余計に強権は強まります。
それに出口はあるでしょうか?

それに出口がないと考えれば「民主国家は存在し得ない」というパラドックスさえ主張できそうです。

ヨーロッパはどうやって「穏健な社会民主主義」が認められるようになり、なぜ日本やアメリカではそれが認められないのでしょう。

26

歴史的に、経済において「略奪」はどれぐらいの重要性があったでしょう。

今の先進国では、略奪で生計を立てていられる人は非常に少ないので無視できます。
でも過去においては遊牧民による農耕民の略奪、相当な人口がいた山賊や海賊など多数の略奪者に多くの人が苦しめられてきました…逆に略奪で生計を立てている人も多かった、ということです。
また近代戦に至るまで、多くの軍事行動は略奪に兵站を依存してきました。

忘れてはならないのは、略奪といえば金銀財宝と思われがちですが、むしろ家畜・奴隷や保存食の価値が大きかったはずです。

現在の地球にも、海賊やアフリカの武装勢力など略奪で暮らしている人は想像以上に多いです。

略奪というのは歴史において、生産と同等の重要性を持っていたのでは?

25

野宿には最低でも防水性のある上着、寝るときの保温布が絶対必要です。
革か毛皮のマント一枚でもある程度はできるでしょうか。
防水布と毛布の組み合わせでも、悪天候時はそれをマントにしてかなり耐えられるでしょう。

テントと寝袋の組み合わせが現代では一般的ですが、それは絶対必要でしょうか?
テントを持たない場合、自然の折れた木などをシェルターにする知恵が必要になります。
やや大型の斧や鋸も必要になるでしょうし、その重量を考えたらテントと寝袋のほうが軽いかもしれません。
また木がない砂漠・雪原などでは意味がないです。

もとより極寒地帯では全く違う装備体系が必要になりそうです。

24

五輪批判・聖火リレーに対する抗議に対し、各国で官民問わず中国側が抗議行動と直接戦うことが報道されています…その国の警察力を無視して。
もし中国がこれをいい機会だとして、各国警察の上に中国が存在するシステムを作り上げてしまったら?
誰であろうと中国を批判した者を脅迫し、叩きのめし、そして行方不明にできるシステム…なぜか各国の政府がそれに文句を言えなくなったら?

いや中国という国でなくても、ある集団が世界全体を支配するには、批判者をどこの国の誰であろうと処罰…容赦ない暴力で見せしめにし、そのことについて各国政府が口を出させなければ十分です。
もちろんそれはどこの企業やマフィアでも同じことが原理的には可能です。
さらに言えば、なぜ国際的な暗殺者集団が世界を支配していないのでしょう。
優秀な暗殺者集団から人…その家族・親戚…元クラスメートに至るまで全部を守りぬくのは不可能なのに。

23

外に露出されたハンダ線をトリガーにし、それが溶け切れたらぜんまいを動力にしたベルがしばらく鳴り続ける仕掛けがあれば、火災報知器にならないでしょうか。

かなり強い火にならなければ作動しませんが、電池も電源も不要、故障の心配もまずなく置いておくだけで半永久的に使える、きわめて便利な代物になるでしょう。

その仕掛けは江戸時代の技術でも作れたはずです。
そしてそれが多くの台所などに置かれていれば、火災は大幅に低減できたはずです。

他にも産業革命以前の科学技術で、理論的には作れたはずのものは、バタフライナイフなどかなり多いです。

22

大阪の陣や島原の乱が、結局…冬に木に藁を巻き、それに害虫を集めておいて春にそれを外して焼くように、不逞浪人を集めて皆殺しにするようなものと思えてしまいます。
徳川幕府にとっては、浪人は完全に不要、死んでもらわなければならない存在でした。

明治政府にとっても、大方の士族には死んでもらわなければなりませんでした。
今の日本にとっても、団塊ジュニアのワーキングプア層にも団塊老人の相当部分にも、死んでもらわなければならないのでは。

そして、ワーキングプアがどの道をとっても支配層は損をしない気がします。
犯罪や暴動を起こせば治安維持の名目で警察力を増強し、国内の統制を強めることができます…完全に抑えこめることが前提ですが、いまだに暴動一つないことを考えれば客観的に見ても問題ないでしょう。
戦争を望めばファシズムの理由になり、国内を統制して絶対的な支配力を官に持たせることができます。
起業は万に一人が成功するのは経済を活性化し、貧困層が自分の貧困を自己責任だと思ってくれるのでありがたいぐらいですし、残りは自殺に追い込まれますからこれまたありがたいことです。
自殺が一番望むところです。

どうすれば支配層が損をするのか、なにかあるでしょうか?
やはり何らかの、不安を通り越して社会の底を抜く行為でしょうか?
要求どおりに素直に自殺する人が多いのにも驚きます。

21

有性生殖を一切しない大型多細胞生物は存在するでしょうか。
思い出せないのですが。

死と生殖は表裏一体だと思っていましたが、それ以前に多細胞生物というものが、性と死なしには存在し得ないということは?

また単細胞生物の性と死についても僕はあまり知りません。つくづく無知…

20

『ロードス島戦記(水野良)』の、灰色の魔女カーラのような存在…高い知恵と能力を持ち、歴史を制御する不老不死者…がいれば、文明崩壊を防ぐことができるでしょうか。

たとえば中国にそんな存在がいれば、統一帝国の樹立を妨げて三国程度の状態を持続させることで、周期的に起きる崩壊を防ぐことができたでしょうか?
極度に繁栄する統一帝国を防ぐ、というのは、カーラが意識している過剰な魔法による崩壊ではなく、文明崩壊の原因である生態学的な要因…人口過剰と森林被覆率の低下による、広域にわたる生産力の長期的な低下…を防止することにもならないでしょうか。

19

人類全体、宇宙船地球号に「舵」と「行き先」がないのは驚くべきことです。
各国には「舵」は一応ありますが、「行き先」はあるでしょうか…たとえば日本国憲法は「行き先」として十分でしょうか?

地球号自体の行き先…人類全体の目的を定め、舵を変えられるようにしておく必要は本当にないのでしょうか?
いや、誰もがただ…ものすごく狭い視野で動いているから船全体の針路を考える余裕がないのでしょうか…水夫にとっては目の前の帆の結び目を解くことが全てであるように。
またこの波を乗り切るのが精一杯で、長期的な針路のことなど考える余裕がないように?

月からの地球の映像を見たとき、多くの人が得た宇宙レベルの視野はどこに行ったのでしょう。

18

「舵をどちらに切るか」「誰が舵を切るか」のどちらが重要でしょう。

僕が政権交替を求めています。僕は民主党が主張する針路が正しいと思っていませんが…民主党は針路を主張することのできる党でさえないですが、「誰が舵を切るか」を変えることができる(ようになるかもしれない)という価値があると思っているからです。
そう考えると民主党のマニフェストを批判するのは筋違い、とさえいえます。

「自民党がずっと舵を取り続けることがよい」と思っている人以外はとりあえず民主党に入れる以外、選挙での選択肢はないのでは。社民党や共産党に入れれば自公が勝つだけです。
自民も民主も社民共産も徹頭徹尾ダメなら、選挙以外の、できれば武力を用いない道を探すしかありません。全既成政党解散での選挙を、国民の半分を目標とした署名運動で強いるほかにあるでしょうか…それが成功する可能性はあまりにも少ないです。

そして舵といえば、地球号の舵は誰が取るのでしょう。
ダボス会議が操舵室でしょうか?それともサミット?アメリカ大統領選?イルミナティか三百人委員会か何か?
国連総会ではないことは、世界全成人投票ではないのと同じく確かです。

17

人間の愚かしさを理由に民主主義・独裁の双方を否定するのは意味がないのでは?
愚かなのは承知で、失敗は覚悟でやってみるしかない、それが…神なき世界に暮らす我々の、唯一のやり方では?

徹頭徹尾人間の愚かさを前提にしたら、どんな制度になるでしょう。
韓非子さえも不足な気がします。

16

もし、何らかの物理実験の結果、比較的容易に行き来できる、人類が存在していない第二の地球が発見されたら、人類はどのような行動が取れるでしょう。
または近代化していない人類が存在していたら?

やはりまた同じことをするだけでしょうか。
せめてリョコウバトぐらいは今度は絶滅させないでほしいですが、七十億近い人口圧がある以上それも望み薄でしょうか。

15

省エネを進めるにはどうすればいいでしょう。

たとえば、家などの建物は断熱性が高いものにすれば、冷暖房が少なくて済み省エネになります。
でも断熱工法は建てる段階で入れなければなりません。
改築でやるのは相等費用がかかります。窓ガラスを工夫すれば簡単にかなり断熱効率を上げられますが、それも費用がかかります。

石油を高くするか税金をかけ、冷暖房燃料費を上げればいいでしょうか?
断熱工法・断熱窓に補助金をかけるのがいいでしょうか?
一つ一つの商品に補助金をかけるのと、大規模な断熱ガラス工業設備に補助金を出すのとどちらがいいでしょう。
それとも放っておいても、自然に?

白熱電球が蛍光灯になったのも非常に大きな省エネでした。
さらにそれがLEDになればもっと省エネになるでしょう。どんな政策がそれを促進できるでしょう。
そういえば白熱電球をやめて蛍光灯にしようという話がありましたが、水銀などのことを考えるとそれを通り越してLEDにしたほうがずっといいんですけどね。

あと太陽光発電屋根なども、どうやって普及させればいいでしょう。

14

国旗に対する敬礼・国歌斉唱への参加は
「私は宣誓します。
私は日本国憲法を承認します。
私は歴史に創られ、憲法上正統な議会によって法制化された国旗国歌への敬礼を通じて日本国・現議会・政府・最高裁判所が憲法上正統であることをを承認し、その法に従い、敬意を表わし、この**式に霊的に参加します」
という言葉と同値ではないでしょうか。

軍における敬礼を言語化してみればわかるでしょう…上官に対して敬礼すれば
「私はあなたの敵ではなく、攻撃しません。
私は軍の一員で忠誠を表明します。
軍におけるあなたの階級を認め、あなたを上官として尊敬します。
軍とあなたの権威を承認し、あなたの命令に服従することを誓います」
と言葉で言うのと同じです。

憲法に関して忠誠という言葉も本来入るべきかもしれませんが、そうなると在日韓国朝鮮人・少数民族を全面的に排除することになります。
また、承認・敬礼は憲法改正・政権交代の可能性を排除することとは異なります。改正運動・野党への投票を妨げるものではありませんし、あってはなりません。
「私は現政府・法に反対で野党に投票するが、現政府が憲法上正統な政権だと認めて敬意を示し、悪法でも改正されない限り現行法に従う」は、現政府に忠実な者も許すべきだし、反対する者もとるべき態度ではないのでしょうか?

そして日の丸君が代を受け入れられない者は、
「儀式の調和を乱し申し訳ありません。これは皆様・学校(など)・日本国に対する侮辱ではなく、憲法上の権利の行使です。
私はこの日の丸・君が代に対し、信条・信仰上この儀式の中で敬礼できません。
しかし私は宣誓します。
私は日本国憲法を承認します。
私は日本国・現議会・政府・最高裁判所が憲法上正統であることを承認し、その法に従います。
国旗国歌への敬礼はできませんが、口頭で日本国に対する承認と敬意を表明します。
そしてこの**式に対し敬意を表明します」
と宣誓して拒否者席に連なる…もちろんそれを式次第に入れる…ことで、良心的兵役拒否の代替奉仕と同じように処理できるのでは?
良心的儀式拒否権すら否定する者は、信教・思想信条の自由を尊重していない、踏み絵か火あぶりかを強いる江戸時代の為政者と同様であり、日本国憲法に背を向けていると断じていいと思います。

徹底した無政府主義者、また信条としてたとえば日本国憲法・日本国政府を正統と承認していない、しかも内心と言動を一致させることも信条である者はこの代替宣誓もできないかもしれません。
また一神教原理主義者で天皇制を宗教とみなす者にとっては、国旗という偶像が掲げられている場に入場し、霊的にその影響かにある儀式に参加すること自体ができないかもしれません。
その場合には…式参加自体を拒否し、代わりに…卒業式の場合校舎の清掃など奉仕行為で代替することもありえるでしょう。

でも恒常的に一部宗教の信者を式から排除すること、宗教上の信条を表明させること自体が人権侵害と批判されそうですが、「あなたが納得するまで」政教分離を制度上徹底させることは無理です。儀式の本質に霊的なものは存在していますから、儀式自体一切できなくなり、それは教育システムを大きく崩すものになりかねません。
思想信条を表明することを求めること自体が思想信条の自由を侵すといわれれば、儀式自体何もできなくなります。

僕は上記のシステムは悪くない妥協案だと思うのですが、どちらにとっても。
一度「良心的儀式拒否権」を憲法上の人権として認めるよう裁判を起こしたらいいと思います。
もし最高裁がそれを拒んだら…かなり怖いですが、最高裁判事国民審査権があります。

皆が言葉なしに寛容だった昔に戻ることも、実施率100%も、式次第からの国旗国歌排除も不可能なのです。

13

ビラ配り有罪確定…前も書きましたが、有罪無罪以前に最大の問題は逮捕・長期拘留・起訴したことが適正だったかです。
有罪無罪は争うべきではなく、「思想・言論弾圧を目的とした裁量権の濫用」を争うべきでした。
長期拘留・起訴したことは、ピザ屋やエロビデオのチラシも同様にしないのであれば思想・言論弾圧と取られるでしょう。少なくとも李下に冠を正しています。
思想・言論弾圧自体が憲法によって禁止されています…少なくとも憲法が示す価値観に反するものです。
警察・検察の規則はその点はどうなっているのでしょうか。憲法の精神を尊重すべき、とは書かれていないのでしょうか?

警察や検察には裁量があります…全ての犯罪を逮捕起訴するのでない限り。
今回の件での逮捕・捜査(長期拘留など)・起訴はそれ自体が明らかに思想・言論弾圧であり、憲法の精神に反するものです。

では何が、警察および検察の裁量部分・捜査の適正さをコントロールすることができるのでしょう。
警察や検察の一挙一動を、「憲法の精神に合うか」判断する組織ができればいいのでしょうか?
でもその組織がファシズム側だったら?

また、これからは科学技術の発達で「全ての犯罪を逮捕起訴する」ことができるようになってしまうかもしれません。
そのことも考えて警察・検察を誰がコントロールするか考えるべきです。

少なくとも権力が反憲法・ファシズムに流れる場合、抑止できるシステムが絶対必要です。
本来ならそれは民主的な政権交代によってなされるべきですが、それが全く機能していないし…国民の多くにとって、警察・検察を批判することが考えられないというのも絶望的です。

結論を言えば、法的には有罪は仕方ないかもしれない、でも逮捕・長期拘留の必要はなく、初回は厳重注意の上書類送検から起訴猶予、それでも繰り返した場合には書類送検から略式起訴で罰金、で十分だったはずです。
そうせず長期拘留(家宅捜索、思想非難を含む捜査権の濫用も伝えられています)の上起訴したことは、明らかに思想・言論弾圧です。
僕自身は警察…特に公安警察の業務、国を守るための汚い仕事も必要だと思っています。
でも必要であり、秘密性が高いからといって野放しにしていいわけではないはずです。
やはり憲法を尊重するよう、主権者である国民がコントロールする必要があるはずです。

12

これまでのあらゆる確定判決・不起訴(起訴猶予)など確定している犯罪を、全部DNAを使って再捜査したらどうなるのでしょう。
既に執行された死刑の半分以上が冤罪だったり、何万という犯罪者を見逃していたりするのでしょうね。

いや…これまでに見逃されてきた犯罪は、神の目から見てどれだけあるのでしょう。
飲酒運転や駐車違反も含めれば?
そして冤罪は?

11

国が豊かになる循環、貧困になる循環があるようです。

貧困が続く国では、そこで力を持つマフィア、軍閥、麻薬組織、独裁者は地元に投資しないため、それらがどれほど稼いでもその国が豊かになることはないようです。

では高度成長期の日本や日本企業はなぜ、稼いだら地元に投資したのでしょう。
海外に投資するのが難しかったからでしょうか?

10

戦後民主主義は世界政府を前提にしている、とよく言いますが、だとしたら例えば国連軍には軍事的協力もすべきだとなりませんか?
特に護憲派は、あくまで「日本人は二度と人を殺してはならない」が全てに優先するとしたいようです。
それと国連憲章との矛盾も厄介な問題ですね。

なぜ日本がずっと特別な立場でありつづけることができるのでしょう?

さらに国連・世界構造が改革され、世界連邦に近いものとなっても、日本人だけは軍事力行使にはかかわらないという特権的立場…国家的良心的徴兵拒否…を貫くのでしょうか?

9

思うに僕の「人類共通規範」は近代の産物では?

でもそれが欠陥でしょうか?純粋な近代だけではこの内容は出てこないはずです。
近代経済学は地球の無限性を前提にしていないでしょうか?僕は地球の有限性を前提にしています。

8

近代の諸原理に対する疑問が流行りですが、一つ一つ捨てるか採用するか検討してみましょうか。
また、もう戦後レジームは少し古い言葉ですが、「戦後民主主義」についての批判は根強いです。

というかその「近代諸原理」「戦後民主主義」って何でしょう。
「近代」の原理はまず自由、平等、友愛でしょうか。
民主主義も重要です。
資本主義とその対抗者であるマルクス主義も重要です。
いや、科学が一番重要かもしれません。
科学と密接に反宗教、少なくとも信仰の自由と政教分離があります。
個人の尊重もそれに深く関わっているでしょうか。
奴隷制の廃止、労働条件の向上などはどうでしょう。
民族自決や生存権、人種などの平等などは近代の延長と言っていいでしょうか。
フロイト・フェミニズム・エコロジーなどはもう近代を超えたものでしょうか?
日本の「戦後民主主義」は上記の近代啓蒙思想に加え憲法の国民主権、基本的人権、平和主義でしょうか。
世界政府についてはどうでしょう?

自由については義務と隣りあわせだ、という保守層の批判があります。
それに対し、自由を擁護する側は主に「隠れた動機批判」で対応します…批判者の言葉をまともに取らず、その目的である軍国主義・国家主義を批判します。
また自由主義には経済的自由と市民的自由の二つの面があり、保守派が経済的自由…新自由主義を擁護することもあります。

平等に対しては、人間は皆不公平なものだという批判があります。
特に経済的な結果の平等を求めると皆が貧しくなる、と東側の崩壊を証拠として主張されることが多いです。
でも平等を認めないなら、どこまで認めないのでしょう。
インドのカースト制度のようなものさえ容認するのでしょうか?
また遺伝子・サイボーグ技術が発達したら、それによって改良された超富裕層…ゲンリッチの可能性については?

友愛は元々省みられることの少ない概念です。
本質的な問題として、人間はどこまで友愛の輪を広げることができるのか…
保守派は、人間は国家までしか共同体と認識できない、全人類は無理だと言います。
でもなぜ国家はOKなのでしょう。国家と言っても13億何十言語の中国から数十万といろいろあります。
国家自体不可能だ、郷土が精一杯だとか、さらに血縁以上の共同体などありえない、という考えはないのでしょうか?
近代には「敵は存在しない、全て友愛の対象だ」という絶対的博愛は含まれるのでしょうか。
その「敵は存在しない」は絶対平和主義にしか結びつかないでしょうか?

民主主義自体についてはどのように批判されているのでしょう。
そしてどんな対案があるのでしょうか…「民主主義は最悪の制度だ。他は論外だが」という言葉は今でも有効なはずです。
あと、古代ギリシャまでさかのぼって考えれば、兵として共同体を守る覚悟を持つ者による民主制、というのも本来の姿のはずです。

資本主義の有効性は確かですが、暴走すると環境破壊・極端な貧富の格差を生み出して社会を崩壊させる恐れがあることは間違いないです。
しかし対抗理念のマルクス主義が潰えてから「別の選択肢はない」が合言葉になったのも確かです。
格差を是正し、地球人間圏全体を持続可能に保つ方法がない限り自壊するだけでしょう。

マルクス主義は一見正しく思えましたが、人間には適さない制度でした。以上。
しかし、マルクス主義を支持した人々が求めた平等…あまりに極端な貧富の格差に対するNOはどこにいくのでしょう。

科学について、サイエンス・ウオーズは今はどうなったのでしょう。
素粒子物理学がろくに動けない今、科学の思想的影響力がちょっと感じられません。
遺伝子関連科学は人間に対する見方をどう変えているでしょうか?
またインターネット自体が科学の子だということは、皆忘れていますね。

反宗教、少なくとも信仰の自由と政教分離、寛容ですが、絶対主義・原理主義的な宗教がかなり強まっていますね。
キリスト教・イスラム教自体…本当にその聖典に帰ると、不寛容・自宗絶対化がどうしても避けられないのです。
また科学的寛容の姿勢も、結局のところ科学の影響力は限られています…血液型も星占いもUFOも信じていない、ちゃんとした科学主義者はどれだけいるでしょうか。

個人の尊重について、日本において批判としてよく見られるのはキリスト教を利用した議論です。
欧米人は個人として神と向き合うのが本来の態度だが、神を持たない日本人が個人主義に走るとアノミーに陥り、壊れるという批判です。
でもこれまでの、狭い農村共同体やその変形にいつまでも浸って生きていけるものでしょうか?
会社さえ壊れた今、今度は何に浸ればいいのでしょう。
かといってもちろん、日本人にキリスト教を導入することが難しいのも確かでしょうが。
ましてイスラム教徒や中国人は?
そしてキリスト教国も、安定した個人主義が成立しているのでしょうか?

奴隷制の廃止、労働条件の向上については?
奴隷制を今擁護する人はまずいないでしょう。
しかし現実の、現在の世界では何億という子供を含む奴隷状態を、ほぼ全ての人が許容しています。
そして総合的な労働条件については…悪化に反対する声がグローバル化反対しかないのでしょうか?
なんというか、無条件で最低限の労働条件は確保されなければならない、というほど強い思想ではなかった?

民族自決や生存権、人種などの平等はどう批判されているでしょう。
どこかで、ネトウヨ思想は「無条件の生存権を認めない」ことから始まっているとも読みました。
そして人種差別擁護の理論化はどこでどう進んでいるでしょう。
民族自決は…悲劇と幸福どちらが多かったのでしょう。

フロイトは近代でしょうか?それ自体僕が知らないことです。
そして「失われた記憶」論争…現在の精神医学・心理学の世界ではフロイトはどう思われているのでしょう。

フェミニズムについては今も活発な議論があります。
それ以前にフェミニズムは近代でしょうか?平等の延長ではありますが…より過激で、近代を支える科学自体を批判するなどより深く掘り下げる力が強いです。
でも僕は日本での議論の一部しか知りませんが、互いに、相手の隠れた動機を批判している…勝手にサンドバックに絵を描いて殴っているだけに思えます。

エコロジーも近代でしょうか?
そしてエコロジーに対する批判はどこにどんな形で?反環境本にはどんなものがあり、どんな思想が流れているでしょう。
近代経済学の基本前提である「地球は無限である」は今も生きているのでしょうか…生きていますね、大規模漁業や熱帯雨林伐採の世界では。

国民主権という概念はどう批判されているでしょう。
基本的には「現在の国民だけでなく、過去からの縦軸も」でしょうか?
そしてエコロジーの観点では未来の世代の福祉も、となります。
その両面で批判されていると考えていいでしょうか?

基本的人権についての批判は…あまりにも僕は知りません。

平和主義が問題になるのは日本だけでしょうか?
ガンジーの非暴力不服従は、近代に対するオルタナティブでもあったのでしょうか?
それとも近代の別次元の延長でしょうか…それをいうならニューエイジも?

世界政府はカント以来の夢ですが、またナポレオンの夢でもあります。
その世界政府が恐怖政治になったら逃げ場がなくなるという問題があります。
しかし、世界政府でなければ世界的な漁業資源の管理は絶対できないでしょう。
十億単位の大量死なしに人類文明が存続するには、世界政府かそれに近いシステムは必要と思われます。
そしてそれは、近代の枠組みに治まる代物でしょうか?
宇宙船地球号思想は近代の枠の中でしょうか?「大きな物語」の最たるもの?

7

探査機に巣くう地球由来の菌は、とっくに火星や金星、月などを汚染していないでしょうか。
金星は人類が今滅びて本格的な開発をしなくても、何千万年かしたらあの環境にも適応した微生物によって環境を変えられてしまうのでは?

でもこれまで地球に衝突した小惑星から、地球の菌は宇宙に出て、金星に飛び込んだものもあるのでは?
それで環境改造されていないということは、さすがに金星は微生物にとってもきつい、ということでしょうか。

6

法と道徳は一体不可分でしょうか?
思想信条と法が矛盾する場合は不道徳でもあるのでしょうか?

法はただ行動に対して罰を課すだけのものではなく、内心をそれに合わせねばならない道徳でもあるのでしょうか?
「大麻が欲しいなら法を犯して闇で買うのではなく法改正を主張し、実現してから堂々と買え」というのは実現不可能だと言う批判だけでなく、不道徳だという批判もあるのでしょうか?
被害者なき犯罪も、「法を犯した」という不道徳であり、それと不可分に犯罪であるのでしょうか。

5

内心の自由と言論・思想信条の自由の関係はどうなのでしょう。

日本国憲法の公務員憲法擁護義務、ドイツ憲法の全国民憲法擁護義務、アメリカの移民審査での憲法忠誠宣誓義務、各国軍の忠誠宣誓義務は内心の自由を侵しているのでしょうか?
内心の自由と言論・思想信条の自由が不可分だとしたら…反国家思想・反人権思想は存在自体認められなくならないでしょうか?
それは内心の自由の大きな侵害にはならないでしょうか。

内心と、言論など外に出す言動を切り離すことを認めれば、内心だけは無条件の絶対無制限にできるのです。
そのメリットは小さくないのでは?

ドイツにおけるナチ、アメリカにおける共産主義、人種差別主義、歴史修正主義、児童性愛などは内心さえ許すなという感覚も強いですが、それはどうなのでしょう?

4

アメリカでは多民族国家統合の象徴である国旗国歌が、日本では分断と対立の象徴となっている惨状はなぜでしょう。

ここでどの立場の人も「**が悪い」という答えを徹底的に避けて深く模索してみましょう。
とことんまで突き詰めるのです、「**が悪い」は逃げなのですから。
善と悪との戦いではなく、悲劇というものもあるのでは…たとえば『オイディプス』は善悪の話ではないです…『アンティゴネー』は王を悪とするほうが楽ですが、それだけではないはずです。

それで、どうすればこの日本を統合できるのでしょう。
統合する必要がないならどうしましょう。

3

天皇教の下にいられない人が、儀式を拒否しつつ公務員・公立校生徒ができるでしょうか?
現在の天皇制が邪教だと言うなら日本国憲法は邪教の経典であり、国家設備は全て邪教の神殿です…憲法擁護義務を宣誓し、職務に就くこと自体できないのでは?
いや、日本人であること、日本に住むこと自体耐えられることなのでしょうか?

また生徒が日本の公立校を宗教的に拒否し、かつ宗教系私立学校に行ける財産もない場合の救済措置も考えるべきでしょう。

または国制度全体の、国家神道の全面排除を憲法改正をともなう天皇制廃止なしにやれると考えているのでしょうか?
「私が納得するまで」制度から国家神道を排除しろ、というのは無理です。

逆に今の制度で納得できないなら辞めろ、というだけでも、法的には正しくとも仁慈ではありません。
中庸と信が必要なのですが、どちらにもそれは要求できそうにないです。
最高裁判決では納得させられないのがなんともどうしようもないです。

ただし、政治・既存社会側が何もしなくていいわけではありません。様々な宗教やそれに準じる心情、他民族感情を理解し、多民族国家が共存するように共存の道を探る努力が必要です。
でもその、アメリカでは多民族国家統合の象徴である国旗国歌が、日本では分断と対立の象徴となっている惨状ときたら…

2

国旗国歌の議論から気づいたことがいくつか。

国旗国歌反対派の信条は何でしょう?
それを弾圧する側は、どんな信条だとみなして非難しているのでしょう?
もしかしたら、両方結構多様なのかもしれません。

弾圧する側から見れば、国旗国歌反対派は「国家反逆者」であるように僕には思えます。
儀式の意味を考えれば、国旗に起立し、国家を歌う行為は言語での宣誓と同様に日本国憲法・政府・議会を承認している、ということになるのではないでしょうか。
僕の中には、国旗国歌反対派は「旗・歌によってまとまる共同体自体の否認(アナーキズム)」または「別の旗・歌への絶対的忠誠(共産党、天皇制廃止・非武装中立明文化憲法原理主義、または宗教)」であるという偏見があるようです。

ここで、現在の憲法・政府・議会を批判するなら儀式中は従って私的時間に政治活動をやれ…大麻が欲しいなら法を犯して闇で買うのではなく法改正を主張し、実現してから堂々と買え、それまでは法を尊重して我慢しろ、という論理が出てきます。
国旗国歌は法的に改正、廃止でき、政権交代も投票で可能なのですから。
なぜそうしないのか、という素朴な疑問があります。

少なくとも、政府批判のために国歌斉唱を拒否するのは僕は誤っていると思います。
国歌斉唱拒否は現政府・国家神道の否認のみならず、「日本国憲法・法律の否認」「国会・政府全体の否認」「日本国自体の否認」でさえある、と解釈できるのですから。

それはよほどの覚悟・代案がなければ…内心日の丸・君が代が嫌いであっても、内心と言動は別なのだから儀式には参加して憲法承認を宣誓し、内心では舌を出して野党への投票を決意していればいい、とも思います。

もしかしたら宗教の問題かもしれません。
国旗に起立・国家を歌う行為は、それが天皇教であるとすれば偶像崇拝になり、キリスト・イスラム教の多数の宗派にとって殺人以上の罪となる…だとすれば理解できます。踏み絵と同様。
宗教かそれに準ずる問題なら良心的兵役拒否と同様、ペナルティーなしに儀式に参加せず代替義務を果たす権利を人権として主張すればいいでしょう。僕はそれは認めるべきだと思います…内心と言動の混同は宗教ならやむをえません。
または儀式上「ここには宗教またはそれに準じる信条のために国歌斉唱にご参加いただけない方もいらっしゃいます。その方々もこの学校の一員であり、憲法を尊重する国民の一員なのです」で済ませることも考えられます。

そう考えると、弾圧者側の「国家反逆者」という考えには…僕の偏見ですが…内心の自由と言動の自由を混同していないか、という疑問が出てきます。
お上に逆らう者はその内心から叩きのめさなければ、心から国歌を歌わない者も野党に投票する者も反逆者で公敵だ、と考えているのならばあまりに粗雑で危険です。

僕はまず「心から歌う必要はない、内心と言動は別でいい、儀式に参加して憲法・国を承認してくれ」「宗教かそれに類する信条上、言動も許されないなら代替制度を要求し、実現したら申請せよ」で解決すると思いますが、今の政府がそれを認めるとも思えませんし、国旗国歌反対派もそれでも納得しないでしょう。
でも今の政府が認めない、という問題はなら政権交代をすればよい、というのが正解のはずです。民主的な改善の可能性を否定するなら…恐ろしいことになります。

内心と言動を分けられない人もいるようですが、分けられなければ言動にはどうしても制限があるので、内心も絶対無制限ではないということになり、僕は危険だと思います。

問題は代替制度が承認されていない時点で、宗教的信条で儀式に参加できない人は…良心的兵役拒否者が認められるまでと同様、堂々とペナルティーを受けてもらうしかないでしょう。

1

よそでの議論から気づいたのですが、なんであれ事実かどうか疑う姿勢自体どうなのでしょう。

たとえば南京大虐殺はなかった、とあります。
では同様にチベットでの虐殺が否定されないでしょうか?
全てはプロパガンダだ、という冷笑主義に陥ると、いかなる判断・行動もできなくなります。
結局情報は常に充分ではないのですから、どこかで判断しなければならないでしょう。

では感情・判断だけが正しいのでしょうか?
感情だけでは、感情操作に長けたシステム…南京大虐殺の宣伝施設、宗教の洗脳技術などに容易に取り込まれるでしょう。

疑い、真実を求める姿勢を保ちつつ、判断不能状態にもならないにはどうすればいいのでしょう?

少なくとも僕は純粋な相対主義ではない…「地球生命圏・人類の滅亡、文明崩壊」「虐殺・人権侵害・邪悪な支配」を否定しています…要するに下に付記した人類共通規範が僕の基本原理です。
その上で全てを疑いつついろいろな立場から物事を見て、ある程度は直感的な判断も頼りにするしかなさそうです。

もちろんあらゆるところにプロパガンダがあるのも事実ですから、それを見抜く目も鍛えるべきでしょう。
あと自分が常に偏見にとらわれ、プロパガンダにだまされていることも忘れないようにしないと。
自分がどんな偏見にとらわれているかを知ることができればかなり違うでしょうが、それは無理に近いでしょう。

人類共通規範