枕元の計算用紙

ホーム

1999年7月 8月 9月 10月 11月 12月
2000年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2001年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2002年1月 2月 3月 4日 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2003年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2004年1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
2005年1月 2月 3月 4月 5月

2005年6月

1日 2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日 31日

30日

人類共通規範:

何を追加しましょうか。また、どれかに反対でも?

29日

昔からの疑問ですが、なぜファミコンを含んだパソコンはないのでしょう。
最近発表された新世代ゲーム機はパソコン以上の性能ということですが、それを含んだ高性能のパソコン、さらにハイビジョン可能なディスプレイに5.1サラウンドスピーカーも一体化した究極システムは誰も作らないのでしょうか?

28日

人は、特に社会問題で他の論を批判するとき、自論の最良のシナリオと相手の論の最悪のシナリオを対比することが多いです。

たとえば非武装平和主義と軍備とを考えましょう。
平和主義における最善は軍なき平和であり、最悪は無抵抗で一方的に侵略、虐殺される状態です。
軍備がある場合最善なのは抑止力が機能した平和であり、最悪は…単純に敗北して侵略されて虐殺される、悲惨すぎる戦争で疲弊、政治的に軍をコントロールできずにこっちから侵略してしまって敗北などいろいろありますが、要するに敗北でしょうか。

で、平和主義者は「軍なき平和」と、「戦争の惨禍」を対比します。
逆に軍備肯定者は「抑止力が機能した平和」と「無抵抗での虐殺」を対比します。

また、軍隊は利権まみれで腐敗しているからよくない、福祉、民生、外国の紛争にはNPOによる援助で対処すべきだ、というのもよく聞きます。
しかし、それも「腐敗した軍隊」と「廉潔な福祉、民生組織、援助団体」を対比しているのです。
公平に考えるなら「腐敗した軍隊」となら「腐敗した福祉、民生組織、援助団体」を対比すべきです。
人間なのですから、どんなシステムも腐敗することはありえます。

27日

非武装平和主義に対して、こういう反論を考えていました…下のA,またはCです。

繰り返せば、平和主義者、特に無条件降伏論は占領された後のことを考えていないのではないでしょうか。
人類はナチスの惨禍を経験しているのです。

本当に戦わずに降伏したときホロコーストや次の侵略に協力させられたら。
レジスタンスで頑張れば、民族全体は免責されるでしょうか?
非暴力不服従もそうですが、やはり一部しか抵抗しぬくことはできません。
そうなれば…最終的に解放されても…抵抗しきれなかった人が…家族、無辜の同胞を守るためであっても…戦後の被占領国のナチ協力者のように民族全体の生け贄として罰され、非難されつづけるのでしょうか。それはそれでむごい気がします。
『バトル・ロワイヤル』の遠隔操作小型爆弾入り首輪のようなシステムを準備しておき、侵略されたら強制的に全員で自殺するのが公平であり、唯一有効な本当の抵抗になるでしょうか?

でも、この論は従来の、普通に武装して軍備を持つという論に対しても有効なのです。軍備を持つという側も、戦って負けたときにどうするかを考えるべきでしょう…

横行上が縦列左を批判。太字は個人的な感想 非武装平和主義
国民全員の自爆準備なし
非武装平和
自爆準備あり
軍備あり
自爆準備なし
軍備あり
自爆準備あり
非武装
自爆なし
 

A

侵略される場合について本気で考えていない、特に相手がナチス級の悪政権の場合ホロコーストに協力させられ、別の侵略に徴兵されることになるので無責任。

反論できますか?

B

侵略されるに決まっている、共産国家に侵略されることを望んでいるのだろう…従来の批判

従来の議論B-Gにはあまり力を感じません。
どちらも最悪の場合を真面目に考えていないです。
また価値観が違いすぎ、しかも互いに自分の価値観を絶対視していて議論する気もないように見えます。

C

侵略されるだろうし、その後について本気で考えていない。特に相手がナチス級の悪政権の場合無責任。
こちらが戦争を起こすことについて、負けたら最悪全国民自爆、敵も自爆ありなら勝っても得るものは土地と地下資源しかない、というのはいい抑止力になるはず。

反論できますか?

非武装
自爆あり

D

?正気か?
そんなこと考える必要はない、非武装なら侵略される心配はない?

自爆システムが改造されて国民の管理に使われるだけ、権力者は自分たちのだけ外すに決まってる?

思考停止ですね。

権力者を含む自国民に向いた最終兵器に利用価値はありません。
それが機能するはずはないというなら、平和主義の諸システムも機能するはずはないです…軍は機能しないが平和外交などは機能する、というのはダブルスタンダードです。
そして権力者にとって、人民がみんな死んで自分たちだけ生き残るのは、本質的に闇の欲望でありつつ最悪の悪夢でもあります。

 

E

?正気か?そこまで自民族を滅ぼしたいのか?

これも思考停止には違いありません。
まともな反論が想像できませんでした。

F

軍備がある場合のほうが抑止が機能する、戦争で勝つという二つのハードルがあり、自爆に至る可能性は少ない。
こちらが戦争を起こすことについて、負けたら最悪全国民自爆、敵も自爆ありなら勝っても得るものはあまりない、というのはいい抑止力になるはず。

僕はこの、F-Kの議論を重視したいです。

軍備
自爆なし

G

非戦非武装のほうが倫理的に高いし安心だ。
そんなに戦争がしたいのか…従来の批判

従来の議論にはあまり力を感じません。

H

非戦非武装のほうが倫理的に高い。
負けた場合について思考停止、無責任。

特に後者については反論できますか?

 

I

あらゆる場合について考えるべきだ、ナチ後の今、相手が悪の場合負けて降伏することは許されない。

まともに反論できますか?

軍備
自爆あり

J

正気か?
非戦非武装のほうが倫理的に高い。
軍備さえなければ侵略することもされることもないのだから、どちらも余計で自国民を攻撃するだけ?
自爆システムが改造され、国民の脅迫に使われるのが落ち?

この反論はわれながらまともじゃないです。

K

非戦非武装のほうが倫理的に高い。
軍備がある場合のほうがない場合より、抑止が機能するケースや戦争で勝つケースを考えても、軍備があるせいで戦争を起こしてしまい最終的に敗北、自爆に至る可能性が高い。
負けたら全員自爆では開戦こそ難しいが、負けられないため青天井にお互い軍備が増えて民生を圧迫、MADが常態化する。

この検討をこそしっかりすべきです。

L

そこまで考える必要はない、負けることを考えるな?

負けたら負けたで仕方がない、ナチ並みの悪侵略者に降伏して大半が悪をする羽目になってもみんなで死ぬよりいい?
レジスタンスで抵抗しよう?

場合によっては玉砕を選べばいい、普段からそこまで準備することはない?

上は竹槍でB29に挑んだ時代のまま、思考停止ですね。

中はまともな考えに見えますが、それでは正義がなさすぎます。
レジスタンスは一部しか頑張れず、勝ったとしても悲劇を生みます。

下は理解可能です。

 

僕の意見は軍備ありで、自爆準備またはナチ級の悪い政権に降伏するよりは玉砕する覚悟を持っておく、という感じです。
非武装で自爆準備ありも、僕は賛成ではないですが、あらゆる場合を考えた一貫した論として認めます。

26日

拉致被害者の家族が、経済制裁を求めて首相官邸前で座りこみをしています。

もちろん進展がない事に不満なのはわかりますし、それを主張するのは当然です。
僕も同情はありますし、そのためなら、核ミサイルで東京が消し飛ぶリスクが少しぐらい増えてもかまわないというぐらいの気持ちはあります。

しかし、その主張を見ると「拉致被害者に対する同情、救出への熱意」<=>「経済制裁」になっているのはまずいと思います。

小泉首相が経済制裁をしないのは、拉致被害者に対する同情、救出への熱意がないからではなく、あるけれども冷静に計算した結果、経済制裁をしても取り戻せる可能性はないと判断しているのかもしれません。

経済制裁の結果について、最も楽観的なもの以外考えてはならない、というのはまずいです。
例えば北朝鮮は経済制裁は宣戦布告と見なすと国際的に主張しています。
合理的なら戦争はしないでしょうが、経済制裁と、死亡を発表した拉致被害者を返すことで国自体が嘘つきだとはっきりすることのどちらが損が多いか、という計算もあるでしょう。嘘つきだと判明することは、普通は信用されなくなるので非常に大きな損です…まあパレスチナ問題でのイギリス、第二次大戦で中立条約を破って日本に侵攻したソ連は政治力でその損を押し殺しましたが、北朝鮮にその力はないでしょう。

確かに小泉首相は、靖国神社もそうですが全体に説明不足、要するにワンフレーズポリティックスという悪癖があり、それが誤解を招いているのでしょう。
本当に何も考えていない、もしくはアメリカの傀儡にすぎないのか、それとも考えているが説明する能力がない、または説明しても分かってもらえると考えていない(自分以外を馬鹿にしている)のか…

25日

大人の義務教育は、結構使える考えかもしれません。

他にも地域のパトロール、育児、老人介護に協力する時間も入れて。
体育もいいですし、希望者には英会話や緒資格試験などの教育とも統合してもいいでしょう。

また、軍の代わりに一定期間の集団生活で消防、救急、そして植林、海外協力などを、軍隊の徴兵に近い形で誰もが訓練を受ける形であれば、徴兵制を望む保守派の義務教育の仕上げという目的は果たせるのでは?

24日

昔、任天堂が3Dのゲーム機を開発しましたが売れませんでした。
両目に違う映像を見せる、完全な3Dです。
それを今作ったら、もっといいものができるに違いありません。早すぎたのでしょう。

今なら、たとえばゴーグル型で両目とも上げ下げでき、片方だけ上げればある程度外も見えるウエアラブルディスプレイとしても使え、もちろんヘッドホンやマイクがついたものをまず作れるでしょう。

それに、家庭用の高性能な本体を接続すれば3Dゲーム機になるでしょう。
また、携帯用の、大容量HDDにDVDも使用可能な、外でインターネットやゲームができる機器とつなげて外で使ってもいいでしょう。
小型の、2Dの携帯できるサイズのゲーム、音楽、ラジオ、携帯電話としての機能に特化した本体とつなげても、十分価値はあるでしょう。

23日

電車で、すぐそばの何人かがイヤホンで音楽を聞いていました。
しかし、気がついてみたら、音が漏れていないのです!

これまでずっとイヤホンの音漏れが電車内の公害であり、ゆえに電車内の音楽はマナー違反でした。
いつのまにそれが解決されていたのでしょう。

それが解決しされたからこそ、今のデジタル携帯音楽メディアの隆盛があるのでしょうか。

21日

靖国問題では、日本(保守)側と中韓および日本の参拝反対側、どちらも全面勝利してはならないのでは。

もちろん参拝するかしないかしかありませんから、どちらかの全面勝利しかないように一見見えます。
でも、両極端の間には無数の中間項があることも事実です。

何を危惧しているかというと、日保守側も中韓側も、その主張が全面的に通ってしまうと内心、信仰、言論、出版、表現、学問などの自由が大きく制限される気がするのです。

もし日保守の主張が全て認められると、靖国神道と日本国家の一体化が強まってしまい、日の丸君が代および日本国家に対する忠誠宣誓が、信仰の自由を侵さなければできないものになりかねません。
また、保守強硬派の言には、売国奴である左側の言論を制限せよといわんばかりの姿勢があります。
特にNHK問題において、安部氏は「何があっても、いかなる内容でも、左右を問わず政治家は放送に圧力をかけてはならない」と言っているわけではないです。

もちろん左側も、歴史教科諸問題や妄言に対する反発を考えるとそれを解決するには日本人全員が一つの歴史観に疑問を持つことなく洗脳されていなければならない、異論は許されないということになります。
そういうとナチの戦犯を時効なく追求し、また親ナチ言論を禁じているドイツに倣えといわれるでしょうが、僕はそこまで倣うのは危険だと思います。

ではどうすべきか。
僕なら、近隣諸国に対しては子供も、そして大人も改めて一定時間の義務教育を課し、その中で両側から第二次世界大戦前後の歴史を国民全員に学ばせます。
そのことで、「歴史をちゃんと教えていない」という非難に応えます。
そして首相の靖国神社参拝自体は、ちゃんと国民が理解してからの民主的判断を受け入れてもらいたいと言うほかありません。

あ、大人に対する義務教育には、ついでに科学の基礎や憲法、差別がなくなるよう特に精神医学も必修にしたほうがいいでしょうね。


私事でしばらく更新不安定…

8日

僕は新聞をとっておらず、テレビもほとんど見ていません。ラジオもほとんど聞きません。

その代わりほぼ毎日本屋の全体を見、論壇誌と週刊誌の多くを読んでいます。
またネットでも情報は集めています。

それで得られない情報はどれぐらいあるのでしょう。

難しいのは、自分にとって不快な、立場が違うニュースに触れることです。
新聞やテレビで情報を集めている人も、もちろん情報は偏ります…たいていの人は一紙しか読まないからです。

本当に広く情報を得るにはどうすればいいのでしょう。
そして、誰もが広く情報を得るには、メディアはどうであればいいのでしょう。

7日

市販の靴に、合う中敷のスペアも入っていたらかなり寿命が延びるのではないでしょうか。
まあ、底が減るほうが早い気もしますが。

6日

狂人の言葉はすべて無意味なのでしょうか。

神話の類では狂人の言葉には予言の力がありましたが、今は何もないのでしょうか。
優れた学者で、思索が深すぎて発狂する者も多くいますが、それとこれとは別でしょうか?

5日

アラブにおける石油はアラーの恵みといわれますが、呪いでもあるのでは?

植民地時代のスペインもそうですが、不労所得がある国は自力で発展しようという力がないため、結局は発展できません。
イスラムと近代がうまく調和していないのは、そのせいもあるのではないでしょうか?

本来ならば、イスラム教は西洋近代との葛藤を通じて、その有力な対抗者になりうるはずです。
しかし、石油があるからこそ精神的には停滞しており、テロぐらいしかできていません。

4日

人間はなぜ、かくもプライバシーを重視するのでしょう。

国民全員のDNAと指紋など生体認証コードと名前をデータベース化すれば、それだけで犯罪を犯して逃げ切るのはきわめて難しくなり、行政が大幅に簡略化され、また生体認証コードと個人投票用IPアドレスを直結すれば電子的な直接民主制さえ可能だというのに、どこの国もそれをしていません。
車の代償としての事故同様、仕方がないと納得してなのでしょうか?

3日

ただし、権威、上下関係を認めることは、支配する側される側双方の魂を蝕むのが普通です。
普通の人間は権力を持っていればそれを濫用し、それに疑問を持つことさえ難しくなります。
逆に権力に従い、飼育されることに喜びさえ覚えるようになる堕落も多く見られます。

人間には船は適していない、ということなのでしょうか。

2日

ちょっと要約しましょう。

民主主義かどうか、という判断の基準として、

  1. 命令されるか否か、上下関係の有無
  2. リーダー、ルールを定める形式、権威の由来

の二つがあるような気がします。
1は権威主義や全体主義から平等、アナーキズムに至る軸であり、2は神権制、君主(独裁)制、寡頭制、封建制、民主制などを結ぶ軸です。
そして、個別の決定について徹底した多数決や全員一致は…?

日本では1も強調されるようですが、命令(権力、強制)や上下関係を否定するのは、民主主義というよりどちらかというとアナーキズムでは?

1日

民主主義とは何でしょうか?
広辞苑では「語源略 すなわち人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。〜歴史略〜基本的人権、自由権、平等権、あるいは多数決原理、法治主義などがその主たる属性であり〜」とあります。

日本においては、「物事をみんなで決めること」です。上記の、「権力を自ら行使する」が強いといえます。
でも、「みんなで決める」には「全員一致」もあり、「多数決」もあります。
では、その決める「物事」とは何でしょう。
学級民主主義と呼ばれる、教育上の仮想民主主義には、役職の選挙と文化祭の出し物など「すること」の決定があります。
それが民主主義でしょうか?

学級といえば、『二年間の休暇(十五少年漂流記)』を思い出します。
あれも民主主義…ちょっと待ってください。
あの少年たちは皆チェアマン校の学生でした。そして、チェアマン校はイギリスのイートン校などパブリック・スクールのコピーで、がちがちの権威主義でした。下級生は上級生に絶対服従、一度は上級生が下級生を鞭打ちさえしたのです。
でも彼らは、学年に関わらず(残念ながら黒人のモコは除く)平等な選挙を実践しました。
それで、その選挙で選ばれた大統領のゴードン、ブリアンに(ドニファンが分裂を起こしましたが)皆従いました。
そう、もし「みんなで決める」ばかりやっていたら、狩猟大好きのドニファンたちが火薬を、食いしん坊の下級生が食料を浪費し、あの共同体は機能しなかったでしょう。

さて、ここで人間が集団で生きる生き物であることを考えましょう。
僕は人間集団の本質を考えるとき、船をよく考えます。

船は、常にいろいろなことを決定しなければなりません。
どこの港に向かうか。そのために今どちらに舵を切るか。強風が吹いてきたとき、どの帆をひろげ、またはたたむか。航海が長引き、物資が不足しそうなとき、水や食糧の配給を制限するか。嵐で風下の岸にぶつかりそう、なら上手回しで一気に行くか、下手回しでぎりぎりで抜けるか、思いきって座礁するか、船を捨てて一人でも助けるか…
そして、昔の帆船は、特に嵐が来たとき、全員が全力で一糸乱れず協力しなければ沈没=全員の死、生存者がいても航海目的の失敗は避けられませんでした。
全員の一致した協力が必要なのは、原子力に至る現在の船も同じことでしょう。

全員が一致するためには、どうも命令系統が必要に思えます。さらに嵐の帆船となると、命令に反抗し、上がそれに説明し、みんなで一致するまで議論する暇はどう見てもありませんから、必然的に命令には口ごたえせず絶対服従することが求められます。
でも、それでみんながロボットになった場合、誰が決断し、命令するのでしょう。それは艦長以外いません。
そして船が沈んだ場合、全責任を負うのは艦長です。
艦長に絶対的な権威、権限、責任がある…それが船の本質、といっていいでしょう。
どんな人間社会も、この権威、権限(力)、責任の三つが一つの軸となっていることは忘れるべきではありません。

そんな権威、権力、命令を認めない!という、アナーキズムに近い気分が日本の戦後民主主義には強くあるようです。上記広辞苑の「権力を自ら行使する」からもそれは感じられます。
そういえば、昔のつくば科学万博にあった宇宙船のゲームで、全ての席にスイッチがあり、何かあるたびにどうするか投票し、多数決で勝った行動を取る、というものがありました。
「権力を自ら行使する」からはそれが民主的であり、それゆえに正しく思えます。技術的には有権者全員の、生体認証つき携帯電話またはパソコンからのリアルタイム投票は不可能ではなさそうに見えます。

でも多数決で決めるとしても、多数決で決めたことを全員に強制していいのか、という問題もあります。
反対者、少数者の権利は圧殺されてしまいますし。
ただ、全員一致になるまで話し合うのは、あまりに時間がかかりすぎます。また全員一致というのはそれ自体、強い同調圧力がなければ不可能です…それは少数者の言論、内心の自由まで圧殺してしまっています。
また、少数意見が正しい進路である可能性がある場合、どうすればよいのでしょうか。多数決または全員一致で決めてみんなで沈むのがいい…赤信号みんなで渡れば怖くない…?
少数意見が正しい場合それを活かすのに一番いいのは、絶対権力を持つ艦長がおり、みんながそれぞれ(凪のときに)艦長に意見して、その艦長が柔軟な人であればその意見を冷静に聞き、考えて、必ずしも多数意見ではなく、艦長自身が正しいと思った意見を取る、というのがあります。当然それは艦長の責任になりますが。

同時に、こう考えてください。半分は沈むような危険な航路を、百隻ずつ出発します。
そのうちの五十隻は、艦長、上官命令に絶対服従です。どんなに命令が間違っていようがです。
残りの五十隻はなんでもみんなで相談して決めるとします。上記の、科学万博のゲームのようなリアルタイム投票システムでもいいでしょう。
さて、どちらが多く目的地にたどり着くでしょうか?
意外にも命令に絶対服従のほうが、目的地にたどり着く可能性は高いでしょう。
間違った命令にも服従しなければならないのに?と思うでしょうが、決定、命令が間違っていても、決定、命令がないよりはましなのです。
さらに艦長は、乗組員の平均よりも教育、経験が高いでしょうから、それだけ正しい決断ができるでしょう。
単純に考えましょう…西にどんどん行ったら沈む、東にどんどん行けば目的地に着く。
で、命令に絶対服従の船は、単純にいうと半分は西に行って沈み、もう半分は東に行って着くでしょう。
しかし、民主的に決める船はどうなるでしょう?昨日は西に行ったけど、今日は反対者が増えたから東に、また明日は南に行き、次の日は風を待つということになるかも…それだけでなく、この帆を動かせとか、舵を動かせとかにも一々反抗する人がいるかもしれません。
よほど全員が賢明で意志堅固でない限り、どの船も着けないでしょう。

つまり、これは独裁(絶対君主)制のほうが正しいということでしょうか?
いえ、艦長が絶対権力を持っていれば独裁制であるとは限りません。
「君主制」「貴族制」「民主制」の「制」で重要なのは、その艦長がどのように選ばれるか、艦長の権威は何に由来するかではないでしょうか?

王権神授説の絶対君主政は、海軍のように国が一方的に目的地と艦長を決めるのと似ています。
国民は艦長である国王をリコールすることはできません。そしてその国王の権威は神と伝統に由来します。

最も単純な民主制度…歴史的には海賊も自由、民主主義の重要なルーツです…は、みんなの中からみんなで艦長と、目的地を決めるものでしょう。そのときだけは、少なくとも建前上は選ばれる人も選ぶ人もみんな平等です。
そして一定期間または目的地に着くまではその艦長に従い、定められた上下関係と法、規律を守らなければならないでしょう。そうしなければ船が沈みますから。
ただし艦長が無能である、目的地が間違っているなどと、ある程度長い目で判断した場合には選挙で艦長を解任し、目的地を変更することもできるでしょう。あまり短期的な変更は危険ですが、全く変更できないのも危険です。どこかちょうどいいところがあるでしょう。
さらに艦長は任についた航海の責任を負いますが、みんなで選んだのだからみんなも悪い、というのもある程度あります。
船以上に大きい国には、より複雑な民主制度も必要になるでしょう…地方分権や三権分立、憲法などです。
ただしどちらにしても、艦長の権威は選挙で選んだこと、民主主義そのものに由来します。

凪のときは規律なども緩やかで、艦長も法に従わなければならない、めったに嵐は起きない、そして定期的な選挙で艦長を自分たちの中から選ぶのであれば、それは十分民主主義ではないでしょうか?

さてそこで問題になるのは、言論の自由をどうするかです。
特に軍艦では、言論の自由は認められないことが多いです。私的な会話としても上の者、航海の目的などを批判することは許されません。普通の船でも、少なくとも嵐のときは命令、針路などの批判は許されないでしょう。
批判が常にあると、意見によって政党のような派閥ができるでしょう。まして閉ざされた世界、人間関係も加わって余計ややこしくなるでしょう。また、艦長の権威も地に落ちるかもしれません。そうなったらもう、反乱は確実ですし、反乱が起きれば当然船は沈みます。
昔はその論理で、普通の陸の国でも言論の自由は認められなかったのでしょう。
では、そんなリスクがあるなら、言論の自由を認めるのにどんなメリットがあるのでしょう。逆に言論の自由を認めないことに、どんなデメリットがあるのでしょう。
言論の自由がないと、特に教育程度や財力が高くなった場合、もちろん各人の欲求不満が強まります。結果的に反乱=沈没のリスクを高めてしまうかもしれません。
また、艦長にとっても、あくまで決めるのは自分なら様々な意見が戦わされていたほうがいい結果になるかもしれません。
何より、「民主的に艦長と目的地を決める」場合には、余裕のある凪のときに意見を戦わせなければ、民主的に決める意味は全くありません。フセイン政権のイラクや金政権北朝鮮の100%選挙と同じです。
だから、少なくとも凪の時には言論の自由は必要である、ただし反乱は許されないとするのが正しいでしょう。その境界線を引くのは非常に難しいのですが。

広辞苑の定義では、直接民主主義こそ民主主義である、という印象があります。
ただし直接民主主義は危険があり、また小規模でなければ成立しません。特に嵐のときに機能させるのは難しいでしょう。
では、艦長と目的地をみんなで選び、任期までは従うし艦長も法律、憲法には従う、というのは民主主義ではないのでしょうか?
きっぱりと凪と嵐で制度を分けてしまうのも手かもしれません。凪の時には艦長は名目だけで合議、多数決で決める、でも嵐の時には艦長に全権を任せる、というような。

気をつけなければならないのは、嵐を強調しすぎると軍国主義、全体主義になり、逆に凪を強調しすぎ、嵐を否定したら本質を忘れて機能しなくなることでしょう。民主主義であってもなくても。

あ、ついでに。
第二次世界大戦の時代、民主的に間違った艦長を選んでしまい、言論の自由を奪われて針路変更、艦長交代ができなくなったのがドイツです。
システムが嵐に適合しすぎ、さらに有能な艦長だった元老が死んだ後に代わる艦長がなく、エリートが権威、権力、責任を理解せず、権威だけあるくせにその権力を持つ人が好き勝手無責任をやってしまったのが日本です。
ちなみにどちらも民主制度があり、人民の間違った情念が権力と負のフィードバックを起こしたことも大きいです。みんなが望むことをした、というならそれはそれで民主的にさえ思えます。
結局どちらも沈みました。