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家族や村など「共同体」が武装、まとまっていなければ…わずかでも油断があればたちどころに武装集団に襲われ、家は焼かれ家畜穀物財産は奪われ女は犯され子供は慰み殺されまたは奴隷に売り飛ばされるのが当然…。
またちょっと凶作になれば、よそを襲って上記をする側になるか、自分の子供が何人も餓死するかを選ばなければならない…。

人間はその歴史のほとんどを、そんな世界で過ごしてきたのです。
現在の地球にもそんな世界は広く残っているのです。
現在の先進国は、歴史的に見ても地理的に見ても例外なのでは。
また歴史を見れば、秩序がない地域・時代のほうが多いのでは。

また、人間の始まり自体が「群れ」動物として、血縁を中心に多分百人前後が集まって、群れを襲う肉食獣と戦ったり、群れどうし戦ったりしていたのでは。
共同体を守る、共同体のリーダー…家長にしても封建領主にしても…への忠誠は、ただ生きるためでも当然では。

僕はその状況を肯定してはいません。
世界全体が、誰もが餓死せず、奴隷にされず、殺し殺されず生きられることを望んではいます…が、どうすれば、その状態の地域に秩序と安定と必要な豊かさをもたらすことができるのでしょう?

そして、現在の先進国は搾取なしに持続しうるのでしょうか?
まあそれ以前に僕は支配・群れ自体が嫌いなのですが…それを嫌うと人間として生きること自体を否定せざるを得ないんですよ。

30

過労死・労災死(病・障害)は株式会社日本の、世界との経済戦争の「戦死者」では。

では、もしそれを、戦死(病・障害)と同等に扱っていたらどうなるでしょう。
過労死は戦死と同様、該当企業によって社神とされて社葬され、遺族には年金が入る。
労災も障害を負ったときも同様。

そして靖国神社と同等の神社に祀られ、毎年天皇・首相などによって顕彰される。
もちろん「感情の錬金術」も働き、遺族は悲しむことは許されない。

地獄?いや、それがないからこそ労災も過労死も地獄なのです。
それがあればどんなにいいか。

さらにいえば、その神社には裏に入るのは自由で絶対出られない施設があり、そこにはもう役立たずになった人たちが入って、その中は酒と麻薬が無限にあるし、それで死んだら「役立たずが自ら口減らしになった」と神社の祭神になれる、というのがあってもいいですね。

29

メキシコから危険を冒してアメリカに不法移民する人はとても多いです。
他の国からも多くいます。
その人たちは、アメリカに移民した後も苦しい生活、ものすごい重労働が続く運命です。

ではなぜ、同じ重労働を故国でやらないのでしょう。
メキシコを始め故国では、どんなに頑張っても希望はないのでしょうか?

でもアメリカに本当に希望があるのでしょうか?
もうアメリカも昔とは違い、大半の「特別な幸運はないがまじめに努力する」層は一生、そして代々貧しいままなのでは?
それでも万に一つの可能性でもある限り故国よりましなのでしょうか?

それとも、アメリカに行けば故国に比べ顕著に生活水準は…最低の不法移民でも…上がるのでしょうか。

28

アメリカはメキシコ系不法移民の存在で悩んでいる反面、それを不可欠の要素ともしています。
それで、アメリカにとって一番いいのはどれでしょう。

  1. 現状維持
  2. メキシコをアメリカ並に豊かにする
  3. メキシコ・メキシコ系アメリカ人を滅ぼす

27

貧困にしても児童虐待にしても家族殺しにしても、結局昔からあったことが今顕在化しているだけでは?

だとしたら闇に葬られていた頃より今のほうがいいのでしょうか。

それとも、たとえば少年による残虐な犯罪の報道は、犯罪の絶対数は減っているのに体感治安は悪化していると世論をあおり、監視社会化を受け入れさせている…という批判がありますが、それと同じように「取り上げる権力」を問題にすべきなのでしょうか。

26

もし、ニートは今すぐ自殺、フリーターは五十歳まで低賃金未熟練でまじめに働き五十歳になったら黙って自殺する、と全員が自発的に受け入れたら、それは国益にとって最善でしょうか?
また団塊老人もみんな自殺したら?
先進国に必要な付加価値をもたらすことができない者が皆自殺したら?

「グローバル化は嵐の海だ。船は全速で航らなければ沈む。
そんなときは荷物も捨て、荷物になる弱者も捨てて、精鋭だけで必死で航らなければならない。
いや、船のためにお荷物だと悟ったものは自ら海に身を投げるべきだし、残った者は死ぬまで働いて、なんとしても船を沈めないことに命を捧げよ」
という論理で役に立たない者には自殺(か将来はガス室)、役に立つ者は過労死を強いる新自由主義・国家主義が今後も続くのでしょうか。
それは本当に国益、いや資本家の利益にさえになるのでしょうか?

25

自己責任、働かざるもの食うべからず、アリとキリギリス、努力の価値…そんな、要するにイデオロギー…言葉・概念のために、「1970年代生まれ」で「就職力が下から三分の一」である氷河期世代のフリーター・ニート層は全部「怠け者のクズ」として切り捨て、餓死させるのが正しいのでしょうか?
餓死させてはならない、といっても、では具体的に何をする気もないのでは。実力格差・企業の新卒至上主義がある以上、再チャレンジなど蜘蛛の糸でしかないです…最弱者を救えるシステムでなければ。

うまくいかなかったけれどいろいろ頑張った人もいるかもしれません。
夢を追って努力した人も、また不運ながら正社員に向けて勉強した人も、いろいろな資格を取った人も、専門学校などにまじめに通い学んだ人もいるでしょう。
彼らがそうなるまでに何をどれだけ努力したかは、一切無視していいのでしょうか?

「結果が全て」と「努力の価値」は矛盾していませんか?
結果が出ない努力は無価値とすると、努力しても成功する率が低いことで努力するのは間違いとなります…パチンコや競馬でどんなに努力してもそれは愚かで損をするだけです。
そして、氷河期世代にとっては、質量ともにそれまでの世代の基準から見れば普通の努力では成功率が低かったのです。
そしてその後は、どう努力しても成功率が低すぎると判断するしかない情勢です。
別の世代に生まれていたら、同じぐらいの努力で余裕で就職できていたかもしれません。
それでも彼らは切り捨てられるべきなのでしょうか。

戦争にぶつかった世代は否応なしに大量に死んだ、といっても、彼らにはある意味名誉はあります。
名誉の面でも怠け者と全否定し、職・家族という尊厳も奪い、自殺か餓死…それはあまりにも残酷なのでは?
それほど残酷な社会が存続してよいのでしょうか。

さらにいえば「家族の美風」のために悲惨な死に方をする高齢者、介護で地獄を見る女性や介護職員も千万単位になるでしょう。介護疲れでの家族殺人や心中もあとを絶たないでしょう。

問題は単純です。
「自己責任」「自助」「勤勉」「家族の美風」という言葉・概念のために何千万人も捨て、生き地獄に落とし、餓死や自殺に追い込むか。
それとも生存と介護(と教育と医療と情報)は無条件に全員に保障し、尊厳を与える方策を考えるか…単純に団塊ジュニアに団塊世代を介護させる(まともな労働条件を保障して)だけでもかなり解決するでしょう。

日本は…日本人事実上全員の合意で、完全に前者を選んでいるように思えます。

24

「両手を自由にして携帯できる(携帯したまま乗馬できる)」「緊急時に馬上・格闘を問わず瞬時に使用できる」武器は、やはり刀剣がベストでしょうか。
斧や槍はどう工夫してもそれは無理でしょうか?

2〜3mの斧槍か薙刀、大身槍を、右腰から穂先が地面を指すように斜め前に固定、同時に穂先も安全にカバーする鞘があればどうでしょう…工夫すれば瞬時に右手で抜いて右片手ですが突きを一発出せます。
その角度で固定すれば乗馬にも耐えられるでしょう。
デメリットは、それをつけているだけで身長がものすごく高いのと同じことになり、天井が低いとつかえてしまうことです。森の中を駆け抜けるときも枝に柄が絡まるでしょう。
でも槍と刀剣の間合いの差を考えれば、それは大したことではありません。

モンゴル騎兵型の短い合成弓と刀の組のほうが、無駄な重量になる槍よりいいかもしれませんが。

あと、ゲームイラストに多く見られる「背に斜めに大剣を負う」のは合理的な携帯法でしょうか?抜き収めは素早くできるでしょうか。剣でできるなら斧槍では?

また鎖分銅、投げナイフなどは?
どちらも瞬時に取り出せ、刀剣よりかさばらず、かなり長い攻撃範囲を持っています。
普通は暗器扱いですが、鎖分銅も先端を重くすれば甲冑すら通す強力な武器ですし、投げナイフもやや大型にすれば十分な威力があるはずです。

また拳銃のデザインも、現行のL字型がベストでしょうか?
ロフストアンドクラッチ松葉杖に似たものは?
なぜFN-P90タイプが昔からなかったのでしょう?

23

「実際には安全だけれど、やっている人間は本当に死ぬと思う」状況をつくれないでしょうか。
薬物や脳電気刺激を用いてでも。
娯楽の「スリル」で、ある程度異常脳をだまして本当に「死ぬ思い」をさせることができたら、おそらく人間はそれを好むでしょう。
文明以前の人間にとって、「死ぬ思い」は日常です…人間の脳はそんな状況にあわせて進化しているはずです。

死ぬ思いを「本気に」させて、脳の主観では「必死で運動を続けないと死ぬ」と感じせて限界まで運動させることができればどうでしょう。

特定の薬を飲み、電極入りヘルメットをかぶって大画面が前にあるボートこぎ運動器具に座らせれば、漕ぎ続けなければ死ぬと本人は強く感じ、限界まで漕ぎ続ける…とてもいい運動になることでしょう。
水泳やランニング、ボクシングのサンドバッグ打ち、縄跳びなどでも同様にできれば?

さらにオフィスの隅でも「死ぬ思い」と、ごく狭い環境でもできる運動…地面近くに固定されたバーを全力で持ち上げようとする、身長程度の高さの固定された天井を全身で押し上げる、鉄格子を模した鉄棒を必死で揺らすなど…が数分間できれば強力なストレス解消になるでしょうね。

22

人間のネオテニー説を考えると、何らかの遺伝子改良や薬物で、現在の人間より極端に体力が勝る「成熟人間」を作り出すことができたらどうなるでしょう。

知的にはどんな存在になるでしょうか?やはり劣るでしょうか、それとも今の人間より圧倒的に勝るでしょうか?

知的に少し劣り、体力的に圧倒的に勝るなら奴隷や兵士には最適…と思えますが、セブン、いやエイトフッター(2.5m弱)で筋肉の塊…または二足歩行ができるゴリラの肉体では普通より食料を余計に必要とするのでデメリットも大きいです。

21

僕の小説「こんな明日はいかが」において、黙示録計画(白人富裕層が、白人以外皆殺し人口伝染病でを作ってばらまき、環境・人口問題を最終的に解決しようとする)の描写において「白人とユダヤ人」による陰謀としました。
ずっと考えていましたが、やはり「白人」とだけにしておいたほうがよさそうです。修正しました。

なぜ「白人とユダヤ人」としたか…別に反ユダヤ主義者だから、というわけではありません。
単純に、そんな高度な科学技術を使う計画をユダヤ人にばれないで実行するのは無理だ、なら白人至上主義者は本音ではユダヤ人も滅ぼしたいけれど、反撃されないためにはユダヤ人も仲間に入れるしかない、と考えるだろう、ということです。
もちろん白人にもユダヤ人にも、黙示録計画に反対する金持ちも科学者もいたけれど、計画を知って反対した者は人種を問わず殺された、というだけのこと…というわけです。
ユダヤ人はもとより選民思想があるし、ノアの箱舟の考えに親しんでいるから抵抗は少ないはずだ、とも。

間違いではないかと思ったことは、「ユダヤ人」全体がしっかりした組織であり、指導システムがあるように捉えていたことです。それはないはず…一人一人のユダヤ人がいるだけです、豊かな人や貧しい人など。
また、黙示録計画に賛成するような人間は狂信的で、極度に利己的で邪悪な人間のはずです。そんな人が、自民族全員を…同じユダヤ人だというだけで、人種・言語が違う、または貧しい者、遺伝子的に劣ると考える者も生かそうとするだろうか?という疑問を否定しきれません。

僕の基本的な考えかたは、ユダヤ人もそれ以外の民族も、特別に人道的でも残虐極悪でもない、というものです。
どの民族も(民族主義が行き渡ってからは)自民族中心で歴史の流れ次第で残虐非道、他民族の皆殺しを何の呵責もなくやってのける、というだけのことです。
ユダヤ人だけは例外だ、というのは違うはずです…それは中東で日々証明されています。

さて、では僕にユダヤ人に対する差別意識があったのでしょうか?
僕の意識の上では、「白人とユダヤ人」と書いたときには論理の流れのつもりで、自分を省みても差別はない…あるとすれば人類自体に対する差別があるだけでした。
でも意識下の差別は当然あるでしょう。人間は全て差別する生き物で、僕だけその例外のはずはありません。

でも、僕はそのことで自分を責めることはありません。たとえ責められても別に反省・謝罪しようとは思いません。
誰かを傷つけたといえば、白人だけにしても僕は白人を差別している…白人全員を侮辱し、傷つけていることには変わりありません。
創作において人を傷つけることはどうしようもないことです。
差別者はものを書く資格はない、という批判もあるでしょう。
でも、それは差別者とそうでない人がいる、というのが前提です。
僕はそうは思いません…あらゆる人が差別者です、僕も含めて。
そして、僕は自分のことは自分で決めます。

そして何より、差別全般について感じるのですが、内心の差別意識を心から反省して捨てろ、被差別者の痛みを知れ、というのには非常に危険な支配の匂いを感じるのです。
その論理で言えば、僕は僕の内面を全く知らない、逆に被差別者は僕の内面を知っているということになります。
そして被差別者の望むとおりに、自分でも意識できない内面を書き換えなければならないとしたら…それは自分の最後の鍵に至るまで「被差別者」に渡してしまうということに他なりません。
全面的に自分を否定して、深層に至るまで他者による再プログラムに任せてしまう…それは宗教に一番深く帰依するのと変わらないのでは。
そして、被差別者であろうと人間に、それほどの帰依を受ける資格があるのでしょうか。僕は人間をそのように信頼することは全くできません。

僕は人は差別する生き物なのはどうしようもない、でも極力自分の差別を自覚する努力はし、また相手の立場に立って害を加えないように努力はする、という以上のことは人に要求してはならないと思います。
完全に差別心を捨てろ、というのは無理です。
「差別」は「性」と同様なくすことはできず、無理に抑圧すると恐ろしい結果を生む根源的なものでは?

といっても、僕は「こんな明日はいかが?」を発表して以来、そのことについて全く抗議を受けていません。
いかに読者が少ないかよくわかります。

20

資本主義を推し進めた形として、金さえあれば奴隷や、遺伝子改良された貴族と遺伝子改悪された奴隷…家畜、人体実験なども無制限に認めたものも考えられます。

今の富裕層は、どれほど極悪非道になれるでしょう。

19

国などがやらなくてはならないことはやるべきでしょうか。
それとも予算がなければやるべきではないのでしょうか。

国防や生活保護さえ議論があります。

まず予算があるのでしょうか、それとも必要があるのでしょうか。
一人の人が路傍で餓死しようとしていても、「そのための予算はどこにもない」なら放置するのが国でしょうか。
それは憲法で禁じられているのでは?
それもまた、選挙で選ばれた政府がやったことだから国民全体のせいでしょうか。

必要を言うなら軍事的にはどれだけのことが本当に必要なのでしょう。
ミサイル防衛も必要なのかもしれません。さらに核攻撃を防ぎきれなかったときの対策、原発を攻撃されたときの対策も必要なのかもしれません。

必要なことを全部やろうとしたらきりがない、といわれたらどう応えればいいのでしょう。
でも増税はできない、増税したら景気が悪くなってかえって税収が落ちる、とよく言われますが、本当でしょうか。
聖域なき財政削減というのが国も地方も流行りですが、どれも本当に必要なことなのでは?

国だけでできることはそれほどない、「諸君に国が何をしてくれるかではなく、諸君が国の為に何ができるか考えよ」を答えとしていいでしょうか?
民間・地域・寄付・宗教団体などがすべきことも多いのでしょうか…でもそれらは選挙の洗礼を受けないという問題もありますし、最大の問題は一人の餓死者…もちろん何人の…が出ても、各組織は最大限やっていれば誰も責任を負う必要がないということです。

そう考えると、「一人の餓死者」に対して、民主国家なら国民全員に痛みを与える必要がありそうですね。政府が責任を負い、ペナルティを払うのはもちろん。

18

「自分の面倒は自分で見ろ」「国のために死ね」「伝統に従え」「上に無条件絶対服従」のどれが保守なのでしょう。
というか保守とは何でしょう。

また「自分の面倒は自分で見ろ」は家族主義的な解釈も多いです。
でも家族中心主義は泥棒国家に至るでしょう。

そして「自分の面倒は自分で見ろ」が極限まで行ったら、行き着く先はどこでしょう。

根本的な問題として、保守とは善悪どちらなのでしょう。日本では悪のイメージが強すぎます。

17

冤罪を産む構造があるといわれる警察の論理は憲法より上位にあるようにも思えます。
そして、警察および政治家の多くは、それが正しいと思っているようです。
そうでなければこれほど批判が多くても代用監獄制度が廃止されないのが理解できません。

そして多くの…権力者が、自分達国の論理=法=道徳=絶対に正しい=全国民の内心まで強制してしかるべき、と考えているようです。
想像以上に多くの、しかも権力を持つ人が立憲主義を理解していない、法と道徳は一体だと思っているようです。

さらにまた護憲派にも立憲主義に反対な人が結構いるようです。
日本では立憲主義者、民主主義者はどうやら少数派のようです。

さらに言えば、改憲側の「本音憲法」は、現在出されている草案ともかなり違うもののようです。
また、改憲された憲法は絶対完全に守られるべきだと思っている人は、改憲派にも少ないのではないでしょうか。
憲法とは何か、というものの考え自体が違います。

16

冤罪をパラドックスとみなすのは、「警察・裁判システムは正義の実現のためである」という前提と現実の齟齬からです。
それは以下のどれとも解釈できます。
警察・検察および裁判は、

最も重大なのは「目的・優先順位を明確にする」ことではないでしょうか。

あと、警察・検察および裁判所は過ちを犯さない、冤罪など一切存在しない、有罪判決は全て正しい、それに背く事実は見ない、という立場の人も少なくないでしょうね。
ある世界観のために目的はおろか現実認識さえゆがめるのは人間にはよくあることです。

15

体験授業として、自然素材から楽器を作って演奏してみるのも楽しそうです。

14

パンダ議論について、ただ一言…日本の動物園を国際水準に。
動物園というのが本当は何か、何が国際水準か、何のためにあるのか少し調べてください。

もちろん努力している動物園もありますが、日本の一般市民の理解水準がどうしようもなく低いです。日本人の99%は「動物園とは」という問題に正解できないでしょう。
全てはそれからです。

パンダがいても、国際水準で動物園扱いされていないなら、ちゃんとした動物園を支える市民がいないなら無意味です。

もちろん中国の震災やミャンマーの台風のほうが急を要する問題でしょう。
人命の価値、人権の重要性にはチベットも中国もミャンマーも北朝鮮もアメリカも日本も変わりないはずです。

13

道は一つしかない、と思い込み、考えや学びに自分で制限をかけてしまう心の動きに気をつけましょう。
正しいと思われる道を通っても失敗することはありますし、別の道でも結構いい結果になることはあります。

最低限の許容範囲が達成できれば途中経過はどうであっても御の字、というぐらい寛容でなければ何もできないでしょう。

12

太陽・風力など自然エネルギーの開発は進めるべきでしょうか。

太陽や風力は、それが機能する…エネルギーペイバックがプラスであり、単なる石油の無駄遣いではないことが前提です。
検証より実験したほうがいいかもしれません、沿岸にある砂漠に大規模な太陽電池と風車、それに太陽電池生産工場・水素製鉄設備・アルミニウム精錬設備・海水淡水化装置など機械だけを持ち込んで、外からは海水とその近くにある鉄・アルミ・珪素など鉱産資源以外何も受け取らずに太陽電池・風車および機械全体を複製できれば、新エネルギーだけで近代文明を維持することはできるという結論になるでしょう。もし石油に由来する何かを受け取ったら必ずバイオエタノール換算でそれ以上の穀物を輸出して返すことが条件…炭素素材として石炭はどうしても必要になるでしょうか?

石油でいい、というのは「温暖化は嘘」かつ「石油は無限」という条件が必要です。どう見ても両方は無理でしょう。
少なくとも百億人が豊かな生活を、豊かになった効果で人口が自然に減るまで続けるのは絶対無理です。
つまり、太陽・風力を進めるには温暖化が嘘かどうかは証明する必要はないわけです。
検証すべきなのは、太陽・風力発電は使えない、石油の無駄遣いにすぎない、という議論だけです。

世界人口を数億まで…近代文明を保てるギリギリに削減するとしたら、石油はどれだけ持つでしょうか。先がないことには変わりないです。
人口を削減してバイオエタノールというのは結構魅力的です。人道を完全に無視すれば、文明と人類の存続だけを考えれば最も確実でしょう。

他の道は?
消費水準を下げ、科学技術も捨てて世界全体を江戸時代化するには…今の人口で大丈夫でしょうか?

他には外洋施肥・宇宙太陽光(軌道エレベーター・月面基地・水星に自己増殖ナノマシン)・核融合・高速増殖炉など技術的な道も考えられますが、今は正直言って科学技術そのものが信頼されていませんね。

11

音楽の「何が希少資源か」は歴史的にどう変遷してきたでしょう。

文字以前の部族世界では、楽譜の概念もなく移動手段も限られたため、曲目自体が即興と伝承された少数しかありません。
演奏手段は歌が中心、楽器は草木・石や土器など生活技術の水準で簡単に作れたものです…確かに金属などを用いる高級品は高価で、王などはそれを訓練されたお抱え演奏家に演奏させていましたが。
音楽を演奏する機会は結構希少だったかもしれません。社会による歌舞音曲禁止圧力がありましたから。
音楽の意義として魔術的なものが大きかったのも特徴でしょうか。

楽譜が発明されて、曲目を伝えることはかなり容易になりましたが本質的には変わらないです。
主な音楽の担い手は貴族お抱え演奏家と吟遊詩人(日本の琵琶法師などを含む広い概念として)と買春宿が東西で共通し、西洋では教会、東洋では村落共同体祭儀もまた重要でした。古代ローマではコンサート型の大衆演奏もあり、江戸時代の日本でも歌舞伎や寄席など大衆芸能が発達しました。
…古代中世の教会音楽がどの楽器を用いたか知らないのが残念。それを言うなら東洋についても中国やインド、イスラムについてはほぼ無知ですし、日本についても大衆的知識なので間違いがあるでしょう。
希少資源は全般としか…というかわかりません。
音楽の意義としては宗教・魔術・娯楽などいろいろ。

産業革命前後、クラシック音楽発達期には楽器製造技術と楽譜印刷が生じ、また西洋で多くの優れた作曲家が生まれました。
それによって曲目が非常に増え、また芸術性が評価されるようになりました。訓練を受けた演奏家がきちんと製造された楽器を用い、楽譜の通りに演奏することで以前より多くの人が水準の高い音楽を楽しめるようにもなりました。その「再現可能性」は近代科学技術の本質でもありますね。
逆にそのことによって、素人が演奏するには敷居が高いものにもなりました…クラシック音楽は、そこらの竹で作った笛で水準を満たす演奏ができないのです。
特に希少なものは(楽譜の価値が低下して)最新曲目および最上級作曲家、(素人手製でない水準を満たす)楽器、天才水準の演奏家、学習機会です。
西洋では教会音楽もありますが、貴族のお抱え演奏家の重要性が高かったと思われます。
また西洋では軍楽隊も重要な要素だったと思われますが、詳しくはわかりません。
音楽の意義としては貴族の娯楽が大きかったと思われます。担い手として貴族によるお抱えとパトロネージ、貴族子女に対する家庭教師も重要でした。

それがある時期、クラシックコンサートができました。
楽器・楽譜の量産性・教授技術も高まりました。
またより多くの人が、金を払って音楽を聞ける経済力を得ました。
それによって場末の酒場にもピアノがあって専任ピアニストがいる状態になり、コンサートを聞きに行くなど、音楽の担い手が大衆化し、音楽の意義が大衆娯楽・金・有閑階級が演奏を習うこととなりました。
希少なのは…後世から相対的に見て金を払う必要を重視すれば音楽を聴く機会でしょうか。

考えてみれば江戸時代の日本の大都市も、かなりのレベルでそれらの基準を満たしています。
作曲家・曲目数も多く、演奏家も多かったです。
歌舞伎など大衆娯楽も発達し、音楽を教える産業も、同時代の西洋以上に繁盛していました。
ただし時代劇の描写では大衆飲食店・富裕層の家庭や家庭内社交で音楽演奏の習慣がなかったのが大きな差ですか…奢侈禁止圧が強かった?
また寺社、支配的な道徳であった武家儒教が音楽を重視しなかったのも違いかもしれません。考えてみれば儒教には音楽が深く関わる(礼楽)のですが、武士のたしなみに音楽とは聞きません。

ある時期にラジオ・テレビ・レコードというマスコミュニケーションができました。そのできること自体にかなり時間はかかりましたが。
前後して音楽教授理論が整備され、学校システムで音楽の演奏・作曲・楽器製作のどれも教えられるようになりました。皮肉にも後述のように、音楽学校卒業生全員の生活を保障するだけの需要はないのですが。
またジャズなど高度訓練がなくても参加できる音楽もできました。
希少性の高い資源は…やはりレコードのプレスにかなりの金がかかった、というのが後世から見れば相対的に大きいでしょうか。
またヒット曲・ヒット曲を書ける作曲家・演奏家も希少ですが、それは見た目だけで実質的には宣伝広告の時間・費用・場の希少性と考えられそうです。さらにそれは潜在的に、利用大衆の時間(広告検討時間)の希少性にもなっていますが。
あとは超高級楽器も希少性が高いですが、本質的に意味があるか…
同時に水準レベルの作曲・演奏家が莫大になり、かつお抱え生演奏家が貴族・飲食店(買春の有無問わず)などで不要になったために、作曲・演奏家が過大になって社会問題も形成しています。曲目数も凄まじい勢いで増え、逆に言えば希少価値が下がりました。
特にレコードによってヒットした作曲家・演奏家が莫大な金を得ることができるようになりました。

CDやコンピューターが発達し、インターネットができた今、上記のそれぞれに匹敵するかそれ以上の変化が起きています。
技術的には、インターネットの特定のシステムに「全ての曲」を番号をつけて置いておき、インターネット利用者はそれをわずかな電気でダウンロードできるようになったのです。CDの量産費用もレコードとは比較にならないほど下がっています。
また作曲ソフトや楽器なども安価になり、YouTubeなど動画投稿サイトの普及もあって作曲・演奏をやる人の量も爆発的に増え、曲目の過大もとてつもないものになっています。カラオケも無視できない要因です。
莫大な曲を、誰もが追加コストゼロで好きに楽しめることができ、誰でも作曲演奏ができる時代、希少なのは「利用者の時間」だけです。
音楽の意義は、今はまだカネの世界が生きていますが…創造のための創造、アクセス数のための創造も増えています。

時代は変わりました。でも著作権法はレコード時代のままです。
それでいいのでしょうか?
僕はとりあえず、情報はカネと切り離したほうがいいと思います。
欲を言えば「世界全員の最低限の生存」の経済、従来の貨幣経済、無限性を持つ情報経済の三つを切り離すべきです…食料が投機対象になって全人類分の食料があるのに餓死者が出るのは容認できませんし。
情報の世界は、売り上げではなく「世界全体で何回再生されたか」を数え、その再生数に応じた情報経済における報酬を与えるのが一番いいのではないでしょうか。カネを得るのはもう難しいのでは?

あと忘れてはならないのは、まだ誰もがインターネット環境を持っているわけではないことです…ラジオが精一杯の人も、巡回バンドが全ての人も、宗教共同体の歌しかない人も世界全体では膨大です。

ちなみにこの議論、「本」にも使えますね。
全ての本のテキストをコンピューターに入れ、自在に検索し、ネットユーザー全てがわずかな電気だけでダウンロードすることはもう技術的には可能です。

10

僕にとって人間とは何かでは、「唯一宇宙進出ができる生物」というのも重要です。

確かに微生物は宇宙に出ることができるでしょうが、大型動植物を生きたまま別の恒星系に送れる可能性があるのは人類の文明だけです。生物がどう進化してもチタン合金製水素・酸素ロケットは無理です。
また巨大隕石の迎撃ができるのも、SETIが探しているような電波文明を作れるのも人類文明だけです。

そういう《テラナー》としての視点は、アポロの月着陸・月から見た地球の映像で相当広がったはずなのに…どこに行ったのでしょう?

9

歴史には実に多様な切り口があります。

塩・紙・石鹸…あらゆる生活必需品。
家屋・トイレ・風呂・衣服…あらゆる生活システム。
衣服一つだってデザイン・繊維・繊維原料の繊維作物やカイコガ含む家畜・染色技術や資源・皮革・毛皮・金銀糸・装飾金属工芸・準宝石・馬具・武器甲冑との調和・奢侈禁止法…どれほど広いかわかりません。
米・麦・トウモロコシ・ジャガイモ、麻・絹・木綿、牛・羊・豚・貝・タラ…食料、それだけはないあらゆる有用生物。
金・銀・銅・鉄・塩・石炭・石油…多くの金属や鉱産資源。
そして多様な科学技術史。
宗教・性・法・魔術・政治制度…あらゆるシステム。
人口・気候・森林被覆率・農業生産など人間の外と言っていい客観的な切り口。

さらにむしろ地理と言っていい、どの地域にどんな資源があり、どんな衣食住で、どんな言葉を話しどんな歌を歌い…。
各地方の気候・自然。

特に「リアルな歴史ドラマを作る」「歴史のif、特に初期条件の大陸配置が違う状態からの歴史の流れ」「なぜ?」などを考えるにはその総合的な知識が必要になります。

その多様な切り口から見る歴史と、普通に教科書で習う歴史はかなり違う気がします。
教科書の歴史…国名と人命と年号の羅列は、僕にはほんの一面にしか見えません。

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さらにドングリ、トチなどのあくを抜いて食べる技術も面白いかもしれません。
あまりにも手間がかかりますが。

糸をつむぎ織る技術も何も知らないです。

文明崩壊のことを考えるとその手の技術は持っていたいんですよ…そのときにはそんな技術は無駄、むしろ餓死か食人か今から決意しておいたほうがよさそうですが。

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少なくとも体育ではやったことがないのですが、原始的な狩猟技術を子供に教えたら喜ぶのでは?

石器製作、投槍器(編み針に似た棒。槍を投げるときに用いると射程距離が増す)、投石器(スリング。聖書でダビデがゴリアテを倒したことで有名。二本の紐を石を包める布や革でつないだもの)、弓矢…弓道やアーチェリーなど洗練競技化されたものではなく、簡単に作れるもの…など。

狩猟といえば、かくれんぼ、鬼ごっこも本質的に模擬狩猟ですね。

ではなぜもっと模擬狩猟らしい遊びが、かくれんぼや鬼ごっこより上の年代用に一般化されていないのでしょう。
たとえば鬼を追って泥団子を投げつける、水鉄砲で狙撃するというのは飛び道具での狩猟に近いです。
また隠れることも走って逃げることもできる鬼を、ただ触れるだけでなくタックルなどで地面に完全に引きずり倒し、プロレス同様フォール&スリーカウントを目的にしてもいいでしょう。
それらでは鬼の側の精神的な傷が深くなりすぎるでしょうか?

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バーチャルコンソールというシステムがあるようですが、それを利用して「ファミコン水準の新作ゲーム」は作れないでしょうか。
ファミコン水準でできることはすべてやりつくされているでしょうか?
プログラム学校の卒業制作としても意味はあると思います。

バーチャルコンソールだけでなくFC互換機もあります。
そのためにも「新作ファミコンゲーム」の意味はあるのでは?

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ロボット…いや陸上移動手段一般で、最も多様な環境を踏破できる形は?

陸上動物で最も多様な環境を踏破できるのはやはり人間でしょうか?
いや、蛇、ヤギなどきわめて高い踏破能力を持つ動物は多くいます。

でもエネルギー効率・部品点数も考えなければならないでしょう。
また忘れてはならないのは、大きさによっても最適はかなり変わるということです。二乗三乗則や空気抵抗などで、事実上物理法則が違うといってもいいのです。
2cmでは昆虫が高度に適応しており、2mでは脊椎動物が優れていますが、20mでは昆虫の六本足も人間の二本足も機能しないでしょう。

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非正規社員は堅気でしょうか。
契約社員、派遣社員、フルタイムアルバイト、非フルタイムアルバイト、日雇い派遣、家事手伝い、ニート、引きこもり、ホームレスと考えればどこまでが堅気と言えるでしょう。

自営業者はどこまで堅気と言えるでしょうか。

それとも暴力団構成員以外は全員無条件に堅気でしょうか?
堅気の定義は何でしょう。

3

タバコの自動販売機に年齢証明カードが必要となる、というのは、「法は絶対に守らせる」という意志というか流れを感じます…社会、政府、警察のなんにしても。
結局「未成年者は喫煙禁止」というのは、法で禁じられているからという以外にほとんど説得力はないでしょう…本当に危険なら二十歳を過ぎて吸ったって悪いはずです。

一切の違法行為が存在しない社会は理想社会でしょうか?
その流れは、「本当は犯罪が減っているのに犯罪に対する不安をマスコミ・警察利権に煽られている世論」が愚かなのでしょうか?

2

新自由主義による格差は、薬物汚染につながってはいないでしょうか。
今はそのあたりはどうなっているのでしょう?

この格差の本質の一つに、「希望格差」という言葉にあるとおり希望の問題があります。
そして絶望からの逃げ道には宗教と依存症があります。
ナショナリズムもそれかもしれません。
そう、宗教も薬物同様どうなっているか気にするべきですね。

1

今の日本は、「心地よい絶望による統治」下にある気がします。
細川内閣発足のときの希望が、あまりに無残に絶望になりました。

それ以前の、安保闘争や学生運動があまりに徹底的に打ちのめされたことが、深い傷になっているのでしょうか。
ただそうだとしたら、革命か無か、という感じですね。
革命でなくても民主的に少しずつ良くする、とすべきなのに一気に絶望するのは誤りでは?

でもより大きな問題は、細川内閣発足のときの希望が、なぜ迷走の末に小泉元首相に対する期待に収斂し、今は絶望になったか、です。
日本の「システム」はまるで巧妙な寝技や縄術がもがけばもがくほど、抵抗すれば抵抗するほどその力を利用して締め上げる力を強めていくように巧妙な代物だったのでしょうか。
それに挑んだのが元々間違いだったのでしょうか。
『日本 権力構造の謎(ヴォルフレン)』を思い返すとそんな気がします。彼が日本の「システム」を変革すべきだと説き、それを多くの日本人が同意したことが、結局は小泉ブームに風を与えてしまいました。

この強い絶望は権力によって作られたものではないか…いや、陰謀論に走ってはならない、絶望が心地いいからこそ、自分達で作り上げているのではないか、そんな気がします。
でも後者のほうがより絶望は深いです。
誰かに押し込められたならその誰かを倒して抜け出せばいいけれど、自分から選んでいるのではどうしようもない…人間全体を根本的に変えよう、という衝動が間違っていることだけは確かですから全くの絶望です。