キリスト教簡単講座

少し分かりにくい用語が続いているので、一度まとめて順に解説する。
ただし、基本的なことは事実だがキリスト教そのものの解釈としては少し古い神学(バルト)を自分なりに解釈した部分があり、各教会の教義とは微妙に異なる可能性がある。
仏教の解説として、四諦八正道を中心にしたものは現在日本中にある寺とは無関係に近いのと同様、現在の教会との関係はそれほど深くない。
聖書による啓示がキリスト教の本質には違いないが、ここでは無視している聖母マリアや天使、聖人、クリスマスや復活祭、聖餐をはじめとする各教会の歴史、伝統、教義、美術や文学もキリスト教なのだ。

ユダヤ教 律法 聖書 メシアなどの用語
イエスの生涯、教え その後 福音などキリスト教用語

  1. あなたはわたしのほかに、何者をも神としてはならない。
  2. あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
  3. あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。(エホバ{ヤハウエ}、エル、エロヒーム、アドナイ、ありてある者、YHWHなどいろいろあるが基本的にユダヤ教の神に名前はない)
  4. 安息日を覚えて、これを聖とせよ。(ただし、ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没)
  5. あなたの父と母を敬え
  6. あなたは殺してはならない。
  7. あなたは姦淫(悪いエッチ)してはならない。
  8. あなたは盗んではならない。
  9. あなたは隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。

他にも動物を生け贄に捧げるやり方、具体的な刑法や刑事訴訟法、損害賠償、セックスや食物のタブー(近親相姦や同性愛の禁止、豚肉などを食うななど)、穢れの処理(ユダヤ人は特別な食肉処理をしなければならないので、普通にスーパーにおいてある牛肉も食べられない)や祭祀のルール、割礼(男子の包皮を生まれてすぐ切除する。これがなければユダヤ人とは認められない)など非常に広く生活、宗教などを規制している。
「目には目を、歯に歯を」で知られる古代中近東の法体系の影響もかなり受けている。
またイスラム法にも相当な影響を与えている。

以上ざっとユダヤ教周辺の歴史を用語集の形でさらってみた。

イエス時代のイスラエルの政治について少し補足する。

当時、すなわち紀元前後はローマが共和国から帝国になる過渡期である。そのシステムの完成に当たって大陸を結ぶ要地に住み、反抗的であり、ローマ世界中で強い力を持つユダヤ人の扱いはローマにとって頭を抱える問題であった。

ローマは巧妙にも、ユダヤ王家の正当な子孫とは別にヘロデ大王をユダヤの王として立て、その力でかなりの自治と信教の自由を認めつつユダヤを支配した。ヘロデ大王の死後、後継者争いの影響で王国は分裂、かなりの部分がローマの直轄になった。
そしてローマ軍がエルサレム近くに駐屯し、また一種の代官として総督職を置いた。
またエルサレムにある神殿とその指導者である長老たち(サドカイ派)も強い権威、権力を持っていた。
だが民衆の間では不満があり、メシア待望論が強かった。
それは最終的に、イエスの死後ユダヤ戦争という破局につながるのである。

イエスの生涯、教え

イエスの誕生・・・聖母マリアの処女懐胎、厩での誕生などクリスマス神話は皆ある程度知っているだろう。イエス=キリストはキリスト教では紀元とされるが、研究ではその数年前にエルサレム近郊のベツレヘムで生まれた。
イエスは三十歳前後で家族を捨て、まず親戚でもある洗礼者ヨハネの宗教運動に参加する。
洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた(マタイ2-2)」と預言し、多くの人々を水で清め(キリスト教の入信儀式、洗礼)て罪を払い落としていた。近年の研究ではエッセネ派というユダヤ教分派に属していたともいわれる。
そしてイエスはその教団も離れて一人荒野に行き、四十日四十夜の断食をして悪魔の誘惑に勝った。

それから有名な「心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
哀しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイ5-3,4)」
から始まり、「主の祈り」「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい(ルカ6-29、マタイ5-39.40より)」など有名な言葉を含み、偽善的な祈りなどを非難した「山上の垂訓」といわれる説教を行った。
そして病人を治すなど多くの奇跡を行い、定着することなくあちこち回りながらペテロをはじめ十二使徒を選んであちこちにつかわし、広く宣教を行った。

その宣教の旅の中、パリサイ人との対立が起き、拡大した。

律法を言葉通り遵守することをひたすら求めるパリサイ人と、その偽善性を非難し、本当に大事なこと・・・信仰と隣人愛を強調するイエス。
パリサイ人はイエスに殺意を抱き、イエスは死を覚悟、自ら預言しつつわかりやすいたとえで新しい教えを説き続けた。奇跡も起こしたが、それを強調することはせずむしろ隠そうとした。そして自分がメシアなのか、神の子なのかという問いは巧妙にはぐらかし、ごく近い弟子以外には答えなかった。

このパリサイ人との対立に、イエスの教えの重要な本質がある。
パリサイ人はとにかく形を重視した。いかに多く(公衆の前で)神に寄付し、生贄を捧げ、安息日などの律法を守り抜くかがなにより大事であり、救いの道だった。内心は問題ではなく、行動だけが問題だった。
だがイエスはそれを公然と嘲笑した。ただし、決して律法を否定するわけではない(マタイ5-17など)。律法の心を求めたのだ。
まず「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-27,28)」「すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出てくる。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪は全て内部から出てきて、人を汚すのである(マルコ7-21〜23)」と内心の罪、偽善を厳しく非難した。
そして「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これが一番大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。(マタイ22-39,40)」と信仰と隣人愛を内面から尽くすことが律法の本質であり、律法の一字一句を守ることが大切なのではなく信仰と隣人愛に尽くせば自然に、まるで平面幾何学の全ての定理がたった五つの公理から導かれるように律法は守られ、その人は救われると主張した。

しかも、イエスが主張する隣人愛は従来の・・・当時の世界の常識とは大きく異なる。
本来のユダヤ教にあった隣人愛とは、同じユダヤ人を指す言葉である。ユダヤ人以外は基本的に人ではない。それは他の民族でも同じであり、基本的に自民族だけが人で他民族は人ではない。
これは重要なので関係聖句全文を引用する。ルカによる福音書第10章29〜37節(改行は筆者)

すると彼は、自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通っていった。同様に、レビ人(ラビ、祭司一族)もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通っていった。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れていって介抱した。
翌日、デナリ(お金)二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。
彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。

サマリヤ人とは古代のユダヤで王国が分裂したことで、正統なユダヤ人からは差別されるようになった人々である。
つまり、異民族であっても何の見返りも期待できなくても、無条件に行う隣人愛こそ本物であるということだ。
また山上の垂訓などでは「敵」さえも隣人として愛し、許すよう命じている。また罪人や当時低く見られていた女性、子供、嫌われている帝国徴税請負人、厳しく差別されていたらい病人(ハンセン氏病患者)も尊重し、同じく隣人として扱った。
この平等で普遍的なメッセージこそキリスト教が世界宗教として広まった一番の力である。

そして基本的には私有財産を放棄し(ただし現代の新しい宗教とは異なり、イエス自身や教団に寄付させるのではなく文字どおり捨てるか貧しいものに施すよう命じた)、イエスに従い神を信じて税務署の抜き打ち調査を待つように天国の到来(福音書では最後の審判のイメージがあるが、他にも様々な意味がある)を待つよう宣教した。

また、政治と宗教は別だと考えていたらしい。イエスの敵は税金をローマ帝国(カイザル)に払うべきかどうかイエスに聞いた。
払うべきといえばローマに反発する庶民の支持を失い、払うべきでないといえば反逆罪で告発、死刑にできる絶体絶命の罠である。
それに対し「これは、だれの肖像、だれの記号なのか」。「カイザルのです」と彼らが答えた。するとイエスは彼らに言われた、「それなら、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい(ルカ20-24〜25)」とイエスは罠をかわした。
ただ、政治と宗教を分離し、内面を重視するイエスの宣教は軍事的な英雄、政治的な独立を求めるメシア信仰とはずれている。
現世にあまり関心を持たず、突然来る破滅と裁き、復活後の救いを待って過ごすことと、一人の英雄が立ち上がってユダヤ人をローマ帝国から解放し、神の王国を築く・・・この二つはまったく違うものだ。
そして、ユダヤ人たちはパリサイ人、サドカイ人を含めて後者、それもダビデ王家の正当な子孫で厳密に律法を守る保守的な英雄を願い、待っていたのである。

最終的にはそのずれによってイエスは神を汚す異端としてエルサレムで捕らえられ、ローマ帝国に対する反逆者としてローマの総督ピラトに引き渡されて十字架の死刑を受けた。その際も、聖書によればピラトはイエスを地上の権力、ローマ帝国の統治には関心を持たない無害な哲学者と理解していたが、扇動された民衆の声に押し切られたということになっている(が、そのくだりはローマ帝国と決定的に対立したくないキリスト教徒の都合で福音書編纂者が書いたものといわれている)。

その後

キリストの逮捕と同時に弟子たちは逃げ、教団は解散して本来ならイエス=キリストの名はユダヤ史の中の、ユダヤ戦争を前にしたメシア運動のエピソードとして歴史に埋もれる運命だった。
現にローマ帝国の公式記録はもちろんユダヤ史で最も重要なヨセフスの本にも、イエス本人の名や活動はろくに記されていない・・・ゆえにイエスは実在しないという説さえあるぐらいだ。

だが、イエスは復活した。またはそう弟子たちが信じ込み、活動を続けた。
前者はキリスト教徒の確信であり、後者は信者でない合理主義者の歴史家の見方だ。
その復活を信じるかどうかがキリスト教を信じるかどうかだ。それについてはそれぞれの判断、いや決断と・・・神の恵みがあるのみだ。

そして復活したイエスはペテロを中心とした使徒たちに会い、間もなく昇天した。

その直後、ペテロたちは特別な霊(聖霊)に憑かれ、教会という共同体を作って奇跡治癒を含めた本格的な活動を始める。
迫害もあったが、当時安全な交通網と豊かな大都市を確保していたローマ帝国のインフラを最大限に活かしてまず世界中のユダヤ人に、そしてユダヤ人以外の全ての人に福音を伝えた。

そして、パウロが教団に加入した。本来彼は正統派のパリサイ人で、深い信仰ゆえキリスト教を迫害していたが、ある日復活したイエスに出会い熱心なキリスト教徒となった。
彼はユダヤ人だがローマ市民権も持ち、ギリシャ語にも堪能で名文の手紙を多数遺している。またユダヤ教とギリシャ哲学の深い知識を持ち、ユダヤのローカルな世界とローマのグローバルな世界の両方を理解していた。しかもローマ帝国のインフラがあったからこそだが広い地中海周辺を歩きまわって拷問、難船など数々の苦難に耐え抜き、決してひるまず雄弁に福音を述べ伝え、教団を組織した鉄の心身の持ち主だった。
そして、教義においても天才だった。彼がいなければキリスト教はユダヤ教の分派として歴史に埋もれていた可能性が高い。

パウロはまず、これはペテロもその方向に動いていたが福音の宣教をユダヤ人だけのためからあらゆる民族に向けるよう、方向転換をした。
彼はイエスの律法批判を推し進め、割礼などユダヤ人の根本的な儀礼すらキリスト教団には必要ないとして偶像崇拝などの禁止のみを定めた。これによって他民族を取り込んで世界宗教の道を歩み出し、そして結果的にはユダヤ人と袂を分かつことになる。

そして、イエスの復活を意味付けたのもパウロである。
単に死人が復活した、ということがパウロによって、人間の全ての罪の許し、死の終わりという新しい希望となったのだ。

上述の、イエスが人の内心の悪さえ許さなかった事を思い出してみよう。
「だれでも、情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ5-28)」この新しい律法を守れる男などいるだろうか。女性も、いかなる性も同じだ。他の罪も同じ、殺してやりたいと思っただけで殺人を犯したと同じ、人のものを欲しいと思っただけで盗んだと同じなのだ。
そう、だれも許されないのだ。だれも律法を本当に守ることなどできないのだ。だれもが死刑に値する罪を犯しているのだ。
そして、仮にできるだけ律法を守り、祈り、いいことをし続けたとしよう。生涯悪いことを思わなかったとしよう。でもそれはあくまで天国に行く、救われるためだ。わかりやすく言うと閻魔大王相手の内申点稼ぎでしかない。これほどの偽善はあるだろうか。それが許されるはずがない。
また、どんなに善人であろうと善行を積もうと、原罪を負っていることには変わりないのだ。

その絶望からの唯一の救いが、自力ではなく他力・・・神の恵み、啓示としてのイエスの死と復活である。イエスは十字架にかかることで生贄として全ての人の罪を引き受けて代わりに処刑され、そして復活した。
それによって全ての人間は罪から救われたのである。「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである(ロマ6-6)」。もう人はみじめな罪の奴隷ではなく、光り輝く霊の体をもつイエス=キリストの体の一部(肢体)なのである。
なお、信者がイエスの復活にあずかる象徴が教会の礼拝で行われる聖餐(パンとワインを配り、イエスの肉、血と信じて食べ、飲む儀式)である。
その救いは決して律法を守った報酬ではなく、神の恵みである。買ったり勝ち取ったりしたものではなく、何の資格もないのにもらったものである。
だから、もう罪から救われたのだから一度死んだと思って迷い恐れることなくこれまでの罪の生活を悔い改め、神と神の子イエスに感謝し、イエスの一部として教会に参加し、どんな迫害を受けても福音を伝え、隣人愛を実行すべきだ。
何をやっても偽善、というのは気にしなくていい。その罪は神が許している。とにかくできるだけ祈り、隣人愛に励めばいいのだ。それは神の新しい、そして変わらない命令である。
そして、これはメシア信仰の意味を見事にひっくり返してもいる。本来の、独立のための政治軍事的英雄としてのメシア像ではなく、人間の魂を救うより大きな救世主、神の子としてのイエス像を創造、メシア信仰を見事に転換して利用し、乗り越えたのだ。

これまでの、律法を行動として守れというのは神との古い契約(旧約)である。それはそれで間違っていないが、それだけでは救いには至らないし偽善に陥る。また、なにより人間が自分の意志、行動で救われるという傲慢でもある。
だが、イエスはその生、活動、そして十字架と復活という生涯全体で新しい契約(新約)を啓示した。それは心の中を重視し、人間の自力ではどうにもならない罪からの他力による許し、神による救いを宣言する代わりに信仰と隣人愛を律法の本質として命ずるものだ。
これがパウロが創りあげたキリスト教の本質である。

その後キリスト教はペテロ、パウロ共に殉教するなど迫害を受け、屈せずついにローマ帝国の国教となり、東西に分裂して正教会と教皇制のカトリックが確立し、カトリックに対する反論と聖書回帰からプロテスタントが生まれて・・・詳しくは触れないが、現在重要な教派としてバチカンのローマ教皇を中心にしてイタリア、フランス、スペイン、ドイツ、中南米諸国を中心に広がるカトリック、アメリカ、北欧などを中心に広まりWASP(アングロサクソンプロテスタント)として強い影響力をもつプロテスタント、東欧からロシアに広がっているギリシャまたはロシア正教、そしてイギリスの国教会がある。
それぞれの歴史、教義について詳しくは各自調べるとよい。

参考文献
「シリーズ世界の宗教 ユダヤ教」M.モリスン、S.F.ブラウン著、青土社
「キリスト教神学概論」佐藤敏夫著、新教出版社

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