瓜生がとある難民キャンプの医療テントで地面に寝転び、目覚めたのはリムルダールの宿だった。  すぐにリムルダールだと思い出した。ケンジャニンニク入り熊肉鍋の臭いは、十数年の時を経ても忘れられない。狭い宿の一室、隅々にまで染みついている。  いや、彼がこのアレフガルドのある世界を去ってから、二つの年月がある。一つは、彼の故郷〈現実世界〉での年月。受験勉強をやり直し、医学部に再入学し卒業、研修を経て独立し、NGOに入って仕事に慣れるまでの、およそ十年。〈現実世界〉では彼は三十すぎだ。  だが、その歳月に、幾度も彼は異界を旅している。時には短期間、何年もかける冒険もあった。  睡眠不足がたまっていたのでスポーツドリンクを飲んで二度寝し、起き出したのは夕方近く。  祭りだった。  体を濡れタオルで拭って着替え、装填済みのサイガブルパップを革ポンチョの下に隠して宿の廊下に出、少し周囲の騒ぎに耳を傾ける。 (リムルダールなのは間違いない、他にこんな臭いはない。でもどうしてこんな騒ぎ? あとここは、いつだ?)  窓から見える広場では、ばかでかい土鍋が強烈なニンニク臭を放ち、泡を上げている。瓜生の口につばがわく。  祭りの光景は、前も見た。ゾーマを倒して光を取り戻し、各地を巡っていた時に。 「さすが勇者ロトの子孫!」 「ローラ姫を取り戻し、竜王を倒した勇者!」 「勇者ロトを称えよ!伝説はよみがえった!」 「新たな勇者に!」  誰かの声に、万歳の声が唱和する。 (ロト、ミカエラの子孫?それとも、ゾーマが出る前、その前の伝説?)  瓜生の故郷とは違い、コンビニで新聞の日付を見るという手も使えない。今の王様は何世ですか、と聞くのも、自分が異人だと言うようなものだ。 (ま、考えるよりうろつくか)  と、まずカウンターに向かって、麻袋に入れた五キロほどの塩、文様を潰した100gの金地金を渡す。わざわざビニール袋から麻袋に移したのだ。 「宿代だ。ついでに両替も頼む。楽しい祭りだな」 「とろけてないし砂が混じってない塩だ、ガライの海焼き塩みたいだな。この金も、重くて」塩をなめ、金地金を噛む。「柔らかい。いいな、二百ゴールドにはなるよ。宿代引いて百七十だ」  と小袋が差し出される。  瓜生の世界で標準の金地金純度はこの文明レベルでは絶対に不可能だが、気がつくはずもない。 「ちょっと見せてみな」と近くにいた老人が、瓜生の渡した塩をなめてみる。「わしはな、昔々、竜王が暴れ出す、前にも手広く商売しとった」  ため息をつき、ぬるいビールをあおり、瓜生にも渡す。  一口飲んで、(酒がぬるい、ということはヒャド系呪文を使える人がいないのか)瓜生が寝ぼけ頭を働かせる。 「海や旅の扉が封じられる前、ルプガナの岩塩を売ってた。ありゃあいい塩だった……紅くって、ごつごつして、紅水晶みたいにきれいだった。ただ削ってランプにしただけでも高く売れた」老人が微笑む。 「アレフガルドには岩塩鉱がないからな」瓜生が軽く言う。 「塩商人なら知ってるはずだが、この塩、どこで手に入れたのかね?」老人の目が輝く。商魂は衰えていないようだ。 「サマンオサ」チリ産岩塩と、捨てたビニール袋には書いてあった。この言葉でどんな反応をするか、じっと目を見る。老人は知らないようだ。 「聞いたことがない土地だな。でも、どこかの伝説で聞いたことがあるようだ」 「あちこち回ってるからね」と、適当に話を合わせ、そこで腹が鳴った。 「おっと、腹の虫が催促してるな。せっかくの祭り鍋だ、たっぷり喰おう」と、老商人や数人の若いのとともに、広場の中央にいって熱々の肉と細長い草が煮えた椀を受けとった。 「久々だな」すすると、体の中から熱くなる。誰の口からも、もう鼻がバカになるほど強烈な臭いがでている。 「どこから逃げてきたんだい?まさかドムドーラ?」 「あちこちから逃げてくる人が多いからね、でもそれもおしまいさ。勇者様が竜王を倒したんだから」  楽しげな笑顔。ゾーマを倒した時と同じ。  瓜生はぼろを出さないようあまり口をきかず、周囲の会話を聞いていた。 「ずっと信じていたよ。ゾーマにやられ闇の中にいた時みたいに、勇者様が闇を打ち払ってくれる、精霊ルビス様の創ったアレフガルドの大地に、昇らぬ日はないって」  瓜生には待望の情報だった。  一休みしていた吟遊詩人が、また歌い出す。そのメロディーが、ビートルズの『ヘイ・ジュード』と、ガブリエラの自分では気づかない鼻歌……ネクロゴンドを復興する時に難民が歌うのを聞いて、テドンの民謡とわかった旋律をつなげたものだと瓜生は気がついた。 『永遠に続く闇 光があったことを知らぬ子 絶望と悪夢 大魔王の家畜 闇の空からきたりし流星 その名ミカエル 囚われの精霊ルビスを助け 虹の橋を魔の島に架け 大魔王ゾーマに剣を突き立て 空に光を蘇らせる ミカエルに三人の仲間あり 一人 岩をも抜く大力 悲しみをぬぐう聖者ラファエル 一人 傾城の笑みに無限の魔力 麗しき賢者ガブリエラ 一人 影のごとく力を隠し 計り知れぬものウリエル いずこより来たり いずこに消えるか 宴の夜に姿を消し その姿誰も見ることなし 三つの神武装は王家に戻り 光の玉とロトの印も 勇者ロトの称号 永遠に語り継ぐ』  静かに歌が歌い終わる。何人かが合わせて歌っている、知られた歌のようだ。  瓜生は頭を抱えたかったが、まあ演技を続けていた。 「そしてゾーマが斃れて百余年、悪の化身竜王が……」  吟遊詩人が即興で歌を作ろうと苦慮する。 「ロトの武具と光の玉 ロトの印とローラ姫 すべてを奪い軍を滅ぼし 砂漠の都を焼き尽くす またも失われた希望 残るはロトの伝説のみ ロトの子孫を名乗る少年 ミカエルの肖像面影在り 伝説をしのぐ剣技と魔法 竜を斬り美姫を救う ガライの墓の底を極め 廃墟に眠るロトの鎧 沼地に隠れたロトの印 先祖の通った虹を渡り 竜王にロトの剣を突き立て 光の玉を取り戻す」  即興の曲、韻が崩れるのを、なんとか取り戻して歌にする。誰もが励ますように喝采していた。 「アレフガルドの王座を譲ると 王は自ら玉座を降りて 少年笑って首を振り わたしの治める国があるならば わたし自身で探したいのです」  喝采とどよめきが上がる。 「ローラ姫は救い主たる 少年の腕に飛びこんで どこへでもともに旅立つと 王城挙って結婚式……」  なかばしどろもどろに、大ニュースを歌にした吟遊詩人が一礼する。  喝采の嵐とともに、硬貨が飛んだ。  瓜生は両替した硬貨を一つ詩人に投げて、椀の汁を飲み干した。  それから、懐かしいリムルダールの街を歩く。前に訪れた時同様、破壊と荒廃の跡もある。  教会を訪ねると、そこは祭りの本部でもあり、老人のたまり場ともなっていた。  神父に話を聞こう、と金地金を手に歩いていると、隅で眠っていた、生きていることが信じられぬほど老いた老人が突然目覚め、瓜生を見つめる。 「ウリエル!勇者ロトの子孫、勇者アロンドを助けよ!禁じられた大陸を解放し、王国の礎を築け!それがこのたびの、そなたの使命じゃ!」あとはそのまま、わけのわからない言葉をつぶやき、涎を流すのみだ。 「昔は優れた予言医だったのだが」痛ましげに、一人の男がボロ毛布を直してやる。 「でも、勇者アロンド様に、なにか忠告してたよ。役に立ったんじゃないの?」別の男が聞く。 「こんなしなびたじじいに、なにができるんだよ」と、通りかかった女がいい、広場の鍋のために熊肉を運び出した。  瓜生は神父に金地金を寄付して離れ、軽く息をついて振るまい酒を干す。  湖を隔てた対岸には難民キャンプの炊煙も上がっていた。 「ちょっと見てみるか」と、ぶらりと町を出て橋を渡り、かつて〈上の世界〉に戻る道を聞いた、世界樹の若木があった森に向かう。  だが、難民キャンプとなっていたそこで、見覚えのあった森は根こそぎ切り倒され、薪と焼かれていた。  多くの人は街で宴に参加していて、ここに残っているのは小さい子供や病人、それを看ている人ばかりだ。  瓜生は深くため息をつく。難民キャンプ周辺の森林破壊と希少種絶滅は、最近の故郷での仕事でも散々見ているし、能力がばれない程度に軽減してはいるが。 (世界樹を大切に育て守っていれば、アレフガルドの人々にとっても強力な守護神になっていたものを……)  だが、よく見れば、世界樹の目印にもなっていた大岩には深い竜の爪痕と、炎の跡もある。岩の沸点を超える高温は、竜の口からでなければそうは出ない。 (その竜王とやらも、だからこそ先に破壊したんだろう)  悪臭が、テントからあふれ出す虫たちが、その中の惨状を確信させる。昨日までも、彼はその中にいたのだ。  すぐにでも昨晩までと同じく治療を始めたい気持ちと、使命が胸の内で争う。始めたらきりがない。使命がある。あの老人のうわごとは、魔力の流れから真の予言だとわかっていた。  だが、ここでも自分の手があれば助かる患者は、彼がいなければ死ぬ患者は何十人もいる。前回と違って無免許医でもない。  彼は一人しかいないのだ。  一瞬目を閉じ、決断する。一度岩陰でいくつか準備をするとキャンプに戻り、大きく息を吸い、腹から大声で叫んだ。 「旅の僧侶だ。回復呪文が間に合っていない人は呼んでくれ!」  テントから、自らも片脚を失っている人が顔を出す。 「少しでも、呪文が使えるのか?」  絶望と希望が入り混じった表情。祭りの明るさと、多くの死を見送った目。  ゾーマを倒した直後、いやというほど見た目。  瓜生は頷き、呪文を使えることを示す手ぶりをすると、慣れたおぞましい臭いが充満するテントに飛びこんだ。  二週間放置した肥溜めに鼻先をつけて嗅ぐよりひどい。  昨日までも、同じ臭いを嗅いでいた。平気だ、と言い聞かせても、地面もわずかな寝台の床も、毛布も天幕の壁も天井もくまなく埋め尽くし、這い回り、飛びまわる膨大な虫。  現代の地球では、少なくとも瓜生の周囲では、虫はDDTの一撃で消え失せる。彼の人命重視法律軽視は同僚や上司に評判が悪いが、彼は常に無視する。  顔にとまり全身に這いのぼる虫を、床のわずかな窪みに溜まる汚物と膿で汚れた毛布の強烈な臭いを心から切り離す。 「ベホマラー!」  瓜生が唱えた呪文が、一瞬で百人近い怪我人のあちらこちらを輝かせる。 「ああっ」  みるみるうちに、全員の傷が癒えていく。痛みのうめきが驚きの声に、死を前にした微息が力強い悲鳴に変わる。 「ま、まさか、ベホマラーだって」老いた難民が呆然とした。 「ベ、ホ……マラー?」 「集団を全員癒す魔法、もうこのアレフガルドでは失われた、はるか昔の伝説じゃ」  恐怖に近い驚きの目が、虫どもの隙間から瓜生を見つめる。 「さて、これで動ける者は手伝ってくれ。難民キャンプ自体を移動させる、汚物を虫が運び回っていたら助かる者も助からない。虫を一掃した新しいキャンプで、全員清潔な布と寝台、それに十分な栄養と入浴。それだけで十人に九は助かる!抵抗は無意味だ、逆らう者は殺す」  叫ぶと別の呪文を唱える。奇妙な音から、突然テントがはためき、大きくめくれる。  外の、もはや木も切り倒された禿げ山に、静かな空から突然烈しい風が吹き始めている。  瞬時に、目の前が見えなくなる。どんどん強くなる風が、土埃を巻きこみ、テントの布を、膨大な虫どもを吸い上げていく。  奇妙に、烈しい力を受けつつも人々は動かない。汚れきった病人テント以外のテントは小揺るぎもしない。  そして風が一点に集中し、ついに轟音が別のなにかになり……誰もが目を閉じた、次の瞬間すべての風が消える。  瓜生が指さす、誰の目にも目立っていた焼け溶けた巨岩が砕けあとかたもない。無論バギクロスの威力に、遠隔操作爆薬の威力を加えてもいる。  瓜生は無言で近くの荷車を示す。テント用大型防水布、そして清潔な毛布が山積みになっていた。  圧倒され怯えた人々が、おずおずと動き出す。  そして湖岸にポンプを置いて浄水フィルターつきの吸水筒を水に沈め、別のテントを鉄パイプの支柱を組んで作り、エンジンのスターターを入れてボイラーも点火する。  それから別のエンジンを動かすと、あっというまに家庭で子供と遊ぶビニールプールを大きくしたような浴槽がふくらみ、それに熱い湯が満たされていく。  湯に塩素剤をぶちこみ、石鹸とタオルを用意し、目をつけてあった窪地に排水パイプを導き、 「さ、とっとと全員体を洗え。体が汚れてるってことは、それだけで他人を傷つけてると同じなんだ!」  大呪文に衝撃を受けた患者たちは、幽鬼のように従う。実は精神操作の呪文も軽く交えているが、そのことは間違っても言えない。  脱衣とは別にした服を着るところに大量の布とDDTを用意し、動ける者を一人一人、石鹸とシャワーの使い方を示しながら洗ってやり、浴槽に浸らせる。  ひどい傷跡と潰瘍、皮膚病と寄生虫に、心の中で悲鳴を上げながら。  マイラの近くからきた難民が、久々の風呂に嬉しい悲鳴を上げた。 「やりかたがわかって元気なら、他の誰かの面倒を見てやれ」というと、ベホマラーでもまだ動けない病人たちの所に走る。  一人一人、丁寧に清拭剃毛して寄生虫を除去、衣類も交換して、治癒呪文では治らない病気の治療をしなければならない。  ほとんどは栄養失調や伝染病、抗生物質・ビタミン・高カロリー輸液で回復するが、別の病気も当然あるし、ある意味どうにもならないのがショックによる精神疾患……  手にトリアージタグを出し、歯を食いしばる。これからやるのは、生命の選別、多数の殺人だ……資材は無制限でも、彼は一人しかいないのだ。  彼の能力は、量は事実上無限だ。冷凍全血と抗生物質、ついでにメイプルリーフ金貨とB2爆撃機を海水面を上げ、重力崩壊して超新星爆発を起こすまで積むこともできる。  木星には地球の、人類に掘れる浅い表面の、採算が取れる鉱山の合計などよりはるかに膨大な金原子がある。地球の、人類には手が届かないマントルや核にも、もちろん火星にも水星にもそれなりにある。太陽にも、プラズマ化しているがある。  銀河ひとつに千億の星、観測可能宇宙だけで千億の銀河、観測可能範囲の外にもインフレーションでその千億倍のさらに千億倍の……。その一つ一つの星に、木星ぐらいの惑星が二つか三つ、地球型はもっとたくさんある。恒星系でない放浪する岩、ガスや氷の塊、薄く広がる塵もたくさんある。その原子すべてが、《彼の物》だ。  どこの世界にいても、通販のカタログや軍の補給表を思い出し、数量を指定するだけで、宇宙全体からランダムに各元素の原子が彼の手元に移動し一つ一つ積み重なり、指定した「品」の原子単位のコピーになる。  だから彼が銃を出しても、別に地球のどこかの倉庫から消えて、管理担当者が軍法会議にかけられることはない。地球にある鉄原子が選ばれる可能性は、「コップ一杯の水分子に印をつけ、海全体に混ぜてまたコップ一杯汲めば印つきが何十個も入っている」アボガドロ数にもかかわらず無視できる。  彼が出した物なら消せる。また魔法を覚えてからは事前に整備した車やベルトリンク済みの弾薬、装填済みの弾倉を、魔法の助けで創った別の時のない空間に整理し、瞬時に出してすぐ使うこともできる。  それでも、あくまで彼は一人しかいない。ゾーマとは違い、瞬時に知識を他人の頭に押しこむこともできない。モシャスでゾーマの姿と力を一時的に借りることはできても、その状態では瓜生/ゾーマはまったく制御できず、敵を倒してすぐ戻るのが精一杯だ。  まずトリアージ、同時にブドウ糖とビタミンを飲ませ、全身を清潔にする。最小限の診察で重篤患者は点滴、それも最初の数人だけやって、あとは動ける人に見本を見せてやらせる。  今日はそれで精いっぱい、明日から二日程度で赤の緊急治療、本格的な診断はそれから、骨折の整復や義手義足などはさらにその後……同時に難民たちに、薪を節約できる土かまどの作り方も教えなければ……  リムルダールの街からの使いが来たのは翌日、さらにラダトームからの使いは十三日後だった。  リムルダールからは、まず何をやっているのか程度だった。  居丈高に怒鳴りつける使者に、「死にかけてる人を助けてるだけだ」と答える。手も止めない。  剣を抜き兵に命じて槍を向ける、そこにマホトーンで呪文を封じつつ、フラッシュライトで目をくらませながらショットガンのフルオートで非致死性ゴム弾をばらまき、「それどころじゃない、敗血病が八人、腹膜炎二人に帝王切開一人、どれも緊急なんだ!」が瓜生のいつもの返事。  比較的元気で好奇心のある若者を連れて、点滴や包帯の交換、清拭を実演で教えつつ簡易ベッドを回る。中に一人僧侶の卵がいたがホイミが使える程度だったので、やや無理にベホイミとベホマラー、さらにニフラムを変型した殺菌消毒呪文と、ザメハを変型したショック状態の治癒呪文を即席で教えた。  教えられた人が教えれば、倍々ゲームが始まる。  簡易ベッドやシーツが売り払われていれば補充する。驚きもしない、難民キャンプでも年中あることだ。  手を動かしながら、やっと起き上がった使者に1kgの金地金を二つ放り、 「一つはお前のでいい、もう一つを一番上に渡せ。その人が直接こっちに来い、手が離せない。こっちの人々も忘れてはいないとアピールするのは、そっちにも得なはずだと伝えろ」  十年は軽く暮らせる、ひと財産に使者は圧倒され、そのまま立ち去った。    数日後。なんとかそこの数百人全員の診察を終え、赤の緊急手術が終わった頃に、一人の老人がキャンプを訪れた。  水はやや遠い山から塩ビパイプで引き、飲み水は一度沸かしている。汚水は一度、波打ち際を掘り下げた浅い池に流す。いやな匂いはあるが、水草を植えて魚を多めに入れたので虫は少ない。  必要な木材は近いところから蚕食するのではなく、山の斜面を登る帯状の伐採域を定めて帯と帯の間の森を保ち、枝葉で道を作って引きずり下ろすよう強いられている。また土・石・ぼろ布などでかまどを作る技術も教え、それが乾くまでと鋳鉄製の薪ストーブも与えたので、かなり薪は節約できている。 「あなたは、一体」老人は、手も止めず腐りかけた傷口の手術をしている瓜生に、臭いに顔をしかめながら話しかけた。 「死にかけ、助けられる人は助ける、それだけです」言いながら、うごめくウジごと腐敗部を軽く覆う。  ウジに死んだ組織や細菌を食わせるのは、特に先端医療機材を手に入れにくい場では有用である。自分はいつ去ることになるかわからない以上、できるだけその場で手に入る物でできる医療を、助手たちに学ばせるしかない。  血管を結紮して輸血パックを点滴につなぎ、ベホイミをかけて次の患者に移る。 「ラリホーの応用は覚えたな?」そういってまぶたに、木でできた小さな鉤を引っかけて目を引き開け、気管に管を入れて呼吸を確認、僧侶の卵にうなずきかける。「ここを圧迫して診断する。だが虫垂炎は紛らわしい病気だ、今の君たちは、実際に開かない限り確定診断はできない。開いたら広く患部を見て、別の病があると思って」  手早く露出させた腹の周辺を剃毛、消毒。すぐさま恐ろしく鋭いメスで一気に切り開いた。 「さて、どのようなお話でしょう?」飢餓でほとんどない脂肪層、筋膜と切り開きながら、老人に目も向けず話しかける。 「……何が、欲しいのじゃ」敵意、迫力のある声。年齢以上の経験と、悲しみと疲れはあった。  瓜生には、その直截な言葉はむしろ嬉しかった。バカではない、ということだ。 「助けられる人を助けるだけです。行動のみで判断して下さい」  溜まる静脈血を脱脂綿で吸わせ、木でできた器具で切開部を押さえる。自分が助けた人に石を投げられる覚悟は、いつだってできている。 「このあたりにはかなり太い血管がある。先端の丸いハサミを使うほうがいい場合もある」と、助手に告げつつ傷口を開き、腸をおおう白い膜を切り裂く。 「この組織は丈夫で、しかも脂肪が多い。ただ鋭い刃ではすぐなまる。馬針のように小さく鋭い鎌を多数、または柄が細長いハサミを作らせるんだ。ガラスの破片に柄をつけてもいい」と、オルファのフックカッターの替刃とハサミを使い、「鋭い刃で少しずつ切るのと違い、ハサミや鎌で大きく切ると血管を切る可能性も高い。常に大量出血を前提に、即座に止血できるよう。自分の手を傷つけるな。血を」赤い動脈血、周囲に手早く曲がった針を刺し、糸を引いて締めつける。助手があわてながら、脱脂綿を入れて血を吸う。 「開いたらすぐこの呪文、手を動かしながらできるように」と、呪文を唱えながら、もう腫れ上がった虫垂を結紮し、鉗子で押さえてハサミで切断、そのための小さな箱に入れる。「これもあとで検査する、誰の何なのか明記しろ」  多彩で鮮やかな色、黄色い脂肪に覆われた内臓を一つ一つ、目で点検し、助手に見せる。 「腸捻転や閉塞はない。腹膜炎はない。癌だとしたらこのリンパ節が腫れている、必ず確認しろ。幸い今回は大丈夫だ。大血管は必ず二重結紮して切断、傷を閉じる時に縫い継ぎ、少ない魔力で一点集中したホイミ」言いながら、やる。「糸に目印を忘れるな、動脈と静脈を間違えてつなぐと危険だ。目印のない血管は原則つなぐな。動物の腸から取った糸を使えば、そのままでいい。植物の糸なら治癒呪文を使って、必ず抜くこと。この呪文も覚えるんだ、ニフラムの変型で、感染症を元から断つ」  呪文を唱え、血管を結び合わせて腸の位置を整え、生理食塩水の湯冷ましで洗浄し、傷口を縫い合わせてホイミで閉じる。 「ここをきちんと閉じなければ、あとでヘルニアになる。おれがいなければ輸血は困難だが、煮沸した食塩水の注射や、補水液の経口投与でも生存率は高まる。経口液にはシェラム果汁・甘酒か蜂蜜・にがりを加えろ。ラリホーが覚める徴候、この」と、小さな木の鉤でまぶたを引っかけ開けてある右目を示す、「眼球が上下に激しく動いたら気管に入れた皮筒を抜き、まぶた止めを取る。タイミングが狂うと患者は苦痛でパニックになり、自らを傷つける。さて」  と、老人を振り返り、一口水を飲む。若すぎる僧侶の卵が、疲れてへたりこんだ。 「あなたの寄付で、流れ者の僧侶が雇われた。としておけばいいでしょう。必要な物資は私が出しますが、すべてあなたが出したことにして下さい」  手をウォッカで洗いながらの瓜生の言葉に、老人が目を見張る。 「邪魔しないでくれれば、それで充分です。難民でない人でも、病人がいたらこちらに運んでください。学びたい医者や僧侶、魔法使いがいれば、誰でもどうぞ。実地で働いてもらいます」  それだけ言い終え、大きく息をつく。疲労を振り捨てて、両腕にもウォッカをかけながら話し、カルテをちらりと見る。 「私が伝える衛生・医療の技術や呪文は、今後とも有用なはずです。原資となるだけの金銀は出しますので、学んだ助手たちを雇って多くの人に教えさせ、それで儲けて下さい。欲があるのならば。  誰にでも欲はある、はずですが、欲と理性を兼ね備えた人は少ない……欲がなく理性だけの連中が一番危険です、伝統や道徳を人命より重視する連中」  瓜生の目を、老人は直視できなかった。 「だ、だが」 「わかっています。一人の人にできることに、限度があることは。できる限りでいい、不可能は求めません。一段落したら、消えますよ……誰かが、技術の断片だけでも伝え広めてくれれば、それで死ぬはずの人が一人でも助かれば」  そう言って次の患者の胸を聴診器で診、すばやく決断して麻酔をかけ、胸を大きく切り開いて溺れている肺と止まりかけた心臓を丸ごと切り取り、空のまま軽く閉じてベホマ、点滴に注射を入れて、またすぐ次の患者。  何人か、手の施しようのない患者……救命に大規模な設備が必要な患者、救命できるが二十時間以上瓜生の手術が必要な患者に、心を切り離してモルヒネを投与する。  ラダトームからの使者は、内容皆無の口上の半分も聞かず、ただ怒鳴りつけた。  数日後、一人の少年が、手伝いに加わった。彼のそばにいた美しい少女がお付きの人々と共にリムルダールの街に向かい、祭りに加わっているようだ。  瓜生は一目見て誰だかわかったが、まったく構わずに使える呪文を聞く。 「ベホイミまで使えるのか」と、遠慮なく仕事を押しつけ、そして瓜生自身には使えないベホマズンの呪文も伝える。  また数日が瞬く間に過ぎ、ベホマズンの威力もあってリムルダール周辺の病人に目処がついた。そのときに、瓜生は彼をあらためて、見る。  顔立ちからミカエラの子孫であることは一目で見てとれるが、むしろミカエラの母、ネクロゴンド王女エオドウナの鼻筋と、アリアハン王家の骨太な眉。  何よりの証拠が、背に負われた、古びたAK-74。百何十年前、この世界から去る時ガブリエラに預けたうちの一挺。  かたわらの少女は、まさしくラダトーム王家の純粋培養。つんとした鼻と大きい目、少年たちが思い浮かべる「姫」の像そのまま、薄絹の印象をただよわせ、少年に寄りそっている。 「あなたは」  初対面のように、まっすぐに瓜生の目を見る。ミカエラの強い瞳。 「ミカエラの子孫、ですね」瓜生が断定した。「オルテガとネクロゴンド王家、そしてラファエルより伝わるアリアハン王家の血筋、見ればわかりますし、ベホマズンが使えたことも証です。見せていただけますか、アブトマット・カラシニコヴァを」  勇者が、左手で抜けるよう銃剣に手をかけながら右手で差し出す、木と鋼の銃。恐ろしく古く方々が摩耗しているが磨き込まれ、しっかりと油が回っている。銃床は本来のものとは別の、年輪のない木材だ。  弾倉は鉄。ベークライトでは、百年持たない。  瓜生は白衣を脱いで地面に広げ、銃を受けとって、銃口を安全な方向に向けて弾倉を外し、ボルトを引いて薬室が空なのを確かめ、レシーバーを開けると中を点検した。 「よく整備されています。元々AKは長寿命ですが、これほどとは」と、へたりかけていたバネと、銃剣格闘のせいか曲がりライフリングが摩耗していた銃身を、手に出現させては交換し再組み立て、5.45mm口径を示す銃床の溝を指でなぞり新しいベークライト弾倉をはめて返した。 「あ、あなたは」 「瓜生」  その一言とともに、奇妙な紋章……メイプルリーフにAKと注射器を交差した図案を刻んだバッジを胸につける。勇者は大きく目を見開いた。 「予言通り、時間を超えていらしたのですね。わが先祖、勇者ロトとともに大魔王ゾーマを倒した、上の世とも違う異界より来た……ウリエル」  最後の名には、強い畏敬の念がこもる。  瓜生はうなずき、姫を見る。 「わが妻、ローラ」と、少年が慣れぬ儀礼で紹介する。 「お初にお目にかかります」瓜生が、アレフガルドの宮廷儀礼で礼をする。 「かなり古い儀礼よの」ついていた老女が眉をひそめた。 「憶えたのは百年前で、それも長い滞在ではありませんでした。ご無礼を」 「なぜ、もっと早くいらしてくださらなかった。もしあなたがいれば、竜王など……」勇者の目が厳しくなる。 「私がいつどこに行くかは、私に制御できることではないのです。申し訳ない」瓜生がそれだけ言い、目を伏せる。 「まあ、過去をとやかく言うより、今できることを」その笑顔には、オルテガの大らかさがあった。 「ラファエルがよく、そう言っていました」 「そう、伝え聞いています。ラダトームにも、病み傷ついた、滅ぼされた村や町から逃れた民は多くいます。お力をお願いできますか?」少年の、必死の目。 「もう少し、こちらの目処をつけてからですね。きりがないのは、わかっていますが……まあレッドは大方終わっています、これからは金持ちの重病人を治し、その報酬として私から学んだ助手たちに仕事を続けさせる、ぐらいですから」  瓜生が自嘲の笑みを洩らす。好きではない仕事だ、十人の重症者より、一人の金持ちの歯痛……長い目でより多くの生命を助けるため、選択の余地はないことだが。 「これが、私の王国を探す道の、始まりとなるでしょうか。大きいことを言ったのはいいですが、どうしていいかわからないのですよ」勇者の穏やかな笑いは、ラファエルによく似ていた。 「こちらにいる間、お仕えします。ただ」瓜生が、歯を食いしばり目に力を入れる。 「虐殺・拷問・強姦・略奪は絶対にお断り、ですよね。伝え聞いています」深くうなずき、微笑む少年に、瓜生はカリスマを感じ衝撃に打ちひしがれる思いをした。  懐かしいラダトーム城。  大きくは岩山と海峡に囲まれ、天然の良港であり地下水脈にも恵まれ、周囲には果樹園と畑が広がる。  対岸に、かつてあった城はない。だが人々は、ゾーマが死んだ直後と同様、憎悪と恐怖をこめてそこを見ていた。  ありったけの旗が掲げられ、酒樽と大鍋が広場に据えられ、祝宴は果てることなく続いている。  疲れた難民たちも、それで食と仕事を得ることも多い。衣類を縫い、食事を作るその下働きは、どれほどいても足りない。  ただ、もちろん、それもできない病み傷ついた人々が、多く死を待っている。  瓜生と、勇者アロンドはその地獄に向かい、まずベホマズンが何千もの怪我人を瞬時に全快させる。  その奇跡に、あらためて難民たちが勇者を見上げ、喜びと崇拝の絶叫を上げた。 「久々に見たが、つくづくものすごい呪文だな。神々のものだ」瓜生は微笑みながら、浴場を整備して清潔な衣類と寝具を用意する。  リムルダールの奇跡は、ルーラを使える人々を通じて、ラダトームにも広まっていた。膨大な、皮膚病や感染症に苦しみ死んでいく人々が、ほんの十数日……輸血やビタミン剤、抗生物質、清潔それ自体の威力で、皮がむけるように健康体になっていった。それもすべて勇者の新たな力として伝えられる。  主客の交換は、自然だった。特にラダトームに着いてからは、瓜生は意識的に心がけた。  昔のことも思い出す。ネクロゴンドの王座を引き受けたミカエラに、それまでの気安い仲間と違う態度を、人前では取らねばならなかった。ガブリエラを真似ていればよかったし、会う暇もろくにないほど測量や病院作りに忙しかったが、寂しかった。  瓜生は勇者アロンド以外とはあまり話さないように、ひたすら手を動かすようにした。  アロンド自身は不思議なほど多くの人を引きつけ、また〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉を名乗る人が時々来る。  有象無象と関わっていると、中にはアロンドを勇者ロトの子孫を騙る偽者呼ばわりする者もいる。だが何よりも、アロンドの頭を飾るこの世界では手に入らない金属の兜と、竜王を倒した証である巨大な牙が、ロト族長の証である。  瓜生にとってその兜は、常に傍らにいた勇者ロトことミカエラの頭を常に守っており、また最後に嬰児もろともその母ミカエラから乳母の手に託されるのを見届けたゆりかごでもある。  また、本物の〈ロトの子孫〉かどうかは簡単にわかる。本物ならAK-74の分解整備をこなせるし、日本語の読み書きができ、何より清潔だ。彼ら……時に女性もいるが、誰もが強力な魔力も持っていて、心強いスタッフとなる。実はアロンドが竜王を討伐する旅でも、〈ロトの子孫〉たちは協力していたのだ。彼を代表と認めて。 〈ロトの民〉もすぐれた武器職人や戦士が多くいる。  アロンドは、瓜生にも徐々に〈ロトの子孫〉の強大で、アレフガルドの人々の間に混じりひそみ隠れていた組織を見せていった。その大半には瓜生の正体は隠したまま、慎重に。  アロンドの周囲の〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉たちは、瓜生の忠告もあって、今は郊外に半ば隠れて暮らし、ひそかに瓜生から受けとった財物の力で難民を助ける活動を始めた。  瓜生とアロンド、そしてローラ姫は、ラダトームの郊外に大きめのテントを張って暮らしはじめた。アロンドは時々、〈ロトの子孫〉の族長としての仕事もしているが、多くは部下にうまく任せている。  ラダトームの城からは、主婦としての訓練を十分受けていないローラ姫を案じ、何人かの女官や料理人が送られている。今はその人たちも受け入れて、ちょっとした宮廷となっている。 「プレハブを建ててもいいのですが、建物を造ったらここに居座ると思われ、追討されかねません。こうしているだけでも反逆同然、早いとこ海外に逃げたいんですけどね」瓜生がアロンドに苦笑する。 「ガブリエラより、何か起きてロトの子孫が勇者として立ち、魔を滅ぼしたらすぐアレフガルドを逃れるよう言い伝えられています。だから、国を私自身で探すと王に言ったのです。そういえば、あなたがたがゾーマを倒した時、難民を助けたりせずすぐ立ち去りましたね?」アロンドの表情には畏敬と誇りがあふれている。 「ゾーマは何十年という長期間、ある種の支配を続けていました。竜王が出現したのは?」瓜生はまだ、それほど詳しい話を聞いていない。その暇がないのだ。 「あ、ほんの数年の話です。だからこちらの町には故郷を追われた人が多くいて、ゾーマの時にはいなかった……」  瓜生は病人たちにつききりだが、だからこそ色々と話が入る。祭りの中、ロトとアロンドの勲しを歌い上げる吟遊詩人たちの言葉も。  危なかったのが、瓜生が海底トンネルが開通しているということで、驚いてしまったことだ。  こちらの人々にとっては、何十年も前の常識でしかない話だ……青函トンネル開通の知らせに驚く、瓜生と同じ世代の人がいるだろうか。  その夜、久々にテントで、アロンド夫妻とゆっくり話す機会があった。  宮廷料理人の心尽くしが並ぶ。瓜生は、日の照るアレフガルドはさほど知らない。  ラダトームでは、オートミールのような柔らかい粥が主に食べられている。  大根に似るが苦みのある根菜とその葉、象を小さくしたような家畜の塩漬け肉や、煮固めた血と肝臓がよく食べられている。聞いてみると、と殺だけではなく定期的にラリホーで眠らせ血を抜き肝臓の半分を取っているらしい。一瞬残酷と思ったが、乳や卵、脂尾羊同様「殺さずに得られる」メリットは大きい。  闇の時代にも食べた芋、豆のような葉、油の多い木の実、虫の幼虫も、つけあわせ程度には食べられている。闇の時代にも人を養い、光が戻ってもそれに適応させるルビスの妙力に、瓜生は眼を見張るほかなかった。  漬物と豆腐があったのには少し驚いた。マイラから、ジパングの習俗が少し伝わっているらしい。  海は近いが、魔の島の周辺は穢され船も出せなかったので、海産物はほとんど手に入らない。  酒は蜂蜜酒と、日本酒に似た穀物醸造酒が主だ。蒸溜技術は失われ、輸入が絶えた今はもう蒸留酒はないという。 「あのトンネルが開通したのは」 「ゾーマを勇者ロトが倒した、それから二十年もかかりませんでした」アロンドが答え、瓜生の表情を見た。 「何か、お辛いことがあったようですね」ローラ姫が、瓜生を見つめ、夫に目を向ける。 「詳しくは知らないのです」アロンドが目を伏せた。 「ああ……そうですね。ゾーマを倒した後、ムーンブルクで頼まれ、風の塔の賊を捕まえたのは聞いていますか?」  瓜生の、感情を殺した表情。手の施しようのない患者にモルヒネを投与する表情、アロンドはもう知っている。  アロンドが首を横に振る。 「魔物だって言われましたが、幻術を使う人間の賊、それもデルコンダルの難民でした。それを捕まえて、そのトンネルの工事に年季つきで売り飛ばしました」  瓜生の声も平板になる。 「なぜ?」ローラ姫が怖そうに、それでいて興味深そうに聞く。 「ムーンブルクに引き渡したら死刑。それもごう……残酷に。なら何年か働かせて、まともな奴は普通の暮らしができれば、ということです」 「でも、筋金入りの悪人は……」アロンドが拳を握り、カリフォルニアの極上白をなめる。 「ああ、何人かは地震をきっかけに暴れましたよ。おれが殺しました。そうなるのはわかってました」瓜生が、強く歯を食いしばり、手にジョニ黒を出してグラスに注ぐのももどかしく、震える手でもどかしげに栓を開け、ラッパ飲みに干す。  アロンドは、長い間沈思していた。 「何人かはどうしようもない、殺すしかないとわかっていて、でも何人か救える人は救おうと……現実を見ながら最善を探す、と」 「ま、その人たちも少しは、誰かの役に立てた、ってことでしょう」  ラダトームのためには、別に道路の再建のためと多額の金塊を、勇者アロンドと王の連名で出すようにした。人手不足の状態にしなければ、難民は社会不安のもととなる。  王たちは、竜王の死を祝い、そして旅立つ勇者を送り出して、あとは今まで通りの暮らしに戻ることしか考えないものだ。  ラダトームの貴族たちの気質は、変わっていない。以前、ゾーマを倒した後に、予言もあったが去ることを選んだのは正しかったと、あらためて思う。  復興のために、港や道路、上下水、城壁を修理することは……考える王もいるし、考えない王もいる。考える王が勝つとは限らない。  瓜生は正体は隠したまま、アロンドに「難民たちは、非常に危険な存在です。一つ間違えれば国がひっくり返ります。竜王という共通の脅威を失った今、より危険と思うべきです。海外にそのはけ口を作ることができれば、重畳ですよ」と言わせた。  その反応を見て理解しようとしないのを見てとると、(カテリナみたいな王族は……百に一人なんだな)王を買収することを選んだ。  ローラ姫から王の好物である酒の味を聞き出し、それに近かったポートワインで。失われた蒸留酒で。  周辺の人や宮廷医師の目をごまかして、王に全身麻酔をかけて虫歯を処置して義歯を作り、激痛があった尿管結石や半月板損傷を摘出し、ビタミン剤で脚気と壊血病を治したことで。  大貴族の子たちの、瓜生の故郷では抗生物質とビタミン剤だけで完治するがこちらではほぼ確実に死ぬ病を癒すことで。  そして老いた貴顕に、何人かは濫用して死ぬのも承知で、バイアグラを与えることで。 (無関心がありがたいよ、本来なら、大切な民、貴重な労働力を何千人も根こそぎ盗もうとしてるんだ。侵略よりたちが悪い、絶対殺さなきゃいけない存在なのに。人は、食糧供給者に従属する。さらにアロンドは、この若さで本物の王だ。ミカエラのカリスマをそのまま継いでるよ、叫び声ひとつで神もひるませ、万の群衆が死兵となる)  傷病癒えた難民たちは、次々と生じる仕事に駆り出され、荒れたラダトーム周辺の整備を嬉しげに続けている。その仕事を指揮しているのも、優れた土木技術を持つ〈ロトの子孫〉たちだ。もちろん身分を隠して。  王よりも、共に前線に立ち働くロトの子孫、勇者アロンドの名を称えつつ。  瓜生にとって心配なのが、ラダトーム宮廷がアロンドと自分を暗殺することだ。 (できるだけ早く、海外に逃げなければ……ミカエラたち、おれも、ああして宴の席から消えたように)  食糧の供給も調べているが、飢えた難民たちとはいえ簡単に食糧を配るのは害がある……食糧を普通に作り運ぶ人たちから仕事を奪い、援助に依存する人々を生む。瓜生の故郷……こちらに来る前夜までの仕事場でも、援助の害は常に大きい。  金塊で買って配るのも、限度を超えると金の相対価値が下がり、経済を混乱させる。  さらに国の、剣の力による備蓄。大貴族たちの備蓄。商人の買い占め。豪農の備蓄。  祭りのために宮廷が備蓄を放出し、また食糧を買い上げることで食糧価値が凄まじい勢いで乱高下する。それが買い占めになれば飢餓、暴動のリスクすらある。  為政者の立場に立てば、それは実に難しい。誰でも無料で好きなだけ食える祭り鍋も、いつまで続けられるか。  瓜生は監視カメラ入りの無人機の威力で、あちこちの倉庫を調べてアロンドに報告し、食料価格の動きを慎重に見ている。  そして、混乱が出るほど下がらない、それでいて買い占めをやらない程度に上がらないよう、食料価格を調整するよう、難民に王とアロンドの連名で分け与える。  配る食糧も選ばなければ……缶詰や瓶詰、レトルトやプラスチック瓶、ビニール袋さえオーバーテクノロジーであり、空き缶空き瓶も金属やガラスが貴重な前近代社会で大量に出れば、産業構造が混乱しかねない。贅沢すぎない、そして生命維持はできるよう、紙袋に入れたシリアルとチーズ、容器持参者にはサラダ油、そしてアレフガルドにも似たものがあるオレンジ、そして石鹸に限定している。  ただし、瓜生がいくら調べて頭を絞っても、うまくいくわけではない。時に混乱もある。 「食料価格、というのはそれほど重要なのか」アロンドがため息をつく。 「このようなこと、考えたこともありませんでした」ローラ姫は疲れ果てたような表情だ。  次に瓜生とアロンドが向かったのは、マイラだった。  マイラは竜王軍からもなんとか生き延び、温泉も涸れていない。  山に守られた、小さな村だが、周囲は広く水田が広がっていた。  瓜生はその小さな花を見る。広いあぜに大豆が栽培され、いくつかの田では〈上の世界〉の水田雑穀、水田で育つ豆や浮き菜も栽培されている。田芋や休耕田のゲンゲは、明らかに瓜生がもたらしたものだ。  瓜生が見回した、人々は普通の、アレフガルドの衣類だった。 (ジパングの習俗ではないな、同化したか)  それから、考える暇はあまりなかった。瓜生は病人たちの診察と治療、アロンドとローラ姫は、奇妙な立場で村に滞在し、祝祭の主賓となっていた。瓜生の忠告で、ローラ姫の従兄弟に当たる貴族も共に呼び、アレフガルドではその人を立てるようにしている。  その、あちこちの町を回って人々の前に姿を見せ、手を振り喝采に応える、瓜生にはそれが彼の故郷での、芸能人の全国ライブツアーに似ているな、と苦笑した。  瓜生は多数の人を治療し続けながら、半ば世間話のように、百年前に出会った、〈上の世界〉から来たジパングの鍛冶屋や、ムーンブルクから助けて連れてきた女たちのことを聞いてみた。 「ええ、遠い先祖にそんな話が伝わってましたけどね」程度のことは聞こえる。実は勇者ロトゆかりの人々は、〈ロトの子孫〉に加わり隠れ暮らすようになり、表からは消えている。  ガブリエラらが勇者ロトことミカエラの息子ミカエルを育てつつ隠れ住んでいた、かつてルビスの塔だったところに近いマイラには〈ロトの子孫〉が多くいる。遠い昔瓜生が教えた、近代水準に達した産婦人科医の知識の、断片が残るマイラの医療水準は周辺に比べて高い。 〈上の世界〉で瓜生たちが研究した、カビを利用した粗放な抗生物質も伝えられていたし、麻酔と消毒の呪文も残っていた。  形骸化し習俗となっていたが手を洗う習慣、生水を忌み茶を飲むことも相当な人口増につながっている。  また、食料も豊かになる。ジパング系が多い〈ロトの子孫〉が伝える味噌・納豆・甘酒だけでも、穀物や豆を飼料とし、肉・乳製品・卵に変えて食べるよりはるかに高い効率で、良質のタンパク質にできるのだ。  その大人口があったからこそ、大地震からも竜王軍の襲撃からも生き残る者が多数いたのだ。  夜、ゆっくり温泉で休んでから、郊外の廃屋を借り、中はプレハブのちゃんとした仮設住宅にして、瓜生とアロンド、ローラ姫と付き人たちだけでのんびりした。ロトの秘密にかかわることと女官も休ませ、魔法で音が聞こえないようにして、のんびりと話しはじめる。 「残念です。マサムネさんのような神鍛冶がいれば、色々助かったでしょうが……まあないものはない」と瓜生が肩をすくめる。 「マサムネさまは、あえてミカエルを育てる仲間には加わらず、後にラダトーム宮廷に仕えたとか。小さい頃、両親に聞きました」と、アロンド。 「〈ロトの子孫〉が伝えた技術も多かったでしょうが、外来種も伝染病も多かったのでしょうね」つぶやいた瓜生が、ふと心配になったのが、ドムドーラに落ち着いたアッサラームの踊り子。彼女がどのような性病や寄生虫を、また踊りや歌や縫い物の技術をアレフガルドへの土産にしたか、それはまあ肩をすくめる他はない。 (人のことは言えないな、最悪の侵略性外来種を、いくつ、故意にばらまいたと思ってる)と、自分を苦笑する。 「ドムドーラは、滅びたそうですね」 「故郷でした」アロンドが悲しげに言う。「もともと私は、幼い頃に滅ぼされたドムドーラから逃げた、十歳前後の孤児でしかなかったんです。将来はロトの血と力を受け継げるよう、両親から訓練はされていたけれど、基本だけでした。〈ロトの子孫〉たちに見出されてからも、ちゃんと学ぶ暇もなく戦いが続きました」 「ラファエルがゾーマから継いだ拳法は?」 「一応はやったけれど、多分正確にはできないでしょう」  と、軽く形をとってみる。 「いくつか見て盗みました」と、瓜生も、こちらはゴム製トレーニングナイフで今も毎日百ずつ稽古している、螺旋を描く突きと袈裟斬りの形を見せる。 「他の、ロトの子孫たちは……そして」 「ロトの子孫が隠れ住んだ村ですね? あれは大地震で地底に埋まり、一部が雨のほこらと呼ばれています。様々な宝は、散った〈ロトの子孫〉たちが分けて継いだとか。私の親からも、子守唄に隠して、弾薬の缶や金塊を埋めた場所をいくつか聞いていて、それで戦い抜けたのです。焼け落ちるドムドーラ、銃が形見でした」  と、肌身離さぬAK-74を抱きしめる。 「ちょっと、悪いことをしたかな。もっと軽く、片手でも扱えるPDWかリボルバーにすべきだったか」 「竜王の前に立った時は、弾は切れていました。しかしその前に大魔道の頭を撃ち抜いたのはこれです……ストーンゴーレムには役立ちませんでしたが」アロンドが、いとおしげに銃をなでる。 「手榴弾も置いてけばよかったか」瓜生がため息をつく。 「そしてローラを守っていた竜の喉を潰し、炎を封じたのも」  その言葉に、ローラが奇妙に震える。 「申しわけありません」と、瓜生が彼女にブランデーを注いで渡し、アロンドがその背をいとおしげに撫でた。  気丈な微笑が返ってくる。  瓜生は瞑目し、そして決意し、聞く。少し震える声で。 「ガブリエラは?」  アロンドは、まるで遠い昔話を思い出すような口調で答えた。 「あの大地震を予言し、ロトの子孫を散らせて、あとは行方知れずとか。〈上の世界〉に戻ったとか、満月の塔に行ったとか、死んでガライの墓に葬られたとか、天界に行って神竜の妻となったとか……いろいろな伝説があります」 「賢者が長年修業すれば、不死を得る可能性もあります……人じゃなくなりますが。どっちを選んだ……選ばされたのか」と、瓜生はため息をついた。  その選択……自分で選ぶのか、選ばされるのかもわからない……は、彼にとっても他人事ではない。外見は二十代後半だが、彼の魂が経た時はもう、五十歳を越えている。 「人であれる時間、それが寿命でいい……あとは、どちらにしても」そうとしか言いようがない。  患者が、祭りに参加したいと言ったこともあり、瓜生は動ける者たちを村の中心に連れ出した。  そこでは、ローラ姫とその親戚が正装し、アロンドが完全武装で立っていた。  ロトの装備はラダトーム王家に返納しており、今身につけているのはオルテガの兜と、見覚えのある魔法の鎧に水鏡の楯。  見覚えのない、剣のように背負われているが、刀身も柄も50cmほどの武器。AK-74は布で包み隠されている。 (あの柄は魔法がかかってるな)それだけはわかる。 「炎の剣です。メルキドで産される魔法剣」  かたわらの〈ロトの子孫〉、サデルという女も、同様の剣を持っている。  彼女から渡された剣を調べると、刀身はドラゴンキラー同様の、魔力で鍛えた炭素鋼より鋭い金属。だが瓜生の知る、かつてのアレフガルドの最高水準には及ばない。柄は魔導師の杖程度の魔法を無制限に使える。 「水鏡の楯は使われているな」瓜生が見てとる。 「ロトの楯は見つかりませんでしたから」  サデルが残念そうに眼を伏せる。〈上の世界〉のイシス住民を思わせる、やや年増の美女で剣もある程度使うが、むしろ攻撃魔法に優れている。男女二人の子の手を握っている。 「鎧と剣はアロンドが見つけ出したんだっけ」瓜生に彼女がうなずいた。 「雨のほこらから、前線に立つ勇者はアロンドただ一人。私たちは、それぞれの町を守り、勇者の旅を支えることが役割でした」 「一人一人、よく動いてくれたんだな」瓜生のねぎらいに、サデルがぱっと表情を輝かせる。 「ウリエルさま、あなたがた四人が築かれた平和を守るため、そのためにロト族はあるのです」 「すまない。人を手段にすべきではないと思うが……重荷を負わせてしまったか」  彼女は驚いてしばし考え、そして目を上げた。 「選べるとしたら、ロト族としての生を。目的がはっきりした生は、幸せでした。それに、ロト族が、勇者がなければ、魔王に怯え勇者に頼る暮らしです。私は行動したいのです」 「きみの子孫もそう胸を張って言えるよう、最善を尽くさないと」  ガライの町に着いて活動を始めてすぐ、ほぼ同時に三人が、同じことを言いに来た。 「いつまでアレフガルドにとどまっておるのじゃ! 勇者ロトのように、早く宴から去れ。わが祖母ガブリエラが何度も言っておった、闇を砕いたら即去れ、それが勇者の宿命じゃ、と」アロンドを怒鳴りつけた、老商人ガブリエル。ガライの町でもかなりの顔役で、竜王討伐の旅をしていたアロンドとも旧知、〈ロトの子孫〉の長老の一人でもある。 「家の者が、アロンド様を暗殺すると!」と覚悟の眼でローラ姫に密告した、幼さを残すリレムという貴族の少女。 「なぜ、伝説の勇者ロトのようにしないのですか? ずっとアレフガルドに、ラダトームにとどまっていただけるのですか? 危険です」アロンドのベホマズンで回復し、すぐ輝く目で訊いた、アムラエルという歴史を教える女性。 「わかっている、早く海外に出たい。でも、あなたのように、おれや勇者様の手があれば助かるが、なければ死ぬ人が、アレフガルド中にたくさんいるんだ」  アロンドが答える前に、思わず瓜生がアムラエルに答え、気がついて謝罪した。 「ですが、あなたの手があれば助かる人は、もしアレフガルドが閉じ込められている間に滅んでいないなら、外の世界にもたくさんいるはずです。それに、こうしてあなたがここにいては、下手をすると」それ以上、アムラエルは言えなかった。  強引に入ってきたリレムが、泣きわめく寸前の眼で叫ぶ。 「このままでは血が流れる、とおじが言っていたんです! 昔のデルコンダルのように!」  アムラエルが真っ青になってアロンドを見た。  瓜生が目を見開き、歯を食いしばる。百年前のデルコンダルで、そしてこちらに来るまでの地球で、内戦の地獄はいやというほど見てきた。 「わたくしは父を、母を、兄を……一族を裏切ってここに来ました。ローラ様に、幼い頃によくしていただいたことがあるから」  泣き崩れるリレムを、アムラエルが優しく抱き、涙をぬぐう。 「いつまでもこうして、難民を助けているわけにもいかない。アレフガルドはアレフガルドが助ければいい」  アロンドが、苦渋の目で言う。 「それに、ウリエル……じゃな? 幼い頃、ばあさんが言っていたとおりの姿……なら、こちらに定期的に来て、物資を渡すことで多くの人を救い続けることは、できるはずじゃ」  ガブリエルが瓜生を厳しく見る。瓜生も頷いた。 「それに、貿易を再開しましょう。食料や医薬品を輸入し、輸出できるものを用意して」アムラエルの言葉。 「最初の船、そしてガライ港の整備。それ以上は、こちらの職人の仕事を奪う」アロンドの言葉に、瓜生が直立不動で敬礼を示す。この短期間で、瓜生が気をつけていることを学んでいたのだ、言葉だけではなく実践で。 (鉄筋コンクリートは、こちらの技術では再現不能)一瞬考え、 「防水加工した木材と釘、アスファルト、ロープと滑車。それだけは緊急で必要でしょう。輸出できる、こちらの布など……の職人……最初の交易の資金を出します。他に必要で、おれに用意できる物資があったら」瓜生が頬の端をつり上げる。 「この街に、知り合いはたくさんいます。わたしにできることがあれば」リレムが涙をぬぐい、微笑んだ。 「わしも、あちこちに声をかけてみる。まずこのガライと、対岸のルプガナを」ガブリエルも力強く、老いた背を伸ばしてリレムの手を取る。 「ラダトームでも難民を利用した工事が始まっている。ラダトームも、今道路や城壁を工事している人たちに港も作らせれば、アレフガルド国内でも物が動く」アロンドがローラ姫に目くばせする。  大重量の高速運搬で、船以上のものは瓜生の故郷にもない。 「貿易の許可証、隣国への手紙などもお願いします」瓜生がローラ姫に声をかけ、ガブリエルとリレムを連れて港に向かって飛びだす。  その間に、公平を期すためと言われたアロンドとローラ姫はメルキドにも、顔だけ出した。リムルダールから、瓜生に訓練された助手も何人か送る。また使われていない倉庫を瓜生が医薬品や食糧でいっぱいにする。  中心にいた古老が、「汝の王国を探すのであれば、まず北のお告げ所へいけ」と、軽く憑かれたように言い、正気に返って「「北のお告げ所」とやらがどこかは知らんがな」と笑う。  城塞都市メルキドは昔から予言者が治める町であり、魔法の研究も盛んだ。  門を守るが暴走して誰も入れなくしたゴーレムをアロンドが倒すまで、周囲に難民の町がある意味広がっていたらしい。瓜生は、はるか昔に、ゴーレムを研究する魔法使いに資料を渡したことを思い出した。  そしてリムルダールでも、魔法の鍵の研究者に……その鍵が、アロンドを助けたことを聞いたのも思い出す。  その古老がアロンドたちを食事に招いた。  メルキドはずっと閉じ込められた状態だったが、広い城壁内の空地と恵まれた水利で、密度の高い水田を耕作していた。熱帯に近い気候で一年にムーンブルク田豆・ジパング稲・田芋と三度収穫され、またバナナも主食となっている。水田の、オタマジャクシのまま繁殖する動物も雑草や害虫を食い、いい食物になる。  マイラから味噌や納豆も伝えられており、むしろマイラより料理は日本に近い。出入り自由なミツバチが集めた蜂蜜と米や豆の粉で美味しい菓子もふんだんにある。塩や塩漬け肉ぐらいならルーラや、城壁の所々にある抜け道から運べる。  田芋の茎も味噌汁でさっと煮たり、白和えにしたりとうまい野菜だ。  そのごちそうを共に食べながら、古老は「メルキドにもかなり、あちこちを追われた人がいた。だがもう竜王が斃されて三カ月にもなる。あと一月で春の種まきの頃じゃ」とささやくように笑いかけた。  アムラエルが目を輝かせながら言う、「竜王に滅ぼされ、また多くの働き手を失った農村も多くあるはず。そこに難民を戻し、耕させれば」 (竜王の襲撃は、本質的には大規模な伝染病や騎馬民族による虐殺征服と同じだ。人口が急減し、多くの農村が放棄され……休耕と同じだ。焼畑だけで収穫できる、再開墾は大変になるが。また黒死病と同様、一人当たり農地面積・賃金水準が上昇する。難民たちはアロンドと共に海外に移民させるつもりでいたが、アレフガルドの再開墾にも使ってもいいな)  瓜生も新しい見方に目を見張る。  地球の難民地帯では、彼らに帰る希望はごく小さく、帰ってもそこは敵武装勢力が入植していて、どうしても難民キャンプが固定される。国家主権があるため、彼らは周囲の大地を耕すことができない。  絶望し、食糧と医療の援助だけが、天から降ってくるに等しい難民たちの生活……特に難民二世三世となると、無限の富を持つ瓜生ですらどうしようもない。へたをすると能力がばれ、国際政治の問題になる。 「わしは商人たちに、種籾や種芋をためこませておくよう言っておいたんじゃ」と老人がずるそうに笑う。  瓜生がうなずく。  斧・くさび・ノコギリ・大きく厚い鎌・鍬・シャベル・ツルハシ・バール。釘や太い針金。ハンモックや毛布、収穫までの油など高カロリー保存食……上総堀の技術と先端刃。種籾の資金。  彼に用意できる。  地場産業では用意しきれない分を、瓜生が投資の形で影から与え、収益を銀行のように商人や貴族の信用保証とし、投資意欲を増させれば地場産業も弱まるどころか強まる……かもしれない。 (グラミン銀行も応用できる。鍛冶や建築など技術を持つ難民に、少額を貸しつけ仕事を始めさせる。高利でなくても儲かることを示せば、模倣する人もいるだろう。多くの人が何か仕事をすれば、それでみんなが豊かになる。  ラダトームの鍛冶屋が楽に増産できるよう、鉄床やふいご……木炭や鉄材を与えてもいいだろう。それらを作る業者が職を失わないように、こちらで作れるものは高く買い上げながら。  悪くすればバブルやモラルハザード、でもまあ知ったことか、おれは神じゃないんだ)  瓜生が経済学の講義を思い出しつつ、頭を回転させる。 「ラダトーム、ロトの子孫たちを通じて。ローラ、商人たちと話したい」アロンドもうなずきかける。 「資金は商人たちや貴族に、おれから貸した方がいい。もし損しても、保険があれば大胆な投資もしやすくなる。資金は出しますので、そのこともおねがいします」瓜生がローラ姫に告げた。 「保険?」 「10に1つの船は沈む、沈まなければ船と荷を合わせた金額の倍儲かる、とします。船一隻は10、10人集まり、送る船と荷の資金から、一人1ずつ出し合って事前に10貯めておき、沈んだ者にはそれを渡すわけです。合計は100の資金が、9隻の倍で180となり、10人の船主は18ずつ受けとる……まあ沈んだ者を少なくしてもいいですが」 「そのように、親戚や友人、ギルド仲間と助け合うことはよくあることです」ローラ姫づきの老女官がいい、アムラエルもうなずいた。 「ただしそれを、経験と信用のみでなく、記録と計算、そして契約によってより広く参加すれば、よりよく働きます」  新品の斧と鍬を家畜に負わせて荒れ果てた故郷に、また廃墟となった農村に向かう難民たち。  瓜生が出したものだけでなく、もはや無用な剣や鎧を打ちかえたものも多い。  ローラ姫やその女官、さらにその親戚を通じ、半ば買収済みのラダトーム貴族たちを通じて、もう安全、都市周辺にとどまるより新しい鍬を担いで荒れた田畑を耕せ、と触れは回っている。勇者アロンドとローラ姫も、その名声とルーラの機動力で各地の大都市に飛び、王族と共にその触れを裏づける。  夫婦の信用は高く、アロンドの声を耳にした鍛冶屋たちは剣を鍬に打ちかえ、木こりや炭焼き、石炭掘りは真っ黒に働いては豪遊して新しく人を雇い、備蓄は種籾として高く売られる。  人々の中には、〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉が何人か、金や宝石、いくつもの作物の種籾や種麹、高水準の測量器具、売りものにはならないが財宝より貴重なペニシリンやDDTを懐に、手と頭には土・石・そこらの植物の繊維で作るかまどと煙を流す床暖房の技術、読み書きソロバンなど、有用な知識と技術を身につけて混じっている。  港や道路の工事にも、剣技や魔法を隠して混じっている人々がいる。  新しい土地を切り開き、自給自足する技術を身につけておけ、というわけだ。  多くはルーラ程度の魔法は使えるので、たまに情報を交換し、物資を受けとるように言い含められている。  その、難民の一人が後に語った物語を添えよう。  あちこち焼けた山道を数頭の大きい家畜……セロ、十頭前後のやや小型で鼻が長い家畜……ベルベ、四匹の毛が長い熊犬……ゼドを連れ、飛べない中型犬程度の鳥……キーモアを数羽首紐で引いて、四十人あまりの一行が歩いていた。  老若男女、出自も違う。髪の色も違う。服装もかなり違う……ぼろは共通だ。重い荷を長い袋に入れ、分けて袈裟に背負っていることも共通だ。  勇者アロンドが竜王を倒すまでの知り合いは、いない。工事の時の顔見知りはいる。中級貴族であるフェロ家が適当に、ラダトームに集まった難民たちから集め、領土の一部を任せると言っただけだ。  家畜と、その家畜と人が担ぐ、食料や毛布、テント布をはじめたくさんの荷物は領主様がくれたものというが、多くは勇者さまが下さったと言われている。  その一人の記憶はもう漠然としているが……ラダトームにたどり着くが城門に入れてもらえず、魔物に追い回された。勇者アロンドが竜王を倒した祭り鍋で数年ぶりに満腹して酔っぱらった。何日かして、無理に湯で身体中洗われ新しい服と寝具を与えられ、勇者アロンドが呪文を唱えたら息子の死を待つばかりだった傷が瞬時に全快し、共にいた変な僧侶がひどい病気で死にかけていた妻と娘を切り刻み、変な袋につながった針を刺したり甘い油を飲ませたりしてたら嘘のように治った。それから一家で水路の工事に駆り出された。……気がついたら、なんだか派手な服を着た人の前で這いつくばり、熊犬を追うように追われた。  そして気がついたら、家畜を追って山道を歩いている。  子供は上は十すぎから下は四まで、五人のうち三人が生きている。一行の中では十三人が子供だ。  一組の夫婦が、一行をある意味率いている。  奇妙な記号で描かれた地図を見、星や太陽と照らし合わせてどちらに向かうか言う。 「こちらは険しくなる。少し遠回りだが、西側から行けば安全だ」  それだけでも、ほとんどの人には驚きだ。竜王率いる魔物たちに襲われ、故郷を追われるまでは、地図を見るなど考えたこともなかった。ただ日が昇ったら働き、沈めば眠るだけだった。  遠い道を歩いたりするのは、貴族や商人など特別な人びとだけだ。  貴族か、と思うが、明らかに違う。日が傾くと、彼らは率先して布で天幕を張り、水場をみつけて家畜にも飲ませ、柄が長い幅広の山刀で穴を掘りトイレにするように言う。貴族がトイレに行くはずはないし、手を汚すはずもない。  ついでにトイレの後は木の葉で尻を拭き、別の匂う草の葉を潰してぬぐうようにも言われる。  飲む水は、必ず奇妙なほど薄く軽い鍋で沸かし、そこらの葉を入れて飲む。焚き火も岩肌などが近い場を選び、少し穴を掘ってやる。  怪我人が出たら、薬草や毒消草ですぐ治してくれる。普通は怪我なんてしたら、ほとんど腐って死ぬもんだが。  その夫婦のどちらかがいきなり一行からはぐれ、合流した時は野の鳥や、食べられる木の実や草の根を持って帰って、皆と分け合って食べることがよくある。  そして時折、食べられる実をつけるような草を見れば株を堀り、木を見れば枝を切り実を拾って、焼け荒れた山肌に埋めている。 「なんでそんなことをするんだね」 「誰かの役に立つかもしれないし、少しでも木が多ければ水も豊かになる。さ、今夜はあちらの尾根までいこう」  と、そんな調子だ。  急な山道にさしかかるとき、その夫婦は皆を少し待たせて早めに食事させ、自分たちだけで少し先行した。  そして奇妙な音が何回か響き、あわてて駆けつけたら、武装した男三人の死体が転がっていた。一人は明らかに呪文で焼かれ、一人は首を刺され腹も血に染まり、もう一人は……腕と、頭の後ろ半分が、鳥が果物をついばんだように砕けていた。 「山賊になっていたようね」何か長いものをあわてて布でくるみながら、妻のほうが悲しげに言った。 「半ばは魔物ですらあった。殺すしかなかった。水を汚さないよう埋める、手伝ってくれ」夫も長いものを、布でくるんでいた。先から出ていた槍先は、血まみれだった。  数日後、サラカエルと名乗るその男が地図を見て、「ここだ」と言った。  山の斜面の、少し傾きが緩い一帯。西端がちろちろと流れに洗われ、少し深い谷になっている。背丈ほども高い草に、焼けた棒杭、崩れかけた石組みがいくらか見える。  人びとは呆然と見ていた。一人もいない。滅び。自分たちの故郷も、襲われてこうなったのか……泣きじゃくる、まだ若いのにもう疲れが老いになりかかる女がいる。 「いいところね」と、サラカエルの妻ムツキが言い、笑顔を見せた。黒い髪と瞳の美しい女だ。 「まず当座眠る場と水、トイレ、かまど、それから野を焼いて畑にする」サラカエルが言って、流れの横にある小高いところを選び、家畜を放しゼドと少女ふたりに見張らせた。  荷物からノコギリと大きな穴掘り刃を出し、近くの細い木をノコギリで切る。山刀で枝を落とし、一部だけ皮をはぎ、ノコギリで切れ目を入れてから穴掘り刃の穴に通し、鉄片を叩きこんで固定。他にも斧、鍬などいくつかに手早く柄をすげた。  その穴掘り刃を見て、鍛冶屋をしていたから、ぞっとした。おれには、おれが知る鍛冶屋には、こんな薄くてきれいな形は作れるはずがない。あらためてノコギリを見て、触ろうとしたがにらまれたのでやめた。    小高いところの、流れとは逆側の下に穴を掘り始め、ムツキもすぐに近くの木を利用し穴の上に天幕を張り、尻を拭く葉を集め、潰して手に塗る草を移植した。  旅の間も今も、まず水とトイレという姿勢は変わらないようだ。  何人かでまず穴を掘ると、その時にはムツキがいくつか石を集め、草の蔓を切りだしていた。 「手伝って。かまどを作らないと薪が無駄になるから。それに寒くなるからね。ここの土はいいわ、一抱えほど掘って、この布に包んで、この棒を使ってもっこにして、持ってきて」  と、荷物から広く厚い布を出し、別の切られた木を指差す。女子供だけでなく、男も彼女の指示に従うのが当然のようになっている。  その時にはサラカエルが何人かの男を連れて、小川で網を放り、上流に向けて少し歩いていた。  小高い丘の上で、さっとムツキが見回すと平たい場を、柄がすげてあった別の鍬で平らにならした。それに小さな石と、さっき夫が柄を作る時捨てた木の枝葉を、鍬で刻みながら粘土を混ぜるように敷く。 「これで水を」と、厚布ででき、取っ手のついた袋で水を汲んでこさせる。奇妙にもその布には、水が通らない。  それから、木や蔦を取ってきては骨組みにし、それに水と土を混ぜ、上が開いて、下と後ろにも大きな穴がある構造を作る。  外側と内側はきめ細かな粘土を塗ってある。 「これはしばらく乾燥させるわ」と彼女はいうと、粘土の崖に横穴を掘り、その少し上から木の棒を刺して太い棒で打ちこませ、それから抜いて穴を通した。「それまでここで火を使いましょう。当座の食べ物を集めましょうか」  と言って、彼女は数人の女の子を連れ、長く鋭い鉄かぎ爪がついた棒と布袋を担いで森に向かった。  その穴で火を炊くと、上に開けた穴から煙が出てよく燃える。旅のあいだも何度か同じようにした。  もう、サラカエルはかなりの数の魚をとってきてから、奇妙な道具と紙を出して何かしている。あちこちで、まわりのあちこちを棒の上に立てた奇妙な道具を通して見て、何か紙に書いては別のところに歩く。  日が暮れる頃、サラカエルが帰ってきて、ムツキと女の子たちも袋いっぱいにアブラマツの実やミツキノコを入れて帰ってきた。  それから夫婦は川の近くに水を運び、冷たいのに身体を洗っていた。  熱い、大きな土の塊の穴から漏れる火で、串に刺した魚が焼かれる。近くに掘った穴に鍋がかけられ、皆が茶を飲む。  その熱さが伝わってくる周囲で、枯れ草の山で毛布にくるまり、多くは家族ごとに身を寄せ合い、家畜や焼いた石を抱きかかえ、ぬくもりを分け合って寝る。  翌日には家畜を別に作った囲いに避難させ、決められた範囲の周囲の草木を刈り集めてから、その帯の内側に火が放たれた。  枯れた野を火がなめていくのを見ながら、皆で石を掘りだしては、かまどと呼ばれる昨日作った大きな土で作ったものの後ろに並べる。 「特に平たい石を探して」といわれ、集まったのを、石を柱がわりに敷いていく。  男たちは流木や枯れ木を拾い、切ったり削ったり、斧で割れ目を入れ楔で割ったりしている。  中には大きめの石の上に、太い丸太を立てる人もいる。 「ちゃんとした家を一つ造り、当座は皆がそこで寝て調理しよう。他のことは当分天幕でやればいいし、余裕ができたらそれを真似て、いくつも作ればいい」サラカエルがいう。  廃屋をあさる人もいたが、白骨だけだ。家財はすべて焼かれ、壊せるものは全部壊れていた。  昨日トイレにした穴は埋められて若木が植えられ、別に穴を掘ってテントも移した。そうそう、川に小便しようとしたら殴り倒された。とんでもない威力で。 「この下流にも人がいるかもしれないんだ、大小便は伝染病であり、貴重な肥料なんだ」  あれほど怖いことはなかったね。故郷を追われた日の魔物だって、あれに比べりゃなんてことない。  次の日、まだくすぶっている焼け野に、荷物の中にあった種や種芋が植えられはじめる。どれも、ムツキの指導で棒で穴を開けてから種を落とす。  サラカエルは炭になった木や灰をいくらか集め、蓄えていた。 「これで、三カ月もすれば食べられるわ」という声に、皆が喜ぶ。 「でも、それまでは」小さい子供の言葉に、皆が目を見合わせた。  限られた家畜と荷物。与えられた乾燥穀物は、これまでの長い旅で食べ尽くされた。 「川魚と、それに周りの森の木の実、野原の草の根で少しは食べられても」  恐怖が満ちていく。 「心配しないで。どこの村も、必ず食糧をどこかに埋めているはずよ」ムツキが言って、サラカエルを見つめる。「それに、草がたくさんあるから雌セロが乳を出してくれるわ」 「探してくる」と、サラカエルが雄セロを引いて、道に出かけた。 「あんたがいなくなったら、おれたちこれから」ゾッとした声。 「おれたちも、いつ死ぬかわからない」と、足も止めずに出かける。  そしてついていった子供たち……多くは眠らされていたが、目を覚ました一人が、サラカエルと雄セロが呪文で消え失せたのを見たという。 「あっちに、昔だれかが植えた柿の木があったわ。渋をとるには間に合わないけど、干すには間に合う」とムツキが何人も連れて、棒と布を持っていき、赤い実をもっこに入れて山のように持って帰ってきた。  かじると渋くて食えたもんじゃなかったが、「当座たべるのは樽に酒と、あとは皮をむいて干しましょう」といって小さな樽を作り始め、数日後から甘い実をたっぷり食べられた。  固い木の実も集めたが、それは渋くて食べられなかった。だがムツキが、灰を混ぜた水で煮ればいい、と教えてくれた。  二日後に帰ってきたサラカエルは、雄セロがつぶれかけるほどの干し芋、油壺、それに鉄床と手押しふいご、金槌とやっとこまで持ってきた。 「そんな近くにあったかい?」 「たっぷりとね。あんたは確か鍛冶屋だったろう?炭と灰もある」と微笑している。いろいろ変だと思ったが、訊く気力はなかった。これで仕事ができる……  何月か夢中で働くうち、寒くなる直前に焼畑の穀物と芋が収穫され、最初の家ができた。  その中心はかまどと呼ばれる土でできたものに、廃屋から見つかった壊れた鉄製品を鍛えてつくった大鍋が二つ据えられたものだ。久々の鍛冶仕事は大変だったがほっとした。息子も手伝い始めてくれる。  そのかまどの後ろから、薄く割った平石を敷いて、滑らかな石を焼いた漆喰と粘土で固めた床が少し広がる。煙はその床の、火と反対側から出る。  もう一つ、上に人が入れる大きさの樽があり、底が鉄で、樽に水を入れて温め人が入れるようにした低いかまども、小さな部屋になってしつらえられている。あの夫婦は毎日、全身に泥を塗って木ぎれでこすり落としては身体を湯に浸け、おれたちにもそうするように言うんだ。布を、苦い草の実や樹皮を入れて煮洗うのにも使う。  火につながった、小さいが頑丈な部屋をまず作り、それから木で大きな部屋を作っては屋根をそこらの草や樹皮で葺き、壁を細木を編み土を塗って作っていく。  洗って汚れた水はそのまま細い、曲がりくねる流れが掘られてそっちに流れる。ただ、そこに小便をするのも禁じられた。  木の皮で葺いた屋根は、一滴の雨水も無駄にせず水がめに集める。  ある程度できる人たちは難民たちにもいたが、例の夫婦は特によくわかっていた。  樽や桶も作れるし、その作り方をハエラに教えていた。  そのかまどにつながった床の室は暖かく、いきなり大吹雪が吹いた日もみんなぬくぬくと眠れた。  誰もが、このぬくい家を造りたいと叫ぶぐらいに思う。 「あっしの故郷じゃ、鍋粥よりパンを焼くほうが好きなんだよ」という声があったら、次を工夫して石焼き窯もできるようにしたり、ただ代々やってきた通りじゃない。少しの土で小さいのをたくさん作って試したりもするんだ。  ふいごも、水の流れに変な輪を漬けて、それで動くようにしている。屈強な男ふたりぐらい強力な風を、欲しい時に得られる。他にも脱穀とか洗濯とか、水の汲み揚げとか色々楽にできる。  その鍛冶仕事も、次々と思いつきで変なものを作らされるから大変だ。  深い井戸も、人が暮らすところのそばに新しく掘られている。近くに川が流れているのに。  トイレにも相変わらずこだわり、人が暮らすところから少し離れたところに穴を掘り樹皮と粘土で壁を塗って焼き固めた。  毎日、使い物にならない蔓草や葉の長い草、樹皮の外側をざっと編み広い葉を敷いて厚く土を塗ったのをいくつも作って、そのためのテントの中でその籠に出させる。近くから移植した草の変なにおいのする葉を揉んで汁を手に塗ってから水洗いさせられる。  で、日暮れ前に容器ごと運び、焼き固めた穴に捨てては土と枯れ草をかぶせて、板のふたをしている。  腐らせて、野菜や薬草の肥料にするそうだ。  ただし誰か下痢したら水場から離れた別のところに深い穴を掘ってそこにさせ、その穴は埋める。  やることは毎日、作物が育たない冬もたくさんある。  夫婦が地面を測ったとおりに、流れの上流から水路を掘って、水が溜まる水田を作ろうとか言っている。逃げる途中で少し見たことがあるが、そんなものを作れるのか?  そのくせ、見渡す範囲のところどころを囲って、決して草木を伐らせない。  あちこちにいろいろな木の苗を植えている。薪も近いところからじゃなく、わざわざ森の少し奥から切って、切ったら必ず何か若木や種芋を植え移す。また川べりの草木は切らせない。  川の下の、よさそうなところを耕そうとしたら、「そこは十年に一度の洪水で流されるだけだぞ」と止められて、そこには最初に食べた渋いが甘くなる果樹やアブラマツの若木を山から掘ってきて植えた。  その夫婦は何度目かに出かけたとき、「預けていた子供だ」と五人ほど子供たちを連れて、一緒に暮らしはじめた。  確かに面影はあるが、目や髪の色はまちまちだ。みんな働き者で、夕方に見るといつもどちらかの親と森の奥に出かけていく。それに、子供なのに読み書きができるし、喧嘩でもとてつもなく強い。  誰の仕事でも手伝う。おれたちの鍛冶仕事でさえも、息子と並んで熱心に手伝うことがある。  子供が、森で遊んでいて野獣に襲われたのをその子たちの一人が、呪文でやっつけたと話したこともあった。大人たちは本気にしなかったが、どこかであり得るなという気はしていた。  赤ん坊が生まれる時も、その夫婦がとりあげてくれる。絶対母子とも死ぬな、と思ったような難産の時も、夫婦と少し大きい子供の三人で何かやっていたら、驚いたことに母子ともに助かった。のぞいたら、呪文を唱え酒で手を洗いながら腹を切り裂き、子を取り出していた。  魔物か、と思ったが、あの夫婦がいなかったらおれたちみんな死んでるし、それに母子は元気なんだ……  おれがひどい腹痛で死にかけた時も、薬をくれてからいきなり呪文で眠らされ、気がついたら寝ていて、痛みが切られたようなのに変わって腹に縫った傷跡があって……最初は断食させられたが、数日して甘酒や重湯を飲ませてもらい、数日で粥になり、そのうち酒で洗いながら糸を抜かれて、治った。  竜王が出る前の故郷だったら、絶対に死んでいた……たしかおじが、同じような痛みからもだえ死んでいる。  夫婦とも、当たり前のようにホイミやキアリーを使いこなし、それで助かった人も多くいるし、普段から傷薬草や毒消し草もたくさん集め、植え育てている。  一度山賊が村を襲おうとしたことがあった。やって来て、今度来た時までに食糧と女を用意しなければ皆殺しだ、と……そのとき、前みたいにあの夫婦が片づけてくれるか、と思っていた。 「領主さまは、助けてくれないんですかい」 「隣村まで片道二日、大きい町に知らせるだけで四日かかる。とてもまにあわねえよ」 「サラカエル、あんたたちは助けてくれないのかい」 「自分の身は自分で守れ。村は村全体で守れ。やり方は教えるが、頼るな」  サラカエルが厳しく言うのに、みんな震えた。 「ちゃんとみんな、自分の身を守ったじゃないか。竜王からも無事に逃げ延び、生き延びたんだ。戦うのはそれよりちょっと大変なだけさ」  一変して柔らかく笑うサラカエルに、皆こわごわとうなずき合う。 「戦うって、どうやって……剣の持ち方もしらねえよ」 「いや、おれは前に、ちょっと衛兵で、槍担いでたこともある」 「ばあか、勇者様がいらっしゃるまでなすすべもなく逃げてただけだろ」 「でも何人も、守っていたんだよ」とサラカエル。 「狩りのため弓矢は練習してるわよね?それはそのまま戦いに使えるわ」ムツキがいう。  かなり前から、若い者は夫婦のどちらかと狩りに行き、それで弓矢の作り方と引き方を習っていた。また畑を荒らす鳥や獣を追うために、布片に二本紐をつけて、石を遠くに投げる紐の使い方もみんな教えられ、いつも暇な時に練習するのが習慣になっていた。  そして美しいムツキが彼女の年長の娘とおとりになって、森の端で逃げるふりをした。それを嬉しそうにわめく屈強の奴らが追いかけ、みんな震えていた。もう捕まる、と思ったところで、女たちは飛びこえた泥沼に山賊どもがはまり、サラカエルが叫び矢を放ったのにつられて、高い草に隠れていた道の両側から矢と石が……  ひとつ、おれだけが見てぞっとしたことがある。山賊の一人が呪文を唱えようとした時、ムツキが呪文を唱えたらその盗賊は口がきけなくなって喉を押さえ、と思ったら頭が半分吹っ飛んで、死んだ。振り向いたらサラカエルが、物陰で奇妙な棒を変な形に構えていた。奇妙な薄い煙が舞っていた。  不思議なことに、あの一家は村の長みたいなもんなのに、死人を弔ったりするのにはあまり手を出さない。儀式には参加するし求められるだけの仕事はしてくれるが、勝手にしろって感じだ。だから一番年かさのヤエフォがやっている。  賊を全滅させてから、村人たちみんな集団で固まって動き、並べた盾の背後に隠れて矢や石を放つように練習させられた。  笛を作って警告し、すばやく頑丈な建物に逃げることも。あちこちに深い穴を掘って、食物などを隠すことも。  それから、獣を捕る罠、隠れたところから獲物を射る技を人に使う方法も。  子供たちの中には、魔法まで習うのもいる。  ただの農民が、そんなことまで覚えていいのか怖くなったが……まあ、矢尻やかぶとなど注文が多いのは嬉し忙しい。  子供の一言で、すべてが通った気がした。 「サラさんたち、勇者様にそっくりだね」  小さいころに神殿で見た、勇者ロト様の肖像。それにそっくりだった、遠くでローラ姫様と手を振り、呪文と輝きの直後たくさんの人が全快した……勇者アロンド様。  確かにあの一家は、特に二人目の女の子ラファエラが、ロト様にそっくりだ……  何年経ったか。水田から呆然とする量の米と豆、干し芋や魚がとれ、多くを塩で漬け、畑で育てる豆は煮て藁にくるんで腐らせて食べる。妙な臭いはしたが、慣れればうまいし、肉をほとんど食べてないのに子は病気もせずすくすく育つ。  人が住むところの周りには、様々な若木が育っている。山から掘って移した果樹は、豊かに実をつけている。  最初に近いところの木を切り残しているから、苦労して遠くまで薪を集めに行くこともない。  ひどい雨が降って川があふれた時、ちょうどいいところに植え移していた木と、苦労して動かしてあった岩が流れを弱めてくれたおかげでみんな助かった。川沿いの木は切るなと言われていたから、その強い根のおかげでもある。  前に言われたところが、本当に流されたことには驚いた。  家畜も増えた。  木に漆を塗った食器も、近くの山でとれる特別な石も行商人に高く売れた。  酸っぱい実を塩で漬けて日に干したのが、妙な味だがいろいろな薬になっているし、高く売れる。  いろいろな薬草も売れる。普通なら薬草を育てた土は数年は草一本生えなくなるもんだが、人の糞尿を穴で腐らせた肥料をやったら次の年も育つ。  行商人が「勇者アロンド様とローラ姫が、遠くに国を作った」と知らせてくれた。  領主のフェロ家から代官が巡回に来て、僧侶が来ることになった。  そんな頃に、サラカエル夫婦と子供たちが、突然出て行くと言った。 「色々と教えた、工夫してやっていくんだな……許されるかぎり」 「あんたたちがいなかったら、おれたちはどうすれば」 「いや、代官様や僧侶様に」 「あの僧侶は、ホイミも唱えられなかったじゃないか!」 「とにかくいなくなるものはいなくなる、事故で死んでも同じことだ。すまない」 「工夫は教えた。呪文を使える子もいる。わたしたちではなく、知識と、いろいろやってうまくいったことをやる、という考え方、手が覚えた技を頼りなさい」  それから、荷物をまとめているサラカエルを手伝って、ふたりきりになった時、ふと聞いてみた。 「勇者様と、ゆかりがあるのかい?」瞬間、凄まじい殺気にへたりこんだ。 「めったなことは言わない方がいい……すまない。それ以上は聞かないでくれ。ありがとう、わたしたちも学ばせてもらった……人に言えば禍を招くぞ。これからも、考えて工夫することを忘れるな」  それ以来、その一家を見ることはない。もしまた何か出たら、その子たちの一人が、いや他の村にもそんな人がいて、その子の一人が勇者として立つのか。それとも遠い遠い、ローラ姫の血を引く王子さまか。  アレフガルドは、守られていたんだ……勇者様だけでなく、たくさんの勇者、ロト一族に。  そして最初の船が、ガライの港から旅立とうとしている。  焼かれた港に、いくつか木の杭を打ち、板を渡しただけの桟橋。  竜王の襲撃で船を焼きつくされてから、久々に見る船。二本マスト、木製に見せかけているがFRP。  地引き網でとれる魚や岸壁の貝、森で放し飼いされる家畜の肉と、薄く切って燻製にした芋、木に巻きつく豆。梨に似た果物の酒。そしてアレフガルドの染め布、魔物の骸から得られる薬。  町の有力者たちと壮行の宴をすませ、高い日当で雇われた屈強の男が荷物を積みこんでいく。 「出航(レツコー)!」  アロンドの声が響く。生まれはドムドーラだが、ガライで育ち〈ロトの子孫〉の教育を受けた彼はひととおりできる。  船の多くは焼かれ、ゾーマ結界に似た結界により外洋航海はできなかったが、風を盗んで近海で網を巻き、魔物の触手をかいくぐって近隣に物を運ぶぐらいの船乗りはいた。  ラダトームからの特使でもある、ローラ姫の従兄弟が船縁にうずくまっている。船室では、ローラ姫も激しくえずいていた。  瓜生は、彼女のことはアロンドに任せていたが、船酔いなのか妊娠なのかを疑っていた。 「大きく変わっていなければルーラで跳べますし、空を飛べる乗り物もあります。奥様のお体が心配です」とアロンドにいったが、 「二日もかかりませんし順風です」と答えるだけだった。  考えてみれば、瓜生の正体はまだ、ごく少数を除き極秘だ。  瓜生は警戒していたが、海の魔物は一度も出なかった。アレフガルド周辺は光の玉の力で、魔物が出没しない楽園である。  もう十年以上、交易が断たれていたルプガナに、アレフガルドの紋章・ロトの紋章を掲げた船が入港する。  誰何に大声で、「アレフガルド!ラダトーム」の名が叫ばれる。  石組みのしっかりした埠頭。  瓜生がレムオルで姿を消し、狙撃銃とRPG-7を構えている中、ロープが投げられて港の者が受けとり、引き寄せられる。  板が渡され、丸腰に見えるアロンドがローラ姫を抱えて降りる。背後からロトの紋章・アリアハン国・アリアハンの王位継承権のない王族・ネクロゴンド王国王族と並べた旗を掲げ、背に剣と銃を隠し持ったサデルが従う。  リレムが、「もっとかっこいいカッコに」といったことがきっかけで、瓜生もアレフガルドの宮廷衣裳に似た服を膨大な衣服カタログから捜し出して、アロンドもローラ姫も着飾っている。  ラダトームの貴族、ガライの商人も次々と降りて、ガブリエルが目印の旗を掲げ旧知の商人に声をかけた。  ふらつく足で岸に這い上がり、人の名を呼ぶ人がいる。竜王の襲撃で故郷から、家族から隔てられ、ガライで生き延びた人もいたのだ。その中の一人は同じく老いた妻子と抱き合い、別の老婆は若い男に抱きしめられ、家族の死を告げられたか号泣していた。  アロンドは肩に留めた隠しマイクとカメラを確かめ、異質で豪華な服の貴顕たちの前に立った。 「竜王は死んだ、アレフガルドは救われた!私は勇者ロトの子孫、〈竜王殺し〉アロンド、世界を巡る旅に出た。これはアレフガルド王ラルス16世の長女、わが妻ローラ」  と、ローラ姫を下ろし、支える。 「アレフガルドと諸国の絆を結び直し、交易で共に富むために来た!」その声に、港に詰めかけた人々が一瞬で魅せられるのがわかる。  もちろん、船の人々も。 「変わらぬ友情と正直な交易を期待している」それだけ言って、あとはラダトームの特使に引き継ぎ、自らは町に向かった。  いつしか背後に、飾り気のない服を着た瓜生が従っている。〈上の世界〉では通用する彼の紋章と、賢者の位を示す印が目立たぬように縫い取られている。  港町は栄えていた。アレフガルドが結界に閉ざされても、海は世界につながっている。  ムーンブルクやベラヌール、ペルポイとの交易。そして少し北にいけば旅の扉があり、それもまた各地に情報や、香辛料や薬のように軽く高価な品を運ぶ。  蒸した根菜と発酵乳、豊富な野菜とナッツの食事。多彩な布が店頭を飾る。 「これは」青い甕から注がれた、芳醇な甘い酒にアロンドが目を見張る。 「ベラヌールのメロワイン」と、瓜生。  多くの人がアロンドを取り囲み、その叙事詩を聞こうと質問を浴びせる。  彼が静かに見回すだけで、それは収まった。そしてローラ姫が目を向けると、一人の吟遊詩人が進み出る。  ガライの町でも指折りの、創設者ガライの子孫でその名を継ぐ。  その手がギターに似た楽器を巧みに弾き、同時に足で鳴らす大きなカスタネットでリズムを取り、歌う。  そのメロディーは、アメリカのジャズに似ている。ガブリエラの恋人であったガライは、瓜生が残した大量のCDと風力発電設備につないだCDプレイヤーの恩恵に、多少はあずかっていたようだ。 「遠い遠い昔 アレフガルドは大魔王の枷の下 夜の明けぬ時 変わらぬ闇 絶望と哀しみに死を望む人々 城塞の町は絶望に崩れ 働く人もなく打ちひしがれ 主を失った妖精たちは 歎きとともに闇に染まり 王宮は勇者を送り出すも 一人も帰る者なし 天よりきたりし光 異界の勇者と三人の仲間 ミカエル 美しき雷光の剣神 その雄叫び雷鳴の如く ラファエル 拳ふるう大力の聖者 人の心を慰める ガブリエラ 賢者の呪文あまた 破壊と守りを共に ウリエル 謎多き影 賢者とも伝えられる 光の玉を携えて来たり 造世主ルビスを塔より助け 魔の島に虹を渡し 大魔王を切り倒し アレフガルドに朝が来たり 近隣の国とも海開ける 額に輝くロトの称号 だがその身は宴の夜どこへともなく消える 聖地に伝わる三つの武装 光の玉とルビスの印 聖なる守りはアレフガルドを 永久に守ると見ゆ」  しんと静まる酒場が、突然爆発し、歌が続くことに気づいてぱっと静まる。 「そして平和な百年あまり 邪悪の化身竜王が 魔軍を率いてアレフガルドを 再び恐怖に陥れる 船も町も焼き払われ ロトの宝とローラ姫 焼けた城から奪われて 再び希望は潰え去る されどロトの血脈は アレフガルドに根を下ろし 立ちあがった少年は 姫を助け鎧を奪還 父祖と同じ道を歩み 虹の橋もて魔の島へ 貫き通す竜の首 鋭き牙がその証 光の玉を取り戻し ラダトームに凱旋す 王は自ら玉座を降り 汝こそ王に相応しいと されどアロンド首を振り 雷鳴の声王城に響く わたしに治める国があるならば私自身でさがしたい 妻ローラ姫と婚儀を固め 広い世界を見回らんと 大海原に船を出す 歌の続きはどこへやら!」  最後は叫び、剣のように長く鋭い竜王の牙を掲げるアロンドとローラを指し示す。  群衆は喝采し、熱狂していた。  マスメディアがない時代には、吟遊詩人の歌はきわめて有力な情報伝達手段となる。  誰もが娯楽と叙事詩に飢えている。そして、歌によって示された英雄と美姫の生、ライブの姿は、群衆には強烈な印象を与えるのだ。女たちや商人の目で選び抜いた美服も功を奏している。  アロンドがその人であることは、誰の目にもわかる。ただいるだけで、強烈に人を引きつけ気分を明るくさせるのだ。ローラの美しさと気品も圧倒的だった。  多数の〈ロトの子孫〉がいる中、なぜ、どうやって彼がただ一人の勇者に選ばれたのか瓜生には疑問だったが、「見ればわかる」というほどにそれははっきりしている。 〈ロトの子孫〉の老人たちも、それこそ見ればわかったろう。誰もが。  逆にそれは、老人や権力者たちには本能的に危険視されもするし、妄執を呼ぶこともあり得るが……  異国の港では、時ならぬ祭りが続いていた。  人々の熱狂はアレフガルドからもたらされた商品が、それどころか水夫が着ていた服すら高額で売り切れることにもつながる。ガブリエルがしっかり用意していたアロンドやローラ姫が着ているものそっくりの服は、すぐ次の船が来ると言われていてもオークション状態となり、本来の価格の数百倍で売れた。  瓜生は、商人たちや水夫たちを見た。商人たちはここに儲けを見て、一度手にした大金を異国の商品に注ぐ。水夫たちは女たちにもてることを知り、ぼろ服と交換した金貨をばらまいている。  それがまた祭りを盛り上げ、火災旋風のような熱狂。  その瓜生もじっとしてはいられなかった。優れた医者がいるという噂に、何人もの貴顕たちが声をかけてきたのだ。  金が要らない彼だが、金持ちを治療して大金を請求し、それで貧しい病人に、滋養のあるものを食べさせ体を洗わせ、数日間肉体労働を休ませることはできる。それだけでも死なずに済む人は多く、彼自ら金塊とレーションをばらまくより経済の混乱は小さい。 〈ロトの子孫〉から志願してきた、医学知識が高い人たちを助手に、金持ちたちの診療・手術を始める。〈ロトの子孫〉には清潔の習慣があり、それだけでもかなり使えるし、読み書きができるので書物から医学を教えられる。  祭りはその間も、リレムがもっと色々楽しみたいと言ったのでその地の芸人を雇って後援させたり、瓜生が渡した手品用具でリレム自らが手品を披露したり、どんどん盛り上がっていく。  瓜生は、自分の正体を知る少数の人、特にガライには外では絶対に明かすな、と厳しく口止めした。  船がガライに戻り、数日後にまた次の船が来る。 「さて、次はどちらへ?」何人か、急を要する患者の手術を終えた瓜生の言葉にアロンドは一瞬考え、 「北のお告げ所とやらへ向かう」と命じた。  瓜生は軽く頷き、「船と飛行艇、どちらがいいでしょう」とほほえみかけた。 「飛行艇?」 「静かな海に限りますが船のように航行し、その勢いで空を飛ぶ乗り物です。十人程度なら乗れますし、一日でアレフガルド大陸を横断できますよ。動力のある船なら天候がよくても四日ほどかかりますが」 「伝説で聞いた覚えはありますが、本当に、そのようなことが」サデルが怯えた表情で言う。「伝説が、そこまでまことだとしたら……あ、あの、〈上の世界〉で、爆発で山脈を吹き飛ばしたというのも」 「事実です。TNT……イオナズンを集中させて約一トン、約五千万分を十七基、百万級を五十三基使用しました」瓜生の、罪悪感に顔を伏せた一言に、〈ロトの子孫〉たちが震えあがった。  イオナズンさえも、いまのアレフガルドで使えるのは〈ロトの子孫〉でも特に優れた魔法使いだけだ。  瓜生は以前〈上の世界〉の王たちに頼まれ、世界を分断するいくつかの山脈、それどころか二つの大陸をつなぐ山をパナマ運河のように、大量の水爆で破壊した。人は死なないように努めたが、膨大な自然を破壊した罪悪感はいまもある。 「それより、奥様のお体が心配なのです。アレフガルドに安住の地はない……そして、船に揺られる激しい旅に」じっと、アロンドとローラの眼を見、「大丈夫なのですか?」と問う。  夫婦は表情を殺した。  しばらく沈黙が広がる。 「人に見られない海辺を探して、そこから出発しましょう。百何十年前ですが、ルーラでいける場所を見つけています」  瓜生の言葉に、ほっとしたようにアロンドが頷く。 「年月で地形も変わっているでしょう。一度確認してからご案内します。ルーラ酔いは大丈夫でしょうか?」 「だいじょうぶよ!」ローラが怒った表情で言う。笑顔ではあるが、奥に深いとげがある。  数日後、飛行艇がルプガナの南、ドラゴンの角がそびえる海峡から飛び立った。  久々に貴人の乗客がいる状態での操縦に、瓜生は緊張していた。  もちろん皆、驚きを通り越していた。伝説で多少知っているとはいえ。  そのまま一気に、頭に残っている海図通り西に向かい、デルコンダル大陸をふさぐ急な海岸線を横目に北に針路を変え、上空を飛ぶことも許されない大陸に沿って北上する。 「何てきれいなところだ」アロンドの声がする。  簡易トイレの臭いも濃いエッセンシャルオイルでごまかし、ディズニーのアニメ映画とぜいたくな菓子やスナック、最上級のワインやウィスキー。  陽が沈む前に小島や浅瀬を見つけては着水し、島であればテントを張り、浅瀬であれば着水してからすぐそばに客船を出して座礁させ、キッチンで食事を作り寝台で休み翌朝には消して出発する。 「今も、だれも入れないようです」その厳重な結界は、瓜生にははっきり見えていた。魔法が使えるアロンドやサデルにも。  大陸の端は細長い半島となり、いくつかの島が散らばっている。その一つには結界がないことが、見ればわかった。  空から見おろすと、小さなほこらがある。  小さな岸壁、一見天然の地形に見えるが外洋の荒波をさえぎる良港だ。そこに着水した飛行艇から、もやい綱を握った瓜生が少し空を飛んで着地し、頑丈な木を繋留柱として、飛行艇を引き寄せ固定する。  渡り板が用意され、数人の男女が降りる。  わずかな人が人里離れ、修業している修道院の戸をアロンドが叩く。 「敵意はない。知恵を借りにきただけです。私はアレフガルドのアロンド」 「お待ちしていました」  静かに戸が開き、清らかな印象の老人が一行を迎える。  中庭にそびえる巨木の下で、井戸からくみたての素晴らしくうまい水と、甘酸っぱい果物が配られる。 「勇者殿、そして賢者殿。予言のとおりにいらしてくださったのじゃな」  アロンドが目を見張る。  瓜生は「この日が来るのは予言されていましたね、百何十年前にこちらにうかがった際にも」と微笑んだ。 「わが王国はいずこか?」アロンドが、何かに憑かれたように言う。 「あ……」言おうとした長老が、頭を抱え、うずくまる。しばしもがいてから立ち上がり、「余人には漏らせぬ。こちらへ、勇気ある者よ」  と、アロンドのみを指差して誘った。  深い洞窟をくだり、腰まで浸す地底湖を通りぬける。そこに、輝く色砂と自らの血で複雑な文様を、何人もの老人が描き足していた。  描いていた老人たちがひざまずき、影に消える。そして、案内していた長老も去る。  一人残った、五歳ほどの子どもが立ち上がり、文様を弄ぶ。長い間、ただ色石で遊びほうける。  突然その目が据わると、可愛い口からしわがれた老人の声が漏れはじめた。 「〈神も魔も竜も殺す者〉勇者ミカエラの、双子の王子の片割れの子孫。ネクロゴンドとアリアハン、二重に高貴なる血を引く〈竜王殺し〉勇者アロンドよ。そなたの王国はかの禁じられた大陸!」  アロンドの目が見開かれ、呻きが漏れる。竜王の前に立った時と同じ、凄まじい魔力が圧力となりのしかかるのがわかる……彼が常人であれば、その場で死んでいた。 「ネクロゴンド、アリアハン、そしてアレフガルド、そして」子が耳と目から血を流し、もがき苦しんである名を洩らす。 「四重に高貴なる血につながる、交差する血が最初の王国を、かたわれは魔の島を。三重に高貴なる弟もまた一国を、三重に高貴なる王女は隣国の血に。そしてはるかなる時を経て、三人の王子王女が」  また、子どもが苦しみあえぎ、「……ドー……の禍を打ち払うであろう!禁じられた大陸の呪いを解く鍵、ムーンペタに聞け」  そして子どもは、目が覚めたように子の声で泣きだし、影からまた出てきた老人たちが抱き取った。  よろめき出たアロンドは、呆然とした表情で座りこみ、「ムーンペタへ」とつぶやいた。  瓜生は当然のようにうなずく。  そして一晩そこで休み、また飛行艇に乗ると飛び立った。  来た航路を戻るように大陸沿いに南下し、デルコンダル大陸との海峡を抜け、また大陸沿いに北上する。  人がいない、ひたすらに広い森や草原。その腹に、人気のある大きな半島が突き刺さるように、狭い海峡を隔てている。  その島の一つでさしもの航続距離も尽き、一度着水して燃料を補給し、また飛び立って半島を南下する。  西側から大きな川が半島に入り、その周囲には大きな森と、豊かな農地が広がっていた。  やや内陸の川べりに、大きな町がある。  人気のないところに飛行船を着水させると、瓜生を先頭に、ローラを抱えたアロンドたちが町に向かった。 「ムーンペタ、ムーンブルクの一都市ですが、半ば独立するほど大きい……本で読んだことはありましたが」  アムラエルが目を見張り、美しい木造の都市を見上げる。 「さて、どうしますか」と瓜生がアロンドに聞いた。 「どう、とは?」 「名乗りを上げて堂々と入るか、それとも身元を隠し、単なる旅人として入るか」 「ムーンブルク王国にはまだ挨拶していませんね。この街は半ば独立しているので問題はないかもしれません」アムラエルがつぶやく。 「旅人として見て回ろう。式典に参加する時間もないし、ローラも疲れている。賢者にあって話を聞くだけだ」 「陛下から、そのようなおりのための手形もお預かりしています」ローラつきの女官が、若い女官が抱える文箱から一枚の封書を出す。 「着替えましょう。出入り口はレムオルで」とテントを張り、ルプガナで買った下級貴族向けの服に着替えてから呪文を唱え、一行の姿を消す。  門をくぐり、下町の物陰で呪文を解こうとしたが、逢い引きをしていた男女に邪魔され、別の物陰で姿をあらわした。 「あまり町は変わっていないようですね。でも難民たちがいない」瓜生が懐かしげに見回す。「前は、デルコンダルの内乱やムーンブルク都の疫病で、多くの人が逃れていたんです」 「鋼の剣と鎧か。いい鋼だな」アロンドが店頭の剣を手にとる。 「水運に恵まれ、良質の鉄鉱石と無煙炭田、広大な大森林からいくらでも得られます。メルキドをしのぐ鉄鋼都市でもありますし、農業生産力もとても高い」瓜生が微笑む。 「宿に泊まりたいな」アロンドがローラを見る。「すまないな、宮殿ではなく鄙の宿となる」 「かまいません、あなたとなら」微笑みに、皆があてられてあらぬほうを向く。 「船や天幕よりましじゃ」ローラづきの女官が怒った。 「よろしければハンモックか、空気を入れて膨らませる寝台と羽布団は用意しますよ。出るとき消します」と瓜生が言う。  豊かなムーンペタでは、下町の宿の食事も実に素晴らしかった。ルプガナでも食べた、木の葉を食べる家畜の乳酒が酸い酔いと心地よいぬくもりをくれる。  瓜生は昔のムーンペタで覚えた俗謡を歌い、リレムもすぐ覚えて共に歌う。宿の客たちも古い流行歌を喜んで歌い、大喜びする。  顔を化粧品で変えていたアロンドも、その明るさが周囲を引きつけ、さらに瓜生が陶器に入れ替えたブランデーを一人一人に注いでやると爆発的に盛り上がる。 「やはり祭りになってしまうな」 「それが、あなたの宿命みたいなものですよ」瓜生は苦笑するしかなかった。微かな哀しみをこめて。 「次からは、身分を隠そうとしないほうがいいですね」サデルが寂しげに言う。「なぜ、わたしではなく……」 「選ばれる側も辛いもんだよ。ミカエラも苦しんでいた」瓜生がそっと、ブランデーを注いでやる。  翌朝、温かな食事を腹に、町を見て回る。ぞろぞろとついてくる人々もいるが、多くの人は買い物を楽しみ日々の暮らしを続けている。  広場に面した大きい館の門を飾る、美女の等身大の石像を見て瓜生は足を止めた。衝撃に表情を揺るがし見つめ、いくつか呪文を唱える。  腰まで届く髪。周囲とは違う衣裳、人の手で掘られたとは思えない、透き通るようにきめ細やかな石肌。〈下の世界〉の人とは違う、多人種混血の甘くスパイシーで、目を離せなくなる顔の造作。背は低いが素晴らしい肉体美。 「どうかしましたか?何て美しい」ローラが見る。  アロンドも何かを感じたように、その像に触れる。「これは」 「デルコンダルの古い服ですね。聞いたことがあります、有名な彫像です。これをめぐり、ムーンペタとムーンブルク本国が戦になりかけたことすらあるとか」とアムラエル。 「石にされた人……知り合いです」瓜生がアロンドに震える声で頼む。「助けたい……館の主人と、交渉させて下さい」 「私が」とアロンドが、門を叩く。  侍従にローラが出した手形を渡し、しばし待つと、あわてたような衛兵や侍従に案内され、一行は大きな客間に案内された。 「またも失われたと思われていた、アレフガルドからのお客とは。それも幼き頃よりその美しさ近隣にも轟いていた、あのローラ姫さま……お目にかかったことがあるのですよ、姫さまがごく幼い頃。わたしが商談でラダトームに赴いた折に。覚えてはいらっしゃらないでしょうな、ムーンペタのヤフマと申します」  豪華な衣裳をまとう初老の主が、口調の柔らかさとは裏腹に鋭い目を向けた。 「わたくしは覚えておりますぞ。花に満ちた祭りで、すばらしいお品も頂きました。それもあの、竜王の襲撃に焼け失せましたが」ローラ姫の女官が目顔でアロンドに許可を取り、深く礼をする。 「そしてわが夫、〈竜王殺し〉勇者アロンドを紹介させていただきます」とローラが微笑みかける。 「これはこれは、してやられましたな。わが息子とムーンブルクの王子のどちらをあなたの夫とするか、と狙っておったものを。それにしてもあの竜王を」磊落に笑う。目の鋭さは変わらないが。 「戦いしか知らぬ世間知れずゆえ、ぶしつけながら申し上げます。大変に厚かましきお願いながら、このお館の門を飾る、美しい女人像を譲っていただきたいのです。金銀でできるお礼ならば、いかほどでも」アロンドの真剣な目。  ヤフマはじっと沈思した。 「あれは、何代も前に手に入れ、ずっとわが家の、いやこのムーンペタの象徴とも言える品です。彼女だけ持って行けるなら、この館そのものに宝石箱をつけてでも喜んで差し上げたいが……」鋭い目に苦慮の色。  アロンドはしばし考え、一瞬目を閉じて、目に力を込める。 (ミカエラの、あの目)瓜生の背筋が寒くなった。 「あの像は、魔法で石とされた人です。助けたい」  主人は衝撃を受けた。むしろ、アロンドの目と声に。  そのまま、皆のほうが石となったように沈黙が広がる。 「負けです。なんというお方だ……どうぞ、その魔法を解いてください。脅すこともできたでしょう、呪いがかかっているとか。お国の威を借ることも、交易の利を出すことも……何よりその目、わが身を投げ出し忠を誓いたいと叫ぶ己を抑えるのが、精いっぱいですよ。勇者どころか……王だ」  ヤフマが乾いた笑いを上げながら、椅子に深く沈みこんで酒をあおった。 「同じ重さの純金、それにレプリカですが、これらをせめてものお詫びに」と、瓜生が著名な石像の、最高級レプリカのカタログを見せる。 「おお……これらも魔法で変えられた人ですかな」と食い入るように見つめる。 「ありがとうございます」瓜生がアロンドに、低い声で言うと立ち、像に向かった。  館の人も含め、珍しそうに見に行く。あっというまに、町の人が集まる。  瓜生は像の周囲に魔法図をいくつも描くと静かに集中し、低く声を出し始める。歌詞のない歌、魔力を解放して周囲の森、この街そのものと響き合わせる。  複雑な編み目が、人を石と化している。歳月が石肌を削り、そのうちに微かに眠る生命を蝕んでいる。  時を、邪悪な呪いをほぐす。シャナクとマホカトールの応用呪文、きわめて多様な呪文を次々と唱える。魔力を持たぬ人々にも、大気と大地のきしみ、色とりどりに舞い散る光の火花は見える。  モシャス。一瞬、かの大魔王ゾーマの姿をとり、凄まじい冷気と恐怖、絶望が人びとの魂をひしぐ。アロンドが絶叫した。それが暴走を辛うじて止め、凍てつく波動が古くこびりついた魔力を打ち消す。  人の姿に戻った瓜生が、さらに呪文を加える。アロンドも呪文を唱え血筋に受け継がれた力、竜王から食らった力を引き出す。サデルも、他のミカエラの血を引く〈ロトの子孫〉たちも呪文を唱え続ける。  別に、ローラからも奇妙な力が引き出される。さらに、街の一角をなす大きな池の、中心にある島からも強大な魔力が貸されるのがわかる。  それは金庫破りやコンピュータのハッキング、またもつれたコードを解くようでもあった。  織り目に乱れがあり、ゾーマの魔力紋様が認証画像と同様に結び目を封じている。瓜生は喰らったゾーマの魔力を形にして注ぎ、破り結び目を解く。  竜の女王の力が、形のない錠前のような対抗魔術となる。竜の女王の子、竜王を倒したアロンドの魔力にローラから注がれる謎の波形を合わせ形作られた鍵を鍵穴に入れて回す。  神竜のうろこが視床下部に刺さり、もしこのまま復活させたら街ぐらい焼き尽くしかねない罠となっている。瓜生と、ミカエラとラファエルの血を継ぐ〈ロトの子孫〉たちが、喰らいあい血に継いだ神竜の魂の欠片を呼びさまし、絶大な魔力を中和し脳組織の結合を回復させる。  瓜生一人だけでは到底無理な、莫大な魔力が無辺の布地に美しい刺繍を入れ、乱れを綴り直す。数々の神力が編み合わされ、撚り合わされ織り上げられる。  石の一つ一つの細結晶が、百年ぶりに細胞に変じていく。DNAが分裂と自己複製を始め、RNAがアミノ酸をつないで情報を送り、ATPがエネルギーを供給し、多様なタンパク質が超微細で複雑な構造を取り、電解質の濃度勾配が多様な物質を運び、水が脂肪の薄膜を膨らませ、神経内を化学物質と電気がゆきかいはじめる。魔力の光と共に生命という、ひとときも止まることのない大交響曲を織りなしていく。  歳月による傷を癒し、アロンドの怒号が、雷電が心臓を打つ。石が肉に変じ、鼓動。二度、三度……たゆみなく打ち始める。  女像を抱きしめていた瓜生が稲妻に打たれながら、呪文を唱えきる。瞬間……電光が拡がり目のくらみがさめると、裸身の美女が腕の中にいた。  その瞬間、瓜生とアロンドは遠い未来を見ていた。いや、この夢ははるか昔、ミカエラも見た。少女の姿に変じる犬。砕ける鏡。ここで。 「ジジ?」瓜生の優しい声。  恐怖に呆然としていた群衆が、絶叫した。何かわからないがとんでもない奇跡が起きたのを見て。 「なに、悪あがき……ウリエル……」彼女が静かに言った。「ちょ、ちょっとなにすんのよ!それに、裸、ばかあっ、な、なに」 「相変わらずだな」と、瓜生が毛布で彼女を覆う。 「バカバカバカカババカ!」 「久しぶり。どうしてた」瓜生が、回復呪文をかけてから彼女を横たえる。「街から、あなたから大切な芸術、象徴を奪ってしまったこと、申し訳なく思います。これが償いになれば」と、町の人々やヤフマに頭を下げ、アロンドに小さく頼む。  呪文が雷光となり閃光手榴弾と混じる。目と耳が回復し、マグネシウム煙を風の呪文が払うと広い鉄門の左右を、芸術家の手で精密に複製され瓜生の故郷で売られているミロのヴィーナス、石を構えるダビデが飾っていた。  群衆の叫び声は続く。 「さて、あなたさまは……」客間、美しい服に着替え深い椅子に沈むジジに、呆然と見とれながらヤフマが聞いた。 「今は、そんな年なのね。百年以上、石だった」彼女が呆れたようにいい、アレフガルドやムーンブルクの歴代王の名前を書いた紙に指を這わせた。瓜生も受けとって目を通し、あらためて長い年月にため息をつく。 「生まれたときから見上げていた像が生身となり、話すなど。幼い頃は夢みておりましたが」とヤフマが嘆息する。 「彼女は、勇者ロトの故郷〈上の世界〉出身の魔法使いです。勇者オルテガの弟、盗賊カンダタの部下で、ひとときは勇者ロトの仲間でもありました」瓜生は彼女の耳に口を寄せささやく、「おれがいたことは内緒だ」  あらためてジジを見る。ミカエラたちと、ジジたちも交えて旅していたころは、小さな少女だった。そして最後に、故郷に帰る直前デルコンダルで戦うカンダタやジジと会ったときは、二十歳程度だった。そして今は、魔力で年齢不詳…… 「そうね。そしてミカエル、勇者ロトがゾーマを倒し……」少ししゃべってはため息をつき、瓜生の差し出す吸い飲みからスポーツドリンクを飲み、咳こむ。 「あたしたち、カンダタとかも上に帰れなくなってデルコンダルに行ったの。統一できそうだったんだけど」ちらりと、ジジが瓜生を見る。瓜生が莫大な物資や上空からの空撮写真で覇業を援助したことを覚えている、ということだ。 「あの謀叛ですな」と、ヤフマ。瓜生はわからないのを隠した。 「歴史で聞いたことがあります。カンダタ盗賊団のジャハレイ・ジュエロメル、恐ろしい魔法使いだったと。でも東湊の乱でとらわれ魔獣のえさと処刑された、と習いましたが」アムラエルの言葉にジジが苦笑した。 「あれはモシャスをかけたパペットマンよ。それで逃げきったと思ったんだけど、この街のそばで刺客の魔法使いに追いつかれて……灰にしてやったけど断末魔の呪いにやられた。あれ、半ば人じゃなかった、邪神教団と関係ありそう。油断したわ」  それだけ言い終えて、眠りこむ。 「それにしても、とてつもない魔力でしたな……ウリエル、どの」ヤフマが瓜生を見る。 「いえ、私だけではあのような魔法は無理でした。わが主、勇者アロンド様のお力です。あ、お約束の純金です」と立って一度別室に入り、巨大な袋を二つ担いで隅に置いた。この世界では知られぬ企業名と紋様が刻まれた金地金の、人の体重に倍する山があふれる。「一度に市場に流せば、黄金の価値が失われる可能性があります。こちらもご笑納ください、金であがなえるものではないとはわかっていますが」と、色とりどりの、すべて十カラット以上の宝石を三〇個ほど机に並べる。その美しさに皆が呆然とした。 「あらためて心よりお礼申し上げます」と、アロンドとローラが深く礼をする。  瓜生は二人への感謝に、身が潰れるような思いだった。  ジジの回復を待ち、サデルとリレムをつけてローラを休ませた一行はムーンペタの隠された小屋に向かった。大きな池の中、禁断の島と街をつなぐ地下道の入口がある。 「あちらの聖者様は、時に強力な予言をなさいますが、とても気まぐれで恐ろしい存在です。それにこの地下牢には、恐ろしい魔物がいると……お気をつけ下さい」と見送られ、長く閉ざされた扉をジジがアバカムで開けて、地下に降りる。 「アバカムだなんて」アロンドが驚く。  挑戦的な目を、ジジが瓜生に向けた。 「なりたて賢者の頃、忘れてないよ。エニフェビやガブリエラ、きみにも魔法を習ったっけ」  瓜生が苦笑を返す。 「懐かしい名前を言わないでよ……先生は?」 「サマンオサの宮廷魔術師になったはずだ。元々あっちの貴族出身だそうだし。沼の洞窟近くに隠れ住んでた甥がいて、ネクロゴンドに医学を習いに来てた」  二人の、懐かしい師である老魔術師のことを思い出す。勇者オルテガの代からの縁。 「ガブリエラとは、時々会ってた。ちっちゃなミカエルを連れてきて、カンダタに剣の稽古させたりとか」 「おれの悪口も言い合ってたろ?」 「まぁね」  深い地下道を歩く。いつしか、脇が鉄格子となり、腐臭が漂い出す。 「幽霊船でもこんな匂いしてたわね」と、ジジが顔をしかめる。  何年ぶり、という言葉が意味を持たない、昔の冒険を二人とも思い出す。 「下層甲板で、おれが呪文をしくじったときに助けてもらったな」 「一生恩に着せるからね、あのときのことは」 「え、石から戻したので返せてないのか?」 「それぐらいじゃ足りないわよ」  そのとき、突然鉄格子が破られ、数百のヘビが先頭にいるアロンドを襲おうとした。  彼が剣を抜き斬りつけるが、剣は粘土に斬りこんだように抜けない! 「メラゾーマ!」二つ、ほぼ同時に呪文が完成する。  岩を蒸発させる超高温が二重に、ヘビたちの中心に注がれる。  一歩下がったアロンドが背からAK-74を手にし、手早く安全装置を解除してボルトを引きフルオートで全弾ぶちこむ。  瓜生の手に出現した身長以上の両手剣が、上から襲う巨大なヘビを両断する。瓜生とジジが目を合わせ、手ぶりを交わす。 「イオラ!」ジジの呪文。破壊ではなく瓜生を巨人が投げるように飛ばし、敵の中心に放りこむ。 「べぎらま」アロンドの呪文、熱線ではなく稲妻が鉄格子を伝わり、周囲のヘビを打ち飛ばした。 「マホトラ……邪なる威力よ退け、マホカトール!」剣を虚空に消し、手を突き出した瓜生の呪文。握りしめた実体のない何かから膨大な魔力が吸われ、光の魔法陣に消え失せる。 「修業は積んだようね」ジジが瓜生に笑いかけた。「坊や勇者もやるじゃない。でもライデインがベギラマだなんて、長年の間にいろいろあったのね」 「おれだってあのころのままじゃないさ。どうやら、無闇に人が通らないよう、脅し半分に仕掛けられていたようです」と瓜生。 「人騒がせだな」と、見えた階段を昇ると、そこは小島の小さな小屋だった。  そこには、若い男とも女とも知れぬ人が一人、座して微笑みかけている。 「勇者ロトの子孫アロンド。そして勇者ロトの仲間、異界よりきたりし賢者ウリエル」  アロンドが頷く。 「予言の通り、ここに」瓜生が目を伏せる。かつてムーンペタで、また来るという予言を聞いている。 「あの像の魔法を解き、人に戻すとは……こちらから見ていました。危険なことをなさいますね」 「少しお力をお借りしました」瓜生がいう。 「お礼言わなきゃいけないのかな」とジジ。 「北のお告げ所で、こちらに来るように言われました。鍵とは何でしょう」アロンドが単刀直入に。 「五つの紋章です。精霊ルビスさまが創り世に散らしました。太陽、星、月、水、命の五つ」と、彼女の手が空に、五つのマークを魔力で描きだす。 「山彦の笛を捜し、あちこちで吹きなさい。塔、ほこら、町、洞窟……紋章があれば、こだまをかえすでしょう。紋章が揃えば、大洋の中心にある新たなルビスさまの神殿に捧げなさい」 「昔、〈上の世界〉でオーブ捜しに使った笛です。確かルプガナの商人に売ったかと」瓜生がうなずきかける。 「わかりました。ありがとうございます」それだけ言って、アロンドは立とうとした。 「どうか、あなたの王国に聖なる血筋を残し、ロンダルキアの破壊神に備えてください。そして魔の島の、人と争わぬ守り手を……勇者様」と、予言者は静かに祈る。  辞去したアロンドたちは、ローラたちを迎えに行った。 「ジジ、これからどうする?」瓜生があらためて聞く。 「もしよろしければ、ぜひともずっとこちらにご滞在下さい」ヤフマが熱心に言う。「実は、あなたは、私にとっても……父にとっても祖父にとっても、息子にとっても孫にとっても、初恋の人なのです。いや、このムーンペタの男全員にとって。ムーンブルクの王族や貴族も幾人も石像のあなたを愛し、金銀を積んだり献上を迫ったり、王位を捨て生涯をわが館の客で終えた王太子もいたと」  ジジの表情はなんとも言えなかった。 「彼女は強大な魔法使いです」瓜生がつけ加える。 「伝説的な」アムラエルが震え、つけ加える。「それとも、デルコンダルに?でも、あちらは」  ジジは静かに、美しい微笑を浮かべて首を振り、アロンドを見た。 「助けてくれた……カンダタとも親戚の勇者アロンドに、ついていかせて」  アロンドは笑顔で頷き、「ご恩は忘れません。あらためて感謝申し上げます」と告げルーラを唱えた……ルプガナへ。  秘かに戻ったルプガナでは、数日の間に新しい船が往復し、また交易の富に沸き立っていた。  ガブリエルと再会したアロンドたちは、その収益を聞いて驚いている。  ただ心配だったのが、ルーラ酔いかローラが疲れたようで、すぐに休みたがっていたことだ。女官たちは、これ以上激しく飛びまわる旅はやめてくれるよう言うが、ローラはアロンドについていきたがっている。  瓜生は、何人かの患者の予後を聞いて、次の手術の計画を立てていた。〈ロトの子孫〉にもかなりの水準の医学が伝わっているが、やはりレントゲンを使いこなせるのは瓜生だけだ。  代々商人のケエミイハ家の当主と、治療前に話をしようとすると、アロンドが声をかけた。 「わが先祖のロトが、あなたに不思議な音色の笛を売った、と伝わっていますが、事実でしょうか」 「はあ、伝わっていますが」 「売ったのだからあなたのものには違いない、ただお願いします、しばしお貸しください」相変わらずの単刀直入。 「え、その」と、瓜生を見て、ひどい歯の痛みと妻の不妊に苦しむ若者は、痛む歯を押さえてぞっとした表情を浮かべた。  それまでの、莫大な金はもちろんそのまま死ぬことの多いラリホー医とは違う、無菌・局部麻酔での手早く正確な治療、不壊のアマルガム……だが、わずかでもその手元が狂えば、どんな苦痛でも与えられる。 「ロトの子孫で医療に関わるものは、医療を取引の手段としません。ただ無償で治療し、相場の金額を貧民に使って欲しいというだけです。そうでしたね」強烈な視線。  アロンドの目に、瓜生はむしろ嬉しい思いで頭を下げた。 「誓って。全力を尽くします、安心してお任せください。失礼」と、長寝台にクッションをあてがい、マスクをして口を開けさせていくつかの小型LEDランプをつけると、手袋を変えて中を見る。 「前の治療を続けます。薬は安定しているかな、ちょっと無茶な食事をされていませんか?進んでいますね。失礼、これを少し口にはさんで、しばらくするとしびれますから麻酔します」  と、そのままひどい虫歯の神経を抜き、どうしようもない親知らずは抜歯しモルヒネ注射。 「歯を、噛み砕いた柔らかい木の枝などで磨くとかなり自分の歯で食事できますよ」そう言って、すぐに次の患者に移る。  ケエミイハはしばらく口の麻酔で呆然としつつ瓜生とアロンドを見、苦慮の目で、 「申し訳ない、もし手元にあれば喜んでお貸ししたでしょう。ですが、実は父の代にろくでなしの親戚がいて、その男が借金のかたに売ってしまっているのです。おそらく今は、メルキドのイゴメスの手にあると思います」  瓜生はアロンドと眼を見合わせた。 「ただ、あの家はものすごく頑固で、一度手に入れたコレクションはどんな大金を積んでも手放さないと評判です。私も何度も買い戻そうとしたのですが」  若い豪商は首を振るばかりだった。 「結構時間がかかりそうだが、その間ずっと、ルーラや飛行艇の連発だとローラが心配だ」その夜、時間を作ってアロンドが言った。ローラは疲れたと早めに寝ている。 「ゆっくり落ち着ける場を探すべきでしょうね。無人島に仮設住宅を作ってもよいのですが。またはどこかの浅瀬に中型客船を座礁させるか」瓜生が答える。「アレフガルドに里帰りすれ」 「それは絶対にだめだ」アロンドが強く言う。その迫力には、ジジも飛びあがった。 「びっくりしたあ……さすが。そういえば、あたしとあんたってゆっくり話したこと、あまりなかったよね」ジジが瓜生をにらむ。 「まあね」 「あんたが、〈上の世界〉とも違う別世界から来た、ってのはミカエラたちが子供預けて消えてからガブリエラに聞いた。いろいろなものを出せる、ってことも」ジジがかなり強いブランデーを飲む。 「私たち〈ロトの子孫〉たちにも、ある程度は伝わっています」とアロンド。 「そんなところだ。魔法が使えない、科学技術が発達し巨大な人口と生産力・軍事力がある世界なんだ。ジジはアッサラーム生まれだよな?そういえば、デルコンダルがあれからどうなったか、全然知らないのですが」 「私も細かいところは知りませんね」アロンドが肩をすくめる。 「アムラエルさんは知っているかもしれません。ちょっと呼んできます」と、瓜生が気軽に立つ。  いきなり呼ばれた彼女は緊張していたが、歴史の話ときいて笑顔で答え始めた。 「デルコンダルは古来、謎めいた王国でした。豊かな土地柄ですが、このあいだ空から見たように一本の大河を除いては岩山に囲まれており、諸国との関わりが少ないのです。大魔王ゾーマがアレフガルドを封じていた数十年の、かなり前から深刻な内戦がありました。  ゾーマが倒されてより、王族の生き残りだった姫が、カンダタという戦士に助けられて急速に勢力を伸ばし、統一されると思われたのです」 「あたしは、〈上の世界〉からカンダタ盗賊団の一員だった。それで勇者ロト、ミカエラたちとも一緒に旅してたこともあった、サイモンのクソガキとともに。あたしはあいつと仲が悪かったし、サマンオサに仕えるなんて性に合わなくて」ジジが軽く笑うが、その手は握り締められている。 「ええと」歴史そのものであるジジを見て戸惑いつつ、アムラエルがいくつかの巻物を開いて言う。「その、九割がた統一できたととき、最後に残った砦を攻めている最中に、デルコンダル出身の貴族が反乱を起こしてカンダタを殺し、そのまま帝位を名乗った、と」 「ヤジァテのヅラハゲの皮かむり野郎よ。カンダタに助けられた身なのに」ジジの激しい怒りは、笑顔より彼女を美しく見せた。 「スイセル女王を娶り、皇帝を名乗ったヤジャテも二年後には倒されました。スイセル女王も共に自害したとか。  マコシ一世が、スイセル女王とヤジャテ大臣の幼児を傀儡に即位、その女児に子を産ませて殺し、そのままその血脈が王位を継承しているようです。……それが、伝わっている正史です」  瓜生は歯を食いしばっていた。自分が助けた覇業。予告はしていた、自分の責任ではありえない。選んだのはカンダタだ。  だがジジだけでなく旅を共にした仲間もいるし、カンダタ自身も知らぬ仲ではない。自分を圧倒した剣技、叱咤する厳しい声、どちらも覚えている。 「あたしは逃げたわ。ゴルベッドはその前の戦で死んでた。あと、カンダタが侍女に手ぇ出して産んだ女の子を大灯台の〈ロトの民〉に預けた。それにしても、マコシ一世って一体誰よ」ジジがいらいらした様子で言う。 「え、そ、その……それ以来、デルコンダルはほぼ鎖国されているそうです」アムラエルが呆然としている。 「歴史やってたなら、いろいろ聞きたいことあったでしょ?」ジジがうるさそうにいう。 「あ、そ、その」一瞬、頭が真っ白になったようだ。「ええと、スイセル女王も伝説的なのですが」 「バカ女。強いやつについてくだけ」一言だった。 「あんな時代だしね。美人でしたよ」瓜生が苦笑する。 「ああいう女、アッサラームの娼婦に腐るほどいたわよ。カンダタも女を見る目ないんだから」ジジがぶつぶつ言っている。 「しかし、今のデルコンダルに邪神教団が関係してるなら、どうにかしたほうがいいかな」瓜生が首をひねる。 「ま、敵討ちというには時間離れすぎてるけどね。それより、もしあの子の子孫がいるなら、会いに行きたいな」と、ジジ。 「大灯台の島か。あそこなら、奥様ともども落ち着ける拠点にもなるのでは?」瓜生がアロンドを見る。  アロンドが微笑み、うなずく。瓜生はサデルとうなずき合い、海図を広げ計画を練り始めた。  アレフガルドの南にある大きい島に、飛行艇が降りる。  大きな塔がそびえているため、見つけるのはたやすかった。 「ロンダルキアを見張るために、太古に作られた塔だ」瓜生が言って、あとは自動操縦に任せ着水させる。 「その、〈ロトの民〉というのは……アレフガルドでは、この島は魔の島とされています。常に多数の魔物がいて、人を寄せつけないと」  アムラエルが怯えたように言う。 「ここは〈ロトの民〉の島でもある。その魔物は、人は襲わない」サデルが言った。 「その、〈ロトの民〉とは……アレフガルドの歴史の中に〈ロトの子孫〉が隠れている、と言う歴史家もたまにいて、否定されていましたが」言いながら彼女はアロンドやサデルを見る。〈ロトの子孫〉は目の前にいる。 「〈ロトの民〉はね……」サデルが、アロンドを見る。 「アムラエルやリレムは信頼できる。それに、もう隠す意味もないさ」アロンドが笑ってうなずいた。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の歴史を語るには、まずアレフガルドの創世神話から始めなければならない。  アレフガルドは精霊ルビスが創造し、〈上の世界〉と呼ばれる、ルビスや竜の女王、天空の神竜などに支配された元の世界から人々を呼び寄せて住まわせた。  そのアレフガルドにあるとき、恐るべき大魔王ゾーマが出てアレフガルドをその外の世界から分断し、夜の明けぬ闇に閉ざし魔物をはびこらせ、そして精霊ルビスをも封じ込めた。  さらには〈上の世界〉にも手下のバラモスを送り、諸国を内外から攻めた。 〈上の世界〉にアリアハンという国がある。かつては全世界の盟主だったが、戦乱の末に一大陸のみの、やや閉じた国となった。  だがアリアハンには代々、勇者と呼ばれる超戦士を送り出し、大きな世界の乱れを救う家があった。  バラモスが出現し大国ネクロゴンドが滅びたとき、アリアハンの勇者オルテガが立ち上がり、サマンオサの勇者サイモンなどと共に世界を転戦した。  だがサイモンはサマンオサ王の人変わり……実はそれも、バラモスの手下に姿を奪われたのだが……で処刑され、オルテガもまた火山に斃れたと報告があった。  それから十余年、オルテガの一人娘ミカエラ、滅びたネクロゴンドの王女を母とし男として育てられた勇者ミカエルが旅立った。  彼女は三人の仲間と共に世界を旅し、多くの国を魔の手下から解放し、ロトの紋章の由来でもある伝説の不死鳥ラーミアを蘇らせてついに魔王バラモスを倒した。  だがその宴の席で、バラモスは異界アレフガルドの大魔王ゾーマの手下に過ぎず、〈上の世界〉もゾーマの侵略に直面していることがわかる。  勇者ミカエルと仲間たちは、それを先に出て迎え撃たんと竜神の力を宿す光の玉をたずさえ、アレフガルドに降りたのだ。  それからミカエルたちはついに大魔王ゾーマを倒し、アレフガルドにおける最大の名誉、勇者ロトの称号を受けた。だがその宴から、彼女たちの姿は忽然と消えた……アレフガルドに伝わる、神々の剣・鎧・盾、そして精霊ルビスの愛の証であるロトの印、さらにゾーマの力を封じ込めた神宝、光の玉をラダトーム王家に寄贈して。  それがアレフガルドに伝わる勇者ロト伝説である。  アレフガルドではその後の消息は知られていないが、疫病に襲われた隣国ムーンブルクを救い、デルコンダルの統一にもかかわり、また当時アレフガルド外の世界を荒らしていた謎の海賊を滅ぼしたとも伝説はある。 〈ロトの民〉の伝承は明確だ。ある街が業病を病んだ者を捨てていた島をミカエラたち四人が訪れて病人を癒し、もはや故郷のない元患者たちをアレフガルドに近い、古き塔の一つ大灯台がある島に入植させた。  その子孫たちは〈ロトの民〉を名乗り、今も広い島を半ば鎖国して耕しつつ勇者ロトの血筋に忠誠を誓い、その帰還を待ち望んでいる。その伝説を胸に島を出てアレフガルドに行き、〈ロトの子孫〉に加わっていく〈ロトの民〉もいる。 〈ロトの子孫〉は、冒険の末に〈上の世界〉アリアハンに帰還した勇者ミカエルの、その後に関わる。  世界を救い、神々に等しい力を得たミカエラに、何で報いればいいのか。  さらに仲間の一人でミカエラの夫ラファエルは、数えによっては現王より継承順が高いアリアハンの王族でもある。  二人の処遇に苦慮したアリアハン王国だが、ミカエラの母がネクロゴンドの王女だったことが役に立った。バラモスが倒され、復興しようとするネクロゴンドの民が、ミカエラを女王として求めたのである。  即位した夫婦には子が生まれたが、それは男の双子であった。〈上の世界〉では双子は忌まれ、どちらかは遠く離れて育たなければならない。そこで予言があり、双子の片割れラファエルがネクロゴンド王位を継ぎ、もう一人のミカエルはアレフガルドに下ることとなった。  その折、勇者に助けられた〈上の世界〉の志願者たちが数十人、さらに仲間の一人、賢者ガブリエラも赤子とともにアレフガルドに隠れ住み、赤子を育て自分たちも子を産み育て、異界の土となった。  彼らの子孫、多くはミカエルの子と血を交えた一族は〈ロトの子孫〉と自ら呼び、アレフガルドで正体を知られぬように暮らしている。 〈ロトの子孫〉を他と分けるのは、子供をかなりの年齢まで徹底的に教育することである。  まず、本物と偽物を見分けるには、彼らが伝える奇妙な異界の武器を渡せばいい。本物ならば目をつぶったままでも分解し、組み立て、安全に扱うことができる。その武器は一族の間に伝えられ、決して一族以外には渡さないし、手に入れても奇妙な鋼と木の棒でしかない。  剣と魔法にも優れており、素手でも戦える技も伝えている。  読み書きソロバンも高い水準で学んでいる。読み書きだけでも貴重だが、独特の数字とソロバンと呼ばれる道具を用いれば、他の人々とは比較にならないほどの計算能力になる。  さらに子供たちは農業や測量建築、航海術や医術も高く教育される。  皆が水田耕作を学び、人里離れた山間地も棚田に耕す。その藁や周囲の草で雨具・縄・俵などを作る技も身につける。米や豆から美味で滋養豊かな調味料や酒を造る。  大地を測って水路を正確に掘り、鉱山を見出すことにも優れる。そしてどこの町でも村でも、井戸や水路を掘ってきれいな水を確保し、また人畜の汚物の処理という汚れ仕事もなぜか好む。  帆船で海を航り、魚をとることも全員が学ぶ。  暇さえあれば禿山に草木を植え、森に戻すことを好む。  異常なほどの清潔さと学び継がれる呪文や薬で、普通なら多くは死ぬ産褥の母子、幼子がほとんど死なず、しかも赤子を間引きもせずに数を制御している。他の医術水準も高い。  もっと重要なのが、全員がルーラ程度の魔法を使うことができ、アレフガルドとは違う言語で読み書きするので、時に集まっては新しい工夫を交換し、孤児を引き取って教え育て、金や食料を貸し借りできる。  そして勇者ロト、ミカエラの名とその冒険を詳しく語り継いでおり、アレフガルドや周辺の国々とも異質な、多くの歌を伝えている。その歌の一部は、ガライの町の創設者である吟遊詩人ガライも聞き知っている。  何より、〈ロトの子孫〉はあちこちに奇妙な武器や多額の金子、食料を埋め隠し、常に万一に備えているのだ。  その優れた人々が要所要所で民に混じっていたからこそ、竜王の急襲に全滅を免れたともいえる。  険しい島だが、天然の良港が一つある。その奥は深い洞窟になっていた。  竹と果樹が生い茂る。その奥には豊かな水田。  瓜生が大型のゴムボートを出し、サデルが旗を並べる。  飛んでくる魔物、だが瓜生が手を挙げ、武器を手にする皆を止めた。 「〈ロトの子孫〉だ。〈ロトの民〉は?」  声をかけた時に、森の奥で騒ぎが起きた。 「うるっせえっ、いくったらいくんだ!」  呪文の気配に、瓜生とジジが素早くアロンドを守る。  爆発とともに、一人の塊が飛び出した。  塊、としか言いようがない。二メートルの長身、雄大な筋肉が盛り上がるパンツ一枚の裸身。頭をつるつるに剃っているが、顔は幼いと言っていいほど若い。 「お、おまえら、早速腕試しだ!」  アロンドたち一行を認めたとたん、常人の身長より長く、太い鉄棒をつかみ打ちかかってくる。  呆れたことに、飛行艇までの海を、まるで地面のように走って。 「特殊な呪文ね」と、ジジ。  瓜生が、肌身離さぬショットガンの弾倉を手早く交換すると連発。催涙ガスが沸き立つが、 「こなくそ!」その少年は呼吸ができず目も見えない苦痛も無視し、突っ走って、おもいきり鉄棒を……海面から突き出た岩にたたきつけ、岩は砕けたが手どころか全身しびれた様子だ。 「相変わらずうまいな」瓜生がジジに微笑み、「マヌーサです。彼女は生来、幻覚系呪文の天才なんです」とアロンドを振り返った。  そこに、背後の森から飛び出してきた人々が投げ縄を投げ、巨体の少年の首をからめて岸に引きずり上げた。  やれやれ、とばかりにアロンドたちも上陸する。何事もなかったように。 「このばか者め、われら〈ロトの民〉は勇者ロトの子孫を待つ民、自ら外に冒険に出るなど許されん」 「外の世界は恐ろしいのじゃ!わずかな病気で人を家族ごと焼き殺すんじゃぞ!」  老人や大人たちに殴られ蹴られながら、痛くもないようにその子は叫ぶ。 「この目で見なくちゃわかるもんか!誰も俺を止められやしねえ、俺は誰より強いんだ!勇者ロトより!」 「ミカエラの血、流れてるな」瓜生はなんとなくほほえましくなった。 「カンダタの子孫、かもね。オルテガの子供の頃の話、聞いたことある?」ジジはなんだかげんなりしている。 「あの……この島は、よそ者は」今更気づいたように、老人の一人がアロンドを、じっと見つめる。驚いたように。 「〈ロトの子孫〉、〈竜王殺し〉勇者アロンド。竜王を倒し、旅に出た」と、小さな陶器のかけらを三つ掌に載せ、差し出す。  瓜生も、小さな陶器のかけらを取り出してアロンドに渡した。  中心にいた老婆が目を見開き、首から下げた袋を開き、何重にもした布や革を開けて、陶器のかけらを出す。  集まると、それはぴたりと合った。  ロトの紋章。ミカエラ、ラファエル、ガブリエラの名と紋章。そして瓜生の漢字での本名と、〈上の世界〉で定められた紋章。  割れ別れていた文字が、百年ぶりに。 「ここ数年、〈ロトの子孫〉たちとの連絡が途絶えていました。船でもルーラでもトベルーラでも、アレフガルドに侵入できなくなって」 「ごく最近、アロンドさまが勇者となり、竜王を倒したという知らせを受けました」 「自らの王国を探すと聞き、待つ日々は終わり王の帰還をお迎えできるかとお待ちしていました」  老人たちが次々にひれ伏す。  そして若い人々も次々とやってくる。 「う、うるせえ!」縄を弾き飛ばした若者が、長老とアロンドに食いつく。「そんな力が、こんななまっちろそうなガキにあるもんか!おれだって竜王ぐらい倒せる!」  その叫びに、竜王の脅威を知る、現在のアレフガルドに生まれ育った者たちが、石になるように厳しい目でにらみつけた。 「竜王が、どれほど強かったか、知らないのか」アロンドが沈痛な声で。  迫力に、人々が怯える。 「知るかよ!」叫ぶ、背のやたらでかい少年。  そこに、対照的に背は低いがおそろしく筋肉質な、同じぐらい若い少年が後ろの茂みから出てきた。  独特の存在感があり、誰もがそちらを見てしまう。 「アダン」その低い声だけで、びくっと縮こまってしまう。 「これこれ、アダン、ゴッサよ」老いた声に、二人とも背筋を伸ばす。  その背後から、とんでもなく年老いて男とも女ともつかない、小さな老人が出てくる。 「シシュン」ジジがじっと見つめ、驚きの声を小さく漏らす。「カンダタの、娘よ。あたしが、昔ここに連れてきた」  こちらも老いた長老が驚く。「伝説は、聞いた事があります。でも、でもシシュン婆さんをこちらに連れてきたのは、勇者ロト様ともゆかりのカンダタ一味のジジ様、だとしたら」 「それがどうしたってんだよ!」アダンは相変わらず怒鳴っている。 「あれから追っ手をまくために別の方に逃げて、そこで石化されてたの」ジジが悔しそうに笑う。 「それをアロンド様が助けたのです」瓜生が、当然のように。アロンドは少し不満げな表情だったが、ジジに尻を軽く叩かれて理解した。 「うるせえ勝負しやがれ!ロトが、竜王がどうしたってんだ!」叫び続けるアダンが、縄を力で引きちぎり、アロンドに飛びかかってくる。  鋭い動きでゴッサが、アロンドをかばうように立ちふさがる。  一瞬、激しくにらみ合う。そしてゴッサは背後の気配に、ついと身を引く。 「受けよう」と、アロンドは背の銃をサデルに預け、炎の剣を抜く。 「おおおおっ!」アダンはゴッサが軽々と差し出す長剣を受け、激しく打ちかかる。  その巨体と無茶に似合わず、正統な剣技で鋭い突き。  アロンドは、悠然とその先端が胸に迫るのを見据え。瞬転!  自分から鋭く踏み込み、刺さる寸前にわずかに身をずらし、同時に長い柄が螺旋を描きアダンの剣をそらし、その延長で柄頭が頭を強打していた。さらに瞬時に、鋭い蹴りがくるぶしをはねる。  アダンの巨体が、地面に叩きつけられ砂が噴水のように吹き上がる。首筋に剣が突きつけられ、同時に唱えられる呪文。上空の雲が、細かな雷にきらめいている。 「動くな、動いたら雷だぞ」  ゴッサがアダンの右腕を押さえ、迫力のある低い声で押さえつける。 「く、くそ……」 「井の中の蛙、というやつじゃな」老人の一人が、悲しげに言う。 「天才です」サデルが悔しげにつぶやく。  起き上がった巨体が、今度は剣を捨てて殴りかかる。アロンドはその巨拳を掌で受け止めた。  ずずっと二本の足の筋が、砂浜に描かれる。そして身長差があるのに、力が拮抗する。 「竜王が、どれほど強かったか」  アロンドが、静かに言う。その、澄んだ声が響く。 「ぐぬおおおおおおお!」アダンの全身から、凄まじい筋肉が盛り上がる。  アロンドは平然とそれを受け、押し返し続ける。巨大な拳に、細い指が食いこむ。 「見るがいい。ウリエル!」  アロンドが小さく唱えた呪文。それにあわせ、瓜生とジジが短く、素早く呪文を詠唱した。  砂が盛り上がり、巨大な竜が出現する。  ジジがローラ姫の目を隠した。 「これが、竜王の姿だ。私の記憶、私が倒し食った魂を、モシャスの応用で再現させた。半ばマヌーサの幻でもあるが」  アロンドが言い放つ。  巨大で、そして美しい。まさに王そのものであった。神であった。 「う、うああああああああああああ!」  アダンが絶叫する。 「ぬん!」  ゴッサも、自らの長剣を抜くと、アダン以上の声で吼えた。  二人が砂の巨竜に突撃し、そこで巨大な姿は砂に戻って消える。 「所詮幻。勇気はあるのだな」アロンドが笑いかける。  二人とも、呆然と振り返った。 「天界の神竜の姿も、見てみるといい。竜王もその流れの末のはずだ」と、瓜生が呪文を唱える。  そして、激しい雷の渦、魔力が吹き荒れると、全天が巨大すぎる、長い蛇の体を持つ龍に覆いつくされていた。  神竜。そのすさまじい力は、見上げるだけでも押しひしがれ、潰されるほどだ。  ほんの一瞬で、超巨龍の姿は消えると瓜生が、また砂浜に立ち崩れるように座りこみ、激しく荒い息をついている。 「ミカエラたちで、やりあったわけね。オルテガが生き返ったとかとんでもない話してたけど、そういうことか」ジジがあきれ返った。  もはや、皆が呆然としていた。 「用は、安心して休める場が欲しい、今はそれだけです」アロンドが微笑する。 「は……」老人たちは、先ほどの神竜の姿のショックが消えていない。ただ受け答えるだけだ。 「え、それって、これからスゲエ大冒険に連れてってくれるとか、ねえのかよ」アダンが怒鳴る。 「焦っては大業なせぬ、だが、この島には人が多すぎる」ゴッサが、小さいが太い声で言う。 「ただ、申し上げます。この島は確かに広く、土豊か。また勇者ロト様の知恵により、収穫が年とともに減ることもなく森豊かで、赤子を殺さずに子の数を制限できています。しかし、年月に増えた子たちにはこの島ももはや狭いのです」  老人の一人が言う。 「侵略すれば、アレフガルドであれムーンブルクであれ容易に攻め取れましょう。しかしそれは禁じられていますから」  残念そうに、アダンによく似た初老の男が言った。 「待ちます。そして、住める場も急ぎ用意しましょう」ゴッサが立ち上がるのに、何人もの年上の男が従う。 「ありがとう」アロンドが柔らかくうなずきかけた。  大灯台の島の地図を作ったのは、元々昔の瓜生だ。アレフガルドはうち続く地殻変動で大きく地形を変えたが、この島は比較的平穏だった。  ただし、いくつか岩礁が盛り上がり、船が入れないし島外から見えなくなった浜ができていた。  そこに瓜生は中型の客船を座礁させ、甲板にコンテナ化された野外手術システムを出した。  客船の発電機に『出した』燃料を補充すればホテル並みの近代生活は可能だし、手術システムが必要とする電力もまかなえる。ただし水源を確保し、干潟に下水パイプを埋める必要はあった。  アロンドとローラは、船から島各地に回って顔を出す。だがローラは、見るからに大儀そうで、休む日も多いが明らかに無理をしている。  アレフガルドからついてきた女官たちの表情が、日に日に厳しくなる。  瓜生も付き添い、診断し患者を、船まで運んでは治療していた。 〈ロトの民〉は瓜生たちが百数十年前に救った、ハンセン病とよく似た病気の元患者たちの子孫であり、瓜生が去った後も治療や予防を続けられるように、土地で見つけた微生物による抗生物質の精製・使用と高水準の清潔習慣、義手などの技術は伝えてある。 〈ロトの民〉たちはそれを元に優れた医術を伝えており、それが百人足らずから百数十年で何万もの大人口となるのを支えた。  といっても、やはり高度な機械を使えない以上限界はあり、〈ロトの民〉の水準でさえ治療できない患者を瓜生が引き受けたのだ。 〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉の医者たちも、彼から直接学び始めた。  やはり子供が多く、人口密度がかなり高い。空中窒素固定作物が多いので収量は多く、水田が多く森を切り残しているので連作障害も小さいが、それでもだ。  人を襲わない、竜王が跳梁していた頃は大灯台の地下空間に隠れていた魔物たちも、多くの、人には食べられない特殊な食物を必要とする。  ある日、瓜生の船室の戸の前に怯えた少女が立ち、教えられたチャイムを忘れドアノブを触ろうかノックをしようか、と泣きそうに迷っていた……突然ドアは開いた。  ドアカメラ、というものを知らないリレムはへたりこんだ。 「ウ、ウリエルさま、どうか、おねがいします。姫さまを、ローラさまを助けてください!」 「何から?夫の暴力か?」 「え、でもそれは、その」 「この時代ではそれは当然、か。でも〈上の世界〉の医学校で女子供を殴るな、って教えといたはずだけど」 「い、いえ、そんなことではなく……アロンドさまが、ローラさまの、おなかを切らなければならないなどと、寝ていて、耳に」  瓜生には、別に驚きではなかった。軽くため息をつくだけ。医者としてまた賢者として、あらかたのことは察している。 「帝王切開の必要がある、か。あの若さじゃ産婦人科医の訓練は不十分だろうに……」と、軽く肩をすくめた。「いっしょに来てくれるか?おれが手術しなければならないかもしれないが、その時もきみが見ていれば納得できるだろう」 「あ、あなた、あなたは、たくさんの人をいつも救ってくれて、なんでもできるようで、アロンドさまも、〈ロトの子孫〉の皆様も、あなたには」 「できないことはたくさんあるよ、おれには」瓜生は鼻で軽くため息をつき、アロンドとローラの部屋に向かった。 「もう、隠しきれないだろう。ウリエルさまは、女が子を産むための病院を、わが祖勇者ロトことミカエラ女王のため、ネクロゴンド王国に築いたお方なんだ」 「ですが、知られてしまったら、きっと、きっと」 「その前に、私がこの手で……」  船長室の続き部屋。ローラが泣き崩れ、アロンドにとりすがる。  そこに、チャイムの音があった。 「失礼いたします、瓜生とリレムです」 「は……」ローラが、死刑囚の眼でアロンドを見上げる。 「入ってくれ」と、アロンドが青ざめながらドアを開けた。  リレムが、真っ青な表情でローラを見上げた。 「た、たすけてください、って、ウリ、エルさまに」 「ローラのためを思ってくれたんだな。ありがとう」とアロンドが泣きじゃくるリレムの目の高さに腰をかがめた。  ローラが涙を流しながら、姿勢だけは気丈に立っている。  口を開いた瓜生の口調は、医者としてのそれだ。「ここから先は、おれを主治医にしてくれるなら、最終的には患者本人のみとの話になります。無論ご主人の同意も尊重しますが、最終決定権は患者本人に」  ローラの目が驚きに見開かれる。 「ふ、普通は、あ」 「いろいろな考え方の世界を経験しています。双子を分けて育てたり。豚肉を食わなかったり。人を売買したり。おれは、面倒なので無視することにしてます。患者の生命と意志以外、すべて無視します。ご希望は、ローラ様?」 「う、産みたいのです」 「わかりました。診察させてください」  そうローラに声をかけ、アロンドの前に最高級のブランデーを置いた。  その時、アロンドがなんだか警戒した感じになる。瓜生が船室の警備装置に目をやり、「開けてもいいでしょうか?」とアロンドに聞いた。  うなずきを受け、瓜生がリモコンを押すとドアが開く。  ジジが、縛られた三人を連れて入る。すごみのある笑顔。 「ローラ、知らないだろう。彼女はベルケエラ」  初老だが背筋の伸びた女性に視線が向き、彼女が堂々と頷く。誇り高い表情。 「サラカエル。今は難民と開墾をしていたな。このまえの報告書は素晴らしかった。ムツキたちは元気か?」  アロンドが笑いかけた、白髪が出始めた精悍な男性。ローラも、顔は見たことがある。  二人とも、面差しで〈ロトの子孫〉とわかる。  そしてアレフガルドからローラ姫に従っている、女官たちの長キャレスア。 「姫さま……」キャスレアが、覚悟の目でローラを見る。ローラが怯えた目をアロンドに向ける。  アロンドは安心しろ、とローラの手に手を重ねた。 「裏切り者よ。姿を消したまま、この部屋に近づこうとした」と、ジジ。 「ありがとう。警戒してくれていたんだな」アロンドが微笑む。 「レムオルでは赤外……おっと」瓜生があわてて舌打ちし、謝った。「船室の近代警備システムの使い方は教えた。でもジジの目もあったほうがいい」とアロンドにうなずきかける。 「あたしがアレフガルドに出かけてなかったら、カンダタだって……絶対に、アロンドは暗殺させない。魔法使いは、単純な罠を見落とす」と、ジジはアロンドの船長室のネームプレートの偽物を軽く掲げ、細い糸を両手の間で張って弾いた。  アロンドが、あらためてローラの手をなで、ジジを見る。 「だが、裏切りではないんだ。彼女たちは、ローラを診察しようとしたんだ……ベルケエラとサラカエルは、〈ロトの子孫〉でも特に優れた産科医だ。暗殺なら別の人だろう。 〈ロトの子孫〉の掟で、医者は患者を直接診察し、病名はもちろん依頼を受けたこと自体誰にも明かしてはならない。だから二人は、私にも知られずにローラを診察する必要があった。だからこの二人は、侵入の理由を絶対に言えない。そして、〈ロトの子孫〉は拷問も許されない。  私はこの二人を死なせたくない。キャスレア老、あなたの口から」  キャスレアが驚愕と絶望の目で、アロンドの目と命令に打ちひしがれた。 「知らなかったのじゃ。先代の女官長が亡くなられるとき、命にかけた最後の秘……とてつもない難産の時や……万々が一、ああ……が……ねばならぬ時、ある印を刻んだ溝に手紙を入れよ……決して口外せぬし、いかなる難産でも母子とも助けてくれる、禁断の魔女たちがいる、と聞いて……まさか、それがそなたの同族、勇者ロトの子孫たちだったとは。これ上のおぞましいことは、とても口には」  絶望の目で、老いた女官は崩れ落ちる。だが涙は流さず、噛み切った唇から血が垂れる。  瓜生が、ブランデーをコップに注いでその前に置き、患者に死を宣告する口調で語りはじめた。 「百何十年前、勇者ロト……ミカエラとともにゾーマを倒し〈上の世界〉に戻ってから、ミカエラが妊娠しました。彼女を死なせたくありません。それで賢い若者を集め、産婦人科医療の技を実践で叩きこみました。その何人かが、双子の片割れ、〈ロトの子孫〉の祖ミカエルと共にアレフガルドに来たのです。彼女たちに医書を渡し、道具や薬の作り方を教え、子孫に伝えるよう言い置きました」  そして、ベルケエラとサラカエルを振り返る。 「あなたたちの水準を、おれはよく知らないんだ。あとで照らし合わせたい」  その言葉に二人がうなずく。アロンドが立って三人を縛る縄を短剣で切り、目くばせを受けた瓜生がブランデーを配る。 「この中でも、最も腕のよい医者はウリエルだ。ローラとその子の命を選ぶのは、ローラ自身だ。患者の意志が最優先されるのが〈ロトの子孫〉の掟。  すまなかったな、一度両親の手術を見て、それから人体解剖を一度見ただけの私に、できるはずがなかった」とローラに、沈痛な目で言う。 「全力を尽くします」瓜生はアロンドの目を見る。 「さて、診断は本来ならば、患者と医師の二人だけとなります。プライバシーを求めるのなら」  と、ローラを振り向いた。〈ロトの子孫〉たちもうなずき、ベルケエラとサラカエルはアロンドの目配せで退出した。 「キ、キャスレア、リレム、残っていて。そ、そのう、皆に、言わなければならないことが」ローラが決意の目で。 「姫!」キャスレアが悲鳴を上げる。 「いいのです。これはわたしの罪」 「罪などない。命があるだけだ」瓜生の一言。アロンドがうなずく。  そのときアロンド、そして瓜生やジジが激しく緊張し立ち上がる。  瓜生の手に身長を超える長さの、20mm機関砲弾を用いる超巨大対物狙撃銃が出現した。  部屋の隅に、ふっと小さなトカゲが這い出し、次の瞬間それが姿を失うとともに激しく風が巻く。  強烈な魔力がほとばしると、そこには一人の、恐怖にしびれるほど美しい女がいた。  アレフガルド上級貴族の正装。二十代とも三十代とも見える。長い髪とまつ毛、はかない感じだが肉感豊か。 「〈ロトの子孫〉、〈竜王殺し〉禁断大陸の約束された王、アロンド様」  女性がひざまずく。 「姿を変えた魔物……ドラゴンね。それも上位の」と、ジジ。 「はい」 「ダースドラゴンの気配だ」アロンドが厳しく言う。 「はい」  その言葉に、ローラとキャスレアが震え上がる。 「お迎えに上がりました、われらが神王子を」と、その、人のものには冷たすぎる目がローラを見る。  ひっ、と彼女が恐怖に怯える。  瓜生とジジが、補助呪文を続けて唱える。  アロンドは剣を抜き、構えている。  誰も動かない。竜である女は、王に対するアレフガルドの正しい宮廷礼で、ひざまずいたままだ。 「襲ってこないな。話すか?」アロンドが剣を、かすかに動かす。 「はい」  ひざまずいた姿勢を変えない。 「牙をむかぬものは殺さぬのが〈ロト一族〉の掟。ウリエル、全員分の椅子を」 「はい」  瓜生が歩き回りながら、柔らかく装飾された椅子と小さな机を出し、机にコップと、ブランデーとミネラルウォーターの瓶、缶クッキーとビーフジャーキーを出して開けておく。開け方がわからない人も多い。広い続き部屋も狭くなる。  アロンドがうなずくと、竜の女も含め皆座った。アロンド、ローラ。リレム。瓜生、ジジ。キャスレア。そしてダースドラゴンである女。 「では、私から言おう」アロンドが一瞬瞑目し、歯を食いしばって目を輝かせ立つ。「ローラの腹の子は、竜王の子であり私の子でもある」  声なし。ローラは真っ青になってうつむき、キャスレアは座ったまま失神した。リレムがブランデーを注ぎ、その口にさしつけるが、震える手に酒がこぼれる。 「一人の子の父親は一人だけのはずだが、そう予言にあるのだ」アロンドがブランデーを干す。 「一人の子に吸収された双子の細胞が並存する症例はあります。実際、奥さまの双方のお子さまから、人と人ならぬもの両方の気配があります。ジジを助けたとき、力を貸してくださいました」と、瓜生。 「あたしも感じてたし、今もわかる。両方の、とんでもない力。どうなってんのよ」ジジがうなずき、ブランデーを干す。 「ローラを助けて帰る旅で、彼女の体調が悪かった。さらわれたショックだから無理はないと思ったが、小さい頃に読んだ医書を思い出して調べた。妊娠初期……ごまかすためにと、考えもせず彼女と交わった」 「わたくしが、求めたのです」ローラが言う。泣いてはいない。「竜王にさらわれてから、まるで幻のようでした。私には竜ではなく、恐怖に身動きもできないほど、とてつもなく美しい男の姿。どんなに心に……国を、殺された人々を、あなたの面影を」とアロンドを見る。「叫んでも、心も体も、あやつられるまま」  震え、身を伏せそうになる肩をアロンドが強く抱く。 「大丈夫だ。何度も言っただろう、人が神々に圧倒されるのは当然だし、神々の花嫁となることは人は拒めぬ、私は責めない、と」 「でも、でもアレフガルドの、竜王に殺された民たちは……いつも見せられた、囚人たちのように火あぶりや八つ裂きにされても」ひきつるローラ。 「大津波をひとりの手で支えきれないことを、責める人など知るか!私も竜王を見ている!たとえ人全てを敵に回し石もて追われても、ローラだけは守り抜く」アロンドが吼える。その声に、全員が圧倒される。竜女さえ。 「ひ、姫さま」リレムが泣きながら言う。「どんな、どんな、ぜったい、姫さま、わたし、味方」  アロンドが強くうなずき、リレムの手を握った。「心強いぞ」  ローラの目に涙があふれ、そのまま子供のように激しい泣き声になる。リレムが立ち、逆に妹を慰めるように年上のローラを胸に抱きしめた。 「おれには、どうでもいい。問題なのは、正常妊娠では見るからにない、ということです。一人の患者としての、ローラさまとお子さま三人のことです。おれは医者です。裁判官ではない」と、瓜生。 「それで、そなたの目的は?」アロンドが竜女に、穏やかな声で。 「竜王の神子を守り、我らの王として戴くこと」 「それで、また人を滅ぼそうとするのか?」 「それは、わらわにとってはどうでもよい。王が決めること」  その言葉に、人間たちが目をむく。 「われらが王を迎え、守り育て、仕え従う、それだけのためにわれらはある」  人間らしい感情が、その表情からはまるで見られない。だが、それが一変する。子を守ろうと焦り怯える母の顔に。 「このまま、人間たちの中で出産されては、神王子を奪い、食い、悪に染め穢そうとする無数の、人には見えぬ魔の攻撃にさらされる!もし王子まで奪われれば、われらは最後じゃ。誇りも魂も失い狂った獣と化し、あのロンダルキアの洞窟に潜む同属たちのごとく餌として飼われる。まして胎内の赤子を殺すなど!」  その表情が、逆に人間らしかった。初めて見せた強い感情。 「人は食い飲むが水も食物も限られる、ゆえに多すぎる子を殺すのはわかる。されど、わけのわからぬ理由で子を殺す人など、われらにはわけがわからぬわ」  竜女の言葉に、瓜生は吹き出した。「まったくだ」 「〈ロトの子孫〉は、母体保護など医学的理由以外での中絶や赤子殺しはしません。中絶を求められた場合、妊娠が目立たないよう工夫して未熟児帝王切開、依頼者には死体の幻を見せ、助けた子を里子に出しています」とアロンドが笑う。キャスレアが目をむいた。 「人命最優先だ。悪くない」と瓜生が笑った。無論、近代国家の医師法では患者への虚偽報告は絶対に容認されないことだが、反面ヒポクラテスの誓いには沿っている。 「あんたがその、わるいやつの一人じゃない、ってなんでわかんのよ」ジジが鋭く言う。 「わらわの善悪も、そなたの善悪も、誰の善悪も誰にわかる?」竜女の言葉に、アロンドが苦笑気味にうなずく。 「それより、おれは知らないのですが、元々なぜ竜王は人と争ったんですか?」瓜生がアロンドと、竜女に。  アロンドが、びくっとなる。 「竜王は、竜の女王の子。おれたち、ミカエラたち四人が見た、あの竜の女王が死をもって生んだ卵。そのことは魔力の編み目でわかっています」と、瓜生。 「竜の女王?〈上の世界〉じゃ、みんながあがめてる神々のひと柱じゃない」と、ジジ。 「私にも不思議だった。倒したときも、凄まじい邪悪と、清らかな神の双方があった。全てを滅ぼそうとする吐き気がするような呪いと同時に、こんなはずではなかった、助けてくれ、という悲鳴も聞いた」と、アロンド。  瓜生が、びくっとする。そして複雑な呪文を唱え、一度は窓を開けて飛び出し、一時神竜にすら姿を変えて、戻る。 「どうした?」窓を見上げていたアロンドの問いに激しく息をつき、ブランデーを干した。 「予言みたいな、神々からの情報ね。不器用な受け取り方よ、この未熟者」ジジが軽く鼻で嘲笑した。 「かなわないな」瓜生がジジに微笑む。「竜王は本来、あの人が立ち入れぬ大陸を支配するために〈上の世界〉から来たのです。しかし、ゾーマの残った邪悪やロンダルキアの邪神、そしてあの大陸の地下の」突然、瓜生が心臓を押さえ倒れた。 「ウリエル!」アロンドが立つ。竜女が冷静に瓜生を抱き、赤い唇をくちづけて息を吹き込み、呪文を唱えつつ胸に手を当てると瓜生が激しく痙攣し、息を吹き返す。 「いろいろな、魔王級やそれ以上の邪神たち。それとルビスや神竜。神々の力のせめぎあいで、竜王はあの大陸ではなく、アレフガルドの魔の島に降り、ゾーマが残した邪悪に染まった」  ジジが、深くため息をついて言う。その手で、いつのまにか半ば握っていた小さいネズミが激しくのたうち、黒い灰になり消えていった。ジジ自身は傷つかずに神々の言葉を聞くため、身代わりにしたのだ。 「そのとおりです」激しく息をついた瓜生。竜女が、確認するようにうなずく。 「わらわたち、竜族や魔族は、ただ王の心に従うのみ。人と争ったことも、命令に従う以外のことはできぬ。それは人の兵士よりずっと強い、機械にも等しい」と竜女。 「だが!ああ、わかっている。ほとんどの人に、命令に逆らって獣を殺さない、なんてことは無理だ」アロンドが激情を抑え、自嘲する。 「罪なき者のみこの女を打て、という言葉が私の故郷にあります」瓜生も、罪悪感に満ちた目で。 「それで、何を考えて堂々とここに来たの?」ジジが、疑いの目で見る。 「疑いはわかる。わらわは、竜王を失い、子を守れという命だけ、理の心でこの世界を見渡すことができる。  ローラさまをまた襲うのは、竜王より弱いわらわたちが、竜王を倒したアロンドに勝てるはずはない。  子が生まれるのを待ってさらえば、神々の支援を受け諦めることを知らぬロトの血脈に追われる。  他の、ロンダルキアなど、邪神たちを頼れば、力は得ても、邪神はこの子を食うのみ。  ただミカエラと汝らの行いを見れば、汝らはおのれを襲う者とは諦めず戦い勝利し、襲わない者は、姿が竜の女王であっても話した。ならば話しても損はない。聞かぬとあれば奪い、子を守り戦うのみ」  その、論理だけの言葉に、皆がぞっとしていた。あらためて、彼女が人間ではないと悟る。 「ほかにも手はあるじゃない。人間は魔を恐れ憎んでいる。それを利用して人間たちを扇動し、アロンドとローラを追放させたり処刑させたりして、その間に子をかっさらえば」ジジの言葉に、竜女よりおそろしい何かを見るように、皆が彼女を見る。 「さようなことをすれば、ロトの血脈はわらわたちを決して信じぬであろう。行いしかない」竜女の言葉に、ジジが額を掌で覆って椅子に沈み、ブランデーをあおった。 「信頼を得るには裏切らなければよい。信頼があるほうがいろいろ楽だ……両親が持っていた」と、アロンドは瓜生に目を向ける。「『グイン・サーガ』でグインはそう言っていた。私もこちらからは裏切らない」そう、アロンドが断言する。 「でも、その子を、あなたがたは餌とするかもしれない、莫大な力が得られる。本当は邪神に操られ、神子を生贄に捧げるかもしれない。その子に悪の種を植え、その子が長じたらまた人間が滅ぼされるかもしれない。監視はさせてもらうし、その子がいそうなところには最悪の破壊を仕込んでおく」瓜生が静かに言う。  竜女は当然のようにうなずいた。 「あとそれで怖いのは、どっかの悪いのが、どちらも裏切る気はないのに裏切ったって偽の証拠を送る。人を騙すなんて簡単よ、特に本当は疑ってるのに信じてるふりしてたりしたら」ジジが邪悪な笑いを浮かべる。 「双方が常に、何を疑っているかも含めて情報交換をすれば」アロンドが竜女を見る。 「そ、それより、なんで子を渡す、って話になっちゃってるの!そんなの絶対だめじゃない!」リレムが叫んだ。 「双子の一方じゃ。いずれにせよ人は、双子を離して育てるのであろう?われらにはわけがわからぬことじゃが」と、竜女。  ローラの頬が凍りつく。 「ローラさまのお体については、医者としては何も言えません。ただ、おれ自身は双子を分ける風習」瓜生が言った瞬間、アロンドの手のグラスが握り砕かれる。 (殺された)殺される、ではなく。腹の底に、氷の刃を突き刺された感じがはっきりとする。  全員が。 「申しわけありません」瓜生が真っ青になって謝罪する。 「いや、すまなかった」アロンドが笑って、血に染まった手をぬぐう。 「治療します」瓜生が素早く立つが、アロンドは笑ってホイミを唱える。 「隠さぬほうがいいな。私自身、その禁忌から生まれたようなものだ。両親は男女の双子、実の姉弟で、知らず出会って恋に落ち、駆け落ちし、隠れ暮らして私を生んだ」  アロンドの、穏やかで静かな口調。だからこその重い迫力に、竜女すら圧倒される。 「双子をともに育ててはならぬ、それは世の掟ですじゃ」キャスレアが、かたくなに握った布切れをもみ絞る。「姫、どれほど、どれほど辛くても、人であることを、なにとぞ、なにとぞ」 「無事生むことができれば……それだけは」と、ローラはアロンド、そして瓜生を見る。 「なら、早いほうがいい。超音波診断と血液検査、その他生検はさせてもらいます。羊水穿刺は?」瓜生がローラに目を向け、立つ。 「お任せします。できることはすべて」 「それじゃインフォームドコンセントにならない。できるだけ理解してもらわないと」  瓜生が苦笑しつつ、軽く手を振ると小さい車が脚についた寝台が、床に出現した。  アロンドがローラを抱き上げ、その上にそっと寝かせる。そして懇願の目で瓜生を見つめた。  そのまま、全員でストレッチャーを押して、空いた一室に運んだ。  おっとり刀で警戒していたベルケエラとサラカエル、サデルも合流する。すべてはサデルがいる隣室にモニターされていたのだ。  押しながら、瓜生はキャスレアに話しかける。 「ロト一族や私の医療に関する考えは、おそらくお国の常識とはかなり異なります。しかし、一つだけ大切なことがあります。TLC、優しい愛に満ちた労り。これだけは、あなたとリレム、そしてアロンドさまに、お願いします。私の技術水準ならば、産褥での妊産婦死亡率は十万に数人、子の死亡率も千に数人です」  いつも、キャスレア女官長のような存在は、瓜生にとっては邪魔になる。だが、何か役割を与えてやれば、敵ではなく味方にできることもある。 (敵にならないでくれ。TLCだけでも、そこらの薬より強力なんだ)そう、祈る思いだ。  そして傍らのジジ、竜女にもうなずきかけ、魔法を使って軽く情報を交換する。  竜女が伝えてきた、ローラの腹の子を狙う下級魔の多さ、そして特に悪質な、いくつかの強大な魔の触手の恐ろしさには、瓜生とジジはめまいがした。 「サデル、ジジ。彼女を補佐して、いかなる魔からの目に見えない攻撃からも、母子を守ってくれ。無論、彼女が敵であっても対処できるように。無理を言っているのはわかっている」  サデルが真剣にうなずき、ジジは「あたりまえじゃない!ずっとやってるわよ、あんたがのんきに寝てる間も!」とかみついた。 「いや、彼女は私が信じる」アロンドの一言に、竜女が驚く。 「疑うのが当然です」 「疑っていては魔力はうまく鳴らないからな」その笑みに、皆が打たれた。 「ここにするか」  空き部屋に瓜生が入って一度閉め、ほんの数分してまた開ける。  内部には、多数の機械が電源につながり、コンピュータが起動を始めていた。  キャスレアも、サデルもアロンドも衝撃に目を疑う。 「星船に入ったグインやスカールもこのような気分だったのか」アロンドのつぶやきに瓜生が苦笑する。 「設定上の、星船や古代機械の水準はおれの故郷よりはるかに上です」  そしてストレッチャーを入れ、全員を見回す。 「いくら王族にプライバシーはないといっても、あらゆることを聞くのですよ」 「じゃ、あたしは寝るわ」と、ジジがさっさと立ち去る。強力な魔法のこもった糸を放ったのが、瓜生と竜女には見えた。 「アロンド、魔の攻撃について話します」と、竜女がアロンドを見る。サデルが当然のようにアロンドの背を守り、三人が部屋を出る。  もう一度、アロンドが瓜生に懇願の目を残し、瓜生はうなずいた。 「キャスレア、リレム、二人は残っていて」ローラの言葉。 「かまわないのですね?」瓜生に、ローラがうなずき、すがる目で老幼二人の女を見る。 「まず、その妊娠を隠すための服がちょっと問題ですね」瓜生は苦笑した。「体を楽にする、動きたいだけ動き無理にでも食べて、できるだけリラックスして過ごしてください」  といいながら、手早く超音波診断装置をローラの腹部に当てる。 「な、なにを」叫ぼうとするキャスレア。 「リレム、彼女が変な動きをしないように。この検査は非侵襲です」瓜生がリレムに一言声をかける。  そして、ディスプレイに写った像に、瓜生は息を呑んだ。ローラの目が吊りあがり、歯が激しく噛み鳴らされる。 「お子さまは双子です。お一方は、姿形は異常ですが心拍は正常。もうお一方の見た目、心拍とも正常、六ヶ月前後ですね」  超音波画像を確認し、あえて笑顔を保って告げる。キャスレアが気絶した。人間の胎児に、長いトカゲが巻きついている。 (おれの世界じゃ絶対中絶、といっても中絶期間はとっくに過ぎてる。もう早産させても、新生児集中治療があればどうにかなる)  超音波画像で胎児を見るだけでも気絶ものなのに、これは衝撃にもほどがある。 「アロンドさまに助けられて、ほぼ半年になります」ローラの消え入るような言葉。 「これは、前に神竜の姿を借りて神々や精霊と話して知ったことですが、おそらく竜王による受精卵はそのまま着床できず、しかし特異な魔力で流産もしないよう子宮内に留まり、アロンドさまとの受精卵が着床するのを待って、それに融合したようです」  平然と告げる瓜生。ローラが真っ青になる。  瓜生はブランデーを一滴、青くなった唇にたらした。 「まあ方針としては、高頻度で超音波診断しつつ様子見。平常分娩は不可能ですので、もう四十日ほどしたら帝王切開、でよろしいでしょうか」  瓜生に、ローラが気丈にうなずいた。 「これまでのお食事も、どうやらアロンドさまがかなり配慮されていたようですね。それでおれは妊娠を察しましたが……できましたら、これまでの食事や生活習慣、下着の汚れなども教えていただきます。キャスレア、おねがいしますよ」と、瓜生がキャスレアに、こちらにはコップいっぱいのブランデーをさしつけた。  それから、あわただしい日々が始まる。  アロンドは常にローラに寄り添いつつ、大灯台の島を回って多くの人と会い、話している。  また、年長の〈ロトの子孫〉を呼び出し、または瓜生から直接、数学や生理学を学ぶこともある。  アダンやゴッサなど〈ロトの民〉の若い者も、好んでアロンドの近くにいて、特に激しく稽古をすることもある。  若い仲間と研鑽するのも、アロンドにとってはいい気分転換になるようだ。  瓜生は〈ロトの子孫〉の、産婦人科医の技術に優れた者と、主に〈ロトの民〉の妊産婦を診療・治療し、医療水準を確かめつつ自らも腕を磨きなおし、同時にローラの緊密な診察をしていた。  サラカエルとベルケエラ、また〈ロトの民〉の医者たちの技量も確かめている。サラカエルは開拓の仕事もあるので、時々訪れるだけだが、あらためて瓜生が手にしている医療技術には驚嘆していた。  また瓜生も、低い技術水準で可能な限りを尽くし、また魔法とも融合させて伝えてきた医療技術を素直に認め、学んでいる。  竜の女は姿を消していることもあり、また座礁した船の甲板で激しく祈り踊っているのを見ることもある。  そして船の中では、もう体を締め付ける服から暖かな妊婦服をまとったローラが、軽い運動をしたり無理に栄養豊かな干し果実をほおばったり、妊婦らしく過ごしていた。  リレムと女官たちがそばにいて、瓜生の指導を時々聞いては日々の食事や衣類に頭をひねる。  ある未明、アロンドはゴッサの村を訪れていた。サデル、瓜生とベルケエラがついている。  かなりの難産があるそうで、患者が移送を望んでいないそうだ。  東の空を見上げると、巨大な大灯台が天高くそびえ、頂上からはかすかに光が見える。 「あの光は魔力のものだな。船乗りにはありがたい」アロンドが見上げた。 「そういえば、あの塔はこの〈ロトの民〉が維持しているのですか?」サデルがゴッサに聞いた。 「いや」ゴッサの答えはそれだけ。 「あの塔は、この世界に人が来る以前からあった神々のものだ。そして塔の頂上にはロンダルキアの邪神を見張る人が常にいるが、その人たちは地上には降りず耕さず、別のどこかからルーラで直接衣食を運んでいるようだ。塔のメンテナンスも必要ない」  瓜生が、ラファエルの真似で指を振りながら付け加える。 「ローラの出産が終わったら、一度登ってみたいな」 「この塔は禁断だ」ゴッサがまた、ぼそっと言う。 「どのような患者でしょうか」ベルケエラがゴッサに聞く。 「顔がはれ、苦しんでいる」 「妊娠高血圧症候群ならやばいな。まあ予断はせず、診察しよう。何月ぐらい?」 「月のものがなくなってからは四月」 「きついな」瓜生が足を早め、ゴッサは短い足で走り出した。  明るくなる頃、瓜生はゴッサが案内する家に飛びこむ。高齢のベルケエラはゆっくり歩き、アロンドたちも歩調をあわせていた。  屋根の高い平屋、分厚い茅葺屋根。屋根つき土間が広くあり、そこでは多くの家畜が飼われている。  朝日に見回せば、所々に深い森が残る豊かな水田。鳥が鳴き、働き者たちはもう着替えて田に出ている。  馬に似るが普通の馬より数段大きく、ガゼルのように角がある家畜に、大きな犂がつけられる。  子犬ぐらいの飛べない鳥が何十羽も、田畑の間を歩き回っては雑草をついばみ、トランペットのような声で鳴き始めた。 「あれ?知らない人だよ!」小さい子が、アロンドを指差した。 「アロンドだ。よろしく。ゴッサに連れられてきたんだが」 「うそだ!だってアロンドって、勇者ロトの子孫ですごい竜を倒した偉い人なんだぞ!」 「アダンを簡単に倒したって聞いたよ!だったらこーんな」と、木に登って一杯に手を伸ばす小さい女の子。「でっかいに決まってるよ!」 「え、なになに」  小さい子供たちが集まってくる。 「さっきゴッサがどの家に向かったか教えてくれないか。子供が生まれそうな家だ」  アロンドの穏やかな声に、ざわっとなる。 「赤ちゃん!でも苦しそうなんだよ」 「ばか、よそもんによけいなこというな」  わいわいしているところに、巨大な竜馬を引いた老人がやってきて、足を止めた。 「〈ロトの子孫〉、ベルケエラじゃな」 「お久しぶりです」うなずく。 「三十年前、妹をみてもらったな。翌年、二度目の出血では死んでしまったが」 「力不足でした」ベルケエラが深々と頭を下げる。老人は鼻をすすり、 「全力を尽くしていたのは知っておる。さっき、ゴッサが離れの、清め部屋に急いで向かっていたよ。よそ者と」 「われわれも協力し、また学びに来ました」 「そうか、本当にまたアレフガルドと、行き来できるんじゃな。ほらガキども、朝飯前の稽古に行って来い!」老人の怒鳴りに、二人を除いた子供がわあわあ騒ぎながら裏庭に走った。  残った子供が涙声で言う。 「かあさま、苦しそうなの。助けてあげて」 「最高の医者が来たんだ。全力を尽くすよ」と、アロンドはかがんで子供の目線で手を取り、胸に拳を当てた。 「おねがい、これで」と、もう一人の子が、小さな小石を差し出す。 「アレフガルドの宝玉より大切な宝だ」アロンドが押し頂き、ベルケエラに渡す。彼女も、威儀を正して受け取り、うなずいて離れに向かった。  暖房された離れ。ついたてで分けられた土間に、いくつか試験管が並べられ、出されたスチールキャビネットの上に紙が並んでいる。  隅では発電機がうなり、ノートパソコンにつながった超音波診断装置が、清潔な貫頭衣をまとった妊婦の体を調べていた。  妊婦の顔は、人相もわからないほど腫れている。 「血圧や心拍数、食物のデータも何か月分もあったし、尿と血液、便や分泌物も目で見た所見記録があり、いくつかの点は検査記録もあった。1920年代水準には達している」  入ってきたベルケエラとアロンドに、瓜生が微笑みかける。 「この部屋も、無菌とはいえないにせよ、酢とカビ由来の抗生剤が微量噴霧されていた。おれの故郷の基準では濫用かもしれないが、生存率は上がる。素晴らしい水準だな」  瓜生が照れくさそうに言う。  元々、〈ロトの民〉の祖先であるハンセン病(によく似た病気)の患者を治療した時に、その場で得られる微生物を使う抗生物質を探し精製する技術、清潔、診察と検疫・発症と保菌の分別は、百数十年前に瓜生が叩きこんだ。 「〈ロトの民〉は、さまざまなカビや発酵食品、薬草から多くの薬を得て、それを偽薬と使い比べてよい薬を作るのが得意です。清潔と、呪文と外科の統合を得意とする〈ロトの子孫〉とは対照的ですが、互いに学ぶものは多いのです」  ベルケエラがマスクをはめて言う。 「絶対安静はとられていた。煮沸器具を用いて、甘酒由来の点滴もされている。ほとんどおれに付け加えることはないほどだな。百年で、百人足らずが数万人になるのも当然だよ」  むしろやりすぎ、与えすぎで人口爆発による飢餓や侵略戦争を招かないか心配なほどだ。 「移動をしたがらないのはわかるし、最善の処置がとられていることも認める。いつでもおれの病院に移せるよう準備しておいてくれ。常に誰かそばにいて、変だと思ったらいつでも、患者を乗せた寝台ごとルーラかキメラの翼で飛べるように」  ゴッサがうなずいた。 「さて、今できることはほとんどない。妊娠高血圧症候群に魔法の薬は、おれの故郷にもない。他におれの手が必要な患者がいたら」瓜生に、ゴッサがうなずきかける。 「かあさま、だいじょうぶなの?」  病室を出た瓜生に、子供が聞いてくる。 「わからない。医者は神様じゃない、病気と闘うのは人間の体という、最も不思議で偉大なものなんだ。医者なんて、その前では無力だよ」 「そんなぁ」泣き出しそうになるのを、近くの少し大きい子が肩を抱いて、 「ロトの民だろ!泣くな!」というが、その子も泣き出しそうだ。 「経験でいえば、ほとんどは大丈夫だ。むくみはひどいけど、他の症状はそれほどひどくない」  瓜生が笑いかけるのに、子供たちが大喜びで手を打ち合わせた。 「ガエミ、アロンドさまに、われわれの日常の仕事を見てもらってくれ。ウリエル、こちらに」ゴッサがアロンドを年長の子に渡し、瓜生を連れて特に大きな高台の家に向かった。  大きな倉庫と石垣、緊急時には砦にもなる。  アロンドも興味深そうに、子に手を引かれて田に向かった。  広い水田と、周囲を囲むハンノキ。まばゆい緑とさわやかな風。  集落自体は竹とソテツに囲まれている。あちこちに森が残り、そこからは鳥が飛び立っている。 「〈ロトの民〉は、ペルポイ出身の元患者から生じた民。少し離れた山の草原を旅する遊牧民の子孫もあり、馬には竜の血が混じると伝えられます」  ゴッサに合流した老人が、無口なゴッサにかわって説明する。  大きな竜馬が畑を耕し、緑肥を土に埋めている。  少し離れた丘で何人かの若者が巨馬を駆けさせ、300mは離れた的に集団で、長い別の棒を握って細身の槍を投げている。  そのすべてが長距離を飛び、土手に根元まで刺さる。 「槍はウリエル様が残したものと、われらが精錬したのを混ぜた鋼で作り、魔法をかけています。われらに、戦でかなうものはありません」  老人がとても誇り高く言う。 「素晴らしい民だ」アロンドが嘆息した。 「すべては勇者ロトのため。そのよき民となるため、学び試して病を癒し、知識と戦う技を高めてきました」  老人が、静かにアロンドを見る。口にしない言葉、(あなたは、われらにふさわしき主君ですか?)を、アロンドは痛いほど感じた。 「行いで示します」  アロンドの言葉に、ゴッサがうなずいた。そして、竜馬を飛ばして集まった若者たちを整列させる。 「〈ロトの子孫〉、〈竜王殺し〉勇者アロンド様」  ゴッサの一言に、男女混じる若者たちが輝くような笑顔を爆発させ、叫んだ。  一人一人名前を怒鳴り、アロンドがうなずきかける。 「この槍だ」  ゴッサが、一本の槍をアロンドに渡す。  黒い鋼の、指程度の太さが乳高さほど。下半分は割り竹に漆塗り。一番下には、色鮮やかな鳥の羽根が矢のようにつけられている。  鉄部分の全体に、細かな魔紋様が刻まれている。 「フェレ錫で魔紋を入れました。シャイの羽根をつけ、呪文を唱えながら投槍棒を用いれば、四倍の射程で届くんですよ」  興奮気味の女が、汗だくで話す。  そして背から広刃の、短めの曲刀を抜いて鋭く投げる。それは回転しながら20mほど飛び、帰ってきて、女の手に再び納まった。同じ刃ブーメラン、柄の長い剣、短刀を全員が持ち、投槍とは別に頑丈な槍を持つ者も多い。盾は縦長凧型の馬上盾。 「彼がどれほど強いか、一人一人木剣で試せ」  ゴッサの一言に、若者たちは大喜びでそれぞれの木剣と盾を手にする。  われ先に打ちかかる若者たちに、アロンドも大喜びで一人ずつ木剣で打ち倒していった。  ひとしきり汗を流せば、老いた母親たちが子供たちを連れて、たくさんの握り飯を盛って来る。  診察が一段落した瓜生とベルケエラも来る。こちらの技術でもどうしようもなかった患者を二人、動かすよう言っておいた。 「木の実と豆が混じっていますが」恐縮する女たちにアロンドは笑った。  ゴッサが、いつも食べているものを、と厳しく言っていたのだ。 「いや、とてもおいしいです」  栗のような木の実と豆が混じる、五分搗き米の握り飯。醤油で煮締めた小魚・芋・海藻・根菜は、〈ロトの子孫〉が水田で作るものと同様だ。納豆もあるが少し味が違う。  野菜の漬物がまたおいしい。  子供たちが集まってきて、叫びだしたいようにアロンドたちを見つめていた。  老人の一人がギターのような楽器を手に取り、勇者ロトの伝説を歌い始める。  アロンドがいるだけで。話し、笑い、叫ぶだけで、そこはすぐにお祭りになる。  ゴッサの、体の小ささに似合わぬ圧倒的な存在感が、一枚岩のように頑丈な舞台となる。 (なんて人たちだ。日本の戦国に生まれてても、こいつら天下取れるよ)瓜生は畏怖すら感じながら、その凄まじい熱気を見ていた。 「なあ、ウリエルとジジとアロンド、それにあんた、誰が一番強いんだ?」アダンが竜女を見ていった。  アダンとアロンドは激しく試合をした後で汗だくだ。  魔風としてローラを襲う魔物を払うため、一種の儀式として試合をしていたのだ。  背後で呪文を唱えていたジジと瓜生も、手を止める。  竜女は相変わらず、隙がない美貌だ。 「ジジやウリエルとも、一度勝負しておきてえんだよ」アダンが塩水を飲み干し、駄々をこねる子供のように大声で言う。 「あれだけやって疲れてないのか?」アロンドが呆れて苦笑した。 「そりゃ、あんたは強いさ。じゃあこの三人は?」 「勇者、神々の一柱に勝てるわけがない」瓜生が言った。 「同じく」ジジが肩をすくめる。 「竜王に勝てるアロンド。わらわには勝てぬ」竜女はそれだけ答えた。 「それに、実戦での勝敗なんて、国とか政治とかじゃ大して意味がないよ。個人で最強でも戦争でいい将軍になれるとは限らないし、最強の将軍でもいい王になれるとは限らない」瓜生の言葉に、ジジが一瞬激しい怒りを浮かべ、それを妖艶な笑顔に変える。 「一度、決着つけてみようか?アダンもああいってるし」 「いや、おれは絶対おまえには勝てない」瓜生は軽く鼻でため息をつく。 「弱いのか?」と、呆れたようにアダン。 「単純な魔法比べじゃ同等、そして大規模破壊じゃ比較にならないわ。まちがっても遠距離で敵に回しちゃダメ」ジジが、今度は冷徹な表情で言う。 「ああ。でも最強の剣を持っていても、こいつとやりあったらそれで自分の喉を刺してるさ」瓜生が笑う。 「でもこいつの大規模破壊はしゃれにならないわよ」ジジが微笑む。 「昔よりさらに上だ。今なら」と、瓜生は手に身長より長い両手剣を出現させると、かき消える。直後、上空から奇妙な影と轟音。  そこには、金属の巨鳥。B1ランサー重爆撃機が、翼ある龍と融合した姿で飛んでいた。  それがおそろしい圧力で降下して地面すれすれを飛びすぎ、地上の皆を暴風と轟音が襲う。急上昇して大きく旋回すると、爆弾倉を開く。  直後その姿がかき消え、ふたたび両手剣を担いだ瓜生の姿がアロンドの前に出現した。 「龍に変身し、機械と融合したか。この世界で知られる編み方ではない」竜女が、美しい顔にかすかな驚きを浮かべる。 「その剣は切れぬものがない上に、魔力なしで短距離ルーラ。やっかいね」ジジが驚きを笑みで隠す。  アロンドとアダンは半ば腰を抜かしていた。 「B1爆撃機は、膨大な核爆弾や通常爆弾、クラスター爆弾やサーモバリック爆弾を精密に落とせる。低空飛行性能も航続距離もあるし、龍の体は魔法を無効化し、強力な炎を吐くこともできる」瓜生が軽く微笑んだ。  ジジが咳払いする。 「しばらくカンダタはアレフガルドと〈上の世界〉を往復してた、あんたたちがゾーマを倒すまで。あたしは〈上の世界〉で使者をすることも多かった。それでカテリナたちに見せられたわよ、あの破壊を」 「おい、放射能対策はちゃんとしたか?」瓜生が心配する。 「めちゃくちゃ離れたところから見たわよ、近づくなって何度もあんたが言ってた、って」ジジが怯え、震えている。 「山が、まるで」と小さな砂山に、イオを放って消し飛ばす。「こんなぐらいに砕けてた。大きな山が、よ。それに、あの火山で。サイモン二世のバカが魔物にとりつかれて、それで気がついたら山すそ全部、この島ぐらいが全部魔物でいっぱい!そこで、あんたの伏せろって声、ラファエルに押し倒されていたら、気がついたら、爆発爆発また爆発。イオナズンを何万人も同時に使ったみたいに」  ジジの言葉に、瓜生も昔の冒険を思い出す。 「ああ。ガブリエラと組んで、あの魔物をはめたんだ。それで、MLRSとブッシュマスターで魔物たちを壊滅させた。手榴弾を何万個も、一度に数キロ離れたところにばら撒く兵器です」アロンドを振り返る。 「あんなおそろしいこと、考えたこともなかった。ザラキで死んだときよりひどかった」 「ラファエルに抱かれて幸せそうだったくせに」瓜生の微笑みに、 「死ぬ?」ジジはただ冷たい目で見る。 「すまん。そういえばあの後、ミカエラに殴り殺されかけたな。ま、そういうことで」と瓜生はため息をついた。「膨大なザコはおれに任せてくれればいい。でも神々との戦いは、おれだけでは戦うこともできない。そのとき必要なのが、勇者だ」と瓜生がアロンドを見る。 「やれやれ」アロンドが笑った。「ま、食事にしよう。今日はミラノ風ドリアとチャーハンがいいな」 「かしこまりました」と、瓜生が立つ。冷凍食品をいくつか「出し」、船の電子レンジで加熱するだけだ。といっても、この船にはかなりの厨房設備があるので、折があれば何人かに技術を学ばせ、レストランにすることも考えている。  その間にジジは、「そうそう、その、山を吹っ飛ばしたのはイシスの女王に頼まれてだけど、そのあとお礼に抱いていいって言われたのに無理して断って、その時の砂浜でのたうちまわってガマンしてんのが〈上の世界〉の笑いものになったのよ。あれはもう伝説ね」と瓜生の過去をばらし、それで食事を持っていった瓜生は皆に生ぬるい笑顔で見られた。 「ジジ、あのことを言ったのか?」 「もちろん」と微笑む彼女の笑顔はこの上なく晴れやかで美しかった。  食後、アダンが瓜生とジジ、そして竜女と試合をしたがった。  瓜生はやや遠距離からヒャダルコとバギマを連打したが、アダンは激痛にかまわず凄まじい気力と魔法耐性で突進してくる。非致死のゴム弾では、ショットガンのフルオート、そして40mmグレネードリボルバー六連発でも、まだ止まらない。  だが一瞬で瓜生は大剣を出すと瞬間移動し、グレネードランチャーで近くの岩を粉砕して見せた。  それでも突進してくる、そこで瓜生はメルカバ戦車を出し、ドラゴラムの変形で融合した。  その圧倒的なエンジンの力と重量を、アダンは受け止めしばらくきばり……押しつぶされるように力尽きた。 「人間の力と気力じゃないな、ただゾーマはこれの突進を受け止めて拳一発で壊したぞ」と笑う瓜生にアダンは激しく悔しがっていた。  まだめげずジジに試合を挑んだアダンは、彼女がゆっくりと午後のケーキをほおばり、ローラとその胎児を守るための魔法儀式をしているなか、何の幻に操られてかひたすら岩を叩き続けていた。  竜女が竜の姿に戻ったときの巨大さと迫力には、誰もが驚いた。だがボロボロに疲れているはずのアダンは激しく打ちかかり、黒焦げになりながらかなりいい勝負はしていた。 「今日が予定の日です。昨日までの検査では問題ない。決行します」瓜生がアロンドの目を見る。アロンドがうなずいた。 「子を奪い穢すべく、魔は襲い来るであろう。守りぬく」竜女が、瓜生とアロンドを見る。 「ああ、私も、妻と子を守りぬく」アロンドが、剣を抜いて覚悟の目で刃を見つめる。 「あたしも、久しぶりに全力出すか」ジジがにっこり笑う。  何人もの〈ロトの子孫〉そして〈ロトの民〉の上位魔法使いが、野外手術システムを守っている。 「魔法でも頑張りたいのですが、おれは一人しかいないので。ミカエラのときみたいに、丸一年あれば医者を育ててそいつに任せたんですけどね」瓜生が軽く笑い、アロンドの目を受け止めて、シャワールームに向かった。 「こっちだって、そっちより大変なのよ!」ジジの怒鳴り声。 「ああ、わかってるから頼むよ」瓜生は軽く手を挙げる。信頼できる仲間の存在に、心は平明だった。  体を清潔にし、もう一度カルテを確認する。  サラカエルとベルケエラ、リレム。キャスレアも、なれぬ白衣とマスク、髪覆いにおびえながら、ローラのそばにつきしたがっていた。 「最終検査は?」瓜生の感情をこめぬ言葉に、即席で看護技術を学ばされた若い女官や〈ロトの民〉の若者がうなずき、書類を見せる。  体温、血圧。簡易だが尿検査と血液検査。内診と子宮口はベルケエラが。また体の清潔もベルケエラがやっている。彼女と組んでの帝王切開手術はもう十回以上、彼女が確実に患者を落ち着かせ、清潔にさせることができるし、いざとなれば手術を引き継げることは実地で確認した。  サラカエルは開拓の仕事があり時々の通勤だが、ここ数日はつめきりで指導している。 「レントゲンはおれが。手術はそれから。リスクはもちろんありますが、最善を尽くします」  瓜生の言葉に、ローラは不安げにうなずいた。血色はいい。並みの妊婦よりずっと膨らんだ腹が、違和感のある美しさとなっている。  手早くレントゲンを済ませ、もう一度検査データを確認する。  そして手を消毒し、挙げたまま滅菌薄ビニール手袋をつけてもらう。 「では、双胎児の予定帝王切開手術を始めます。今知っておくべき異常は?」と、人々を見回す。全員がうなずいた。全員が、すべきことを知っている。即席のメンバーだが、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉百年の伝統が支えとなっている。  寝た状態のローラを横寝にさせ、両肩の線を垂直にして、背骨を探る。最初に塗布麻酔薬、次いで手の中に出現する滅菌済み注射器とアンプル、手早くまず注射のための局所麻酔注射。  それから大型の注射器に、麻酔薬とモルヒネのカクテル。瓜生の故郷の医療水準では、帝王切開に全身麻酔は少ない。  局所麻酔が効いている背骨、くも膜下にゆっくりと注射する。  静かな機械の音が響く。準備されている輸血、薬剤、滅菌済み用具。キャスレアの、祈りの声がかすかに響く。  横向きだった患者を仰向けに寝かせ、ベッドの板ごと少し傾ける。子宮を左側に傾け、背骨に添う大動脈を圧迫から解放する。  数分、静かに待つ。その緊張に、ローラの息が荒くなる。 「落ち着いて。静かに深く呼吸してください」瓜生が軽く話しかける。「キャスレア、リレム。彼女の手を、少し握って。何か話してもいい」  というと、瓜生はそっと準備された用具を見回し、ベルケエラとうなずきあって確認した。  長い四分。時計を確認した瓜生は、アルコール綿をローラの腹に触れさせる。 「感覚は?」 「あ、ありません」  もういちど確認。手術部位以外の肌は見えないよう、布で覆われている。点滴針はちゃんと静脈に入っている。 「メス。正中切開」瓜生の手に渡された、滅菌済みのメス。  下腹部の中央をまっすぐ切り下げ、即座に特殊なヘラで引きあける。皮膚、脂肪、筋肉、腹膜。次々と色と、切る感触が変わる。  腹膜と子宮の癒着を避け子宮に到達する。子宮は新しいメスで切って、あとは特殊なハサミで下を切り開き、手で筋肉の壁を、羊膜を傷つけぬよう引き裂く。  特に裂かれた端は大量出血しやすい。  この世界で、魔法を覚えて医療もやるようになって、瓜生が最初に覚えたこと。それは、「子宮に治癒呪文は絶対禁忌」その一事だ。  通常分娩だろうが帝王切開だろうが、確実に死に至る大量出血になる。ゾーマに間違えてベホマをかけたら、なぜか20mm機関砲の直撃より激しく苦しんだように。  子宮は膨大な血液を含み血管に富む臓器で、出血が激しい。だからこそ、昔の技術では帝王切開は死を意味していたのだ……麻酔と消毒と抗生物質だけでなく、輸血も絶対に必要だったのだ。  羊膜から、あらためて異形の胎児に歯を食いしばる。本能を押さえこんで確認し、破水させて正常な方の胎児の頭に、特殊なへらをあてがう。ベルケエラが、逆の方に体重をかけ、押し出す。  その時。もう一つの、トカゲの体から人の手足が伸びる魔物の胎児が、人の赤子を守るように抱いた。  瓜生はマスクの下で微笑み、声をかける。 「大丈夫。二人とも助けるためなんだ」  手早く一人目を取り出し、サラカエルに渡して一言「アプガー」。この子の命を任せた、という言葉でもある。  サラカエルは、やや小さい赤子の全身をぬぐって足裏をたたき、胸に心拍計を当て、白いシーツと見比べ始めた。  瓜生は、次の異形胎児に挑んでいる。  外では、前代未聞の悪夢が起きていた。  船が座礁している海が、桁外れの高さに盛り上がって、数限りない蛇が固まった巨大な玉が押し寄せてきた。 「わが子を、わが糧をよこせ」という、頭に直接響く超重低音がアロンドたちを打ちひしぐ。 「そなたはアロンドでも、竜王でもない!去れ!」竜女が叫び、激しく呪文を唱える。  天が裂けると、蟻や蜂を金属で作って巨大化したような何かが襲ってくる。  アダンとゴッサが鉄の細槍を手に吼え、大きな編み針のような棒に矢尻部をはめると、気合を呪文に激しく投げた。  凄まじい飛距離で飛ぶ鉄槍が刺さるが、わずかにひるんだ程度。襲う巨体に、鉄の巨大な棍棒を手にしたアダンと、稲妻を帯びた長剣を構えたアロンドが激しく打ちかかる。  形のない風。ジジの呪文が次々に、目に見えない力の壁となる。彼女の指示に従い、サデルが素早く次々と高位呪文を唱え続ける。 〈ロトの子孫〉は瓜生に新しく与えられた、AK-74と操作の変わらないRPK-74分隊支援火器と無制限の弾薬を手に、また〈ロトの民〉たちは魔力を帯びた細い鉄槍を多数手に騎乗し、敵に踊りかかる。  もう一人の子は、実は楽だった。恐竜を思わせる異常なほど大きな頭、そして細長い体から出る人の手と、人ともトカゲともいえぬ足。そして胴体の延長の長い尾。それを気にしなければ、頭さえ出せば細長い体を子宮から抜くのは簡単だった。 (人間の胎児の、肩というものの厄介さを思えば楽すぎるな)瓜生は苦笑して気を取り直し、手早く後処置を始める。胎盤や羊膜の残りをはじめ、子宮の内部にあるものを除去し、子宮収縮剤を与え縫合。異形の第二子の羊水からは奇妙なにおいがし、有害と思われる。  帝王切開では、経膣分娩と違い子宮が「子が生まれたよ」という情報を受け取れず、大量の血を抱え肥大したままでいたがってしまう。それ自体が命取りになる。 「輸血!じゃんじゃん入れてくれ。出血量は?第一子のアプガー!」瓜生は軽く言うが、後ろはもう阿鼻叫喚だ。  二人目の、頭だけが巨大でしかも人では明らかにない、細長い口から鋭い牙。全身を覆う鱗。その赤子は、もう床を這って奇妙な声をあげている。 「第二子のアプガーはいいよ。見ればわかる、十点だ!でも油断するなよ」  明るく瓜生が言い、大量に血を吹く切れ目の端の糸を締める。 (それどころじゃないんだ、出血が多い……)  気持ちを切り替える。 「出血確認したかったんですが、こ、こ、この、竜こが、脱脂綿ごと全部食べて」  出血をぬぐう脱脂綿はまとめて保管し、別に重さを計る。それから脱脂綿の重量を引けば、出血量がわかる。 「固形物の食事まで?なら前代未聞の、アプガー十二点をつけといてくれ。喉詰まらせてないか確認しとけよ」  瓜生は口では半ば冗談を飛ばしながら、目は空の輸血パックを見て、恐怖のアルファベット三文字に戦慄する。 「輸血交換してくれ」ベルケエラに言うと、歯を食いしばって子宮を見、手にハサミのような器具を持ち、左手の生理食塩水で腹内を洗った。  DIC。播種性血管内凝固症候群。血の出すぎ、血小板の使いすぎ、凝血能力の低下による、あちこちから……特に子宮の傷からの大量出血。  胎児が半人半竜なのはわかっていた、DICの方がずっと怖い。 (止まってくれ!)  瓜生は祈りをこめた目で、血を吹き出す子宮を見守る。  止まらなければ子宮全摘出。瓜生の世界でも、他にできることはない。人工子宮も子宮移植も、もちろん遺伝子改良豚からの子宮移植もまだまだできやしないのだ。 「第一子、アプガー8点。自発呼吸あり!」サラカエルの声に胸をなでおろす。異形の第二子に血を取られ、かなりの未熟児と同様だった。といってもそれは、多胎妊娠の帝王切開ではつきものだが。 「これとそれは、幻!」ジジが呪文を叫ぶと、巨大すぎるカマキリが消えうせ、そこには小さな虫の群れがいた。  大喜びで、人を襲わぬリザードフライがそれを襲い食べつくす。  アロンドの稲妻を帯びた剣が、巨大な蟻を断ち切った。  アダンの鉄棍が、数珠のように連なり動く石塊を次々と粉砕する。  ゴッサの剣が、巨大な蛇の首をはねる。全身血まみれに傷ついても、いささかもかまわず。  巨大な竜が、不気味な不定形の、海の魔物に激しい炎を吐きかけ、焼き尽くす。その身には無数の蛇が噛みついていた。  大量の銃弾が、鉄槍が、魔物を蜂の巣やハリネズミにし、また追い討ちの攻撃呪文が炎をあげる。  皆が集まる。虚空にたゆたい、徐々に形を成す巨大な影に、にこりと微笑をかわす。  それ。形容しがたいそれは、巨大なイカのようであり、またカニの幼生のようであった。  手術中の瓜生がいれば、「スパロボにたまにいるよな」とでも言っただろう。あちこちに機械的な腕に似た突起も伸びていた。ただし、子供向けのゲームやアニメのメーカーは、グロテスクすぎてレイティングが上がるためこんなデザインはできない。  まあ、今手術室で瓜生が取り出している胎盤や、這い回る第二子に比べてどちらがグロテスクかといえば……  とにかく見ただけで吐き気がする。一つの要素だけではない、多数の何かが組み合わさっている。  ゴールドマンの金の腕。海の魔物。ロンダルキアの毛皮と角の魔物。  その塊が、悪夢の声で絶叫した。それが、桁外れの邪悪をはっきり感じさせる。 「わが子を奪おうと、攻撃するものは全て殺す!」傷だらけのアロンドが絶叫した。 「嬉しいね、こんな冒険に、これほどの勇者と挑めるなんて」アダンが叫ぶ。  ゴッサはただ、巨大な鉄棍棒を振り上げた。〈ロトの民〉が、そして〈ロトの子孫〉たちがいくさの絶叫をあげる。 「何が真実か、わずかでも心や感覚器があるのなら、すべてゆがめてあげる」ジジがにっこり笑って呪文を唱える。  精鋭たちを、まるで重くないように背に乗せた巨大なダースドラゴンが、戦いの咆哮を上げ炎を吹いた。 「止血、確認!縫合する」  瓜生が子宮を体内に戻し、手早く縫合を始めた。先の丸い、曲がった針を細いペンチのような器具ではさみ、自らにピオリムをかけて。  手早く、丁寧に糸が、子宮の内膜に触れぬよう筋肉の壁を縫い合わせる。  ゴッサとアダンが、その肉体と鉄棍で攻撃を受け止め、すさまじい力と意志で押し返す。援護にイオナズンやマヒャドが連打される。  その背後から、アロンドが稲妻を帯びた剣を手に、飛んだ。  次々と出現する、奇妙な魔物を銃撃と鉄槍が貫く。  極大の、黒い炎の固まりは、沖合いの岩を蒸発させた……ジジが奇妙な杖で指した岩に、照準を誤って。  サデルの、ロトの子孫たちの攻撃呪文が、次々と不気味な巨体を打ちひしぐ。 「さあて、仕上げ行くわよ!」叫んだジジが呪文を唱え始める。 「人の身に使える呪文なのだろうか」と、人の姿に戻り、美しい顔も体もずたずたに溶け崩れ、切り刻まれた竜女が手を掲げ、ジジの掲げる氷の手に合わせた。 「まとめていく、メドローア!」  光の太い矢が、アロンドの耳を掠めるほど近くを通り、毒矢を放つ触手を次々と消滅させて中心の、おぞましい核を露出させる。  ゴッサはためらわずその穴に体をねじ込み、吊り天井を支えるように支えた。巨大な力に、目と口と耳と鼻から血が激しく噴出する。  アダンが咆哮し、アロンドに迫る槍を体でかばい吹き飛ばされる。 「おおおおおおおおおおおおおおお!」  アロンドの、稲妻を帯びた剣が、その核に突きこまれた。流星のように、ゴッサの脇のわずかな隙間から。  次の瞬間、全員の全身を引きちぎるような悲鳴とともに、天地が歪み叫んだ。  そして、気がついたときには空は晴れ、海は穏やかだった。  みな傷だらけで、倒れる。  瓜生が、最後に皮膚を縫合し、心拍数を確認してから、あらためてローラの顔を見た。  マスク越しの微笑、うなずき。  サラカエルが、煮沸消毒したタオルに巻いた赤子を、ローラの脇に置いた。 「調子がよければ24時間以内に、軽い歩行はしてもらいます。鎮痛剤もその頃切れますので、痛みはあると思います、ひどいようなら鎮痛剤を出します。お疲れさまでした」  瓜生がベルケエラや、助手たちに一礼する。  でもやることはまだまだある。新生児管理、そしてDIC、血栓の恐怖は縫合終了後もしばらくは続く。  そして、外はどうなっているか。初めてそれに思い至った。  血まみれの白衣を脱ぎ、手術室を出た瓜生は、皆の大怪我に一瞬絶句した。 「三人とも、生きてます」それだけ言う。アロンドがへたりこんだ。 「み、御子を」女の姿に戻り、おぞましいほど全身傷つき焼けただれた竜女が、あわてて瓜生にすがりつく。 「元気ですよ。すみません、聞くの忘れてました。おなかをすかせていらっしゃるようですが、竜の赤子が何を食べるかご存知なら、たべさせてやってくれよ」口調を変えて深呼吸する。  竜女が喜んだ。 「その姿じゃ、みんながびっくりしますよ」と瓜生が、全員にベホマラーを、竜女にはベホマをかける。  美しい姿に戻った竜女が、処置室に走り半竜半人の赤子を抱き上げた。 「おお、わが主。竜王と神々の御子」  その言葉と態度は、人間以上に母親のものだった。人の姿の赤子を抱き乳を与えるローラと同様に。 「双子じゃ、双子の」キャスレアが言いにくそうに言った。 「わかっています」とローラが、おぞましい竜の姿の子を見る。  アロンドがかけこみ、「ローラ!」と叫んで子もろとも抱きしめた。 「しばらくどちらも検査は必要ですよ」瓜生が言う。  処置室ではまだ何人か、忙しく働いていた。  やや落ち着く。医療関係者は入浴して体を減菌、といっても重傷患者ばかりで疲労困憊の戦闘組も、治癒呪文と応急処置を済ませて入浴した。船の浴場は広いが、人数が多いので狭い。  食堂で、肉・芋・根菜を大鍋にぶちこみ塩だけで煮込んでおいた熱いスープを、一人一人よそっては食う。皆激しく疲れていた。  そして病室では、アロンドと肩を寄せ合ったローラが人の形の赤子に乳を与え、空腹のアロンドはピザやパスタ、ナッツとハムとチーズの盛り合わせを食べていた。いくら食べても足りないほどだ。ローラはわずかに重湯を口にしただけ。食事はもうしばらく後だ。  食事を終えた瓜生が、血液検査の結果を確かめる。そして何冊もの書物をめくり、冗談じゃない検査結果を解釈しようとする。  ゆるい衣服に着替えたジジがやってきて、軽く呪文を唱える。  瓜生は苦笑した。無論、魔法を通じて知ってしまう方が早い。化学分析は迂遠なのだ。 「竜神と人の子、それ自体が無理だが……なるほど、二つの受精卵が血液幹細胞を分け合ってキメラ化したか。別にキメラは珍しいことじゃないしな」  新生児二人の血液検査結果を見て、瓜生が微笑した。 「そんなの最初からわかってるわよ」ジジが唇をとがらせる。 「シャム双生児分離手術にならなくて良かったよ。そこまでの技量はおれにはない」 「魂の面を見なさいよ。似たようなものでしょ?」 「まあね」 「あの女は?」ジジが聞く。 「悪いけど、家畜処理だからなあ。下水浄化設備に直通した、浴室同様丸洗いできる工具室を使ってもらってる。監視カメラはあるよ」  竜の姿をした赤子は、すぐに大量の餌を必要とすると聞かされ、〈ロトの民〉に頼んで数十頭の家畜を生きたまま外からつれてきてもらい、また真空パック肉数十キロを竜女に渡した。 「小さい家畜じゃなきゃ、って。まあ、キーモアとアカアリがあってよかったよ」  キーモアはアレフガルドの家畜で飛べない鳥。中型犬サイズで、草でも野菜クズでも虫でも食う。  アカアリはこの島で食べられている三センチぐらいの蟻で、幼虫や卵の栄養価が高い。  監視カメラの画面を見たくもない。竜女も、竜の姿をしたほうの赤子もとことん獣で、ひたすら血肉をむさぼっている。 「でもあいつなら、監視カメラの画像ごまかすぐらいできるんじゃ?」 「アロンドを騙すようなことはしないだろ。それにしても大変な戦いだったな」 「そっちも。大変だったらしいわね」 「はあ、双胎児予定帝王切開としちゃ普通だよ」と、瓜生はため息をついてスポーツドリンクをがぶ飲みし、ジジにショートケーキをホールで渡した。 「明日も検査があるから、顔出して寝るよ。変なのが混じった血液や羊水が母体に入ってなきゃいいが」 「あたしもそろそろ寝るわ。疲れた。明日は、明日考えよう」と、ジジも立つ。  瓜生がのぞくと、夫婦は半ば食べながら寝、赤子は泣いていた。 「失礼しました。明日から、あまり寝る暇はなくなるでしょうね」といい、部屋隅の洗面所を利用して哺乳瓶にミルクを作って赤子に飲ませ、便を見て胸をなでおろしつつシャーレにとり、夫婦を寝かせて毛布で包み、大切に赤子を置いた。  今更だが、男児だ。 「ああ」ローラの目から涙があふれ、満腹してその指を握る赤子とは別に、何かを求める手つきをする。  疲れきり、泥のように眠るリレムとキャスレアにも簡易寝台を出して寝かせ、毛布をかけ、消毒済みの哺乳瓶と鍋と粉ミルク、説明書を用意して立ち去った。  それから、船底近くのコンクリ張りで丸ごと洗って流せる、錨など特殊な作業をする部屋に向かう。 「どうだ?」瓜生の声に、血まみれの竜女が嬉しそうに飛び出してきた。 「よく食べ育っておる」  目の前で、山積みの肉を片端から平らげたもうオオトカゲのサイズになったのが、生きたまま家禽を食いちぎり内臓をむさぼっている。 「三時間で体重が三倍ぐらいになってないか?大丈夫か?」 「竜の子はこれで普通じゃ。ただの生き物と違い、身体能力を魔力で促進し、食とともに天地の霊を喰らって骨肉とする」竜女が笑う。彼女も嬉しそうに、血のしたたる一匹分まるごと豚レバーを抱え、生で食っている。 「人間の血はあまり邪魔になってないようだな」 「されど、魔力などで」と、言葉が面倒になったのか、竜女は魔力で瓜生に情報を伝えた。 「ま、死ぬ心配がないならいいよ」と瓜生はため息をついた。 「命に賭けても」 「頼む。時々部屋洗ってくれよ、水道の使い方はわかるな?」と、瓜生は軽く手を振り、かなり食われていた生の、真空パックされた一つ一つが数キロある牛肉や豚肉の、ロースやバラ、レバーの山に大量に追加した。  隅では、たくさんの家禽の、食い散らかされた羽が血まみれで散っていた。  落ち着くまで数日。瓜生は三人の検査はほどほどに、せっかくだからと何人かの、他の患者の治療も続けた。  何よりキャスレアが驚いたのは、出産を経たローラの健康だ。貴族であろうと、子を出産した母親はやせ細り歯が抜けたりすることすらあるのが普通だ。栄養学の知識が皆無、さらに迷信で得られる食物も制限し、毒でしかない誤った薬を飲ませ、瀉血で肝心の血を捨てることすらあったものだ。  アロンドの、〈ロトの子孫〉としての教育は、産婦人科医として充分ではなくても高い栄養学の知識があり、充分に食べさせてあったのだ。  ゴッサが依頼した妊婦は幸い無事出産し、母子とも元気だ。  サラカエルはもう、開拓している村に帰って仕事をしている。  竜女が、竜の姿をした子とともに出て行き、野生生活をしたい、と言い出した。 「家畜や、死体をウリエルの力で『出した』肉でも栄養はとれるが、魂や魔力の源が摂れぬ。このままここで暮らしては、魂を失いかねぬ。野の獣や魔物を、自らも危険を犯し血を流して食らわねば、まことの糧にはならぬ」  それを聞いた、〈ロトの民〉の老人たちが深くうなずいた。 「われらの、〈ロトの民〉となる以前の遠い伝承にも、そうある。狩り食らったものだけが真の糧であり、家畜も農作物も何かがないのだ、と」 「二重盲険で比較してどうなんだろうな。いや、わかってるよ。おれも一応賢者だ」と、瓜生は竜女の冷たいまなざしに手を挙げた。 「双子の定め、未練つのりますゆえ、離さねば」キャスレアが辛そうに、それを見る。その異形については言えない。  もう全長が4メートル近く、高さも2メートルはある、血と粘液を洗い落として金色の鱗に覆われた巨体。長い鉤爪のある二足で歩き、長い尾でバランスを取っている。  ただし、長く大きい両手と大きな頭蓋、額や眼は人のそれに似ている。その人の面が、竜の美しさをいっそゆがめてさえいる。  長い牙が生えた口は、今も家畜の血がしたたっている。  船底の倉庫スペースでは、もう入りきれなくなりそうだ。  アロンドが、辛そうにその巨体を見上げた。 「これも、わが子か」 「はい。検査しました、こちらにも、アロンドさまとローラさまの子の細胞が濃く混じっています。それなしには生まれることもできませんでした」瓜生が痛々しげに言う。 「どこに、ゆくのか」アロンドの、平板だからこそ悲痛な声。 「まず、海へ」竜女が静かに言う。 「カメラと通信機はつけさせてもらう。監視しなければならない。それに、しょっちゅう抜き打ちで会いに行く。深海だろうと」瓜生の言葉に、竜女がうなずき、差し出したカメラ+通信機の首輪を竜の子につけ、自らの分も手にした。  竜の子が咆哮し、その口から稲妻と炎が混じるような、白く輝く息が漏れた。 「では、ゆくがよい。人の敵になるな」アロンドの言葉に、竜女は戸惑いを浮かべた。 「それはこの神子が育ち、あるべくようになるのみ。わらわごときに、操れるはずもないし、操ることは許されぬ。幼きうちは誰にも操られぬよう、穢されぬよう守る。長じた魔竜はわれら眷族を率いあまたの天地の魔精と戦い、力あらば喰い、力及ばずば喰われるのみ」  アロンドは泣きそうな表情で、剣の柄に手をかけながら、うなずくしかなかった。 「ではまいる。これからも用あらば呼ぶがよい」と、竜女が出ようとした。  そこに、リレムの悲痛な悲鳴。 「ローラ!」  アロンドが小さく叫び、拳を壁に叩きつける。 「ひと……ひと目」  ローラは両胸が開く服で、左手に抱えた人姿の赤子に乳を含ませたまま、歩いてきた。 「なりませぬ、未練がつのりまする!見てはなりませぬ、これは」キャスレアが絶叫した。 「わかっているわ。長き月、わが腹にいたのよ。そしてこの子の、兄弟なのよ」ローラは決して譲るまいと、歩んでくる。 「なりませぬ」キャスレアが言うが、 「いいえ、わが子に会う」アレフガルド王室の、皆に恐れられる鉄の意志で押し通る。  血塗られた牙をむきだした、その竜の正面に、小さな母親が赤子を抱いて立つ。 「名を……竜王の、そして勇者アロンドの、わたしの子。ヤエミタトロン、それがおまえの名」 「古き言葉。黄金の柱」と、竜女。  ローラは左乳を人姿の赤子に含ませたまま、右手で軽く、豊かなむき出しの乳房を絞り、乳に塗れた手を竜の口に差し出した。 「わたしにはこれしか与えられない」  アロンドが、声もなく悲鳴を押し殺した。瓜生はサイガブルパップフルオートを出し、非致死性弾の弾倉を装填してセレクターをフルオートに押し下げ、薬室のスラッグを排出した。  腕を、上半身を一口に食いちぎれる牙。 「さあ!」  黄金の鱗に血塗られた牙の竜は、驚くほど穏やかな、人の青い瞳でローラと、アロンド、そしてローラの胸の赤子を見た。  そして、静かに、それでいて素早くローラのすぐそばによる。長い牙、顎は血にまみれている。  その口から、二股の舌が素早く伸びる。ローラの手から、乳をなめた。  悲しそうな声。人によく似た両腕が、求めるようにローラに、赤子に、アロンドにさまようように差し出される。  アロンドが歯を食いしばり、巨体のアダンのそれより大きな手を固く握る。ローラが、その手に頬をすりよせ、涙に暮れた。  巨大な指の一つを、赤子が握る。 「もう、人間の一歳児程度の知能は、あるのですよ。それに、胎内で兄をずっと固く抱いていました。守っていました、おれが二人とも助けるためだと言うまで。どれほど飢えても、子宮にも兄にも食いつきませんでした」瓜生が悲痛に言い、耐え切れず嗚咽する。  どれほどのときだったか。  アロンドが、強くローラの肩を抱きしめ、ヤエミタトロンの手をひときわ強く握り、離した。  無言でローラをうながし、太い指を握って離さぬ人の赤子の手に口づける。  小さな手が離されると、走るように急いで、振り返らず。キャスレアとリレムが泣きながら追う。もう、激しくあえぐような泣き声が、廊下から漏れる。  竜の子の腹が、巨大に膨れる。  瓜生がとっさによけた、誰もいない側の壁に、凄まじい光。稲妻と白い炎、閃光ともいえるブレスが荒れ、鋼の船腹に大穴が開く。  その穴から、黄金に輝く竜神王子は海に身を躍らせた。竜女も瓜生に一礼しその後を追う。  凄まじい咆哮が、至近距離の雷鳴より激しく天地を、海を揺るがす。  大穴から瓜生が見ると、もう二つの影が海中を高速で泳ぎ去っていった。他にも何体もの、大型の魔物がその後を慕っていくのがわかる。  悲しみはあっても、すべきことは多くある。  ローラやキャスレアは子育てという重労働を。王族は乳母に預けることも多いが、ローラは子を離さなかった。  アロンドはローラと、残った息子を慈しみ、時間をつくっては〈ロトの民〉たちの間を回り、知り合う。  瓜生は医者として働く。時に通信機の電波を三角測量し飛行艇で飛んで、黄金竜とダースドラゴンの元気な巨体を見、自らもドラゴラムの応用で潜水艇と融合しともに泳ぐこともあった。  深海まで潜られて圧壊しかけたこともある。大海原の底は、獲物も魔物も多い、ある意味魔界で若き竜は旺盛に食い、戦っていた。  そのまま時が過ぎるかと思ったが、二月ほどして、アロンドは動きだした。 「メルキドに行くぞ。山彦の笛を借りに」  そう、王国の夢。そのための、長くとどめられていた一歩。それは〈ロトの民〉にとっても待望だった。 「よっしゃ!どこでもついてくぜ」アダンが叫んだ。  身分を隠して、久々に訪れたメルキド。  数月ぶりだが、ずいぶんと復興していた。少なくとも町の周りにいた難民たちはいない。街もずいぶんときれいになっていた。  さっそく、植物繊維製品を商うイゴメスの邸宅を訪れた。  イゴメス家とは既知の大灯台の島の老人も連れ、たっぷりと商品サンプルも持っている。  実は〈ロトの民〉が増えて大灯台を開拓して以来、染色しやすく丈夫な、竹に似た植物の繊維がアレフガルドでは珍重されるが、竜王騒動で輸入が絶えていた。  また、ドラゴンの角と呼ばれる古き塔で得られる雨露の糸も珍重されるが、それを用いて強力な防具、水の羽衣を織ることのできる職人は、アレフガルドでは絶えており、輸出先とも連絡がついていない。 「ふむ、確かに竜王が出る以前に買っていたのと、同じだな」  かなり太った商人だ。目が落ち窪み、顔色が悪い。  ガブリエルやローラは、一応会ったことはある。 「よかろう。また買ってやる」と、偉そうに言ってはいるが、実際にはこの商会はそれほど重要ではない。  竜王が出る前のメルキドの北方では、広く遊牧が行われており、その良質の皮革・毛糸が多く売られていた。  大灯台島の竹綿の大半はムーンブルクとルプガナに送られ、ムーンペタやルプガナで加工されてガライから輸入される量のほうが多い。 「ありがとうございます。さて、一つお願いしたいことがあります」  やや奥にいたアロンドが、フードを取る。 「わが先祖が、〈上の世界〉よりもたらした山彦の笛という神器が、この家に伝えられていると聞きました。できましたら、ひとときお貸し願えますか?あれの、本当の力は勇者ロトの血を引くものにしか出せぬはずです」  静かな、誠実な微笑と強烈な目。  イゴメスは脂汗を流しながら、必死で首を振った。 「だ、だれにであろうと、たとえ竜王を倒した勇者であっても、わが宝は決して貸さん。あれはわしのもんじゃ!」 「とても重要なことです。お貸しくださいませんか。金銀でできるお礼ならば、いかほどでも」  アロンドの声は平静を保っている。  イゴメスはぶるっと震え、おびえを大声にした。 「出て行け!誰にも貸さん。どれほどの金銀を積まれても、決して渡さん、わしのじゃ」  いつの間にか入ってきたジジが、アロンドの袖を軽く引いた。もう出よう、ということだ。  廊下に出て、そっとジジが話しかける。「盗まれてる。使用人に聞いたわ、二年前、竜王配下の盗賊に一番貴重なコレクションを盗まれた、って」 「それにしても、わたしたちがよそに売る、といえば」〈ロトの民〉の老人がいうが、アロンドは首を振った。 「脅しはしたくない。力に溺れたら、回復するのは難しいからな」  そういって、屋敷を出る。 「さて」ため息をつくアロンド。  そこに合流した、赤子を抱えたローラとリレム、そして瓜生。  リレムは瓜生やジジに、他の子とは明らかに違うさまざまなことを習ったり、またローラの子育てを手伝ったりととても忙しい。  瓜生は時に竜の子を追ってあちこちの海を旅したり、一日に三時間ほどは客船で〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の子供たちを教育したり、また〈ロトの民〉の、その高い水準でも治せない患者の治療もしている。  教育はアムラエルも全面的に協力している。彼女は子供たちにとても慕われ、強い権威もある。  彼はルーラを無制限に使える魔法の剣を持っているので、世界のあちこちを一日中飛びまわっていられる。 「え、盗まれてた?」ジジから聞いてため息をつく。「少なくとも、おれとジジはあの音色は覚えてる」  ジジがうなずく。 「あの頃は男装だったミカエラが、あちこちで変な笛を吹いてたっけ。下手だ、って思ってたけど、何か探してたのね」 「オーブだった」 「しかし、竜王が盗んでいたとは……竜王の城ではそんなものは見つけなかったぞ」アロンドが首をひねる。 「魔物だからって竜王とは限らないでしょ。魔物に化ければ、何をしても竜王のせいにできる」ジジが馬鹿にしたような声でいう。 「その手を使ってたってわけか」瓜生の一言に、蹴りが返ってくる。 「となると、どこにあるかは、ウリエルとジジがあちこちで耳を澄ますしかないのか」とアロンドが言うが、 「盗んだ者が使い方を知っているとは限りません。何のために盗んだのかもわかりません」という瓜生の一言にため息をついた。 「困ったな」と軽く空を見上げ、なんとなく町外れの、正規の予言所とは違う、崩れかけた占い小屋に入った。  難民たちは、主に瓜生に農具を与えられあちこちの滅ぼされた村を耕しに出たが、中には街に残っている人もおり、やや貧しい人々の町ができつつある。  小屋に入った瞬間、アロンドの背が固まる。  平然と迎えていたはずの占い師が、ベールをはねのけた。 「ハーゴン!」 「ロン!」  叫び声が上がる。  皆がのぞくと、どこかから盗んだようなちぐはぐなマントを払い落とした男が、アロンドと抱き合って泣き崩れていた。 「そ、その方は?」  ローラが聞く。 「ハーゴン。私が両親を失い、ラダトームにいたときに世話になった」アロンドが泣いている。 「メタト、アロンドさまがわたくしどもを率いて、どれほど助けてくださったか」男の泣き笑いに、ジジが顔をしかめた。 「率いてたのはイシュトだよ!」アロンドが明るく泣き笑う。  瓜生たちは、ハーゴンという男を見ていた。(邪神教団のマーク)二人同時に、因縁浅からぬ目元の刺青に気がつく。  ジジがはっとする、瓜生がジジと、ハーゴンの目元を見比べる。 「同じか?幻覚などの魔法の、生来の天才」と、瓜生。ジジがうなずいた。  ジジと同じ、崩れた感じの泣き黒子。髪の色は違うが、二人とも明らかに生来の色ではない。  奇妙なほど背が小さく痩せているため、子供の印象もあるが手は長い。顔は肌の若さに似合わず老いて、醜いと言っていいが、おそろしく目立たない男だ。  薄汚れてはいるが、靴には金がかかっている。 「竜王を倒されたと、おめでとうございます。こちらにいらしたお祭りのとき、遠くから拝見しましたよ」と、ハーゴン。 「ありがとう。あれから、どうしていたのだ?」 「散り散りであちこちに預けられました。いい里親でしたが、竜王が倒される直前に殺されたので、メルキドに入れない人々に混じって暮らしていたのですよ。他の、ゴーラの仲間のことはわかりません」と、涙ぐむ。 「調べとく。彼らの面倒を見たのは誰?」と、ジジがサデルに言って、名前を聞くと消えた。 「そうそう、こちらにいらしたのは、何かお困りごとでも?」ハーゴンの問いに、 「山彦の笛という品を探しているのだ。ここのイゴメスが手にしていたようだが、盗まれたそうでね」と素直に応えた。 「勇者アロンドが探していた、という噂は聞いていました。悪しきものなら血眼になるでしょうよ」ハーゴンはケケケ、と少し不気味な笑いを浮かべる。 「何か、知らないか?」アロンドの言葉に、ハーゴンはまた笑みを浮かべた。 「イゴメスは先代から、ライバルを完全に潰してしまう商売で評判が悪かったのですよ。彼を恨んでいる者は多いですね。先代は商人として優秀でしたが、当代はそれも下手で、かなりまずいことになっているようです。もしかしたら、盗まれたと言いふらして実は売ってたりするかもしれませんよ」 「それはありえますね」と、サデル。 「まあ、ガブリエルと相談してみる。ハーゴン」アロンドが、一瞬追憶と痛みに震える表情を押し殺し、「こちらに人生があるのでなければ、来てくれるか?」 「このようなところに人生など。いつでも、わがすべてはあなたのものですよ」ハーゴンが過剰なほど平たくひざまずいた。 「あのときは、黙って消えてしまってすまなかった。ゴーラの孤児たちを、見捨てることになってしまった」  アロンドが頭を下げる。 「わたしたちが、アロンドさまを探し当てて迎えたのです。勇者ロトの子孫、竜王を討つべき勇者を。あなたがたも手当てをして、里親を探したはずです」  サデルがアロンドに強く言う。 「いや、ずいぶんな親切でしたよ!第二の故郷とも言うべきラダトームの周りから引き離して」ハーゴンの目がゆがみ、一瞬激しい憎悪が沸き立つ。 「〈ロトの子孫〉を恨むのであれば、私を殴って晴らしていい」とアロンドがサデルをかばい、頬を向ける。ハーゴンは笑って、ますます低くひざまずいた。 「では、来てくれ」  見回すだけで、その小屋に財産といえるものがないことはわかる。  ハーゴンは腐りかけた板切れの上の、水晶のかけらや金属製の札、欠けた香炉など怪しい品々を木箱に入れ、椅子代わりにしていた布袋を担いだ。それで空気が揺れる、貧民街を満たす、もう鼻が慣れて感じないほどの悪臭だ。  袋を担いだまま、ハーゴンはアロンドに従いルーラでガライに飛んだ。 「山彦の笛が盗まれていた、と」久々に会ったガブリエルが、帳簿を示しつつアロンドの話を聞く。  ルプガナだけでなく、ベラヌールやムーンブルクとも貿易ができるようになり、商会は本当はますます巨大な富を得ている。 「貴重な盗品を、最悪海外と交易する市場は……まだ、断たれた情報網は回復できていません」ガブリエルが苦慮する。 「〈ロトの民〉たちも、元々閉じこもりわれらを通じてわずかに交易をするだけの人々ですし」  そして、部下を呼んだガブリエルが、メルキドのイゴメスについて聞く。 「確かに、当代になってよりやや衰え気味です。ですがそれも、竜王の攻撃もありますし、まだ商人として評価するほどの情報はありませんよ。まあ評判が悪いのは前の代からですが、それもわざと作った評判だと言う声もあります」 「ふむ。たいした男ではない、か。では、どこにそれがあるのか、じゃな。なんとか情報を収集しておこうか」  ガブリエルの屋敷で、一年近くぶりに入浴したハーゴンがアロンドに礼を言う。 「まったく、あのころもあなたやリールには、清潔にするよううるさく言われましたっけね」 「だが、商売にも清潔が必要だし、それに」 「不潔は伝染病の元だ、ですね。何度も何度も言われましたよ」と、ハーゴンが笑った。 「彼はそれほど不潔ではない」ゴッサが珍しく口を開く。 「あ、その、時に商売のために清潔にすることもありましたし、いろいろと」ハーゴンの目が一瞬鋭くなり、そしてまた媚び笑ういつもの目に戻る。 「隠してるんだな、いろいろな商売のため、あちこちにいろいろな商売用具を。好きにしなよ、ゴーラのみんながご飯を食べられればいいさ」と、アロンドが闊達に笑う。  かつての、もう一つの自分を思い出させるやり取りに、とても嬉しそうだ。  そのまま、ガライの町に、清潔だが派手ではない服装で出る。  アロンドやローラの顔を知っている人もいるし、服装が違うとわからない人もいるが、どちらも二人が通ると明るくなるし、ローラの腕の赤子を見ても微笑む。  みるみるうちに、日常が取り戻されているのがわかる。  そんな中、一人の酔漢がアロンドにぶつかり、「なにするんだばっきゃろう」とにらみつけて去った。  その直後、人ごみにまぎれた小さい子供の後を、ジジが追う。 「ジジ?」アロンドが声をかけようとするのを、ハーゴンがとめた。 「掏りです。ジジ様は、泳がせて追っているようですね。お、姿を消して、変えて。なんという腕だ」 「おまえも、よくわかるな」アロンドが何食わぬ表情に戻り、つぶやいた。  さまざまな悪を教えてくれた、大切な孤児仲間に。  その夜、ジジと瓜生がアロンドを訪れた。  そこにはハーゴンもおり、小さい体に似合わぬ食欲で、初めてであろう高級なごちそうを食べていた。 「ここの盗賊は、それほどは組織されてない。思ったよりひどく、なんというか泥が掘り返されてんの」 「さすがはデルコンダルの魔女、ジャハレイ・ジュエロメルさま。そうなのですよ。竜王は、まともな人も犯罪者も平等に襲いましたからね」 「何であたしの名を知ってるの?紹介したっけ?」ジジが鋭くハーゴンをにらむ。「それにその、目の刺青。邪神教団よね」  座の空気が、一気に凍る。ハーゴンは悪びれもせず、 「ごく小さいころの話ですよ。大陸で、親もない孤児が妙な教団に拾われ、体のいい奴隷として雑用をしつつアレフガルドまでつれてこられた。  そこでわたくしをつれてきた宣教師も魔物に殺され、その後はできることは何でもし、泥をすすって生き延び、そしてロトの皆さんのお情けでやっと暖かな家庭を得たのが、それがまた魔物に殺されて。  それからなんとかいんちき占いなどで糊口をしのいできた、それだけです。宗教なんぞにつきあう余裕は、これっぽっちもありませんでした」  鼻を悲しげにすする音、女たちには同情の涙を流す者もいる。ジジも、丁寧にそれにあわせていた。 「人を生贄にすることだけは許さん」アロンドが、一瞬凄まじい迫力を見せ、ハーゴンが飛び上がった。「それ以外は、信仰を裁くことはしない。どれほど危険かは知っている」と、また柔和な微笑に戻る。 「なんとお心の広いことでしょうね」と、ハーゴンがつっぷした。 「それより、山彦の笛ね」ジジが話題を変えた。 「音色は聞こえました、ラダトームで」瓜生が笑って言った。その爆弾発言に、皆が驚く。「ツッセエでしたっけ、かなり大きな貴族の屋敷から」 「あ、あの」リレムとローラが顔をしかめる。 「勢力はありますが、とても評判が悪いのです。あれほどおそろしい噂が絶えない家もないです」リレムが嫌悪に震える。  ローラがうなずき、ぎゅっと赤子を抱きしめた。 「なら」とハーゴンが微笑し、ジジと何か小声で話し、軽くうなずき合う。  それから、ラダトームに一行は向かい、ローラは初孫を父王に見せて宮廷の話題となった。  アロンドは相変わらずの明るさで、貴婦人たちや若い武人にちやほやされ、いるだけで宮廷を明るく盛り上げている。  また、大灯台の島から、そして実は瓜生が出したいくつかの珍しい布や食物、強い蒸留酒などの土産が大評判を生む。  そしてジジやアダン、サデルも含め、美しい人々も評判となり、どこの出身なのか言われて、適当にごまかしている。いや、ジジなどは正直に「アッサラーム」というだけで、絶妙な韜晦になってしまう。  早くもアロンドが、どこかで国を作ったらしいと噂にもなっている。  女官たちも、久々に僚友たちや家族と会い、嬉しげに旧交を温めていた。  瓜生はかつて診察した患者の追加健診、さらに経済情勢の調査、〈ロトの子孫〉の開拓組への物資援助など陰に回って忙しく働いている。  そんな数日後の夜。一人の上級貴族が、大通りに数人の護衛とともに出て、奇妙な儀式を始めた。  大きな家畜を殺して心臓を取り出し、その血を、大切に取り出した笛に塗って、そのまま吹き始めた。  その音色は街にこだまし、どんどん大きく山彦を返していく。  だがその音色はいつしかオーボエのものになっていたことに、誰が気づくだろう。  瓜生と同じ世界の出身者にはわかるだろうか、だがそれは瓜生一人しかいない。  ガライの山奥の隠し砦にあり、ガライ一族が伝えてきた、昔勇者ロトが残したという「しーでぃー」にその音色の音楽はあるが、それらも風車も百年の年月に朽ち果てている。  その音に、驚き慌てながら満足した貴族は、その笛を大切に箱に収め、懐に入れて、時ならぬ奇妙ごとに怯え騒ぐ群衆の中を歩く。  護衛が厳重に固め、だれも指一本触れられるはずがない。  捨てられた家畜の死体は、そのまま貧しい人たちが奪い合っている。  帰ってから、笛を取り出してまた吹いてみた貴族は、出かける前と変わらない、何か抜けたような音色に、首をひねりまた満足していた。 「手に入れたわよ」アロンドの部屋で、ジジが微笑み懐から笛の入った箱を取り出す。  リレムが水桶に入れ、それから蒸留酒でよく洗う。 「腕は落ちていなかったようだな」瓜生が笑った。 「あたりまえじゃない。ちゃんと、あんたが用意したニセモノとすりかえた」ジジがくすくす笑う。 「ちゃんと、彼が吹いてみたときの音色と外見を盗撮盗聴、それに合わせたレプリカです。音色も、オリジナルの構造も見た目もよく知ってますしね。おっと」と、瓜生が消える。  そこにハーゴンがやってきた。「うまくいきましたね」と、笑う。 「見事な噂操作だったわね」ジジが笑いかける。 「特に、井戸に使用人が集まって話しますからね。そこに噂を流せば、すぐに上に行きます。ツッセエ家おかかえ魔術師の下働きに、儀式についての噂を流してやれば、簡単でした」ケッケッケ、とハーゴンが笑い続ける。  早速その場、ラダトームでアロンドが吹いてみたが、こだまは返ってこなかった。 「やれやれ。街やほこら、塔や洞窟を回るんだったな」  まず女たちはラダトームで休ませたまま、一行は岩山の洞窟へ向かう。  瓜生は車は出さなかった。目撃される危険が大きい。  ラダトームから豊かな耕地を縫い、森の一時は竜王の跳梁で廃れたがまた切り開かれた道を走る。わだちの跡も新しく、沿道の木々は切り口も新しく匂うものも多い。また荒れ果てた山に、〈ロトの子孫〉がいくつもの木々の苗を植えたのも見える。  乗馬に優れる〈ロトの民〉たちが、多くの替え馬ごと巨大な竜馬を駆り、アロンドたちもなんとか乗って従う。馬が疲れれば人は乗り換えて駆ける。歩けば二月はかかる道を、半月もかからずに駆け抜けた。  瓜生やジジは姿を消していることが多いが、アロンドたちが着いたら大抵先にいる。二人とも、この〈下の世界〉のほぼあらゆる場所にルーラでいけるのだ。  サラカエルをはじめ〈ロトの子孫〉が主導して、滅ぼされた村を開墾しているところも多いが、顔を知られているアロンドも、習俗の違う〈ロトの民〉もいるので、遠慮して時には山間の廃屋、時には森にテントを張って過ごした。  アロンドは、迷いもなく山奥の泉や食べられる果樹を見つけ出す。 「このあたりは覚えがあるんだ。ドムドーラから逃げて、連れが全滅してから一人で魔物と戦いつつラダトームまで旅したから」 「いくつだったんだ?」アダンが聞いた。 「十歳かそこらだったな」  皆が呆然とする。常のときではない、魔物が多数出る森を、一人で…… 「魔物が出ない、というのはありがたいな」  と、アロンドは笑おうとして、鞍ずれに顔をしかめた。  つい百年前までは深い湾だった塩湖、そして隆起して間もなく高木のない森と野原を過ぎ、崩れかけた橋を越えて、かつては鉱山町だった毒の沼地に着く。  そこでアロンドは迷わず一つの岩を見つけて止まり、見回していた。 「あれから一度来たことがあったが」それだけ言って、その岩の周囲に花を、丁寧に数えながら放った。  そこには、木は朽ち錆びてはいるがまだ土に還っていない、武器が散乱していた。 「ここで、連れが全滅したんだ」  それだけ言って、もう竜馬を駆けさせる。馬には馴れていなかったアロンドだが、鞍ずれをおくびにも出さず、今は笑顔で一日中駆け続けられるようになっていた。  その近くに、巨大な洞窟の入り口がある。はるか昔、ゾーマ以前には鉱山だったとも言われるし、それ以前の天然洞窟も多くある。 「呪われたものがちょっとあっただけで、何もなかったな」とアロンドは言うと、一歩入ってから山彦の笛を吹いた。  音は、一度だけ鳴って、響き一つなく消えた。  やれやれ、と肩をすくめる。 「でもちょっと、取りに行きたいものがあるんです」いつの間にか加わっていた瓜生が、アロンドを誘う。  そして、瓜生はアロンドたちに、新しい魔法の使い方を教えた。 「なるほど、これならレミーラで魔力を消耗しなくても、洞窟の広い範囲を照らせるのだな」  瓜生がいなかった年月に、アレフガルドの魔法文化がどれほど衰えたか。いや、ミカエラたち〈上の世界〉のほうが、人間の魔法ははるかに進んでいたのだ。  アロンドがついていくと、瓜生は奥深くの宝箱に触れた。ふたは空いている。 「開けたことがあるぞ。金しかなかったと思う」 「前に、おれが入れたんですよ」と言うと、蓋の裏の薄い金属をはがし、複雑な文様が刻まれた、葉書大の石板を取り出してアロンドに渡した。 「次は勇者の洞窟に行きましょう」と、リレミトで地上に戻り、ルーラでラダトームに戻った。  一日だけローラたちと休み、そして北に竜馬を走らせる。瓜生の指示通り多くの、大灯台の島を覚えさせたルーラを使える〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉を連れて。  周囲は草原だが、その洞窟の近くは草一つない不自然な砂漠が広がっている。  かつて大魔王ゾーマが出でた、魔王の爪痕と呼ばれる底なしの洞窟。  そして勇者ロトがゾーマを倒した折も、魔の島からは遠いその洞窟から這い出たという。  アレフガルドの民のあいだでは聖地とされ、うかつに立ち入る者はいない。反面、〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉にとっては重要な集合場所でもある。  清められ魔物の出ない洞窟に入り、山彦の笛を吹く。こだまは返らない。  来ていた瓜生が、アロンドたちを、地下二階の、ここの目的である勇者の石碑とはまったくずれた隅にいざなう。  そこには、崩れた壁と空いた宝箱があった。 「ここに、人工の壁の裏に宝箱があった」アロンドが自慢げに言う。 「ああ、おれが作ったダミーです」瓜生の言葉に、アロンドが驚く。「この奥です」  と、その岩に隠れていた宝部屋の、さらに壁に向けて、瓜生は切れぬものなき両手剣を何度も振るっては爆薬を仕掛け、岩や、明らかにセメントである石屑を除いていく。 「隠し部屋か?魔法で調べたはずだぞ」 「魔法探知を妨害していたんですよ」と、瓜生は崩れた壁から紋様を刻み描いたガラス片を取り出し、砕いた。  その時、掘っている壁がおそろしく冷たくなる。 「な」  そのまま、瓜生は剣で岩を豆腐のように切り裂き、取り除いていく。 「魔法に協力してください」と、サデルはじめ、〈ロトの子孫〉の優れた魔法使いに魔法を指示する。  フバーハの応用。超低温や超高温を、一時的に遮断する。  そして、最後に両手剣が岩のあいだを切り裂いたとき、洞窟の空気が一気に穴の向こうに吸い込まれ、強烈な冷気が噴き出して空気が濃霧に変わる。  床下まで切りこんだ切れ目の下から、水のような液がにじみ出る。 「触れるな!液化した空気だ!」  瓜生の警告に、皆が飛び離れる。  瓜生が繰り返しベギラゴンを唱えて周囲を加熱し、霧が晴れた。  そして岩壁を切り裂き、外したら、そこにはかなり広い部屋があった。  皆が呆然とする。極限の冷気、液化空気と真空に保存されたそこには、何十頭もの見慣れない動物の鉄像や、大きな金庫がいくつもあった。  部屋の中心に、冷たく輝く長剣。150cmはある蒼い刀身。純白のわからない素材から削りだした、華麗な文様が刻まれた護拳つき柄。  瓜生はその剣をアロンドに示した。  アロンドが近寄ったのは、複雑な魔法円の中心。  彼は静かに剣を引きぬき、その美しい刀身に魅せられた。 「吹雪の剣。ここを保存するため使いましたが、どうぞお使いください。道具として向けても強力な冷気呪文を放ちます。でもそれは、単に保存のため。昔、この世界を去る前に、ここに置いたのです。〈上の世界〉から集めて」  と言って、金庫に数字を入力して開け、緩衝材入りの木箱に中身を一つ一つ入れ、集まる人々に渡していく。 「あと、岩山の洞窟にあった石板を、これに合わせてください」と、ひときわ大きなカバに似た動物の鉄像に張られた、割れた石板を指し示す。  瓜生が、そしてアロンドが持っていた、勇者ロトゆかりを〈ロトの民〉に示した陶器の割符、それに近いものだ。 「魔力を最大限に集中して。勇者ロト、ミカエラのかけた呪です」  瓜生の言葉に、アロンドは新しい愛剣の柄に手をかけ、すべての魔力を振り絞る。  全身から、無数の稲妻が沸き立つほどの魔力。  そして、アロンドは割れた石板を、百数十年ぶりに片割れにはめた。  その瞬間、鉄の像に強力な魔力が集中する。  閃光の嵐。気がついたときには、数頭ずつの何十種類もの動物が、闇と狭さに惑っていた。 「こ、これは?」アロンドの問いに瓜生が笑う。 「百何十年前。あなたの先祖であるミカエルをガブリエラたち、〈ロトの子孫〉の祖たちに預け、この世界を去る、そのついでに置いたのです。〈上の世界〉の、家畜や作物、薬草の種や苗です」 (わかってくれ。これがどれほどの価値を持つか!) 「あなたがこれほどのことをするんだ。それはとてつもなく大切なことなのだな」  アロンドが、瓜生を見つめる。瓜生はうなずいた。 「しばらくは、〈ロトの民〉の間で、できるかぎりふやしましょう。そして」  そう。紋章を集め、大陸を手に入れたら。 「優れた家畜と作物、多くの人を養うことができるのだな」  瓜生が強くうなずいた。 「よし!では、大切に運び出し、大灯台の島へルーラで!」  アロンドの号令に、偉大な魔法に呆然としていた〈ロトの子孫〉たちが沸き立つように忙しく働く。  暴れる家畜たち。大型で嘴の大きな飛べない鳥。砂漠を歩く鼻の長い役畜。大きなリクガメ。その他、とても多くの家畜がいた。  アロンドたちがあちこちで笛を吹くために竜馬で駆け回っている間も、瓜生やジジ、そしてアムラエルたちは〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉の、頭のいい子供たちを座礁した船に集め、教育していた。 〈ロトの子孫〉は子供たちを全員厳しく教育する。魔法は素質があればルーラやベギラマ、ベホイミやザオラルぐらいまでは使えるように。日本語とアレフガルド語双方の読み書き、そろばんどころか三角関数の微積分や級数計算ができるように。人体解剖を見学し、人が産まれること、必要な栄養や清潔を理解するように。肥料について理解するように。  瓜生が故郷から出して残した本も多数読み継がれ、訳され書き写され、かなりの近代知識も知っている教師が子を教えている。 〈ロトの民〉は騎馬戦闘と水田をきちんとできるように、というのが優先されるが、それでも清潔にし、優れた知性を見出して医学を学び継げるよう、世界の標準に比べればずっと教育熱心といえる。  特に試行錯誤がさかんで、武器や繊維を中心に多くのものを作り、鎖国してはいるがルーラで出自を隠してさまざまな交易もしている。  その水準の高さに、どのように加えるか考えながら、瓜生は多くの子供たちにいろいろと教え始めた。  彼らが学んできた、素晴らしい教育や医学を否定しないように。  無理に近代を押しつけて心を壊し、社会を破壊しないように。  故郷で、あちこちの難民キャンプで無残な失敗を多く見ている瓜生には、とても切実な問題だった。  その点、アムラエルの存在がとてもありがたい。彼女の教育者として、また子供たちをまとめる存在としての力は素晴らしかった。  ジジは、多くの人に対する教育にほとんど興味を見せなかった。彼女はリレムをはじめ、何人かの、天才レベルの知性の持ち主だけを選んで厳しく教育しているようだ。 「昔、あたしが失敗したのは弟子を育てなかったこと。ちゃんと弟子がいたら、あたしがいなくてもカンダタは暗殺されなかった」  そう言って、瓜生に大量の手品用具を出させ、何かいろいろと教えているらしい。  瓜生は共通の勉強もちゃんとやればいい、と干渉しなかった。 「あの時は、ロトゆかりの人を〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉に分ける、必要があったことは誰もがよく学んでいるはずだ。〈ロトの民〉は病人たちで、人里から離れて療養させる必要があった。そして魔王が出たら他と分断されるアレフガルドに、勇者となれるミカエラの子孫を置いておく必要があった。病が癒え、ミカエルの多数の子が子を産んでも、その事情は変わらない。後のために大人口も必要だったが、アレフガルドに王家に従わない大人口がいれば追討されるリスクがあるため、独立して数を増やすため〈ロトの民〉を分けていた。  だが、今後心配なのは〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉が対立すること。人は「自分たち」と「やつら」を分けて争うのが大好きだからな。竜王が出るまでは交流があったそうだが、数年とはいえ分断された。……さらにアロンドさまが国を作ったとき、多数の移民を迎える可能性もあり、それもまた別の「やつら」になるだろう。  そうならないように、まず目的を意識してほしい。〈ロトの子孫〉も〈ロトの民〉も、人が悲惨に死なないために創られたものだ。ゾーマが予言した闇の跳梁に立ち向かうためだ」  そう、〈ロトの子孫〉の子と〈ロトの民〉の子が混じる、甲板の多数の子に言う。  後ろで話を聞いている大人たちも、半ば衝撃を受けたように、それでも納得している。 「まあ、精神的なことは大して重要じゃない。何より君たちには、優れた技術者になってもらう必要があるんだ。工業、鉱業、土木、農業、あらゆる分野の優れた技師に」  瓜生はそう言って、金属の板を全員に配った。 「この二枚の板を合わせてごらん」  年齢もバラバラの皆が、それをあわせて、吸いつく感覚に驚く。 「離れないよ!」叫ぶ子に、瓜生は微笑んだ。 「どちらも、きわめて高い精度で平面に削られ、磨き上げられた金属板だ。金属自体の質も高い。それを造れなければ、〈ロトの子孫〉が持っているAK-74を自分たちで作り出すことは、絶対にできない」  瓜生がそう言って笑う。 「一人一人、手で物を削り、それと数学の関係を常に理解して欲しい。野や森の生き物を知ってほしい。そして過ちを犯さないよう、歴史から人間とは何か学んで欲しい」  瓜生はそう言って、全員に、今度は普通の鉄板を配った。 「ムーンペタで買った鉄板だ。どれだけ鉄の質が、加工精度が違うか、自分たちで見てごらん。そしてどうすればあんな精度の高い平面を出せるか、自分たちで考えてみるんだ。  勇者ロトとは別の、ウリエルの故郷」瓜生は、自分が勇者ロトの仲間、ウリエルだとはわずかな人にしか明かしていない。大多数の人には、その技術を持つ、アロンドがたまたま出会った賢者、と皆が誤解するのに任せている。「そこでは人は魔法を使えず、魔物も出ない。そのかわり人の集団が、ある種の魔力に支配されることがあるだけだ。でもその人たちは工夫し、銃をはじめ優れたものを作り出し、医術を高め、物の理(ことわり)を深く理解することには長けている。魔法も学びつつ、その人たちと同じように、工夫して自分たちで学ぶんだ」  市販されていればあらゆる書物を手元に出せる瓜生も、「十七世紀水準で、子を技師に育てるための教科書とカリキュラム」を調べるのは簡単ではないし、あってもそんなに役には立たない。 (前にネクロゴンドで、ミカエラを無事出産させるため医師を育てたときと同様、そちらの優れた人たちと協力しながらとにかく試行錯誤するしかない)  アロンドたちが次に向かったマイラは、はずれ。足弱の女たちを温泉で休ませ、頑丈な人たちは雨のほこらに向かった。  かつて、ルビスが閉じこめられ光の鎧も隠されていた塔。ゾーマが倒されてから、ロトの子孫を隠し育てるためルビスの奇跡で岩の家々となり、後に大地震で陸続きになるとともに地底に埋まり、雨のほこらと呼ばれる小さな建物だけが残った。  そこは勇者ロトにまつわる聖地とされ、長老たちが管理している。  アロンドが懐かしげに振り返る。 「私が勇者と認められたのも、あそこで命じられた試練を経てだ。それから勇者の洞窟で、全員の前で儀式をやったっけ。それから、二年も経っていないんだな」  マイラからそちらに向かう、大きく山塊を迂回する道。その途中に、小さな集落があった。  水田ではない、〈ロトの子孫〉ではない。  その集落の横を、巨馬が通ろうとした時に好奇心旺盛な子供たちが馬蹄の前に飛び出した。  ゴッサの鋭い号令で、馬群がすべて、鮮やかに子供を飛び越えた。完全に群れを掌握している。 「だいじょうぶか?」  腰を抜かした子供に声をかけた。 「ありがとう、ゴッサ」アロンドの、むしろ冷静な非常の声。  そこに、集落から転がるように大人夫婦が飛び出し、子を抱きかかえた。  その若い夫婦がアロンドを見て、衝撃に顔を凍らせる。  アロンドも。 「ロムル!リール!それに、カフス!フェル!マルキリウ!アギェセ!」  叫びとともに馬を飛び降りたアロンドが、美しいとはいえないが長身で働き者らしく汚れた女を強く抱きしめ、集まってくる若者たちを次々と呼ぶ。 「ロン、いえ勇者アロンド様。な、なんて立派になって」  女が涙に暮れる。  男のほうは声も出ない。 「生きて、生きていてくれたのか。ハーゴンも生きていたんだ、私のところにいる」  それに、夫婦とも衝撃に顔を見合わせる。 「ほ、本当に、あなたが、あの、ローラ姫を助け竜王を倒した、勇者ロトの子孫……勇者アロンド」  男に、アロンドはにっこりと微笑んだ。 「ロン、でいいよ。生きていてくれてよかった」 「すまねえっ!オレが、コルを裏切らせて、あんたが大切にしてる棒を盗ませ、それであんな争いになって、衛兵に魔物に」 「何も言うな。すまないのは私だ」と、アロンドは背から、肌身離さぬ両親の形見であるAK-74を外した。そして一瞬泣き顔になり、そして笑顔で、ロムルに差し出す。 「やるよ。あげるべきだったんだ」  ロムルが、そしてサデルが衝撃に表情を凍らせる。 「アロンド!そ、銃は、〈ロトの子孫〉の秘密」サデルが叫んだ。 「それが、彼の妄執を招き……イシュトを、たくさんの仲間を死なせてしまった。彼を信じるべきだったんだ、敵だったとはいえ、何十人もの孤児をまとめ、生きさせてきた彼を。それに、弾薬がなければ使えないんだ。ただの棒でしかない」  アロンドの、痛恨の言葉。心打たれたロムルは、ひざまずいて号泣した。 「なんて、大きくなったのね」リールがアロンドの頭をなでる。それにもサデルやゴッサは驚いたが、アロンドは平気で身をゆだねていた。 「それにしても、この子たちは?」アロンドが、周囲に集まってきた二十人以上の子供たちや、何人もの、まだ子供から大人になりかけの人を見回す。 「わたしは、里子となるには年かさでしたので、ロムルと再会してから二人で働いていたのです。ゴーラやジェッツの孤児たちも、できるかぎりまとめながら」 「多くは死んだけど。あの時に死んだのも多いし、その後里親や仕事があっても逃げたっきりのやつもいるし、病気や魔物に……」  悲しげに、リールとロムルの、そして元孤児たちの表情がゆがむ。 「それで、このあたりにもいる孤児たちの面倒を、今度はできるだけ犯罪をしないように、みてたんだよ。あの、変な連中から最初の資金を借りて商売して」  ロムルが恥ずかしげに言う。 「なんという……」アロンドが心から頭を下げた。「竜王を倒すなどより、よっぽど素晴らしい行いだ」 「でも、ここにも多分いられない。このへんの、とっくに逃げたはずの領主が、この土地は自分たちのだから出て行け、とか。耕してきたのはわたしたちなのに」リールが悔しげにいう。 「町でやってる商売も、もうできないな。王許を、別のヤツが血筋とコネで奪いやがった」ロムルが苦しげに言って、子供たちを抱く。 「なら、私たちと来てくれ!衣食住に仕事、それに教育も与えられる」アロンドの言葉に、皆の表情がぱっと輝く。 「王国を探す、って言ってローラ姫様を連れて飛び出した、って吟遊詩人が言ってたけど……もう見つけたのか」 「それはまだだが、勇者ロトの子孫は小さいがちゃんとした国を持っていたんだよ」 「なら、どうかお願いします。この子たちだけでも」リールがひざまずく。 「水臭いよ、兄弟!それにその能力、これほど多くの孤児を育ててきた実力だけでも、大金を出してでも引き抜きたいほどだ」  アロンドが笑う。  何がなんだかわからないまま孤児たちや、そしてサデルやゴッサ、アダンも大喜びで笑い出した。  ロムル、リールや子供たちを大灯台の島に送り、もう一度向かった雨のほこら。老人たちが何人か隠れて暮らしていたが、その老人たちもアロンドの指示で、大灯台の島に行き子供たちを教え、また〈ロトの子孫〉が開墾している村におもむき知恵や魔力を貸すことにする。  山彦の笛にも、こだまは返ってこなかった。  瓜生たちの学校には子供たちだけではなく、大人の姿が混じることもある。  射撃場にもなる野原。  アロンドが、銃について教えてやってくれ、と連れてきた昔の孤児仲間、ロムルがAK-74を大切そうに、怯えるように触りながら、必死の目を瓜生に向けている。 「あ、その、ゴーラのロンじゃないアロンドさまに、これについて聞け、って言われて。これ、あのころロンじゃないアロンドさまが、とてもとても大切そうにしてて、それさえ手に入れたらすごく強くなれるんじゃないか、衛兵にいじめ殺されたり魔物に怯えたりしないで」  ぶつくさ、怯えたように言うのを全部言わせる。子供たちがひそひそ話していた。  目は必死だ。その目が子供たちに伝染し、空気が変わるのが嬉しく、瓜生は語り始めた。 「銃ってなんだ?」そう、唐突に聞く。  まず、〈ロトの子孫〉の子が手を挙げて、元気にいった。 「ウリエルがガブリエラに残した、故郷の武器です。強力なので、〈ロトの子孫〉以外には決して見せてはならない。銃口を自分を含め人に向けるな。撃つとき以外トリガーに触れるな。常に薬室に弾があるか注意し、弾がある状態で手放すな触れるな」  と、〈ロトの民〉たちが小さい頃から言い聞かされる、銃の扱いの原則を元気に叫ぶ。 「それは正しいが、質問の答えになっているか?」瓜生はわらって聞き続ける。 「ええと、銃口から弾が出て、狙っている向きに当たります」 「音と火も出ます!」大声で叫ぶ子もいる。 「それだけか?その、銃は何をするんだ?」瓜生の問いに、子供たちはざわざわと、てんでばらばらにしゃべり始める。 「五人ずつまとまって、しばらく話してみろ。それで、グループごとに言うんだ。一人でいたければ一人でもいい」瓜生の言葉に、子供たちが離れる。  ロムルは世話をしてきた孤児と、そして別のところで弾かれそうだった子を誘った。  しばらくして、思い思いに発表する。 「弾薬を入れて、発砲して、空薬莢を排出します」と一人の子がいった。 「その、発砲というのはなんだ?次」 「弾をまっすぐ飛ばすため、銃身が道になります」 「それ自体は正しい。他に?」  ……と、思い思いに発表させてから、瓜生は全員にB6のコピー紙とごく小さな釘を配った。 「配った紙を少しちぎって、大きいほうを巻いて小さいほうを矢にして、それで吹き矢を作って吹いてみろ。人に銃口を向けるなよ」と瓜生が言うのに、遊びなれた子供たちが大喜びでやり、小さな木を的に狙う。 「さあ終わりだ。聞け!」瓜生が強力なフラッシュライトで全員を照らした。 「あちらを向け!」ロムルが厳しい声をかけると、子供たちは本能的に従う。 「銃は、その吹き矢と原理的に同じなんだ。弾薬を分解したことはあるか?」瓜生がロムルに会釈して言う。 「それは禁止されてます」一人の子が答える。 「やったことがある!変な粉と」 「だめだろ!」 「おかあさんが、ずっとまえにそれで大怪我したって」 「危険だし貴重だからな。だが、安全な方法を見つけ、やるべきだった」瓜生が言って、全員の間を回りながら弾薬を一つずつ弾倉から抜き、半分に切る。 「この金属塊、弾頭を飛ばす。弾頭も見ればわかるように、鉄と鉛でできてる。それは鉄の薬莢にはまっていて、その中には発射薬が詰まっている。この薬莢の底にある雷管の、起爆薬を打撃すると」  と、切った薬莢の底の、ごくわずかな薬を紙に出し、小さな金槌で叩くと小さな炸裂音がする。 「爆発し、発射薬を爆発させて大量の、高熱の気体にする。それがあらゆる方向を押し、唯一空いている銃口の方に弾頭が押し出される」  と、素早く紙を張った木板に木炭で板書する。 「銃本体がすることは、この撃針で雷管を叩く、それだけなんだ。答えは、本質的に銃ってのは、これさ」と、タガネと金槌で、小石を叩き砕いた。 「バネで引かれたハンマーが、トリガーによって解放され、撃針を叩く。確かめてみよう」と、全員に、5.45mm弾薬と合同に削った銅塊を配る。 「安全側に銃口を向けろ!これを装填し、弾倉はめ!的を狙え!安全装置セミオート、ボルトを引け!狙いを確認、トリガーを引いてみろ」  全員が大喜びでやる。〈ロトの子孫〉は慣れきった様子で、〈ロトの民〉やロムルはおっかなびっくり。  カチッ、と音だけする。銃声はない。 「弾倉外せ!ボルトを引け!」瓜生の指示に、〈ロトの子孫〉は訓練どおり、それ以外は〈ロトの子孫〉たちを見習いながら慌てつつそうして薬室を空にする。  馴れていない者が銃口を動かそうとするのを、〈ロトの子孫〉が厳しく咎めることもある。不発の時に慌てて銃口をのぞいて、遅発で頭をぶち抜く事故すらよくある。銃の安全な扱いは物心つく前から徹底的に仕込まれている。  弾薬の形をしただけの銅塊は、排莢口からこぼれ出る。不発と同じだ。 「確かめてみろ。底に、撃針に打たれた跡がある」瓜生の言ったとおり、銅塊の底に小さな傷があった。 「そう、雷管を叩く。それによって、それからのことはまたあとでだ」と、皆を見回して笑う。「簡単な銃を、自分たちで作ってみよう!」  瓜生の言葉に、全員が歓声を上げる。  瓜生は全員に、底をふさいだ、底近くに小さな穴の開いた太い金属管を配った。 「次には同じようなのを、木で作って持って来い。充分厚いのだぞ」瓜生の言葉に皆が喜ぶ。 「さて、じゃあ火薬を作ってみよう」と、瓜生が出したのは乳鉢と小さな臼、木炭・硫黄・硝石のそれぞれ固まり。そして鉛のインゴットと鍋。 「これはなんだと思う?食べるなよ」と、小さい子から渡し、回させる。 「炭だ!」「木の炭」「こないだ教わったよ!」と叫ぶ子にうなずく。「じゃあこれは?」  何人かが迷いながら見て、「硫黄」と言った子がいたのに瓜生が笑ってうなずいた。「じゃあこれは」  硝石を見たことのある子は誰もいなかった。 「これは硝石という、とても特殊な石だ。ルプガナ南の砂漠で少し見たことがある。もしかしたらどこかに大鉱山があるかもしれない、あったらものすごい価値を持つぞ。ちなみに、人工的に、貝殻と小便から作る方法もある。それは今度教えるよ」 「小便」の言葉に、子供たちがわあっと興奮する。 「注目!」瓜生は軽く叫ぶとその三つを臼で砕き、「全員、目をこれで覆って」と、木の板に切り込みを入れたものを配る。「この隙間から見るんだ。それでも本当は危険なんだけど」といいながら、自分は安全ゴーグルをかけて、乳鉢で慎重に混ぜる。  それを少しだけ金属板に落とし、金槌で叩くと爆発音がして、金属板が痛んでいる。 「これは、本質的に弾薬の発射薬と同様の、火薬だ。特に密閉され、圧力をかけた状態で火をつけると、きわめて強い燃え方をして大量の熱い気体を出す。それが吹き矢の息と同じように銃弾を押し、岩を砕くんだ」  全員が息を呑む。 「それを確かめてみよう」と、瓜生は二枚の丸い金属板に火薬をやや多めにはさみ、ゴム布袋……昔〈ロトの子孫〉にゴム技術を教え、テパ近くなどで秘密裏に天然ゴムを栽培、加工している……に入れて、袋の口を縛り空気の大方を抜いた。それで叩くと、袋が大きく膨らむ。破れたところから熱い煙が噴き出した。 「さてと」と、瓜生は小さな鉄鍋を火にかけ鉛を加熱した。そして柔らかい粘土と砂と水少々を木箱に入れて混ぜ、それに先端を丸くした棒を浅く突き刺して慎重に抜く。  厚い手袋をつけて鉄鍋を握り、溶けた鉛を穴に少しだけ流しいれる。  一人一人に、その作業を教える。何人かはやけどし、別の子がホイミで治すこともある。  一人の子が誤った場所に触れ、熱さに鍋を放り出したのを、瓜生がヒャダルコで瞬時に冷やしたが鍋が割れたことも一度あり、新しく鍋を出し加熱しなおす。  そして、最初の鉛が冷えたか、蝋の棒で触れて確かめて鉛を取り出し、周囲の砂や土を木の棒で落とす。  それから全員に注目させ、最初に用意した金属管の底に、乳鉢の火薬を少し入れた。そして棒で突き固め、柔らかく脂を含む布片に包んだ鉛玉を筒に入れて、棒で押しこむ。  その棒を片手で安全な的に向け、もう一方の手で燃える木片を小さな穴にあてがった瞬間、間違いなく銃声が響き、煙と火が吹いた。  的となった木の厚板には、鉛が深く刺さっている。  生徒たちの歓声が上がった。 「実際の銃と同様だ。大人の監視下でだけ遊ぶように!」厳しく命じて、一番後ろにいた子から順に、一発ずつ試させた。  最後にロムルが試し、顔を真っ黒にして泣き崩れていた。  ロムルの妻で、かつてアロンドが孤児時代になついていたリール、本名レグラントはとても有能な料理人で、多くの子供たちや病人の面倒を見るのがとてもうまい。  瓜生は彼女に何人か選ばせ、船の厨房の使い方を教えて、いろいろ学ぶ人々や入院中の病人に食事を出し、また洗濯や衣類の繕いなどの仕事を任せた。  無論、蛇口をひねれば湯が出、ノブをひねれば火が出るシステムどころか薄く軽い鍋にすら驚嘆したが、すぐにあばら家の、穴の中の焚火や石と粘土のオーブンと同様であることを理解し、豊かなオーブン料理を多数作るようになる。また瓜生が出したのを日本語を解する〈ロトの子孫〉が訳したレシピも素早く身につけた。  アムラエルとも旧知だった彼女はすぐかつてのように、力をあわせて働くようになり、その二人や孤児たちが病院と学校、また瓜生が封印を解いた〈上の世界〉の家畜や作物を増やす実験農場も始める。  船は同時に、アロンドとローラが帰ってきたときの小宮廷でもある。それも、リールとロムル、アムラエル、そしてキャスレアに任せておけば心配ない。  アロンドたちはルーラでリムルダールに行き、そこで笛を吹いたがハズレ。ローラが囚われていた沼地の洞窟に行ったが、そこもハズレだった。  そしてリムルダールに戻り、南に竜馬を飛ばして、ほこらにたどり着く。 「ここで、虹のしずくをもらった」  と入り、一礼して笛を吹いたがこだまは返らない。  何度もアロンドに。そして勇者ロト、ミカエラにも一言も言わせず叩き出した、生きているかどうかもわからぬ老人が、穏やかに「勇者よ。世界の全てを回り、紋章を探すがよい。無駄な旅などない。そして、あの大陸が解放されてからの、真の戦いに備えよ」それだけ言った。  大灯台の島に戻り、〈ロトの民〉との親睦を深めたり、ラダトームを拠点に開墾をしている〈ロトの子孫〉たちを励まし、また瓜生が出す資材を渡したり、忙しく過ごすこともある。  それからガライの町で笛を吹くと、かすかなこだまが返ってきた。  アロンドが笑顔で、みなの肩を叩いて喜ぶ。 「やっとか。さて、どこなんだろうな」  と、歩きながら笛を吹いてみる。  以前とは違い、巨体のアダンや美しいジジを連れており、またローラが赤子を抱いていると、町の人々の反応も違う。 「おお、お子様が!おめでとうございます」 「おかげさまで、交易も順調で景気もよく、うちも子供が生まれたんですよ!でも双子だから、一人は手放さなきゃいけなくてねえ、リムルダールに送ったとのことですが、悲しくて悲しくて」  衛兵が話しかけてくるのに、アロンドも強くその手を握った。 「つらいなあ」  そしてローラが、じっと涙をこらえる。  衛兵もそれで察したようだ。  笛の音は、墓に近づくほどこだまが大きくなるようだ。 「その笛は?」と聞きたがる子供に、 「ちょっと見つけたものさ」と、吹いてやる。  かつて、アロンドが勇者と認められるために、最も苦しい試練を受けたガライの墓。  ガライは勇者ロトと同時代の吟遊詩人で、ガブリエラの恋人の一人でもあった。  その故郷は開発されていなかったが天然の良港・豊富な水源・肥沃な土地と三拍子そろった都市の適地で、しかもゾーマの跳梁の副作用で、大きな鉱山が近くにできていた。  その開発のために集まった鉱夫たち、対岸のルプガナに近い便利な港に寄港する水夫たちが、ガライの歌うロト伝説や、変わった不思議な歌に魅せられ、ガライを指導者として急速に大きな町を作り上げたのだ。  ガライ本人も天才的な技術の持ち主であり、また瓜生が故郷や、記録していた〈上の世界〉の音楽を大量に彼に預けたことも大きい財産となった。莫大な量の曲と歌は、コピーするだけでも、また霊感の源としてアレンジしても、それこそ黄金の滝だった。  鉱山の一つが閉山されて後、いつかガライ一族の深い墓所とされ、さらに魔物を呼び寄せる奇妙な神器、銀の竪琴がまつられてより、平和な時代でさえもうかつに入れない危険な洞窟とされるようになった。  そして竜王の襲撃でアレフガルドが魔物にあふれて以来は、入ったものは二度と出てこないとされる魔の洞窟となった。  その洞窟には、ガブリエラと〈ロトの子孫〉がひそかに魔法をかけ、竜王の出現後は勇者の資質がありそうな若者を試していたが、誰もが試練に破れ、深い心の傷を抱えて出てきて、かたくなに口を閉ざす。そしてある者は自殺のように突撃して死に、ある者は剣と銃を捨て医に専念する……。  その試練に、ついに合格したのがアロンドであった。  その洞窟に、ローラたちは上級商人や貴族と社交仕事をさせておき、アロンド・サデル・アダン・ゴッサ・ジジを中心に〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の精鋭合計十人ほどで向かう。 「休むか?ローラを守ってくれても」とアロンドがサデルに言う。 「とんでもない!」サデルが怒っているが、震えている。 「どうしたんだ?」アダンがサデルの顔をのぞく。 「サデルも、共に試練を受けたのだ」アロンドはそう言って、震える。 「ムツキも。コテツも」サデルが震え、吐きそうな表情になる。 「ローラの」アロンドに皆まで言わせず、 「行きます!」サデルが目を吊りあがらせ、歯を食いしばる。  そして閉ざされた扉がジジのアバカムに開き、アロンドが瓜生に習った魔力を消費しない特殊な呪文が、古い坑道である洞窟を照らす。  アロンド、そしてサデルの緊張感はおそろしいほどだ。魔物が出るわけでもないのに。  複雑な構造だが、アロンドは慣れきった様子で、無駄なく歩いては笛を吹く。  はっきりと返ってくるこだまは、地下一階の扉で強まり、下の階に行くとより強まった。 「下のほう、ね」 「ああ」  サデルとアロンドが、怯え震えている。  地下三階。アロンドは迷いなく歩くが、その呼吸は明らかに荒くなっている。 「あんなバケモノに平気だったアンタが、どうしたんだ?」アダンが見る。  下への階段を前に、ゴッサが深く息を吸い、「おおおおおおおおおおっ!」と絶叫し、自ら足を踏み出そうとして一瞬迷い、アロンドに道を開いた。彼の目も、凄まじい緊張に張り詰めている。 「ありがとう。心強い」アロンドは言うと、先頭に立って階段を下りる。  ゴッサには自分たちの恐怖が伝わっている、それでもついてきてくれる。その巨大な勇気と支えが嬉しい。  別に何もない。普通の道。それに、アロンドとサデルは戸惑っていた。 「解いたわよ」ジジの一言に、全員が彼女を見る。 「そういうことか」いつの間にか加わっていた瓜生。 「あ、あのときは、この階に足を踏み入れると」サデルが瓜生に、すがりつくようにする。恐怖と罪悪感に、立っていられないのだ。  瓜生はため息をついて説明を始める。 「ガブリエラが、ここにとても特殊な魔法を、何年も時間をかけて封じたんだな。不用意に入ると、きわめて特殊な、夢と幻覚の中間の状態に置かれることになる。  ガブリエラのやつ、死ぬかわりに、自分の存在全体を……そう、この〈下の世界〉全体と、世界樹の根を通じて溶け合わせたんだ。事実上神になったようなもんだな」瓜生が呆れながら小さく呪文を唱え続ける。 「あたしもちょっと手伝わされたっけ」ジジが苦笑した。 「世界樹のキノコとラーミアの羽根。よくもまあこれほどの魔法をかけたもんだ」瓜生が呆れて、あちこちから魔法の品を回収する。 「ちょっと、それだけじゃないわねこれ」ジジが、中央の棺を見て驚く。 「え?あ」  瓜生が、その棺に手をかざす。「ガブリエラやジジの、人間の魔力だけじゃない。世界樹の気配もあるし、ルビスの……ここに、紋章があると思う。でも、すごく厄介な封印がかかってる」 「覚悟は、できている」とアロンドが棺を開こうとすると、一人の女の姿が、すっと棺の上に立った。 『ひさしぶり、ね。ジジも』 「ガブリエラ」瓜生が、複雑な表情をする。笑うことも泣くこともできない。 「あのとき以来ね」ジジが、口では蓮っ葉だが、表情は泣きじゃくっている。 『本体は世界樹にあるんだけど。また、来ちゃっんだね、ウリエル。それにジジも、石から戻れたんだ』 「知ってたなら助けてくれたって、まあ、このときのためだった、ってわけね」ジジが憮然とする。 『そう。ロトの子孫、勇者アロンド』ガブリエラの美しい顔に、妖艶な笑みが浮かぶ。『いい男ね』  アロンドはなんともいえなかった。  ガブリエラ。勇者ロトの仲間、ミカエラとラファエルの息子ミカエルを育て、〈ロトの子孫〉を築き上げた、伝説の賢者。 『あのときは悪かったねぇ、サデルも』ガブリエラが、アロンドとサデルをじっと見つめる。 「ほかの、多くの〈ロトの子孫〉も」サデルが辛そうに言う。 「どんな目にあったかは、魔力の織り目だけでも見当がつく。必要だったんだろ、〈ロトの子孫〉の、しかも優れたもののうぬぼれを取っ払うにはっ」瓜生が、厳しい目で言葉だけ苦笑する。 『そのつもりだったけどさ、ちょっとやりすぎた、かな』ガブリエラが笑う。 「みな、それなりに乗り越えています。ムツキも、サラカエルとともに村で耕し、多くの仕事を日々学んでいます」サデルが、苦しげに笑いかける。 『さて、これがルビスのクソアマに預かった、星の紋章だよ。欲しいのかい、本当に』  アロンドがうなずく。 『どんなことか、わかってるのかい?王様になる、ってのが』 「『グイン・サーガ』は両親が全巻持っていました。いや、それどころではないことなのでしょう。最初は、イシュトの最期の言葉に呪縛された、のですが……」  アロンドはじっと、頭を垂れる。そして、決然と伝説の存在に、顔を上げる。 「今は、何よりもローラを幸せにしたい。そして、〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉、そしてロムルやハーゴンたちにも、安住の地を与えたい。そしてまた、ドムドーラの、みなのように」歯を食いしばる。「悪の跳梁に、無力に滅ぼされる人がないよう、守りたい」  ガブリエラの幻は、長いことアロンドを見つめていた。ただ、ひたすら。  アロンドはじっと、その目を見つめ続ける。 『何に乗ろうとしてるか、わかってるのかい?ウリエル、』とガブリエラは、軽く瓜生とジジに手を伸ばす。  二人がその手を取り、軽く微笑んだ。  次の瞬間、アロンドが崩れ落ちるように倒れる。  そして、寝たまま拳を振り上げ。まっすぐ斜め上に手を伸ばす形に。それから、こめかみに拳銃を向ける形に手が固まる。  その目が、ぱちりと開いた。 「エヴァ、わ、私は、不発か」と、手を見る。その手に拳銃がないことに驚いたようだ。 「アロンド!」サデルがその肩をゆする。必死の声で。「全部、全部幻、夢!今はここ、ガライの墓、あなたは〈ロトの子孫〉、メタトロン、アロンド」 「アドルフ・ヒトラーの生涯を、全部体験させた」瓜生が乾ききった声で言う。 「前にここへ来たときは、自分で行動を選ぶことはできたはず。でも今回は、それもなし。見て聞いて感じるだけ」ジジが痛そうに言う。  アロンドが、頭を抱えて激しくのたうちまわり、繰り返し絶叫した。 『渡すだけ、渡しとくよ。気をつけな』と、ガブリエラの幻がアロンドの腹に、奇妙なバッジのようなものを落として、消えた。  それには、星の紋章が刻まれていた。  リレミトで洞窟を出てから、アロンドは二日ほど病みついたように宿のベッドでのたうちまわっていた。  ローラが繰り返し励まし、小さな息子の手や温もりに、何度か目覚めて、しばらく無理な笑顔を向けて。また頭を抱えてうめく。  やっと起き上がってから、重すぎる鉄棒を手に野に彷徨い出て、数日間剣を振り続けてもいたようだ。 「あの時も、そうでした」サデルが、そして経験者の〈ロトの子孫〉がつぶやく。 「とても口にできません。まして敗れた我々など……」今も残る心の傷に、激しくえずき、涙をこらえる。 「無理をするな、泣けばいいさ」という瓜生の言葉に、何人も屈強の男女が号泣する。 「どうしたんだよ、おまえら、そんなに」というアダン。  そしてゴッサが、沈痛に言った。「その試練は受けられるか?」 「いや。封じたよ」瓜生がじっと、その低いが頑丈な体と、いかつい顔を見る。 「やめなさい!あれだけは、あれだけは」サデルが激しく言う。 「もう、勇者は選ばれたしな」瓜生が悲しげに言った。「人間が、いかに無力か。それを徹底的に思い知らされる。わかっている、などというな。頭で『わかる』と、実体験で『わかる』は違う。あの洞窟の仕掛け魔法は、実体験に限りなく近い」 「受けておきたかった」ゴッサはそれだけ言う。 「なんか、とんでもないことみたいだな。まあ、アロンドと稽古してくる」と、アダン自身鉄棒を手に、野にアロンドを追った。  アロンドは、それでも十日かそこらで立ち上がった。  手に、星の紋章を掲げると、痩せやつれた体に無理に食物を詰めこみ、メルキドへ。  そこで静かに笛を吹いたが、こだまは返らなかった。  そしてメルキドで一日ゆっくり休んでから、巨馬の群れが静かに、ドムドーラへの遠い道を走る。  もう、収穫の早い焼畑は収穫され、平和の中作物を作る喜びに疲れ果てた人々も顔を輝かせている。  その中に混じる〈ロトの子孫〉が、確実に木々を残し、食べられる実をつける木を植え、清潔を保っている。  道の整備などはまだまだだが、巨馬は苦もなく茂みを歩き、時に草を食べては、主の調子をよく見て歩く。  山道が急速に荒れ、乾いていく。それは馬にとっては歩きやすいが、草が少ない。  そして、広大な砂漠に足を踏み入れる。 「おお」アダンがその広さに、大声を上げた。  見渡す限りの荒れた岩と砂。 「充分に水を確保し、馬の食物も積んでいかなければ。この巨馬に全速で走らせても、五日はかかる」  アロンドが、じっと失われた故郷への道を見つめる。  両親の死も知らず、武器屋一家に連れられて歩き、その全てを殺されたのは北への道だった。  南からの道は、後に勇者と認められてからしか知らない。  その道を走りながらも、アロンドは何か、深く考えこんでいることが多い。  ただし、道を選んだり野営の準備で働いたり、必要なときにはそちらに集中できる。  魔法で呼んだのに応じて瓜生が来て、砂漠越えに充分な水と穀物、高カロリーの油とシリアルとソーセージ、蒸留酒を用意した。 「中継地点にも、同様に用意してあります。ご安心を」それだけ言って、また消える。上空に、小さな飛行機雲が見えて、それが地平線の彼方に消える。  アレフガルド南西部に広がる砂漠には、古くからところどころに宝石があり、多くの人が動き回る。  その中核にあるのが、豊かな湧水から高い農業生産力を持つ、ドムドーラだった。  だが砂漠の中心だけに孤立しており、竜王に真っ先に滅ぼされた都市のひとつ。そして、アロンドの故郷だ。  ある程度砂漠を走り、瓜生が用意していた水と食料、馬の飼料を補充して休み、また竜馬を走らせる。  ドムドーラは、廃墟ではなかった。  廃墟ではある。多くの、泥と家畜糞、日干し煉瓦の建物が炎に焼け焦げ、巨大な爪の打撃に崩れている。  しかしその中で、何十人もの人が煉瓦を積みなおし、涸れることのないオアシスの水を汲み、家畜に水を飲ませ、種を植えていた。  アロンドが吹く、山彦の笛の音はこだまこそ返さなかったが、喜びに満ちていた。 「アロンドさま!ラダトームでお目にかかりました」 「あの呪文のおかげで、傷ついた妻は助かったのです」 「メルキドで、あなたがゴーレムを倒してくださったおかげで、町に入って助かったのです」  広い廃墟、その中ではわずかな人数でしかない。  でも彼らの表情は明るく、輝いている。  アロンドは迷いもなく、裏町にある小さな小屋の跡を見た。  わずかな泥壁は崩れている。  その下は掘り返された跡がある。 「前に、一度来た。ロトの鎧を取り戻すために」アロンドはそう言って、しばらく小さな家の跡に座し、両親を思って祈っていた。  そして立ち上がり、町を再興しようとしている難民たちの中に飛びこむ。  そして、その人々をひそかに導いていた〈ロトの子孫〉バトラエルに頼み、上下水路を作る作業を数日間手伝った。  もちろん、そのような大変な、汚れ仕事を勇者アロンドにさせることに人々は驚いたが、アロンドは譲らなかった。 「木を植える。上下水道を整備し、清潔を保つ。病人、特に産褥の母子を助ける。魔から一人でも助ける。それが、ロトの子孫だ」と。  体を動かし、笑う。昼も夜も。必要とされ、喜ばれる。  幼い頃から、ひたすら一番汚い、一番辛い仕事を手伝ってきた。それを今くり返すことが、アロンドの傷ついた心を、少しだけ支えていた。  ローラたちも連れて大灯台の島に帰り、久々にほっとする。  そして大灯台の入口で山彦の笛を吹いてみたが、こだまは返ってこなかった。  軽く苦笑しあう。 「もうアレフガルド大陸のめぼしいところは回った。より広い世界を回ってみよう」アロンドが笑う。明るいが、微妙に以前とは違う笑顔。以前よりも明るく、以前よりも深い。 「ならば、わたくしは小さい頃ではありますが、アレフガルド外もあちこち見ています。ご案内しますよ」ハーゴンがケケケ、と笑った。  その腕には、新品の『グイン・サーガ』の何冊かが大切そうに抱えられていた。 「アリストートスの出てくる巻が汚れてるな」アロンドが微笑む。「昔も、その話ばかり聞きたがっていたっけ」 「アリ?」吟遊詩人から、もはやこの世界でポピュラーな叙事詩となっている『グイン・サーガ』をかなり聞いているローラが顔をしかめる。 「素晴らしいではないですか!」ハーゴンが熱く叫ぶ。「勇者ロトがもたらしたという長い叙事詩。聞きほれましたよ、何十夜も通って。アリストートス。下賎の、誰からも嫌われる身から身を起こし、一国を復興させ、何年も支えた手腕!美しくもなく高貴でもない全ての人に、あれは光り輝く偶像なのですよ!」 「だが、その邪悪は」アロンドが悲しそうに言う。 「邪悪?アルド・ナリスも嫉妬でミアイル公子を殺しました。無用になった学生たちを捨てました。行いだけで言うならどう違うのですか?美しかったかどうか、高貴な血を引くか、それだけの違いではないですか!」つばを飛ばし、夢中で叫ぶ。 「確かに。まあ、頼む。ローラ、キャスレア、ラダトーム宮廷とも相談して、必要があればムーンブルクなどの王室とも話せるように、手形などの手配を頼むよ」アロンドが食いかかるハーゴンを手で防ぎながら、女たちに。 「かしこまりました」キャスレアがひざまずいた。 「ムーンブルクでは勇者ロトは恐れられ、庶民の間では医神とされていると聞きます」アムラエルが少し苦しそうに言う。 「では、行ったことのある町からいこう」  と、ルプガナにルーラで飛んだ。  アレフガルドとの交易再開で、好景気に沸くルプガナ。  笛の音に耳を澄ますのも大変だったが、何度吹いてもやはりこだまは返らない。  苦笑しつつ、商人ケエミイハの家に行き、事情を話す。 「もう、どこが所有権を主張できる状態でもないでしょう。しばしお借りし、使い終えたらあなたにお返しします」 「ありがとうございます。またご子孫が使われるかもしれません、お預かりしていると子孫にも言い伝えましょう。何より、おかげさまで」と、かたわらの妻を振り返る。もう、大きくおなかが膨らんで、幸せいっぱいの表情だ。 「あの折のお医者様は?」 「あちらこちらで忙しいですし、ご無沙汰して申し訳ないと」  とアロンドが言った。  その頃瓜生は、人の腕と瞳を持つ巨大な黄金竜に、イカのバケモノと戦うため鉄道レールを与えていた。それすらその巨体にはレイピア程度、水中で二刀で自在に使っていたが。  多くの魔物を従わせる竜神王子は、そろそろ邪神たちを食いにロンダルキアや、父竜王が斃れた魔の島へも行きたがっていた。  それを危惧した瓜生は、彼に人の、少年の姿をとらせ、竜女や、他にも人に変身できる魔を連れてガライの墓の底に赴き、ジジやガブリエラの神霊とも協力して夢を見させた。  ごくごく平凡な日本人の子として1980年に生まれた少年。  医者の父、瓜生との父子家庭。めったに会うことのない、別れた美しい母……竜女と、会ったことのない、一枚の写真だけがある双子の兄。  愛情と、そして人にはどうしようもない過ちの繰り返し。愛されながらも傷つけられ、人として育ち。  そして学校でいじめいじめられ、管理され反抗しながらの成長。  拾った子犬の成長。病と死。  医療過誤訴訟を受けた父が、何一つ言ってくれない、新聞でわずかに読むしかなくひたすら帰らないことに感じた、無力と孤独。  祖父母の、医者になることの強要と過保護とも言える世話。  激しい初恋と失恋。二度目の深い恋。  悪い友達との万引きに泣きながら殴り、それから手術を見学させた父親。  奇妙な、激しい暴力への渇望。ケンカに明け暮れる不良少年としての生活。暴走族に徹底的に叩きのめされ、警察沙汰にすまいとする祖父母に対し父親が断固反対したこと。  高校を中退し、働きながら漠然と大検を取り、三つ目の仕事が妙に体に合って、そのまま勤めた。  結婚し、子はいないながら仕事で母親と縁ができた。しかし留学している双子の兄とはすれ違ったまま、交通事故で若く死んだ……  人の子の姿をした竜神王子は全てを夢に見、膨大な魔力を身に閉じこめて咆哮し、逃げるように海に飛びこんで、限界まで潜り続けていた。  それから、竜神王子は人のいない陸と海を往復しつつ、むしろ静かに修行を始めていた。 「さて、次はルーラでムーンペタ、それからムーンブルクに陸路で行くか、それとも海路であちこちに回るか」瓜生が教育や医療、もう一人の子の監視に忙しいし、騒ぎになってもまずいので、飛行艇頼りはよそう、という話になってきている。 「海路にしましょう!勇者ロト、ミカエラとラファエルは海国アリアハンの生まれ、四人で、世界中を船で回ったそうですよ」サデルが勇んで言うのに、アロンドは表情を出さないようにうなずいた。  それで、瓜生が前に用意した、FRP製で木造に偽装した船を一隻余計につくり、船外機は載せず快速帆装にして、〈ロトの子孫〉の腕のいい船乗りたちでガライから乗り出した。  竜王出現まで、広く世界の外洋を旅していた〈ロトの子孫〉も多くいる。海の技術は、アリアハンからの伝統で必須科目だ。  それはあまり得意ではないアロンドは、操船はアルメラという初老の女性に任せた。  やや大きめの船で、交易もやるつもりだ。  まずルプガナへ、そして大灯台への試験航海。  ルプガナへの航海は短いが、その航海自体で乗員を馴染ませ、船全体が高い技術を発揮できるようにする。  ルプガナではアレフガルドの産物、そしてこの世界では手に入らない瓜生が出した酒や化粧品、香水や染料も使って交易し、多くの、できるだけかさばらず高価な品を積みこむ。  それからルプガナとアレフガルドにはまされる内海を南下する。  長い長い半島、その途中にはドラゴンの角と呼ばれる、高い二つの塔が海峡をはさんでいた。 「昔神々が作った吊り橋ともいわれます、ここでしか天露の糸はとれないそうです」と、ハーゴンが観光案内よろしく手を振る。  上陸すると、その周囲にもやや独立した町があり、海峡の通行税を取っていた。  そことも交易し、通行はしないで塔を見せてもらった。 「天露の糸から、水の羽衣という伝説的な防具ができるとか」町の人が憧れの目で言う。 「でも、実際には伝説ですし。もっとも高級な服にわずかに編みこむだけです。それでもとても華やかで美しくなります」と、奇妙な輝きを放つ糸を縫いこんだ山蛾絹を見せてくれた。  目玉が飛び出るほど高価だったが、アレフガルドの産物はそれ以上に高価で、いい取引ができた。  ハーゴンは世界を回っていたし、商人としての取引もうまい。 「昔のアレフガルドでは売られていたそうですね。今は職人が絶えていますが」  そう、アルメラがいう。  双方の塔で笛を吹いてみたが、山彦は返らなかった。  また、長い長い半島を南下する。何度も風に吹き寄せられ、広大な砂漠に上陸して水の入手に苦しんだこともある。 〈ロトの子孫〉が一般人は忘れ去ったヒャド系呪文を使えたし、〈ロトの子孫〉も〈ロトの民〉も蒸留を理解していたので死にはしなかったが、やはり水には乏しい。  砂漠の隊商とも出会い、甘い実や珍しい鉱石を買ったり、こちらから乏しい水や強い酒を分けたりと、楽しく過ごした。  騎馬の民であるアダンやゴッサは、ちゃんと馬に運動させることができることに大喜びで駆け回っていた。大灯台の島までルーラで行き来するか、または危険を冒して帆桁端の滑車装置で吊りおろして泳がせるかしかなかったのだ。  それからやっと大灯台の島にたどりつき、買い入れた高価な品を〈ロトの民〉たちに分け、またアダンやゴッサは里帰りをする。  その船旅の間にも、アロンドとローラの人の姿のほうの息子、ローレルは大きく元気に育っていた。サデルの子をはじめ、何人かの子が共に旅に加わっており、にぎやかでもある。  それから、一行は船ごとルーラでムーンペタ。ハズレだったが、あらためてヤフマからも紹介状と、商談もあった次男のハミマを道連れに、海路でムーンブルクに向かう。もちろんハミマはアロンドたちの身元保証人になるし、アロンドたちはハミマの護衛となるわけだ。  河口から出て間もなく、大きく長い島がアレフガルドを守るように広がる。 「あの島も昔から魔物の巣と言われていますね」サデルが南側は砂漠だが、北に長く広がる島を見つめる。 「ムーンペタから入植しようとする人がいる、とヤフマがいっていたな」アロンドが答えた。 「ヤフマは、むしろ入植を助けて欲しがっていました。魔物を倒してほしいと」 「いいかもしれないな」アロンドが新しく瓜生にもらったガリルACE7.62mmNATOをなでる。それまでのAK-74と変わらない構造で、はるかに強力な弾薬を用いる。AK-74を与えたのは弾薬一発が軽いからだけで、瓜生は大口径しか信じていない。  船にも、大口径の重機関銃が複数配置され、海賊や海の魔物が襲っても強力に反撃できるようにしてある。 「こちらの、人を襲わない魔物が時々あちらに行っています。侵入する人には凶暴ですが、そうでなければおとなしいです」と、〈ロトの民〉の一人。 「なら入植ではなく、別のやり方をすればいいな」アロンドが笑って、危険な暗礁をよけるのを見た。  そのように話すこともあるし、ハミマらムーンペタの人から、ムーンブルクの宮廷作法を習ったりもする。  またムーンブルクの情勢も聞く。 「ムーンペタは最近、ムーンブルク宮廷から少し距離を置いています。跡目争いが激しくて」それ以上は言わない。 「だから最近、大灯台の島にちょっかいを出さないのか」と〈ロトの民〉。  ムーンブルクに比較的近い大灯台の島に多くの人が入植し、豊かな暮らしをするようになって、ムーンブルク王国から服属を迫られ、撃退して鎖国を守ったことは何度もあるのだ。  船は大きく針路を変える。着いたのは砂漠にある天然の良港、そこからルーラで竜馬を呼び寄せ、いっせいにムーンブルクに向かう。  ムーンブルク城の南北は山に守られている、だが広い水田が広がり、街道町もいくつかあって、ムーンペタへの太い回廊を作っている。 「水田だ」 「われわれとは少し作物が違いますね」  言いあいながら、巧みに馬群を操り、水田を荒らさず街道を駆ける。  泊まった宿では、大灯台の島の水田でも作られるヒエに似た水田作物と大きいカエルを炊きこんだ飯、田で育つ豆の甘い煮物を堪能した。酒もよく、食べものがとてもうまい。  それぞれの街道宿や農村で、ハミマらムーンペタの商人は熱心にさまざまな交渉や機嫌うかがいをこなしていた。  あっという間にムーンブルクの、月の名を示す白亜の城に着いた。  城はメルキドやリムルダール同様、街全体を城壁で覆っている。蜘蛛の巣のような下水を兼ねた運河に囲まれ、高い石灰岩の城壁が雨にとけあい、無数の像が彫られ輝いている。漆喰が抜けるように白い家々も印象的だ。  少し城から離れると、水田とその中心の集落がいくつも運河でつながれている。 「美しい城だな」 「ですが、低地で水はけが良くないですね。伝染病が蔓延しやすいです」〈ロトの子孫〉は即座に気がつく。 「攻めにくいから、か?」 「さて、ルーラでローラたちを連れてくるか」と、アロンドが船まで往復し、ローラやキャスレアを連れてくる。  船から、さらに多数の巨馬。運んできたムーンペタや、そしてアレフガルドや大灯台の島の、膨大な財物を持って来ている。  ムーンブルク王国は豊かな水による水田や魚で豊かだが、反面自足してしまっていてあまり交易に熱心とはいえない。アレフガルドにとっては重要な隣国だが、アレフガルドは魔物によって閉ざされることがある。  そして海路はアレフガルドと、その東をふさぐ進入禁止大陸にふさがれ、外に出るのは困難だ。  遠く離れた東側からは果てしない大洋が開けているが、ロンダルキアの急崖が広がり補給不能な海域が長すぎる。  南はそこらの海より広い広大な内海だが、その南には恐怖の魔境ロンダルキア。西は砂漠の島につながり、そこからドラゴンの角まで広く未開の原野、そしてはるか広大な砂漠が広がるばかりだ。  伝染病や内紛が多いこともあり、西の砂漠から東方の大河流域、北の半島、南の内海の対岸に至る全体を探検しつくしてすらいないのだ。  一行はまずムーンブルクの白く輝く石灰岩の城門をくぐり、アロンドが山彦の笛を吹くと、静かに、そして徐々に強くこだまが返ってくる。  それに、皆が笑顔をかわし、アレフガルドで得た貴族の服に着替えて旗を掲げる。  そしてムーンブルク城塞都市に、ハミマから入った。城門を守る衛兵は顔見知りらしく、一行に少し驚きながら通す。  やってくる役人に、ハミマはいつもどおり挨拶してかなりの金品を渡し、それからローラの手を取ったアロンドと、そのために連れてきたアレフガルドの貴族が役人に何通もの書類と金貨を渡した。  ルプガナやムーンペタとの交易で得た新しい金貨。  役人はじろりと一行をにらむ。  アレフガルドの衣類で普及している前開きの服や騎乗に適した〈ロトの民〉やそれに近いルプガナの服とは違い、ゆったりした一枚布の服。  頭にやたらと大きい帽子をかぶっており、それで強く威圧してくるつもりだが、巨馬にまたがる巨漢のアダンには帽子を含めても見下ろされている。 「げ、下馬せい!」  そういわれていっせいに竜馬を下りるが、それでも長身の者が多い。栄養状態が違うのだ。 「アレフガルドからこちらに滞在しているはずの大使、ラレドにこちらの手形を見せていただければ、照会していただけます」  キャスレアが言うが、役人はじろじろ疑わしそうに見ている。 「竜王だと?それ自体が怪しい話だ。それどころかアレフガルドなどというところが、あるとも思えん!ハミマ、そなたともあろうものが怪しげな流れ者に連れられてくるとは、お父上のご身分を落とすものだぞ」  そのずるそうな目に、ハミマは素早く金貨を追加するが、役人は引かない。  そこに、一人のアレフガルド貴族がやってきた。 「ローラ姫!それに勇者アロンドさま、よくぞいらっしゃいました」と、嬉しそうにアロンドの前にひざまずき、ローラに礼を尽くす。 「ラレド、お久しぶりです」ローラが嬉しげに話しかける。 「姫さま。おお、お子さまが、男児ですか!なんという嬉しいことでしょう。じつは拙宅にも娘が、二ヶ月ほど前に生まれましてな」 「なんと嬉しい知らせでしょう!この子はローレルと申します」 「姫様のお名を。アロンドさま、おめでとうございます」  嬉しげな会話と、ラレドの深い敬意に役人はいらだったように怒鳴りつける。 「ラレド殿!このような怪しげな者どもに」 「何を申される。まぎれもなくアレフガルドの至宝、ラルス十六世の長女ローラ様、その御夫君〈竜王殺し〉アロンド様ですぞ」 「わしは信じぬ!信じぬぞ」頑固に怒鳴り散らす役人。  その背後から別の、はるかに贅沢な服を着た貴族がやってきて、役人を押しのけ、キャスレアの姿を認めた。 「キャスレア殿!ハミマ」 「レアヤ様。大変にお久しゅうございます。八年ほど前の、そなたさまのご子息の成人祝いにおじゃましましたな」老女官、キャスレアが嬉しそうに笑う。 「先月のお品は素晴らしかったです。ぜひまた、ムーンペタにお越しください」ハミマも静かに微笑んだ。 「では、おお、ローラ姫、いやもはやご結婚されておりましたな、さようですねラレド殿?なんという美しさになられたものだ」あとから来た貴族が嘆息する。 「あらためて紹介いたします。ローラ姫さまのご夫君、かの勇者ロトの子孫〈竜王殺し〉アロンド様!」ラレドが、今度は大声で集まってきていた人々にも披露する。  貴族たちのうなずきを見たアロンドが、ローラの手をとって堂々と進み出る。  そして、かつっと足を踏み出し、姿勢を整える。その細かな仕草一つ一つが、綿密に計算されている。 「アロンド」  強烈な声と気迫が、人々を、それどころか城すら圧倒する勢いでほとばしった。  迫力が、奇妙な形で学んだ技巧でより人の心を打つものとなっている。アロンド自身が恐怖するほど、まるで呪文を唱えるように容易に、人を従わせる迫力を吹きださせてしまっている。  ガライの墓で、つぶさに経験したもう一つの人生、最悪の天才独裁者から学んだ技だ。  ムーンブルク貴族のレアヤもアレフガルド大使のラレドも、集まっていた人々や衛兵も、その何かに圧倒され、思わずひざまずいた。  だが、それを見て激しい憎悪に憑かれた目でアロンドをにらむ貴族もいる。貴族の憎悪の目には、アロンドはラダトームでも慣れているが。 「では、行こう」  主導権をつかんだアロンドは、そのまま全員をひきつれるように王城に向かう。  ムーンブルク城の広い謁見の間。天井の大きなフレスコ画が目を引く。  髪が鉄灰色となりかけた中年のイリン三世王が、ロトの旗に驚きを浮かべ、かろうじて抑えた。 「おお、ローラ姫!ご無事で何よりであった。アレフガルドが閉ざされてより、皆様のことをどれほど案じていたか」  そして、歯を食いしばり、強烈な眼光をアロンドに向ける。アロンドは悠然と受け止めた。 「そなたが、勇者ロトの子孫とやらか」 「〈竜王殺し〉アロンド」と、アロンドは巨大な竜の牙を掲げる。  しばらく、じっとにらみ合うようになる。 「勇者ロト」  王は恐怖をかろうじて抑える。王族には伝わっている、百年以上前、ムーンブルク王都が疫病で全滅に瀕したとき、勇者ロト一行が城下に出現するや、奇妙な治療法で疫病を瞬く間に鎮め、そして石もて追われるごとく去ったという。  彼女たちが言い残した「生水を飲むな」「運河とは別に水源を確保せよ」などの忠告に従ったらしばらくは疫病は出ないが、常に反対されすぐに元の木阿弥になる。  イリン三世王にとっても、アレフガルドを襲った竜王の災いより、十年前の大疫病のほうが印象が強いほどだ。  そして、城下の人々が勇者ロトを医神とあがめ、病が流行ると生贄を捧げ肖像を祭るのも、腹立たしいが抑えようがない。  その肖像に恐ろしいほど似る、凄まじいまでの美貌。ほっそりした長身からあふれるカリスマと、強烈な眼光。  アロンドが王の呼吸を読みきり、ぴしり、と鋭く姿勢を正す。強烈な印象が、満席の貴顕を閃光のように圧する。 (注目せよ!私は王だ!)と耳が破れるような声で叫ぶように、メッセージを叩きつける。礼を保ちながら。  王はその若さと圧倒的な力に、強烈な嫉妬と憎悪すら抱き、全身を叩くような恐怖に呑まれまいと必死だった。 「ムーンブルク王国へようこそ」王の声がわずかにうわずる。 「ありがとうございます」アロンドが見事にムーンブルク宮廷の礼をする。 「心より感謝いたします」ローラも、貞淑な妻としてアロンドに礼をあわせた。  王の横には美しくはあるが冷たそうな王妃。そして四歳ぐらいの、ごく小さな王太子と、年長の姉たち。王太子は咳をしようとし恐怖の目で抑えた。  王女たちと思える席が一つ空いている。  そして王の弟たちや叔父たちが、武官や文官の装束で並んでいる。先代の王が子だくさんだったようだ。 「して」王に応えるように、アロンドは腰にたばさんでいた笛を手にし、口に当てた。  美しい音色が鳴り響き、そして山彦が返る。アロンドが唇を離しても、繰り返し。大きく、小さく。  それが消えたとき、アロンドがひざまずいた。 「こちらに、精霊ルビスより、ある紋章が伝わっておりますね。それはルビスにより、われら勇者ロトの子孫に与えられたもの」 「くださいますね?」ローラがにっこりと笑い、ムーンブルク王家や貴族は凍りついた。  アレフガルド王家と交渉するな、奴らは欲しい物を得るまで決して諦めることはない。この世界の常識である。  ローラの美しい微笑と、アロンドの熱風が吹きつけるような迫力に、王は口もきけず、まるで操られるように「わかった」という、その瞬間に脇に控えていた、軍服姿の王族が叫ぶ。 「ならん!どこのものとも知れぬ者に、水の紋章は精霊ルビスより預けられた、神聖な品ですぞ」 「あ、ああクネス叔父上」王がびくっとしたように振り向く。 「ロトの子孫であるというのなら、証を見せてもらおう!」その大声に、宮廷がそちらに流れるのを見て、アロンドが軽く、鋭く足音を立てる。 「どのような試しをお望みですか?」自信に満ちた態度で、奇妙にもその美貌を女性的に発散させる。それが宮廷の女性たちを直撃した。 「伝説では、勇者ロトは優れた医者でもあったそうですな。その技を示してもらいましょう、ちょうど陛下の、マリア王女のご病気を」 「わしの妻の病も見てもらいたいものだな」 「弟の傷の後遺症も」 「それに、その牙がまことに恐ろしい魔物なのかも疑わしいぞ」と、こちらは王妃の甲高い声。  ざわめきが宮廷に満ちるが、アロンドは素早く決断し、手の中で魔力のこもった砂を弄び、大胆に礼を半ば無視し王家の段に寄る。 「では、まず患者たちを診せてもらいましょう。そのうえでこちらも、仲間たちを呼び集めます」  と砂を撒いた、そこに白衣姿の瓜生とジジが忽然と出現した。 「あ」 「り、リリルーラだと?伝説に聞いたことがあったが」 「人間には不可能じゃ」  王宮魔術師たちが驚く。彼らには到底不可能なルーラの上級魔術、リリルーラ。  そして静かに、二人がアロンドの後ろにひざまずいた。 「あの女、ムーンペタの美人像にそっくりではないか」 「ムーンペタで、恐るべき魔法使いが、あの像を人に戻したという噂もあったが」  やや大きめの声に、後ろに控えていたハミマが強くうなずく。 「まことか!」王の言葉にハミマが進み出、叫ぶ。 「まことにございます。わが家の知られた美女の石像、それをこのアロンドさまと、この賢者さまが恐るべき魔法を用い人に戻しました。彼女は歴史に名高き、かのデルコンダルの魔女であられました!」  それもまた宮廷に衝撃となって伝わる。 「時が惜しい!早く患者に会わせてください」アロンドが声に、緩急を込めて圧力を伝える。 「おお、で、では」王が言おうとするが、一人の老神官が立ち上がった。 「お待ちください!勇者ロトの医法と呼ばれる邪法は、われらムーンブルク神聖医師団が異端邪教として禁じたもの。また、マリアさまはわれらが」 「そのお前たちが全く役に立っておらぬではないか!」王が叫ぶが、神官はそれ以上の気迫をぶつける。 「われらこそが正しいのです!」 「その通り!」 「いや、勇者ロトの言葉に従ったときには実際疫病は出ないではないか!」 「それは迷信だ!病は罪の報い、なぜ水を沸かしたり水源がどうたらで」  さわぎの声が一瞬途切れた瞬間。なぜか全員が、アロンドを注目してしまう。  その、目と軽く掲げた手が、すっと下がる。全員が、呆然と見る中、アロンドと瓜生、ジジとローラが、ゆっくりと大きな足取りで、大きな足音で歩む。  奇妙な沈黙の中、足音だけが響く。  平然と、一人の女官の前に立つ。 「案内を」 「はっ」  とっさに王に対する礼をしてしまい、その過ちにも気づかず、恐怖につかれた女官はある廊下に急ぐ。  アロンドは謁見室の王侯貴族たちを振り返りもせず、女官について足音を立てた。その足音の一つ一つが、計算されつくしている。 「と、止めよ!」 「な、なんということだ!」 「王よ、次の謁見が」  ひたすら混乱が続く謁見室を無視して。衛兵たちも、アロンドの迫力に敬礼し道を空けるだけだ。  さらに、ベルケエラを含む何人かの男女が出現すると、四人に続いた。 「ジジ、こちらのことを調べてくれ」アロンドの言葉にジジがうなずき、 「とっくにやってるわ。〈ロトの民〉も侵入してるし、ハーゴンも動いてる」と、消える。 「情報がなければ、侵略せず自衛することなどできなかったのです。昔、ジジ様はデルコンダルでカンダタを助けるかたわら、こちらの情報網も作っていたそうです」と、〈ロトの民〉の医者の言葉に、瓜生とアロンドがうなずく。  闇に閉ざされた病室にアロンドを案内した女官が、そのまま怯えたように震える。  瓜生のアバカムで扉が開かれる。  広い、けれど非常に暗い続き部屋の女官たちが、怯える目で見る。 「マリアさま!」ローラが声を上げ、そして静かに礼をする。「アレフガルド王ラルス十六世の娘、ローラです。マリア王女様のお見舞いに上がりましたの」 「た、たしかにそのお姿は、小さい頃拝見したことが。し、しかしこの部屋は男子禁制で」 「久しぶりよの、シェギク」キャスレアが怯える老女官に笑いかけた。 「キャ、キャスレア、生きていたのですか」老女官が喜びに叫び、後悔に顔を伏せる。 「アロンドさまのおかげで、無事に。そしてその、ロトの医術を姫様にも、との王命じゃ」キャスレアが素早く笑った。 「医者としてはこのベルケエラが診察し、外科手術の必要があればこのウリエルが」とアロンドが、病床の姫に笑いかけた。  王とはあまり似ていない、とても美しい二十になるかどうかの女性がアロンドを見つめ、衝撃に目を見開く。アロンドの美しさは圧倒的だった。  ローラが複雑な、優しい微笑をかける。 「お久しぶりです。小さい頃、王様の誕生日でお目にかかりましたね」 「は、はい。ローラ様も、よくご無事で」  ドアからわずかな振動があるが、音はしない。瓜生がアバカムやマホトーンの応用魔法で扉と音を封じている。実は激しく何人もの兵がドアを叩いているのだが。 「では」と、ベルケエラが次々と質問を始め、何人かの〈ロトの民〉〈ロトの子孫〉の若い研修医が言葉をメモし、自らも患者を真剣に見詰める。 「ひどい痛みを訴えていますが、大きいだけで良性の子宮筋腫と、ビタミンCおよびBの欠乏症と思われます」ベルケエラが告げる。 「こちらで、穿刺・超音波・血液検査もした。その診断と治療方針で間違いはない。任せて大丈夫だな?」瓜生が微笑む。  若い医者たちが喜び、自信を深めた。 「野菜や動物の肝でビタミンは与えられるし、ケシからコデインとモルヒネは精製できたはずだな?」という瓜生の言葉に、嬉しそうにベルケエラがうなずく。 「手術の準備に数日。あとは食事指導をします」と、ベルケエラがローラにうなずきかけ、瓜生が扉の封を解いた。  外にいた衛兵たちが襲いかかろうとするのが、アロンドの手が一振りされると鉄の像に変わる。 「さて、次の患者は?」  と、下半身だけ鉄にした指揮官に聞く。 「あ、あの」  そのまま、額にかざされるアロンドの手に、恐怖に引きつり泣き叫ぶ。暴れる腕にバランスが崩れ転倒する。もし下半身が肉であれば失禁していただろう。  そして次の、王弟セラドの妻の母親を診察していたとき、そのセラドから呼び出される。 「アロンド」居丈高な仮面が、アロンドの視線一つで崩れる。「一人だけだ」震えながら言う声。  瓜生は肩掛けカバンに替え弾倉を詰めて渡した。アロンドは笑って吹雪の剣の柄を叩き、使者の後についていく。  案内されたのは中庭だった。  進み出た、そこに待っていたのはクネスと呼ばれていた、王の叔父。 (王に特に反抗的な、中海の利権を持つ海将、とハーゴンが言っていたな)アロンドが思い出す。  そのまま、堂々と立っている。その姿に圧迫されたクネスが、冷や汗を流しながらしばらく耐え、一瞬舌をもつれさせ、叫んだ。 「わしに従え!そなたは今よりわしのものだ」  アロンドは無視し、じっと冷ややかな目で見つめる。 「そなたなど、アレフガルドの英雄であろうと、勇者、勇者ロトとやらの子孫であろうと、アレフガルド王家の娘婿であろうと、このムーンブルクではただの流れ者でしかない!わしに従い、あの王を倒す。そなたを高い地位につけてやる。黄金と宝石を与えてやる」  と、軽く金貨と宝石を投げつけてきた。受け取ったアロンドはちらりと見る。 (地位?殺す気のくせに。ナチスドイツでの地位は腹がはちきれるほど味わった。黄金と宝石なら、こっちで十歳の時に持っていたさ。こんな、大灯台の島では贋金扱いされる低品位の硬貨や、輝石にもならないガラスじゃない。メイプルリーフ金貨とカラット級の高品位ブリリアントカットダイヤを)と、心の中で苦笑し、表情は動かさず、地に放った。 「ひざまずかぬかあっ!犬は棍棒と鞭でしつけねばならんな」と、抜こうとして引っかかり、やっと抜いて振り上げられた剣、周囲を八十人あまりの、鋼の鎧と大薙刀で武装した兵が囲む。 「さあ、ひざまずけ」一変し、ぬらぬらと強欲になった表情を見て、アロンドは静かに目を細めた。 (まったく、こんな人間たちより、魔物のほうがずっと戦っててすっきりする敵だな)  薙刀を振りかぶった兵が、目の前に近づいてくる。嘲弄と残酷さが、かぶとをかぶらぬ顔からはっきり見える。 「叩きのめしてやれ、この勇者とかぬかす」  叫び続ける貴族。そして衛兵たちに、アロンドは突然凄まじい声とともに、殺気と迫力を解き放った。 「な、何を……この庭からはどんな声も」  そういいながら、震える手で衛兵に、かかれと合図する。  恐怖に怯えながら、かろうじて訓練と集団の残虐性か、おそいかかる数人。その大薙刀が迫った、その瞬間アロンドの姿が消えた。  凄まじい寒気が、全員を叩く。一瞬で鎧が凍り砕ける。  かろうじて動く兵の間を、次々と閃光が横切ると、両足が鎧ごと大根のように断ち切られる。その傷口は凍りつき、痛みも出血もない。  呪文を唱えようとしたローブの影が、口を押さえてのたうつ。  速すぎる。風より、速鳥より速い。目で姿を追うこともできない。  そして、片足を切断されたクネスの首に、吹雪の剣がすっと触れ、首の皮を凍らせた。 「は、八十人の」 「竜王はラダトームの門前で、千に及ぶ鎧武者を一息で焼き尽くした。それを倒したのだぞ、私は」  アロンドが静かに、抑えた声で言うと、突然絶叫した。 「勇者ロト一族を敵にするな!われらを攻撃するものは、全て死あるのみだ!」凄まじい絶叫が、全員の心を打ちひしぎ、恐怖に吹雪の剣よりも深く凍りつく。 「警告は一度きりだ。だが、間違いなくお前のような男は懲りることを知らない。今殺しておいたほうが情けだろうな。だが、私はそんな情けはかけない」と、アロンドが静かに口に呪文を弄ぶ。「ベホマズン!」  一瞬で、切断された足が、凍りついた全身が。斃れた兵たちが、次々と身を起こし、無傷の自分に怯え、恐慌を起こして逃げようと走り回る。それこそ、炎を投げこまれた羊のように。  クネスも同じ動きをした。 「今までもこれからも、誰かが監視すると思え。ダリウス大公がシルヴィア王女をさらうようなことが、できると思うな」ただ淡々と言い、耳にささやく、「マリア王女がお前と王妃の子だと知っている。昨日、図書室からの隠し部屋でサマンエフ王弟と邪神に生贄を捧げつつ同性愛にふけっていたことも」凍りつく男を放り捨て、散歩でもするように中庭を出た。  闇の産婦人科医である〈ロトの子孫〉と吟遊詩人のガライ一族、それだけで得られぬ情報などない。さらに今は瓜生の盗聴盗撮、血液型鑑定がある。〈ロトの子孫〉は医療倫理に厳しいが、研究用に共有される遺伝病や血液型などのデータだけでも充分だ。  手の早い陰謀家たちの動きはそれだけではない。  小さな息子を抱いたローラも次々に診療をこなす皆について歩き、キャスレアとともに顔を知る王族たちと挨拶と同時にアロンドたちの身分保障をしている。  彼女が王弟の一人サマンエフの子を見舞い、つと手洗いを借りた。王族にとっては稀な一人、いな赤子と二人、その瞬間に壁の隠し扉からの手が、彼女を裏の部屋に引きこんだ。  外で待つキャスレアも、物音ひとつ聞くことはなかった。  ローラが目覚めたのは、恐ろしく暗いじめじめした一室だった。毒沼の匂いが漂い、それだけで、囚われていた沼地の洞窟を思い出し激しく吐く。小さい息子が、胃液のにおいに火がついたように泣き出した。  一人の男と、一人の深い覆面に顔を隠した人が、赤子を抱えるローラをのぞいていた。 「ローラ姫、おひさしゅう」と、にたりと、病んだ牛が舌を大きくくるめかせ、膿の混じった涎をたらすような表情と声。  ローラは激しく怯え、「アロンド」と呼ぶ。キャスレア、そしてリレムの名も。 「無駄じゃ。この部屋からはいかなる音も漏れず、魔法でも探知できぬ」  覆面の誰かの声は、人のものとは思われなかった。 「ローラ姫。そなたの婚約者、サマンエフ王弟の顔も忘れたようですね、真のムーンブルク王の顔を」  突然、あちこちにロウソクが点り、さらに悪臭が混じる。ばちばち、と線香花火のように弾けるロウソク。  そして、その光に照らされた壁に、凄まじい何かが見えた。 「そなたを娶る日を指折り数えている間に、なんという裏切りであろう、この売女!」突然凄まじい声になる。「勇者とかぬかす流れ者と結婚するとは、アレフガルドそのものも皆殺しにしてやる!」  怒鳴り散らし、口を奇妙にゆがめてローラの腹を、巨大な拳で叩きのめす。 「顔を殴らぬ理由がわかるか?本当ならば、おまえの美しい顔を切り刻み、焼き、皮をはいでなめしてやりたいところだぞ。だがそうはいかん。美しいものは、美しいままに捧げねばならんのだ。まず目の前で、その子を邪神シデーさまに捧げ、大いなる力と富を我に」  静かに、おぞましい巨大なハサミを持った覆面の人が、じっと迫ってくる。 「シドー」ローラの口から、別の声が漏れる。 「何?」 「破壊神の名はシドー、敬称をつけてはならぬ。ロウソクの配列も違う、正確な六芒星にしてはならぬ。わずかなずれがなければならぬ。ロウソクも、純粋な罪人の血と脂ではなく、家畜の血を混ぜている!」  ローラとは明らかに違う声。  跳ね起きると同時に、ローラが小さな子を覆面に投げつけた。瞬間、煙とともに子は、巨大な、顔に色鮮やかな筋の入ったサルと化し、覆面をはぎとり醜く焼かれた顔に食らいついた。 「お、おま」  ローラが顔をなでた、そこにはハーゴンの、おぞましさを思わせる笑いがあった。 「わが神に仕える者がいたことは喜んでやりましょう。ですがねぇ、あなたのちいさな願いなんかに、大切な生贄を無駄使いするわけにはいかないんですよ。あなたの魂はすでにシドーのもの、ならば」と、ハーゴンの舌がカエルのように伸び、サマンエフ王弟の口に突きこまれ、脳天から鋭く尖った先端が突き出る。  そのまま、声もなく王弟は動きを止め、白目を向いて飛び出した目が、数秒後には死に濁った、そして機械のように忠実な目に変わる。  ハーゴンの、しゅる、と戻った舌が、うまそうに唇をなめまわす。 「これからはわれらのために動いてもらいましょう。くだらない心などないほうが、ずっと楽でしょうしね。そちらの下級悪魔神官、おまえはこの場で、自らを生贄とせよ。ロウソクは正しく並べ替えてな」  顔をかじりとられた神官が、ゾンビのようにゆっくりとロウソクを並べ替えはじめる。  くっくっくっく、と邪神の秘堂に、邪悪な笑いがいつまでも響いていた。  その笑いを聞くのは、小さな機械盗聴器だけだった。  小さなイリン王太子は、怯えきっていた。激しい咳と熱があるのに謁見に引き出され、疲れきっていた。 「王族の玉体に触れ、玉顔を見ること何者なりとも許せぬ、われらも帳の向こうから糸脈を」とかいう医者や女官を、アロンドたちが容赦なく非致死性弾でなぎ倒し、縛り上げた。 「ジフテリア、それにビタミンCとDの慢性的欠乏」 「先天股関節脱臼を治さず無理に訓練したせいで、骨や関節がゆがんでいます」 「尻や背中にかなりの鞭跡。消毒されておらず慢性的に膿んでいますよ」 「砒素中毒の兆候もあります」 〈ロトの子孫〉の医者の診断を、瓜生が素早く確認診断し、抗生物質とビタミン剤を与え、傷跡を消毒する。 「この宮廷の王族は根本的にビタミン不足だ」瓜生が、あちこちで聞きこんだ食事メニューをめくる。「股関節の障害は、この年齢ならおれなら手術できる」と瓜生の声。  だが、幼い少年はそんな言葉も聞いていない。ひたすら、アロンドを見つめていた。恐怖と憧れをこめて。  アロンドはじっと、その目を見つめ返している。 「どう、したら、あなたの、ように、強くなれます、か」少年が、苦痛に途切れながら言う。 「まず、体を治すことです」アロンドが触れた手を、少年は強く握ろうとして、痛みに小さな悲鳴を漏らし、そして恐怖に引きつる。 「痛みや恐怖を漏らしたら叩かれていたのだろう。ドイツでも子を厳しくしつけるのが正しいとされてきた、それがあの過ちの原因ともなった」と、別の世界での遠い記憶を思い出す。ヒトラー自体もかなり過酷な虐待を受けていた。 「だって、強い、痛くない、怖くない、ね」 「私も痛いものは痛いし、怖いことは怖い。今だって、竜王を思い出しただけでちびるよ」と、アロンドが素直に笑いかけた。 「え」 「それでも剣を振るう。たくさんの人に育てられ、いろいろなものごとを与えられて背負っていることを思い出して。それだけだよ」  アロンドが笑って、幼児の手を強く握り、キアリーを唱える。  何度も。砒素や鉛のような元素毒には、キアリーは別の効き方をする。少し呪文を変形しなければ効果はない。 「殺すの?」怯え、泣く。 「殺すならもっと簡単に、ずっと遠くからでも、何の証拠も残さずやる。この城全部を一瞬で吹き飛ばすことだってできるんだから」アロンドが静かに笑う。それに、小さい子はうなずき、アロンドの手を握ったまま眠った。  王太子を解毒していたアロンドたちのところに、突然王妃テアハスがきた。  病む子の見舞いと聞けば、断るわけにもいかない。  そして、アロンドと二人での会見を強硬に求める。  王太子の宮から王妃の宮までは、遠かった。そして恐ろしく贅沢だった。 (確か南西の砂漠島出身)(王より権力は強いといわれる)(クネスと不倫)先に調べた情報を思い出す。 「そなた、ラダトームに誰を殺せと命じられてきた?」その美しい、それでいて鉛化粧品に痛めつけられた目が、冷酷に染まる。 「私はラダトームとは関係ありません」 「嘘じゃ!」声がかすかにうわずる。「知っておるぞ、ラダトームがサマンエフと組み、王位を狙っていることは」 (そんな事実はないな。サマンエフ王弟なら邪神の信者でアレフガルドを敵視しているとハーゴンに聞いた。ラダトーム王家に他国を狙うほどの気概があるなら、竜王ぐらい自力で倒していたよ) 「そなたが王を殺す気ならば、好きにするがよい。だがそれであの足萎えの少年が王座に就くなどとは思うな。このわらわが王座に就いてやる。そなたの助けがあってもなくても……あの愚か者の私兵をつぶしてくれたことも、フェイレの陰謀じゃな。ますますわらわの思い通りになる」  アロンドはとっくにうんざりしていた。 (もう、私の死刑は決まってるってわけか。このタイプの貴族女は、ヒトラーの目と耳でさんざん経験した。自分しか愛さず、鋼より堅固な幻想しか信じない。利益や誇りで誘っても使い物にならない、裏切られずにいられず命令を聞かない。目の前で家族を拷問しても眉一つ動かさないし、本人を痛めつけても幻想を強めるだけ。苦痛も恐怖もすぐ忘れる、蛇を鞭でしつけられないように。何度目からか、とにかく問答無用で殺して理由をあとで探させた。そうそう、この本当の人生でも、アレフガルドに三人ほどいたな。無視したが)  アロンドは、静かに言った。 「私の行動を試せばよい、最初は信じ裏切ったら二度と使わないようにすればよい。人を敵とするのは、あなた自身です」  目に冷たく、さげすみと憐れみをこめ、カリスマを全身から沸かせる。 「なにをいうか!賤しい刺客のくせに。陰謀と偽りの子め」 「ラダトームに私の肖像を送れば、嘘なら即座にわかること」言葉を遮り、叫びが響く。 「だまれ!だれか」  彼女の答えは、予想できていた。  アロンドは黙って立つことを選んだ。 「ま、待ちや!そなた、水の紋章を渡せるのはわらわだけだと忘れるな。そしてまた、あの子などに」 「お茶をごちそうさまでした。失礼いたします」やや大げさに礼をすると、アストロンの呪文を唱える。  短剣を抜いて忍びよっていた王妃の護衛たちが、一瞬で鉄像になる。 (この女の不倫なら知っているが、言っても無意味だ。なぜ、生まれたときはかわいい赤ん坊だったろうに、こうなるんだろう。うちの子がこうならないことを祈るだけだ)  アロンドの冷たく優しい目に、王妃の表情が憎悪にゆがむ。  アロンドは深い無力感を抱いたまま、王妃宮を出た。  その夕方の王の晩餐は、ムーンペタの代表の一人であるヤフマの代理、ハミマを迎えるものだった。そしてローラ姫を。ただ、明らかにローラの席次は、本来の彼女……『結婚により王位継承権を放棄した、アレフガルド現王ラルス16世長女』にふさわしい席ではない。  夜までに、ローラとアロンドの地位を確定することができなかったのだ。  アレフガルド大使やキャスレアは強く抗議しようとしたが、アロンドに止められて抑えた……恥をかくのはムーンブルクだ、と。  広間で、アレフガルドと違いテーブルもなく、中央に家畜の丸焼きを盛り上げ、くりぬいたパンにどろりと濃い穀物と豆の煮物を入れて食べる。  アレフガルドにはテーブルがあるし、ジパング式の厳しい礼儀作法を仕込まれている〈ロトの民〉には奇妙に思える。ましてアロンドが住む、現代船の食堂では本格西洋料理・西洋食堂での日本料理のマナーすらDVD教材を駆使して紹介されはじめているのだ。  ムーンブルクの、城から遠い下町で何泊かしたアロンドたちは、この地域の豊富な果物や野菜、魚を知っていたが、それがほとんどない。ひたすら焼いた肉とチーズ、蒸留酒だけの料理だ。野菜も煮すぎ。  アロンドたちは、これじゃビタミン不足になるわけだとあきれながら、静かに食べている。 「下町の宿で食べているウリエルやハーゴンがうらやましくなる」と、アロンドがハミマに言った。 「わかりますよ。わたしもこちらに来たときは、下町での食事が楽しみなのです」とハミマが笑った。「でもムーンペタの食事はいかがでした?」 「素晴らしかったですよ。今度私たちのところにもいらしてください」 「それはすごいものがいただけそうですね」  楽団が、いくつものティンパニに似た太鼓を音階順に並べた楽器で、ムーンブルクの歌を奏でている。  そしてガライ一族特有の帽子と楽器の楽師が、瓜生が呆れたことに名作美少女ゲームのテーマソングをムーンブルク城の美しさを称える歌詞にして歌い上げた。  貴族たちがアロンドたちを、興味深そうに、それでいて警戒した目で見ている。  大貴族のレアヤは大胆にもやってきて、アロンドに酒盃を差し出した。 「ありがとうございます」と素直に受ける。周囲のアダンたちも大喜びで飲んでいる。  一応蒸留酒はあり、グレープフルーツに似た果物の酒はすばらしい。  王周辺では、ことさらにアロンドたちを無視しようとしているが、どうしても視線はそちらに集中する。  奇妙な目つきで酔ったサマンエフ王弟が、突然杯をアロンドのほうに投げつけて叫んだ。 「兄上。小さい頃にラダトームとの約定では、我ら兄弟の誰かがローラ姫を娶りアレフガルド王家を継ぐ、となっていませんでしたかな?それがなぜ、勇者とかいう素性も知れぬ者と結婚したのやら。これはぜひとも、最近通行なったと聞くラダトームに強く抗議しませんとなあ?ラレド」 「待たれい」立った、もう中年になりかかる王弟の長。 「バレヌラ」と、周囲がなんとなく目を集める。 (王弟の中でも最年長、王位継承順一位とされています)ハミマがアロンドにささやく。 「ローラ姫はもとよりわが妻。もとより、アレフガルドにおける結婚そのものが無効じゃ」 「それは」言い返そうとするアレフガルド大使のラレドを、激しい目で黙らせる。 「アレフガルドと連絡が取れなくなった半年後に結婚されましたね。ムーンペタの美しい奥方と」と、沈黙を突いてレアヤが大胆に言い、また家禽の丸焼きをアロンドたちに持っていく。 「妻は去年、産褥で死んだ。何の障害もないぞ。国を売る気か」 「アレフガルドにそんな黄金などありませんよ。それに、ムーンブルクはわがものではなく王のもの。わが所領は風の塔に近い、大河にかかる橋と森と田畑」その広さと豊かさ、力を、かなり露骨にアピールする。 「吟遊詩人の愚かな歌に、惑わされたか」バレヌラが杯を叩きつけて叫んだ。 「いや、真実のローラ姫なれば、それはわが妻と決まっておる」サマンエフ王弟が突然叫ぶ。操られた、虚ろな目を陰険に曇らせて。 「魔物の術で入れ替わっているのでなければな。そうに決まっておるわ!」テアハス王妃も声に同調する。  人々の心が凍る。 「魔物が化けているのなら、わが所領へ来ていただければ、暴けますよ」レアヤがアロンドを意味ありげに見る。 「これは、私のみならずアレフガルド王家そのものに対する侮辱となりますぞ」ラレドが立つ。 「何より、わがものであるムーンブルク王家の至宝、水の紋章を求めるとは」サマンエフ王弟が叫ぶのに、  バレヌラが冷たく「これは異なことを。水の紋章などというものがこの王家にあるなど、わしは聞いた事もなかったぞ」と言い返す。 「ほんの百年前、神官から与えられたもので、そのようなものがあることすら忘れられていましたな。即位式でだけ出てくる何十もの宝物の一つで、式を監督した若い頃から三十年ぶりに思い出しました」レアヤが苦笑する。 「痴れ言を。あれはわらわが、大切に保管してきたものじゃ。忘れたか!」テアハス王妃が叫んだ。 「神殿の言い伝えでは、精霊ルビスさまがザハンの大神殿より」と王室僧侶が言おうとしたところで、 「黙れ!あれはルビスとは関係ない、はるか昔からわしが」サマンエフ王弟が叫んだ。 「邪神の信徒が」と吐き捨てるように言う王室僧侶と、憎しみに満ちたにらみ合いになる。  音楽が変わり、新しい丸焼き獣が運ばれる。ぱちぱち、とひたすら脂が弾ける音、匂いが漂う広間に、憎しみと疑いだけが広がっている。 「そなた、本当は何をしに来たのだ?」新しく肉と酒を取ってきたレアヤが、アロンドの隣に座り、目を見て聞いた。 「水の紋章をもらいに。予言で、それを探すよう言われたのです」アロンドはまっすぐに、本来の彼の目で見た。 「それが真実だとして、その真実に何の意味があろう」レアヤが自嘲する。「王も貴族たちも、そなたが誰か、水の紋章は誰が持っているか兵を出さんばかりに争っている。何の力もない札と、あることも忘れていたものを」  アロンドは何も答えられず、酒を干した。 「王がそなたにそれを与えようとしても、そうしたら反対者が叫び、その反対の反対で争いになる。わしも、祖父の代に王妃のご実家に恩を受けており、反対票を投じなくてはならん」  アロンドがうなずくのを見てか見ずか。 「わが国が欲しいのならば、言っておく。手に入れる価値などないぞ」 「わかっています。これほど序列が崩れ、信義がなくなっていれば、民に叫びかけ押し流せばたやすく。いやというほどわかっています。私はアレフガルドの王位も断ったのですよ」アロンドの、苦慮の混じる言葉にレアヤがうなずいた。 「あの前に、勇者となるための試練で、ただの人として歴史を学んだ。ドイツのその後も」アロンドが瓜生を見る。 「記憶の統合は大変でしょう。ご無理なさらず、ごゆるりと」瓜生が言って、そっと懐の酒瓶から、レアヤに最高級のスコッチを注いだ。 「む、なんという見事な酒だ」美酒にため息をついた老貴族が、そのまま言葉を垂れる。「勇者ロトについてもさまざまな伝説があるな、わしの所領はこのムーンブルク城の真東、むしろ風の塔に近い橋と森の地でな。端にある小さな村に、ロトの伝説が伝わっておる。風の塔に巣食った魔物の正体を暴き、変身を暴く魔法の鏡を与えて去った、と」 「そのような話も聞きました、ウリエルからも」 「吟遊詩人の歌を聞くのも好きでな。アレフガルドが解放されたと聞いてより、ムーンブルク城はおろかわしの館でも、歌を聞く」 (ガライ一族か)ロト一族とガライ一族の絆は深い。アレフガルドから世界に広がり、情報を集めまた歌を通じて情報を広げている。  その歌声は、今この広間にも響いている。 「それに、クネスの兵の一人はわしの密偵でな……その歌が、報告が、いやムーンブルク城街の伝説がいささかでも真なら……半神、じゃな。何度か、あの鏡を、邪教の者の正体を暴くのに使わせたこともある」  アロンドは、答えようとして声が出ず、ただ杯を干した。 「よく聞く叙事詩の、イシュトヴァーンやバルドゥールのような野望なら、王族たちとは同類じゃ。アルド・ナリスのように賢しく恐ろしいものなら、同類と思っていたら操られていよう……行き先は地獄じゃな。だが……こんなところに来てどうする、グイン?」  レアヤが、ふらつきアロンドに寄りかかりながら、スコッチを大きく干した。 「グインとは過分な……それに、どんな栄光と権力と引きかえでも、妻を不幸にしたくない。グイン……ただ誠なれ。真実であれ……」  アロンドも酔っているように見える。実は彼は底なしなのだが。 「その真実が、ここでは貸し借りと剣と欺瞞の影としてしかないのでな。まあよい、サマンエフには特に気をつけよ……邪教の噂がある」 「もう、私に従ってくれる一人が処置したそうです」答えに、レアヤが目をむく。 「早いな」 「こちらに来たのが、早すぎたのかもしれません。調べてから来ることもできたでしょうか。ですが、いくら学んでも、このゲームだけのための人間になっては」アロンドが悲しげに笑った。 「うらやましい身じゃ。そのゲームとやらに習熟せねば、一日も生きられぬ身には。行動を選ぶことが何もできぬ、三代前から誰につくか決められている身には」 「同情します。ただ、ゲームは突然終ることもありますよ」(暴力でも、民衆を扇動しても、脅迫でもこんな国は簡単に潰せる)と一言押し殺す。 「ありがとうよ。しばらく様子を見るか、とっとと消えるか。いずれにせよ、気をつけてな。もう年寄りにこの酒はきつい、休ませてもらうとするよ」  と、レアヤが立つ。アロンドは丁寧な礼で見送った。  そして肉が食べつくされ、音楽が変わると男女が思い思いに踊りだす。アロンドたちには女たちも武人の男たちも群がり、小さな子を抱いていてもローラに男たちはせめて一目見たいと集まる。  恐ろしいほどの美形がそろい、歯も肌もまったく違う。栄養・歯科・皮膚科・清潔、すべてが違うのだ。  羨望と憧れの目、異国の珍しい話や冒険談をせがむ若者たちに、アロンドはいつもながらすぐに馴染む。  ひそかに王弟たちや王妃に対する悪口がささやかれ、二人を応援する若い貴族たちもたくさん出てくる。  それから、アロンドたちは静かに貴族たちの治療に駆け回る。  貴族たちだけでも、特に歯科を含めれば多くの病人がいて、その多くは瓜生たちが治療すればすぐに治る。  近代医学が発達し、前近代地域に普及していったとき、その威力はまさに奇跡だった。  多くの人がかかっていた、脚気や壊血病などビタミンの欠乏症。乳幼児の多くを殺す伝染病。わずかな傷でも手足を無麻酔で切断し大半は死ぬ。そして単純な前置胎盤妊娠が、帝王切開ができなければ母子の確実な死を意味していたのだ。  驚くほど最近の、イギリス国王の子も十人産んで一人生き延びれば幸運、というのが当たり前だった。  抗生物質。ビタミン剤。消毒・麻酔・輸血。レントゲンや血液検査、超音波検査。そしてワクチン。  それらの救命率の高さは、奇跡に他ならないのだ。  数日で、死を待つばかりだった子たちが何人も回復する。貴族たちはそれに、感謝する以上に恐怖した。  百何十年前にも、ミカエラと瓜生、そしてラファエルとガブリエラは何万もの伝染病患者を二月で救う奇跡を起こし、そして恐れられ石もて追われた。  今も、ムーンブルクの僧侶たちでもある古くからの医師団は、アロンドたちに強い敵意を燃やしているし、それに同調している貴族も多くいる。  アロンドの、圧倒的なカリスマを感じればこそ、それに対する反発も強いのだ。  そしてその治療は血液型などを通じ、誰が本当は誰の子かの情報ともなる。  十日ほど、王太子の手術が終わる頃に、城下街で騒ぎが起きた。アロンドとローラの姿を、民衆が見たがったのだ。  医神とされる勇者ロトの、ガライ一族によって伝えられる歌はもとより大人気。そしてアレフガルド解放以来聞こえるアロンドの歌は熱狂的な人気を得ていた。アレフガルドの美姫の噂も、竜王出現以前から歌われていた。  だが、アロンドを勇者と認めることに反対する王族がいる以上、二人を紹介することもできない。騒ぐ民を鎮圧しようとした王弟バレヌラの手兵と、クネスの手兵が激突しかかりもした。  そして、騒ぎが強まるほどに、王弟バレヌラとテアハス王妃がアロンドを偽勇者として処刑し、ローラを妻にという無茶な主張も強まる。逆にそれが強まれば、その政敵はアロンドの側につこうと騒ぐ。  皮肉にも、最初にアロンドを襲ったクネスの母親の実家が王妃テアハスの実家と敵であり、それで彼は、恐怖と憎悪に顔をしかめながらアロンドを勇者と披露せよと叫んでいるのだ。  本来冷ややかな仲であった王弟バレヌラと王妃テアハスが、反アロンドでまとまってしまったことで、また宮廷内の複雑な力のバランスは変動する。  王弟サマンエフが時々過激なことを叫び争いをあおるので、逆に彼を嫌う勢力が親アロンドになってしまうこともある。無論、ハーゴンが操ってのことだ。  アロンドの周囲でまた厄介なのは、患者の一人マリア王女が激しくアロンドに恋してしまったことだ。 「どうか、連れて逃げてください」と泣く彼女、妻ローラがいることなどおかまいなしのように。  そうなると、よけいにテアハス王妃が叫ぶことになる……  そんな時、いついたのかジジが、突然マリア王女の枕元に手を伸ばした。 「洞窟に住む透明な毒蛇、これはペルポイの手よ」  と、その手に握られた何かが握りつぶされ、血が地面に滴る。 「患者全員、暗殺者に狙われているわ。患者が死ねば、アロンドを罪に問える……僧侶医者も、王族たちも狙っている。これが初めてじゃないわ」  ジジの厳しい目に、アロンドが歯を食いしばる。 「すまない」 「守り抜く」  ジジの厳しい目を横から見るだけで、マリア王女は震えながらアロンドにしがみつこうとした。 「それに、こういう女も気をつけて。逆恨みで犯されたってウソの訴えすんのも、よくあるから」  容赦ない、下品な口調に王女は真っ白になっていた。  他にも、アロンドを誘う女は多いし、王弟たちはローラを狙っている。それは宮廷全体に、蜂の巣をつついたような興奮を起こしている。  手術が終わり、落ち着いてきたイリン王太子のそばに、ローラは長男のローレルと、サデルらの子供数人を伴って滞在することが多くなっている。  同年齢の子供たちに囲まれるのは、病人にとっても落ち着く。  そして、瓜生からもらった何冊もの絵本を、ともに楽しんでいた。  王宮内の対立は激しくなり、何人かが切り倒されているのが見つかることもあるし、ジジたちは毎晩アロンドや患者を狙う暗殺者を何人も捕らえていた。  魔法を使う者もいたし、下町で雇われた腕利きの盗賊も、邪神教団の悪魔神官も、愚かな騎士もいる。美女をアロンドに抱かせようとする者もいた。  ジジがその多くに、別々の幻覚を見せて送り返したり、別の相手を狙わせて捕らえさせたりしているので、あちこちの混乱が余計ひどくなる。  アロンドたちはある日、ムーンブルクの街に出てみた。 「おいしいものもたくさんありますよ」とハーゴンが貧民街に連れて行く。そこの、少し古ぼけネズミが多くいた店の、酒でフランベした骨付き肉と煮豆のつけあわせは素晴らしかった。 「何の肉なんだ?」 「水田で飼うオオガエルです」ハーゴンの一言にローラがびっくりする。  そこでも、フードを深くかぶっていてもアロンドはなんとなく目立ってしまい、何人かに酒をおごればもう宴会が始まる。  聞きなれた歌も聞こえてくる。 「ガライ一族がここにも?」 「どこにでもいますよ」ハーゴンが笑って、『グイン・サーガ』の歌を注文する。 「ひょっとして、あんちゃんのフードの下は豹頭だったりするのかい?」 「見てみるか?」と、アロンドがフードを外す。  酔客たちが凍りつく。 「な、なんかロトさまの像に似てるな。おっかあが子供産む前にこないだいったけど」 「あ、ああ。そっくりだ」 「ま、そんな顔もあるよ。この、薄いので巻いたのってなんていうんだ?」 「ヤテだよ。この辛いミミスと甘豆で食べると、ほら!」 「これはうまいな。故郷の酒だ、一杯飲むか?」と、アロンドがさしつけるウィスキーに、相客は大喜びする。  そして騒ぎの中、いつしかアロンドたちは店を出て、ぬくもった気持ちで街を歩く。  ごみごみした街。そこここに汚水が流れ、異臭が漂い、深い運河では小船が足がわりだ。  小船にちょっと乗って、高く建て増された建物の間を縫っていると、広場で芸をしている人々がいた。  ガライ一族の、瓜生の故郷から伝わったロックの旋律が流れてくる。  それをふと見たローラが、凍りついた。 「リレム!なに、何を」  中心で、幼さが残る体を薄布一枚だけで覆い、危うい色香を振りまきながら燃える剣と果物を交互に投げ上げ、受け止めている少女。  それだけでなく、ローラも面識がある若い〈ロトの民〉も何人もいる。 「ローラ」アロンドが、ローラを抑えて路地裏に連れこむ。そこには、いつしか瓜生がいた。 「説明してくださる?リレムは、わたくしの大切な家族なのですよ。それに、つい先ほどまでは共にローレルの面倒を見ていたのに」 「私も詳しくは知らないのだが、ジジが彼女たち何人かに、いろいろ教えているんだ」アロンドもすっかり困っている。  瓜生が静かに発言を求める。 「ジジは〈上の世界〉の、歓楽と通商の街アッサラームの盗賊出身です。手品と大道芸、その陰でのスリ、売買春に盗み、脅し、密輸、乞食、占い……あらゆる街の裏面に詳しい。彼女は魔法以上に、それらに浸透した情報収集を大きな力とします。その全てをリレムたちに伝える、と言っていました」 「ば、売春?」ローラの表情が凍っている。 「情報はロト一族にとっても重要だ。闇産婦人科医や公衆便所、港湾の仕事は、富だけでなく莫大な情報も手に入るし、ガライ一族も多くの情報をくれる」アロンドが沈痛に言う。  そこに、すいと、ジジとリレムが来た。リレムは薄布の上から厚手のマントを羽織って。ジジは下級娼婦にしか見えない服で。 「あ、あなたたち」ローラの表情が激しい怒りを宿す。 「リレムが言ったのよ。どんなことをしても姫さまを守る、って。だから何もかも、教えてるんだよ」ジジの言葉と真剣な目がローラを圧倒する。 「その通りです。どんなことをしても……家族を裏切った時に比べたら、こんなのなんでもありません」リレムの目は、強烈な強さを放っていた。 「そ、そんな」 「ジジが必要だ、と判断したなら。おれは信じますよ」瓜生の言葉に、ジジがうなずく。  ローラは一瞬泣き崩れ、アロンドにすがったが、すぐに顔を上げた。 「おねがい、わたくしのことを思っているのなら……死なないで」と、リレムを抱きしめる。 「は、はい……姫さま、どんな……どんなことがあっても、死にません。おそばにいます、お守りします」リレムがローラに抱かれて泣きじゃくった。 「教えがいもある。人を楽しませる才能は本物だね。さ、次いくよ。どこで間違ってたかわかってるかい?」ジジがリレムに笑いかけ、リレムが強くうなずいて飛び出した。  ある日、王がアロンド夫婦を呼び出した。公式の謁見とは違う、非公式の、むしろ裁きに近いという感じがした。 「アロンド!そなた、勇者ロトの子孫を名乗るとは何たる不遜、何たる偽り」と先にテアハス王妃が居丈高に叫ぶ。 「まあ、それよりも。試す機会を一度だけ与えてやろう……死に瀕していたマリア王女が助かったことは事実だ」サマンエフ王弟がにやにやと、虚ろな目で言う。 「少しばかり、城から離れたところに離宮を建てる予定があったのだが、それが竜王とやらに備えるために延びていたのじゃ。それを建てよ」バレヌラ王弟が、じろりとローラを、そしてサマンエフを見る。「できねばローラ姫は、約定どおりこの俺がもらう。文句はないな!」  これはアロンドにではなく、他の王弟たちに対する言葉である。 「異存はございませんよ」と、テアハス王妃が手を挙げると、素早く数十人の武官・僧侶たちが立ち上がり、服従を表明する。  王は自らの無力に歯ぎしりしつつ、アロンドを頼るように見つめる。 「そ、そのような仕儀じゃ。十日、十日じゃぞ」  呆れてものも言えずにいるアロンドの懐で、ポケベルが小さく振動した、二度続けて。瓜生からの、「Yes」を意味する信号だ。 「かしこまりました。場所などは」と、本気で話し始めるアロンドに、王侯貴族たちは嘲笑を抑えられないようだった。  もう、テアハス王妃とバレヌラ王弟が、アロンドの処刑法を楽しげに話し合っている。そのテアハス王妃に迎合しながら、レアヤがまさか、という怯えたような目でアロンドを見ている。  過激で無茶な難題と残酷さを煽ってきたサマンエフが、虚ろで陰険な笑みを浮かべていた。  退出するアロンドを、レアヤの衛兵の一人が襲うと見せて、手紙を落として逃げた。アロンドも捕らえなかった。  手紙を一読する……「今逃げるのならば、西門が開いている」と、手形もついていた。アロンドはそれを魔法の炎で焼き、手術に使っている一室に急いだ。 「盗聴対策は?」アロンドの言葉に、瓜生・ジジ・ハーゴン、そして久々に見る竜女の四人がうなずく。この四人がチェックしたのなら、機械・トリック・買収・魔法・下級神・魔物、すべてのルートは二重三重に点検されている。 「できるんだな」 「今はちょうど農閑期。〈ロトの民〉の大動員を」瓜生がアロンドを見、竜女に目を向ける。「多人数のリリルーラを補助してくれ」 「わかった。任せる」アロンドが真剣にうなずき、ローラが彼に取りすがる。 「多人数をまとめ動かすことをお願いします」瓜生がアロンドと、しっかりうなずき合う。  アロンドたちが素早く話し合いながら、動き始める。ルーラでアレフガルドや大灯台の島に飛ぶものもいる。  瓜生は大量の建築関係の本を出して、順番をノートにまとめ、石壁にチョークで大きく日時を書くと、予定を書き始めた。まず速乾コンクリートが固まる時間を見て、十日後から逆に棒を引く。 「工事そのものは、大灯台の島で教えてる若者なら測量はかなりできる。あとは重機の扱いだが、まあ半日で何とかなるだろ」瓜生が笑う。 「建てろ、といわれた場所は?」 「地盤と水脈、そうだあの手を使うか」 「無茶を考えるものよの」竜女が瓜生に、無表情に呆れる。 「安請け合い、といってもあんたにとっては、簡単なことなんだよね」ジジが呆れたように瓜生を見る。 「ジジ、できたらあちこちの予言者と折衝してくれ」  ムーンペタや北のお告げ所、マイラの予言者を使い、「先に調査結果を得る」ことをした。必ず、後にちゃんと調査をしなければならない。  ムーンブルクの南南西の岩山の裾野に、ちょうどいい場所があり王の許可も得た。その時点で丸一日。  その一日にも、多数の〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉を集め、組織し始めておく。  アレフガルド中に散らばった〈ロトの子孫〉を何百人も、そして広い大灯台の島の〈ロトの民〉をルーラやその応用で大陸距離を移動させるのは、それだけでも大呪文の連続である。竜女やその配下の魔族、ジジたちがいなければできることではなかった。  許可を得た地は石だらけの固い粘土で農業にも適さない。  だが、瓜生はその地下に広がる頑丈な岩盤と、重く粘性の高い土壌が必要だった。岩山の上には良質で量も多く安定した湧き水があり、少し下った近くには森に囲まれた沼地もある。上下水がともにそろっている。  レーザーレンジファインダーで手早く、300メートルの直線を測る。それだけでも大変だ。  そして巨大な重機。日本ではめったに目にしない巨大なショベルカーが、爆弾で緩んだ大地を削り、土砂を同じく巨大なダンプカーに積んでいく。  同時に、莫大な量の速乾コンクリートがムーンブルク周辺の膨大な水で、巨大機械によって練られている。  繰り返される測量、球場を照らすような照明で昼夜を分かたず照らされる工事現場。  それら重機は、まず学習能力が高く器用とわかっている生徒たちに瓜生が実践で教え、その教わった人たちがそれぞれ何人かに教える。  以前から、何種類かの重機や測量器具の使い方も、特に優秀な生徒には教えはじめていた。  一万人近い人々に長さ三百メートル・幅四〇メートル・深さ五メートルの穴を掘らせるというのは、それ以前に一万人近い人々が集まっていること自体が大変なことだ。全員水を飲み、食べ、大小便を出す。  とはいえ、もとより便所を含む上下水道の整備を得意とし、多くは今まさに廃村を開墾している〈ロトの子孫〉たち、そして伝染病との闘いを叩きこまれ遊牧民の血筋を誇る〈ロトの民〉たちはいずれも、水とトイレ、調理の簡易かまど、風雨をしのぎ寝るテントの設営はお手の物だった。まして瓜生の、無限の物資も手に入る。  たくさんの人を昼夜三交替、適度に休憩も入れ、トイレ穴掘りなど別の仕事や重機操縦の座学もさせて働かせる、ピラミッド型の指揮系統つくりも素早かった。  アロンドの圧倒的なカリスマと、高い教育水準、普段の農業や船の生活、戦闘訓練で組織行動を叩きこまれているからこそである。  それ以前に、農閑期とはいえ来いといわれて飛び出せることがとてつもないことだ。竜王と戦い抜いてきた〈ロトの子孫〉はもちろん〈ロトの民〉も常在戦場、いつでも動けない幼児や病人を任せる最低限を除き、コンパクトで充分な荷物を手に飛び出し、指揮系統をもって集合できるよう準備しており、訓練もされている。  アロンドが十数人に責任と権限をしっかりと与え、任命された者は普段の生活や学校で使えると分かっている人を集める。ピラミッドが何段も重なれば、万の群衆が一つの巨大な生き物となる。特にゴッサの指導力は高い。  穴の壁のあちこちから、時々瓜生が異界の創師の手で創り直されたサイガブルパップショットガンに、魔力を込めて放つ。短距離のメドローアが地面に深い穴を作り、岩盤まで届く。その穴には太い鉄筋が突き込まれ、超速乾コンクリートが流される。  船の形にえぐられた大地に、巨大な穴の壁が、分厚くコンクリートで塗られる。それが流れ落ちないよう、あちこちを巨大な鉄板が留めている。  穴の底には大量のテトラポッドや大きめの岩が敷き詰められ、水のようにコンクリートを湛えている。  その日、最後にもう一度細かく測量し、全員を遠く退避させた瓜生が、トベルーラで宙に浮き、正確に位置を確認した。  伸ばした手の先、瓜生の『能力』が開放される。  定められた空間範囲から、空気が瞬時に消え完全な虚空が生じる。  億、兆よりずっと上の数ある星々、星間ガスの鉄原子や炭素原子や銅原子が、次々と何億何兆光年の距離を完全に無視してそこに集まり、原子一つの違いもなく設計どおり、規格どおりに積み上がり結合する。プランクスケールより短い時間で。  排水量十万トン、全長300mに及ぶ巨体が重力波さえ放って出現、瞬時に重力に引かれて、壁に二メートルの厚みで塗られた柔らかなコンクリートにその巨重を叩きつける。  爆発に等しい巨大なエネルギーが、あちこちでコンクリートを噴水のように吹き上げ、小さな地震すら起こす。  数分、ゆっくりと揺れてから、無数の巨大な柱に支えられた豪華客船が安定した。岩盤に達する鉄骨に、建造ドックの盤木のように船底を支えられ、海水同様にコンクリートに浮いて。  安全かどうか、もう十分ほど様子を見てから瓜生は船にトベルーラで飛ぶと、まず水平を見て、一方の舷側近くや船尾にいくつか巨大な鉄道レールを「出し」、水平を何度か確認した。  それから、出入り口に滑車装置をつけ、頑丈なワイヤーをかけると、コンクリートの海の向こうに待つ仲間たちのところへ飛んだ。 「突貫で、そこの岩場から渡り吊り橋と上下水道を作らないと。徹夜覚悟だ」瓜生はそれだけ言う。  アロンドもローラも、〈ロトの民〉も〈ロトの子孫〉も、衝撃に言葉を失っていた。  巨大豪華客船。十階以上ある、長さ300mの壮大な「ビル」。見上げるしかない高さ、退避していた岩山からみればこそ分かる凄まじい巨大さ。  ラダトームやムーンブルクの城そのものより、長さと高さでは間違いなく上だ。 「さ、コンクリートが柔らかいうちに、管を埋めるんだ。メンテナンスできるよう、あちこちに竪穴を作るのも忘れるなよ」  瓜生の指示と、出現した大量の、巨大なコンクリートパイプに、なんとか我に返った皆が動き始める。  砂山に登る蟻のように小さい人々と、ひときわ早く駆ける重機が。巨大な鉄板の上を。  必要とする膨大な真水を、岩山の上にある泉から船の貯水室へ。下水は傾斜をかけて沼地へ。  約束の朝、ムーンブルク城の王侯貴族に庶民たちも、こぞって城門から見物に来た。  その数日、爆薬による小さな地震と遠い爆音、そして照明車による夜空の奇妙な明るさに、天変地異か竜王の襲撃か、と不安を覚える人は多かった。  それほど遠くはないが、いくつかの小高い丘を越える。  門からしばらくは網の目のような、下水を兼ねた運河を船で。そして貴顕は輿で、庶民は歩いて。  小高い丘の頂上からそれが見えたとき、全員が衝撃に声を失った。  石・レンガ・木・泥の建築とは全く異質な、純白の姿。  全ての窓にはめられた、光り輝く巨大なガラス。  地面からそそり立つ、鋼の舷側に速乾コンクリートで砂利を盛り上げた、切り立つ壁。  周囲は、荒く割られた石がコンクリートの上に敷き詰められているだけだが、遠目にはそれも美しい神秘と思える。  掘り出された大量の土砂が、少し離れた周囲に積まれ土塁となっている。  何万もの民が。何千の貴顕が。呆然と口もきけず、圧倒的な奇跡を見つめていた。 「さあ、どうぞ!」と、アロンドが王族たちを、貴婦人を、そして貧しい庶民も次々に駆け回りながら誘う。  明るく、積極的に、自信に満ちて。  彼の手に肩を触れられた者は、すべて激しい喜びと憧れに満たされ、大急ぎでその後に従う。  王さえも。  そして、その一団は丘を越える。 「ここは、前に来たときは岩がひどくて歩けないはず」  工事で出た岩や砂利を積んで、上に鉄板を敷いて布を張っただけの簡易道。だが、充分だった。  その道を上がった先、大石がいくつか平行に並び、それを支えに太い鎖が二本平行に、高い壁に囲まれた建物の入り口とおぼしきところに通じていた。  途中は幾度か、コンクリート柱で支えられて。  そのワイヤーの間には、木の化粧板がしっかりと張られている。  おっかなびっくり足をつけ、一歩一歩。少し揺れるが安定しており、そのまま門にたどり着いた。 「ウェルカム・アボード!」  いつ先についていたのか、〈下の世界〉ではまず見ることのない、華麗な服装に着替えていたアロンドとローラ夫婦が叫ぶ。  そして、どこからか美しい音楽、楽しい歌が流れてくる。  レグラントやリレムが三日間、ラスベガスのホテルやディズニーランドのDVD教材を何度も見て選曲した。  アロンドとローラの後をついて歩く人々はただ、圧倒されていた。 「人の世界ではない」 「なんと言う美しさだ」  実は全然美しくはない。出したばかりの、『売られている』状態の客船はろくに内装もされていない、簡易塗料や配管がむき出しになっている部分も多いが、それが逆に凄まじい芸術的な装飾にも、何も知らない人々には見える。  内部も実は古い。巨大だがかなり旧式の豪華客船を選んだのだ、電子装備がほとんど存在しない時代の。  とにかく、それは奇跡だった。ありえない世界だった。  それこそ、ロンダルキアの魔神城やありし日のゾーマ城に放り込まれてもこれほどの衝撃はないだろう。  酒を求めれば瓶ごと渡され、便意があれば案内されて清潔で華麗に装飾されたおまるが出る。水洗トイレは完備しているが、知らない人に使うのは不可能だと瓜生は何度も経験していた。 「いかがでしょうか?まぎれもなく千の部屋があり、三千人がお泊りになれます。数えますか?」アロンドが、まるでたやすいことだったかのように王に言った。 「お、おお……まさしく」  何が言えよう。  窓から見える丘には、ムーンブルク城街の全員とも思える、何万もの群衆がこの奇跡を目の当たりにして絶叫し、何百人もの庶民がアロンドやローラとともに巨大な宮殿を歩き回っているのだ。 「さあ、お食事も準備してありますよ」  レグラントの声と案内で、船内のいくつものレストランやプールサイド、ガーデン、ヘリポートまで皆が誘われる。  噴水と音楽に彩られた露天では、肉の塊が次々とコークスの炎に炙られている。  室内レストランでは、まだ設備がちゃんと動いていないがなんとか電源はあるので、冷凍品を電子レンジで加熱調理したピザ・ハンバーグ・フライドチキン・餃子が次々と出る。  そして、一人一本ずつ配られるウィスキー!山のようなアイスクリーム!  とうとう、人々の理性が切れた。  贅沢に溺れ、叫び、ひたすら食い飲む。王族も貴族も庶民もなく。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉たちは人獣たちを冷ややかに見ながら、ひたすら養鶏場で餌を垂れ流すように、瓜生が出し続ける食物や酒を運び、与え続ける。  日が沈むまで宴は続いた。  何万ものムーンブルクの民たちが集う、丘の向こうでも、工夫された穴のコークスに火が放たれ、何千という牛や豚の、背骨から真っ二つにされた肉が焼かれては削られ、供されている。油煙が濃くたちのぼる。  王侯貴族が束になっても、まったくかなわない圧倒的な富。それを、ムーンブルクの王侯貴族に人民、事実上全員に見せつけたのだ。  アロンドはどこにでも出現し、次々と歌い、話し、肉をかじり、ふたを外した強烈で芳醇な蒸留酒の瓶を渡し、誰にとっても親友のような思いを抱かせた。  それを、警戒できるだけの知性の持ち主などほとんどいなかった。 「なんと見事な離宮をくれたものか」あらためて大広間で、イリン三世王がアロンドたちを迎える。  そして、アロンドが連れていた、十数人の生命も絶望視されていた王族の少年少女が、元気な姿で立っている。  イリン王太子すらも。その姿にも、宮廷の人々や、押しかけている庶民の代表たちが驚きどよめいている。 「アロンド、そなたに水の紋章を与えよう!」  と、ひざまずくアロンドに、王は一枚の、葉書大の何かをくれた。確かに水の紋章、だがそれはアロンドがすでに持っている星の紋章とは違い、似たような質感に塗った金属板だ。  アロンドは何も言わず、押戴いた。 「ありがたく拝領いたします。ロト一族の友情の証として」  と、軽く手を振ると、背後から何人もの屈強の人たちが、膨大な荷物を運びこんだ。 「せめてもの贈り物です」  それに、王侯貴族たちが目を見張る。  交易が絶えていたアレフガルドの、美しい布。またアレフガルドでも見当たらない、瓜生の故郷の複雑な紋様で染めた絹や木綿、また華麗な毛織物。  メルキド産の、魔導師の杖と同様メラを放つことができ、ゾンビキラーに匹敵する切れ味を持つ炎の剣が一ダース。  美しいガラス器。メノウなどを彫ったもの。木や青銅の彫刻。  その美しさに、皆がほうっとしていた。 「われらが診た患者たちは、今後とも追加健診と治療を続けさせていただきましょう。また、別の贈り物を陛下に。今後、アレフガルドの港湾は、ムーンブルク王イリン三世王陛下ならびにその直系正統の王の手形のない船は受け容れません」 「そ、それはローラ姫の権利か」  そう叫ぶサマンエフ王弟をアロンドは無視し、王と王太子に姿勢をただし、敬礼する。それだけで、強烈な存在感がヒャダインのように全員を凍らせる。 「では!」  背を向けるアロンドに、マリア王女が追いすがろうとしたが、その周囲を群衆が囲んだ。若い貴族たちや民衆が。  圧倒的な熱気で。王弟や王妃たちの権力をあざ笑うような熱気で。  だが、処理はまだまだ終わっていない。  その時にも瓜生は何十人か、重機の扱いに慣れた〈ロトの民〉を率いて、先夜の膨大なゴミや糞尿をブルドーザーで埋め立てる。  それが終わればあちこちに爆薬を仕掛けて爆発させ、その小さい人工地震を精密に測ること、また正確な地図を作ることも始めた。  予言を使って先にデータを得た以上、測量はちゃんとしなければならないのだ。  それから何ヶ月も、瓜生は二日に一日は〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の生徒を連れてムーンブルク周辺を測量し、爆発物をしかけて地震波を観測していた。  因果も何もないが、それがまあ予言の特殊魔法だ。  ちなみに、豪華客船の千の部屋には千の従業員が必要となる。そんなことのためにいつまでも〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉を縛り付ける気は、アロンドたちにはまったくなかった。  アロンドたちは、次の日から町や王宮を回り、失業者や貧民を集め、追放された廷臣や罪を得て売春に落ちた元女官などを指導層に、船という大宮殿の使い方を教え引き継がせなければならなかった。  ただの宮殿とは違い、内装前で最低限とは言え、膨大な配管や暖房設備の扱いも教えなければならない。そして航行がない分燃料消費は少ないが、暖房などには充分使える機関の使い方も。  その人たちはまた、ムーンペタで注文された鉄の鎖帷子と兜、槍とクロスボウを与えられ、午後は戦う訓練も受けることになる。 「王に力を与えなくては」  アロンドの言葉を実現するために。  その夜中。王の寝室に、ふっとアロンドの姿が出現した。  目覚め、衛兵を呼ぼうとした王の体が麻痺する。 「無駄です。みな眠っています。先に、害意はありません」 「も、もう見抜いたのか。だがあれは、王妃がどうしても手放さぬので」  アロンドが悲しげに、二枚の紋章を並べる。星の紋章と、今日王にもらった水の紋章……明らかに別の素材だ。 「いいのです。魔法使いたちが保証しています、今はこちらが紋章。『ムーンブルク王がアロンドに水の紋章を与えた』それが史実であり、事実なのです」 「で、では」怯える王に、アロンドは少し悲しげに話しかける。 「あなたに力を与えに来ました。王に力がないから、このように長く余計な面倒がかかってしまったのです。まず、これを」  と、アロンドが腰から長い剣を外し、さやごと王のベッドに置く。そのアロンドの右手には、別の手甲がはめられていた。 「吹雪の剣。昔はアレフガルドでは店で売られていましたが、今はまず入手不能な魔剣です。柄に触れるだけで、十人を氷漬けにできる冷気を放ちますし、切れ味も鋭い」 「な」 「そして、これに手の指を押しつけてください」と、王の手をつかみ、指紋を強引に採取してアルコールを含ませた布でぬぐう。 「これとおなじ指跡のない手形は、今後アレフガルドでは無効です。偽造しても無駄なこと、それを利用して、船から直接税をお取りなさい。そしてその税金を、私たちの作った離宮を今管理している、千人を越える人の給料にすれば、彼らは陛下の直接の兵力となります」  王の目が見開かれる。 「聞いています。あのあとすぐに、王弟たちが『手形など、ずっと我らで偽造してきた』とうそぶいておられましたね。ですが違います。王ご自身の指が汚した手形以外価値はありません。  今や王一人でも何十の騎士を倒し、千の兵力を直接支配できます。もう無力ではありません」  アロンドがじっと、王を見る。 「無力で紙一枚動かせない支配者より、敵であっても機能する王のほうがましです。力を正しくお使いください、過てば自滅するだけです。そして、できましたら王太子殿下を、早めにムーンペタかレアヤさまのところに出してください。ここにいては危うい」  それだけ言ったアロンドの姿が、ふっと消えた。  ちなみに、アレフガルドの港湾を支配しているのはローラ姫ではない。確かに彼女の生得権だったが、彼女は結婚時に全ての生得権を放棄している。  といっても、アレフガルドの港はすべて〈ロトの子孫〉の訓練場である。彼らだけでも、採取されたムーンブルク王の指紋を確認し、それを持たない船を拒むことはできる。  瓜生たちはひたすらムーンブルク城周辺の、事後の測量に汗を流し、また重機の扱いを復習している。  もとより〈ロトの子孫〉は測量と数学を必須科目として学び、〈ロトの民〉も精緻な水田つくりなど実地でやっている。  混乱がいつもであるムーンブルク城をあとにしたアロンドは、ムーンブルクから西北西に海に出て懐かしい船に戻り、ハミマと相談していた。 「こちらの、内海にも行かなければなりません。その内海の入り口にある関所から、ベラヌール北に旅の扉で行けます。ただ、ベラヌールはここ数年、アレフガルド同様まったく連絡が取れないのです」 「では内海までお送りしますよ。あなた方、いやムーンペタそのものにも敵を作ってしまったかもしれない、申し訳ない」アロンドが頭を下げる。 「いえ、あなた方の友であることは、明らかにムーンブルクを敵にするより大きい。あの数日で作った離宮。あれは、巨大な船ですね」  聡明な若い商人の目に、アロンドはうなずく。  ハミマは深いため息をついた。 「あちこち、見ました。木ではなく鋼でできている船体。隅々まで通る水道管。煙のない照明。船なのにマストも帆も漕ぎ手席もない……この船もです。木に見せかけていますが、何でできているのですか?……どのような神々ですか?」 「神ではない、ただの人間だ、と、その人はいつも言います。その人に聞けば、説明してくれますよ」それがアロンドの言葉だった。 「聞くのが怖いです。もしかしたら、ムーンブルクを力で滅ぼすことも……」 「簡単でした」ウリエルに核兵器を、なくてもギガデインだけで、という言葉を抑える。「王侯貴族全員の弱みは握っていましたから、それで攻めることも。また争いをあおって自滅させることも、乗じることも。民衆を扇動することも。ですが、そんなことをしたら竜にまたがり自滅することになります」 「なんというお方だ……」  ハミマは落ちこんだように、船室に戻る。  砂漠の大きな島を横目に、より広い大陸との、国境をなす砦に着いた。  扉の奥に旅の扉が隠された、小さな海底トンネルになっている簡素な砦。  ただし、内海への出入り口でもあり、通行料だけでもかなりの収益となる。また、その大きな砂漠島も、中央には豊かな果樹の森が茂り、魚も豊富にとれる豊かな島で、テアハス王妃の出身地でもある。  その砦でも山彦の笛を吹いたが、こだまは返らない。  それから、狭い水道を抜けて広い内海沿岸に点在する、多くはムーンブルク領ですらない町々を回るハミマや船員たちと一時別れて、アロンドたち少人数だけがジジのアバカムで鍵を開け、旅の扉に入った。  ローラは道なき道を歩くのは辛いので、船に残り、野営のときだけサデルの魔力を借り、リリルーラでアロンドと合流する。  着いたのは、ベラヌール北のほこら。  三つの旅の扉がある。一つは進入禁止大陸につながるため厳重に封じられており、もう一つは〈ロトの民〉とも縁の深い炎のほこらに通じている。  そこでもアロンドは山彦の笛を吹いたが、ハズレ。  そして、そこを出たら、豊かな森が広がっていた。  高い木々と、むっと匂う花の香り。下草は豊かで、動物も多くいるようだ。土地の起伏の間には静かな水の流れがあり、岸辺にはつる植物がびっしりとはびこり、斧で切り払わなければ進めない。  時に、緑に混じって襲う毒蛇を剣で切り払うこともある。  人ではなく獣の頭を持つ、巨大な人型の魔物もいた。おとなしく、人を襲おうとせずむしろ食料を分けてくれるものもいたし、問答無用で襲いかかりアロンドたちの銃に蜂の巣になったのもいる。  大灯台の島にいる、人を襲わない魔物の同族もいた。魔王による命令がない世界では、自然発生する魔物と野獣はそれほど違わず、逃げることもあるし襲ってくることもある。  人々が森を切り開き、果樹や木の葉を好んで食べる家畜を育て暮らしている場もあった。  周囲の岩山にはよい銅鉱山や塩鉱山もあり、旅の扉を通じて交易もしているようだ。  木に這い登るつる植物の、大きな青みを帯びた実の、銅のポットで蒸留した酒と蜂蜜を加えた酒精強化酒が素晴らしくうまい。 「ルプガナで飲んだ、ベラヌールのメロワインという酒に似てるけど違うな」 「ここしばらくは、あれはできねえよ。あんなになっちまっちゃあね」と、森の人々は笑っていた。  アロンドたちは背負ってこれただけの、布などで払う。またルーラの応用でアレフガルドに往復し、亜鉛や錫を宿代として払った。  銅があっても、真鍮や青銅を作るための亜鉛や錫が手に入らない地域もあり、そうなるとせっかくの銅が活用しきれないので、とても感謝され、これからも取引してくれるよう求められた。  大灯台の島の竹綿も貴重な布だし、逆にこの地域の樹皮布と、赤い染料が取れる木でもいい取引になる。  アロンドはまた小さい息子や子供たちに振り回されながら、一行を率いて森の中の道を進んでいく。  南下すると、しばらくとても急峻な山道が続く。魔物に近い野獣も多く、かなり危険な道になる。  リリルーラで〈ロトの民〉の騎馬隊を呼び寄せ、替え馬多数とともにまたがると、一気に旅ははかどるようになる。  いくつか優れた鉱山があったが、それゆえにひどく汚染された水もあった。また人のいない温泉もあり、そこで皆でゆっくりできた。  山を下ると深い森がまた広がるが、街道がしっかりしている。  山から、南側に広い湖とそれを覆う森が見える。  湖のほとりには、かなり大きな、比較的新しい町がある。木造の急増家屋が多く、賑わっていた。 「新ベラヌールにようこそ」という言葉に、アロンドは驚いた。  残念ながら山彦のこだまは返らない。 〈ロトの民〉の商人や、〈ロトの子孫〉やガライ一族の、アレフガルド外探索組は知っていたことだったが、ずっとアレフガルドに閉じこめられて育った〈ロトの子孫〉には馴染みのない話だ。  湖の南には広い広い平原が広がっている。  牛に似た角のない獣の群れが駆け、それを牙の長い肉食獣や下位の竜が襲っている。  湖の恵まれた水利・水運・漁業があり、そして広い平原の動物という獲物もある。  魚や肉に恵まれた料理は素晴らしく、また山や北の、ほこら近くの森ではよい香辛料も得られる。とても料理がうまい町だ。  悩みの種は鉄不足で、アレフガルドやムーンペタとの交易がしにくくなったのが大変だそうだ。  アロンドたちが、ルーラで担いできただけの釘や斧頭、鋸などに、皆が大喜びし、よい皮や毛皮をたくさん売ってくれた。ちなみにその鉄製品は瓜生が出したものではなく、アレフガルドやムーンペタで作られたものである。瓜生が出した品に頼ると、土着の産業が衰退するため、自粛するときはする。  年代は若いし、何かが違うが、銘酒メロワインにとても近い味の酒もあった。 「ベラヌールに何が起きたんですか?」 「多分、あの旅の扉の封が解けたんだろうな。ロンダルキアだろう、とにかく半分近くは死ぬ、よりもっとひどいことになってる」  人々はその話はあまりしたがらず、強烈な恐怖が見られる。  アロンドたち、〈ロトの子孫〉は、故郷を追われ家族を失う恐怖と悲しみは、いやというほど知っていた。 「どんな要求なんだ?」と聞くが、それはまるっきり分からない言葉のように、聞いた人々は感情に胸をかきむしる。 「すまない、だが私たちもよくわかっているんだ。勇気を持って立ち向かわなければならないことも!」アロンドが真剣な目で向き合う、それに傷つき怯えた人が、混乱して苦しむ。 「すまない」と、アロンドがムーンペタ産の蒸留酒をさしつける。 「あ、ああ、ムーンペタの酒だな。昔は、海からいくらでも入ったんだがなあ」 「これ以上は、無理には聞かない。行って、この目で見てくる」というアロンド。 「やめろ!あの街に近づいて、帰ってきた人なんていないんだ」何人かが叫ぶが、 「私は竜王の城からも生還した」そう、笑うアロンドに、絶望と恐怖に惑いながら人々は魅せられる。  彼が掲げる竜王の牙、そして屈強な人々と多くの竜馬に、かすかな希望すら生じる。  平原の東を覆う、広く低めの山々を抜けると、小さく本土につながった細長い島があり、それが橋のようになって南ベラヌール大陸に抜けられる。  その島も充分に大きく、多くの人々が暮らしていた。  やはりベラヌールから逃げた人々が多く、だれもがベラヌールを恐れている。  島から出ると、まばらな草と潅木が茂る、かつては豊穣だったが乾燥しつつある丘陵地帯が広く広く広がっていた。  そのところどころにあるオアシス、遠くの山から水路を掘り、それで豊富な農業をしている。  高度な水路の技術は、〈ロトの子孫〉にとってはこれ以上ないほど興味深いものだ。  そして、その砂漠で水を得たときの豊穣!〈上の世界〉の、勇者ロトが愛したイシスの豊穣を思わせる。  その、砂の中を這うつる、灼熱の日光を浴びたみずみずしい葉の陰の、大きく房をなす青い実からできる酒精強化酒こそが、世界に知られる銘酒ベラヌールのメロワインなのだ。  砂漠の中央は巨大な果樹園で、かなりの規模のオアシス都市となっている。そこに、ベラヌールから逃げた人々が一番多くいた。  ガライ一族の吟遊詩人もいて、かなり詳しいことを教えてくれた。  竜王が出現した前後に、死人が起き上がり人を襲い、また封じられた旅の扉からおぞましい魔物も多数出現したという。 「ロンダルキアと言われていますが、それも詳しくは。それより、竜王が倒されアレフガルドの封印が解けたのですか、なら一度ガライの街に戻らないと」と、その一座はあわただしくキメラの翼で跳んだ。 「まあ、見てみるのが一番いいな。その前に、ここと交易しておくか」と、ルーラでアレフガルドや大灯台の島と連絡を取り、四人で持てるだけの荷物を持って、砂漠の人々と売り買いをした。  アレフガルドの品そのものが貴重で、とても喜ばれるのはいつものことだ。  そして、その広い宿に、次々と客が増えていく。街の外の砂漠にも、何百頭もの竜馬と天幕。次々とルーラで集まり、また大型船でガライから海岸に乗りつけ集まるロト一族。  海岸側、南東側は広い草原や耕地、南には森も広がり、それだけに人口も多い。たくさんの人々が集まっても、問題なく食糧を買い宿で休むことができる。  街の人々が怯えるより前に、アロンドがベラヌールを指した。 「ベラヌールは我ら勇者ロト一族が救ってみせる!」その叫びと共に、多数の騎兵と、大型の盾と長剣を構えた戦士たちが湖に突進していった。  何人か、若い砂漠の民が叫んだ。「われらが故郷は、俺たちで取り戻す!よそ者に負けるな」  大喜びで、アロンドたちのスピードにおいていかれながら、ついていく人々。何よりも、アロンドが放つ雰囲気に魅せられて。  砂漠と草原を分ける境界、広大な湖の中央の島は、繁栄を極めるこの大陸最大の都市だった。  だがそれを覆うのは、アロンドたちには見慣れ嗅ぎなれた魔の気配。  それを、切り崩された橋、広く腐った塩水がかろうじて内にとどめているが、それもいつあふれ出るか…… 「いくぞぉ!」  アロンドの号令、同時に手甲に覆われた右拳を天に突き上げる。稲妻!  雷神剣。勇者ロトがいくつも手に入れていた、その一つを瓜生がムーンブルク近くに隠していた。  閃光の嵐が瞬時に、白銀色の刃と固まり、右手の延長のように伸びる。手を開けば刃は霧散し、銃の扱いを全く妨げない。  道具として命じたときの攻撃力も、最上位呪文に匹敵する。勇者ロトが、アレフガルドの過酷な戦場で長く愛用していた。  いつもアロンドの背を守っているサデルは、子の病気があって今回は休み。かわりに、普段はアレフガルドのある廃村を再開拓している、サラカエルの妻でもあるムツキという女がつき従っている。  彼女もアロンドと共にガライの墓の試練を受けた、優れた武闘家だ。ジパングの血が濃い、黒髪黒瞳の美女である。  入った瞬間、「血」「のうみそ」などとだけおめく、飢えた腐った死体が襲う。  それを、まずアロンドの雷神剣から放たれる雷炎が焼き払う。  その影から襲ってきた、象の巨体を持つ不気味な色の猿に、ムツキが一瞬でとびこんで鮮やかな螺旋で鉤爪をかわし脇に一撃。拳と共に走る閃光、命中した周囲が瞬時に光を発して溶け崩れる、その時にはもう膝にもう一撃、動けなくなる。  そこに、〈ロトの子孫〉の銃弾が注がれ、頭をぐちゃぐちゃに粉砕されて行動を止める。 「焼き尽くす!離れろ」瓜生のメラゾーマがその体を焼き尽くした。  気がついたときには、膨大な大軍が襲いかかろうとしている。 「騎兵は後退しろ!ゴッサ、後は任せる。盾を持つ者は守りつつ順次後退」アロンドの命令。  銃弾の嵐が膝の高さを切り刻み、時に上昇しようとするバピラスの類は呪文と銃弾が撃墜する。  そのまま、固まった徒歩の集団がゆっくりと後退し、砂漠に歩み入る。  追って伸びた敵を分断するように、〈ロトの民〉の騎兵が剽悍な声を上げ、襲いかかる!  スピードと高い機動性、敵の炎や呪文の射程をかすめつつ、鉄槍の雨が次々と、空から敵を貫く。 「ウリエル!」  アロンドの叫びを、上空からAC-130ガンシップの轟音がかき消す。  魔剣の力で空中にルーラ、その場で巨大な改造輸送機を出すと同時にドラゴラムの変形呪文で融合。動物が教えられなくても走るように、竜の魂がその体の一部として、エンジンとラダー、多数の武装が兵員なしで使いこなされる。必要なところに弾薬や燃料が出現し続ける。  左旋回しながら、二門の20mmバルカン、ボフォース40mm機関砲、105mm榴弾砲が次々に火を吐き、不死の兵団に着弾する!  その破壊力は、ゾンビであろうと何であろうとお構いなしだった。  恐怖を知らない不死者の敵より、味方のほうが恐怖は大きいかもしれないほどだ。 「ここだ!振り返れ、突撃いいいいいいいいいいいっ!」  その爆音すら貫いて響く、アロンドの叫びと雷鳴。全員が、出会ったばかりであるベラヌールの民までが、その命令に瞬時に服する。  激しい戦いの渇望と、圧倒的な悦びが全身を満たす……そして、爆発的な活力となり、砂漠の土を蹴る足に力がこもる。  心も体も天を駆けるような。 〈ロトの子孫〉の剣と銃が、〈ロトの民〉の馬蹄と刃ブーメランが、ベラヌールの勇士が振るう大金槌が、腐った死体の大群を次々と粉砕する。異臭も恐怖も、すべてが心から消し飛ぶ。  その先端にいる、アロンド。乱射する銃が味方を助け、自らに迫る死体があれば瞬時に銃を腰の袋に差し、突き上げた拳に稲妻が凝って剣刃となり、敵を一撃で屠る。  盾と長剣を持つ異形の骸骨が、瞬時に両断される。  魔法を使おうとする奇妙な目玉も、マホトーンで魔法を封じられて撃ち抜かれる。  そしてムツキとアダンが、その左右を守り戦い続ける。  ポニーテールにまとめた美しい黒髪がひらめくと、螺旋を描く手から白い閃光が走り、敵が次々と溶け崩れる。  アダンの巨体がひときわ大きな竜馬の鞍にそそり立ち、幅と高さ5cm、長さ5.5m、重さ30kg以上の鋼鉄レールに握り皮を巻いた、常人にはハイクリーンすらきつい代物が隆々とした筋肉の躍動とともに軽々と振るわれる。イノシシの頭を持つ、巨大なオークのゾンビが、駆け抜けざまのバットスイングで槍ごと両断され腐った挽肉と化す。  ゴッサに指揮された騎兵たちは一つの生き物のように、敵を蹂躙しては離れて鉄槍の嵐を放ち、凄まじいスピードで離れると別方向から襲う。  鎧は軽く動きやすい皮衣だが、魔力で鋼の鎧並みに強化されている。長い三角形の頑丈な盾と、身軽さによるスピードこそが防具。  魔力のこもった投槍具で加速された槍の威力はバブーンやオークの巨体をやすやすと串刺しにする。  竜馬が疲れれば替え馬に乗り換え、恐ろしい速さで走り続けながら鉄槍を雨と降らせる。  接近すれば魔力で手元に戻る刃ブーメランの旋風が吹き荒れ切り刻み、ぶつかれば巨馬の体当たりや蹄、突進力を乗せた長柄剣や槍で蹴散らす。  瓜生は人間の姿に戻り、味方が危ないときに出現しては両手剣を軽々と振るい敵を切り捨て、礼も聞かずにかき消えては補助呪文を唱える。ゾンビに噛まれ感染した負傷者はホイミのみならずシャナクで浄化する。 〈ロトの子孫〉のほぼ全員、そして〈ロトの民〉も多くは魔法使いであり、スクルト・ピオリム・バイキルト・フバーハで強化され、傷つけばベホイミやベホマで瞬時に癒される。  ベラヌール周辺に逃れた人々には、神々に見えた。  見ただけで悲しみと恐怖にすくむ、そして常人の何倍もの力があり痛みも死もない腐った死体を、麦でも刈るように刈り倒していく美しい人々。  騎馬を率いるゴッサは、背こそ低いが凄まじい迫力と指導力で、アロンドの指示を待たずに群れを一つの生き物のように操り、アロンドが必要なところを襲う。まるでアロンドの、もう一つの離れた手のように。  盾と剣を持つ人々は剣技にも優れ、多くは優れた魔法使い。何人かが剣を呪文と共に使うと、刀身が紅く燃え石肌の魔物もやすやすと切り裂き、柄から放たれる魔法の火球がまだ動く腐った死体を灰に焼き尽くす。  彼らの持つ奇妙な武器が火を吹き雷鳴とも思える音を放つと、遠くの敵が次々と崩れ落ちる。不死の動く骸でも膝を砕かれれば、もはや歩くことはできず焼かれ葬られるだけだ。  素早く陣の乱れに走りこむ、素手軽装の戦士たちの手足は当たれば光を発し、強靭な魔体が溶け崩れる。  そして時々、奇妙な大鳥が天を舞うと、凄まじい爆発が次々と生じ、人間の何倍もある巨獣やそのゾンビすら粉砕するのだ。  その全てを率いる若き勇者アロンドは、ベラヌール勇者隊も優しく鋭く叱咤し導き、多くの使者と常に話して陣を自在に操り、最前線では常に雷鳴をひらめかせもっとも強大な敵をこともなく斬り捨てる。神々しいまでの美しさと迫力が、その背から稲光の翼のように輝いていた。 「出た連中は片付いたな」アロンドが勇士たちを振り返り、微笑む。  腐汁にまみれた、凄まじい姿。 「全員、今日は休むぞ。体を清潔にしてゆっくり休め。勝利を!」アロンドの声に、誰もが万歳を絶叫する。  アロンドの目に瓜生はうなずき、瞬時に膨大な鉄塊で壁を作って皆を守る。  塩湖の水を調べてうなずきかけ、何人もの人々が素早く粘土を運んで土を固め、そこに塩水を引いて小さな池を作り、火炎呪文で加熱した岩を放り込んで即席の風呂にし、皆が入浴して全身にこびりつく汗と腐肉、魔血を落とす。  そして豪快に、瓜生が出した大量の肉やパンを焼いては食い、塩と蜂蜜を混ぜた水を飲み、一口だけ強烈な蒸留酒を飲んで、歌い騒ぐ。  何人かの軽傷者が、油断なく機関銃を手に壁の隙間から周囲を狙い、残りの者は充分に暖かいよう、持ち歩ける軽い毛皮にくるまって砂漠に眠る。  水から離れたところにテントを張ってトイレとし、そこでは草の葉で身をぬぐい、蒸留酒で手を洗うよう準備されている。  街と変わらず清潔に暮らせるよう、瞬時に準備するロト一族の周到さにも、ベラヌールから逃れた勇士たちは驚嘆した。  そして、清潔に身を清めることをしてしまうと、水の都ベラヌールでの暮らしが強烈に懐かしくなるのだ。 「つれえんだよ、舷側から尻を出し、波でちゃぷちゃぷ洗う清潔が、砂町での暮らしにはねえんだ」 「それはきついよなあ。風呂なんて贅沢、砂漠の町では難しいだろう。私もアレフガルドの、砂漠の町ドムドーラ出身だからよくわかる」アロンドが、一人の勇士と暖かく酒を酌み交わす。 「まあ、砂で体や服を洗うことはあるけどな」 「それに、湿度の低い砂漠の住民は比較的清潔だ。伝染病も少ない」と瓜生がつけくわえる。 「またきれいな暮らしをするためにも、ベラヌールは取り返そう。明日は市街戦だ、今日のようにはいかない」 「あれだけ強いのに?」 「竜王の軍勢との戦いでは、アレフガルドの貴族と傭兵の軍では魔物の幻に翻弄され、圧倒されました」目が据わっているムツキが言い続ける。「ですが、〈ロトの子孫〉なら魔法戦闘では互角。でも軍を打ち破ることはできても、竜王と戦える勇者がいなければ次々と新手を繰り出す魔軍相手にはジリ貧になるだけ。だから軍を組織しての集団戦はせず、一人でも逃がし守る撤退戦に徹したのです」 「酔ってるだろ、ムツキ。一杯だけって言ったのに、明日に響くぞ」アロンドが言い終える前に、彼女は眠ってしまった。 「やれやれ」アロンドがため息をつき、ムツキに毛皮をかけると、自分は離れてまた男たちの間を回る。  アロンドは戦いながらよく見ていた。一人一人、まるでずっと隣で戦っていたような気にさせた。一番欲しい褒め言葉をくれ、肩を叩いてくれた。  特にベラヌールから逃れた勇士たちにとって、報酬はそれだけではなかった。  何より、卓越した医療技術。  戦いで傷ついた者は、単なる怪我でもガス壊疽や破傷風で、手足を切り落として助かれば幸運。まして動く死体に噛まれれば自分も同じようになるのが常識なのに、アロンドが率いる戦士たちの多くは優れた軍医となって針一本刺せば痛みは消え、傷口を切り裂き洗浄すれば熱も出ない。  そして動く死体に噛まれた者も、皮ポンチョの男やその周辺の彼から教わる男女の、きわめて高度な魔法により次々と助かる。  重傷者は集めて、アロンドの呪文で瞬時に全員が全快する。  そして、かつてのベラヌールに匹敵する多様な、強烈な蒸留酒や芳醇なワイン、甘い貴腐ワインにいたる多様な酒、さまざまな菓子と肉料理もふんだんに提供され、快適で清潔な寝袋とテントが配られる。 「メロワインほどじゃないよな、このポートってのも」 「似ているけどかなり違う、マディラ?」 「トカイ・アスー・エッセンシア、これはまた強烈な甘味だが。どうやって作ったんだろう」 「いや、あんたらのところのメロワインだって素晴らしいよ。これからも取引したいし、またベラヌールが復活したら、楽しみにしてる」 「またこの、ナポレオンって酒はそれからも欲しいな」  空の星を見て、夜が明ける直前にアロンドが目覚めた。  周囲の勇士たちが相次いで目を覚まし、静かに朝の支度をする。  瓜生の出した大量の食料と燃料を配給する。地面に穴を掘り、別に空気が出入りする穴を掘って鍋を吊るしているので燃料効率もよい。その配給組織を作るのも、前のムーンブルクでの穴掘りの経験もあり手馴れたものとなっている。  やや煮すぎのマカロニに、チーズ・蜂蜜・クルミ・レーズン・ニンニク・オリーブ油を好きなだけ。  腹ごしらえし、トイレを済ませて埋める。  全員がアロンドを見る。 「今日はベラヌールに突入する。  未確認だが、生きている人がいるという情報もある。遠距離攻撃は必ず確認してからすること。  市街戦では騎馬隊の能力は半減するから、いつでも突進できるよう待機、剣術に優れる者や魔法使いは、馬から降りていいなら加わってくれ。連絡や物資運搬に、多少騎兵も必要だ。  歩兵は四人一組。ベラヌール勇者隊も道案内として加わってください。  全員、一日分の食物と水、医薬品を確認。行動準備ができた者からこの線を越えて集合」 〈ロトの子孫〉の、竜王軍との、特に洞窟や廃墟での戦いで磨かれた四人一組。  大半が勇者の血を引き、剣と魔法を共に使える者も多くいる。専門の僧侶や魔法使い、武闘家もいる。  必ず回復呪文を使える者を後方に置いて指揮させ、盾と剣の戦士が前面にいる。  その二人以外はさまざまだ。  そして、一番前の戦士以外は銃も持っている。それも瓜生から豊富な弾薬や焼夷手榴弾を与えられ、ラファエルの怪力を継ぐ者はKord重機関銃を前から訓練されているし、AKと操作が同じサイガ12散弾銃を持つ者も多い。  アロンドたちが大灯台の島に来てからは、〈ロトの民〉の多くも銃器の訓練を受けている。  アロンドは頑丈な盾を手にしたアダンを前面に出し、ムツキと、ベラヌールの元長老の息子ゲテアを加え、騎馬のゴッサを連絡将校としてそばに置くことにした。 〈ロトの民〉も、ああいわれて引き下がる連中ではない。皆が剣や魔法に優れている、と主張し、愛馬から降りても志願した。  逆にゴッサが、馬群を率いて待機する側を選ぶのに苦労したほどだ。  湖の中央、大きな島に向かう細い道をなす陸に、瓜生とジジがまず先行して罠を解除してあった。  そこに、徒歩の兵団が押し寄せ、かつては華麗な水上都市だった廃墟に、次々とトベルーラを使う魔法使いが飛び、四つ爪錨を壁に投げる。  爆薬に砕けた門から、まっさきにアロンドたちが侵入し、同時に腐った死体の出迎えを受け、銃声と呪文が咆哮し雷電がひらめく!  アダンの盾に、恐ろしく太っているが機敏な骸が激突し、彼の巨体が衝撃を受け止めた、瞬間にムツキの拳が輝くと巨体の上半分が溶け崩れる。  遠くから襲うもう一人の膝、そして空を飛んで襲ってくる、翼持つ人のような魔物をアロンドの銃弾が貫き、めげずに襲うのを雷神剣が貫く。  複雑な回廊、壊れかけた船がつながった街。重い鎧を着て海に引きこまれ、瓜生の助けがなければ確実に溺れていた者もいる。 〈ロトの民〉の刃ブーメランも、狭い廊下ではほとんど使えず近接格闘を強いられる。だがみな竜馬を下りても長剣の腕も優れ、刃ブーメランの幅広く重い刃は近接戦闘でも充分に威力があり、素手の技も全員学んでいる。また新しく支給され、習い始めた銃も使って戦い続ける。  特にサイガ12の、スラッグやOOバックショットの連射は凄まじい威力で、三発もぶちこめば太った死体の上体がなくなる。AK-74やRPK-74の取り回しのよさと集弾性能、そして腕や足を吹き飛ばす鋭い威力もあちこちの廊下で確実に発揮される。  そして、あちこちの閉ざされた、小さな要塞に生存者が見つかる。 「撃つな、生きている人間だ!助けに来た」 「あなたは」 「前長老の息、ゲテアだ!アレフガルドの、勇者ロトの子孫アロンドさま。レオル、生きていたのか……」 「あ、あなたは」 「他の生存者について、教えてくれ」  アロンドの声に、やつれはて垢にまみれた男が泣き崩れ、あちこちを指差す。  襲う、恐ろしく動きの早い翼を持つ人と、そして首のない斧を持つ巨漢。  巨漢とアダンが一瞬力比べになり、拮抗している間にアロンドの雷神剣が巨漢を十字に四断。  そして生存者を襲おうとした翼の人を、それ以上のスピードでムツキが蹴り倒し、超高速の格闘戦から光の拳が奔る。  飛んでかわそうとした、その翼はアロンドに切り落とされており、足を溶かされてうめくのを銃弾がずたずたに撃ちぬく。  直後に出現する、顔がなく金属質の奇妙な人型の姿が高速で襲う、それをアロンドとムツキが、ともに劣らぬ速度で剣や拳をかわし、吹っ飛ばしたところをゴッサの巨馬が、報告ついでに踏み潰す。 「地図の、このあたりは制圧したそうだ。死者はない」 「わかった。生存者を乗せて陣へ」 「承知」  そのまま、十人以上の生存者を二頭の巨馬は軽々と載せ、馬を下りて短い脚で走るゴッサについていく。 「ありがと」 「まだ、始まったばかりですよ」アロンドが厳しくゲテアと、生存者の一人を連れてその案内で、複雑な地下回廊を歩き出す。  突然出現する、魔物の鋭く高速の刃がアダンの盾を叩き、押し返され、飛び下がった瞬間銃弾を浴びる。  いつしか、目的はロンダルキアに向かう、封印された禁断の旅の扉となる。  そこには、一つ目のとてつもなく巨大な人型の、明らかに生きている魔物と、犬のようにも人のようにも見える毛皮の魔物がいた。  その横に、とてつもなく巨大な蜘蛛や、いくつもの頭を持つ半ば腐った巨大蛇。 「ケッケッェ、竜王は倒れたのか」毛皮の魔物が話し出す。「光の玉の、ムカつく力がここまでも響く。だが、竜王の邪悪に呼応し封印が解かれ、多くの生贄を捧げることができた。ハー……あのお方の指揮とロト一族やラダトーム王家の生贄があれば、シドーの復活も遠いことではない」 「たくさんだ。人を襲う魔物は殺す」アロンドが戦いの咆哮を上げる。  巨人が咆哮して、銃撃をものともせず身軽にジャンプし、巨大な木の柱を叩きつけるのを、アロンドがすれすれでかわして雷神剣の刃を手から伸ばす。  蜘蛛が襲いかかってくるのを、アダンの鉄棒が正面から叩きつける。  巨大な蛇の、恐ろしく機敏な動きをムツキが、丁寧な足つかいでむしろゆっくりと螺旋にさばく。  毛皮の魔物の前に、いつか瓜生とジジがいた。 「授業中なんだけどね」 「おれもだ。ま、さっさと済まして学校に戻ろうか」  微笑みあい、ジジと毛皮の魔物が次々と呪文を唱える。  マホトーンの応用が世界を塗り替える。  瓜生がメダパニで混乱させられ、ジジに銃を向けた、と思った瞬間、混乱した瞳のまま瓜生は正確な動きでデビルロードを撃つ。  デビルロード自身は、別の虚空に爪を振るった。 「先に魔法をかけておいたのよ、混乱したら決められたとおりの動きをする。あんたが見てるのも、幻」  ジジが笑いながら、メラゾーマの火球を、まったく見当違いの方向に放つ。 「そこ!」  その、何もなかったところが燃え上がる。正気に戻った瓜生が、ヴィーゼル空挺戦車を出すと飛び乗り、20mm機関砲の凄まじい火力を叩きつけ、魔物の形のない本体が絶叫を上げる。 「あぶない、メガンテ」  ギリギリでジジが唱えた呪文に、自爆による闇の嵐が封じられ、消え去る。 「うかつに攻撃するなんてバカ?」 「助かったよ」瓜生は一々反論しないでジジの頭を軽くなでる。 「子供扱いしないでよ!」 「ごめん」  一方、アロンドは燃え上がり断ち切られた巨木の一撃をかわし、巨人の腹を雷光の刃でえぐった。その太い毛に左手でしがみついたまま、刃を霧散させて銃を手にし腹の傷に突きこみ、フルオートで7.62mm×51NATO弾を二十五発ぶちまける。  そこに、瓜生の方からも機関砲弾が数発正確に命中し、大量の肉を吹き飛ばす。  絶叫して暴れつつ倒れたかに見える巨人。だが、アロンドは気を抜かず弾倉を交換し、雷神剣を構えなおす。  巨人はみるみるうちに姿を変えていく。五メートルはあったのが、せいぜい二メートル程度に。一つ目のおぞましい顔はそのままに。恐ろしいほど引き締まった、鋼を思わせる肉体美。両手には日本刀に似た、見ただけで吐き気がするが限りなく美しい、同じ長さの刀が一振りずつ。 「破壊の剣」  ジジが声を呑んだ。  そして、むしろゆっくりと、鋼の剣士が体で圧力をかけ、両手で斬撃と突きを繰り出してくる。 「悪魔の騎士以来か、これほどの腕と戦うのは……巨人よりこちらの方がずっと怖い」大きく飛び下がったアロンドが強く警戒しつつ、そして楽しげに銃と盾を置き、無造作に歩み寄る。  凄まじいスピードでの突きを、鋼の剣士が紙一重でかわして双剣を十字に振るう、その余波だけで壁の巨石が粉々に砕ける。  それから、凄まじい速度で動きながら、互いに強烈な一撃を、何十度も打ち合う。回避は最低限、むしろ相打ちでも渾身の攻撃を当てることしか考えず。 「すごい、一発でも」  余波だけで岩壁が、石の家が吹き飛ぶ威力に、ジジが驚く。 「アロンドも〈竜王殺し〉、神殺しだ。あの敵も神々のレベルだな」瓜生が巨大な鉄の塊を出して、ジジやムツキを守る。  蜘蛛の巨大な爪をこともなげにかわし、ジジと共に消えてすぐそばに出現する。 「人間、いや巨大な獣でも、あの一撃で即死するだろ。でも、神々としての力を瞬間的に生命力にして、ベホマを使う余裕を作り、何十度も打ち合える」 「あんたも、それに近いことはできてるじゃない。大魔王殺し、神竜倒しなんだから」ジジが文句のように。畏怖をわずかに声ににじませて。 「ミカエラのおまけでしかないよ」  どちらかの神力が先に尽きるか、そしてどれほど攻撃に徹し自らの体と武器を使いこなすか。  どちらの動きも美しく、無駄がなく正確だった。 「あそこまでとはね、アロンドの才能はカンダタに匹敵するかも。素晴らしいダンサーにだってなれる」 「ミカエラの再来としかいえないな」瓜生が苦笑する。「ま、他のみんなもすごいけど」と、キアリクを唱えてやり、毒に麻痺したムツキを癒す。  体が動くようになった彼女は、髪一筋切らせて飛びこみ前転で足の間を抜け、両手で巨大蜘蛛の腹に光を叩きこんだ。 「心のない、虫なのね。それは強みであり、弱み」ムツキは感情を殺して言うと、その恐ろしい速度で襲う爪と牙を紙一重でかわし、螺旋にそらして攻防一体の一撃を急所に叩きこむ。  アロンドと、鋼の剣士の戦いは短くも終わろうとしていた。  全身の力を抜き、柔らかく、それでいて重い突きが双剣を縫って鉄体をぶちぬく。完全に体全体で。  声にならぬ声。アロンドの咆哮と共に、宙に舞った右腕が風車のように回転し、全天を埋め尽くすような雷が唐竹割りに、まさに稲妻そのものとして叩き落ちる。  鋼の人型が消えうせるのを見ることもできず、アロンドは力尽きたように倒れた。そこに瓜生がベホマをかける。  その、消えうせた人型の跡に転がっていた一振りの刀を瓜生とジジが拾い、何かいじると、そのまま地面に放り捨てた。  巨大な、半ばゾンビ化した多頭大蛇と戦い続けているアダンに、蜘蛛を倒したムツキと回復したアロンドが駆け寄った。  右腿と左半身を巨大な牙に噛まれ、どす黒く毒に犯され、普通なら死んでいる状態なのに阿修羅のように抵抗を続ける。  その胴に、長大な首の一つが巻きつき、締め上げる。そして別の首が左足に噛みつき、ワニが回るようにまわりちぎろうとする。  生者とは思えぬどす黒く弾けた顔で声も出ず、それでも抵抗し続けるアダン、そこに二発の閃光。  アロンドの雷神剣が胴を締め上げる首を破裂させ、ムツキの拳が足にくらいつく首を溶かす。  瓜生のショットガンから放たれる短距離メドローアがアロンドを襲おうとした首を消し去り、ジジのヒャダインが唱えられるとヒドラゾンビの全身が、内部から凍結し砕け散った。  倒れるアダンに、アロンドのベホマと瓜生のキアリーがかかる。 「後送」と、報告に駆けつけたゴッサに巨体を託すと、旅の扉の前で呪文を唱えている瓜生とジジに合流する。 「力を、こういうふうに」ジジが特殊な編み方を見せる。彼女自体にはできないものだ。「出して」 「ゲテアさん、この街への愛情と、失われた命への怒りを魔力にしてください」瓜生が編み方をやってみせる。  アロンドが手を天に掲げ、稲妻の嵐を巻き上げながら、複雑な呪文を唱え始める。  瓜生は旅の扉の周囲に、魔法円を丁寧に描き、アロンドが吹き上げる力を収束させる。  アロンド・瓜生・ジジ・ムツキ、ゲテアが、力の場を保ちつつ光を集約する。 「ミナカトール」  瓜生の呪文と共に、光の嵐が一点に集約し、旅の扉を封じていたダメージ床と壁、鉄格子の扉が再び形になる。  その壁の、崩れていたレンガ一つ一つに、各地の塔と同じ太古の呪紋が浮き上がる。崩れてはいるが、一つ一つのレンガは傷一つなく形を保っており、再び積みあがって組み合わさる。  五人とも、力尽きたように崩れ、激しく息をついた。 「ちくしょう……」目覚めたアダンが慟哭し、全身を襲う凄まじい苦痛に絶叫した。 「力が欲しいですか?」と、かたわらにいたハーゴンが、アダンの目をのぞいて気持ち悪く笑う。無人の病室。「アロンドさまだって、あんな素晴らしい剣を持っているから強いんですよ。先ほどの敵から手に入れた剣ですが、使ってみますか?アロンドさまのように強くなれるかもしれませんよ」  と、言って日本刀に似た剣を差し出す。こうして見ると、日本刀より幅はずっと広く掌ほどはある。何でできているのか、見ただけで心に秘めた最悪の何かを暴かれるような、吐き気がするような複雑な暗色、ところどころの刺激的な原色。汚物や内臓、激しく流動するスラグを思わせる。  その広い刀身のどこにも、ダマスカス鋼や日本刀のような調和や秩序はない。刃そのものも見れば不定形に近い、多くの直線や曲線で構成されているし、常に形を変える。 「う」硬直したアダンに、ハーゴンがささやき続ける。 「これは最高の攻撃力を誇る剣です。今のロトの剣なんかより、ずっと。これさえ手に入れれば、アロンドさまはもっとあなたを認めてくれるでしょう。あなたはとても強い、特別な戦士なのですから」  そして、巨体の傷ついた男が、悲しむ子のような表情で剣に触れようとした……人の気配を見、瞬時にハーゴンの姿が消える。 「手にするがいい」  と、瓜生。  激しい苦しみにもだえた。瓜生やロト一族が繰り返しキアリーやより高度な呪文をかけても、全身の細胞に染み入った毒と呪いを治療しきることができない。 「ウリエルさま」アダンが手にしようとした破壊の剣を、老いしなび、一生働きぬいたことの分かる手が、ひょいととりあげた。 「シシュンさん!」瓜生が叫ぶ。 「ほれ、ここを持つんじゃ」シシュンが、剣の柄の余った部分をアダンに握らせる。どす黒く染まる肌に、奇妙な生気が通い始める。  そして、シシュンの恐ろしいほど老いてはいるが、背筋の伸びた気品のある体に、凄まじい邪悪な気配が駆け巡る。 「ウリエルさま」と、彼女がアダンの胸をなでながら、瓜生を見た。その目は、もう蛇のそれに変わっている。 「破壊の剣は呪われた魔剣。その力で命を長らえても、魂そのものが食い尽くされ、これを渡した誰かの操り人形となる……でも、剣にあなたが瑕を入れていて、アダンが操られてアロンド様を裏切る瞬間死なせることができる。違いますか?」  瓜生はうなずくしかなかった。 「小さい小さい頃、ジジさまにデルコンダルから逃がしてもらってこの島で、百年以上幸せに暮らしてきました。満足しています。そしてこのアダンは、ひ孫たちの中でも、一番バカで、伝え聞くカンダタそっくりで、特別に可愛い子なんですよ」  瓜生が、罪悪感の表情に打ちひしがれる。(助けられないんだ、せめて)言い訳を口にするのは抑えた。 「いいんですよ。賢者さまは、魔法使いは、いつもクールであれ、です。クールに、戦いを後ろから見て。でも、この子のかわりに、わしが死ぬのは、さしつかえないでしょう?」  と、シシュンが笑う。 「わしもカンダタの娘、それなりの魔力はありますよ。修行もしてきましたしね。でも寿命はもうほとんどない、だから剣の呪いはわしの魂を食えばいい。そしてこの子はわしの生命と剣の力で、せめて自分の意志で生きられるよう」  そういうと、凄まじい魔力がアダンに注がれる。メガンテと同様の。  二人で握っている破壊の剣がゆらぎ、アダンの体に入りこみ消える。  シシュンの目が突然暗くなり、全身の皮膚が一気に変色し、体全部が奇妙な色の粉と化して崩れていった。  最後の最後まで、笑顔のまま。  瓜生は、罪悪感に打ちひしがれつつ、ニフラムで危険な呪いに満ちた粉を消し去った。  補佐していた医者や魔法使いたちが駆け込み、瓜生とアダンを怯えた目で見ていた。  アダンは、皮膚が変色したまま眠り続けている。深く、何日も。  ゴッサが渡す何通かの手紙を読んだアロンドが笑顔で、ゲテアに読み聞かせる。 「南の船上都の掃討はほぼ完了。魔法で封じた大型船の倉庫で、二十人が生きていた」 「中央牢獄にたてこもっていた三十四名を説得、周囲をうろついていた死人を焼く」  ……あちこちで、戦いが終わり生存者が生存者の居場所を指し、ベラヌールの街の安全域が広がっていく。 「む」アロンドの顔が引き締まる。 「どうかしましたか?」ゲテアが、すっかり恐れ入った表情でアロンドを見る。 「周囲の、ベラヌールから逃げていた人々が、別に武器を取って押し寄せてきている」  ゲテアの表情がぱっと輝くが、アロンドは厳しい表情のままだ。 「危険ね」いつしか、ジジとハーゴンが傍らにいた。 「危険です。そのような、こちらの勝利を見て日和見する、しかも大衆。解放は彼らの手柄とされ、われらは悪とされかねません」ハーゴンが熱っぽく言う。 「そうだな。しかし妙に動きが早い……」一瞬考えて、目を上げ「ゴッサ、ロト一族を集めて、いつでも撤退できるように」  ゴッサは無言でうなずき、凄まじい速さで竜馬を駆けさせる。  アロンドは静かに山彦の笛を吹く。こだまは返らず、ただ音色は消えた。  静かに天を見つめたアロンドは、軽く足で地面にハーケンクロイツを描いて踏み消し、ハーゴンの背をにらむと広場に向かった。  素早くロト一族が集まっていく。 「あ」ゲテアが、アロンドに目を向ける。ゾンビと戦い続けている義勇隊は、今も血に酔って蕩けた目をしている。 (どうする?成り行きに任せたら、ロト一族まで争いに巻きこまれる、それが最悪だ。  ベラヌール勇者隊の側につくと余計な恨みを買うな、戦友だからロト一族の皆はそれを喜ぶだろう。  私たちが主導して、生存者を含めベラヌールから引き離し、折衝させるか?全員が怒るが、公平にやれる可能性はある。  ロト一族の圧倒的な力を見せつけ支配する……ヒトラーとして?バカなことを、その結果どうなる。私自身も、これ以上喜ばしいことはないがな。  このまま共に戦いつつ、新しい人も受け入れて、全員で何かを作るという実感を持たせる、アウトバーンのように。  目標を明白にしろ。街の再建・所有権・政治体制の確定・虐殺をさせないこと。  とにかく欲と戦いに酔った群衆をクールさせないと、都市攻略ほど人の魂を燃やすものはそうはない。  それに、そうだヒトラーとは別、勇者と認められたときの、新兵訓練……)  わずかな時間瞑目し、ガライの墓の底で見た、二つの別の人生の経験を噛みしめ、叫んだ。 「戦いはまだ終っていない!一時安全な地域に集合整列せよ!」  アロンドの絶叫と雷神剣が起こす雷鳴に、主にベラヌール勇者隊たちが恐怖と戦意に目を血走らせながら集まってくる。  ゴッサの号令に、集合した〈ロトの民〉、〈ロトの子孫〉もそれに従う。 「ロト一族は北方に向かえ!ベラヌール大陸のもの、生存者も勇者隊も、順次集合せよ!」  一言の反問なく、島を出る陸橋を駆けるロト一族。 「いくぞ!疲れないために、安定した歩調を保て。ベラヌールの歌を歌え」  その声に合わせ、ベラヌール勇者隊も生存者も歌いだした歌の旋律は、呆れたことにBOØWYだった。百何十年前、ゾーマを倒した後〈下の世界〉を勇者ミカエルが旅していたとき、ベラヌールの酒場で瓜生がCDラジカセで演奏しカラオケで歌ったのが大受けし、そのまま定着したのである。  まだ路地で戦っていた人々も含め、ベラヌールの人々は歌いながら歩き、徐々に歩調をあわせていく。 「なんのつもり?」突然、隣に出現したジジに、アロンドはいくつかささやいた。 「あんたも結構悪党ね、そりゃウリエルの故郷で最悪の人間を丸々ぶちこんだんだし。面白そうじゃない、いいわ。ウリエルにも伝えてくる」  ジジはさぞ面白そうに笑って消えた。  そして、アロンドのところに戻ってきた騎馬の伝令にも、アロンドは繰り返しいくつかの指示を出しつつ、メロディーに合わせ安定した歩調で歩き続ける。  大人数が、解放された故郷である廃墟を背に橋を渡り、砂漠に出る。そこに押し寄せてきていた、手に手に武器やわけのわからない道具、袋などを抱えた人々にも、アロンドが先んじて雷神剣の稲妻で轟音を放ち、瓜生に借りている拡声器で叫ぶ。 「ベラヌールのために戦いたい者は集まれ!こんなひどいことにした敵はロンダルキアにいる!ついてこい!」  と、歩調を速める。  走ると歩くの微妙な中間、歌声が出せるギリギリの速度。  それに、新しくベラヌールに押し寄せた膨大な人数も、まるで綿あめがからめ取られ膨らむように、雪達磨式に膨れ上がっていく。  戦いの絶叫が歌に集まり、歩調が合っていく。アロンドの強烈なカリスマと、群衆そのものの力、誰もが抱く怒りと欲望、戦いへの飢えに支配されて。 「あれだ!囲め!」  アロンドの叫びと共に、砂漠の砂から巨大な巨大なムカデが出現する。一本の足が巨木より長く太い。 「ひるむな!」  率先して襲うアロンド。さらに何人かの、実はベラヌールの服を着ているロト一族の戦士が立ち向かい、それに群衆も引きずられる。  ムカデの動きは鈍いが、攻撃が続けば動きが止まる。 「あっちだ!」  叫ぶ者がいて、そのままそちらに、日が落ちた砂漠が急に冷え込む中も歩き続ける。また、次々とベラヌール解放の知らせに、欲に憑かれて勇む人々が加わっていく。  今回は食事も出ない。水の持ち合わせも、あっというまに飲みつくした。  一睡もせず夜が明ける。興奮が疲労に押しつぶされる。 「砂漠の太陽は目に悪いぞ、目隠しして、布で前後左右とつながって歩け」と、目隠しで歩くこともある。そうなると、完全に見当識を失う。  丸二日、一睡もせず手持ちの水だけで、歩き続ける。疲労で体が崩れていく。  何人も落伍していく。弱いものから。だが、その落伍者は見えなくなってからロト一族に救助され、介護されてから暗黒に閉じこめられていることを、歩き続ける群衆は知らない。  三日半、一睡もせず歩き続け、やっとアロンドは休息を命じ、わずかな水と食物を配った。  実は、何度かモシャスでアロンドの姿になったロト一族の魔法使いが入れ替わって、アロンドはちゃんと睡眠・食事・水分補給はやっている。  だが群衆の睡眠は、ほんの二時間ほど。すぐに雷鳴が響き、身長の倍ほどのゴーレムが、多数襲ってくる。  ゴーレムの動きは非常に鈍く、やられることはほとんどないが、タフだ。  それに、疲労し、飢え、渇いた戦士たちは怒りをぶつけた。  終わればまた、別のどこかに走り、それが力尽きた時には倒れこみ、雷鳴に叱咤されて起き上がり、わずかな水の配給をむさぼり、重く足にまとわる砂に足を引きずり歩みだす。もはや、かつて倒した亡者たちのように。  それも、何年も前だったかのように。一体何のために歩いているのかも忘れて、ただ群衆の力だけで。  十日間。ひたすら激しい睡眠不足・飢えと渇き・単調な行進と時々の戦いは、続いた。心が擦り切れ、日にちも現実も分からなくなる。  いつしか、ベラヌールの入り口に帰っていた。  最後に、巨大な竜をふらふらになった人々が、倒したように思える。  その時だった。花火が上がり、雷があちこちに落ち、激しい音楽が爆発する。  うまそうな肉の焼けるにおい。水と蒸留酒の匂い。  ロト一族が、瓜生の出した膨大な焼けた肉と水、酒を準備していた。  ふらふらになった人々の、最後の気力が爆発する。  ひび割れた唇から血を流しつつ水に倒れこみ、飲み、食い、眠る。目覚めれば体を清め、新しい、素晴らしい着心地の清潔な衣類が配られる。  回復した肉体と精神に、激しい音楽が凄まじい音量で鳴り響く。強力なエンジン発電機につながった大型野外用スピーカーの威力だ。  それに、疲労から飽食で崩壊した心身が、激しい歌と踊りとなる。理性の薄皮はとっくに擦り切れ、最も原初的な感情に支配される。 「さあ、ベラヌールを再建しよう!」  もう、名前すら混乱している神の絶叫に、誰も疑いも考えもせず滅んだ街に向かう。並べられた工具と資材、膨大な量の布を手に。  ゾンビたちに穢された街で、群集の圧倒的な力で瞬くうちに再建のための破壊が始まる。  崩れた頭脳が、つかれきった肉体が、とにかく単純な仕事を続ける。  いくつかの、残っている率の多い歴史的な街並みは、ロト一族が作業するふりをして侵入を拒み、すぐ別の仕事が指示される。  過酷な行軍の中で自然にリーダーシップを発揮していた人が何十人か、特別に長く眠るよういわれ、そしてアロンドたちロト一族と共に建築計画を練り始めた。ごく自然にロト一族は、計画する側からそれを補佐するだけになっていく。 「私たちはしょせんよそ者だからな、この街はこの街の人々が再建する、勇者ロトは祭りから消えるだけだ」と、アロンドはロト一族に何度も言っている。  そしてロト一族は皆、充分な量の金貨や美服、書物を与えられ、またアロンドは長い時間を使って一人一人話を聞き、ねぎらった。  アロンドは皆に、望むものを与えたのだ。戦いに酔う人には戦いと指導者を、飽食するほど。勇者であることを求めるロト一族には承認を。そして、欲がある人々には……  ベラヌールの指導者たちは自然に、再建事業を進めながら土地所有権を明白にした。  アロンドたちロト一族は、ごく自然に影を薄めていた。王になってくれなどと言われる前に、砂漠の行軍で指導力のある人が集まり、集団を自然にまとめていた。  生存者たちは、自分たちが守り生きた場の権利をそのまま認められる。  勇者隊は、ベラヌールが荒れ果てる前に持っていたと主張する土地を。生存者が占有していたら、同じ面積の土地を。  後から来た人々も、荒廃以前に所有していたという証拠があれば、少なくとも同じ面積を。  面積が限られていれば、分配に不満は出て、「生存者」「勇者隊」「後から来た人々」、さらにロト一族も含め泥沼の争いとなるはずだった。  だがそれはなかった……面積は限られていなかった。  ベラヌールは、元から比較的小さい島の周囲に、多くの船を強くつないで都市としていた。  その多くは、荒廃時代に朽ち沈んでいたが、以前よりずっと多くの頑丈な木造船が、ベラヌールの南岸から押し寄せたのだ。全て瓜生が出したものである……彼の故郷にも、完全な木造船は入手困難だったが、なんとか外国語のカタログから探し出した。  アロンドがやったことは、要するに興奮し戦いに酔った、危険な群衆の膨大なエネルギーの流れを操ったのだ。群衆の結束を強めつつ心身を消耗させ、興奮を発散させ考える力を失わせ、普段は理性や思考の下に隠れている獣をむき出しにさせた。  その状態でならどうにでも洗脳できる。それこそアロンド自身を神格化することも、キリスト教やイスラム教、ナチスドイツの狂信者にすることもたやすかったろう。だがそれはせず、差別・戦闘・虐殺・破壊を望む深い感情を、結束と再建に向かわせた。  また心が壊れるような行軍を強いて、その中で集団を率いるような、さまざまな役割を果たせる人材も見出し、地位を与えた。  戦いと欲望の興奮を歌舞で爆発させ建設に向け、神話の域に属するまとまりを自然に作るのに任せた。ついでに所有権と支配階層構造も明白にしたのだ。  ガライの墓で、アロンドは勇者となる試練として一新兵としての洗脳訓練を、また後にアドルフ・ヒトラーの生涯全体を経験している。  権力を得て自らも暴走することの至福と恐怖も、人間を洗脳する技術も、彼の天才ははっきりと理解していたのだ。  ジジとハーゴンの強力な幻術……もちろん、砂漠で戦った魔物はすべてマヌーサやドラゴラムの変形、メルキドで研究されたゴーレムなどだ……それを支えるロト一族の多数の魔法使いの魔力、そして瓜生の物資と機械、またゴッサがロト一族の指揮を確実にやってくれたからこその芸当だった。  瓜生が出した軍の訓練や、新入社員研修代行業者のマニュアルを利用し、「死なない程度」を徹底したため死人も一人も出していない。  そしてジジはリレムらに、「数人に幻覚をかけるより群衆にかけるほうがずっと楽。興奮し、疲れてる集団なんて何もしなくても幻覚起こすし、ちょっとそれを制御してやるだけ。魔法が使えないあんたにだって、充分な準備があればできる。どうやるか考えなさい」と教えていた。 「危なかったよ。危なくベラヌールを解放した結果、ひどい内戦を起こすところだった」  船に揺られているアロンドが、報告を聞いてほっとする。 「見事でした」瓜生の言葉に、ローラと見つめ合って微笑む。 「これもジジやウリエル、それにロト一族の素晴らしい魔法使いたちが、強力な幻術をやってくれたからだ。それに、興奮した人の集まりが何を求め、どうなるのか……それをどのように作りかえられるか、ガライの墓で経験したからだ」  アロンドの目に、混乱と悲しみがよぎり、ローラがその手を強く握った。 「あ、その、魔法使いと言えば」と、ローラはもうかなり成長している息子、ローレルの手を握り、緊張した目でジジを見た。 「この子は魔法は使えない、ロトの血を引いているけれど」ジジが平板な表情で答える。 「竜王の、神竜の血で、人間の体で普通に魔法を使うのは無理です。神々が封じたのですよ、自壊しないように。でも、彼の……彼の子孫の肉体の力は誰よりも強く、また一つだけ魔法と自覚せずに魔法を、それも魔法剣の形で使えます……ドルオーラ。それだけで、誰よりも強い」瓜生が畏れに満ちて少年を見る。  ロト一族はそれぞれの仕事に戻り、アロンドは内海を一周した船と共に、ムーンペタに船ごとルーラで戻ってハミマを送り返し、また多くの交易で富を得、ムーンペタの有力者とも歓談し絆を深める。  ハミマがムーンブルク王宮の愚かしさを語るのに、父親のヤフマを含めムーンペタの人々は大笑いしていた。  またベラヌールの冒険と、その解放も大きいニュース。アロンドはベラヌールの新しい指導者たちへの紹介状を何通も書かされた。それを通じてムーンペタも少しでも貿易網を広げたいのだ。  ひとしきり休み、久々に大灯台の島に帰る。 「さて、次は」と海図を広げ、デルコンダル南方の、小さな島を指差す。 「ザハンですね」 「小さいが、大きな神殿があるそうだ。もっと早く挨拶に行くべきだったよ」  アレフガルド南西、虹の雫を作り出したほこらに隠された旅の扉から、炎のほこらと呼ばれる、火が燃え続けているほこらにも行く。そこもこだまは返らない。  そこからつながっている、ルプガナ北のほこらに一度行って山彦の笛を吹いたが、やはりこだまは返らなかった。  炎のほこらはアレフガルド・ベラヌール・ルプガナを結ぶ重要な旅の扉で、近くに〈ロトの民〉の祖先が流されていた鬼ヶ島と呼ばれる島があるのでアロンドたちにも縁は深い。  炎のほこらがある島そのものも豊かだ。  ロンダルキアから伸び、ペルポイを中心とする大きな半島の、その先端近くから大小いくつかの島がある。ペルポイ領である大きな島、その南の世界樹の島、小さな検疫島、炎のほこらの島、鬼ヶ島と並んでいる。  鬼ヶ島と呼ばれる、ほこらの北東の島は、かつては周囲から追放された病人が何の希望もなく人を襲わぬ魔物と生き延び、時に虐殺されるこの世の地獄だった。  だが勇者ロト、ミカエラら四人が病人を癒し、虐殺を依頼したペルポイの豪商を懲らしめて、適切な治療と検疫で病人と共存できるようにしたため、今はその豊かな地下資源や農業生産をペルポイやベラヌールと交易することも多い。漁業の島でもあり、発酵させた魚の保存食が人気だ。  大灯台の島ともルーラで行き来しており、〈ロトの民〉のうち三千人ほどはこちらで暮らしている。  その島の港にルーラで船を呼び出し、出航した。  近くにある世界樹の島に上陸する。水平線に緑の巨木が高くそびえるさまは壮観で、そしてロト一族以外には封じられている結界を抜けると、世界樹は豊かな葉を揺らし歌った。  いつしか来ていた瓜生が、静かに歌う。ここは昔、瓜生がミカエラたちと別れて故郷に戻った、その場だ。  別の世界で王位につき、今〈上の世界〉に行ってもこの世の人でないであろうミカエラとラファエル。そして世界樹と、この世界を形成する脈と一体化し、人の身を脱いだガブリエラ。三人への思いが、歌となって響く。  アロンドたちはひとしきりあわせて歌い、歌と涙を止められぬ瓜生を置いて出航した。  広い広い大洋だが、高い航海技術を持つ〈ロトの子孫〉と瓜生の出した頑丈な船体は外洋の荒波もやすやすと乗り切る。  近くにはペルポイ領であるかなり大きい島もあり、そことも交易して品を仕入れておく。  ペルポイ周辺の、蔓豆の蔓を使った黄色い布は着心地がいい。芋のように食べられる根もおいしい。元・鬼ヶ島でも作ってはいる。  それから、海をザハンに向かう。  危険な海の魔物も出るが、FRP船体と重機関銃は、魔物も寄せつけない。  魔王が支配していない今の〈下の世界〉では、魔物もせいぜい普通の獣程度の危険性だ。  広い海を、リズムよく過ごす旅。ローラも船旅に慣れ、そのせいか第二子の妊娠が確定診断された。  それ以来、小魚・ドライフルーツ・ナッツ類を中心に充分な栄養をとり、定期的に健診もするようになる。  また、アロンドは瓜生にもらった多くの本を読み、問題集を学びなおすことも始めた。  ヒトラーの蔵書だった本も多いし、また瓜生の時代に編まれた人物辞典も、長いこと読んでいる。夢で経験した生涯で関わった、多くの人のその後を知りたい、と瓜生に訴えた。  気分転換に、さまざまな入試問題にも取り組んでいた。  そしてマストに登っていた、回復したサデルの息子が、「ランド・ホー!」と絶叫した。  大きな教会の尖塔が目立つザハンと、その隣の島の古いほこら。  どちらも島は小さく、町並みは古い。周囲に島影のない孤立した島だ。  ロトの旗を掲げた船に、港の人々は大喜びだ。アレフガルドの旗ももちろんあるが。  島に近づくにつれて、その海の豊かさがはっきり分かる。島そのものは小さいが周囲に広い海底地形があり、それが豊かな海藻に満ち溢れ、無数の魚が群れ泳いでいる。  その魚を狙う首長竜が、次々と長い首を空に浮かべる。  無反動砲で照明弾を放ってそちらを追わせ、その隙に港につける。  最果ての島だが、ロトの旗を見ると村人は大喜びで、もやいを受け取りに飛び出してきた。  よく整備された港に船を着け、アロンドとローラ、息子のローレルが先頭に立って船を下りる。 「ロトのみなさん!」老人が大喜びで歓迎する。  ザハンはかつて、ゾーマの時代にアレフガルド外を荒らしていた邪神教団の海賊の拠点として、長く心を奪われた奴隷として悲惨に過ごしていた。それをミカエラや瓜生が海賊を滅ぼし、ルビスの恵みにより島の人々に心を取り戻させた。 「〈竜王殺し〉勇者アロンド。妻のローラ、アレフガルドの王女。長男のローレル。以後よろしく」 「ゾーマの予言どおり、アレフガルドがまたも闇に閉ざされたと聞いていました。しかしロトの血脈があれば、闇は必ず払えると信じておりました」 「心配をかけたな」と、年かさの〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉が、日焼けした老人たちと楽しそうに話す。旧知だ。 「王座を譲られかけて、自分の国は自分で探すと旅に出た。そして、紋章を探すよう予言された」とアロンドは言うと、山彦の笛を吹く。  静かな響きが海空に広がり、そして海全体がこだまを返してきた。何度も、豊かに深く、遠くから。 「こちらに、あるようだ」と、村と、不釣合いに大きな神殿を見る。 「どうぞ、おいでください」と、老いた女がいつしか来ていた。  小さい村だが、魚とその塩漬けの匂いがただよい、無数のイカや魚が広げられ干されている仕事場は広い。  その奥に大きな、バリア床で装飾された神殿が建っている。  島の内部に入ろうとしたとたん、長い年月で島そのものと一体化した結界に気がつく。百数十年前、瓜生とガブリエラがミカエラの力を借りてかけたマホカトールだ。 「この島で、神殿を守り神に祈り、正気で自分の心で生きることができるのも、すべて勇者ロト様のおかげです」と、島の人々が口々に言う。 「それを成したのは勇者ロトとその仲間四人、私たちはその遺産を受け継いでいるだけです」とアロンドは笑いかけ、神殿に向かう。  その姿に人々が安心する。 「神殿はこちらです」  と、広場の奥の、結界に守られた広い建物が見える。 「こちらに、精霊ルビスさまより伝えられた、紋章がありますね。それを集めるよう予言されました」アロンドの目に、神官がひざまずく。 「どうか、行ってお取りください」と、神殿を手で示す。  生身で入れば一歩ごとに重傷を負い、常人なら三歩で死にいたる結界。だが、アロンドが手を高く差し上げ、普通の言葉でも呪文でもない言葉を唱えると、アロンドの目の前にルーラと同じように光と化して飛来する。 「光の鎧」「ロトの鎧」と、口々に言葉が交わされる。  ラピスラズリ・ブルーの神聖金属でできた、頭以外を覆う板金鎧。それは、まるで自らの意志があるように分解され、瞬時にアロンドの体を包む。 「一度認められてしまえば、ロトの装備は私の心身の一部になるようだな」アロンドは軽く微笑み、無造作に結界に踏み入った。  何のダメージもなく入っていくと、その神殿は奥が二つに分かれている。  アロンドが静かに祈る。すると、何かの声が聞こえた気がして、地面を探るとそこには太い、ロトの鎧と同じく青い金属の輪があった。  それを引くと、重いがわずかに動く。それに渾身の力で踏ん張ると、石板がわずかずつずれていく。石板は想像以上に大きい、中型自動車ぐらいはある。  常人には到底無理だ。勇者ロト、ミカエラの夫、アリアハン王国の王族であるラファエルから代々継いだ大力に、喰らってきた竜王を含む多くの魔神たちの力がある。 「おおおおおおおおおっ!」  叫びと共に岩を転がすと、そこには深い、暗い階段があった。  アロンドは瓜生に習った光の呪文を唱えると、階段に踏み入っていく。  深い洞窟、かがまなければ潜れない高さがしばらく続き、部屋のような場になる。つんと、海水の匂いが強まる。  見回すと、そこはちょうど舞台を四畳半ほどにしたようだった。客席のかわりに、深い海水。天井も低い。  壁に小さな棚が刻まれ、そこには太目の糸が長く長くわがねられ、その一端には錘と釣針がついていた。  それを手にしたアロンドが、糸の針のないほうの端を手首に結び、錘を水に投じた。  長い糸が、みるみるうちに消えていく。恐ろしい深さだ。  突然、光の呪文がかききえ真の闇となる。  アロンドは背の銃についていたフラッシュライトを点けてみるが、それも消える。雷神剣の稲妻も光を放たない。  真の闇。  その中、アロンドはただ座って、糸を握っていた。  常に身につける、一日分の水・蜂蜜・梅干・多量の油を含むアブラマツの実・味噌を塗って焼いた握り飯。 (手を伸ばすのは、ぎりぎりまで耐えてからだ)  下りる前に、たっぷり食事は済ませている。  完全な闇では、目の前の水が怖くなる。 (気がついたら飛びこんでしまわないか。眠ってしまい、寝返りで落ちるのではないか。大きい魚がかかって、引きずりこまれるのではないか)  なんともいえない恐怖が、じわりと全身を浸す。 「恐怖を恥じるな。行動できなくなることを恥じろ」そう、自分に言い聞かせる。 「私は」ふと、気がつく。 (こうして、一人になること自体が久しぶりだな) (ずっと、忙しかった) (船旅の間も、本を読んだり、人と話したりしてばかりだった) (それも好きだ。でも、こうして一人でいるのも好きだ)(一人で旅をしていた頃もあった)  目を閉じ、手の糸の感触だけを感じている。とめどなく、言葉が脳裏を回る。 (アドルフ・ヒトラー。ナチスドイツ)(もうどれほど前になるのか、ガライの墓)(長い長い夢幻) (ウリエルの故郷の、過去にいた独裁者)(一つ間違えれば、私もそうなる、先に失敗を経験させてくれた)   生々しい記憶が、次々に夢となり脳裏を巡る。 (ドイツの栄光。ゲルマンの純潔)(ベルサイユ体制を打破せよ、共産主義者どもとユダヤ人からドイツを)  今の闇とは比較にならない恐怖に、絶叫する。  自分の目、アドルフ・ヒトラーの目で見た書類の中での、何千、何万、何十万、何百万の名前。  そして、以前の経験や瓜生の話、そして映像でも、ホロコーストを見て、知ってしまっている。 「本当に、人間が、人間があんなことをしたのだ。人間が、人間が、人間が!私がああああああっ!」  絶叫が自然にライデインの呪文となるが、それも光を放たない。 (もしや、私は目が見えなくなったのか?)  それもまた、激しい恐怖になり、地面を手で探り、すぐ前の奈落に触れて、体が反応するのを抑える。 「幻覚だ」 「ジジ。彼女がいれば、何事も真実ではない。それと同じだ」 「ボウイ、ボウイ、クレイジーボウイ、ゲックーボウイ……」小さい頃から、血に狂わないよう怖ければ落ち着け、と教えられてきた、『ウェストサイド物語』の歌。瓜生が昔ガライに渡した音源。瓜生が再び来てから、船旅で、DVDで見た。 (なんだ、結構暇はあったじゃないか。本を読んだり、DVDを観たり、数学を学んだり)  苦笑し、静かに呼吸を整えて、また糸に集中する。  深い、柔らかい呼吸。体がしびれないよう、少しずつ動く。縁との位置関係を確認しながら。  どれほど時が経ったろう。二度、水を飲んだ。一度、鎧を外して手探りで少し移動し、水に直接大小用をした。 (日が暮れてないかもしれない。この状態ではすぐ狂うんだったな。自分が誰か、今が何時かわからなくなるのは当然だと思え)  そう、自分に言い聞かせながら、じっと糸と、自分自身と……そして、ガライの墓で見せられた、別の記憶と。  魔物たちとの戦いも思い出す。圧倒的な恐怖。竜王を倒してからの、短いのか長いのかわからない旅。  出合った多くの人たちがぶつけてくる、膨大な欲。恐怖。自尊心。 (まったく……)  なんとなくばかばかしくなり、小さな竹筒に入れた蜂蜜をなめる。と、糸が引いた気がした。  軽く、糸の具合を見てみる。 「そうそう、ドムドーラではやったことがなかったが、〈ロトの子孫〉に加わってから、隠れ里の水路や、船の訓練の合間に時々釣りをしたっけ」  独り言をつぶやく、その時に突然強い引きがきた。  とっさに、自分の体の角度、壇と水面の位置関係を手探りで確認し、強く糸を引く。 「ボウイ、ボウイ、クレイジー、うおっと」  崩れかける体を立て直し、両手で糸をたぐっていく。  長い長い糸。強い引きが、一気に引いた、と思ったら消える。糸をたぐり続けるが、反応がない。 「切れたか?」  そう思いながら、ゆっくりとたぐり続けている……それも、どれだけやったか思い出せなくなる頃。  突然、強烈な引きが来た。 「うわあっ!」  悲鳴が上がる。腰まで、縁を越えて水にひきずりこまれそうになる。右手の爪が床である岩肌にくいこみ、一瞬ではがれる。  もう一度、激しくかいた右手が岩肌にひっかかり、引きが止まった一瞬に体を引き上げ、足を突っ張った。  激しい痛みが右腕を走る。そして恐怖を、呼吸で抑えこむ。深く吸い、絶叫する。 「ああああああああああああああああああああっ!」  それから、足でぱたぱたと叩き、さぐる。自分が、縁から身を半ば乗り出し、左腕は水面下にあることがわかる。 「ボウイ、ボウイ、クレイジ……」指が何かにぶつかり激しい痛み。 「ホイミ」爪を癒し、また自分の体勢を確認する。  左腕は、強く引かれ続けている。  なんとか自分の体勢を整えると、両手で少しずつ、焦らずに糸をたぐり続けた。  強い引き。時に静かになり、爆発的に引く。  だが、もうアロンドの呼吸は整っている。しっかり座り、縁を足で確保している。  ゆっくり呼吸をしながら、ひとたぐりひとたぐり。  そして、気がついた時には、光が洞窟を満たしていた。  床には、1mほどもある美しい鯛に似た、金色の魚が跳ねていた。 「まったく」と、アロンドは魚をぶらさげ、鎧をつけなおし、銃を拾って、洞窟に戻る。  長い洞窟を登っていると、体がかなり疲れているのが分かる。  そして、出ると、真夜中だった。  美しい星空がきらめいている。 「あなた!」「ちー」  愛する家族の声。  アロンドは魚をぶらさげたまま走り、ローラとローレルを固く抱きしめた。 「どれほど、どれほど」ローラが涙をこらえながら、アロンドを抱きしめる。 「心配をかけた」と、小さい息子を高く抱き上げる。  ローレルは、その手の魚に気がついて、それに抱きつき、びっくりしたように何か叫んだ。 「魚」アロンドが笑いかける。 「釣りを、してきたんですね」と、ローラが笑い転げた。涙が出るほど。 「さあ、料理するか」とアロンドが笑って、神殿にあった、よく見れば分かるまな板台に魚を乗せる。  女神官がうやうやしく渡した、黒曜石の刃でその腹を割くと、命の紋章が出てきた。 「ついでに、この魚も捧げて、そして皆で食べましょう」  アロンドが静かに祈り、素晴らしく美味な魚を妻や子、神官たちや、ザハンの民と分け合った。  それから、アロンドたちは隣の小さい島に渡った。造船場と、小さなほこらがある。  その造船場では木造船が作られているが、その島、ザハン本島を合わせても、そんな木材があるはずはない。  ほこらに入ると、旅の扉があった。 「この扉は、あの大陸につながっています」  その言葉に、アロンドの体に説明できぬ戦慄が走る。  山彦の笛を口に当てる動作も震えている……音色は変わらず、響かずに消えた。  それを確認するのももどかしく、アロンドは旅の扉に飛びこんだ。  そこは、小さな木造の小屋の中だった。  飛び出すと、そこには広大な野が拡がり、たくさんの切り倒された木が加工されていた。野のところどころには果樹も植えられており、耕されているところも多くある。  すぐ近くを広い川が流れている。川の、下流側にはいくつか、小さい船も係留されていた。  その水に乗って、何本もの丸太が筏に組まれ、旅の扉の近くで成型され、扉を通れる四人でなんとか担げる大きさに切られ、それがザハンの隣島に送られているのだ。 「誰だい?」  屈強の男が聞こうとしたところに、追ってきたザハンの人が飛び出す。 「勇者ロトさまの子孫、〈竜王殺し〉勇者アロンドさまだ」 「ほう、そうかい。で、こんなところに何の用なんだ」  何人もの、屈強の木こりたちが集まる中、アロンドは呆然と広い広い大陸を見渡していた。  はっきりとわかる。ここだ、と。 「おい、見ない顔だから言っておくが、ここは、あの大陸だぞ。絶対にここで眠るなよ、必ず死ぬぞ」  呆然と見回しているアロンドに、斧を担いだ男が怒鳴りつける。 「眠らなければ、一応何とかなるからな。沖に出ても眠れるが」  そして新しい船が着くと、たくさんの魚が水揚げされ、次々と人々が集まって魚をさばく。  塩を焼く煙もあちこちで立っている。木を製材したあまりや、石炭を焚いている。  内臓を抜いた魚の腹にその塩を詰め、樽に入れて、これも天秤棒で四人で担ぎ、旅の扉に向かう。  日が落ちるまで、忙しく働く人々の間を回り、あちこちを見た。  皆が眠らないよう、ものすごく注意していること。それでもうっかり眠ったり、事故で動けず睡魔に敗れたりし、そのまま二度と目覚めない人がいつもいること。 「この呪いさえ解けたら」 「なんとかならねえのかよ、勇者様」と詰め寄る男に、アロンドはにこっと笑った。  その笑顔に、屈強な男たちが引きこまれる。 「約束する。私が、必ず、この大陸は、解放する。安心して、眠れるようにする」  その、ゆっくり一言一言、はっきりとした言葉が人々の心に、まっすぐ当たる。 「え」 「む、無理だよ」 「じょ、冗談だよな」 「ゾーマの前から、ギアガの大穴を通ってこの〈下の世界〉にご先祖さまが来て以来、ずっとだぞ」 「ばかいうなよ」 「この野郎」  アロンドは、罵声や怒り、嘲笑も、平然と笑顔で受け入れた。 「くそっ!」  悔し紛れに殴りかかる巨体の男、拳を軽く受け止める。そしてあっさりと投げ飛ばした。 「そのときになれば、わかるさ」  強さと、たたずまいに圧倒された人々は、なんとも言えずに、一人また一人と仕事に戻っていった。  ロト一族を集めたアロンドは、ルーラでザハンに戻ると、干し魚や魚醤などと、布や魚網を防水する柿渋、釣り針などを交易して船に乗った。 「さて、次は」と海図を見る。ザハンは孤島だが、地図の見方を変えるとデルコンダル・ペルポイ・ベラヌール・ルプガナ・ガライのどことも近い、かなり重要な港でもある。 「ペルポイへ」と、船ごとルーラで鬼ヶ島に戻り、ロンダルキアから延びる大きな半島に上陸した。  石灰岩の上に黄砂がたまった、肥沃で水豊かなカルスト地形。  その広い野、そして広大で急峻な岩山すら山羊のように、家畜を連れて駆ける遊牧民たち。〈ロトの民〉の先祖たちでもある。  中心になる町、ペルポイは、奇妙なことに人がいなかった。  ベラヌールやアレフガルドの、破壊された廃墟とは違う。どの家もきっちりと片付けられ、多くは計画的に解体され廃材はどこかに消えている。  その近くの茂みから、濃い煙がたちこめている。 「これは、地下に逃げましたね」ハーゴンが笑って、崖とつながった頑丈な館の戸を指差す。  瓜生やジジの指導で、呪文を極めたサデルのアバカムで扉が開く。  その下から、熱気と濃密な人の気配が伝わってきた。  洞窟に刻まれた階段を下りると、そこにはたくさんの人がいた。  巨大な鍾乳洞を掘り広げ、その中を都市としている。  魔法の明かりや松明があり、松明は煙を濃く出している。 「空気は、なるほど」と、瓜生が宙を見て、煙の動きを見る。「あっちに多分煙出しがある」 「隠れられるようになっているのか」アロンドが見回し、笛を吹いたがこだまはなかった。 「あ、あんたたちは?ペルポイの町は今は地下になっていて、限られた時にしか開かないんだが」と、何人かの男がやってくる。 「アレフガルドの〈竜王殺し〉、勇者ロトの子孫アロンド」アロンドが名乗り、それに人々が驚いた。 「りゅ、竜王殺し?伝説のアレフガルドの、最近出たって竜王が?」 「でも、ベラヌールからロンダルキアの魔物があふれ出したんだろ?どうなってた?」人々が聞く。  アロンドはにっこり笑い、 「ベラヌールも掃討され、今は再建されつつある。私の言葉だけでは信用できないだろう、サデル、ウリエル」との目配せに、二人が素早くルーラでベラヌールに飛び、何人か顔見知りの、比較的年かさで、以前から世界各地と付き合いのある貿易商人や外交官だった指導者をつれてきた。 「ベラヌールのゲテアだ!ベレム、」と、つれてこられた男に声をかけられた初老の女が、大喜びでその手を握り、頬を触れて確認した。 「二年ぶりじゃな。ベラヌールが滅びて、すっかり交易も衰えたもんじゃが」 「でも、ベラヌールは解放された。今再建で、みんな大忙しなんだ」 「封印も?」 「ああ、二度と解けないようにがっちり封印したよ。俺たちの手で!」ゲテアが誇らしげに笑う。  その言葉に、暗い地下町の、恐ろしく高密度な人々の絶叫が上がった。  その数日前。リレムや〈ロトの子孫〉のラファエラら見習いを加えたガライ一座がペルポイの地下を訪れていた。  一行にはアロンドのかつての孤児仲間、ロムルとレグラントの夫婦もいる。  さらにその前日、ルーラで大灯台の島に戻っていたローラが、リレムが出かけることを聞き出し、ジジに頼んだのだ…… 「ジジ、ロムルとレグラント、この二人はご存知ですね」 「うん」ジジは相変わらずぶっきらぼうに、でも二人には愛想よく笑いかける。 「リレムに、どのようなことをさせているのか、次に彼女を遠くに送って何かさせるなら、この二人に見て欲しいんです。二人ともアロンドが、心から信用しているのです」 「誰であれ信用したら死ぬよ。でもついてくるなら勝手にしな、姫さんがついてくるよりましだよ。料理人と荷物持ちやって」  と、素早くジジが夫婦を促した。  アロンドの孤児仲間であった夫婦も、暇な体ではない。  レグラントは宮廷であり、学校であり、病院である客船の食事・洗濯・清掃などを一手に担い、ロムルもその力仕事を手伝いつつ、多くの子を統制している。  宮廷としての役割もある客船での仕事のため、キャスレアにアレフガルドや各国の宮廷儀礼を習い、また瓜生に客船の近代設備の使い方、近代的な病院および食堂の高水準な清潔を短期間で教わり、確実にそれについてくる力を見せた。  ペルポイの、地上部郊外のテント。そこに、アレフガルドからの旅芸人一座として小さなテントが張られている。  座長はガライ、一族の祖名を継ぐ子孫で、本人も優れた歌い手だ。  彼が連れているのは笛のロムヒ、ダンサーのアッサラ、魔物使いのルセラ。  そして、リレム。 〈ロトの子孫〉のラファエラ。背は低いがリレムより二つ上の、ミカエラによく似た美少女。この年で中級魔法はマスターしている。  同じく〈ロトの子孫〉のヘエル。やや年上で、とても手先が器用で記憶力が高く、瓜生は医者の助手としても重宝している。 〈ロトの民〉のトシシュ。リレムより一つ下、アダンの甥でボーっとした風貌だが、素晴らしいボーイソプラノの持ち主、嘘つきで人の嘘を見抜く才能がある。  そして、料理人・衣装係としてリールことレグラント、その夫で雑用係のロムル。それが一行だ。  ジジはいない。彼女も恐ろしく忙しい身だ。 「リハーサルをしっかりして、明日から町ではじめよう」ガライが声をかけると、レグラントお得意の堅焼きパンを食べながら一冊の本を四人で読み、必死で書き写したりソロバンとよばれる奇妙な板をいじったりしていた子どもたちが、ぱっと集まる。  テントに飛びこみ、リレムとラファエラは肌が透ける薄絹に、濃い目の化粧、髪に宝石を散らせている。  ヘエルは黒ずくめの服に、長い帽子をかぶっている。その手には、CDラジカセが無造作に提げられていた。  トシシュは数匹のスライムを連れて、羽とスパンコールのついた服。 「大変長らくお待たせいたしました。ただいまより、伝説のアレフガルドより来たりしガライ一座が、ひとときの夢を皆様に!」  ガライがよく通る声で言うと、ぱっとラファエラがトシシュの体を走り登り、上に掲げた手から高く跳んで空中で二回宙返りし、鮮やかに着地する。  同時に乾電池駆動のCDラジカセから激しいベースとドラムの音がほとばしり、素早く消えると共に、いつしか顔の半ばを覆っていたリレムとアッサラが踊りだし、ガライが楽器を演奏しつつ歌い始める。  トシシュの澄み切った歌声がそれに絶妙に和し、ロムヒの鋭く鮮やかな笛が音を引きたてる。  呆然としていたリールとロムルが、そして周囲にいた遊牧民たちや商人の子が集まり、激しく拍手した。  その子に、素早くルセラが色鮮やかなキャンディーを配る。  多彩な歌、踊り、手品。落語を変形させた笑い話もある。人を襲わない魔物がユーモラスに音楽にあわせて踊る。  勇者アロンド、そして勇者ロト、天空の勇者と七人の導かれし者たち、そしてグインの叙事詩を短く切り、激しい曲に乗せて歌い踊る。  子供たちは他にも学ぶことは山ほどあるのに、歌や踊りも高い水準でこなしている。  どれほど学ぶことが多いか、学校で常に接しているレグラントはよく知っていたからこそ、それは驚きだった。 (いつ寝てるの)そう、悲鳴を上げたくなるほどに。  いつか集まり喝采している、町を求めて集まっている遊牧民や商人たち。 (遊牧民のふりをしているが、〈ロトの民〉で見たことがある。このベールをかぶった商人の手と仕草、ダネルだ。なるほど、サクラを使って客を集め、その客が町で前宣伝するわけか。商売うまいな)ロムルは笑い転げながら、その人たちも見ていた。  リハーサルをみっちりやり、リールの作った食事を腹いっぱい食べて、子供たちはほんの一時間、きっちりと走り回って、帰ってしっかりと体を石鹸と濡れ布でぬぐい洗い、寝た。  リールとロムルの夫婦は、子供たちを一人一人いとおしげに見つめ、優しい言葉をかけて寝かしつけてやる。  そんなときだけは、この天才少年少女たちも、小さい子供のように夫婦に甘え、つかれきった体はあっという間に眠りにつく。  眠ったのを確かめてから、リールはガライを責めるように見た。 「なんという過酷な……」 「すごい才能のある子供達です。今たくさん教えて、とことん伸ばしてやらなければ。アロンドさまの、ロト一族のために。ひいては平和のために」ガライも、辛そうな目と、かれた喉で応えた。  彼も毎日の研鑽は並大抵ではない。だからこそ、子供たちも素直に努力しているのだ。  翌日。一行は暗い、巨大洞窟の町に向かい、その中央広場に、強烈な光を上げた。  ラファエラの、魔力を消費しないレムオルの応用呪文が洞窟を見渡す限り明るく照らし、それに人々が驚き注目する。  そしてヘエルが操る発電機とサーチライトが、五色の光をあちこちに振りまいた。  もうその時点で、群衆は熱狂している。 「大変長らくお待たせいたしました!」ガライが以下略で叫び、そのままリハーサルも無視してアロンドの歌を、激しいロックの曲調で歌い始める。  ロムルは重い発電機やライトを運び、疲れて袖に入る踊り手に清潔な布や水を渡しながら、群集を見ていた。  熱狂、だが中に何人か、スリや暴力の気配がはっきり匂う。  まだ幼いアロンドたちと対抗しながら、孤児グループをまとめラダトーム周辺をさまよっていた。町の裏面は知り尽くしている。  大喝采の二回公演が終わって、子供たちがすっと群衆にまぎれる。そのリレムの後ろに、リールがついていた。彼女が何をするか見るのが仕事だ。  リレムたちの服も、舞台での服やアレフガルドや大灯台の島での、清潔な服とは違う、周辺の遊牧民や町の、貧しい子と同じような、できるだけボロボロの服に着替えている。 「十日間、ひたすら街にまぎれて、たくさんの人を見るんだね。いろんな目にあいな。武器は持つな、魔法も封じる。何をしてもいい。生きのびるんだ」  そう、ジジに命じられている。 「昔のおれたちのようにするのか?」ロムルが怒りをこめてジジを見た。ジジは平然とうなずいた。 「昔のあたしのように。アロンドのように。あんたたちのように。あんたも、町の孤児だったなら分かるでしょ?生き延びるのに精一杯の日々が、どんなものか。あたしも知ってる」  ジジの目に、夫婦はそれが真実だと悟った。  大気中の二酸化炭素をわずかに溶かし酸性を帯びた雨水が石灰岩を溶かし、長い長い年月で造られた巨大な洞窟。その一つが、ペルポイの人々がいざというときに逃れる、別の町だった。  そこは選ばれた人の町。そして、その地域の経済の中心、多くの物と人、欲望が渦巻く町。  ロンダルキアの裾野を駈ける遊牧民が、大きく豊かな島々の民が、ザハンやベラヌールまで航り回る船人たちが、町を訪れ交易し、欲望を満たす。  美しい女の、そして少年の服が、魔法や火、とらわれた魔物が吐く火の明かりにちらつき、低く複雑な鍾乳石からなる天井に照り返されて、いっそ幻想的な光景でさえある。  ロムルやレグラントは、町のかすかな腐臭はすぐわかった。  そして、ここに飛び出した美しい……親がいて、豊かな村で訓練は厳しいが暖かく育まれた少年少女の運命も。森に放った肉に、虫が集うより早かった。  まず、一人で飛び出したヘエルがやられた。同じようにぼろを着た子たちに、「よそものだ」とささやかれ、からかわれたのに怒って、飛び出して二人叩きのめした。ロト一族が共通で教育される徒手武術の基本で。  だが、それで大胆になったのが命取りだった。その仲間たちが高いところから石や腐った果物を投げてきて、それに怒って追った、狭い路地裏でぼろ布を投げられたのだ。それで手足を絡め取られ、十数人の不良たちに足や肋骨が折れるほどぶちのめされ、ボロ服も奪われて裸にされた。  起き上がれもしないうちに、やや年長の少年が彼を売り飛ばした。  トシシュはその一部始終を遠くから見下ろし、腹を抱えて笑っていた。 「おい、みねえガキだな」と、奇妙な大人が声をかけてきたときも、(オレはバカじゃない)と確信していた。 「いや、ヘアレさんのところで会ったでしょ?昨日はお楽しみだったね」と、話をあわせる。  相手の嘘を見抜き、それ以上の嘘をつく、〈ロトの民〉でも、新しくできた学校でも右に出るものはいない。そう思っていた。徒手武術の腕にも自信があった。  まるっきりの嘘、それは半日もった。  だが、結局は複数の野蛮な大人の、訓練でもない、手加減も何もない生の暴力に、武術も口のうまさも通用するはずがなかった。  ラファエラとリレムは互いに離れなかった。  リレムはしばらくは怯えて激しく震え、ある時から別人のようになっていた。ラファエラも、それを感じてか、警戒はしていた。  危険なところに近づかないように。 「十日ぐらいなら、ごはん食べなくても大丈夫よね」ラファエラが、大人ぶってリレムにいう。 「お、可愛い子だな。一杯やんねえかい?おいしいお菓子おごるよ」酔った男が声をかけてくる。リレムは、虚ろな笑顔で軽く手を振り、そのまま隠れた。 「ジジ先生の命令ですしね、じっくりと町を、見て回りましょう」  そう、ふらつくように歩むリレムは、極端に惨めに見えて、むしろ町に溶けこんでいた。 「あんた、ラダトーム貴族なんでしょ」ラファエルのささやきに、答えは返ってこなかった。 「だいじょうぶ、わたしが守るから。わたしは竜王城で、実戦も経験してるのよ」ラファエラが警戒し、構えるのをリレムは、死体のような目で見ていた。  ただ、見て回っている、服はボロだが信じられないほど美しい、二人の少女…… 「なあなあ、いい商売があるんだよ。きれいな服を着て、おいしいご飯を食べたくはないかい?」と、男が三人、声をかけてきた。  逃げようとしたラファエラを、後ろで太った男がふさぐ。  にっこり笑ったラファエラが、一人の膝と股間を蹴って抜けようとした、その頬を別の男の、巨大な手が張り飛ばした。 「なにしやがんだこのメスブタが」ついでに、リレムも殴り飛ばされるが、彼女は冷たい微笑を絶やさないままだった。  あまりにも早く、四人は再会することになった。縛られ、ぶちのめされて。 「ちくしょう、なんなんだよ」ヘエルはずっと泣いていた。 「ど、どうなるの」ラファエラの緊迫したささやき。  リレムが「どんなことをされても、別の誰かがされてると思えばいいのよ。どんなことでも、いつか終わるから」と、完全に死人の目でつぶやいた。それに、三人ははじめてこれが、現実なのだと気がついた。  リレムだけは、本物の地獄を見ている……小さい頃、ラダトームの地下牢で。 「あたしは、助けてくださったローラ様のために、どんなことでも耐える。死んでもいい、覚悟してるの。そして、ローラ様を、あたしを助けてくれたアロンド様も守る。ローラ様を助けてくださったウリエル先生が、ジジ先生の言うとおりにしろというのなら、どんなことだってする」  リレムは震え、涙を流しながら言った。その覚悟に、少年少女たちは一瞬で心臓をつかまれた。  訓練と評価、子供たちの世界と、伝説と民族の誇りしかなかった子供たちには、本物の悪も、本物の覚悟も想像を超えていた。  ボロすらはぎとられ、痛みに苦しむ子供たち。だがそれだけではなく、前からいる別の、もっと幼くさえある子供たちが容赦なく攻撃してくる。  ただ一人を除いて。一人だけ、恐ろしく線の細い子が、新入りがいたにもかかわらずやられる側なのだ。  サラカエル・ムツキ夫婦とともに開拓をし、医学も学んでいるラファエラがその様子を見た。 「ビタミン、でしょ」 「なんだよ、びったって、びっちびっちかよ」と、別の子に髪をひっぱられ、引きずり回される。  明日のない子たちは、教育水準が高く、子が死なず、飢えを知らないロト一族とは全く別物だった。  リレムは、ただそれを見ていた。  周囲の人々も。大人の反応も。  おとなしくしているリレムだが、彼女を叩き、転がし、楽しむ者は多かった。美しさだけならラファエラも美しいのに。  そして、『その子』も。  止めようとしたラファエラが、容赦なく骨折するほど殴り倒される。 「売り物にならなくなるぞ」と言った『その子』の、耳が、髪が引きちぎられる。  その凄まじさに、リレム以外は怯え、失禁していた。 「確かに、メスガキは、まあ売り物になるな」と、『その子』を踏みにじりながら、汚らしい男がにいっと笑い、ラファエラとリレムをまた殴り倒し、体中に手と舌を這わせる。  二人とも、抵抗する力などどこにもない。 「オスガキどもは生贄だな。たっぷりと楽しんでもらいましょうよ、ねえ」  と、男が見上げた先に、奇妙な覆面をした人がいる。 「その痩せた子と、その子」と覆面がリレムを指差す。「はよい生贄となろう。神が望み、そして観衆が喜ぶ」  奇妙な笑い声が響く。それは、暴力よりずっと激しい恐怖を子供たちに引き起こした。 「見ろよ」  と、男たち、大人たちが子供たち全員を引きずって、舞台を見せる。  禍々しい飾り、考えたくない動物の生皮から血が滴っている。凄まじい悪臭に子供たちが、激しく吐く。  震え、怯えるのを楽しげに見ている人々。『その子』とリレムは、光を失った目でそれを見ていた。  ラファエラ・ヘエル・トシシュは血まみれのまま、まるで絵でもあるように裸のまま、磔に縛り上げられ『展示』される。  そして、裏の劇場には、仮面をつけた貴顕たちがおぞましい目で詰めかけ、全裸の『その子』とリレムが、壇上に引きずり上げられる。  一瞬真っ暗になり、おぞましい音楽が響き、そして突然ろうそくの炎が一つ、また一つとともされる。  その時初めて見えた、像。狂った表情と鱗の体。鉤爪のある手が六本。そして、コウモリの翼。それ自体の引き起こす恐怖が、陶酔にさえなる。  熱狂した声が、絶叫となって劇場を揺るがす。  そして、先にリレムの髪が引っ張られ、首が折れそうにそらされ、鋭い刃が当てられた。  それが、引かれる直前。リレムの口が、わずかに動き何かを噛みしめる。  瞬間、全ての明かりが消え、猛烈な爆発音が次々に響く。  くぐもった絶叫が、いくつも。客席や舞台裏が、パニックになる。  やっと誰かが光の呪文で周囲を照らしたときには、何人もの邪神官や忘八たちが頭を砕かれ胸に大穴が開いており、生贄や子供たちは一人もいない、そして邪神像も粉砕されていた。 「気がついたか?輸血中だ、動くな」瓜生の声。 「ひどくやられたね」ジジの、いつもの声。「覚悟の上です」とリレムが言おうとしたが、顎も包帯で固定されていた。  リレムが目を覚ますと、そこは見慣れた座礁船の、病院のベッドだった。  瓜生が、リレムが噛み潰した、虫歯に詰められるサイズの発信機のスイッチをロムルに見せた。  彼女の目が、包帯だらけの少年少女たちを確認した。仲間たちも、『その子』もいる。 「わかったかい。あれも、有効なショーだ。そして新しい女郎の展示会にもなるし、金持ちどもの弱みをつかんで脅すことにもなる。一つの石でいくつの鳥を落とすんだろうね」ジジが、静かに言う。  リレムは静かにうなずいた。  瓜生がうなずくと、入ってきたレグラントがリレムを抱きしめる。それに、リレムの目から涙があふれ、しゃくりあげる声になる。  五人とも、治療が一段落した頃。といっても、回復呪文があるので、近代医学だけよりはるかに早い。 「その子も生贄だったね」ジジが『その子』を見る。 「ジニ、です」それだけ、答える。絶望しきった、『アウシュビッツの回教徒』すら思わせる表情、だが治療が済み、体を清潔にすると、恐ろしいほどの美少女だった。  その姿を見、声を聞いて「ルビーの涙」と、ロムルとレグラントが口を押さえた。 「それは、なんですか?」リレムが聞く。 「今のあんたたちは、そう呼ぶんだね」ジジの、苦々しげな言葉に、ロムルが恐ろしく感情を殺した表情でうなずく。 「リレム、あんたたちは全部分かっていたほうがいい」ジジが平板な、明るい声で言う。それが偽りだと、夫婦には分かった。「特に邪悪な人間は、ある種の子を見ると、猛烈に欲しくなる。自分のものにして、徹底的に壊したくて、気が狂いそうになる。リレム、おまえもそうなんだ。そしてアロンドも」  リレムがはっとする。「小さいころ、生贄にされそうになったのも」 「それだよ」と、ジジ。 「孤児を率いていた頃、何人かいた。すぐに死んだよ、あいつらは決して、ルビーの涙を見たら諦めない。ロザリーの涙が落ちたらルビーになったと歌にあるように、搾り取って搾り取って、殺すんだ。殺されるならまだいい、あんな、あんな!」ロムルが頭を抱え、隅で吐いた。 「何度も、見ました。アロンドさまも、イシュトも、確かにそれでしたね。非常に強く狡猾だったので罠を抜け続けることができましたが」レグラントも吐きそうな表情で、ロムルの背をなでる。 「それより、それだけじゃないな。ああなるまで、何があったか教えてくれない?」ジジが聞くのに、ジニは冷静に答える。 「小遣い欲しさに、ちょっとした問題を解いたのです。それが、えらい人を怒らせたようで」 「どんな?」瓜生が聞くのに、痛みをこらえながらジニは身を起こした。 「月と星の角度の測り方に、賞金が出ていたので」  と、渡された石版にチョークで、複雑な図と文字を書き始める。いくつもの三角形、普通の数字とは全く違う、アレフガルドの文字を用いた複雑な言葉。 「三角関数の、級数展開じゃないか。それにラックピニオンと、ガラスの応力による干渉縞を利用した精密角度計測?」  瓜生が驚き、手に何冊か数学史に関する本を出して、何度も検算したり、いくつかの道具を出して彼女の指示通り作ってみて、うなずきながら呆然とした。 「どこかで聞いたのか?ロト一族から?」 「いえ、分かったので」少女の表情は、当たり前のこと、という感じだった。 「……天才か」瓜生がつばを呑む。 「ルビーの涙、って言われてるんだっけ、天才が多いよ」ジジの声に、かすかな感情が混じる。  瓜生が、ジニを連れて出かけてから、傷の癒えた四人の子を、ジジとロムル、レグラントが見回す。 「さて、どう報告する?」と、ジジがロムルに言う。 「すべて、ありのまま」レグラントが悲しそうに言った。 「おい」ロムルが言うが、レグラントは首を振る。 「ローラ様やアロンド様を信じましょう。これしかないって、あなたもわかるでしょう?」 「まあな。町の、ああいう連中のひどさを身に染みて覚える、ってわけだ」ロムルが歯をぎりぎりと噛む。ジジを殴りかねないほど。 「いっとくけど、あれで終わりじゃないよ。ガライ一族にとって、あの邪神のやからは、興行でも手ごわい競争相手。世界中の街の、底の底から目と手の網を作らなきゃ、足元すくわれるからね」  ジジがにっと笑って、子供たちを見回す。 「穴という穴を支配し情報を得るんだ。耳は歌と音楽。目は踊りや染色。鼻は香水。口は歯科医と調味料。そして下、前後の穴の糞尿を便所。そして膣と男根を、売春と産婦人科医で」  それに、傷ついた子供たちが衝撃に目を見開く。 「これからも勉強しながら、自分で考えな。どれだけ勉強ってのがばかばかしいかわかったろう、でも勉強がどんな力になるかも、これからウリエルのヘタレがきっちり教えてくれる。まだまだ学ぶことは山ほどあるよ」 「何より、一人の子供ってのは……とことん無力な、食われるだけなんだよなあ」ロムルがつぶやき、ため息をつく。 「だから集団になるのよ、それで守りあうの」レグラントが言うが、 「それを裏切るのも、な」とロムルが苦笑する。 「ま、そんなことも、しっかり考えるんだね。さ、散々いろいろ見たろ?それを、次の舞台でどう活かせるか、ちゃんと考えな。いいかい、あの連中の演出は、それなりに真似られることは多いんだよ」ジジが手を叩き、まだあちこち痛いのに、そのまま次の教室に送り出した。  乳幼児死亡率が非常に低く、子が大切に教育される〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉……学校の形になってから、それが世界の全てになりうぬぼれが育っていた、最も優れた子。  それに、自分たちの世界がどれほど狭いか、子供がどれほど無力か徹底的に思い知らせた。現実を叩きつけた。  それが、どんな実を結ぶかもわからない。できるだけ過酷な、多様な経験を積ませる、それだけだ。次代の指導者となる子だからこそ。  今回のことを参考に、学校の他の子にも『現実』を思い知らせるにはどうすればいいのか、ジジや瓜生は悪魔じみた相談を続けている。  地下都市から出て、実は影で邪神教団の組織を一掃されたペルポイと、ベラヌール、そしてアレフガルドの交易を回復させたアロンドたちは、また海に出て大きくロンダルキアの崖を迂回する。  延々と続く巨大な崖。天に届くかに見える、どこにも上陸できない海岸線。  その凄まじい岩山にも、ヤギやカモシカのように力強く跳ねる角馬を駆る遊牧民の姿はあった。  それを横に見ながら航海は続き、ローラの腹もゆっくりと、順調に膨らんでいく。ローレルも元気に、歩きマストを登ることを覚えた。    そして、岸は雄大な、底なしの密林となった。  緑しか見えない。  海の色も明らかに違い、魚が多い。子供たちは釣りではしゃいでいる。一度うみうしが釣れて、アロンドが慌てて切り倒した。  そんな光景を見ながら、時に嵐もあるが船旅は続く。  朝日と共に起き、すぐに船員たちと同じ朝食。宮廷としての訓練を優先すべきか議論はあったが、アロンドが「ハミマもいないし、みんなと同じ食事でいい」だった。  新鮮なかんきつ類を絞ったジュースと、ポークビッツサイズのレバーソーセージで、まずビタミンやミネラルを摂る。好き嫌いのある子も小さいソーセージを飲みこむだけならできる。  次いで酸味の強い馬乳酒。何もいれず、そのまま飲むのが遊牧民の伝統だ。栄養豊富で、遊牧民はそれを主食にすらする。  キーモアの大きな卵のオムレツに、モヤシやカイワレのような生スプラウトがついている。スプラウトは船上でも食べられ、壊血病を予防する。  肉料理も少々。軽く焼いたベーコン、使い捨ての鉄缶ではなく頑丈な鉄箱でのコンビーフのようなもの。大灯台の島で前から普通に作られ食べられている。  それに昨日子供たちが釣った魚の一夜干しが少々。  砕いて粥にした乾パンに、菜種油を垂らしドライフルーツやナッツをたっぷり入れたもの。  納豆を刻んで入れた味噌汁。  熱い、小さいカップの茶で食事を終える。  やや和洋折衷で、瓜生の故郷の基準で正式とはいえないが、ジパングの礼式や発酵食品技術、〈ロトの民〉の母体であるペルポイ・山岳遊牧民の伝統がうまく調和し、瓜生がもたらした栄養学の知識もきちんと活かされている。 「ローラ、大事な体なのだから」と、アロンドが勧めるドライフルーツと、煮干の小魚をローラが感謝の苦笑を浮かべて食べる。  ローレルがそれに手を伸ばして、父親の咎める目に手を引っ込め、ローラが改めて分けてくれたのを満面の笑顔で頬張る。 「さて、歯を磨いたら、少し本を読んであげよう。それから修行をして、それから仕事を手伝おう」アロンドの笑顔に学齢前の子供たちが喜ぶ。  食べたら磨く。歯ブラシも、そのための木と使いものにならなかった家畜毛から作られている。  そんな習慣がなく、大抵は歯がボロボロな王侯貴族や金持ちたちがロト一族を見て一番驚くのが、その歯の美しさだ。 〈ロトの民〉が伝えていたペルポイの古い歌を歌い聞かせ、みんなで歌い、まず準備運動として徒手格闘の訓練。  これはラファエルが学んだもの。そのいくつかの動きはゾーマから学んだものでもある。  太極拳を思わせるゆっくりした、螺旋の動きで、深く腰を落とすので見た目より運動量が多い。  ごく基本的な動きだけを、何十回も丁寧に。アロンドも飽きもせずするし、子供たちも息を切らせながら真似する。  剣と盾を手に、突きと切り下げの練習を二百ずつ、そして竜馬に乗ったまま槍を投げる練習。  その単調さに疲れた子には、帆布を縫う仕事も大喜びだった。  昼食の習慣はないが、思い思いに昼休みを取る。〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉ともに常在戦場をモットーとし、野良仕事に出るときも、必ず一日分の湯冷ましと食物、薬や布を腰帯につける。腹が減ればそれを食べ、すぐに歯を磨く。  そして、何かを数えたり、文字を書いたりするのもやるし、釣りをする子もいる。 「ウリエル様の世界では、子は生まれて六年してから、学校にやられるそうですね」ローラが言う。 「ああ。複雑らしいけど、どうなんだっけ?」 「ええと、ウリエル様の世界も多くの国があって、国によって違うとか。いまだに女の子を学校に行かせない国もあると怒っていらっしゃいました。多くは、正確には生まれて六年めの、四月一日から学校が始まるとのことです」  サデルが細かく言う。 「ややこしい世界だな」アロンドが苦笑し、また数学の独習を始めた。  その広大な海岸森の中から、瓜生が作った航空写真を地図がわりに見ながら、一つの川の河口を選ぶ。河口と言っても湾に見える、普通の海岸線とあまり区別はつかない規模の地形で、しかも一面の森と海に方向感覚も狂う。  ロンダルキアから、何本も長い川が流れ、深い森が広く覆うこの地域は、王国などのない未開の地だ。  一度船が岸につく。そこには、岩山に隠された森と水田が複雑に並び、ロトの子孫と共通する特徴を持つ人々がいた。 「ここでも、ロト一族がゴムなどを育てているんだ」  常にルーラでの行き来はあり、皆顔は知っている。  そこでの夕食はアブラヤシ油で揚げた大きい川魚と木の実、そしてたっぷりの野菜と果物で、船旅に疲れた皆には最高にうまかった。  それから、森の中の川を遡り続ける。  広い川だが、それでも帆だけで航行するのは大変だった。風向きがいいときはいいのだが、逆風になれば、狭い範囲で鋭い上手回しをくり返さなければならないし、水深を測らなければ危険になる。  まあ水深はソナーで測れるのだが。  川を、何日もかけて遡る。人口の少なさが信じられないほど、豊かな森山が広がっている。  ついに、森と川の奥に、小さな村と、木々よりも高い塔が見えてきた。 「テパの村だ」  その村には、建物らしい建物が見当たらない。根元のほうが非常に太い、大きな木が生えているだけだ。  村の裏には大きな人造湖がある。  警戒されないため、少人数での上陸にし、大げさにはせず単なる旅人として訪れることにした。  村の入口の番人に一礼したアロンドが、山彦の笛を吹いた。こだまは返らない。 「ここは食べものがうまかったな」と、ついてきていた瓜生が言う。  さっそく宿に入ると、そこには何種類も酒があった。  甘い酒、泡立ち続けている酒、赤くぶつぶつが浮いた酒。干した果物や揚げた小魚をつまみに。  淡水で暮らすという蛸の酢の物と、カメのゆで卵を瓜生が、美味と懐かしさに満面を笑顔にして食べていた。アロンドたちもその濃厚なおいしさに大喜びしていた。  そして、彼らが驚いたのが村の武器屋・防具屋である。小さい村なのに、伝説級の隼の剣・水の羽衣・力の楯が売られていた。 「ベラヌールがどうかなってて、売り先がなくてね」と笑っていたが、皆は呆然としていた。 「この村はアレフガルドの、古い古い技術を伝えてくれているんだ」瓜生の言葉に、店主がにっこりした。 「そうさ、ゾーマが出るずっと前から、ご先祖様がアレフガルドから出て。そしてこの森の奥に隠れて、技を受け継いでいるのさ」 「病人とかがいたら、できる限りの援助はします。それで、これからも武器防具を売ってください」  と、今売られているのを全部買ったアロンドが大喜びで頼みこみ、さっそく病人や妊産婦の治療に走りまわる。 〈ロトの民〉の海外交易担当もこの村は知っていたが、生産数が多くないので、それほどの関心はなかった。集団騎馬戦法の〈ロトの民〉は、全員が持てる武器防具でなければならない。 「竜王との戦いでは、これらがあれば楽だったろうな」アロンドが言う。 「おれとガブリエラが、頼って努力を怠ったらいけない、と魔法の武器防具を遺さなかったんですが、それが誇大に解釈されてタブーになってたんでしょうね」と瓜生が肩をすくめた。 「ここは買う人の身元を厳しく確認しますし、世に隠れているロト一族にとっては訪れにくかったのです。それに、ある程度の魔法の武器防具は自分たちでも作れましたし、血筋と魔力こそ力です」とアルメラ老船長。  船に村人の長老格や職人たちを招いて、夕食にする。 〈ロトの子孫〉に多いジパングやサマンオサの伝統にアレフガルドの田畑、〈ロトの民〉のペルポイや遊牧民と、多くの源泉が高い清潔・栄養学の知識を背景に、時間をかけて混じり熟成している。  大きな肉鍋を皆で囲み、炊き込み飯の椀が配られる。  それにチーズ、豆と臓物の煮物、肉・魚・豆腐・チーズの串揚げや天ぷら、焼き魚、なれ鮨、コンビーフ、油味噌、納豆、漬け物、干し柿、餡菓子、フローズンヨーグルト、抹茶と多種多様な食物が次々と出る。そしてアレフガルドの隠れ里や大灯台の島で熟成された蒸留酒。  器も素朴な陶器、驚くほど薄い磁器、華やかに輝くガラス、なまめかしい漆器、豪奢な銀器、深みある銅器や鉄器が適切に使い分けられる。どれも瓜生が出した物ではない、〈ロトの子孫〉は隠れ里で、〈ロトの民〉は地下資源も豊かな島々で技術と美を高め、秘かな交易で世界の人々の鑑識眼に磨かれてきた品だ。それも高度な技術を用いる高い農業生産が産む余剰人口と教育、ルーラと信頼による緊密な情報交換があればこそだ。  舌の肥えたテパの人々も、その珍しい味に嬉しい悲鳴を上げ続け、音楽と、アロンドの語る竜王やベラヌールの冒険話を喜んでいた。  その楽しみの中も、ベテラン船長のアルメラが互いが必要する物を率直に伝えあい、交易についても細かくまとめている。  何よりアロンドとローラの、美貌と存在感と暖かさに、やはり村人たちも魅せられていた。  翌朝、村の許可も得て、村の南にそびえている、古い塔を訪れることにした。  テパの村にとっても重要で、実は魔力を帯びた武器防具を創るのにも、そこの助力が必要らしい。  人かどうかわからない、古い何かが住んでおり、それが魔力のある素材をくれる。そのかわりに村から、食物や衣類を提供するのだ。  木の実が入ったクッキーのようなものと、見た目は悪いがうまい蟻や水生昆虫の揚げ物を弁当にもらって、塔に向かった。  少し河を下り、対岸が見えないほど広い濠に囲まれた密林の奥にある。  大灯台に似るが、もっと基部が大きい塔の、最初の開かれた門をくぐる。内部にはいくつも扉が閉ざされていた。  その広い玄関で山彦の笛を吹くと、こだまがくり返し帰ってきた。 「ここにいる者よ、私はミカエラの子孫、〈竜王殺し〉アロンド。敵意はない、こちらに精霊ルビスより紋章が伝わっているのでしょう」  叫びに応えるように、扉が大きく開かれた。  人とは思えない、竜のそれに似た声が響く。 「勇者アロンド、禁断大陸の王よ。道をひらくがよい。月満ちれば欠け、潮は満ちて引く。運命を果たすがよい。風の塔・大灯台・ドラゴンの角それぞれに、今人を送れ。それぞれに待つ敵を倒せ。勇者アロンド、そなたはこの扉より入れ」  響く深い声と、その奥からの、巨大な気配。 「アダンのリハビリをしたいのですが」という瓜生に、アロンドが「風の塔を。その前に、ゴッサとムツキに精鋭を選ばせ、そしてヤエミタトロンをドラゴンの角に送ってくれ」と言う。瓜生はうなずき、両手剣を手に出すとゴッサを連れて消えた。  サデルに目を向け「ローラたちを送って、ジジと大灯台を」。  失った子の名に動揺しつつ、それを押し殺して微笑むローラとローレルの手を、サデルが握る。アロンドが三人に微笑みうなずきかけ、ルーラで消えるのを見送った。  アロンドは、ほかの〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉に「ここで待つように。あとの指揮はフェセが」とだけ言うと、そのまま扉をくぐった。  瓜生はゴッサを連れてアレフガルドにルーラ、夫サラカエルと共に再開拓に勤しんでいるムツキを訪れて雨のほこらに飛んで精鋭を五人集め、また大灯台の島に戻ると〈ロトの民〉のゴッサに命令を伝え、十人の騎兵を選ばせてドラゴンの角の北側に連れていった。  それから、大灯台の島にまた戻り、無人機につながるコンピューターの画面を見て、電波信号が示す場所にリリルーラで飛ぶ。  ロンダルキアの人気のない斜面で、ヤモリでも落ちそうな氷の断崖を裸の少年姿で登っている金髪の王子を見つけ、傍らに浮いている竜女を誘ってドラゴンの角の、南側に飛んだ。  それから、岩山の洞窟の奥に向かった。そこには巨体の、奇妙な肌の色をした少年がいた。  人間の魔法使いには到底不可能な、複雑な魔法図を周囲の壁に自らの血で描いている。正気の人間とは思えない。 「アダン」瓜生の声に、巨体の少年が振り向く。瓜生が静かに呪文を唱え、壁に描かれた魔法図が奇妙なうなりを返す。 「そろそろ、人間のふりをして人に混じることもできそうだな。思ったより早く安定している」そう瓜生は微笑むと、他の者のように触れるのではなく、呪文で移動先を伝えた。  二人が洞窟から消え、そして出入り口から風の塔に飛んだ。  ローラ親子を座礁船に送ったサデルが大灯台の前に降り立つとジジと、子供五人が待っていた。  リレム、〈ロトの子孫〉のラファエラとヘエル、〈ロトの民〉のトシシュ、ペルポイの奴隷だったジニ。  サデルが驚いているのを見、ジジはにんまりと子供たちに話した。 「いいかい、相手が心の奥底で期待している、けれどまさかと思ってることをやる。すると相手は、こっちを本物の魔法使いだと思う。それが奇術や占いの第一だ。本当に魔法や予言ができても、それができれば効果は大きいんだ、人間ってのは魔法や予言を見たいんじゃない。見たいことを見たいんだ。それを忘れちゃいい手品師にはなれないよ」 「で、でも、ルーラにしても早すぎます。予言ですか?」サデルが呆然とする。 「ウリエルのヘタレバカから電波モールス信号」と、ヘエルとジニが持っている道具を指さした。 「前には無力を教えたけど、今回は力ってのを教えてやるよ」と、ジジが言う。閉ざされている扉は、今大きく開いている。 「ほら、それぐらい着な」と言って、サデルが負っているAK-74の弾倉がいくつも入ったチョッキをサデルに渡し、ジジはさっさと塔に入っていく。  少年少女たちも、それぞれその体の割には大きな銃を手に従う。  ジジは銃は持たず、可愛らしい服装に装飾の多い杖。そうしていると魔法少女にも見える。  ゴッサとムツキを中心とした、十七人の人と二十頭の竜馬。十人が〈ロトの民〉の騎兵だ。  竜王との戦い、ムーンブルクでの穴掘り、またベラヌール解放戦で磨かれた最も優秀な人々だ。  巨大な竜馬、そして巨大な銃と大量の弾薬。  全員がAK-74を共通に持つ。  RPG-7、338ラプアとほぼ同じ338ノルママグナムをベルトリンク・交換銃身で連射するLWMMG (Lightweight Medium Machine Gun)が各四人。  さらに30kg近い重量がある、バルカン砲と同じ20mm機関砲弾を放つダネルNTW-20、M2以上の威力で歩兵が携行できるKord12.7mm重機関銃と破格な重火器も三人ずつ担いでいる。常の人馬には過ぎた重さだが、アリアハン王家の血を引く怪力ぞろい、馬も竜の血を引くといわれる巨馬だ。  騎馬の者は愛用の投槍も持っている。  命令すらなく、馬も人も歩調をそろえて北の塔に歩み入る。  十歳ぐらいに見える金髪の美少年と、美しすぎる女数人が、南の塔の入り口をくぐる。  次の瞬間、それは何匹かの、巨大な魔物の姿に戻った。先頭を率いるのは黄金の鱗と、人間の両手と瞳を持つ竜神王子。  アロンドを次々と襲う魔物、だが彼は一人で、やすやすと切り倒していく。  竜王を、そして子を狙った魔を、ベラヌールで下級神を倒し食らった彼の戦力は凄まじい。  そして、雷神剣とテパで買った力の盾。剣の魔力を剣にまとわせ、わずかな傷も確実に癒せる。  パペットマンのふしぎな踊りが脅威だが、雷神剣と力の盾があれば魔力がなくてもさして支障はない。毒に犯されるなどしたら祈りの指輪で回復すればいい。  グールやマミーを雷撃で焼き払い、稲妻をまとう剣で切り倒しつつ、一階ずつ登っていく。  弾倉二つ分残して撃ち尽くした銃はしまったまま。  登りつめ、そして別の階段から、群がるウドラーとブラッドハンドを焼き払って下への階段を走る。  そこに降りたとき、深い声がアロンドに呼びかけてきた。 「選ぶがいい、強大なる勇者よ。精神と時の部屋で半年を過ごすか、ウェスタロスの七王国で三年を過ごすか、ウリエルの故郷地球で六年学ぶか。どれもこの世界では半日じゃよ」  三つの、黄色・緑色・赤色の扉がある。アロンドは一瞬考えこんだ。  瓜生の世界でみっちり勉強するというのは、とても魅力的に感じられた。それほど長い間妻子や仲間たちと離れるのは辛かったが。  ウェスタロスというのは聞いた事がない。精神と時の部屋、というのも嫌な予感がする。 (単純に決めよう。短いほうがいいし、この黄色が気に入った)  それだけで、黄色の扉に手をかけ、開いた。 「別界からよく来た」と、一人の男が出迎えた。「ここが精神と時の部屋だ。普通はうちの時空から修行に入るんだが、特例でな」 (神)一目見て分かる。  そして、彼が示した別の扉を潜った瞬間、強い違和感を感じ、崩れ落ちそうになる。 (重荷を負ったか)と一瞬思ったが、違う。内臓からこの違和感がある。 「ここは重力が十倍だ。ちなみに大抵の、人が住む世界はほぼ同じ重力だ。そして寒暖の差も激しく、外界の情報は入ってこない。この部屋には生活できる食物などは出てくる。外を見てみい」  出たとき、何もないひたすらな広さの中の小さな建物に改めて驚いた。 「ただ、そちらの神から伝言がある。『勉強に必要な品は渡すように瓜生に頼まれた』」とその神が言って隅の、新しく作りつけられた棚を示す。  そこにはノートと鉛筆、小型テレビとDVDプレイヤーとかなりの数のDVD、大英百科事典、日本語での、中学および高校の全科目の教科書・受験参考書、国語・漢和・古語・英和・和英辞典・理科年表、何十冊かの放送大学テキストが収まっていた。  アロンドはそれどころではなかった。重力十倍、それだけでも過酷すぎる。スカラを唱えて、やっと内臓の痛みや貧血を感じず、まともに立てるようになる。  常人なら内臓の負担はなくても、体重六十キロなら五百キロ以上を担ぐことになる、立ち続けることも不可能だ。 「ギブアップならこの扉を開けるがよい。二年以上ここにいてはならぬ、閉じこめられる」と細かな注意を受け、修行の日々が始まった。  過酷な気温の変化、特にマイナス四十度の極低温を、雷神剣の魔力で暖めた岩でしのぐ。  そして瞑想、勉強、修行をバランスよく配分し、厳しく自らに課した。  勉強面でも天才にほかならない彼だが、瓜生から最近拾ったジニという子の、桁外れの神童ぶりを聞いている。  瞑想していると、二度の試練のことを思い出してしまって、絶叫することがたびたびある。  一人の、若い兵士としての記憶。体験だけでなく、普通教育を受けていたことも記憶として蘇り、統合されていく。  そして、アドルフ・ヒトラーの全ての記憶。大英百科事典から、ヒトラーやナチスドイツ、ドイツやホロコースト、ユダヤ人など関連項目は何度も詳しく読み返し、放送大学のテキストやDVDから選んで繰り返し学びなおした。  なぜ。どうしてあんなことに。  その自問から逃れて、瞑想だけに集中できることもあった。  また、この人生自体の波乱も。竜王との戦いも。  勉強でも、純粋に数学や物理学だけを学んでいると、心騒ぐことはなかった。  剣の一人修行、銃の分解再組み立てや走る・伏せる・狙う訓練をくり返していると、両親と過ごした日々や一人での放浪を思い出し、涙することも多い。  三カ月ほど孤独な日々が続き、突然扉が開いた。 「新しく、われわれの時空から修行したい、という子がいてな」  と、もう顔も忘れかけた〈神〉…界王神がいう。  扉を開けて顔を出したのは、二人の少女。二人とも十二歳ぐらい、長いこと顔を見ていないリレムやラファエラを思い出す。  一人はショートカットで、気が強そうな子。もう一人は柔らかい感じで眼鏡をかけた、髪の長いオーバーオールの子。  二人の青年に見える人物が、後ろからついてきた。 「先客がいたんだ、おっす!おら悟空だ。孫悟空」にこっと、笑う。 「んちゃ、アラレだよ!」と、オーバーオールのほうの女の子が元気に叫ぶ。 「娘のパンと、その親友の則巻アラレです。ぼくは孫悟空の息子、孫悟飯です。娘が少し徹底的に修行したい、ということで、よろしくお願いします」と、もう一人の青年が物柔らかに言う。 「勇者ロトの子孫、アロンドです」  自己紹介しながらも、アロンドは腰を抜かしそうだった。 (次元が、違いすぎる)  アラレ、という子の力は奇妙にも読めない。だが、孫一家の戦闘能力の、とてつもなさが彼にはわかった。  神々と即座に察した、案内の男と比べても何十桁も上だ。 (竜王を倒した。ウリエルが変じたゾーマや神竜にも、修行次第で勝てるかもしれないとは思えた。だが、この二人……)  目を見開き、その底なしの力の差が見えてくる。彼らにとっては、惑星を砕くことがたやすいことを直感する。 (私は、小虫にすぎない。どれだけうぬぼれていたんだ)  二人の青年……実は一方は、孫がいる年齢だが……は少し苦笑気味にその反応を見た。  目の前の、恐ろしく美しい青年が善人で、真摯な武術修行者だと、二人にはひと目見て分かり即座に信頼した。  可愛い娘に別れを告げ、孫父子は扉を閉めて去る。  二人の少女に囲まれたアロンドは、とりあえず精神と時の部屋の説明を始めようとするが、アラレという子はもう外に走り出してしまった。 「うっほほい、重い重い!広い広ーい!」と嬉しそうに叫びながら、十倍重力で軽々ととんぼがえりをして、とてつもないスピードで。 「パンよ。よろしく」 「アロンド。よろしく」  アラレを見守りながら、どちらともなく互いに構える。アロンドは雷神剣を出しているが、女の子相手に武器も卑怯とは思わない。  それほどの力の差があることは、はっきりとわかっている。だが、実際に始まれば、それは感じたよりはるかに巨大な差だった。  スピードがまったく違う。元々まともな人間の何倍も速く、さらにピオリムをかけたアロンドの、その目で追うこともできない速さで懐に飛びこまれ、軽く押されるだけで吹っ飛ばされる……竜王の尾より強烈に。  アロンドの剣技はアラレとパンとの修行で、急速に変わっていった。天才なのだ、二人に比べどれほど弱くても。  勇者ロト、ミカエラ……アリアハン王家ともつながり、独自の、魔法剣の資質を持つオルテガ家。そしてミカエラの母、雷神の血を引くと言われ稲妻の剣を使え、雷電呪文を唱えられるネクロゴンド王家。その双方の血。  さらに、アリアハン王家直系のラファエル。アリアハン王家は代々、普通でも常人の何倍もの大力を誇る。  その血筋を引き、天才とされ、そして多くの魔物を倒してその力を食らってきたアロンド。  剣技はランシール神聖騎士団ともつながる、アリアハン王家武術師範でもあるオルテガ家の技を、主にカンダタから受け継いでいる。極めれば魔法剣にもつながり、素手の技とも共通性が高い。  そして素手の技。〈上の世界〉で伝えられた拳法で、レベルが上がると烈光拳、伝説の過剰治癒呪文、マホイミの魔力をインパクトで爆発させる魔法攻撃ともなり、またその変形は物体にも高い破壊力を持つ。だがその真の祖はかの大魔王ゾーマであり、ラファエルはゾーマ自らに、失伝していた技も含め源流を直接、比喩でなく生命と引き替えに体に叩きこまれた。 〈ロトの子孫〉として、アロンドは拳の達人だった父親、剣と射撃の名手だった母親から剣と拳の双方を徹底的に教わっていた。  それに豊富な実戦経験と、それで倒した魔物たちから喰った力が加わり、元からの怪力に加えとてつもない強さになっていた。魔法無しの単なる体力でも、重量挙げで瓜生の故郷の世界記録の百倍にはなる。  だが、この二人の少女は、そのアロンドから見ても桁外れに強い。  アラレは、何の武術も知らない。動きはめちゃくちゃで性格は自由奔放、水や食物も口にせず排泄もせず、ロボビタンAという哺乳瓶に入ったドリンクばかり飲んでいる。  単純に、力が人間に比べ強いのだ。天文学的に。それゆえにスピードも音速を超える。疲れも知らない。  パンの、単純な体力はアラレほどではないが、常人より何桁も上だ。アロンドよりも何千倍も。だが、魔法に似るが、アロンドたちとはまったく違う源泉から引き出すとてつもない力を自然に操り、時に集中して放てばこれまた惑星破壊級となる。魔法としてそこまで引き出すのは、自己犠牲呪文としても想像すらできないことだ。  そして彼女の特異な武術流派も、アロンドは徐々に理解した。普通の人間は鍛えても筋肉が肥大するばかりで、それ以上強化できない限度がある。だがその流派では、長い時間の共同生活の間、魔法に似た力を無意識に使って、筋肉の肥大なしに体力を、事実上際限なく強めることができるようにしてしまう。その上で激しい鍛錬により、毎日極限まで疲労して動きの無駄を消し、正しい歩法や拳の出し方ができるようにしてしまう。また魔法とは全く違う生命力の源泉から巨大な力を引き出し、肉体の強度も銃弾で傷を負わないほど高める。さらにパンたち、孫家は人間とも違う何かがあり、その力が元々桁外れに強い。 (これは真似できない)アロンドには、そのことははっきり分かった。何かが違う。  とにかく桁外れの力、常人が巨大パワーショベルを相手にするようなものだ。  まともな打ち合いでは全く勝負にならない、交通事故のように吹っ飛ぶだけだ。回避だのフェイントだのは問題外。その相手に、アロンドの天才は自らの剣と拳を統合し、深く深く磨き上げていった。斧を研いで針にするように。  攻撃と防御を一体化する。盾で防いで剣で突く、など不可能……盾で防いだら体ごとはるか彼方に吹き飛ぶだけ、また防御から攻撃に移る間に、アラレもパンも十回は飛び下がって構えなおし再攻撃できる。  決める攻撃だけ、防御と攻撃を一つの動きで同時にやる。それができるのが、ラファエルがゾーマに学んだ奥義だ。  オルテガ家に伝わる剣技も、高めれば攻防一致に至る。二の太刀不要の一撃が自然に螺旋を描き、最小限の振りかぶりで摺り上げそのまま斬る。  150㎝もない武術家が、220cm200kg、100m走11秒台のNBA・NHLレギュラーの全力パンチをさばいてカウンターを狙うようなもの、実際の力の差はミジンコと原子力空母。極限まで小さい動きに全身を集中しなければ、触れることもできない。  アロンド自身の天才も、ほとんど自爆せんばかりに解放し、ダッシュして槍を投げるように全身の力を使い、示現流のように捨て身で叩きつける。それを、綿密なタイミングと間合いで、針の穴を通すように一点に集中する。  魔法で限界を超えて身体能力を強化し、その上で完全に力を抜いた状態から、(斧を研いで針にする)と自分で言い聞かせ、全身の力を螺旋に沿って、一点に集中。ほとんど動いているとも見えない、無拍子の寸打。  間合いを綿密に調整して自分に有利な角度を作り、限界まで加速し魔力を極限まで一点集中し、瞬間的に攻撃力を実質無限にして捨て身の相打ち。  相手の動きを読み、また何手も先から操って、思い通りの動きをさせて追い詰め、打撃から切れ目なくつながる投げ技。  それらが、十回に一度成功するかどうか。それが毎日のことだ。  残りの九回はアロンドが吹っ飛んで重傷を負い、力の盾で癒されるだけだ。そして一回の成功ではアラレが一瞬動きを止めて戸惑い喜び、パンは重傷を負って癒されそのたびに何倍にも強くなる。  遠距離戦でも、アロンドの雷神剣の力や雷電呪文を剣に乗せ放つ魔法剣や稲妻、多様な攻撃呪文と、パンのかめはめ波やアラレのんちゃ砲がぶつかり合う。  かめはめ波は、集中すればそれこそ惑星破壊級の威力になるが、連射が難しい。連射が遅いのはんちゃ砲も同様だ。  それに対し、雷神剣を乗せ、剣技の応用で遠距離射撃にするのは連射もできるし、攻撃呪文は実に多彩だ。  アロンドは一人稽古ではできる限り大きく、全身で、ゆっくりと基礎練習を繰り返す。一日に一つの動きを、一万回。十倍の重力では十回でも地獄の負担になる。それが、組み手での、小さい動きでの一点集中につながっていく。  パンも才能はあり、その動きを真似て急速に学び、成長していく。  アラレは、あまりそれらに関心はないようで、奔放に踊っていることが多い。  勉強も、一人ではなく三人だと楽しくできる。パンは翻訳機を持っていたし、アラレはどんな言葉も短期間で習得し、数学の能力がめちゃくちゃに高い。  そしてパンは魔法も学び始めた。亀仙流とは違う力の使い方は、彼女にはとても珍しかったようだ。アラレは魔力も生命力も不思議と全く使えない。彼女が人間でも、生物でもないとアロンドが理解したのは、十日ほどたってからだ。  瞑想も変わらずやる。その間は、パンとアラレは次々に新しい遊びを思いつき、楽しんでいた。  アラレの奔放な、楽しみを見つける天才には、アロンドはいつも驚きながら共に楽しんでいた。彼の、普段他者には見せない奔放で苛烈な部分が彼女の前では平気で出せる。感情のまま全力で叫んでも、彼女は人を笑うが軽蔑しない。  そしてパンの強さと弱さ、普通の少女としての面には、年長者としてアロンドは自然に接することができる。優れた指導者である彼は、とてもいい教師、兄代わりとして接してもいた。  パンとアロンドが常人には考えられない大量の食事を詰めこみ、アラレはロボビタンAを飲んでいて、いきなり脈絡なくお芝居を始めたりもする。  朝、極寒が灼熱に変わる地獄の中、アラレの「んちゃ!」という大声と共に三人が起き出し、食事をとる。  寝る場は、ちゃんと本で壁を作っているので、プライバシーは保たれている。  まず三人で食事。ちゃんと出てくるのが不思議だ。それを、アロンドも十人前、パンは百人前はぺろりと平らげる。アラレは食事はせず、ロボビタンAを飲むだけだ。  それから、涼しい時間帯に三人で二時間ほど勉強する。  アロンドはアラレに数学を教わり、パンは祖母のチチに持たされた宿題に悪戦苦闘している。ただ、アラレはすぐに退屈になり、遊びたがるので、アロンドとパンが新しいダンスを創作して踊ってみたり、何か物語を考えて劇にしたり、と脱線することも多い。  それからアロンドとパンはストレッチを済ませ、瞑想する。そうしていると、十倍の重力が恐ろしいほど体にのしかかってくる。  アラレが「遊ぼう遊ぼう」というのに答えて、まず鬼ごっこから。音速の。  十倍の重力と希薄な大気だが、アロンドもパンも100m二秒かそこらで走り抜ける。ただ、アラレはこの重力でも音速を超える。アロンドはトベルーラ、原理的にほぼ同じだがパンは舞空術で全力を出せば、ある程度勝負になる。  それだけで、基礎的な運動としては充分だ。  そして、一汗かいて、パンがたっぷり食事を取ってから、三人での組み手となる。 「今日は、二人でかかってきてくれ」アロンドが言って呪文を次々と唱え、右手の手刀をやわらかく伸ばすと、それが少し伸びて稲光をまとう。もう、彼は雷神剣を、自らの肉体と魂に吸収したのだ。  彼の呪文は、竜王を倒してから瓜生に習ったこともあり、かなり多い。ギガデインやベホマズンはもちろん、メラ系・イオ系・ヒャド系、バイキルト・スカラ・フバーハ・ピオリム・マホカンタなど僧魔問わない。  スカラは、この十倍重力で脳と内臓が潰れないためだけにも必要だ。それを重ねてかけ、バイキルト、ピオリムと強化する。それも、瞬間的・爆発的に増幅させた魔力でかけているので、普通の魔法使いが唱える呪文よりはるかに強力になる。 「ベギラマ!」  一点集中したベギラマのレーザーが、ほぼ同時に何発も宙に生じ、多方向からアラレとパンを狙う。 「うっほほーい、プロレスごっこ」と、アラレが100m以上の距離から、マッハ2=秒速700m、十分の一秒で到達している。  増幅されたピオリムの認識能力、十倍の重力さえも助けにして、ごくわずかな動きでかわし、アラレの足首を蹴りながら左手をわずかに動かしただけに見える。ちなみに、その蹴りは岩を粉砕できるほど全身の力を集約している。同時に防御の手は部分的なアストロンで強化され、爆発的に魔力を集中させたイオラの衝撃で、自分とアラレ両方に巨大な力を加える。  アラレが転んで吹っ飛ぶが、アロンドもかなりの距離を吹っ飛ぶ、そのことでパンが放った光球の一発目をかわし、着地点にももう一発が飛んでくるのが分かる。  それを、右肘が別の光に一瞬、閃光のように輝くと弾き返す。増幅し、一点集中したマホカンタ。 「メラゾーマ!」  瞬間的に魔力を拡大しての呪文に、普通のメラゾーマの大型火球ではなく、美しく輝く炎の巨鳥が出現する。直後右手刀で狙うと雷神剣の雷光が放たれる。雷光は鋭い矢となってかわしたパンを、ホーミングで狙い続け、よけたところに熾炎の鳳凰が襲う。 「やるわね」  と、その二発を深呼吸が必要な気弾を両手から同時に放ち、弾き消したパンに、もうアロンドが突撃している。  空中で方向転換、迎え撃ったパンだがアロンドは急停止する。  そこに、別方向からアラレ。アロンドは先に、加速呪文を爆発的に高めていた、その最高速度でわずかに動き、アラレの手と腹に超スピードで触れる。合気道に近い、相手の力を利用し重心をかすかにずらす投げ技だ。  吹き飛ぶアラレに雷神剣の雷撃を一発放った、そこにもうパンが迫り、超音速の拳を突き出してくる。  だが、アロンドが見せた隙は、わざと。一瞬の間に、反撃するかわりに脱力する。  数千分の一秒で迫る拳。ほんの一瞬部分的にアストロンをかけた腕で螺旋にそらし、引くこともなくその手で攻撃が延びきった瞬間のわずかな無防備に、ギガデインの全魔力を雷神剣を変形させた金剛不壊の手刀の先端に一点集中、気の鎧の隙間を針のように貫く。  そらしてはいても、拳も当たる。相打ちはもとより覚悟の上、わずかに角度を変えただけで致命傷は免れる。  その、二人の力の爆発に二人とも重傷を負って吹っ飛ぶ、がどちらもひるむことなく、また切り結ぶ。  アロンドは完全に捨て身。防御を一切考えない、死人の剣。そしてかすかな身じろぎにしか見えないほど、全身の力を寸打に集約している。何百倍もの速度の差に腹を貫かれていても、なおもパンの体をとらえ、貫いている。  アロンドが、最後の意識でベホマズンを唱え、二人とも死を免れる。  それで体が癒えてから、またしばらく勉強して、アロンドは一万回の基礎修行を行い、パンはそれに混じったりアラレと遊んだり。  あとはゆっくりアラレ主導で遊び、それから体を洗い食事を済ませ、泥のように眠る毎日だった。  結局、それから二カ月ほどしてアロンドが体調を崩し、ギブアップした。  毎日瀕死の重傷を負い、魔力で体を強化していないと脳や内臓が重力にやられて数分も生きられない生活には、もう限界が来たのだ。  もちろん彼は成長したが、それでも核武装した巨大空母を前に蟻が成長したようなものだ。  スカウターで言えば、174から1300に伸びたぐらい。魔法剣を限界まで集中しても瞬間的に十万程度、惑星破壊は無理で近距離打撃にしかならない。  二人とも別れを惜しんでくれた。パンは師としての敬意をこめて。そしてアラレは、限りない楽しさを全身で表現し、再会を心の底から信じきって。  瓜生とアダンが、広い塔を歩むと次々に魔物が襲ってくる。  アダンは自分がなにも持っていないことに気がつき、拳を固めて殴ろうとするが、その瞬間に硬直し、動けなくなる。 「お前は本質的に道具だ。自分の意志で戦おうとすれば、自衛であっても破壊の剣の呪いで硬直する」  瓜生が、悲しげに告げ、魔物を散弾銃で一掃すると、小さく呪文を唱えた。  アダンの巨体が煙と泡になり、姿を変えていく。床に長い不定形の長剣が転がる。その柄頭から伸びた蛇が護拳となり、そのまま刀身に絡みついている。その蛇が、自らを見て、惑ったように長い毒牙をむきだし液を滴らせた。 「それが今のお前の本性だ。破壊の剣。魔毒」瓜生が語りかける。「今のお前は、破壊の剣と魔毒が、カンダタの血筋からくる力で人の姿をしているだけだ。喜ぶんだな、最強だ。お前の体液は全部猛毒であり、また必要を感じればどんな薬でも作ることができる。暗殺者としても医者としても究極だ」  そしてまた呪文を唱えると、アダンは人の姿に戻る。 「モシャスとドラゴラムの応用変形で、姿を維持するんだ。ああ、シシュンさんの魂があるからな、呪文も全部使えるよ」  瓜生が笑いかける。その最中にも、多数の魔物が群がってくる。 「馬が欲しいんだが」アダンが言うが、瓜生は患者に死を宣告するときの冷徹な表情で答えた、 「二度と馬にも乗れない。ラーミアでもお前に乗られれば死ぬだろう。人に触れることもできない。おそらく不老不死だ」 「ふざけんなよ!冗談じゃねーよ、馬に乗るほど楽しいことはねーのに」と、駄々っ子のように泣き叫び、地団太を踏んでこぶしを振り回した。  それで壁が崩壊し、襲ってきた魔物たちが次々に消し飛ぶ。 「単純に体力だけでも充分戦えるが、戦法の幅も広げておいたほうがいい。少し、かりそめに道具として使わせてもらうよ。だから硬直せずに戦える……命じる、戦え」と、瓜生がまた呪文を唱えた。  突然足元からマドハンドがアダンの手をつかむが、その瞬間にその手が絶叫を上げ、腐り散った。だが何十、何百といる! 「つばを吐いてみろ」  アダンがそうした瞬間、無数の手のすべてがもだえ苦しみ、砕け散っていく。 「別の戦い方もあるだろう」という瓜生が見る先には、巨大すぎるアークデーモンの姿がある。  アダンの下半身がケンタウルスのようになっていく。馬とは微妙に違い、前半は鱗に覆われたドラゴン、だが後脚はダチョウのようにしなやかに。前脚には鋭い鉤爪。その体の上に、人の上半身が乗っている。 「どうすりゃいいか、なんかわかるな」  とアダンが髪を手ですき、その数本を手に取った。瞬間、毛髪が2mに及ぶ黒い蛇に変じ、蛇が直線に伸びて固まり槍となる。  そのうちの一本は、異常に長い投槍棒となり、手に納まっている。 「打て」瓜生の声、慣れきった投槍のフォームで、投槍棒で延長された腕から鋭く槍が放たれる。  鉄蛇は凄まじい速度で、〈ロトの民〉の標準の倍以上飛んでアークデーモンに突き刺さった。  その表情が、瞬時に激しい苦悶に変わり、全身をかきむしりながら巨体が斃れ、おぞましい泡と化して崩れていく。  威力に、人間の姿に戻ったアダンは呆然としていた。 「いろいろな戦法を試すんだな。その魔毒体は、さまざまな使い方ができるぞ」と、瓜生が別の呪文を唱える。  恐ろしく長い、指程度に細い蛇が、アダンの髪から伸びる。 「そっちにのりうつって動かす。自分も行動しながら蛇も動かす練習もしておくんだ」  みるみるうちに、蛇が凄まじい速さでくねりながら、そこらに転がる壁の瓦礫としか思えなかった岩にまきつき、すさまじい力で締め上げ一瞬で砕く。末期に唱えられたメガンテ、だがそれは瓜生はあっさりマホカンタで跳ねたが、アダンには通じていない。 「魔王級、ってわけだ。ザキ系も効かないだろう」瓜生が微笑み、また塔を上り続ける。  次の段には、「我を破壊せよ」と書かれた、大きい家ぐらいのサイズの鉄の塊があった。 「今度は、武器としての自分の使い方もやってみよう。こう魔力を編んでおくんだ」と、瓜生が魔力を伝え、自分はエルメスの印がついた馬具を出し、モシャスを唱える。  アダンの姿が、また変形する。一度、蛇が伸びる剣の姿になってから、下半身の蛇が変形し、美しい黒馬の姿になる。  そして、尾が長い蛇のように伸び、その先に優美な剣が伸びていた。  瓜生は、アロンドに姿を変えていた。 「背中の鱗で、自分の毒を遮断してくれ。制御できるだろう?」と瓜生の口調で言うと、出した馬具をその美しい馬につけて飛び乗り、その尾の先の剣を手にした。 「いくぞ!」  魔馬が凄まじい速さで駆ける。  瓜生/アロンドが絶叫し、破壊の剣を鉄塊に突き刺す。その突きの延長線がメドローアのように消滅すると、その周囲が、まるで砂になるように崩壊し、音もなく崩れ消え去っていった。 「ま、こんなもんだ」  と瓜生が馬を下り、二人とも変身を解除する。そこは、塔の一番上だった。 「いい景色だな」  瓜生がアダンに笑いかけた。 「ああ」  アダンも、かつての少年の笑顔で広野を見回す。  塔を囲む、長い草に囲まれた野原。その野原が徐々に山がちになり、西や南は山脈になっている。  その山脈のさらに南には、果てしないロンダルキアが雲を貫いてそびえている。  東側は細長い湖や、その中の砂島が広がって見える。  北には森があり、そのところどころからは人の炊ぎの煙もかすかに見える。  じっと、戦いの中、生きるために人をやめてしまった少年の魔力を感じつつ、瓜生は広い世界を見回していた。 「これで、この塔はクリア、だな。でも、もう少し修行しておくか?それとも、大灯台の島に戻って、人に混じって暮らしてみるか」  瓜生の言葉に、アダンが泣き出した。  その涙が、古き塔の不滅の煉瓦に激しく反応し、煙を上げる。 「うああああああああ、うわあああああああああん、ばあちゃん、みんな、アロンド、トシシュ……」何人もの、親しい〈ロトの民〉たちの名、愛する竜馬の名を泣き叫び、塔を叩き続ける。  何時間も、泣き叫び続けてから、アダンは言った。 「戻る、でも修行もする」 「それもいいか」と、瓜生はルーラを唱えた。  言った先は、凄まじく急峻な岩山に囲まれた盆地の、広い毒沼。 「ちょっと手伝ってくれ、この強さでメラゾーマ」と、瓜生がメラゾーマを一度岩山に唱えて、そしてマヒャドを唱える。 「メラゾーマ、そんな大呪文使えたことねえけど」 「今のお前には簡単だ」  こわごわと呪文を唱えたアダン。その炎に、瓜生はマヒャドの火力を調整しながら手を近づける。  相反する魔力がぶつかり合い、融合し、物質の根源をむき出しにさせる。 「メドローア!」  巨大な岩山に向けて放った呪文、その光が岩を貫き消し去り、直後に当たった、奇妙な紋様を刻まれた岩に吸収された。 「魔力そのものを吸収する壁、ってわけだ」  と、瓜生が中をのぞく。底知れぬ、複雑な洞窟が深く深く広がっていた。 「ロンダルキアに至る洞窟だ。とことん広いから修行し放題。もうここにルーラできるだろう、いつでも修行ならここでやればいいさ。魔物もたくさんいるし、いくら暴れてもどこからも文句は来ないよ」  瓜生が笑いかけて、 「さ、大灯台の島まで、ルーラをしてみてくれ」  涙で腫れた目で、アダンが呪文を唱え、瓜生と共に消えた。  ゴッサ率いる精鋭が一階に入ると、そこは広大な山岳地帯だった。  遠くから、軍勢の土煙が上がる。 「戦闘準備。本隊は待機、ムツキ隊は遊撃。俺は交渉に向かう、俺が死んだら指揮権は規定順」  最低限だけぼそりというと、アダンは単独で広い河原を選び、馬腹を蹴る。  選び抜かれた巨大な竜馬が、凄まじい速度で原を駆け、突出した。 「何者だ!話せないか」と、ものすごい大声が小さく頑丈な体から放たれる。  だが、答えは銃声だった。  ゴッサは平然と手旗を両手に抜き出し、いくつかの形をとる。敵には幻影を見せていた。 「敵は手旗信号を使っています、ボーイスカウトで習ったものとは違います」と敵兵の一人が叫ぶ。  幻影に攻撃を続ける敵軍を、横から数発の狙撃が襲い、一人が体半分ちぎれてくずおれる。だが敵はうまく体を隠しているので、確実な狙撃は難しい。  ゴッサは旗をしまい、機関銃を片手で射撃しながら突進した。  背後から、騎兵が急峻な岩山を芝馬場のように凄まじい速度で駆け、遠距離射撃で援護しながら追随する。 「敵は対物ライフルを使っている!迫撃砲と対戦車」と、テント脇で伏せながら叫ぶ敵軍指揮官。  そのそばに、突然姿を現した黒髪の美女が、伏せている膝裏を蹴り砕いて制圧、指揮官が腰にしていた銃剣を抜いてその首に突きつけ「降伏せよ」と叫ぶ。 「私ごと射殺し副官に指揮権委譲、任務を続行せよ!」叫んだ指揮官、銃が構えられた瞬間、ムツキがルーラの呪文を唱え終え、ふっと消えうせた。ゴッサの近くに出現して報告する。 「指揮官は即座に自分ごと射殺するよう命じたわ。士気は高い」  ゴッサが黙ってうなずくと、突然旗を軽く振る。  全員が素早く竜馬を滑り降り、馬を窪地に隠して銃を手に岩に隠れる。  そこに、次々と銃弾が着弾する。敵も機関銃を用意しているし、ゴッサはその射程を正確に見切っていた。  別の部下がルーラでゴッサのそばに出現し、もう簡単に描かれた地図を見せる。レムオルで姿を消したまま、トベルーラでしばらく高度を維持して描いたのだ。  その地図を見て、素早くいくつかの指示を出し、何人かがルーラで消え、また出現する。  騎兵が、敵の射程ギリギリをかすめて方向転換しながら連射を放つ。騎馬民族ならではの、アウトレンジからの飛び道具戦法。  実際の何倍もの人数が、少しだけ射程外に、長い塹壕線を張っているようなものだ。塹壕戦のように人数を集め浸透しようとした、そこを囲むように騎馬が駆け寄せ素早く馬を下り、馬も姿勢を低くさせて機関銃を連射し、即座に馬に飛び乗って対応できない高速で移動する。  山岳地帯ではあるが、ロンダルキアの峻険を山羊のように跳ね駆ける角馬にとっては大平原と変わらない機動性を保つ。  動きが比較的少ないゴッサの本陣に、敵兵が徐々に接近する。最初はAK-74で応戦しているが、突然重機関銃や20mm機関砲弾対物ライフルが発砲され、20mm榴弾が掘りあげた土手をぶち抜きその裏で爆発する。  そこに、また巨馬に飛び乗ったゴッサたちが、フルオートの圧倒的な火力を注ぎながら一気に前進した。  敵が準備しようとする迫撃砲が、大口径の狙撃銃で次々と粉砕され、弾薬が誘爆する。  藪のある曲がり角に向けて突進する騎馬隊。それが突然急停止すると、岩陰に滑りこむ。同時に、その角を覆う藪に向かって、1km以上を余裕で射撃できる中機関銃の338ノルママグナムが三方向から唸り、曲がり角を囲むように隠れていた敵が何人も倒れ、あるいは必死で逃げる。  悔し紛れのように、爆発が藪を吹き飛ばした。 「なぜわかったの?」ムツキの問いに、 「待ち伏せの適地」とだけ答える。曲がり角に突進していたら、三方向から注がれる弾幕とグレネードランチャー、仕掛け爆弾に粉砕されていただろう。  ムツキはにっこりと、身軽に飛び出す。  そこに左側の窪地から轟音と共に戦車が飛び出し、巨大な火砲がゴッサたちに放たれるが、一発目は幻影を貫くだけ。  無差別に重機関銃を発砲する戦車兵の頭の上に、姿を消した魔法使いがトベルーラで着地してイオラ、戦車は炎を噴いて沈黙した。  散開して戦い続ける敵兵の中心を、大口径の機関銃の筒先をそろえた騎兵が突っ切り前線を大きく進めて峠を占領する、それを狙う兵の背後、近距離にいつの間にか隠れていた兵のAK-74や火球、奇妙な軌道で土手を乗り越えタコツボの中にも飛びこむ刃ブーメランが襲う。  騎兵の圧倒的なスピードと、重い大口径弾薬を大量に運搬する機動力。AK-74も、それほどの威力はないが射程が長く、大口径がもったいないと判断すればそちらで弾幕を張る。  機関銃で迎撃しようとする者を、あちこちから大口径狙撃や重機関銃の連射が正確に襲う。ゴッサの側には魔法がある、上空からの偵察や幻覚を自在に使う。  音も銃口炎もなくライフルに匹敵する遠距離に刺さる鉄投槍も、特に夜間や薮では脅威だ。  戦いは、丸3日続いた。敵は多いが、こちらは竜馬が疲れれば乗り換えて駆け続け、うまく隠れ場所を見つけては人馬に交互に仮眠を取らせた。  敵は赤外線暗視装置を持つが、ゴッサたちはその装置のことを知っている。事前に魔法の明かりで照らし、人体の温度に暖めた人形をいくつか動かしておびき寄せ、夜襲隊を逆に包囲殲滅した。  そして残る敵がついに降伏したところで、ゴッサたちはぴたりと攻撃を止めた。絶対に虐殺・拷問・強姦はしない。 『何者なのだお前たちは。騎馬の敵を無力化せよとの命令どおりに攻撃したのだが、コミックヒーローたちか?』絶望を怒りにしてわめく指揮官に、 「最初に交渉を求めたはず」ゴッサが日本語で言う。 「日本語か?命令、された無力化、せよ」指揮官が手を挙げたまま怒る。 「その命令自体が、この場を作った」神、と言おうとした間に、広大な山野は消えて、小さな塔の一階に変わり、目の前に階段がある。 「死傷者は?」 「ふざけたことを……あ、死者はなし。負傷者五人、治癒呪文で治療しました」ムツキが、ゴッサの目にびくっとして報告する。ゴッサは神にも部下にも、感情をぶつけるだけの余計な言葉は口にしなかった。  先進国陸軍の、戦車の支援がある一個中隊を、わずか十七人で壊滅させたのだ。  ガライの墓の試練に失格した者の多くは軍隊で訓練され実戦を経験し、中には特殊部隊の訓練を耐え抜き一員として戦死した者もおり、彼らを中心に徹底的に、騎馬・銃・魔法・剣を融合させた、近代的な戦術を訓練していたのだ。 『敵軍も元の世界に戻しました。死者も負傷者も無傷にし、記憶も消しています』と、奇妙な人ならぬ声が響く。階段には、ちょうど使った分の弾薬や、三日分の食料が用意されていた。  食事とわずかな睡眠をとり、階段を登る。  二階。そこは、まるで深い廃坑の奥のように暑かった。  ゴッサは、何か言おうとして全員の手を見、腰の水と梅干を軽く叩く。全員がうなずいた、水分補給と塩分補給を忘れるな。  その洞窟の奥に、巨大な蛇がわだかまっていた。  巨大すぎる。いくつもの首、一つ一つの太さは人の身長以上。  進み出ようとしたゴッサが、その凄まじい邪悪を感じて、即座に旗を振って絶叫した。それで硬直が解け、大量の大口径射撃が、巨大すぎる肉の塊に襲いかかる。  竜馬が叫ぶのを抑えた騎馬の民が、鋭く突進して針路を変えつつ、鋼の細槍を次々と放ち、それが巨体に深々と刺さる。  騎馬を追い、炎を放とうとする首の一つに、ムツキが駆け寄ると全身から放つ一撃が閃光を放ち、硬い首が溶け崩れ炎が自分の喉を焼き、激しく暴れる。  そこに、また巨大な大口径弾の嵐が叩きつけられ、あっという間に長い肉と魔血の塊にする。  銃口炎に照らされた洞窟で、巨大な蛇が動きを止めた。 「先祖からの伝説にある、勇者ロトも苦戦したというオロチを、こんな」ムツキが、自分たちの戦力に呆然とした。  それだけではなく、ゴッサの存在もあった。神々に属するオロチは、重火器があっても人には恐怖で動けない。  そのことで、あらためて皆がわかった。ゴッサにも勇者の資質があることに。  三階。バラモスがいた。  巨大な体躯に、クチバシのような長い顔。優美ともいえる仕草で立ち、そして凄まじい速度で駆け、襲う。  数人、軽量なAK-74に持ち替えた者がいて、その銃弾が数十発は命中したが、ろくなダメージもなく馬群に飛び込まれる。一頭の竜馬が一撃で、肉爆弾のように血の噴水となる。  その一瞬の間に、狭いが充分な空間に、馬のスピードを使い三箇所にがっちりと陣を固め、ムツキが拳で応戦した。  かつての、勇者ロトことミカエラとバラモスの戦いのように、力と技の激しい戦いが巻き起こり、同時に炎と呪文が次々にゴッサたちを襲う。  だが、ゴッサの率いる精鋭はひるまない。巨大な大口径銃を二脚でしっかりと据え、充分距離を取って、高速で戦っているバラモスとムツキを狙い、数人はしっかりと周辺を警戒する。  何度も輝く拳が決まっているが、それ以上にバラモスの動きは速く強い。  竜王軍との、〈ロトの子孫〉の戦いで戦術は磨かれている。ムツキは特定の準備動作から体を床に這うように低くする蹴りを放つ。その瞬間、高速の銃弾がその頭上の高さを飛びぬけ、バラモスの胸を打ちぬく。  それにつながる準備動作もいくつもあるので、同じ動作を二度やって読まれることはない。むしろ合図をフェイントとし、下段攻撃と銃撃に対抗しようとして転がりながら飛び退ったバラモスに、大口径機関砲がぴたりと追随する。  竜馬に飛び乗り全速で、ゴッサが突進した。  反応し、ムツキを蹴り飛ばして高い天井にまで飛び上がり、三角蹴りで飛びこむバラモスを、ゴッサの馬上剣が迎え撃つ。  鮮やかに馬が跳び、空中で有利な位置をとって突き上げた、と思ったが炎に人馬が深く焼かれる、だがフバーハと背後からの治癒呪文で動きを取り戻す。そして着地して即座に横から襲う、そのバラモスの腹を刃ブーメランがえぐる。  別の騎馬が、重傷を負い倒れかかっていたムツキを救い上げ、加速する。  さらに別方向から別の二騎が怪力に任せ、馬上で中機関銃を肩づけで構え、馬を駆けさせつつ指きりバースト。数発が正確にバラモスの体に命中し、それで一瞬ひるんだ隙に50口径重機関銃が正確に足元を狙う。  馬の速力で車がかりの波状攻撃。まるでプロバスケットボールのトライアングルオフェンスのように、息もつかせず攻め立て、バラモスのスピードを潰す。激しい炎とイオナズンの連打にも、強力なフバーハとベホマラーなどの呪文で守り、どうしようもないダメージにも厳しく訓練された彼らの一体感が崩れることはない。  集団を襲おうとすると、軽く取り回しのいいAK-74のフルオートが、ホースで水をまくように素早く正確に注がれる。一発一発のダメージは小さいが、積み重なれば、特に膝などの関節に当たった銃弾は動きを一瞬止め、その瞬間に大口径がヒットする。  そして飛び込まれても、ムツキとゴッサが一時的に切り結び、隊を整えることは充分にできる。他の者も選ばれ鍛えられた精鋭たち、二人がかりでほんの少し斬り支えるぐらいはでき、その間に体制を整えた騎馬が弾幕を張りつつ襲う。  全員深く傷つきながら、ついにムツキの一撃と別の魔法剣がバラモスの両足を一瞬壊し、ゴッサが至近距離から放った20mm機関砲弾が頭を吹き飛ばした。  連続のパーフェクトゲームに、ゴッサ以外は傷の痛みを魔法で癒し、疲れに膝が笑いながら、笑みを抑えきれない。  ゴッサが、次の階段を上る前に一人一人、じっと目を見つめたことで、笑いと傲慢が危険でよくないことにそれぞれ自分で気がつき、深呼吸して激しく叫び、闘志を再確認する。  そして次の階段を登った瞬間、全員の意識が混濁し、倒れた。  常に十七人全員そろって。いくつもの人生を断片的に走った。その一部だけを、鮮明すぎる悪夢の、チャンネルをぱぱっと切り替えるように、その悲劇の全体を体で体験した。時に女の身で、時に男の身で。生身の常人の肉体で、魔力を持たず、記憶は鮮明に持って。  いくつかは、〈ロトの子孫〉がガライの墓の試練、別の人生で経験した戦いだった。アレフガルドを、ロトの掟を夢だと思い込んで訓練に洗脳され、自ら虐殺・拷問・強姦・略奪に手を染めた罪の記憶を、そしてそれまでの激しい訓練を全員で共有する。  世界最高級の特殊部隊の、ほとんどは脱落する地獄の選抜訓練も、十七人全員が鋼の意志で突破した。何日もの、過酷さを増す運動と猛勉強、睡眠不足と栄養不足、激しい苦痛と疲労に耐えて耐えて耐え抜いて、戦い抜いた。  第一次世界大戦、『西部戦線異状なし』。砲弾に、次々と理不尽に消えうせる生命。栄光などどこにもない、騎兵隊など機関銃と鉄条網の前に、ただの的に過ぎない。それでもひたすら真鍮の輝きにこだわり、行進や騎兵突撃など古い戦術に固執する、愚かな指導部。塹壕戦が確立すれば、それはまた地獄。繰り返し襲う砲弾の爆風に鼓膜は破れ、毒ガスの極限の恐怖と、ガスマスク訓練の辛さ。不潔。不潔。不潔。不潔。欠乏。退屈と恐怖。不潔。肥溜めより臭い泥をすするように、腐った足の苦痛に絶叫しながら、今日一日生き延びたことに喜ぶよりも悲しみ、ただ死だけを求めつつ恐れ、狂気すれすれで戦い続ける、終わりなき日々。  韓信ら前漢建国の功臣たち。源義経。ロンメル。ハンニバル。忠誠を捨てず名誉を守り、苦しい戦いを戦い抜き勝利を重ねた、その報酬は死。何度もそれを経験させられた。  ガダルカナル。インパール。硫黄島。Uボート。テラー。この世の地獄、絶望の戦いを前進し続けた。特にゴッサはどこの世界でも、決して弱音を吐かず、諦めることも歩みを止めることもなかった。だがその金剛石の意志も、誰もが奮い立つ叱咤も、誰もが絶対の忠誠を誓う軍人魂の模範も、勝利には結びつかず味方の苦しみを長引かせるものでしかなかった。仲間全員が力尽き息絶え、ただ一人骨と皮に痩せ衰え無駄だと知り尽くしながら、最後の一息まで前進し息絶えるのを、何度もくり返した。  ドレスデンで。広島で。東京で。空からの爆炎の嵐に、野火の中の虫より無力に焼かれた。  アウシュビッツ。シベリア。あちらこちらの強制収容所で、餓死し病死し、ガス室や餓死室で死んでいった。  拷問に信念を、忠誠を、仲間を、自らの魂を裏切った。下手くそな、ただの暴力ならば十七人とも死ぬまで耐えるのは、火あぶりにされつつ息絶えるまで笑い続けることはできた。だがどんな意志も、磨きぬかれた拷問技術の前では脆かった。ゴッサの金剛石の肉体も精神も、持ちこたえる時間が少し長いだけ、見せしめに目の前で拷問される仲間の苦しみを激しくさせるだけだった。睡眠を奪われ大量の薬物を注がれ、人間の弱点を知り尽くした恐怖と屈辱と芸術的な苦痛に、英雄の頑強な精神も脳神経から崩壊し錯乱した。どれほど鍛えても生身の肉体は脆く、簡単に粉砕された。  全員が女の身に生じ、ルワンダで、サラエボで、ベルリンで集団で強姦され、なぶり殺しにされることもくり返した。  ポトシ銀山で、ベルギーチョコを生み出すコンゴで、カリブの砂糖きび畑で、家畜以下の奴隷として売られ、鞭打たれ働き殺されていった。  虐殺することもされることも、くり返した。疫病と餓死、魔女狩りも。数を思い出せなくなるほど。  どこであっても、ゴッサが英雄だということは、誰にも分かった。  ついに目覚め、狂乱するのをゴッサの叱咤が叩きつけるように治めた。 「ガライの墓」ゴッサがつぶやいた。 「似てる、けどあれは一つの人生だけよ」ムツキが、また頭を抱えうずくまる。十七人が、苦しげに抱き合い、そしてゴッサが上げた声に従い、全員が歌いだす。  言葉にならない歌を。魔力のこもった歌を。人のあらゆる悲しみと苦しみ、愚かしさを叫ぶ歌を。  ドラゴンの角の屋上は穏やかに晴れ、美しい海峡を見下ろしていた。  南側のドラゴンの角で、金鱗の竜神王子とダースドラゴンら強力な魔物の配下は、次々と出現するゾーマ時代の強大な魔物を食いちぎり、爆炎をぶつけ合い、単純に力で殴り合って戦い続けた。  まさしくそれは、爪と牙のみ。強い者が食い、弱いものは食われる。  そして、精神力の争いでもあった。巨大な力を持つが心幼い王子を支配しようとする邪悪。王子そのものの、人の心の名残を捨てて獣に、魔王に落ちてしまいたい激しい衝動と、その衝動と同じほどに大きな、アロンドとローラを、ローレルを恋い慕う心。  激しく戦う中、見えてくることがある。  竜の女王が、生命を落とし一つの卵を産んだ。  その卵は竜の子となり、母を求めた。母の力をこめた光の玉の存在を知り、それを求めて〈下の世界〉に降りた。  本来ならば、正統に光の玉を手に入れ、かの禁断大陸の王となるはずだった。  だが、当時の……四十年前、ラルス16世の先代のラダトームで、予言者の報告がねじまげられた。当時の先王も嘘を見抜けず、光の玉を竜王の先触れとして訪れたエルフに渡すことを拒み、殺した。  それには、邪神教団の企みも絡んでいた。 〈下の世界〉に降りた竜王だが、本来ならば光の玉の導きでザハンに降りて祝福を受けるはずが、アレフガルドの魔の島に降りてゾーマの残した邪悪に染まり、ひたすら光の玉を求めて暴走したのだ。  だが、外からの力だけではない。巨大な力そのものが、激しい感情に引きずられて暴走したのでもある。  それを知ったヤエミタトロンは、たちまちのうちにドラゴンの角を征服すると、魔の島に向かった。  ドラゴンの角の南側に立ち、光り輝く鳥のような翼を生やして飛び立った、巨大な黄金竜の伝説は、ずっとドラゴンの角周辺の港町周辺に伝えられたという。  大灯台の一階。〈ロトの民〉にとっては年中見上げ、礼拝しているが、禁断で入ってはならないとされている。  儀式で一階の一部や、地下にある広大な魔物の避難場を見ることはあるが、その時には敵意のある魔物は出ない。  だが、今は強大な、敵意にあふれた魔物が次々とサデルとジジ、そして子供たちを襲ってきた。  ジジに言われて、サデルが〈ロトの子孫〉でも指折りの強さを見せつける。  アロンド・ムツキと並んで勇者の試練を受け、多くの魔法を復活させアロンドの背を守って戦い抜いた、エリート中のエリートといえる彼女の強さは凄まじかった。  扱いなれたAK-74を、腰からもう一本の剣のように抜き打ち敵の目を狙い、ひるんだ瞬間に大呪文が炸裂。素早く銃をしまって剣に持ち替え、盾も持つ骸骨剣士と鮮やかに切り結び切り伏せる。  剣・銃・魔法を自在に使い分ける、魔法使い寄りの万能型。 「すごい」トシシュが呆然とする。 「やるわね」ジジがにやにやと笑っている。  巨大で俊敏なボストロール。その巨大な棍棒にも焦らず、ボミオスをかけて膝と頭を銃撃し、それでも動くのを、魔力を通わせた炎の剣で首をはねる。  背後から強烈な炎を吐こうとするドラゴンフライの一団、先に唱え終えた呪文が完成すると、強烈な氷の嵐が巻き起こり、吐いた炎を吹き飛ばしながら赤い体が次々と凍りつき、砕けていく。 「わたしだって、アロンドさまのチームで竜王と戦ったんだから!」とラファエラが戦線に飛び出し、「ヒャダイン!」上級呪文でウドラーの群れを引き裂き、子供も扱い慣れているAK-74でフルオート射撃を注ぐ。  援護射撃に、サデルが振り返って微笑を浮かべ、剣に集中した。 「おれたちも」と、ヘエルは.50BMGだが軽量なボルトアクションライフル、トシシュはガリルACEの7.62mmNATO版を手に飛び出した。  だが、ラファエラもそうだが、敵の殺意に触れると恐怖に硬直してしまう。一度恐怖を刻まれ、どんな抵抗も無駄だと叩きこまれた肉体が、恐怖を覚えてしまったのだ。 「撃たなきゃ死ぬわよ!」サデルの、歴戦の戦士の咆哮に、三人の体が動き出す。  竜王軍と戦い抜いてきた彼女も、恐怖はよく知っている。 「恐怖に罪悪感を持つな!乗りこなすべき武器。危険を教えてくれる。恐怖の中でも動きなさい!勇気を振り絞って!あたしの真似をしなさい!」サデルが叫び、戦い続ける。  ヘエルが、呪文を唱え始める。トシシュが、震える手で銃を構え、魔物にフルオートで連射し、強い反動に蹴られた。 「いいか、ペルポイの、あいつらはあんたたちを、壊して支配したんだ。野生の馬を乗りこなすみたいに。といってもやつらは、したいようにしただけさ!相手がどんな技を使ったか理解したら、同じように自分の心を操って、戦いな。その行動が、逆に心を作り変えてくれる。こんなふうにマヌーサを応用しな!」  ジジが丁寧に、悲しみをこめて言い、魔力の手本を見せる。  子供たちも少しずつ戦えるようになる。まず実戦経験のあるラファエラが。そしてトシシュが。ヘエルも、二人を見て怖がりながら。  ロト一族に加わって日が浅く、訓練を積んでいないリレムも、丁寧に銃を構えて飛び出そうとした。  その時、「なんでそんな、無駄なエネルギーの使い方をしているんですか?」ジニの一言に、皆が固まる。 「あ、ご、ご、ごめんなさい」雪片のはかなさを思わせる、恐ろしいほど整った美少女のジニが激しく怯えるが、リレムが抱くように励ます。 「大丈夫、ここには、何か言ったからって殴る人はいないわ。ペルポイとは違う、ウリエルさまが、絶対大丈夫だ、っていろいろしてくださったでしょ」 「は、はい。何枚もキメラの翼、それに私が決めた数字を入れないと空かない金庫にいっぱいの金貨や絹。ええと、場所を明かすなといわれた山奥の洞窟、燃料と農機具。それにこのAK-74」と、少女が銃を抱きしめる。彼女はすっかり銃に惚れこんでしまい、少しでも時間があれば常にいじっている。 「それだけあれば、どんなことがあっても大丈夫」と、リレムが励ます。 「でも、文句を言うときには代案を言って欲しいわね。〈ロトの子孫〉は人を黙らせてはならない、でも嵐の船では船長に絶対服従だし、あと反対のための反対も人を黙らせるものだから……それを分別できる良識を求めてるのよ」と、サデルが戦いながら言っている。  この程度の敵では、彼女にとっては嵐の海ではない。 「あ、はい。では、代案を言います。魔力も広い範囲に拡散していますし、銃弾も火薬のエネルギーの数%しか使われていません。熱力学第二法則は習ったので、銃の熱機関としての効率限界は計算できますしどうしようもありませんが、銃口から標的までの空気抵抗損失がとても大きいのです。  魔法は、このように」と、ジニが軽く手を振る。 「あと銃も、真空呪文を応用して」と、また別に手を振る。「銃口から標的までの大気を排除すれば、減失しません」  その、とてつもなく精密な編み方に、全員が驚嘆した。サデルやジジでさえも。  彼女たち上級魔法使いの編み方が高級デパートのブランド服だとしたら、それこそ超極細の絹糸で一針一針精密に手縫いした、国宝級文化財や皇太子結婚式に使われる芸術品の領域である。 「できたら、人間に可能な代案にしていただけないかしら?そんなむちゃくちゃに細かな編み方、ガブリエラでもアロンドでも無理よ」ジジがかなり怒って、それでいて可愛い魔法少女姿のまま言う。 「ご、ごめ」 「謝んなくっていいってば。人間にできるように、工夫してくれたらいいの。それにあんた、魔法は編めるけど発動できないでしょ?」 「あ、でも……ローレル様なら」と、リレム。 「そうなのよね。ローレルは魔力が人間より強すぎるし、編んで制御するのがムリだから……そう、編むのをこの子がやれば、とんでもない魔法が使えるかもね。ダーマからクレームが来るような」ジジが困ったように言った。 「今回は、おれが魔力を入れてみる」と、ヘエルがジニの編んだ魔法に力を込める。  一瞬で集中したジニが、素早く長い呪文を唱え続ける。 「うわ!」と、魔力を吸われて悲鳴を上げた少年。そして、遠くから襲ってきた、巨大で鉄球を持つ魔物の、頭だけが一瞬で爆発した。 「え、でも魔力は」見たサデルが驚いた。 「メラ、メラしか使ってない」ヘエルが呆然とする。「でも、全然違う使い方」  ジニは、当然のようにつぶやく。「皆さんの呪文は、時空の制限をろくにしていません。熱量のごくごく一部しか攻撃に使えていませんよ。そうですね、軽油を、ディーゼルエンジンに入れてハンマーを動かすのではなく、火炎瓶に使うようなものです。エネルギーは減りませんが、常にエントロピーを計算しなければ実際には膨大なエネルギーを無駄にするんですよ。  ウリエル先生に教わった、プランク定数・光速・重力定数・クーロン力定数・ボルツマン定数を基準にした単位系なら、魔法言語に翻訳しても厳密に位置および時間を指定できます。発動時空をおよそ七億分の一秒・五万分の一立方ミリメートル範囲に、極微の時空の不連続性をルベーグ測度で処理し入力、メラの熱量を集中させました。範囲内の原子核が高温高圧で核融合を起こし、魔法によるエネルギーより大きい威力を出し、敵の急所である脳髄だけを破砕しました。手榴弾の倍程度の爆発力となったようです」  全員が彼女を怯えて見た。まあ、彼女の天才に畏怖させられるのは、珍しいことではない。  彼女の両親は神官だったが、もちろん女子を教育したりはしないので本を盗み読んでいた。一家が山賊に襲われ奴隷に売られ、懸賞問題に答えた罪で生贄とされそうになった……拾われて三カ月、まだ乳歯すら残っているのに、瓜生の出した東大模試問題集を全問正解している。 「だから人間にできる魔法にしなさいっての……そんなのゾーマだってやりゃしないって」ジジが呆れて頭を抱えていた。深くため息をつき、「でもま、普通の戦いに無駄が多いってのは賛成だね。じゃ、ちょっとあたしも、お手本見せるかな」  と、ジジが奇妙な形の杖を軽くバトンのように舞わして、別方向から向かってくる多数の魔物のほうに向かう。 「伝説のデルコンダルの魔女……光栄です」と、サデルが目を輝かせる。 「そう、戦闘に魔法を使うのは、というか魔物を殺すの自体、あたしはまるっきりムダだって思ってる」ジジが笑う。「あたしたちは、ただこの塔の一番上に行けばいい」  そう言って、無造作に懐から広いシーツのような布を取り出し、呪文を唱えつつ舞う。 「ついてきな」  突然高速で襲う魔物がジジを食いちぎるが、別のところで平然と魔法少女が派手な杖を舞わせている。 「うわあ」ジニが、目をらんらんと輝かせている。 「なに、何をしてるの」ラファエラが聞く。 「ものすごく高度なマヌーサ」それだけ答え、ジニ自身も呪文を編み、発動はできないので霧散させる。 「それだけじゃないよ。もし魔法を封じられても、ほとんどあたしの大魔術は壊れない。あたしは魔法少女、何も真実はない」ジジがにっこり笑う。  気がついたときには、魔物たちが激しく同士討ちをし、その中をジジは平然とバトンを舞わし、歩いていた。 「え、トロルキングB、糸で足を絡めて動きを止め、それを引きちぎって痛がる瞬間に、メダパニをかけて混乱した、さらにその攻撃方向……見える範囲を一瞬プリズムにした冷気で操って、スカルゴンCを襲わせた。その襲う動きでジジさま自身は自分の体を隠して」リレムが必死で見ている。彼女は観察力と記憶力も高い。 「そこで、布を人形代わりに使って一瞬敵に錯覚させ、香水でキラーリカントに敵味方を区別できなくした」ジジが素早く注釈する。「相手が見たいことを見せ、自分はその影に回る。相手にゲームをさせるのが、奇術師やスリの基本だよ」  そう言うと、平然と岩のところまで歩いて軽く一礼した。 「何より、目の前のものの、本質を暴く。魔物は、見ている通りの、骨の怪物なんかじゃない」  ジジが言って奇妙な呪文を唱えると、スカルゴンが暴れていたところにあったのは無数の、魔力の糸で動く、ふわふわしたような冷たい火だった。 「これも魔物の本質の一つ。どちらも真実なんかじゃないよ」ジジが軽く笑って、杖をバトンのように放る。 「その中心に糸を絡ませて、ちょっと働きを狂わせてやれば、操れる」と、ジジはまた杖から糸を投げ、細かな呪文を次々と唱える。 「す、すごい……な、なぜあなたとカンダタが、ゾーマを倒せなかったの」サデルが驚いた。  ジジが軽く杖で、大木を叩くと上階にいく階段が出現する。 「一度、お目にかかったことはあるんだよ。カンダタやゴルベットと。手も足も出なかったね、ありゃ強すぎたし、幻術も上手すぎた。あの大魔王ゾーマって、えらい邪悪に攻撃するけど教え魔でもあってね、いろいろと教えてくれた」  苦笑いしつつ、ジジは次の階に足を踏み入れる。 「さ、次の階は、子供たちだけでどうにかしな」と、にこっと笑った。素晴らしい美貌で、たまらなく意地悪な魔王の笑みを。  次の階は、頑丈な巨石でできた、人工の建物だった。ほとんど一歩ごとに、全身を包帯で覆ったミイラ男の類が出る。 「イシスのピラミッドだね」〈上の世界〉出身のジジが微笑む。彼女はサデルも下がらせ、子供たちだけで戦わせた。  もうトラウマも抜けたようで、ロト一族として積んでいる訓練、銃と魔法が閃き、戦いにも慣れた様子だ。  ラファエラは、アロンドと共に竜王の城で戦ってもいる。  ジニが魔法を編み、ヘエルが発動させることで、凄まじい威力をわずかな魔力消費で実現できる。  トシシュはジジの戦法が気に入ったようで、マヌーサやメダパニをうまく使う。それも含め、リレムが指揮に専念することで、皆が安心して戦える。  ピラミッドを抜けると、次は大灯台そのもの。ドラゴンフライの炎が、次々と放たれ、ラファエラのフバーハが軽減する中、一匹一匹集中銃火で潰し、止める。  そんな中、ふとリレムが、何かに気がついた。  そしてラファエラとジニに囁き、ジニが編んだ呪文を使わせてみる。 「あ」子供たちが気がついて、呆然として、激しくジジを睨んだ。 「お、よく気がついたね」彼女はケラケラと、悪びれもせず笑っている。 「操っていたんですか、あたしたちを。この塔に入る前から」リレムが激しい怒りを見せる。 「でなきゃ、あんなめにあって戦えるわけないじゃないか。そう、最初に恐怖を増幅した。次に、その恐怖を扉として体を操って、恐怖に心が固まったまま訓練通り戦わせた。その、体の動きが心に働きかけ、心を癒し、上から塗り直してるよ」ジジは嬉しそうに笑っている。そして目を強める。  子供たちは怒り狂っているが、体が動かない。目を逸らすこともできない、圧倒されて。 「いいかい。一時たりとも、自分が操られていない、って思うな。操られてる。自分自身に。空腹の胃に。世間に。恐怖に。掟に。親に。友達に。敵に。いつだって。どんなときでも。塗り直されてないと思うな。体は心に働きかけてる。見ても見ていないところが、心を変えてる……左手の花で目を引き、右手がコインを持ち替えるように、人が望む方向に」と、手が素早くちょっとした手品をやってみせる。「何がどう自分を操ってるか、常にチェックし自覚しな。考え続けるんだ。いい方向に操られるように自分を操り直すぐらいはできる……自分も自分以外も、操る側になるんだね」  悲しげな笑みと軽く回る杖に、子供たちは怒りが逸らされ、それも操られたのかと疑心暗鬼になって、心を集中したり呪文を唱えたりしていた。 「あとは、一つ、ヒントをやるよ。とことん楽に戦う方法は、もっとある。反則が。できるはずだよ、ラファエラ」  そう、ジジはいって目を細め、無造作にイオナズンで残りの敵を消し飛ばすと次の階に向かう。  そこにいたのは、キングヒドラ・バラモスブロス・バラモスゾンビの三匹だった。  巨大な多頭蛇。恐ろしい迫力と魔力を漂わせる魔王。そして、骨だけだが心が凍えるような、怪物。 「む、無理」子供たちは、そうつぶやいた。  サデルが必死で剣を抜こうとするが、その体がジジの呪文で硬直する。 「あんたたちだけで、あの三匹を簡単に倒せる。やってみな。頭を使うんだ、頭を」ジジの言葉に、リレムが必死で考える……恐怖に目を見開き、涙を流しながら。 「あたしたちでかなわない、なら……誰かに戦ってもらえばいい」と、ジニの手を引きジジとサデルの後ろに逃げこむ。 「よーし、それもありだ」ジジが微笑み、メラゾーマを放つ。サデルも微笑んで剣を抜く。 「サデル、あたし達は今後リレムの指揮で動くよ」 「はい!」サデルが鋭く声をかけ、バラモスブロスの高速の爪を盾で弾いて切り抜ける。  敵が動き出す。 「でも、ジジ先生だけでは、それに弾薬も尽き……あ」と、リレムが、ラファエラにいう。「ウリエル先生にモシャス。その間サデル先生、護衛」  ジジがにっこりと笑い、時間稼ぎにヒャダインを、霧を放つのに使う。  ラファエラが呪文を唱え瓜生に変身。その呪文を唱える間を、サデルがバラモスゾンビの強烈な一撃と切り結びつつ稼ぐ。  瓜生に変身したラファエラが目の前に巨大なボフォース40mm機関砲を出し、その隣に三脚つきの14.5mm重機関銃を出す。それからジジの横まで走り手を重ねると、メドローアがほとばしって二人を襲おうとしたキングヒドラの首の大半を消し去った。  ジニとヘエルがボフォース40mm機関砲に、重機関銃にトシシュが飛びつき、操って連射を始める。三人とも瓜生にさまざまな重機の扱いも学んでいる。  凄まじい破壊力の40mmと、軽快だが強力で連射・追随性能が高い重機関銃の間断ない砲火が、次々と強敵に命中する。 「トシシュ、何とかバラモスブロスを騙して」リレムの命令に、トシシュがラファエラ/瓜生とジニにいくつか命じ、二人が複雑な幻術を次々にかける。  ラファエラ/瓜生がヴィーゼルに飛び乗り、見当違いの向きに走る……マヌーサが示す方向。だが、「幻術など」とおめくバラモスブロスがリレムを襲った。 「今よジニ、膝を!」リレムが叫び、ジニとヘエルが機関砲を残りのキングヒドラに叩き込みながら唱えた呪文。バラモスブロスの左膝が砕け、高速で駆ける巨体がおもいきり転んだ。 「ボミオスも何も効かない、でもピオリムなら効く。足の骨と筋肉の一本だけに範囲を限定し極端に加速したら」ジニが軽く笑って、機関砲の操作に戻り、バラモスブロスの右脚から腹もずたずたに粉砕する。 「マヌーサが効かないのはわかってた、読み合いはこっちの勝ちだ」トシシュが勝ち誇り、サデルを吹き飛ばして迫るバラモスゾンビに撃ちまくり、それでも動き迫る一撃に、トリガーを紐で縛り撃ち続けさせたまま飛び離れる。  重機関銃をバラモスゾンビが粉砕した瞬間、「今!」リレムの声。  ラファエラ/瓜生と、その傍らにいたジジのメドローアが、バラモスブロスとバラモスゾンビの半身をまとめて消し去る……敵二匹もリレム自身とトシシュの重機関銃という固定された目標に誘導し、ジジから見て同一射線に並ぶようにしていた。 「ジジ先生、アロンドさまに!ラファエラ、勇者ロト、ミカエラ女王さまに」ジジと、ラファエラ/瓜生が素早く呪文を唱える。双子のようによく似た研ぎ澄まされた美貌の、二人の勇者が剣に神雷をまとわせ、バラモスゾンビの残りの半身をずたずたに切り刻み消し去った。  ボフォース40mm機関砲と、トシシュが飛び乗ったヴィーゼルの20mm機関砲がバラモスブロスの残った体を完全に粉砕する。 「そう、あたしは弱くても、あたしより強い人を使えばいい」リレムが微笑む。 「そういうこと、さ。もう、怖いなんてぶっ飛んだろ?伝説的な、ゾーマの最強の部下三匹を倒したんだから」 「はい!」と子供たちは笑顔で叫び、次の瞬間警戒の目でジジを見る。 「よし。ここで満足はさせないよ、これからも頭を使ってもらうから。頭を使って、考えることをやめなければできることはたくさんあるよ」と、ジジが軽くリレムの頭をなでた。  いつしか、大灯台の最上階だった。遠くロンダルキアすら見渡せる高さ。 「さて、と……ちょっと勉強が遅れたね。アムラエルがおかんむりだよ、今日やる問題は、わかってるね」ジジが笑っているのに、ジニがちょっと口をすぼめた。 「もっと勉強したいんです。ずっと勉強を禁じられてきたんですから。まったく、無駄な時間を使わせてくれて」 「じゃ、取り返すんだね」と、ジジは笑っていた。「あんたたちに学ばせるためなら、あたしたちはなんでもやるよ」 「魔女……悪意じゃないからたちが悪いんですよね……」サデルは、半ば呆れたようにジジを見ている。  満月の塔から出てきた、わずか一晩で憔悴し、病んでさえ見えるアロンドが、誇らしげに月の紋章を掲げた。  ローラは何があったのか聞いたが、アロンドは軽く首を振るだけだった。そして、「やましいことは何も。ずっと兄として接してきたよ」と、聞こえないように言っていた。  だが、実力がある者には、その圧倒的な実力は感じられ……もはや呆然とするほかなかった。  それから、ルーラで大灯台の島に帰り、ドラゴンの角の間を通ってデルコンダルに向かうことにした。  ちなみに、ラファエラはその後、またモシャスを使おうとしたが、使えなかった。 「本人の許可がなきゃできないよ」とジジが笑っていた。瓜生の能力を私用できれば、無限の富が手に入ってしまう。  さらに、整備してハンマースペースに入れておいた兵器を使い捨てられた瓜生が、五人に出したての新品からすぐ使える状態まで整備し、機関銃の弾薬をベルトリンクにする作業もやらせた。それも授業である、戦車を整備すれば近代工業について多くのことを学ぶことができる。  デルコンダル。山脈に囲まれ天然の要害をなす、島と大陸の中間の孤立した陸塊。  気候は熱帯雨林とサバンナのあいだぐらい。中央に大きな河が流れ、それが外界への出入り口になる。古来鎖国気味で、交易は少ない。  ローラ姫の紋章、アレフガルドの旗とロトの紋章を掲げた船が、大洋をやすやすと横断して大陸を周回し、河をさかのぼった。 「デルコンダルには、ちょっと足を踏みいれられないんですよ」と、ハーゴンはムーンブルクを探る仕事に出かけた。ジジも変装している。  雄大な城。高く頑丈な石壁の内部が、そのまま大規模な集合住宅になっていて、中は広場だ。  その奥に、劇場のように観客席に囲まれた構造の王宮がある。  上陸するのはアロンド、ローラ、キャスレアほか女官数人。変装したジジも混じる。リレム、アムラエル、サデル、アダン、ゴッサ、そして瓜生。 「厳重に守られていますね」ローラ姫が眉をひそめる。 「ずっと内戦が続いていたからですよ」アムラエルが悲しげに言う。  上陸要求は認められた。病人がいるかどうかも確認しない。  だが、上陸した皆は武装兵に囲まれ、まるで連行されるように王宮を歩かされる。 「デルコンダルとラダトームには国交がありません。この扱いに不満はありますが、どうか抑えて」とキャスレアがローラに言う。  そのまま、半日近く待たされる。  蒸留酒と水、餅に似たケーキと油で揚げた魚が出される。別の部屋に、壺の便所はある。  その部屋は奇妙にも、壁があちこち傷つけられている。  そして呼び出され、王宮……いや、明らかに広い競技場の中央に、立たされた。 「客となろうとする者よ。このデルコンダルが、一人前の人として迎え入れるには、その力を示してもらわねばならん!」  と、重武装の貴族が叫び、高いところに引っこむ。  そして片隅にある、巨大な鉄格子が引き開けられる。  咆哮。そして、肩の高さが人間の身長を上回る、巨大な肉食獣が四頭出てきた。巨大な牙がひらめく。 「なにをなさいます、友好的に訪ねた者に」  リレムが叫ぶが、 「これがこの国のしきたり。郷に入っては郷に従えと」と、アムラエルがなだめる。  魔獣に遠くから矢が刺さる。激しい咆哮が轟き塊が四つ、アロンドたちに向かって疾走する。  瓜生とサデルが女たちをかばい、銃を構える。  だが、踏みだしたアロンドの前に出た瞬間、魔獣は怯え立ちすくんだ。 「……助けられないか?」アロンドが瓜生に聞く。 「毒矢ですし、狂わせた魔獣。野生に戻すのは無理でしょう」瓜生が言うと、アロンドがうなずく。すぐさま一瞬の閃光、魔獣は四匹とも動かぬまま。  ひと息のち、四つの首が静かに落ち、血の噴水。巨体が血の海にくずおれていく。 「すまない」そう、アロンドが静かに瞑目し、冷たい目を玉座に向けた。  競技場の観客たちが、茫然と息を呑んでいる。 「おお、強さを示した!ならばわれらが家族として迎え、ともに飲み食いしよう」と、玉座の男が立つ。  三十代後半。長身。頬のあばたを化粧で隠している。頭は剃り上げ、先ほど倒したのと同じ魔獣の毛皮に宝石をちりばめまとい、長大な牙がついた錫を握っている。 「〈竜王殺し〉、勇者ロトの子孫、アロンド。そしてわが妻、アレフガルドのラルス16世の長女ローラ」  アロンドの声が響く。 「朕はデルコンダル王ラミエ二世。よくきた!何が欲ぉおおしい、遠いアレフガルドの勇者、アロンドよ!」と、王が激しい身ぶりと共に叫ぶ。 「この笛を、吹かせてください」と、アロンドが山彦の笛を口に当てる。 「聞いておるぞおぉおっ!その笛の一吹きで、ムーンブルグ城に巨大な離宮が生え育ち実り実り実ぃいのぉおり、満月の塔が崩れ去ったあああああああああっ!と。さあ、吹くがよい。さあっさあさあさあさあ!」ひと言ひと言、おそろしく大げさに言葉を付け加え、激しい身ぶりもつける。 「害にはなりません。この笛の力は、人には使えません」と、アロンドが一礼して吹く。  音が響き、こだまは返らない。 「よい音だっ!」王が叫び、観衆が喝采した。「さて、それで?」 「ここではなかった、ということですね」アロンドが苦笑する。 「ではもう用はすんだ、ということか。だがそれでさようならももったいない。せっかくの強い強い強おおおぉおい客人だ、楽しもうではないか!音楽を、そして酒と料理を!」  王の叫びとともに、何人もの楽隊が出て、激しい音楽を演奏し始める。瓜生の故郷や〈上の世界〉の影響が強いガライ一族の音楽とは違い、古来の音楽だ。  皆が車座に、地面に座り料理が運ばれる。そこでは身分の上下はあまり区別されていないようで、明らかに庶民も混じる。  大きな淡水魚のフライ、大きなネズミのような家畜の丸揚げ。そして毒を抜いたキャッサバや、サゴヤシのデンプン。ロト一族にも馴染みの、米や豆の料理もある。砂のように細かな粒の穀物も出る。  丸揚げを好むようで、鳥も、蛇かウナギか、さらに大きなサソリやクモ、ムカデすら丸揚げで供され、リレムは食べるのに辛さを抑えていた。どれも味は、刺激的だがすばらしい。  酒は果物や蜂蜜からの、強い蒸留酒。奇妙な苦みと深いうまみがある。誇らしげに出してきた石壺をのぞいて、皆吹きそうになった……毒蛇や毒虫、薬草や毒々しいキノコがいくつも漬けこまれた薬酒だ。  穀物酒はあまりないようだ。甘味も豊富だが、どれも揚げてある。 「これら豊かな作物も、勇者ロトがもたらしたと伝承されています」と、給仕するネックレスのみ全裸の美女が言った。  サデルが瓜生を横目で見、瓜生は軽く肩をすくめてうなずく。百数十年前、瓜生がミカエラと共に訪れた時に、カンダタにいくつも故郷の作物を渡した。 「勇者アロンドよ。ロト一族とデルコンダルは、深い絆がある」と、アロンドの隣に座った王が言う。そのときには、大げさな口調ではない。 「伝え聞いています」と、アロンド。何を知っているかまでは言わない。目の端で、ローラの女官に化けているジジを見る。 「盗賊カンダタの伝説は伝わっておる。勇者ロトが、大量の食物や素晴らしい作物をもたらしたことも。だがそれらは神話だ!だが王国は神話でできている」と言って、突然王が大笑いした。 「だがその後、カンダタが暗殺され、魔女は処刑された」  王の、歌うように節をつけた言葉。瓜生の体が硬直する。ジジのほうを見ようとして、彼女が魔力で止めたのだ。 「この豊かな大陸はそのまま、邪神教団のもの、生贄の生け簀になっていた。だが!四十年ほど前。二人の勇者が、どこかから来て邪神の使徒たちを倒し、隠れていた王族を助け即位させ、邪神教団を駆逐し安定した王国を作った……わが父」  そう笑って、王が乾杯する。デルコンダルの貴族たちや、招かれていた明らかに賤しい庶民が、嬉しげに笑い叫ぶ。 「歌を!」  王の叫びに、楽団が楽しげに打楽器を奏でる。たくさんのドラムを叩く。並べられた石板、並べて吊された金属管を棒で叩く。一人で一つ、大きな太鼓や銅鐘を激しく叩く者も何十人も並ぶ。激しいリズムのメロディーができる。  何人もの歌い手が、絶叫のような歌い方で、複雑に韻を踏む歌を歌う。 〈上の世界〉よりきたりし盗賊 内乱の大陸に野望を賭け 古き王家の女を助け 無双の剣士 夢幻の魔女 大力の猛将 大陸は震える 覇王は豊かに 傭兵を食わせ 何者も敵ならず されど最後の砦 裏切りにカンダタは斃れ そして僭王も倒される 新たなる皇帝 邪神の信徒 臣民ことごとく生贄の家畜 希望なき魔の国 いつまでも続く 闇のアレフガルドのごとし そこにきたりし二人の旅人 子産みの医者と 流れの踊り手 ラファエラ 長き黄金の髪 死者をも蘇らせる ミカエル 勇者ロトの再来か この上なく優美な歩き  歌がそこまで来たとき、アロンドが激しく立ち上がり、サデルが抑えた。 二人似ること鏡のごとし その美は神々のうま酒 生贄にせんと群がる神官 ふたりことごとくなぎ払い 影に隠れた王家の隠し子 光に頼り暗殺を免れ 蛇の穴に放られた三人 闇の底に閃く雷鳴 輝く拳が悪魔神官を貫く デルコンダルに光が戻り 二人はどこへともなく 勇者ロトのごとく宴より去り  座りこんでいたアロンドは、強くサデルの目を見る。サデルが、静かにうなずいた。 「若い頃の、ミカエルとラファエラ……あなたのご両親です。三十年以上前。  ミカエラ女王直系の、もっとも濃い血の双子……双子の定めで、ラファエラは〈ロトの子孫〉で勇者・最長老の最有力候補として育てられました。ミカエルは元・鬼ヶ島で〈ロトの民〉に育てられ、ガライ一族に混じり各国で踊ったりして情報集めや交易をされていました。  邪神教団に支配されたデルコンダルが、アレフガルドにも魔手を伸ばしはじめたことをラファエラがいち早く突きとめ、デルコンダルに向かいました。そしてそこには、すでにミカエルがいました。  お二人が出会い、生まれも知らず恋に落ち……そして、凄まじい力でデルコンダルの邪神教団を一掃し、先王を即位させて、そのまま宴より去り……そのときに、実の双子と知って一度は別れたようですが、その数年後にお二人とも、姿を消して……  このことは、あなたに伝えてはならないと定められ、その定めた長老が亡くなられたので禁止を解除できませんでした」  アロンドが、呆然としている。 「おお、そなたの両親であられたか」王も、驚いて酒を何度も飲んでいる。「ならばそなた、朕の兄弟じゃ!よおし、剣を舞おうぞ」  王は雄大な両手持ちの曲刀を抜き、呆然と座るアロンドの腕を掴んで広場に引っぱる。そして、激しい剣の踊りを始めた。  アロンドも、剣が勝手に対応したように、その剣に合わせ踊る。 「おお、なんという、なんという腕だ!うおおおおおおううううううう」激しく絶叫しながら、王の剣舞がどんどん激しくなる。  音楽も、激しさを増していく。  そしてデルコンダルの人びとは皆激しく踊り、叫び始めた。  アロンドも、激しい感情を剣に絶叫させ、美しく歌い舞う。  狂乱の群舞は夜明けまで続き、王が力尽きたように倒れる。  そして宴が終わり、皆が一休みした。 「そなた、何のためにこのような旅をしている?」王が、改めてアロンドに聞く。相変わらず、同じ地面から丸揚げの山を食べながら。  普段は大げさで激しい王だが、時々とても冷静に、安定した感じになる。アロンドの前でだけ。  アロンドは、剣舞からそのことを感じていた。それに、率直に答えることを選ぶ。 「竜王を倒したとき、王に王位を譲ると言われ、とっさに自分の国は自分で探すと断りました。実際、わが一族には新たな安住の地も必要でした。  あの禁断大陸を、と予言され、その鍵を世界中探してています」 「あの大陸なら、われらデルコンダルも常に狙っている。あの呪いがある限り、王城から通じる旅の扉周辺、ごく狭いところしか支配できていないが」 「それは、今の探索が終わってからの話です」 「それにしても、王になどなりたいのか?」王が、とても自然な口調で、強い酒を飲みながら。 「必要なだけです。安定したら立憲君主制にするつもりです」 「立憲君主制?」王の興味深そうな問い。 「王も法の下にある。法により、人々が一人一票を与えられて投票し、誰に政治を任せるか決める。王は見守るだけ」 「では、何のために王があるのだ?無駄飯食いではないか」王の鋭い問い。 「外交などに必要ですし、権威と権力を分けたほうが、悪人が権力を得て暴走するのが起きにくいようです」アロンドが真剣に言う。 「ほう」王も真剣な眼になる。「そうしておけば、王子が愚かでもどうにかなるし、悪人が票を集めても王がいるからやりにくい、か」 「まさにそれです」アロンドが驚いた目でうなずく。 「ただ、実際には難しいです。ブラジルの王は先まで考えて、民主化を計画していましたが失敗しました。北欧がなぜ成功したかは、正直謎なんですよ。性急な共和制が有害なのはもとより、ですが」瓜生が言った。 「なら、臨機応変にいこう。肝心なことだけは見失うまい、ロトの掟……決して拷問・虐殺はしないし、させない。言葉や心で人を裁かない。群衆が悪い方向に行きやすいことを直視する」アロンドの沈痛な言葉に、瓜生と王がじっと沈思した。 「権力の分立が肝心ですね。アメリカはマッカーシズムを押しとどめましたが、ワイマールは……」瓜生が、ヒトラーの記憶を持つアロンドの目をちらりと見る。  王とアロンドは再び剣舞を始め、歌と音楽が盛りあがる。  そしてまたごちそうが運ばれてきた。  デルコンダルは鎖国政策を取っているので交易はしなかったが、貴族の病人を何人か治療した。瓜生の診察とレントゲンが王の、初期の大腸癌を見つけ内視鏡手術で救った。  王はアロンドたちに友好的だったが、デルコンダル王国は王だけでできているわけではない。十数万の人口があり、多数の小領主が支配しているし、廷臣も多い。  その海を、リレムは泳いでいた。鎖国ゆえによそものに対する敵意はあるが、同時に外の世界への、伝説のアレフガルドへの憧れは大きい。幼い日はラダトームの宮廷で育った少女の、わずかな言葉やファッションのヒントも、ゴシップという通貨で莫大な価値となった。  彼女は注意深く、ラダトームやムーンブルク、世界各国のさまざまな情報……ペルポイの魔窟の話さえ……を小出しにして、女たちを楽しませ、「通貨」をふんだんに受け取り、また配った。  花開きつつある美貌も、男たちを強く惹きつけるものだった……特に、邪悪を宿す者は〈ルビーの涙〉である彼女に、抵抗できなかった。逆に食われるようなヘマは、今の彼女はしなかった……複数の悪人に自分を奪い合うよう仕向け、互いを監視させたのだ。  さらに、下働きとして一行に混じっているロムルが、城の下層人たちと交流しジジと連絡し合っていた。  ほんの数日の滞在の間に「通貨」をたっぷりと貯め、投資し、殖やした。  それは、デルコンダルに来る前のハーゴンの指示だった。 「ジジさまに、たっぷりと色々学ばれていますね。なら、少し実践で試してみることです。宮廷の海を泳ぎなさい。そして、誰が何を本当にほしがるかを見ぬき、陰謀を探りあてる技を磨きなさい。ローラ姫さまを守るために」  ローラを守る、そのためには彼女は何でもする。  その結果聞きつけた情報があり、それは即座にアロンドに伝えた。 「この方が、ロトの盾の情報を持っておられるそうです」  アロンドの宿舎に、ぼろを着てはだしの、貧しく老いた女が案内される。  彼女は簡素な部屋のアロンドを見て、目を見開いた。「ラファエラさま」 「母を、ご存じなのですか?どうか真実を聞かせてください。……真実だけを。嘘ではないが事実すべてでもない、もなしで」  アロンドの丁寧な言葉と、砂糖をたっぷり入れた熱いレモネードに驚きながら、老婆は話しつづけた。  くどくどしい、昔の話。自分自身の貧困と苦労話。子だくさんの子供たちと、赤子の頃に大半が死んだ話……  王宮と地下牢の両方を知り、少女時代はラダトームから追われガライで暮らしたリレムにとっては当然。城下の宿無し孤児として過ごしたアロンドもよく知っている。ローラやキャスレアにとっては、貧困はともかく赤子が死ぬのは当然だった。  だが、医療水準が高く子が死なないロト一族には馴染みのない話だった。  アロンドは、まだ幼いローレルにこそ、その話を何度も聞かせた。  本題に入るには何時間かかったか……そのあいだに、たっぷりと滋養のある粥をごちそうした。 「美しい、美しい方でした。あなたさまにそっくりな。生贄にしたがる神官に狙われ、まだ若い頃のわたくしめが、本当に毒を飲まされ重い病気にさせられ、よそ者の医者を呼んでこい、と命じられたのです。あの方は、罠だと百も承知でいらしてくださいました、そっくりな、そっくりなもうひとかたとともに」 「父です」アロンドの声は、かすれていた。 「あの頃、どれほど悪魔神官たちが恐ろしかったか」ふと気がついたように、老婆の表情が恐怖にゆがむ。そして今さらになって、なんとなく騙されたような感じがする。そう……リレムに甘い話だけを聞かされ、操られたことに気がつきかけた。母の仇となぶり殺されても…… 「あいつらが」リレムの声に、まぎれもなく本物の恐怖と憎悪がしたたった。彼女は実際に悪魔神官に苦しめられている、その記憶すら相手を説得するために利用している。「どんなに恐ろしいか、あたしもよくわかってるわ。責めたりしません。真実には、あたしがちゃんと払います……知りたいんでしょう、お隣のエハレの本当の父親が誰か。それ次第でお孫さんのメレテレウがエハラと結婚できるし、ベエヤは縄飾りの見習いから一人前になれるし、おばあちゃんもいい医者にかかれるし……大丈夫、だいじょうぶ。こんなに一生苦労してきたんだから」甘いささやきに、貧しく長い歳月に曇る愚かな目から疑いが失せる。老いた顔に、欲と喜びが戻る……リレムは完全に老婆を操っている。 「……あのかたが海底洞窟に放られた時に、輝く盾を持っていたのです。わたくしめも、ともにくたばれと熔岩の海に放られましたが、気がついた時には家の寝床に寝ていました。そして数日後に、枕元にお母上……お父上だったかもしれません、見分けがつきません……がいらして、責めていない、すべてを忘れよ、と毒を癒してくださいました。神々のようなお方でした」  何十年も背負い続けた罪悪感をおろし、恐怖まじりに泣き崩れる老婆に、アロンドは優しい微笑とともに上質な竹綿布十反、柔らかくなめした皮、大壜入りの蜂蜜を与え、去らせた……絹や金貨などではかえって災いになる、と判断して。  そんなアロンドに付き従いながらも、瓜生はルーラで大灯台の島にしょっちゅう飛んでは、座礁させた船で子供たちを教育したり患者を治療したりしていた。また、世界各地の患者も健診と治療を続け、さらにロト一族で集中的に医学を教えた若者に引き継がせることもしている。 「なぜ、ロト一族が使う数字と、アレフガルド文字の数字はこんなに違うのですか?」ジニの問いに、 「ロト一族は、別の歴史をたどってきた、勇者ロトの仲間ウリエルの世界の本で学んできた。だからアラビア数字を教えるしかなかったんだ。でも、そうだな、記数法を自分で考えてみろ。ウリエルの世界のアラビア数字が完全だと思うな」  というと、瓜生は本を参照に、いくつかの数字を大きい木板に描いた。  古いアラビア数字。ローマ数字。漢数字。ゼロ表記のある漢数字。そして、ヒエログリフやメソポタミアの楔文字の数字。  さらに、易に使う八卦。  まったく別の世界で見た、動物を図案化した奇妙な数字。 「次に描きたいのは面倒だから各自……まず、ソロバンで、1から10までの形を」  ぱちぱち、と鋭い音が響く。ロト一族はソロバンを生産し、小さい頃から与えられて習得している。剣と馬の文明水準では、それは高性能コンピューターにも等しい。 「その形を、手元に描き写して」  一人一人、手元の小さな石板に、十種類の図を書いていく。 「さて、じゃあそれを、簡単に図案化してみろ。できたら見せっこしてくれ」  それに、子供たちが大喜びで取り組み始めた。 「記数法だけでなく、分数や指数の表示法も、こちらで教わるアラビア数字は完全でしょうか?60進法主体で、一意性がないペルポイ文字よりはましですが」  ジニの意見に、瓜生は嬉しそうに応える。 「いや、全然完全じゃない。分数は本来指数表記可能だ、分母をマイナス一乗とすればいい。無論、それで複雑な連分数をやると面倒だな。フェテ、例を書いてみろ」と、生徒の一人を指名して板書させる。「将来印刷、そして将来はコンピューターテキストにいたることも考えてごらん。DTPで数式を書こうとすると面倒だぞ」  特に優れた子には、将来の目標、ビジョンとして最先端の技術すらちゃんと見せている。 「なぜ10進法なのでしょう?」  別の生徒の問いに、瓜生は軽く肩をすくめる。 「人の指が10本だから、というのが普通の答えだけど、本当は人間の指は、二進法なら1000以上数えられる。やってみようか」と軽く笑って、親指から順に折り始めたが、30かそこらで指が疲れてやめた。  半分ぐらいはいっしょにやっていた、教室中が大笑いになる。 「人間の指は、一つ一つ自由に動くようにはなってない。かえって不便だな。両手の親指を位取りに使い、八本の普通指で8進法、とやると……あれ?」  と、瓜生は両手を皆に向け、親指を伸ばしたまま残りの指で8まで数え、右手の親指を折りながら残りの指を開いて見せた。 「この状態を、何にすればいい?そう、指で10まで数える、というのは、位取りの概念以前の、より自然な行動だ。基数と位取りがある、普通の計算ではそこまで考えていない。だから、多分変なことをしたら間違えやすいだろう。  さてと、12進法も約数が多くて計算がしやすく、三分の一があるから角度計算でも使いやすい」言って、1:2:ルート3直角三角形を板書する。「12進法で円周率と3の平方根を計算しろ。4桁」  ぱちぱち、と教室中でソロバンの音がする。  ジニが即座に暗算で答え、ソロバンで検算し、「8進法ですと」とやって、それから自然対数の底、平方根などを12進法、8進法それぞれで計算するのを続けていた。そのまま夢中になっている、こうなると彼女は当分反応しない。  瓜生は肩をすくめて、最後にやるつもりの小テストをジニのところに置いた。数秒で全問正解が記され、邪魔だとばかりに押し返される。正直、彼女がこのクラスにいるのも間違っているのだが、授業中別のことをしていていいから座ってろ、とやっている。  もう、彼女を無視して黒板に戻り、 「八卦を数字として考えると、完全にデジタルだから便利だ。でもアラビア数字と比べて筆記には不便だな。ソロバンも結構面倒だ。崩した筆記隊でも確実に区別できる16進法の数字も、みんな考えてほしい。そうそう、今日は数字についての話じゃなかったな、またアムラエルに怒られる。  さて、座標系について、特に極座標と直交座標の相互変換の話に戻ろうか。みんな、六分儀は持ってきたか?」  生徒たちが、航海や測量に使う用具を取り出す。 「極座標は、航海や測量では実際の問題だ。角度をきちんと測って三角測量し、そのデータを直交座標に転換できる。あれ?本当にそれができるかどうか、証明できるか?それを、今夜は考えてくれ。ジニに聞くなよ」  と、授業を続けるうちに、小さな砲声が鳴る。 「おっと、時間だ」と、小テストを配る。「宿題にしておく。さらに発展して考えたいなら、幾何学の問題は代数で、代数の問題は幾何学で考えてみろ。そして、現実の測量や天測にどう応用するか、常に考えろ。質問は班で考え、手紙で送ってくれ」  ジニは立ちはするが、手はソロバンを高速で動かしているし、明らかに目はここにあらずだ。  海底洞窟に出発しようとする前日、挨拶に王を訪れたアロンドたち。  王は寂しがっていたが、アロンドだけを誘って、最大種の犬サイズの犬十頭に引かせる、リヤカーに似た二輪車にアロンドを乗せ、遠乗りに飛び出した。 「気まぐれに行き先を決める野原なら、盗聴の心配がないってわけさ。でも穴はある、どこだい?」  女官に扮しているジジが、リレムにささやく。  その声に、とんでもなく年老いた元神官が振り向き、衝撃に目を見開いた。 「ジャハレイ・ジュエロメル」 「あ、声覚えてた……魔力で確認したね」ジジが苦笑する。「隠せたけどね、無理したら面倒なことにもなるし。魔法を使うと目立つから」 「まさか、百年は昔……幼子のころに祝福を受けた、その時に覚えた魔紋……じゃが、じゃが魔女めは、魔獣のえさと処刑されたはず」 「モシャスをかけたパペットマンよ。それからずっと石にされてたの」と、元の姿に戻って、闊達に笑う。  老人の恐怖は凄まじかった。 「どれほど恐れられているの?」聞くローラに、ジジが苦笑する。 「このデルコンダルでは、大魔王ゾーマや邪神シドー以上」老神官は怯えきっている。 「ま、いろいろと虚名もばらまいたからねぇ」ジジは静かに笑い……すっと、目の色を変えいくつも呪文を唱えた。 「あ、あ」その時に、部屋にいたデルコンダルの人全員が、目を一瞬見開き、その色が曇り、普通に戻る。 「誰にも言うことはできないよ」  それだけジジは言って、それまでどおりの女官に戻り、リレムに軽くウィンクした。 「わかりました。車を引く犬に変身していれば。また、犬が好むエサで誘導する」リレムの答えに、ジジはうなずきつつ、 「他にもウリエルに盗聴器を借りるとかあるだろ」と笑いかけた。そして突然少し真剣な表情になり、「あと、ちょっと仕事があるから」  そして王とアロンドは帰ってきたが、ちょっと奇妙だった。行きは二人仲良く車に乗っていたのが、帰りは鞭を振り回す王に、アロンドが追われている。  激しい怒りの声に、王の兵士たちがアロンドに武器を向け、アロンドがローラたちに合流したのを見て一行にも襲いかかる。  応戦しようとするサデルをアロンドが押しとどめ、わざわざ廷臣たちの前をしばらく逃げ回ってから、大慌てで船に飛び乗って逃れた。 「やはりデルコンダルは鎖国の国だ!」 「よそ者は出て行け!」  大騒ぎの中、大型の船外機を取りつけた船は凄まじい速度で大河を下り、海に飛び出した。 「すまなかったな、騒ぎになって」と、アロンドは笑っているが、サデルやキャスレアは大国デルコンダルとの決裂に頭を抱えていた。  そんな彼女たちに、アロンドとジジはニヤニヤしながら説明を始める。船は、そのまま海底洞窟を目指した。  デルコンダルとロンダルキアの間に、奇妙な島がある。  浅瀬に囲まれ上陸困難、そしてその周囲には濃い煙と有毒ガスが漂い、船がいきなり泡に包まれ沈むことも多く、命知らずの漁師や海賊も近づかない。  ここしばらくは火山活動も活発とされる。  船では危険だ、とアルメラも言うので、飛行艇に乗り換えた。 「昔の海底火山で、ロンダルキアの邪神教団の、地上での事実上の本拠だった」飛行艇の操縦をゴッサに任せた瓜生が、記憶と海図を照らし合わせる。ゴッサたちは神幻の中、瓜生の故郷で特殊部隊の訓練を受け、多様な乗り物を操縦できる。  そして、アロンドを含め十人近くが身をつなげ、トベルーラで降下する。  煙をガスマスクで防ぎ、高度を下げると小さな島が見える。その急峻な山の中腹には、底知れない洞窟があった。  入り口は狭く、熱気が押し寄せる。ロトの鎧を着たアロンド、テパで買った水の羽衣を着たサデル、そして水の羽衣も合成されている魔衣を着ている瓜生、そしてもはや人ではないアダン以外は、熱い溶岩に傷を負うので待つことになる。  どの道、この狭い洞窟に、騎馬の民は無用だ。水の羽衣を着てまでついてくる者もいたが。  山彦の笛は、こだまを返さなかった。だが、アロンドは両親の形見を求め、洞窟にそのまま進み続ける。  しばらく進むと、瓜生が「お」と嬉しそうに道を曲がった。 「あれ、ま、昔の話だしな」とつぶやく。 「何かあったのですか?」と、サデルが、激しく沸き立つ溶岩を見て、顔をしかめた。 「前に来たときは、ここは海水がたまっていい温泉プールになってたんだよ」  サデルは呆れていた。 「それは残念」とアロンドは笑っている。「それより、ロトの装備は引き合うはずだが」と、手にしている、朽ちかけたロトの剣を適当に振っている。 「その剣は、メンテナンスが必要ですね。見た目だけでも」 「そうだな」  などと話しながら、ぶらぶらと歩く。溶岩の魔物がたまに出るが、一瞬で切り伏せる。今のアロンドの戦闘力には、まともな魔物は相手にはならない。 「この海底洞窟は、ロンダルキアの邪神と縁が深いようです」と瓜生。「昔ミカエラたちと、根こそぎ片付けたはずなんだけど」 「なんとかならないのかな」とアロンド。 「いっそ水爆で根こそぎにするか……」瓜生の物騒な言葉、だが冗談ですよ、と軽く肩をすくめる。 「問題なのは、ここで得られるきわめて特殊な鉱石が、邪神像の核になるようなのです。おれたちがそれを破壊したため、邪神が実体を持つこともありえない、それで前はミカエラでも邪神を完全に封じることはできませんでした。今回も、邪神像はないでしょう」 「なら、それができるまで待つ必要がある、か。なんという深謀遠慮」と、アロンドが呆れた。  海底洞窟の最深部。  そこは、かつて瓜生が見たときとは違い、清浄な聖地のようであった。  かすかに輝き、ゴツゴツとこの世のものとは思えぬ形をなす壁。歩くだけでも疲れる、複雑な地形。  時折瓜生の、魔法をかけられたサイガブルパップショットガンから、魔力をこめた散弾がほとばしり、短距離のメドローアとなって道をえぐり開く。  ひときわ深い空間に、やや小型の盾が浮かぶ。青い金属を黄金で縁取った、明らかにロトの鎧と一体として作られたものだ。  その盾は静かに、アロンドの左腕に舞い降りる。  アロンドが、瞬時に、激しい咆哮を上げた。  すさまじい力が、その全身から吹きだす。 「魔力を貸すんだ!」瓜生が叫び、サデルが手を複雑に組む。 「な、なんか、ああ」叫び、頭を激しく抱えたアダンが、手を伸ばす。その手は巨大な蛇となり、また無数の蛇に分裂する。その瞬間、周囲に、いくつも底なしの虚空が生じる……正確には、虚空だったことがはっきり見えるようになり、それを蛇が毒牙を突き立て、うまそうに飲みこむ。  数分間悶絶していたアロンドが、一瞬崩れ落ちかけて、体を立て直す。  瓜生が簡易寝台を用意し寝かせ、吸い飲みにスポーツドリンクを入れてさしつける。  むさぼるように数度飲み干したアロンドが、洞窟の屋根を見上げ、激しく呼吸した。 「とんでもねえことになってた。なんか、すんげー悪いのが、この盾を覆ってて、それがアロンドの心に直接入ろうとした」 「アロンドは、戦闘力の面では闇の衣着たままのゾーマが千人がかりでも楽勝なんだが……それを操られたら、それこそたまったもんじゃない」  と、瓜生が深呼吸する。 「操る?」 「心だけを操る、実体が半ばない……邪神に近い魔物でしたね」サデルが、何度も複雑な呪文を唱えて分析する。 「そいつが盾を封じていたし、逆に盾がそいつを封じてた、とも言えるな」と、瓜生。「少し、軽い食事にするか」  と、瓜生が別にテーブルを出し、いくつかの駅弁とペットボトル入りのスポーツボトルを並べる。 「慣れてしまっていますが、つくづく便利な能力ですね」とサデル。 「でも、これだけでもそんな便利じゃない。トイレと風呂をちゃんと整備するのは面倒なんだよ」 「ああ、だからロト一族は、お手洗いと風呂、水と食料と清潔な寝床を最優先するのですね」サデルが深くうなずき、割り箸を割る。ジパングの血も引いている〈ロトの子孫〉は箸を使える。 「ま、それちゃんとやってれば伝染病はほぼ防げるからな。すまん、おまえにはまともな食事は無理だよな」と、瓜生がアダンにすまなそうな目を向ける。  アダンの髪の一本が、大きな蛇と化して、壁の何か妙な、液体とも固体ともいえない塊を飲みこんでいた。 「あれ、猛毒の鉱石では?」サデルが瓜生に聞くのを、 「そういう体なんだよ」と、瓜生がいくつか呪文を唱えてやる。 「心配かけたな」と、アロンドが起き上がろうとするのを、瓜生が止める。 「離脱する」と、瓜生がサデルに軽く目を向ける。 「おれ、しばらくここで修行しとく」というアダンに、瓜生がうなずきかけてリレミトを唱えた。  地上に出て即座にルーラで大灯台の島へ。  勇者の盾。光の鎧。王者の剣。三つの神武装、そしてロトの兜も含めたロトの四武装が、百年のときを経て再び勇者の身に収まった。  それは、船室で休むアロンドから離れて、主なき鎧のように広場に立っていた。 〈ロトの民〉や〈ロトの子孫〉たちが集まり、ご神体を拝むように拝礼する。  その夜の間に、サデルの指示で、ロト一族の重要な長老格が集められた。  翌日、回復したアロンドが出てくると、拝礼している人々を見回す。 「ひどい悪夢を見ていましたよ」と、ローラが心配そうに言うのを愛情を込めて軽く抱き、ついと、甲冑に手を差し伸べる。  ロトの鎧、盾、兜、剣は瞬時にその身を覆う。生まれたときから着ていたように似合っている。  神々しい姿となったアロンドは、重みがあり遠くまで響く、魅力的な声を上天気の空に響かせた。 「ロトの盾は長い物語をしてくれました。  先の勇者ロト、ミカエラがラダトーム宮廷に返納された盾。ですが、数十年後に愚かな大臣が、当時は邪神教団に支配されていたデルコンダルの密偵に、この盾を売りました」  何人か、〈ロトの子孫〉の長老がうなずく。 「しかしそれを察知した、〈ロトの子孫〉ラファエラが、その跡を追ってデルコンダルに侵入し、そして海底洞窟に封印されようとしていた盾を一時奪回し、盾の力で邪神教団を滅ぼしました。  この盾はそのままこの洞窟にいたい、と言ったので、そのまま置いて帰ったそうです。この盾は、自らの意思を持つ、生きた神々のひと柱でもあるのです。別の神々に寄生しその力を吸い、また封じることもします。だから、闇の神力が漏れ出る魔王の爪痕のそばにいて、力を食いつつ弱めてもいたのです。  そしてラダトーム宮廷は〈ロトの子孫〉の職人が作った偽物の盾を、気づかずに持っていましたが、その偽物は竜王に破壊されました。  ……そして、今は別のことをしたい、そのために私を呼んだ、と言っています」  そう言うと、アロンドの手から盾と剣が離れ、そのまま大きなトンボのような姿に変じ、光を放ちつつ飛び出した。剣と盾は、アレフガルドの中心、魔の島のほうにまっしぐらに吸い込まれていった…… 「きっと、あの子を助けてくれる。私が必要とするときにはまた戻ってくる」  と、アロンドは遠く、戦い続けるもう一人の息子のことを思い、空を眺めていた。  リレムという少女が、どんな資格でデルコンダル王宮にいるのかは、誰も知らなかった。  ホマス第三王妃は、第二王妃の愛人だと思っている。第三王妃の女官たちは、第三王妃の新しい女官見習いだと思っている。  第二王妃は新しい王妃だと思っている。第二王妃の妹は、バルツ大臣の愛人だと思っている。  バルツ大臣は、アレフガルドの貴族の娘だから、ある種の人質だと思っている。バルツ大臣の評判が悪い甥は、自分の愛人だと思っている。  もう、ロトの子孫の偽者とされる、アロンドの大騒ぎのことはほとんど誰も覚えていない。ほんの二月で、大きな魔獣と罪人の戦いが何度もあった。収穫があり、祭りがあった。  海の大漁で、最下層の奴隷まで誰もが、腹がはちきれるほど大食いした。  大雨で、いくつか橋が流され、多くの人が死んだ。  第二王妃の叔母が出産し、普通なら死ぬ難産だったが、リレムの献身的な介護……実は彼女が無線で呼び寄せた〈ロトの子孫〉の医師のおかげで母子とも助かった。  リレムはつい最近来たばかりだとは、誰も考えないほど馴染んでいる。いろいろなゴシップに精通し、気がきき、美しい少女は、もう宮廷の一部のようだった。  彼女が、一日に十時間ぐらい消えていることも、皆は気づいていない。  いろいろな時間帯、瓜生やジジの送り迎えで大灯台の島の学校で学んだり、船でキャスレアに女官の訓練を受けつつローラとローレルを世話したり、日本語や英語の読み書き勉強をかねて報告書を書いたりと、忙しく働いているのだ。  睡眠はちゃんととれ、と毎日のように瓜生に言われているので、デルコンダルで寝ることは寝ているが、起きているときは常に多忙だ。  そして、デルコンダルでの彼女の周囲に、変なことをする貴族の子や、老人すら何人かいる。  一言で言えば、スパイゴッコ。あちこちで噂を聞いたり、「聞いた声を保存する道具」などを預けられて、それぞれの楽しみのために政敵の寝室に仕掛けたりしている。  魔法の道具なら探知できる魔法使いはいるが、魔力を持たない、瓜生の故郷から来た道具も彼女は配る。  そして、ベンチの下の土にメッセージ入りの筒を刺したり、暗号を送ったりと、いろいろとやっている。  それは、退屈している貴族たちにとってとても楽しいことだった。  スパイ、というのはこれ以上なく楽しいのだ。危険だと言われるほど。  だが、時にはそれがとんでもないことになる。寵愛を失った第三王妃が、リレムから魔力なしで遠距離の人を殺せる武器……ボルトアクションライフルを盗み、王を撃とうとしたのだ。  だがそれは、カルダエ宰相が別のスパイを利用して……無論、宰相は自力で探ったつもりだが、リレムのさしがねで……察知しており、寸前に第三王妃を斬り殺し、ライフルを奪って、今度は別の政敵を暗殺するのに使った。  本来なら魔獣の餌にされても仕方のないリレムは、争いの狭間でなぜか罪を免れた。誰も、〈ロトの子孫〉が、銃の管理をどれほど徹底しているかは知らなかった。銃本体と弾薬が同じ場所に入っていること自体、ありえないことだ。  いろいろな人たちがスパイゴッコをして、政敵の動きを調べたり、弱みを握って脅したり騒動が起き続けている。  漁夫の利を得ているのは、王だった。  ハーゴンは、とある結界の中でほくそえんでいた。 「デルコンダル大陸に、邪神の信徒は入れません。強い結界でね……あのミカエルとラファエラ、アロンドさまの両親がかけたマホカトール……だが、リレムを通じて人を動かすことはできる。すべて、この……」  ほくそえんでいるのは、ハーゴンだけではなかった。  リレムが巻き起こしている騒動の中、奇妙に破滅する貴族や商人が多くいる。決まって邪悪な者だ。  ジジと瓜生は、リレムが持っている盗聴器と小型カメラの映像を見て、確かめていた。 「リレムが何か、指示を出したって感じはないな」と瓜生。 「直接会って気づかないの?彼女、香水をつけてるわよね」 「診察には不便だよ。香水になるハーブと花を、サラカエルの村で栽培を始めたって聞いたな」と、瓜生が地図を見る。  ジジはため息をついて、 「そんな話をしてるんじゃないわ。リレムの、香りをかいだだけで動いている奴らがいるの。多分本人も、操られたと気づかないで」 「どういうことだ?」 「石にされる前のこと、思い出してるの。ある女官が、いつもと違う匂いをさせた、その直後カンダタを裏切ったヤツがいる」 「匂い?」  ジジが、静かに笑って、目の前にいくつもの小さなガラス瓶を並べた。 「どんな仕掛けかわからないけどね。アロンドの両親が邪神教団は駆逐したはずだけど、自分でも邪神の信徒だと気づいていない人間は、どうしようもないのよ」 「ダーマにでも聞きにいけたらな」 「世界樹とガブリエラに聞いてくる」と、ジジの姿が消えた。  アロンドが竜王を倒し、アレフガルドを覆った結界が解けて行き来できるようになった。  そして、瓜生の参加があって、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉が混ざって教育されるようになった。元々どちらも教育水準は高かったが、それが近代学校に近い形にされていったのだ。  その、ある一日を、比較的平凡な〈ロトの子孫〉の女子ケエラと、〈ロトの民〉の男子ダンカの目から描いてみよう。どちらも11歳だ。ケエラはジパングの血が濃く肌が白い、黒髪をポニーテールにしている。ダンカは浅黒い東南アジア風で、背が低いが筋肉質だ。  ケエラが目覚めたのは、サラカエルとムツキ夫婦が担当している開拓村、いくつかある天幕内のハンモックだった。  起きてすぐ、まずミカンを搾るのが彼女の役目。 〈ロトの子孫〉は、さまざまなことを覚えるため、子を両親とは別の場に一年ぐらい預けることが多い。ケエラと、サラカエルとムツキとの系図は遠い。また下のハンモックで寝ている、姉とされるラファエラも同じ境遇で、ケエラの姉妹ではない。  夫婦の本当の子である、幼いオサフネが泣きだすが、ラファエラはまだ寝ている。母代わりのムツキは最近、しばしばアロンドつきの仕事で……村人には行商と言っている……出かける。困って、ラファエラの胸をはだけて吸わせようとしたとき、父代わりのサラカエルがオサフネを抱きあげた。 「まだ出ない。それに、泣いているのはおしめだよ。ラファエラ、それはお前の仕事だろう」とサラカエルがザメハを唱え、ラファエラを起こした。 「ケエラ」 「おはようございます」とケエラが、ジパング系の子孫らしく礼をして、台所に向かった。  隣村にできた登り窯で焼かれた陶器のカップにジュースを絞る。皮も無駄にはしない、ミカンの皮は干すといい薬だし、生で搾って得られる精油は万能清掃剤だ。  朝はまず、かんきつ類のジュースと小さなレバーソーセージで、必要なビタミンとミネラルを摂っておく。  皆それを食べる。レバー嫌いのラファエラは噛まずに飲んだ。  それから、主に雑用と薪取りをやっている家の、乳がたくさん出る奥さんが打ってくれた、おろしジャガイモとソバの麺をゆでて、キーモアがらで出汁をとった醤油仕立ての汁に入れる。  モヤシと、子供たちが摘んだ二種類の野草と柿の若葉をさっとゆで、アブラマツの実も入れて白和えにする。それにキーモアの拳大の卵を二つ炒って家族全員で分け、納豆とたくあん漬けを食べて朝食を済ませる。  ロト一族はすべて、朝食は家族の団らんとする。  そして作業着に着替えて家事。まだ家は一つできかけがあるだけで、村みんな天幕暮らしなので、家事のかなりの部分は村全体の共同作業のようでもある。また、天幕を移せば掃除は不要だったりする。  洗濯は普通なら大変な仕事だが、水車につながった樽に、ボサダという灌木の実をつぶして湯と入れて回せば泡が出て汚れが落ちる。最近は油や石鹸の交易も復活してきているが、石鹸は風呂用だ。  その間にソロバンを取り出して計算し、紙に別紙の字を書き写して宿題もやっておく。時々樽の回転方向を切り替える。  ジジに特別な教育を受けているラファエラは、必死でダンスの練習をしていた。ケエラはそれがうらやましくてならず、いつも真似をしている。  それから少し、村の子達とも協力して草の葉や土を集め、使わなかった樹皮や蔓も使って、使い捨てトイレにする籠をざっと編んで土を塗り、ずらして重ね乾燥させておく。  失敗して叱られるのが辛いが、彼女はどうも手が不器用だ。  それをからかって、無理に抱きつこうとする、二つほど上で図体だけ大きい鍛冶屋の息子に、指関節をとり顔を鋭く払って出足を刈り潰し肩関節をきめる。母代わりのムツキ、〈ロトの子孫〉屈指の武闘家がいるときは、彼女から学んでいる。 「いいかげんこりなよ」  ラファエラの咎める目に、わかってるよ、と目を返す。〈ロトの子孫〉の正体を知られてはならない。  そしてトイレを済ませて手をそのために移植した薬草でぬぐう。  家事が一段落すると濡れた布で軽く体をぬぐい、ソバ入り餅に味噌を塗って焼いたのと、アブラマツの実、干柿、竹筒に入れた湯冷ましを持たされ、森に出かける……この兄弟姉妹が、毎日のように森に出かけるのは、もう誰も疑問に思わない。  服装は、樹皮から取れる繊維を用いた動きやすく丈夫な、裾がゆったりしたひざ下までのズボンに、柔道着のような袖の長い服。  帯は二重で、腹巻のように覆う幅広い帯はほどくと広い布になり、雨をしのいだりくるまって寝たりできる。その上に体重も支えられるロープをかなりの長さ巻いている。皮と厚布でできた丈夫な編み上げブーツが膝までしっかり足を固定し、頭には厚革の帽子。長い手ぬぐいも必ず持つ。常在戦場、いつそのまま旅立てと言われても応じられる服装だ。  下着は常に洗いたてで清潔だ。  ふっと森の、茂みに隠れたら、もう全速。道なき道、木の枝から枝、岩の隙間をサルのように、人間離れした速度で走り、隠された広場に走り出るとラファエラの手を握り、皆でルーラを唱える。  ダンカが目覚めたのは、ペルポイ半島の先にある、かつては鬼ヶ島と言われた隔離・流刑の島だ。  枕にしていた、ペットのスライムベスを軽く叩いて起こす。〈ロトの民〉は病人だった頃から、人を襲わない魔物と共存している。  そして家族と血のように紅く酸っぱい、ビタミンC含有量も高い潅木の実と、つる性ヤシの甘い樹液を混ぜたジュースを飲み、レバーソーセージを食べる。それで朝の栄養を摂るのはロト一族共通。  魚醤をつけて焼いた山芋のような芋と野菜をかじり、瓜生由来のキャッサバ発酵ペーストに焼いた小魚をくるんで食べ、馬乳酒を飲み、最後に熱い茶を飲む。  体が不自由な兄のマロルに、すりつぶした芋とジュースを注意して飲ませてやり、下の世話をするのもダンカの役割だ。  それから家族で家事をすませ、残飯やゴミを分けて堆肥に混ぜたりスライムのえさにしたりして、昼食となる干し芋と塩魚に革で覆ったガラス瓶に入ったアブラヤシの油・湯冷ましを受け取り、家庭菜園と竜馬の手入れをした。  馬の世話は大変な仕事だ。特に、体が小さいダンカにとって、巨大すぎる竜馬は。だが、やればやるほど応えてくれるので、彼はその仕事が大好きだ。  広い果樹の下を馬で駆け、それぞれの木で害虫を食べている人を襲わない魔物とコミュニケーションをとる。  それから、子供たちが馬に乗ったまま集まり、朝の訓練を始める。  素手の技の基礎だけ、しっかりと練習する。その動きは剣技にも共通する。  そして全力で馬を走らせ、全員が一糸乱れぬ集団となる。リーダーの号令、馬上から投槍棒で槍を、集団で的に飛ばす。馬の上から、柄の長い剣に全体重を乗せて的となる吊るした粘土塊を断ち切る。  巨大な盾を両手で持つ二人と、長い槍を持つ二人の四人が先頭で突進し、矢の雨を突破しファランクスの長槍を払いのけ、後続が一気に押し破る訓練。  人馬一体、馬群一体。それでしばらく駆け回り、戦っていれば汗だくになり、全身がフラフラになるほど疲れる。  その汗で垢を落とし、水に飛び込んで全身を洗い、清潔な下着と服に着替える。その時が朝、いちばん心地いい。〈ロトの民〉はクズに似たつる植物の繊維、大灯台の島で見つけた竹綿という木綿のような繊維、家畜の毛糸や皮革を使い分け、乗馬向きの革ズボンとブーツを愛用する。上は毛糸のシャツだ。  それから宿題などを確認し、子供たちが集まった、そこが学校になる。  ダンカは兄のマロルも、近所の子と二人で担架に乗せて連れてくる。  いくつかの特殊な木や石で飾った地面に、ルーラの光が集まり、よそから来る少年少女も出現する。次々と。  竜王が暴れる以前は、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉は、互いのところを訪れて学校としていた。竜王が暴れていた頃は連絡不能だったが、最近やっと今までどおりに戻った。常に近すぎず遠すぎず、丁寧に関係を調整していた。 〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉の合同授業だと、どうしても魔法使い率が高く怪力の持ち主の多い〈ロトの子孫〉が優越感を持ってしまう。まあ、〈ロトの民〉もカンダタの娘であるシシュンが子を産んでから、かなり魔法使いは増えている。  そして〈ロトの民〉自体も、特殊な血筋があったのか、アレフガルドの一般人に比べても魔法剣との相性がよく、魔力を使える鍛冶も多い。  病人が由来の〈ロトの民〉は何よりも差別を嫌う。だから学校が求める激しい運動ができない、心身に障害がある子も、学校の中にある程度混ぜつつ、その子にできることを覚えさせて包摂する。  マロルは生来足が動かず、手もごく弱いし口もうまくきけないが、魔力がきわめて強くわずかに動く手だけで、皮革や鋼材に魔力をかけることができる。計算もできる。  だから彼も、ちゃんと学校に参加し皆に世話されている。他にもさまざまな障害児が共に学んでいる。  ひときわ美しい、勇者ロトことミカエラとよく似たラファエラがルーラで出現し、光の粒を振り払う。思わず皆がほうっとして、女の子につねられる男の子もいる。ラファエラはすぐ、一人でルーラを唱え大灯台の島に行く。  学校が始まる、今日教えてくれる大人が集まる。およそ朝十時ごろから、午後三時ごろまでは合同で教育。  そして、まず全員で礼をして歌を斉唱し、一通り素手武術と剣を流す。四十八式太極拳と太極剣をやるようなものだ。  その一つ、『大球を抱え隣に手渡す』形をしたとき、ダンカの手が突然光った。 「そ、それ」ケエラが叫び、ダンカが驚いたのを、鋭い叱声に二人びくっと飛び上がる。 「やめ!全員自然体に立て、目を閉じ深呼吸!最初から、集中!」と大人たちの厳しい声に、生徒全員動揺しつつ背筋を正し、再び最初から恐ろしく体力を使う動作を繰り返す。  憎悪と言っていい目でケエラはダンカをにらんでいた。それに困っているダンカの手からは、先ほどの動きでは光は出なかったが、別の『大股に跳び、馬に乗るように着地して大槍を突く』動きで拳から光が迸った。  ケエラは今度は叫ばなかったが、その目にはもはや殺意が宿っていた。  それから連絡事項をいくつか確認し、「宿題は?」と確認する。瓜生の故郷とは違い、校長先生の話とかはそれほどない。ジパングで偽ヒミコに家族を生贄にされたり、サマンオサで偽王の暴虐に苦しんだりした人々の子孫である〈ロトの子孫〉は生贄や圧制を嫌うので、権威主義や無駄な儀式は嫌われる。  やった子は提出して集まり、答えあわせをしてから、一時間遊んでいい。やっていない子は、その場で宿題をやらされる。  学校の授業は、読み書きソロバン、魔法、武術、医学、歌舞音曲、農、土木、航海など多様だ。魔法の素質がない子は余計に数学や医学を学ぶ。卒業までに、あらゆる仕事を少しずつ経験させ、戦力としても一人前にする。  ダンカは昨日、分数の割り算と月齢計算、日本語の漢字が半分しかできておらず、遊ぶクラスメートをちらちら見ながら宿題に取り組んでいた。  つい、目がダンスを真似ているケエラに行ってしまうのを抑えて、別の〈ロトの民〉の女の子を見ようとする。  子供たちは長縄跳びをしたり、最近はサッカーも好まれる。テパの南にゴム園があるので、球技もできる。  高い、模擬マストによじのぼって遊ぶ子もいる。落ちたら魔法使いである教師がトベルーラで助け、厳しく言う。  囲碁や将棋も流行っている。  その、朝の一時間が終わったら、全員で四十分ほど全力で走るか泳ぐ。最後の十分はマヌーサの変形で、猛獣から逃げるレベルの必死に、心を操られてだ。怪力の素質がある者は重い鎧というおまけもつく。  肉体的に疲れきった状態で、授業が始まる。  ソロバンは全員で大量の計算をする。意味のない計算練習はしない、三角関数表と対数表、円周率や自然対数の底などを、全員で進めているのだ。一桁ずつ、繰り返し検算しながら。数表は膨大な人数が少しずつ計算し、少しずつ進めていく、社会の大切な共有財産でもあった……瓜生の故郷では、コンピューターが発達するまでは。  また、測量や土木、天文観測で実際に出る問題を持ってきて、全員で解くこともある。それも膨大な計算量になるので、結果的に計算練習になる。  読み書き、日本語と、この〈下の世界〉で使われる共通語を両方、主に文献を書き写すことで学ぶ。  また、下書きされた石版の字を彫り削って、印刷の仕事を助けることでも言葉は学ばされる。  自分達で詩を作り、歌うことも多い。  全般的に、実践を重視する。現実に大人がやっている仕事を見させ、手伝わせる。たとえば鉱山では石を砕いたり、土木工事で穴を掘り土を運んだり、農では水路を掘ったり、船ではボートを漕がせたり、木を運んだり植えたりと、実際に体を使わせることで体育も兼ねるようにしているし、実際に体力を提供する労働力としても役に立っている。  ただし理論的なこと、計算も、それこそ子供たち自身に小さい田畑を作らせたり、測量し計算し、計画してできるように教えていく。  ロト一族が何より重視するのは、子の教育だ。そのため、何より子の、学ぶことのモチベーションを高くする。魔法も、すべてよい世界のための手段だ。  今日のケエラとダンカたちはみんなでの体育が終わってから、ソロバン・歌舞の後、水田を耕す実習をした。ちょうど二期作の代掻きで人手が必要だった。  つい、ダンカたち男子は泥をケエラにぶつけて、ものすごく嫌われて自己嫌悪し、大人に「まだ体力が余ってるんだな」と怒られ大量の泥を上の棚田に運び上げる、とんでもなく体力を絞りつくす仕事をさせられた。  子の悪戯は体力が余っているから、なら体力が尽きるまで体を動かせ、がロト一族の基本教育方針である。  終わるとき、先生は皆に「さて、泥を運び上げるのは大変だ。どうすれば楽になるかみんな考えてみろ。ウリエルの世界は、工夫の積み重ねであれほどすごい医学や技術ができたんだぞ」と、みんな耳にたこができることを言った。  だが、ダンカたち、泥を運んだ者は真剣に考え始めた。実感を持って大変だった。  昼食は授業の合間に、それぞれ持っている食べ物を思い思いに食べる。分け合う者も多い。ケエラが持ってきている弁当はあまりおいしくないので、彼女はガライの町から来ている親友にたかっている。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉で固まるな、混じれ、と言われているが、それはなかなか難しい。  ただし、正午の茶は全員で姿勢を正して飲み、配られる軽食を食べる。  授業が終わってから、ダンカは教師たちに呼び出された。 「もういちど、徒手武術を一通りやってみなさい。深呼吸してから、何も考えずに」  疲れきっていたダンカは、光らせようとか考える余裕もなく、倒れそうになりながらやる。  そのいくつもの動きに、光がかすかな螺旋の軌跡を描くのを、教師達は見ていた。  そして動きが終わると、突然拍手が響き、きえさりそうの効果が解けて一人の、優雅な黒髪の女性の姿が出現する。 〈ロトの子孫〉屈指の武闘家であるムツキだ。 「え」  ダンカは衝撃に口もきけなかった。 「生粋の〈ロトの民〉には少ないはずなのにね」と、ムツキが笑いかける。 「ええ、間違いなく烈光拳。動きも、ごらんになりましたね」と、教師がムツキと話す。 「明日から、少し特別な授業に出てもらうわね」ムツキの声に、ダンカは現実感を失った。 「ですが〈ロトの民〉は集団騎馬戦、一人で極端に強くても、不幸になるだけかもしれません」 「明日からこの棒をつけていなさい。今後、素手でのケンカは絶対に禁じます。あなたの手足は、凶器です。挑まれたら逃げなさい、逃げられなければむしろ棒を使いなさい……そのほうがまだましです」と、ムツキが30cmほどの硬木の棒についた細紐の輪を、ダンカの首にかけてくれた。引けば結び目が抜けるように結ばれている。  呆然とした状態で部屋を出たダンカの前に、ケエラがいた。 「ば」震えながら顔を上げない彼女に、ダンカはどぎまぎして、疲れて、 (今日、泥ぶつけたのまだ怒ってるのか)と、謝ろうとも思ったが「ば?」としか声は出なかった。 「ばかあっ!」激しい叫びとともに平手打ち、そしてケエラは泣きながら駆け出した。  ダンカは、ひたすら呆然とするほかなかった。 「ごめんなさい」と、ムツキの声がした。「あの子、今娘代わりなの。あの子こそ、この技を使えるようになりたかったのね」  そういわれたとき、大人たちの話を思い出した。 「あげられるならあげるよ」 「いい子ね」ムツキは優しく苦笑し、ダンカの頭を軽くなでて去った。彼女も忙しい身だ。  彼女自身が有数の戦力としてアロンドに必要とされることも多いし、ゴッサ率いる精鋭の一人でもある。   さらに夫のサラカエルは難民を率い開墾する仕事と、医師として瓜生の技術を学び、さらに生徒に教える仕事を掛け持ちしていて多忙を極め、それだけに開墾指導や子供たちの世話でムツキの負担も大きい。  まして、預り子の一人ラファエラはジジに見出された特待生。そのケアも恐ろしく大変だ。  呆然とすることはあり、また宿題にうめきながら、みな学校から家にルーラで帰る。日が少し傾きかける頃。  それから、それぞれの地域の仕事をすることになっている。部活動という贅沢は残念ながらない。起きる時間は家事・宿題、授業、遊び、地域の仕事の四つに分けられている。  ケエラは泣くのを必死でこらえていた。迎えたムツキは何も言わず、麻薬成分のない大麻から繊維を取る、冷たくて体力を絞る細かい作業をケエラとともに続け、それから三つ目のかまどを作る作業を、村人を指導してやって、さらにジャガイモを掘りカボチャの世話をした。  それから、何も言わずに森の奥に行き、何も言わず容赦なく徒手武術の稽古をし、最後に手本を見せてから帰った。ケエラは、疲労と空腹で今にも倒れそうになりながら、遅くまで練習を続けていた。  明日、宿題ができずに朝の遊び時間は宿題をやるハメになるのは、百も承知だ。練習しながら、いつの間にか泣きじゃくっていた。  いつの間にか、隣でラファエラがともに練習をしてくれている。ケエラは何もいえなくて、半ば泣きながら練習していた。  そして、しばらく前のことを思い出した。特別コースのラファエラが、全身に重い傷を負って帰ってきて、何日も深い心の傷に夜泣きじゃくり、おねしょさえ繰り返していたことを。  それを思い出すと、余計涙が止まらない。そしてまた、動きをくり返す。「光れ、光れ」と叫びながら……無論、そうやって動きに力が入り固くなれば、余計動きは崩れるに決まっている。  泣きじゃくりながら、ラファエラが差し出してくれた焼き餅を一口だけかじり、冷めた実のない味噌汁を飲んで、それからまた激しく練習を続ける。  ムツキはきえさりそうを噛み噛み隠れて見ながら、手では開拓の報告書を書きつつ幼子をあやしていた。  疲れを通り越し、ムツキにおぶわれて帰ったケエラは、(ダンカが好き)と、心のどこかに浮かんで混乱したまま泣き寝入りした。  ダンカは、〈ロトの民〉の村に戻り、家畜を追い果樹の虫を取る仕事を皆で繰り返し、竜馬を追って代掻きを一気に進めた。  世界樹の島で得られるグアノを木の根元に埋めたり、堆肥をあぜに入れて豆を植えたり。  そうしながらも、彼はケエラの怒りと絶望が、とても気になっていた。ムツキの言葉が。  そして、首に下げた短い棒が、とても邪魔だった。なにも考えず、群れて走る家畜の一人だったような今朝とは、もう違うのだろうか、とばかり思っていた。  明日からどうなるのか、〈ロトの民〉ではいられなくなるのか、心配でならなかった。  だが激しい仕事を皆でやっているうちに、そんなことを考えるのはばかばかしくなってきた。  仕事が終わってから、日が沈む頃までは皆で思い切り遊ぶ。みんな馬に乗るのは当然で、魚の群れのように一体化して魔法の鬼火を追い回す。〈ロトの民〉は個人が突出しないよう、ポロはあまりやらない。戦いを遊戯化するのも嫌われるため、馬上試合の類もやらない。集団で一つになり、走り回っているだけで楽しい。  それから、家族近所で歌いながら、ラツカという毛が長い家畜を一頭殺す。痛みを感じさせないようラリホーをかけたまま、心臓の血管を体内で引きちぎり、一滴の血も無駄にしないよう腹腔内に血をため、腸詰めにしたり鍋にいれたりする。  レバーは小さいソーセージにして保存、脂肪も分けて塩漬けにし、肉も多くは薄く切って燻製にする。皮革や骨も貴重だ。  可愛がり育てた家畜を歌いながら殺し、肉にして食べる。その血肉を自分の血肉にする。その偉大な営みをともにする喜びと哀しみに、疲れと混乱が少し軽くなるのを感じつつ、今夜食べる肉を切り分ける。  大きな土鍋を、陶器でできた二次燃焼のあるストーブにかけて塩と血と骨付き肉、分厚く味のいい木の葉、香り草、芋をたっぷり入れて、みんなで食べる。肉を骨から噛みちぎりうまい汁を飲む幸せに、疲労やケエラの泣き顔は吹っ飛んだ。  気分よくアロンドの活躍の歌を家族と歌い、マロルの体を洗ってともに温泉の湯にゆっくりつかり、宿題を今夜は全部やって、いつもより少し早く寝た。  アレフガルドの中央、ラダトームの対岸にある魔の島。今は城はなく、季節おかまいなしに花が咲き乱れている。  かつてゾーマ、そして竜王が居城を築き、民に恐れられてきた。魔が倒され、城が消えうせ浄化されても、この島に住む人などいない。人を襲うのをやめた魔物の、楽園となっていた。  だが、かつて城だった花園の地下。ルビスの祝福による封印をこじあけた竜神王子が、半ばこの世ならぬ混沌の迷宮に滑りこんでいた。  もう何ヶ月も、竜王やゾーマの城以上に複雑な、人には入ることもできない迷宮を、黄金竜は配下の竜族と彷徨っていた。  もう一人の父である竜王の面影を求め、そして竜王を穢したゾーマの邪霊を滅ぼすために。  竜の口から、繰り返し激しい光があふれる。  それは、人間が迷宮を探索するのとは全く違っていた。もはやうつし身も半ば捨てていた。  アロンドが、勇者の盾を手にした時に襲われた、内心の激しい葛藤とも似ていた。怒りや憎しみ、罪悪感など、感情を桁外れに増幅されたら、人はどうなるか……人の正気の心がどんなに脆いか。人は頑張ることはできる。だが、激しすぎる感情には抵抗できない。  アロンドは乗り越えた。だがまだ幼く、元から激しい感情を抱えるヤエミタトロンには、過酷だった。  自らの中の強大すぎる、激しい魔性が底なしの闇になる。悪に対する激しい怒り、正義感さえ、歪めば激しい憎悪になる。  ガライの墓で人間としての一生を経験して、感情を制御できずに後悔することが何度もなければ。支えられること、愛することを知っていなければ。そして毎日、肉体を限界まで酷使し強い意志を身につけていなければ……この魔の島地下の隅々まで染みた邪悪に穢され、新たな魔王と化していただろう。 「父さん、母さん、なぜ僕を捨てたの」 「竜王とアロンド、どちらが父さんなの」 「竜王を悪に染めたゾーマとシドー、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」 「僕は魔だ!ローレルは今も母さんに抱かれ大切に育てられているのに」 『ヤエミタトロンよ、なにゆえもがき生きるのか?滅びこそわが喜び。死にゆくものこそ美しい。さあ、わが腕の中で息絶えるがよい』 『われはシドー、すべてを破壊する。わが糧となれ。われが現世に蘇るための』 『竜王はだめだったが、お前はあるいは』 『憎め。人を、魔を』 『人でも魔でもある者など、あってはならない』  絶望に魂を食い荒らされ、黄金の鱗すら黒い闇に染まろうとしていた……その時だった。神々の武装が、竜神王子の両腕に舞い降りたのは。  人の手で作りなおされ、老い錆びてはいるが、ゾーマと竜王の血に染まったオリハルコンの神剣。  魔王の爪痕、そして海底洞窟で邪気を食い、そしてミカエラとアロンド二人の神勇者から神力を吸っていた勇者の盾。  竜神王子も、神々の武装に選ばれる資格のある、勇者だった。 『私はアロンド!わが愛する息子よ、ローラと竜王の子であり、私の子でもあり、ローレルの兄でもあるいとし子よ』 『愛している!』 『ローラも、いつだってお前のことを思っているんだ!』 『お前も〈ロトの子孫〉だ!』  アロンドとローラから継いだ、人の血と心が目覚め輝き、人の姿を取り戻したとき。  実体を半ば取り戻したゾーマと、激しい闘いになった。ヤエミタトロンにとっても先祖である勇者ロト、ミカエラとゾーマの戦いを、くり返した。勇者の盾と王者の剣を両手に。幾多の、強大な魔物を率いて。  激しい戦いは、どれほど続いたのだろう。時には竜の姿で、その身の一部となった剣と盾の力を借りて。時には竜鱗をもつ人の身で。  絶望の冷気と、光焔のブレスが激しくぶつかり続ける。まさしく、あの戦いだった。  ついにゾーマを、絶望をすべて熾光が焼き払ったとき。その邪悪を食いつくし、自らの血潮とし、それで正気を失わず耐え抜いたとき。大魔王の邪悪の痕跡が、竜神王子に呑み尽くされたとき。  そこは広い海の底の、小さな島だった。  本来なら闇の底。だが、まばゆい光に照らされている。  アレフガルドの王室が取り戻した光の玉は、きわめて複雑な魔法的な、樹木の根や水流に似た流れから、ヤエミタトロンにも光を与えている。  光の玉は本来、竜王の母である竜の女王の瞳。勇者ロト・ミカエラの血筋との縁も深い。そして、ミカエラから当時のアレフガルド王に与えられているので、王室の血筋ともつながりがある。  ローラ王女。ミカエラの直系子孫であるアロンド。そして竜王。三者とも、光の玉と深い血縁でつながっているのだ。  三つの血筋は魔法の水脈となり、今はラダトーム王宮の宝物庫に眠る光の玉から、ヤエミタトロンの血に光を運んでいる。  それが自然と、彼が征服した世界を……魔の島の地下、魔城の底からかつて竜王がつなげた、海が大半である別の世界を照らしている。ゾーマの邪悪な霊を、竜王の悲しみと恨みを清め、祓っている。  時間はかかるだろう。まるで大蛇が鹿を呑みこみ、何ヶ月も寝たまま消化吸収するように。  神官が長い時間をかけて歌い踊り、複雑な魔法図を描き、身を清めたまま儀式を続けるように。  人々が竜王の恐怖を忘れるまで、十数年……魔の島は、人が立ち入ることはないが危険もない、魔物の楽園だった。  新しくそこに城が建つのは、子の代だろうか。  アロンドは次に、炎のほこらの島からロンダルキアの崖を左手に見ながら北上、風の塔に行き、山彦の笛を吹いたが、こだまは返らなかった。  塔の北方に所領を持つ、ムーンブルク貴族のレアヤに誘われる。饗応を受けて病人を癒し、ガライ一族の素晴らしい歌を贈った。幼い王太子も、アロンドの忠告どおりレアヤの城で療養しており、ずいぶんと元気になっていた。嬉しそうにアロンドに抱きつき、話をせがむ。  多くの橋が架かった、森の中をくねくねと通る川。塔の側に突き出す広い半島は豊かな水田地帯で、膨大な木材を水運で運び、銅や鉛、ガラスも産出している。昔は少し砂金も出た。川魚も豊富だ。  そしてレンガと木材を贅沢に使った、水で守られた邸宅がある。樹皮布を着た領民たちも肥え身なりもよい。豊かな地だ。ただ、少し蚊による伝染病が多かったので、すでに〈ロトの子孫〉は使っている除虫菊の種や、より簡単で強力な蚊帳を教えた。  ごちそうは亀と川魚、川蟹が多く、ムーンブルク王宮よりうまかった。特に大きな川魚の卵の酢漬けが極上だった。  それからレアヤたちを船近くの大天幕に誘い、ロト一族の……瓜生の技術を背景にした、素晴らしいごちそうと酒で饗応をお返しした。  瓜生の世界の文化をあらためて学んだ、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の人たち、そしてレグラントやリレム。彼女達の確かな舌と美的感覚、優れた器を作り布を織り染める職人たちが、素晴らしい場を作り上げた。  茶道の野点のように、野の花園によい景色を見出し、美しく着飾って貴族たちを出迎えた。 〈ロトの民〉の遊牧民由来の肉料理・乳製品の多様さ。酒で野菜と骨付き肉を長く煮込んだソースをかけた塊肉のローストも、酸味のきいた馬乳酒に漬けた薄切り肉をさっと焼いたのも。大理石の桶で香草と塩漬けにした脂身がまた極上。酸味が強いヨーグルトと果物のフローズンなど、最上のデザートにもなる。  瓜生由来のアブラナ・ヒマワリ・ピーナッツ・アブラヤシ・(麻薬成分抜きの)大麻、こちらのアブラマツ・トゲマメ・オオタネスイカなど複数の油糧作物を育てており油には不自由しないため得意とされる多彩な揚げ物。レシピとしてもフライ・天ぷらなどいろいろあり、特に串揚げはうまいのを少しずつ多様に楽しめる。薄切り肉に梅干肉を巻いて揚げたのが特に人気だった。  ジパング由来の刺身や多様な大豆発酵食品などもある。  ジュースも工夫されている。ビタミンCをとるため毎日飲む、だから少しでもうまい物をと、地域ごとに工夫している。  料理を少しずつ多様に、数々の美しい器で供し、その器もまた土産として持ち帰らせた。身分の低い従者たちも、こちらは量優先の肉と酒で存分に楽しませ、良質の布を与えた。  景色の美しさに客が飽きようとした時に、突然リレムやラファエラら若く美しい少年少女が華やかな歌とダンス、それから『シェルブールの雨傘』の曲で〈上の世界〉のエリックとオリビアの悲劇をミュージカル化した作品を上演し、楽しませた。  元々男装していたミカエラによく似ているラファエラの男役は無論素晴らしかったが、オリビアを演じた、ジニに顔だけモシャスしたケエラも熱演していた。  リレムはジニに出演させたかったが、彼女はいろいろな金属をいろいろな工具で切削し、断面を顕微鏡で調べるのに夢中で、断固無視した。  まだレベルの低いケエラが、彼女には困難な呪文を身につけたのには、こんな話がある。  ある日、ラファエラを通じて瓜生に面会を求めたケエラが、モシャスを教えるよう懇願したのだ。 「むろん用途は広いけれど、きみにはまだ無理だよ」 「どんな修行でもします、なんでも」と泣き崩れかけている少女に、瓜生が困っていると、ムツキとジジがやってきた。 「教えてやるよ」と、ジジがにっこり笑う。 「だめです!ケエラ……ダンカに聞きましたよ。一昨日、天空の勇者の歌劇の授業で、シンシアが勇者に変身して犠牲になるところを、すごい目で見てた、って」と、ムツキが悲しげな、厳しい声。  ケエラが絶望に打ちひしがれる。 「それならよけい教えるわけにはいかないよ、〈ロトの子孫〉一人の命にどんな値打ちがあると思ってるんだ」と瓜生。 「同じ体重の黄金より、とアロンドが言っていました。竜王との決戦を前に」と、ムツキ。 「そういうことだ。というか、モシャスができたならまともに戦っても善戦できただろうし、バシルーラだって……」瓜生が脱線したのを無視してジジが、 「教えてやる。いい、こういう目は、娼婦の子がしてたら気をつけなきゃいけないんだ。で、うまく操れば簡単に命捨ててくれるから、べんりっちゃ便利なんだけどね」  というのにムツキがあきれ返った。 「お、教えてくれるんですか」ケエラは嬉しそうにジジを見つめている。 「ああ。一ヶ月もあれば顔ぐらいは化けられるようにしてやるよ。……いっそ殺してくれ、っていうだろうけどね」 「お願いします!」と叫ぶケエラ。ジジは任せておけ、という目を瓜生とムツキに向けた。  …… 「あとは、ロンダルキアですね。ベラヌールから行けます」瓜生が地図に印を付ける。  炎のほこらの島からベラヌールは近い。再建真っ最中のベラヌールは景気もよく、工事の音が常に響いている。  感謝を全身に出してアロンドたちに近づこうとする有力者たちに誘われ、あちこちの大きな建物を見たり、久々に極上のメロワインを味わったりしてから、アロンド自らが封印した旅の扉に向かう。  アロンドたちの実力を知り尽くしている街の有力者は、止めもしなかった。無論、アロンドは通ったあとはちゃんと封じると保証している。  常人は触れただけで即死する結界と絶対に開かない扉、だがトラマナやロトの鎧とアバカムは、それをものともしない。  そして旅の扉から出たのは、山に囲まれたほこらだった。  そこでも、笛にこだまは返らない。それから、瓜生とアダンが大口をあけた洞窟が見えた。  今回はアロンド・アダン・瓜生、それに経験を積ませるためにとラファエラを含め、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉のごく若い者を十人ほど率いていく。なぜかハーゴンも同行していた。  洞窟でもこだまは返らなかった。 「ここは、あちこち見たよ」と、アダン。 「ずっとここで修行させていました」と瓜生。 「なら案内はしてもらえるな。さっさと抜けよう、ローラの手術予定日も近いし」アロンドがうなずき、悪夢の洞窟にためらいなく足を踏み入れた。  といっても、確かに魔物もいるし果てしなく広い、が……今のアロンドが、魔物相手に苦戦することはない。ただ、アダンと組んで、彼を武器として使うことに徹底して習熟した。  破壊の剣と魔毒を取りこんだ、本質的には呪われた存在であるアダンだが、武器としての威力は凄まじかった。  あらゆる対象に、最適な毒を瞬時に合成し叩きこむ。実体のない炎や岩の魔物も含めてだ。それにアロンドの剣技が加わる。  アロンド自身はすでに雷神剣を吸収していたが、効果を敵に合わせることができるアダン/破壊の剣と雷神剣を使い分けることで、とても幅の広い戦術を取れる。  元々、戦士としてもアロンドとアダンの息は合っていた。さらにアダンはきわめて速い、馬に似た存在に変身しているので、機動性が高いのも魅力だ。  その二人の凄まじい強さに、若い勇者たちは激しい英雄崇拝を募らせていた。そしてハーゴンもアロンドの強さと美しさに酔いしれていた。恐ろしいほどに。  広すぎる洞窟だが、距離そのものも気にならない。馬のようになったアダンのスピードも速いし、開けたところでは瓜生のブラッドレーで一気に飛ばすからだ。  とはいえ、それでもこの洞窟は大変だ。とにかく広いし、道を間違えると気がついたら元の場所に戻っている。  魔物との戦いには苦戦しないが、瓜生がトイレと風呂の設置、食事の準備などに面倒な思いをする。まあ、軍の野戦用設備を使えばいい。メニューもその気になれば豊富で、簡単に百人以上の生活を安定させることができる。  かつて瓜生が、ミカエラたちといくつもの長い洞窟で、装甲車で寝ながら野戦食やレトルト食品を食べ比べてばかりいたことが懐かしく思い出された。  若い者たちにも、彼らに倒せそうな魔物なら任せる。特に馬から降りて銃で戦うことに慣れていない〈ロトの民〉に、自動火器があるのにあえて単純な、大口径のボルトアクションライフルで戦わせている。大灯台の島で、瓜生がいなくても銃を作りだせるように研究開発を進めているが、最初は火縄銃など単純な銃からになることを見越しているからだ。  だが、その旅は短いものだった。  ローラの帝王切開を気にしているアロンドが、早めに突破したがり、ほぼ最短距離で魔物ともろくに戦わず、装甲車任せに強行突破。ついに雪の魔境、ロンダルキアに足を踏み入れた。  その時点で、アロンド・アダン・サデル・ハーゴン以外はルーラで帰ることになった。ロンダルキアは生身の人間が足を踏み入れられる場ではないし、瓜生にはローラの帝王切開を、監督するようにアロンドが懇願したのだ。 「今回は元々、サラカエルと若手の医師団に任せるつもりですよ。監督もベルケエラが。万一があっても、世界樹の葉もありますし、間違いなく大丈夫です」 「だが……これはわがままだ」 「わかりました」と、瓜生は苦笑し、雪上車を出す。 「自動車と同じですね?それなら運転できます」と、サデル。 「私も、できるだけ早く行く!間に合ってほしいぐらいだ」アロンドが車に飛び乗る。 「方向はわかりますね?」瓜生が若者を集める。 「ああ」  と叫ぶと、もう大急ぎで吹雪の雪原を、アロンドたちは駆けていった。巨大な神々が渉猟する、高い極寒の魔界へ。  大灯台の島の、座礁させた客船の近くの荒れた海岸には、次々と建物ができている。  病院や学校も船から出てちゃんとした設備が整ってきているし、瓜生が〈上の世界〉から持ってきた家畜や作物の試験農牧場もできている。  学校には、多様な気候に分散しているロト一族の子供たちが、まちまちな農閑期に呼ばれては集中的な勉強もしている。  ジジにモシャスの特訓を受け、それからミュージカルの特訓と続いていたケエラが、久々にダンカと同じ教室に入って、 「うひゃあっ!」と大声を出し、激しく息をついた。 「ひ、久しぶり」と、ダンカ。 「ひっさし、ケエラ!」と、前からのクラスメートたちも押し寄せてくる。  ダンカは、ネクタイのように首に下がった木の棒をいじっている。これがあるとケンカ禁止なので、逆にみんな軽く頭をはたいたり色々する。  ジニが珍しく教室に入ってくるのを見て、男子が色めき立つ。ケエラが怒って、何も持っていない銃を乱射するふりをする。 「今日は循環系の解剖学と基礎水力学、同時にやるぞ。数学的準備の宿題はやってきたか?」と、瓜生。  みながわらわらと、宿題のレポートを渡す。  ジニが渡したのは、前の課題である。八進法、ゼロから7までの数字を、二進法で図案化したものだ。要するに、小文字の「m」の山を三つにして、山を上に出っ張らせるか普通に低くするかで表現する。それなら素早い筆記が可能で、OCRで間違えることもない。 「さて、まず。液体で一番大切なことは、液体は圧力をかけても変形はするが、気体のように体積を変えたりしないとみなせる、ってことだ。要するに合計体積は常に等しい。そしてパスカルの原理、というかそれはなんだ?」 「ええと、内部のどこにも、同じ圧力がかかります」ケエラが答える。 「圧力とは?」瓜生の一言。  それに口ごもるのを、ダンカが「面積あたりの力、だろ」とフォローする。 「自分で言うんだな、女の子をかばうのはいいが。その面積といっても、ミクロではどんなことがおきている?言っておくが、固体も液体も原子でできてるんだぞ」瓜生の言葉に、皆が笑う。 「パスカルの原理を拡張すると、液体内部も、任意の微小面に、圧力はあるとみなせる。それを足し合わせることでその場の圧力を出せる。  また、流れも同様に微小流の集まりとして扱える。後で流体力学やるときには重要だ。  さて、人体に行こう。人体も、ご存知の通りどこを切っても血が出る。液体が詰まってる。そしてその液体も、要するに減らないんだ。静脈から体組織に流れこんだ血は、どこに行くのか……おれの故郷の昔の人は、なくなるって思ってた人もいる。  だが、単純に『なわけねーだろ、流れた液はどっかから出てきてるはずだ』って思った人がいた。それをやってみた人もいた。というわけで、やってみるか。家畜処理見学して、ちょっと実害のない実験をさせてもらおう」  その言葉に、全員やっほー、と喜びの絶叫が上がった。 「私は」ジニが何か言いたがる。 「そんな暇があったら工場行きたい、か。でもこっちを見るのも何かの役に立つかもしれない。ついでにこれでもやってろ」と、瓜生はジニに流体力学の教科書を渡す。  教室移動も、集団組織作りの教育はしっかりできている。まず十人集まり、四人ずつの小班が二班、それを班長と副長が率いて、副長が主に連絡を担当する。〈ロトの子孫〉の四人一組と〈ロトの民〉の騎馬十騎編成の複合と言うべきか。  一度班が集まって公と宣言されれば、全員気持ちを切り替える。実戦を覚えている〈ロトの子孫〉が、真剣に取り組むことを伝えてしまう。 「全員騎乗!」 〈ロトの民〉の号令で、全員が竜馬に飛び乗る。〈ロトの子孫〉の子供たちは、竜王に封じられている数年間は乗馬を学べなかったので、少しおっかなびっくりだ。でもアロンドが竜王を倒してから、一年以上でもうみんな大分慣れている。  ケエラがまだ、馬を怖がっているのを、軽くダンカが馬の首筋を叩いた。  馬と言っても、前近代文明にありがちな小型馬ではない。角があり、瓜生の故郷の最大種ぐらい、肩高さ2mは軽くある。 「だ、だいじょ」 「馬の上では素直になれ」ダンカの言葉に、ケエラが真っ赤になって、馬のたてがみに顔をうずめた。 「バカ」  それだけ言って駆け出そうとするのを、班長がしっかり手綱をつかんだ。 「馬の力を借りるんだ。馬は感情を抑えてくれるから。馬と一緒に息をしてみろ、足から呼吸を感じるだろう?」  それで、ケエラが落ち着いてダンカの顔を見て、彼がジニを見ているのに気がついてまた腹が立つ悪循環。  殺して血抜きをした子セロの、動脈に色水を入れて静脈のほうから流れてくるのを見た。逆に水を入れようとしてうまくいかないことと、静脈の弁を確認した。また心臓を解剖して複雑な弁を確認して、それと人工物であるポンプの弁を比較したりもした。 「弁は液体関係では重要だからな。この構造をよく見ておけ」  それから、無害だが色がついてしまった家畜の肉はそのまま買い上げて、生徒全員で食べることにする、と瓜生が宣言すると、生徒たちは大喜びで叫んでいた。  だが、ジニだけはそれにもろくに関心を持っていない。 「ジニ、あんたは何が嬉しいの?」ケエラが聞く。 「工場を見ること」それだけ、美しすぎる天才は応えた。最初は彼女は、普通の受け答えはできていなかった。 「見たい」ケエラがじとっとジニを見る。 「おれも」というダンカを、ケエラがにらんだ。 「四時間目の自由選択授業、いいわね」ケエラの命令口調にダンカがうなずく。 「わかった」とだけ、ジニはいって流体力学の教科書を全部手書きで写し終わり、それから問題演習をハイペースで解いていき、今度は別の問題……似た方程式が出てくる分野の、式変形の流れ……を書き出して、自分で問題を作っては解いていた。  ケエラはなんとかダンカとケンカしようとしていたが、なかなかリズムが合わず、じたばたしているのを抑えられていた。  だが、家畜を解体して骨髄も全部取り出し、料理する大変な作業を始めていると、もううまそうな香りに夢中でそれどころではなくなった。  おいしい肉をたっぷり食べて、次の授業が始まる。  四時間目、ジニと、大人たちも含めて、かなり大きな工場に向かう。  その隣では、大型のディーゼル発電所すら動き、激しい音がしている。  若者たちが忙しく、本を片手に働いている。ジニはいそいそと着替えた。  瓜生がすべての機械と材料を出してロト一族の若者たちが再構成している、AK-74の工場。  プレス機。旋盤。木材加工機械。ベークライト工場。その全て、もちろん他のロト一族にとっても圧倒的だったが、特に工学の才に優れたジニにとってはそれはディズニーランドに他ならなかった。  この世界でアレフガルドの人々、ムーンペタなど各地の人々が、また〈ロトの民〉が作っている鋼の剣の鋼材と、瓜生が出してきたロシアの銃身用鋼材の差を、さまざまな方法で比較している。  合同な棒にして、曲げたり引っ張ったり、削ったり、薄く切って顕微鏡で見たり。加熱して分光してみたり。  その段階から、鋼そのものの質を評価することから、ジニは夢中になっている。  ケエラもダンカも、他のクラスメートも、その激しい音と鉄の機械の雰囲気に、ただただ圧倒された。  ジニは彼らに目もくれず、フライス盤に飛びついて、何十種類も先端を交換してはさまざまな鋼材でいろいろな削り方を試し、背のAK-74を分解した部品と比較し、いくつかの計測器具で精密に測り始めている。   「ウリエル先生」ケエラが、ジニを迎えに来た瓜生に聞いた。 「質問は原則手紙だよ」と言うが、瓜生は椅子に座ってジニを待っている。過労に倒れそうになって。 「あなたは、勇者ロトことミカエラさまと共にゾーマを倒した、あのウリエル様なのですか?」ケエラが、勇気を振り絞るように言った。 「その噂は、聞いてる。同じ賢者で、同じ能力を持ってる」と、ダンカ。  瓜生はしばし目を閉じた。 「その問いには答えない。かわりに、こう言おう。そうであってもなくても、問題ではない。あの世界の商品を出すことができても、賢者でも、ロトの掟を破ったらおれは君たちの敵だ。  顔と遺伝子がアロンド様でも、ミカエラ女王さまでも、ロトの掟を破ったら偽勇者だ。全力で倒すべき相手だ。  聞いているだろう?勇者ロト、ミカエラさまは、〈ロトの民〉の先祖である病人や、人を襲わない魔物も、姿形だけで判断し戦おうとはしなかった。何をするか、行動だけを見て、自分に敵対する相手、そして虐殺を命じた相手と戦った」  ケエラとダンカは、その瓜生を見て、確信したようだった。 「あ、あと」しばらく、ケエラが口をつぐんで、言った。「ジジ先生と、結婚しているって噂は」  瓜生は疲れていながら苦笑する。 「ジジ先生本人に聞いてみるんだな。大笑いされ、その笑い声がどんどん大きくなって、目が覚めたらキミら二人、すっぱだかで教室の真ん中で麻痺してるだろうけど」  ケエラとダンカが真っ赤になる。 「あ、そういうことか。すまなかったな」瓜生の言葉に、もっと赤くなる。  ダンカがごまかすように周囲を見回し、 「あ、あとジニとも噂が……養子とは名ばかりで、とか」  ダンカの口から別の美少女の名が出たケエラが、なんだかむくれる表情になる。 「親がわりはレグラントさんとロムルさんだ。あの二人は素敵な人だよ」  ダンカがうなずく。 「それに、ジニが夢中なのは、エヴァレスト・ガロアだけさ」と、くっくと瓜生は笑った。  そこでケエラが強い反応を見せたのを見てそちらを向くと、しぶしぶといった表情でジニが戻ってきた。 「学んだか?」  瓜生の言葉にうなずき、ポンチョの端に触れる。  瓜生はさっと手に身長より長い両手剣を出すと、ジニもろとも消えた。 「じゃ、おれも、こっちで武術の補講だから」ダンカがケエラを見る。 「あたしも、ジジ先生にモシャスの」ケエラが言って、ダンカに何かいいたそうにして、工場から座礁した船までの短い道を見る。  ダンカが早足で歩き出す、その背を、ケエラは一瞬手だけライフルを構えて撃ち抜き、そのまま追った。  ロンダルキア。魔物たち。十メートルは軽くあるサイクロプス。銀の毛皮で強力な魔法を使うシルバーデビル。前に瓜生たちが来たときは、メルカバ重戦車の火力ですら通用せず、ミカエラの剣でやっと切り抜けたことも何度もある。  アロンドとアダンの圧倒的な強さでなければ、サデルやムツキでも苦戦ではすまなかっただろう。  寒さ。まつ毛が凍りつき、わずかでも皮膚を露出させたら瞬時に凍結し、金属に触れればへばりつく。  だが、雪上車が雪丘を乗り越え、襲う敵は熾炎の鳳凰、猛毒の蛇槍が次々と粉砕し、平然と前進する。  そのほこらは、雪に埋もれているように見えた。気配を感じることができなければ、巨大な岩と思って見落としていただろう。  いつの間にか、ついてきていたはずのハーゴンの姿がない。  氷に封じられた扉が、内から自然に開く。内部は暖かく、旅の扉を守るだけの、神聖な雰囲気のものだった。  戸口で山彦の笛を吹くと、繰り返し音が響き渡る。  気がつくと、男がいた。 (生きた生身の人ではない)アロンドはまず気がつく。かなりの実力者だとも。 『よく来たな、わが子孫よ』この世のものではない、電波の悪い携帯電話のような声が響く。 「あなたは」サデルが、信じられないものを見ているような表情。 「知っているのか?」と聞くアロンドにあおざめながら、 「ミカエル様の写真を、見たことがあるのです」 『その、ミカエルだ』と、また声。 〈ロトの子孫〉。  勇者ロトことミカエラは、〈上の世界〉でネクロゴンド王国を再興し女王となった。  夫であり、ともにゾーマを倒した仲間であり、アリアハン王家の血を引くラファエルとの間に、双子の王子が授かった。  双子は忌まれるため、一方は遠くへ……双子の一方である赤子ラファエル二世はミカエラの王位を継ぐため〈上の世界〉に残り、かたわれの赤子ミカエルは、ゾーマを倒した仲間である賢者ガブリエラ、ミカエラの祖父ボルヘス、そしてミカエラに特に強い恩義を感じる男女十数人とともに、〈下の世界〉に行った。  瓜生に医術を習った医者がいた。サマンオサの地下牢からミカエラに救われ、ラファエルにゾーマ由来の奥儀を教わった武闘家がいた。水田・味噌・納豆の技術を手につけたジパングの男女がいた。  二度と戻れぬ移住。アレフガルドの人々からも身分を隠し、赤子を育てるためだけに。  時々〈ロトの民〉と交流することもあったが、ゾーマの予言を考え隔たりを持ったまま。  ミカエルが少し大きくなったら、デルコンダル統一のため戦っていた、ミカエラの叔父……実父であった可能性もある……カンダタのところを訪れて剣術を習ったこともある。  カンダタの部下だったジジも、デルコンダルで戦いつつ、自分たちの利益にもなるときには〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉が、世界各地と交易をし、情報を得られるよう諜報組織の礎を築くのに協力した。また、ガブリエラの恋人であった吟遊詩人ガライも、瓜生が残した大量のCDを聞き、ガライの町を拡大しながら芸能による情報収集を担う、〈ロトの子孫〉と半ば一体になる一族を築いた。  成長したミカエルは優れた剣技、美貌、そして瓜生由来の医術を身につけ、半ば隠れて生きた。〈下の世界〉に移住し、彼を育てた人々は、高い医療技術を瓜生から受け継いでおり、それを子供たちにも教えたのだ。  ミカエルは第二世代の女子全員に、何人も子を産ませた。高い医療水準で、母も子も死ぬことなく。  産み分け技術で、第一世代の多くの夫婦は、最初の二人は女子を産み、それから十年ほど間を開けてから男子を産んだ。ミカエルの同世代は女子ばかり。その弟たちは十歳ほど年が離れており、成長してミカエルの娘たちをめとった。  大半がミカエラの、またラファエルの血を引く〈ロトの子孫〉。組織を築いたのはガブリエラだが、血の祖はミカエルに他ならない。  その、もう百何十歳にもなるミカエルが、いた。ミカエラに、そしてアロンドによく似た、若く美しい男。 「多くの子をなし、医者と剣術教師として隠れすごし、そして何十年も前に高齢で亡くなったと長老たちにはうかがっています!」とサデルが、恐怖と畏れに叫んだ。 『もう、人生が終わりだって知ったとき、思ったんだ。種馬だぞ?あっちでは、同じ血を引くかたわれが王様なんだ……そう思うとたまらなくて、魔法で死を装って、旅に出たんだ。あの洞窟を抜け、ロンダルキアにたどりついて、気がついたらこの姿さ。眠っていたのか生きていたのかも知らない』 「なんということ」と、サデルが怯えた。「とてつもない強さがなければ、生身であの洞窟を抜けて、ここに来るなんて。半ば神になるなんて、できない」 『その鎧と、兜。お前、勇者の称号を受けたな?名前は?誰の子だ?』ミカエルの目が鋭くアロンドに刺さる。 「はい、受けました。アロンド、本名はメタトロン」 「ラファエラの子、ラファエラはサンダルホンとウリエラの子です。私はサデル、サンダルホンの娘ウリエラの子です」 『玄孫ってわけか。俺だって、勇者になれたはずなんだ!その資質はあったはずなんだ』夢幻の咆哮が、ほこらを、ロンダルキアの魔の大地を揺るがす。それはアダンの激しさを思わせた。 「私、わたしも、勇者になりたかった!それに、アスファエル最長老も、竜王の出現が二十年早ければ自分が、と」サデルが叫び、涙ぐむ。 『だよなあ。まあいい、用は、そう、夢で精霊ルビスさまに聞いた気がする。これだな』と、ミカエルの手に太陽の紋章が輝く。 「はい」 『やるよ。だが、しくじったらすぐ取り上げて、また眠れない大陸に戻すからな』 「はい」 『残り四枚は持ってるか?こんなとこ来たのは最後だよな』 「はい」と、アロンドは四枚の紋章を見せる。 『じゃ、ルビスの神殿に行け。炎のほこらからほぼ真北にある』 「はい、ありがとうございます」 『あの大陸の解放を発表するため、諸国から何十人も有力者を迎えろって精霊ルビスさまが言ってる。それだけじゃなく、俺が呼んで加えてやる、何百人もあちこちの世界から。二十日間、うまくもてなして、思いっきり楽しませてやれ』 「はい」アロンドは動じない。サデルは慌てている。  ミカエルの幻はふっと微笑し、アロンドにカードを渡した。そして突然強い目になり、 『勝負してくれ』 「はい」アロンドは平然としている。 『わかってるんだ、勝手なんだって。向こうの、俺の弟のラファエルは、俺より辛い一生を送ったんだろうって。淋しいのは俺だけじゃなかったって。美女三十人のハーレムなんて最高にうらやましい人生だろう、って』 「それに、医者としても何百人も救われたと聞いています」アロンドがつけ加える。 『でも、こんな姿になっちまったんだ』 「受け止めさせてください」アロンドは、まっすぐにミカエルの目を見る。 『じゃ、こっち来てくれ。オフクロたちの魔力で聖なるほこらにされてるここじゃ、会話はできるが実体化できない』  ミカエルがそういうと、皆を誘う。  アロンドは静かに出る。その左右をしっかりアダンとサデルが守る。  そして、ミカエルの軽い目配せから、ルーラ。  着いた先は、おどろおどろしい魔の城だった。実体はない、ひたすら巨大な力が、頑丈な門……それも実体ではなく、巨大な魔神力の門から噴出している。  それを、すさまじい稲妻の力が封じている。 『百何十年前に、オフクロたちが封じたんだ。あと百年ぐらいはもつだろ。ここでなら……』と、ミカエルが静かに、門に手を伸ばした。 「さあ、ごゆっくり。審判はしますよ。ケケケ」と、いつの間にか戻っていたハーゴンが笑う。  ミカエルの手にもいつしか美しい剣が握られていた。 「隼の剣」サデルがつぶやく。 『おまえも同じ剣を持っているな、やってみるか?』 「は、はい、光栄です」と、サデルが隼の剣を抜き、構える。  無造作に歩み寄ったミカエルとサデルが、激しく切り結んだ。  実力では、アロンド以外の〈ロトの子孫〉で最強と呼ばれ、竜王を倒した後も多くの魔と戦ってきたサデルだが、ミカエルは互角だった。いや、しばらく互角に見えた。  サデルの額に、この極寒のロンダルキアで、じっとりと汗がにじむ。 「メラゾーマ!」一瞬下がって大呪文を放ち、同時に飛びこんで二閃を同時に放つ。  その三発同時を、ミカエルは螺旋を描く突きひとつで消し去り、サデルの左太腿を貫いていた。 「う」  ミカエルが、悲しそうに微笑む。 『いい腕だったぜ』 「つ、強い……これほどの強さで、倒すべき敵も好敵手もいないなんて」サデルが激しい痛みと悲しみに、頬をゆがめる。  その彼女にベホマをかけたアロンドが、立つ。その右手から、短い稲妻の刃が伸びている。 「お願いします」  ミカエルは呪文を唱え、ギガデインを剣にまとわせて大上段にふりかぶる。表情がふっと、消えた。  アロンドが無造作に歩み寄り、一瞬で激しい雷電が雪天に十字架を描く。 『やられたな。雷神剣か……とんでもねえ、なんて強さだ……』  その姿が、柔らかく薄れていく。 『一つの手加減もなし、嬉しいぜ。その強さじゃ、ゾーマだろうとスライム扱いできるんじゃないか?』 「はい。ですが、私が修行した場の人たちから見れば、私こそスライム扱い、ですよ」特に、孫悟空と孫悟飯親子を思い出す。桁外れどころではない。 『上には上がいる、か。そっちにも行ってみたかったぜ……ぼっちに、なっちまうんだな、そんな強さじゃ』 「強さ、では。でも、もっと大変なことがあります。ローラを、子を、みんなを幸せにする。どんなに強くても、できるかどうかわからない大変なことが」 『そっか。ありがとな。封印を強化して帰れ、それと、気をつけろ、そこにいるハ』続きを言えず、ミカエルの姿は薄れ、消えうせていった。  あとは、稲妻の鎖に封印された魔城がそびえるだけ。 「少し、封印を強化しておく。雷電の武器を用いるようだ」  と言うと、アロンドは自らの手首を少し切って、血を撒いた。 「私の心身には、雷神剣が一体化している……最大限に魔力を拡大して」  一瞬、アロンドの姿が魔城よりも巨大にそびえるように見える。  全天が凄まじい稲妻に輝き、封印を押し包み激しく美しい輝きで彩らせた。  その魔力の凄まじさは、サデルは見ただけで気絶するほどだった。  サデルが目覚めたのは、大灯台の島に座礁している客船。  無事に生まれた男児、サムサエルを抱いて、アロンドは大喜びをしていた。  ついにそろった五つの紋章をたずさえ、ローレルを連れて飛行艇で長距離を飛ぶ。三日もせずに絶海の孤島、そそり立つ岩にしか思えぬ神殿に着いた。  もうだいぶ大きくなったローレルは、空を飛ぶ旅に大喜びし、父親に甘えていた。  岩の頂点で祈ると、そこは階段だった。底なしに深く。どこまでも。  アロンドとローレル、二人だけでひたすら下りる。  いつしか、十字を基調とした神聖な場に立っていた。  アロンドは静かに、五つの紋章を掲げると、それはふっと消えうせた。同時に暖かな光が、音楽となって心を満たす。 「あ、あ……」ローレルがあわせて歌いだした。それがいつしか、咆哮のような、泣き声のような激しい音となる。幼児が出すとは思えない音量の。 「メタトロン、アロンド。そしてローレル、真実の名はサンダルフォン」と、暖かく限りなく美しい声が響き、美しい女神の姿が目の前に出現した。  精霊ルビス。この〈下の世界〉の創世神。 「あなたが竜王を倒したおかげでアレフガルドは救われました。そして、五つの紋章をあなたが集めたことで」もちろん、ムーンブルクで渡された偽物も、歴史的にも魔術的にも本物と認定されている。「あの大陸が開かれる準備が整いました。  少し物語をさせてもらいましょう。  この〈下の世界〉を創造し、心正しき人々を移住させた折に、こことも〈上の世界〉とも違う別の世界との境界に、力の押し合いが起きてあのロンダルキアや、そしてあの進入禁止大陸と呼ばれる大陸が生じました。  あなたの大陸は、人が立ち入ることを禁じられています。漂流者は、眠らずに脱出すれば生き延びられますが、その大地で眠ると必ず死にます。  本当は、わたしがこの世界を創造したとき、協力してくれた報酬として竜の女王が受けとるはずでした。しかし、ゾーマが魔王の爪痕から出現し、シドーがロンダルキアに山を盛り上げるなどがあったため、神々の争いとなりました。そのため竜の女王は下の世界を無視し、ギアガの大穴を、〈上の世界〉を守ることに専念しました。  その後、あなたの先祖である勇者ロト、アリアハンのミカエラがゾーマに囚われていたわたしを助け、ゾーマを倒しました。  竜の女王の子である竜王は、本来その大陸を受けとり竜の楽園とすることになっていました。しかし、さまざまな行き違いがあって魔の島に降り、悪に染まりました。  あの大陸は、今は主となる神々のない、ウリエルの故郷の全体から集めてばらまいた植物の楽園です。そしてあの大陸の地下は、別の世界です」  その意味をアロンドが悟るまで、ルビスはじっと待った。 「その、別の世界もあの大陸を門に、この〈下の世界〉を襲っています。それはわたしが封じていましたが、それが限界に来たため、その魔王を倒し通路を封印していただきたいのです。その報酬として、大陸をあなたの子孫たちに。ただし、竜王の子孫であり、あなたの息子でもあるヤエミタトロンの血筋が、神々の次元では治めることになるでしょう。  どうか、あの大陸を無事に治めてください。地下から通じる別世界の魔王も封じ、また邪神教団の陰謀にも負けないで。あなたに仕えているハーゴンは、邪神教団の大神官です」  アロンドの表情が硬く凍りつく。 「わたしにロンダルキアで仕えてくれたミカエルが、あなたに最後の試練を用意しました。一月の後、この地図に書かれた浜近い海に船を係留し、甲板にこの紋を魔砂で描きなさい」  と、精確な禁断大陸の地図と、裏には複雑な紋様が描かれた紙がアロンドの手に渡される。地図の沿岸、ザハン隣の旅の扉から、少し北東に行った半島に囲まれた湾に、指定された印が輝いている。 「そこに、別の世界からもたくさんのお客が来ます。この〈下の世界〉の貴族たちも呼んで、あなたが呪いを解いたことを証明しなさい。その人たちを十分に楽しませれば、お客たちは帰ります。ウリエルが心配するでしょうから言っておきますが、彼と同じく言葉や伝染病の心配はありませんよ。  あとは、あの大陸の地上は、あなたと、その子孫たちのものです……勇者アロンド。わたしの愛するひとの子孫たちに、これからも永遠の祝福を」  そういうと、ルビスは静かに祈る姿となり、ゆっくりと光に満ちて、消えていった。  アロンドとローレルが出てきて、それからあわただしい日々が始まる。  アロンドは、ザハンに赴いてルビスの言葉を報告し、それは高僧たちが受けた神託に一字一句一致した。認められ、語り伝える口承に加えられ、祝福された。  まず指定された海上の一点に、瓜生が最大級の超巨大豪華客船を出して係留させる。  さらに、岬で隔てられた場所に、電源・倉庫・従業員宿所として、大型原子力空母を出して海底ケーブルで客船とつなぐ。  離宮の難題で、豪華客船で何万もの人をもてなしはしたが、今回は次元が違う。千人以上を、一ヶ月近い長期間もてなし続けるのだ。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉そしてガライ一族、総出で客船の設備の使い方を学び、劇場での出し物の練習をし、映画上映のための機材の使い方を学び、膨大な洗濯と調理をこなせるよう訓練が続く。  キャスレアはラダトーム宮廷をずっと切り盛りしていたようなものだが、これは規模が何倍も多い。ラダトームの客など、通常は百人もいない……民宿と大型ホテルの差だ。  まさに、豪華客船をラスベガスの大型ホテルとする。ラスベガスのホテルは宿泊だけでなくカジノ・劇場・レストラン・ジム・ショッピングモール・病院・会議所・イベント会場など、長期滞在も含めた総合システムとして機能しなければならない。  ディズニーランドに関するありったけの資料。  膨大なミュージカルのDVD、楽譜と台本。衣装。  さまざまな機材の使い方を学び、組織を作り、練習を重ねる。  莫大な量の衣類や洗剤、食料や商品を空母の、本来なら戦闘機が何十機も整備される空の倉庫に並べる。  緊急時の避難誘導の訓練も重要だし、原子力空母の原子炉や客船の巨大ディーゼルエンジン、変電器のような高度な機械の、特に故障を直す訓練も必要だ。  ジニがまず小型の近代汽船を、多人数の近代技術を教わりつつある人も使い徹底的に分解して再組み立てし、いくつかの部品を本来AK-74用の工場を使って作ってみたりして、技術を頭だけでなく手でも理解しようとした。多くの人が、何度も失敗し体を傷つけながら学んでいった。  それから、ザハンの隣の島から、旅の扉で禁断大陸に向かった。  そこでは数百人の人びとが、木を切り耕していた。その地で眠ると死ぬため、せいぜい半径三十キロ程度だけ。ゆえに人口も限定される。  アロンドは昼過ぎを待ち、そこの人たちに声をかけて、全員を集めた。そして問答無用でラリホー。  二時間ほどのあいだに、演壇と演出用のスピーカーなどを用意し、夕焼けを背に全員起こした。  この大陸で眠ることは死を意味する。そのことを誰よりも知っている人びとは、目覚めて恐慌を起こした。  そこに、アロンドの凄まじい声が響いた。神々をも揺るがす勇者の咆哮。ガライの墓の幻夢で知り尽くす、アドルフ・ヒトラーの絶叫。  恐慌、だからこそその声は直接感情の一番奥、恐慌でむきだしになった爬虫類脳をぶっ叩き、従わせた。 「聞け!私は勇者ロトの子孫、〈竜王殺し〉アロンド。禁断大陸の解放者だ!  ザハンより通い、この大陸を耕し木を伐り、漁をしてきた人びとよ。君たちにとても悪い知らせと、よい知らせがある」  間と、身ぶり。演説の天才、ヒトラーの技術そのままで。 「この大陸の封印は解かれた。もう安心して眠ることができる」  群衆の叫びが上がる。アロンドの名、ロトの名を。 「だが、悪い知らせでもある。今後、君たちは今まで通りの暮らしをすることはできない。この広い大陸に、われらロト一族も入植する。侵略をする気はないが、技術水準が違いすぎる。君たちはよほど賢明でない限り居留地で蒸留酒に溺れ、餌を与えられる家畜も同然となるだろう」  瓜生に、アメリカ先住民の悲劇を散々聞いている。それをやってはならない、と決めていた。  アロンドは演壇の前、聴衆がいるのと同じ地面に高く盛りあがる塊から、覆い布を取り去る。  また、叫びが上がる。黄金と絹布の山。 「これで、君たちが耕してきた土地を買い取ってもいい」  買ってくれ、大金持ちだ、喜んで売るぞ、という叫び。 「だが、それはビーズ玉でマンハッタン島を買い取るのと同じだ!侵略にすぎない。君たちに選択の余地はない。私たちと共に学び、働き、この素晴らしい大地からこんな金銀などビーズ玉に思える富を、産み出すんだ!」  アロンドが激しく絶叫した。 「ともに戦ってくれ!君たち優れた人びとの力が必要なんだ」  情熱をこめた言葉に、全員が耳を傾ける。耳を傾けさせることには、アロンドは二重に天才だ。生来強力なカリスマであり、ヒトラーの経験をわが物としている。  ヒトラーとは違い、苦い事実を伝えるつもりでいる……だが、それを巧妙に、甘い言葉に混ぜている。糖衣錠の薬のように。 「最悪の選択を今から言っておく。今の君たちの技術水準で、私たちに武力で立ち向かうことだ。迷信で勝てると信じ私たちを軽蔑し、復讐の連鎖に縛られて」そういうと、二百メートルほど離れた大きな岩に手を向ける。その手に炎が上がると、まばゆい光を放つ純白の巨大な鳥が出現し、飛び立つ……魔力を瞬間爆発的に増幅して放つメラゾーマ、カイザーフェニックス。  それは激しい熱気とともに岩に舞い降り、目がくらむ光が晴れると、岩は半分が蒸発し残りは溶けて輝き流れる。超高熱に岩石蒸気が小さなキノコ雲となって上昇し、人が嗅いだことのない匂いにむせる。  離れていても体が焦げそうな熱気、恐怖を超えた衝撃に人びとが息を呑む。  もう一発、今度はギガデイン……晴天が輝くと、何百本もの雷が一点に集約され、光と轟音、オゾン臭に包まれる。  平然と拳を振り上げ、アロンドは語り続けた。 「このあたりの、土地の権利は耕してきた君たちのものだ。だが、この旅の扉の周辺は、宮城となるだろう。そしてわれらロト一族は土地を全部耕すことを許さない、土地を金で奪って木を植える。先にこの金と絹で、その権利は買い取ろう。  土地の権利を賢明に使ってくれ。土地の権利にあぐらをかき、私たちから富を搾り取って怠け暮らそうとするな。その道の先は蒸留酒の底なし沼だ。道路や鉄道の用地買収には、値をつり上げるのは誤りで、自分から事業に参加するのがより儲かる道だ。自分で土地を活用し、富を自ら産み出すほうが、ずっと多くの富を得られるんだ。  この土地の、草の一本一本、土の一粒一粒を知り尽くしている君たちこそ、だれよりもこの貴重な土地を使うことができる。無駄な抵抗をするな。ビーズ玉で土地を売るな。知識を拒んで酒に溺れるな。私たちが強いから正しいと盲信するな。学んでくれ。技術を、魔法を、知識を。試行錯誤を。私たちロト一族の力は、試行錯誤と誰でも学べる知識にこそあるんだ。  私たちロト一族の、女が子を産んで死ぬのは三千に一人。赤子は戦死を除けば百に一人しか死なない。そのほぼ全員読み書きができる。森と水があれば十フェアヤの土地から、毎年二百三十セルブの米と、百十セルブの麦と六十セルブの豆を収穫し、三十セルブの魚を得、百四十羽のキーモアと八頭のセロと十五頭の馬を養える。五人で、馬を使って耕してだ。何十年でも続けて。アレフガルドの標準は三十人以上がその十分の一の収穫で食うや食わず、さらに三十年で土地がやせる……追いつくのは簡単ではない、君たちの孫の代がやっと追いつけるかだ。  これはわがままなんだ、侵略をしたくない、だから私たちと同じように学んでくれ、という。  君たちの今の暮らしにも、多くの知恵があるだろう。それを生かして、私たちと同じように強く豊かになって欲しいんだ!」  深い誠意をこめた声が、一つ一つ伝わっていく。圧倒され、熱狂した心にしみこむように。 「なんであれ、従います。われらザハンの民は、もとより邪神の奴隷だったのを、勇者ロトさまに救われた民……ましてここで無事に眠れるというのなら、従わぬわけなどありましょうか」 「もっと広い土地を耕したいんだ!」 「ずっとここで眠りたかった!」 「オヤジはここで眠って死んだんだ!」 「もっと上流まで木を伐りに行きたい!」 「勇者アロンドに従うぞ!」 「勇者ロトに従うぞ!」  激しい絶叫、それはアロンドがガライの墓で体験した、ナチスドイツの熱狂そのままであった。  それに彼は内心恐れつつ、綿密に計算された身ぶりと言葉で、その熱狂を吸収し煽り高めていった。 「私たちの富と力を、まず知ってくれ。ここを耕す人びと全員、三日後から二十日のあいだ、王侯貴族すら夢にも思わないような暮らしを体験させてやる!それは人の知恵と工夫の積み重ねだけでできるんだ、たくさん考えて、工夫して豊かになろう!」  そう叫ぶと同時に、演壇の裏からいくつも酒樽が転がされ出てくる。そして布覆いを取り去られた挽肉の山に蒸留酒が流され火が放たれ、炎と煙と共に肉が焼ける香りが広がる。  熱狂はそのまま狂奔に変わり、アロンドはそれを自在に操っていた。  そして、ザハンから旅の扉を通って禁断大陸を耕している人びと、全員が巨大豪華客船に招かれ、瓜生の故郷の贅沢を体験し……同時に、清潔な生活の訓練を徹底的に受けた。  清潔な体。悪臭のしない洗いたての服。寄生虫に食われない寝具。一度それを体験してしまえば、それは強い誘惑になる。  一人一人に、ロト一族が付き添ってまず体を洗ってやり、それから自分で洗えるように教えていった。服を洗濯するように、歯を磨くようにと。  十歳以下の子は学校に通わせ、日本語とザハンで用いられる言葉の読み書きを学ばせる。  勇者ロトに従う、という言葉の意味は、彼らはわかっていなかったのだ。それどころかロト一族すら、自分たちがこれからどうなっていくのか、必ずしも理解しているとはいえない。  アロンドやローラには、他にもすべきことは多かった。  山彦の笛を、ルプガナのケエミイハ家に返し、また有力者を招く。〈下の世界〉でも最大級の造船所があり、ムーンブルクから外界への出口となるこの街は各地とのつながりも深く、ここから情報が伝わっていく。  瓜生の不妊治療で得、その栄養管理で健康に育っているその子と、ローレルたちアロンドの子も仲良く遊んでいる。  ローラの特に忙しい仕事は、膨大な手紙を本国の貴族や、各国の有力者に出すことだ。  竜王にさらわれたときにはまだ子供だった彼女の、実際の人脈を管理していたキャスレアも大忙しで、あちこちに飛びまわっては旧交を温め、そして手紙を強引に押しつける。  キャスレアの強硬な主張で、アロンドのみならずリレムやレグラントも、できるだけ同席させられる。彼女たちも非常に忙しいのに、キャスレアは世界中の有力者に顔を覚えさせ続けた。  その返礼として有力者の子弟を誘い、レグラントの料理とリレムが演出する舞台でもてなすことも、何度かくり返された。  また、人間関係をつなぐのに必要な多額の賄賂も、瓜生から潤沢に提供され続ける。  ローラの手紙により、各国の貴族や魔法使いが船に乗り、〈ロトの子孫〉が操る船に先導されて、その浜を見上げる沿岸に集まった。  誰もが恐れる、禁断の大陸。  ラダトーム王国からは、現在王位継承権三位の、ローラの叔父に当たるラレル王子が。  ムーンブルク王国のマリア王女、クツキ将軍、大貴族のレアヤ。  閉ざされたデルコンダル王国からも、覆面に顔を隠した貴族が。  そしてルプガナ、ムーンペタ、ペルポイ、再建されつつあるベラヌールなど各地からも。  そこには、普段は表に出ない、北のお告げ所やムーンペタの予言者たちも、紋章も鮮やかに姿を示していた。  彼らの御座船が次々に巨大豪華客船に接し、移乗する。ルーラによりヘリポートに呼び寄せられる者もいる。船の桁外れの巨大さだけでも、人外魔境にも等しい衝撃だ。  また、ヘリポートにはこの世界とは、別の世界の王侯貴族たちも次々に出現する。  ざわめきと、時ならぬ奇妙な大宴会。ローラの奇妙な誘いに惑う世界首脳陣たちは、おそろしく強い酒と素晴らしい料理に舌鼓を打ち、素晴らしい舞台を堪能していた。  そこに、一陣の風とともに水平線の彼方から、小さいが恐ろしく速い船が航ってくる。  船のマストに輝くロトの紋章。そして〈下の世界〉では誰も知らない紋章。アリアハンの王位継承権のない王族と、ネクロゴンド王国の王族を示している。  その船は、いくつもの船の間を鮮やかに縫って、禁断の大陸の、砂岬に半ば乗り上げた。 「ああっ!」  貴顕たちの船から悲鳴が上がる。  この大陸は、近づいても、上陸しても陸で眠らなければ問題はないが、陸で眠れば確実に死ぬ。例外なく。ゾーマ以前から何百年も。  そして、一人の青年が大きな袋を担いで船から降り、砂浜を駆け上がり、岬の先端にある岩に立った。 「諸国の皆さん!突然のお呼び立てにお集まり頂き、ありがとうございます」アロンドの大声が、拡声器で響き渡る。 「あの大陸は精霊ルビスの名のもと、われら人間に、条件つきで開放されました!」その叫びは、軽い嘲弄を生むだけだった。 「人は眠らなければ死にます、水を断つと同様早く、例外なく。もっとも残酷な死刑です。二十日眠らなければ、確実に死にます。皆様もご存知のはず!」  魔法使いたち、そしてもっとも残酷な拷問や処刑を楽しむ貴顕の腹心たちがうなずき合う。 「ここで二十日過ごします。一歩も出ず。それが、何よりの証となるでしょう。ご不便をおかけしますが、どうか四交替で見張ってください。マホトーンもかけつづけてください!」  その言葉に、貴顕のそばにいる魔法使いが、次々と呪文を唱える。アロンドはそれを受け入れた。 「効いています」という言葉に、ムーンブルクのマリア王女は怯えながらアロンドを見ていた。  アロンドは平然と、袋からハンモックと分厚い毛布を取り出し、岸辺に生えた二本の木に登ってハンモックを縛りつけ、毛布を載せる。  すぐそばに泉が沸いているのを見て、一口すすってうなずく。  そして小船の縄を、木に複滑車をかけて、長く歩いて引き上げる。  それから、袋から釣り道具を出し、岬の岩に座って、平然と釣りを始めた。  次々と大きな魚が釣れる。  それを見て、船の貴顕たちも楽しそうに釣りを始めた。  大物をいくつか釣ったアロンドは、尾を握って流木がたまっているところに行き、数本抜いて少し移動して組んで火をつけ、木を削って串にして魚を焼き、食べる。  食べ終わって満腹になり、日も水平線に赤く沈む。アロンドはハンモックによじのぼり、毛布を身にかけた。  誰もが、ざわざわと騒ぐ。死ぬか逃げるかだ、と各国の使者たちはことごとく見ている。  アレフガルドの貴族や、石像を人に返す大魔術を見たムーンペタのヤフマさえも。 「無謀な冒険をする人もいるんですな」 「ありえませんよ」 「どんなトリックでしょうね。それにしてもこの酒、素晴らしい強さと香りですな」 「この、肉に近いようですが甘い菓子のような塊も素晴らしい。それだけでも、この茶番につきあわされたかいはありました」  などと、ざわざわと騒いでいる。  翌朝、日が昇ったとき、アロンドは平然とハンモックから起きた。 「まさか」 「トリックですよ、または魔法」 「いえ、マホトーンが効いています!」 「寝たふりをして耐えているだけじゃ、すぐ馬脚を現すわい」  ざわざわ、と船の、各国の貴顕は騒ぐが、まだ現実感がまるでない。  アロンドは平然と泉水を飲み、荷物からツルハシとシャベルを取り出して穴を掘り、腰から下だけが見えないようにトイレを済ませ、草で手を拭いて土をかぶせ、手に酒をかけて洗った。  陸に引き上げてあった船から乾パンを出し、食べる。そして斧を取り出し、近くの木を切り倒し始めた。  日が高くなる頃、腰ほどの太さの高木を一本切り倒して休み、船から見えなくならない程度に野を走り、草と戯れ、花を摘む。  そして丈の高い草、若い潅木を掘り取って、切り倒した木のそばに植えた。  一本木を切れば十本植えろ。四分の一は森を切るな。瓜生が町を作る条件としてハイダーに命じ、ロト一族の掟として引き継がれている。  それからしばらく木の枝を落として、日が傾く頃に釣りを再開する。  今度は魚を大きな木の葉にくるみ、灰の下に埋めて焼いて食べた。  それを見ている各国の使者たちは、呆れながらも無視して、賭博遊びに興じているふりをしている。横目で熱く見ながら。  アロンドは日が暮れる頃、また眠った。  翌日、丸太を複滑車の力で岩場に運ぶ。こぎつけた小さな船の〈ロトの民〉が、岩の頭を少し溝に削り、丸太をはめた。  三日。四日。五日。木を切って運び、釣って食べて眠る。  その奇跡に、そしてアロンド自身に貴顕たちは心は完全に魅せられていたが、まだ笑い続けている。  十日。もう、小さな桟橋は形になり始めていた。岩ががっちり固めた、内陸にまで通じる道の延長。急に深くなり、かなりの大型船が停まれる、しかも砂岬に守られた岩の塊から、安全なところまで頑丈な丸木の道が伸びつつある。  十五日。人間が、眠らずにいられる絶対の限界。それを過ぎても、アロンドは元気に食べ、眠り、働いていた。  もう、船の貴顕たちは誰一人、少なくともアロンドが眠るときと目覚めるときは、目を離さなかった。  十九日。小さい桟橋が、できあがった。  二十日。アロンドは一日、静かに断食のまま瞑想していた。  翌日の夜明け。それは瓜生が測り直した、正確な冬至の朝だった。だが、各国は暦がずれており、正月は何日も後だ。  アロンドは朝日が昇る直前に飛び起き、服を全て脱ぎ捨てて海に向かい、泥に汚れ引き締まった裸身を海水に沈めて全身隅々まで砂と木片でぬぐった。  そして朝日と共に陸に上がり、泉に向かい、オルテガの、ロトのかぶとで汲んだ真水を浴びて、かぶとをかぶり、手を掲げて叫んだ。  天から、いくつかの流星がアロンドの目の前に落ちる。  まばゆく輝く全身鎧。青く小ぶりの盾。黄金の長剣。 「あ、あれは返納されたはずの、ロトの装備」 「失われていた盾も!」  アロンドは平然と、神の装備を身につける。 「ロトの眷属よ!」  アロンドが叫ぶと共に、水平線からいくつもの巨大な、見慣れぬ様式の鉄船が帆に風をはらみ、船団の中心を断つ。  また、船団の中から、ローラの船が最初に、できたての桟橋に着く。  アロンドが桟橋を歩いて迎えに行き、ローラを抱いて大地に戻る。  小さな息子が、笑いながら走り、父親の足にすがりつく。  赤子を抱いたリレムとキャスレアが、ローラの左右に控えた。  次に巨大な船から、次々にボートが吊り下ろされる。鎧こそ軽い革鎧だが、細長い鉄槍を何本も持ち幅広の曲刀を差した屈強の男女が次々と上陸する。  万に及ぶ数が、浜辺の広い平地に整然と並ぶ。老人や子供もいるが、巨体の男と、小さいが凄まじい存在感の男が、その全体を見事に統率しているのがわかる。その大声と旗の一振りで、全員がぴしりと直立不動。 「なんて体格」 「統率が取れている、鍛え抜かれた精鋭か?」 「あの細鉄槍と刀、わがペルポイ北の、草高原の遊牧民のようだ」 「あ、あれは確か、あの閉ざされた大灯台の島の民」  別の船が桟橋に着き、数人の男女がアロンドに近づき、かなり広い野原を囲んで、砂を静かに振りまく。  すると、空から光の嵐が巻き起こり、千人以上の人々がその場に出現した。 「こ、これほどの人数が、正確にルーラだと。半分以上が優れた魔法使いでなければ無理ではないか」  魔法についての常識がある王族が、衝撃に身をひきつらせた。  あっというまに、整然と人々は場所を整える。  アロンドとローラ。ローラの後ろには一歩引いて、ローレルと、赤ん坊のサムサエルを抱えたリレムとキャスレア。  ゴッサが、〈ロトの民〉全員を従える。サラカエルとサデルが、〈ロトの子孫〉全員を。  アダン、そして瓜生とジジが、アロンドを囲む。  静かに、数分。 「す、凄まじい魔力が、天地に充満しています」  船から見ているムーンブルクの宮廷魔術師が、悲鳴を上げた。  どこかから飛んできた、楕円形の小さな、固い雲……飛行船。それが低く、船の皆によく見えるように高度を下げて固定されると、その船腹の大型ディスプレイに、アロンドが大写しになる。  それにも船の、各国の人々が、呆然と目を吸い寄せられる。  大陸の広い野原、海を見下ろす小高い丘の上。  アロンドの後ろに瓜生が立ち、革ポンチョを脱ぎ賢者の額冠をさらす。 「わが前方にミカエラ」アロンドが叫ぶ。そこに稲妻が落ち、女の影が生じる。 「わが前方にラファエル」右を向き、叫ぶと霧が巨人の姿になる。 「わが前方にガブリエラ」左を向き、叫ぶとそこにあった若木が葉を輝かせ、そのシルエットが妖艶な美女になる。 「わが前方にウリエル」後ろを向き、瓜生の額に触れた。  五人が、歌い始める。歌詞のない歌を。  瓜生とガブリエラが、背後のジジやロト一族が、膨大な呪文を唱える。全力で。ジジを石から戻したときよりも激しく、早く。  ミカエラとラファエル。別の世界で生涯を終えたのであろう、二人の神霊が降り、その絶大な存在感を見せる。その存在を、瓜生とアロンドが魔力を振り絞って維持する。  ジジとアロンドの魔力が、この世界の根である世界樹と一体化したガブリエラの神霊を召喚し、若木にのりうつらせ、人の姿を保たせる。  ミカエラは光のドレスをまとい、差し上げた手は無数の稲妻を集めた十字剣と輝いていた。  ラファエルがひざまずき、敬虔に祈る。その深い信仰と豊かな人格が、全ての人に安らぎを与える。  ガブリエラが美しく舞い、瓜生とともに歌う。二人の魔力が、無数の白光となり全天を繰り返し照らす。 「アーーーーーーーーーーーーーーーーーーアーーーーーーーーーーーーオーーーーーー」  歌声が響き続ける。悲しみと喜びに満ちた。永遠に向けて呼びかける魔力の、神々の歌が。  海岸の広野にひしめく人々も、その歌に激しく声を合わせる。 「ルビス!神竜!ゾーマ!シドー!ミトラ!ベムス!世界樹よラーミアよ!エルフの女王たち!海の神々!王国をことほげ!」  アロンドが神々の、禁じられた名を叫ぶ。強大な魔力が稲妻の嵐となり、あちらこちらに荒れ狂う。  天から、凄まじい、言葉ではなく咆哮が響く。  そして天地海の区別すらない、いたるところに、いくつもの巨大な霊が、神々が存在していることがはっきりと伝わる。  美しい女の幻。天を覆い尽くしても足りぬ巨龍。絶望をもたらす氷と闇の大魔王。六つの腕と広い翼、無限の力をぶちまける狂った破壊神。果てしなく高く大きな古樹。美しく鳴く不死鳥。風に混じる美しい女の面影。海の底の、形なき魔神たち。  予言者たちが、魔法使いたちがおののき、狂ったように絶叫する。 「竜王の子孫よ、恩讐を越え大地を分かち合おう!」アロンドが叫ぶ。それに、凄まじい声が答える。 『〈竜王殺し〉勇者アロンド。わが祖母の瞳、光の玉でゾーマを倒した勇者ロト、ミカエラの子孫よ。血筋を交え、永遠にこの大陸を共に治めん。この大陸の竜は人とその家畜を食わず、相応しき人は背にも乗せよう。馬たちに種を与えよう。されど水と土と大気を穢すな。半ば以上耕すな。竜を殺すな!』  凄まじい轟音で、人のものとは思えぬ声が天地に響き渡り、空を絶大な雷炎の白光が二分する。  力に、貴顕たちも吹き飛ばされるように圧倒される。  至近距離の稲妻や大地震の、桁外れの力に圧倒されるように。  目が潰れそうになる光と、天地を揺るがす音楽。それがやんだとき、大陸は、海は静かで、空は青く晴れていた。  アロンドのとなりに、赤子を抱えたローラが、そしてローレルが寄り添う。  ジジと瓜生が、リレムとキャスレアが、サデルたちのところまで下がってひざまずく。  かぶとを外し、豊かな金髪を振り乱すアロンド。その頭、そしてローラの頭にも、天から、緑の葉と紫の金属で編まれた冠が光に導かれて漂い降り、かぶさった。 〈ロトの民〉〈ロトの子孫〉が三度アロンドとローラの名を絶叫し、ぴたりと不動を保ち、武器を掲げる。  アロンドが、静かに力強い声で語りかける。その声が、禁断大陸の陸上で耳を傾ける千人近い〈ロトの子孫〉や数万の〈ロトの民〉たちすべて、そして海上の船で怯え打たれる各国の貴顕たちに、耳元で言うように響く……瓜生の仕掛けたスピーカーによって。 「アロンド王とローラ王妃、ルビスの意もて王位に就いた。  この王国は乳と蜜流れる働かなくてもいい理想郷ではない。神が成功を約束した丘の上の都でもない。どうなるかわからない、だからこそまとまり、ためし、励み、生きることを楽しもう! 〈上の世界〉のネクロゴンド王国の病院に書かれた言葉、『ランダム化プラセポ対照二重盲険法だけを信じろ』…恐れるな勇者たちよ!試そう!妄信するな!うまくいくことをまね、いかないことは記してやめよう。  人と世を知り、人のさがと抗え。自分の頭で考えて、正しいことを貫け。命令であっても虐殺・拷問・強姦に手を染めるな!  竜との約束を守ろう。大地は半ばまでしか耕さず穢さず、木を切れば植え、竜を殺すな。  何より家族や隣人、戦友、目の前の困っている人に手を差し伸べ、自分や最愛の者と同じように害をなさず与え合おう。  財産は保護される、そのためにも、誰も飢えず働ける者には暮らせる仕事と秩序を、子には保護と教育を、一人一人が保とう。  一人一人が勇者だ!悪と戦い、勤勉に耕す勇者となろう!」  最後の叫びに、〈ロトの民〉、〈ロトの子孫〉がいっせいに絶叫を上げ、武器を高く掲げてからひざまずく。 「各国の皆さん。わが王国は、この大陸の上空大気圏と地下、沿岸二百海里、飛び地として大灯台の島、鬼ヶ島、テパ南のゴム園を領土とします。他国を攻めることはありません。正直に交易し、共に富み栄えましょう。移民も歓迎します。長らくのおつきあい、ありがとうございました。どうか本国に、全てをお伝えください」  その言葉と共に、多数の船がルーラの光に包まれ、故郷に向かって飛んだ。  着いて、船を操っていた水夫たちが皆ルーラで消えたとき、乗客たちは気がついた。  船一杯の美しい、変わった仕立ての服や色鮮やかな布地。美しい磁器やガラス器、漆器。複雑にカットされ輝く宝石に彩られた、美しい金やプラチナの宝飾品。香り豊かな香水。  だが誰も、その一番底にあった、小さな種や土砂をいくつか入れた皿の中身は、何も考えずに捨てた。トウモロコシ・大豆・セイヨウアブラナ・サトウダイコン・アルファルファ。何種類かの、その比率で焼き固めれば鉄高炉に耐える耐熱煉瓦となる土や砂。船が沈むほどの純金すら比較にならぬ価値を持つ、本当の贈り物には。  それがロト伝説に彩られた、王国の始まりであった。  アロンドの即位、禁断大陸の解放。それは、全てを報告した貴顕たちの口から、またもっと早く、アロンドが最初に目覚めた朝に船から飛び立った魔法使いたちから、詳しく報告されて巨大なセンセーションを巻き起こした。  平行して各地の大きい町では、数多くの吟遊詩人が、また紙芝居や劇の形で、その凄まじい即位の奇跡が生々しく語り継がれ始めた。  それらも、ガライ一族やジジが手なずけた売春宿や盗賊や香具師たちの、長い練習も含めた準備があってのことだった。無論それは、その人々にも莫大な富をもたらしたのだ。  緘口令は不可能だった、先に庶民が知っているのだから。 「あの大陸が解放されたというなら、アレフガルドの流れ者などではなく、さっさと攻め取るべし!」と叫ぶ将軍もいる。 「だが、とんでもなく精強そうな人々が何万人も従ってたんだ!」 「神意に逆らうな、あれは正統な王国だ、と予言者たちは口をそろえています」 「しかし、新しい国などと、そんな、たかが数万人で」 「神々と言っていいほどのとんでもない魔法だ!数万人と言っても、このペルポイが全力で戦おうにも、一万人の軍勢は無理じゃ」 「それに、何千もの魔法使いがいた。冗談ではない!世界でもっともおそろしい戦力だ」 「あの勇者アロンド。間違いなく王の気迫を出していた」 「嘘だ、全て何かのまやかしであろう」 「第一、自ら斧を振るって木を切るような王などあるか!卑しく働く者ではないか」 「そういえば、あの者は子供の頃、汚らわしき便所を作る仕事をしていたという噂もあるぞ」 「公衆便所王と国交などとは!これは大笑いだ、はっはっは」 「デルコンダルは、アレフガルドは」 「デルコンダルは相変わらず何も動きません。アレフガルドは、もう娘の王国に祝福の使者を出したとか」 「ムーンペタも真っ先に大使を派遣したそうです!豪商ヤフマの長男を」 「ベラヌールは、もとより解放されたのは勇者アロンドのおかげと、感謝と共に大使を派遣したと」  さて、ここで少し時を戻そう。  巨大豪華客船で、異世界からの客も含め千人以上を長期間楽しませる。さらにアロンドの即位式も準備する。  それは、瓜生の無限の資材があるとはいえ、人材だけでも大変なことだった。  絶対的なカリスマを持つアロンドがいない状態で、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉、ガライ一族、さらにアロンド個人の家来と言えるメンバーをまとめて大事業を行わなければならない。 〈ロトの子孫〉の多くは、アレフガルドのあらされた地の再開墾や、船での交易を助けるなど多くの仕事もある。 〈ロトの民〉も、領地も狭いし耕すのに竜馬や機械の力も使っているので本当は人口過剰気味なのだが、それぞれ仕事はある。  ガライ一族は、それこそ世界各地の街で宣伝する準備だけでもあっぷあっぷだ。  さらに、アロンドの個人的な家来。ローラ姫とキャスレアたちアレフガルド女官、リレムもそうだ。そして瓜生とジジ。元孤児仲間のレグラント、ロムル、そしてハーゴン。  その四者をまとめれば、確かにムーンブルクでの『穴掘り』やベラヌール戦役をはじめ、すさまじい力になる。だがどちらも短期決戦で、生業を損なうことはなかったし、軋轢が出る前に終わった。  危機感を持つ者も多かったが、アロンドは一ヶ月の準備期間で、徹底的に任せることを任せた。  元々竜王軍との戦闘でも、アロンドは人に仕事を任せることはうまかったし、ましてアドルフ・ヒトラーの記憶と経験すべてが頭の中にある。  一人一人、役割を明確にして、しかも知恵を出し合い、視野狭窄にならず休めるようにもしっかり配慮されていた。  何より目的を明確にした。「もてなせ、楽しませろ」を合言葉にした。 〈ロトの子孫〉は常勤できない者が多く、長老たちが集まりサデルが意見を代表した。だがやや、船頭多くしてのきらいがあった。 〈ロトの民〉はゴッサがしっかりとまとめていた。  そしてガライ一族の、行動面ではジジとガライがうまく組んでいた。  近代客船を一年以上使い続けた、アロンドの孤児仲間たちも有能だった。  娯楽面はリレムがジジとガライを引っ張りさえした。  清掃や接客の多くはロムルが、孤児たちをまとめてきた統制と口八丁で。調理はその妻レグラントが中心となって、ぴたりと息を合わせてにわかクルーを指揮した。キャスレアもアレフガルドの長い伝統を活かし協力する。  病院として、合計五千人以上の健康維持も、ベルケエラたち医師たちが、大型病院級の巨大原子力空母の船内軍病院でしっかりと資材をまとめている。  船としての機関部にも、高い数学力と日本語読み書きで、短期間で近代機械の扱いに慣れた人たちがいる。数学的原理から実際的な事故例までジニが教え、データを取る。  対外的な中心としては、諸国の王侯貴族に圧倒的な知名度があるローラも多忙だった。  ハーゴンが、異様に存在感を持っていた。調整役と、書類仕事。その両方で、ハーゴンはすさまじい力を発揮したのだ。これまでも各地の情報収集、さらに交易で力を発揮してきたハーゴンだが、調整役とその幻術の才能を用いた舞台でも、素晴らしい力を発揮し続けた。  上下水とゴミだけでも大変だった。  空母と豪華客船。客が二千、スタッフは一万を越える。  どちらも大規模な海水淡水化装置がある。ただし、淡水化した海水は、飲み水には適していない。ミネラルを追加するとかいろいろ必要だし、それでもまだいい水とはいえない。  瓜生がミネラルウォーターを出すこともできるが、ペットボトルを開けるだけでも無理な手間だ。百トン単位なのだ。  結局、解放された禁断大陸を空から少し調べて水質のいい川を見つけてポンプで取水し、軍用の大型浄水機材で浄化して、空母には巨大な塩化ビニールパイプで直接巨大貯水槽につなげ、客船には時々水運搬船を見えないところから往復させた。  水を使えば下水も出る。その下水も、ロトの掟がある以上海に垂れ流すなどできない。  かなり遠いところに浄化作用が高い干潟を見つけ、海水で薄めて流した。空母や客船から、匂いが漏れない運搬タンクを船に載せて下水を運ぶ、これまた大変な作業となった。  さらにゴミ。初日のステーキから、千人分の紙皿と肉の空袋、鉄板を洗うための洗剤の詰め替え袋だけでも百キロ単位だ。  空母で手間をかけて分別して、大灯台の島にある高温焼却炉に運び、再利用できるものは再利用に回した。  ガラスビンだけでも、たとえばムーンブルク王都にばらまいたら経済構造が崩壊しかねないほど価値があるので瓜生が消した。  電気や上下水道の設備。いくら日本語の読み書きができ、周囲に比べれば優れた生活水準で暮らしているロト一族とはいえ、せいぜい江戸時代後期の水準……その、膨大な人数が先進設備に一ヶ月で慣れるのも、大変な話だった。  ウィスキーのビンの、ネジになった蓋を開けるのも、コルク栓を抜くのも困難。電気をつけるのも、蛇口をひねるのも、結構訓練が必要なのだ。まして、ポテトチップスの袋を開けるコツなど体得しているはずがない。ドアノブをひねってドアを開けるのも、カードキーどころか普通のカギも、何十回も練習しないとわからない。  そのことは、瓜生はあちこちの旅で何度も経験していた。だから旅先で誰かに故郷の飲食物を渡すときには、必ず自分で開封して渡す。すべてのビンの栓を抜き、缶の蓋のテープをはがして空ける。  そのやっかいさは、ロト一族は散々経験していた。だからこそ、多数の客全員に昼夜三交替二人ずつ常に張りつけ、幼児のように徹底的に世話をするという無茶をレグラントが主張し、ゴッサがそのための、農閑期とはいえ膨大な人数の動員に同意したのだ。  発電機、海水淡水化装置、浄水器、電気設備の保守、多数の動力つきボート……膨大な近代機械を動かし続けることも大変だった。  服装や食事のマナーもどうするか、かなり議論があった。  瓜生の故郷に、完全に合わせたがる人たちもいた。瓜生の故郷そのものをあがめている人も多い。また、マナーをDVDで学んだり、また映画などで見るマナーに憧れる人も多かった。  あの世界の水準を目指そう、という声も大きかった。  だが、レグラントはそれには反対だった。ムダだしそんながちがちにしてもおいしくない、と言った。  ジパングの血が濃い〈ロトの子孫〉も、ジパングの礼儀……箱膳と箸の生活が美しいと主張した。 〈ロトの民〉にも、特に遊牧民の血を誇る民は、小さな筒に箸とスプーンとナイフを入れ、懐に金属椀一つを持って竜馬に鍋一つくくって飛び出す暮らしを続けており、何本もナイフとフォークを並べるマナーはばかげている、と叫ぶ人は多かった。 「ナイフとフォークなんて、西洋文明がたまたま勝っちまっただけで、絶対正しいわけじゃないさ。箸のほうがいいかもしれない。合理的で、飯がうまくて清潔なやり方にすればいい」という瓜生。 「今回の饗応は、さまざまな世界から多くの、手づかみで食べるような人々を招くものです。全員にセイヨウテーブルマナーを強制したりしたら、楽しませるどころではないですよ」というハーゴンの言葉も、皆を納得させた。 「動きも美しく礼儀の心にかなうものを、だな」とアロンドが賛成し、それをきっかけに流れができた。  ……もっとも簡単に扱える、トングとスプーンを中心にした。  メニューや食器の計画さえ、それに合わせて再編した。それは、瓜生の故郷のマナーで言えば、誰もが吹くものだろう。  だが、それはこの世界では、ここの人々にとっては正しいし、そして美しく美味で、食べることを楽しめる文化なのだ。  服装も、ジパングの影響がある〈ロトの子孫〉と乗馬を好む〈ロトの民〉を折衷させ、瓜生が出せるように工夫したのが、作務衣とロングブーツ、皮のウェストポーチの組み合わせだった。  繊維の生産力もロト一族は優れているが、それでもさすがに、一月で一万人全員分、予備を含め複数の、統一され丈夫で見栄えもいい衣類を作る、というのは無茶を通り越していたのだ。  客船内の、そこらのショッピングモールに匹敵する店舗数。空母にも、多様な設備がある。  商品は瓜生が出せるにしても、店員を作り出すのが大変だった。  さらに、多数あるファストフード店を機能させる……店の基準を満たす店員を育成する、という大変なことがある。マニュアルがあるとはいえ。  どれも、瓜生の故郷のチェーン店のオープニングスタッフのように、本店から熟練した教育係が来るわけではない。全くの新規店でも、経験者がいるものだがそれも一人もいない。  一つ一つ、自分で切り開かなければならないのだ。  ジニが、熟練工から習えないプレスのコツを、自分で何十回も指を失いベホマで癒されながら学び、若い技師たちとともに学んでいるように。  店の多様性もとんでもない。飲食店、衣服・雑貨・宝飾品……スポーツ設備、カジノ、ゲーム……  ガライが「もっと休み時間だけでも、音楽を聴きたいのです」と頼んだ……  瓜生が、スタッフ保養所である空母に、元々ある映画館を動かした……  リレムが、客船の空き室をいくつも使い、最高級オーディオそれだけを娯楽として提供することを思いついた。  また、実は瓜生の故郷の資料が、あまりあてにならないこともある。瓜生の故郷の資料は、あくまで近代教育を受けた人を想定顧客としている。あらゆる世界から来る、近代以前の王侯貴族をもてなすのには使えない。  近代人というのは、きわめて特殊な価値観を持つ、特殊な部族なのだ、そう思わなければならない。 「おれの故郷で、おれの国の先祖が最初、西洋に行った時に大恥かいたそうだ。でも、こっちにはこっちの礼儀作法がちゃんとあるんだ、違うってだけ。違うって理由でバカにしたら、それこそ楽しんではもらえないだろ」と、瓜生。 「共通点は、どれも人間だということです」ハーゴンが強く言う。 「人は誰でも首をはねれば死ぬ」アロンドの言葉に、ゴッサがうなずく。 「どこの貴族も、結局焼いた肉や甘いもの、強い酒や美女をとても喜びますね」とレグラントがこれまでの経験を思い出す。 「いや、人をもてなすというのは、もっと大変なさまざまな細かなことの組み合わせじゃ、と思っていたのじゃが……誰でも喜ぶこと、というものはあるな」とキャスレアが深く息をつく。 (油や砂糖を豊富に使える、それ自体ありえないしな)瓜生が内心思う。 「腹を減らせばなんでもうまい」というロムルの言葉に、ハーゴンとアロンドが深くうなずく。 「じゃあ、初日は少し食事を遅らせて、腹を減らしてから一気に肉を焼くか」アロンドの目にレグラントがにっこりとうなずく。  数日前から、リハーサルを兼ねてザハンの隣から旅の扉で禁断大陸に通っている人々を、客船に招いた。  それであぶりだし、ギリギリで修正できた間違いもかなり多かった。  その大事業の断片を、アレフガルドのある〈下の世界〉に、瓜生の故郷、この現実世界から召喚された一人の女性が後に小説として書いた手記から見てみよう。 * * * * *  わたしは、メラニー・ジョーダン。45歳。生まれはカリフォルニア州サンタ・テレサ。  大学には行かず軍に入り早めに退役してから、ベガスでシャンペンを運んだり、オースティンの店で服をデザインしたり、名前を聞けば知ってると思う歌手のバックダンサーとしてMSGで踊ったり、ホームレス直前までいったり、レニエ山のガイドをしたり、いろいろやる人生。  二年近く落ち着いてしまったこのアパート……いえ、ワシントン州から、そろそろ出たい、って思ったある晩。  眠ったつもりはなかった。でも、なぜか、疲れで気を失いかけるようになって、気がついたらヘリポートにいた。 「ここは」  豪華客船のヘリポート。ハイスクールはサンディエゴだったからいろんな船を知ってるし、長くはないけど働いたこともある。  そこには、たくさんの、百年戦争や十字軍のドラマに出たときみたいな服の人がいた。ホームレスみたいな匂いがする人がやたら多い。  全員共通した服の、人々を船内に案内する人たちがいる。違う。悪臭がしない、歯もきれいで、動きも洗練され……兵士のように訓練されてる。服装も、男女とも同じ、ジュウドウの服?に乗馬ブーツ?絹の帽子がとてもカラフルで職掌がわかりやすい。カラシニコフをかついでる人も多いし、剣をさしてる人もいる。でもみんな、すごく決まってる。  すごい美形ぞろいじゃない!東洋との混血も多いけど。  その中から、一人の白衣を着た日本人の男が飛び出してきた。ちょっと発音が南アフリカ系で、久々に使ったような違和感のある英語で話しかけてきた。 「よう、こそ。ウリュウといいます、場違いなところに着てしまっておもいます、おどろかれたでしょうが安心しろ。あなたの安全と帰館はわたしが補償し……」軽く息をつき、「お名前はなんじゃい?」 「メラニー・ジョーダンよ。ここはどこ?」 「ミズ・ジョーダン」うわ、気持ち悪い。 「やめてよ、ミ・ス、じゃなくてメラニーでいい」 「メラニー、さんく。二十日どほこっちで楽しんでいただければ、出た時と場所に必ずお返ししてやんぜ。確認したいが、JFKが撃たれたのはどこだっけ?」 「ダラスよ」なに当たり前のことを? 「違いはないか、では」と、彼自ら客船に案内していく。エスコートはしっかりしていた。「部屋に案内させたてまつります」  と言って、何人かに指示を出しながら、部屋まで行った。部屋ごとに待っている、例の民族の人たち。 「ああ、この部屋に案内する人は、いろいろわかってるからつきっきりの世話は必要ない。え、リネンと急患?わかったすぐいく。どうぞおくつろぎください。電話は故障中ですので、ええと、軍経験ありますね?」 「あるわ」と、最終階級を告げる。 「では、こちらの通信機をご利用ください」と、ゆったりした、多分絹?やたらと上質な服の下から米軍で使ってた通信機を出し、渡してくれた。  それからウリュウは一瞬考え、また服の下に手を入れて、 「こちらもどうぞ。無論安全はスタッフが確保しておりますが、ご安心のために」と、ベレッタM9自動拳銃を支給用箱のまま、それに弾薬一箱、さらにレザーマンまでくれて、ドアを開けてキーをくれた。 「このバッジをつけているスタッフは、全員日本語を話します。英語を話せる人も何人かいます。ではごゆっくりお楽しみください」  と、そいつは去った。掃除する立場だったのが、泊まってみるなんてね、変なヤツだけどありがたいわ。  前に働いたことがあるのと、同様の部屋だった。でも、着替えようと思ったとき、びっくりした。  全部シルク。キモノも、ベッドカバーも。信じられない、なんて贅沢よ。  そして机の上には、カジノのトークン百万ドル分と、十枚のメイプルリーフ金貨。  大声で叫んだ。  もう、どこだろうがどうでもいい。ここは、天国よ!  そう思いながら、ちょっとした警戒心は残っていた。拳銃に油を引いてクリップに弾薬を詰め、昔の訓練どおり安全装置をかけた。レザーマンの、スパイダルコ同様のワンハンドオープンクローズを確認し、クリップで帯につける。  魔法瓶からコーヒーをカップに入れて飲み、大瓶で置いてあったブランデー、うそコニャック、それもマーテルの最高品じゃない!さっそく一口飲む。クッキーの缶があけっぱなしじゃない、だめねえ。  拳銃のホルスターをつけて、その上からシルクのキモノを着る。  船のパンフレットと地図を確認しながら一休みして、無線機をつけてみる。 「はいウリュウです」と、さっきの日本人。 「外出用の、服と化粧品を用意していただけないかしら?」 「はいただいま」  シャワーを浴び終えたところにチャイム。  開けると、そこには大きなワゴンに、たくさんの服と化粧品が並んでいた。 「お待たせしました。どうぞ」  そう笑って、すぐに小走りに飛び出した。さっきもだったけど、忙しそうな男ね。船医でもあるのかしら?  そのワゴンを見て、また呆然とした。サイズは、少し大きすぎるサイズから小さめと大きめ三種類、しかも二年前だけど、最高ブランドのドレスウェアが十着以上。  化粧品も、しっかりと最高のものがそろってる。  真珠とプラチナのネックレス・イヤリング・指輪も!  本当にこんな贅沢していいの、とうっとりしながら、バスルームに駆けこんで化粧を始めた。  少し廊下に出て、歩いてみた。  粗暴そうな、変な匂いのする男や、けばけばしく化粧している女が酒の匂いをさせて歩いている。  とっさに、拳銃を確認してしまう。  食事までまだ少しあるので、カジノをのぞいてみる。しっかり動いていた。  西部風にしつらえられ、煙草とは違うけど煙が舞っていて、独特の香りが漂いいい雰囲気が出ている。でも、全部新品。  何人かが、剣を抜きかけている。そこを、例のジュウドウ着姿の人々が止めて、別のところで飲むように言っている。  そこに来た小さい女の子が、「じゃ、せっかくですから舞台でどうぞ!」と叫んだのに、観衆がわっと湧いた。  なんだかんだで、女の子たちが踊っていた壇に二人が押し上げられ、剣を抜く。 「よおし、おれが誰だか、この腕で見せつけてやる!王の盾(キングズガード)ども、手を出すな、ウェスタロスの名誉がかかってるんだ!」 「女王擁護者(チャンピオン)として、わが主君にして妻の名誉を貶めさせるわけにはいかん!」  どっちも中年。  でっかくてむさい、ちょっと太り気味のほうは、力任せに長い剣を振り回している。  鼻が曲がっているほうは、フェンシングのように幅広の剣を構えている。 「まっててねー、これで賭けは締め切りよ!締め切り!ウェスタロス国王ロバート・バラシオン陛下と、エレニア女王婿にして聖騎士スパーホーク、今のオッズは4:1!」  日本のアニメから出てきた魔法使いのような女の子の、甲高い叫びが広がる。その手の籠に次々と赤と黒の花が投げ入れられる。でも、その女の子の声になんとなくぞっとした。プロのディーラーやマジシャンみたいに、明るいのに冷たい。 「はじめ!」  叫びと共に、激しく剣が切り結ばれる。  しゃんっ、っとメジャー入り直前の選手のスイングを至近距離で見てしまったときのような音。ひゃっ、と首をすくめたほど、ロバートの剣は早い。ふと、近くに置かれていた同じような剣に触ってみて、びっくりした。信じられない、ライフル並みに重いじゃない!あれをあのスピードで。メジャーリーガー並みの体だと思ったけど。腹も含めて。  スパーホークは、その凄まじい剣を正確にかわし、鋭い突きを繰り返しはなつ。こっちはこっちで、フェンシングでいいとこいけるんじゃない?  ロバートの側にいる金髪の美女をちらっと見て、ぞっとした。ロバートの妻なんでしょ、なのに誰よりもロバートに死んでほしがってる!一度、軍で見たことがあるような残酷な瞳。そういえばわたしが退役してから、拷問が例の部隊で問題になったけど、真犯人は例の中尉だってみんなわかってる。  対照的に、スパーホークの側にいる美女は青ざめながら、髪を振り乱して叫んでる。すごく情熱的な女性。心からスパーホークを愛してるんだな、ってすごくわかる。近くに、激しい声で応援している金髪の大男もいた。  鋭い剣の音が繰り返し響き、そして疲れかロバートの剣が鈍った瞬間、スパーホークが腕を鋭く切りつけてロバートの剣が吹っ飛んだ。  こっちに飛んでくる、と思ったら目の前に何かが突き出され、すごい音がする。見ると、ジュウドウ着の、黒髪ポニーテールの女性が、木のお盆で剣を受け止めていた。貫通した先端が、もうちょっとでわたしに刺さりそう。  この女性もすごい反射神経。みんなが喝采し、金貨やカジノトークンが飛んでいた。  そして、気がついたら重傷だったはずのロバートが、ぴんぴんして悔しがりながら、それでいて楽しげにスパーホークの肩を叩いていた。  スパーホークはぐっと握手して、こちらに来た。へえ、渋くていいな、それに雰囲気がある。軍の佐官みたい。  そして静かにひざまずき、深く非礼をわびてくれた。 「いえ、いいんです無事でしたし」 「こちらの方も見事な腕ですね」と、ポニーテールのウェイトレスに声をかける。彼女はにっこりと、剣をロバートに返して、軍経験あるな、と思わせるほどぴしっと一礼し、落ちたジョッキを片付けて去った。ものすごい美人で、かっこいい。すぐにモップを持ったウェイターがフォローした。この巨大客船にふさわしい。  男二人、肩を抱き合うようにして乾杯してた。これだから男ってのは!  いつのまにか、ロバートの妻はそっくりな兄弟のところに行っている。近衛騎士?  そして、ロバートとスパーホーク、スパーホークの妻とわたしで、なんとなく飲み始めた。 「名前をきこうかい、嬢さんや」ロバートが火照った顔で聞く。 「メラニー・ジョーダンです」 「メラニー、か。妻は……ジェイミーのところか、まあいい。どっちに賭けたんだメラニー!」キスギリギリに口を寄せて、すごい大声、口が臭い。よくいるわよね、こういう酔っ払いのダメ親父。大好きだけど。大好物だけど。 「ロバート!失礼した。ロバートにも、あらためて紹介しよう。私はパンディオン騎士団、女王の擁護者、サー・スパーホーク。こちら、妻にしてエレニア女王、エラナ。そしてこちら、同じくパンディオン騎士団のカルテン」  スパーホークが、奥さんと激しく応援していた金髪の大男を紹介してくれた。  ウィスキーの大瓶を持ってやってきたサー・カルテンが、映画の騎士みたいな礼をしてくれた。信じられない、お姫さまにでもなったみたい。 「はじめまして、お目にかかれて光栄ですわ、ロバート・バラシオン陛下、メラニー」  エラナの声と礼に、頭がボーっとなる。さすがに国王とか女王とか、そんなのは経験なかったから……そう、エラナの美貌と気品は見たこともないほどすごい。うん、納得するわ。 「は、はじめまして」 「ま、ここじゃ国王なんて店のリンゴみたいなもんだ!何人いるかわからん。何よりいい友と、いい酒と、いい女と、素晴らしいケンカと、うまい酒だあああああああっ!」ロバートが叫んでスパーホークの腕を叩いた。 「賛成!おっさん話わかるぜ!」カルテンが叫んで、ロバートのジョッキにどぼどぼと、ウィスキーと赤ワインをダブルで流し込む。ロバートは一気に干し、自分も机から……ちょっと、それウォッカ!  干したカルテンが目を回しかけ、必死で踏みとどまり、拳を突き上げる。 「おあおおおお!」 「おおおおおおおおおおお!」  意味不明のオッサン二人の叫び声。固く抱き合い、なぜかわたしも二人に強く抱きしめられる。ちょ、なんて力よ、骨が折れちゃう!  ええいこうなったら、とことん飲むわ!わたしも近くのテーブルからワイン瓶を取って。……まって、まってよ、ロマネコンティ!目玉が飛び出し背筋が寒くなったわ。でもいまさら引っ込みがつかず、おそるおそるみんなにも注いで、わたしも飲む。  すごい……そう、若い頃にちょっとセレブ生活のぞいた時に、飲んじゃったのよ。飲んじゃった。そう、まさにこれ。  信じられない、は始まったばかりだった。 「お、わしにも飲ませてくれ」と、ロバートが一気に干し、テーブルからハムをつまむ。 「これはすごいな、なんというワインだ。……見たことのない字だな」スパーホークがため息をつく。 「うまいワイン、でいいじゃないか」とカルテンがラッパ飲みし、ロバートに回す。そんなことしていいワインじゃないわよ! 「素晴らしいわね。こちらに突然来て、不安でしたがスパーホークも守ってくれるし、それに楽しんでいただく、とこちらの皆さんがいってましたが、本当に素敵」と、エラナがわたしに微笑みかけて夫の腕に手を置き、もう一口ワインを飲む。  その動きも優雅で、本当に美しい。それに、……あら?今気がついたけど、こちらのシャネルの服よね……後ろ前?でも、それに合わせたエルメスのスカーフと、エメラルド、すごく面白い組み合わせ方。何も知らないからこそできる美しさ、ね。そして元がいいから。元がとことん美しいから何をやっても合うの。  はあ、とため息が出る。高貴な美女、いい男、いい酒。これこそ人生よね!  それが、天国のような二十日間の、始まりだった。  なんとなく、人々がカジノから、船の中央に向かっていくのがわかる。次々と新しい人たちも入る。  子供が何人かいる夫婦が、ロバートに気がついてロバートが激しく夫に抱きついた。 「ネッド!来てたのか」 「陛下。ご無沙汰しております」  かなり渋い、厳しそうだけど暖かそうな男が、ロバートに向かってひざまずいた。  家族も同時にひざまずく。年長の長男、すごく美人の女の子と、妹は昔のわたしみたい、それに奥さんが抱いている小さい子、元気そうな男の子。それに、かなり離れて、夫のほうにそっくりな……腹違いかしら。 「変なところに来ちまったなあ、でも楽しいぞ。うまい酒もあるし、きみがいてくれたらこんなうれしいことはない!そうそう、紹介しよう。こちら、エレニア王国のエラナ女王とその夫スパーホーク。同じ騎士団のカルテン。そしてメラニー。エラナ、わが臣下にして北部総督のエダード・スタークとその妻キャトリン。子供たちは……」 「お目にかかれて光栄です。紹介させていただきます、ロブ、ブラン、リコン、そしてサンサ、アリア」  一人ずつ、順に礼をする。まだ赤ん坊のリコンは、キャトリンが抱いたまま礼をした。  子供たちは、目を輝かせてエラナやスパーホークを見つめていた。いい子たちね。 「それよりメシはまだなのか!」  ロバートは真っ赤に酔っ払ったまま叫んでいる。 「そっちの男の子は?」  カルテンの言葉に、キャトリンの表情が凍った。エダードも酔いが冷めたようだ。 「ジョン・スノウ」  目配せを受けた、ロブが言った。それ以上の説明はない。 「お食事はこちらで用意させていただいております」  と、例のジュウドウ着姿の男女が静かに言って、ゆっくりとわたしたちを案内する。  結構多い。一人につき一人、従ってる。 「おおそうだな。腹が減った。たくさん食うぞ!」と、ロバートが叫び、カルテンが同調する。 「他にご一緒の方は?」  とエダードが聞いた。 「サーセイとジェイミー、バリスタンもいたが、あいつらは……まあ、きみがいて肉と酒があれば、どうでもいいさ」と、ロバートはエダードの肩を叩く。  案内されたのはヘリポート。風が冷たいわね。広いところにたくさんの人がいる。  そして、鉄板の前に案内された。会議用テーブルぐらいの高さと幅、それがかなり暖かい。  ちらっと見ると、下にガスボンベとガスコンロ。なるほど。  近くに控えているジュウドウ着の人たちが、机の下から箱を引き出す。  同時に、激しいドラムの音がスピーカーから流れる。 『さあ、存分にお召し上がりください!』  やさしい女性の声と同時に、ビニール手袋をはめたジュウドウ着たちが熱い鉄板に挽肉をばらまき、ワイルドターキーをまいて炎が燃え上がる。  強烈な香り。  すぐさま、次々と肉が鉄板に載せられ、じゅわああああああっとこの世で一番おいしそうな音と香りが広がる。  もう、人数を数えられないほどたくさんの人たちが、歓声を上げる。 「手づかみでは火傷しますよ、これでどうぞ」と、一人一人に付き添うジュウドウ着たちが、なんと小さなトングを手渡した。  それで食べるのは簡単、それこそロバートやスパーホークたちよりもっと野蛮そうな人たちも、簡単につかんで食べられる。マナーとしてはあれだけど。  しっかり塩コショウしてあるし、最初は薄い肉を短時間で焼いて、それから次には厚いステーキ、と次々に肉が追加される。  みんな、すごい笑顔でがつがつと食べまくってる。  ステーキだけじゃなく、ラムや豚肉も焼かれる。豪快に鉄板に挽肉を広げて、焼けたところをジュウドウ着が紙の深い皿にすくって、大き目のスプーンをつけてくれた。  どれだけ食べたかわからないほど食べて、それから今度はジュウドウ着が次々にボウルを出して、中の、レーズン入りホットケーキミックスをどっと鉄板に広げた。  また、すごくいい香りが広がる。ケーキドウと砂糖が、脂と焦げる匂い。  焼けるのを待って食べたけど、ものすごい砂糖入れすぎ。でもみんなそれに大喜びしているみたい。  その時に、音楽に気がついた。かなり激しいロックのインスト、それがかなりの大音量になってきてる。  それで雰囲気が盛り上がったところに、ジュウドウ着が次々と酒をくれる。お、ジャパニーズ・ライス・リキュール。久しぶりに飲むけど、これも好き。  みんなもすごく喜んでる。  いつの間にか、ロバートのそばに別の、かなりの老人がやってきてた。とっさに敬礼しちゃった、一度だけ会ったことがある、議会名誉勲章受賞者みたいな風格。 「陛下、ご無事で何より」 「ああバリスタン、楽しんでいるか。こちら、王の盾総帥のバリスタン・セルミー」と、また紹介が始まる。  食事が一段落してきたところで、突然騒ぎが起きる。  百人ぐらい、いろいろな服装をして飲み食いしていた人々が、左舷に集まれあれを見ろ、と呼び交わしている。  ロバートたちもなんとなく集まる。  見えにくいけど、そう……小さいヨットが高速で、この客船を囲んでたくさん係留されている船を縫うように岸に向かっている。  それが岸に乗り上げた瞬間、どよめきが上がる。  そして、スピーカーからすごくいい声が響き、一人の青年がよくわからないことを言っている。 「大陸を、解放?」 「この大きな大陸に、これまで人が住めなかったのか?」  みんながわいわい言っているけど、どういうことなのかあまりよくわからない。 「ま、それより肉と酒がうまい!」と、カルテンとロバートが飲み食いを始めているのに、みんなつられてしまう。 「陛下、エダード公」落ち着くのを待って、バリスタンがロバートたちに話しかける。「ここで案内をしてくれる同じ服装をした使用人たち、誰もが優れた使い手です。ご油断なさいますな」 「それはもうわかっておる。決闘で弾かれた剣を、鮮やかに盆で止めた女。いい女だったな」とロバート。  そのことを思い出して、改めて背筋が寒くなった。足ががくがくしそうになるのを、酒で止めた。 「大半は、ドスラク人のように地を踏むより馬に乗っているほうが長い人々のようですな」と、バリスタン。 「三人に一人は魔法使いだ」と、スパーホーク。それに、カルテン以外がびっくりする。 「そうか、負ったはずの傷があっという間に治ったが、それも魔法か」とロバート。 「それだけじゃないわよ。四人に一人ぐらいカラシニコフ担いでる」そうか、剣と魔法世界の人は、見てもわからないんだ。「あの、先に鉄棒がついた木のあれ」  ちらっと、ジュウドウ着の一人が持つカラシニコフに目をやる。 「何かと思っていました」と、バリスタン。 「妙な棍棒だな、あれで人を殴れるのか?」と、ロバート。 「あれ、三十人をあっという間に殺せるのよ。鎧を着てても。そうね、とても強い弓兵が十人いるのと同じ」わたしの言葉に、皆が凍りついた。 「では、もはやわれらは」 「抵抗は無意味、ってところね」 「なら、楽しむだけ楽しみ、敵とわかれば全力で戦おう!」とロバートがジャパニーズ・ライス・リキュールの入ったコップを差し上げ、スパーホークが唱和する。  目の隅で、バリスタンとエダードが軽く剣の柄に触れたのが見える。  こうなるとやはり、騎士たちね。ものすごく決まってる。なんて素敵な世界に入っちゃったんだろう。  そのまま、舷側に張りついて大陸を眺めている人たちもいる。  わたしたちもつられて少し見たけど、すごくきれいな青年が木を伐っていた。  すぐに、みんなあちこちふらふらしたり、誰か知り合いがいないか見回している。  ふと、スパーホークが目を見開き、「こんなところにいたか」と小さく叫んだ。  視線の先には、さっき決闘を賭博にするのを仕切っていた女ディーラーと一人の若い男に、一人の少年がにらみ据えられていた。  若い男の周囲では、数人の男女が心配そうに見ている。 「タレン、……すまない、身内だ」とスパーホークが少年に、それから周囲の人に呼びかける。 「スパーホーク。これほどの凄腕、見たことないよ」と、タレンは若い男と女ディーラーをじっとにらみかえしている。 「それはこっちの台詞だよ」と、若い男。 「うん、大したもんだよ」と女ディーラー。 「あなたがたも、盗賊なのか」というスパーホークに、にらみ合っていた三人がふっと雰囲気を変える。 「お目にかかれてとても光栄ですわ」と、エラナが前に出て、スパーホークが少年の両肩をしっかりつかむ。 「お目にかかれて光栄です。こちら、エレニア王国女王エレナ陛下。わたしはその夫にしてパンディオン騎士団のスパーホーク。こちら、ウェスタロス国王ロバート・バラシオン陛下、その北部総督エダード・スターク閣下とそのご一家。〈王の盾(キングズガード)〉サー・バリスタン・セルミー。こちら、メラニー・ジョーダン。同僚のサー・カルテン。それにタレンは、ご存知のようですね」とスパーホークは一気に紹介し、軽く少年の肩をつかむ手に力を入れる。  エラナは優雅に会釈し、ロバートとカルテンは豪放に笑い、エダードは謹厳に礼をした。  わたしもエラナの真似をしようとして、軍隊式の敬礼に切り替えた。こっちのほうがまだましよ。 「ご丁寧なご紹介、ありがとうございます」と、男たちの一人が出てきた。 「私は諸島王国国王リアム。まあ、ここにはあちこちから王侯が来ているという話ですのでお気になさらず。こちらは庶兄のマーティン、クロンドル公アルサ、その妻アニタ。妹のカーラインとその夫ローリ公。そして」と、タレンという少年をにらんでいる、十代後半ぐらいの男を手で指し、「スクワイア長のジェイムズ。盗賊出身ですが素晴らしく優秀な男です」  その紹介に、ジェイムズの表情が輝いた。 「こちらのタレンも、盗賊出身です。騎士団に内定していて、今は内のことをさせていますが」スパーホークが、少し恥ずかしげに言う。 「まあとにかく、ここでお盗(つと)めをしようったってムダだよ」女ディーラーがにっと笑う。 「持ち主に返すんだな。そちらの肉箱と、酒瓶に隠して甲板の穴に入れたろう?」ジェイムズの言葉に、タレンが降参、とばかりに両手を挙げる。「誰にも気づかれずに、全部返す。それぐらいできるだろう?」  タレンが目を輝かせてうなずく。 「それに、盗賊としての技なら、あっちに面白いところがあるよ。岩壁を登るのを楽しめる」女ディーラーの言葉に、ブランの目が思いっきり輝いて、エダードに裾をつかまれた。 「安全ですよ」わたしの言葉に、キャトリンが殺気を叩きつける。ちょっとびっくりした、結構怖いところあるのね。 「よおし、返してから三人で、誰が一番早く登れるか勝負しよう!」タレンの言葉に、ブランが夢中でエダードの手を握っている。小さい子ね。  ジェイムズとアルサが、楽しそうに苦笑している。キャトリンはもう泣きそうというか人殺しをしそうだ。  ふと思いついて、ジュウドウ着に聞いてみた。 「そうそう、チップは」日本ではチップの習慣がない、とかヨコスカ帰りに聞いたことがある。 「おそれいります、こちらではその習慣がございません。まことにありがとうございます。あ、こちらのあらゆる店でそのカジノトークンが通貨として通用します」  でもまあ、メイプルリーフ金貨は十枚しかないし、カジノトークンを包むのもね。  ウェルカムパーティーが一段落して少し疲れが出たころ、タイミングよく多くの人には、プロムナードデッキに来るよう案内が始まった。  軽く緊張しながら、ぞろぞろと歩く。スタッフたちに、明らかにディズニーの着ぐるみが混じる、でも別会社の着ぐるみも。なんでもあり?  それに、ブランなど小さい子は夢中になって、ますますキャトリンが目を三角にしてる。  何階分もぶち抜きの、小さなショッピングモールぐらいある多数の店。そのすべてに、無数の風船といろいろな色の飾りが結ばれ、華やかにライトアップされている。  音楽がディズニーの大ボリューム、そしてローラースケートの、小さい子?ディズニー着ぐるみでローラーブレードで滑っている。アリアがやりたいと叫んで飛び出し、ジュウドウ着につかまってキャトリンの腕の中に戻された。  もう、千人を超える騎士や貴族たちが、呆然と大口を開けている。  ばたばた走ろうとする人がジュウドウ着がうまく止めて、カラフルな菓子店に案内してるのがちらっと見えた。  一人一人に、ぴったりジュウドウ着がくっついている。 「キングズ・ランディングってこれぐらい大きいの?」と、アリアが聞く。 「広さは広いが、こんなたくさんの店はないな」とロバートが笑い、エダードが恐縮したようにアリアを引き下がらせた。  服、宝石、おもちゃ、絵本などいくつも店が並ぶ。あちこちに、屋台のホットドッグやポップコーン屋があり、ほしがる人にタダで食べ物をくれる。  トイレに行きたがったリコン、それも素早く案内されている。キャトリンが心配してついて行き、他の子はエダードが必死でまとめていた。  ブランは見ていればわかる、このプロムナードデッキの断崖をどうやって登るか計算してる。 「登りたければ、いくらでも登れるところはあるわよ」というと、エダードが優しそうに苦笑した。 「さて、娼婦がどこにいるやら」と、カルテンにささやきかけたロバート。  それを耳ざとく聞いたジュウドウ着が、 「ここのスタッフは金で買うことはできません。ただ、お力づくではなく魅力と口説きで、自由恋愛なら」  とささやいた。  しばらく、ロバートもカルテンもその意味がまるでわからないようだった。だが、それを悟ったのか、目を見合わせて絶叫した。 「これだから……」と、エラナがカーラインとうなずき合って目を回し、スパーホークの腕をぎゅっと抱いた。 「もちろん、今こうして素晴らしい、激しい恋を満喫してますよ」というスパーホークの台詞に、エラナはご満悦だった。 「また、一度説明申し上げましたが、商店やサービスの多くは差し上げたこのトークンで購入できます。なくても普段のお食事や、衣装の支給はございますが。またこのトークンはギャンブルその他で、増やすこともできます」  その言葉に、ますますロバートは嬉しそうだ。それを見てバリスタンとエダードはため息をついている。 「これを見回すのも楽しいが、もっと楽しいことはないのか?」と、ロバートが聞いてきたので、一番の笑顔で答えた。 「二十日、とか言ってましたよね。この船を楽しみつくすには、二十日では全然足りないわよ」  そう、ここが……あのクラスの客船ならね。 「それは!ではまずどこから楽しめばいいのだ!」とずいっと出てくるロバート。 「この船を知っているの?」とエラナが聞いてくる。 「え、ええと、似たようなもっと小さい船で働いたことがあるとか、このクラスの話も聞いたことはあるとか」 「では、ご案内いただけるわね」と、カーラインがわたしの腕を取る。  まず、プロムナードのエルメス・グッチ・シャネルその他並びを案内し、女性陣はそちらでたっぷりと素晴らしい物を見せる。  ただし、キャトリンだけはエダードの、子供たちのそばを離れなかった。何度も謝ってた。  当然暇になる殿方はどうしようか……楽しませろ楽しませろ、と全身で言ってくるロバートたち。  エダード一家が厄介よね。キャトリンがすごく怯えているし、アリアとブランは首輪をつけてても気がついたら煙突に飛びこむかスクリューでミンチになってるかしかねない。  さて、じゃあ……お、あった。 「ではこちらがいいと思います。一家集まっていられます」と、回転木馬のある遊園地デッキを見せた。  キャトリンは回転木馬すら怯えてたけど、最後にはエダードが「ブランたちは、実際の馬に乗る身分なのだぞ」と言って納得させた。考えてみると、乗馬なんてものすごく危険なご身分じゃない?  ロブ・ジョン・アリアの三人は片端からいろいろな乗り物を試している。  さて、大きい男どもに……あったあった、バニーガールがたくさんいる、そういうお店。ロブも本当はこっちのほうがいいかもしれないけどね。  その姿に、男たちは半ば絶叫し、ふるいつこうとしてはさりげなくジュウドウ着に止められ、締め落とされている者も多かった。  しれっとそっちに加わろうとするタレンとジミーに、スパーホークとアルサが「エダード候たちのところに行け」と声をそろえた。  そして、しばらく経って気がついたら、盗賊コンビとジョンがプロムナードデッキをふらふら歩いてた。  わたしは、だいたいみんなが片付いたら、エラナたちに合流したけど、こういう店だと百万ドルでも全然足りない気がする。 「こちらでは、わたしたちが持ってるお金は通用しないのよね」とエラナ。 「はい、これのみがこの船での通貨です」とジュウドウ着。  ある意味平等、ってわけね。あ、でもさっき、賭けでトークンのやり取りはあったわ。  ま、次の店を見ましょう。  気がついたら朝、みんな疲れきって、そして興奮して、部屋に戻った。  デッキでは、陸地を眺めている人たちも何十人かいる。遠くで、豆粒のような人影が朝の支度をしているようで、それに見ている人たちが怯えたように騒いでいた。  眠って目が覚めて、朝食と案内されたビュッフェ。中華というけど日本風の、ラーメン・チャーハン・ギョーザを食べた。すごくおいしいし、サービスも確か。トングとスプーンで食べるのはちょっと不自然だったけど、楽ね。  チャプスイは好きだけど箸は下手だから、これでちょうどよかった。  他にもパスタ・ピザ・フライドチキンなどいろいろと食べ放題のものがある。  ケーキも結構おいしい。ドリンクバーでいろいろ頼めるのもいいし、特に新鮮なホットミルクが抜群においしかった。  食事の最中に、エラナに声をかけられてみんなのテーブルに行った。げ、サーセイ・ラニスターとその子。一見礼儀正しい美少年だけど、悪い意味で母親そっくり。  あーあ、サンサ・スタークはすっかりジョフリーに夢中になってる。見た目だけで、中身はわからないものよね。この目じゃ忠告しても無駄よ。  ミルクをひっくり返したリコンを見たとき……ジュウドウ着の対応は素早かった……その高さにいた人にはっと目がとまった。  わたしの驚きの目にも慣れているように、にっこりと笑って会釈する。 「お噂は聞いていますよ、メラニー・ジョーダン。ティリオン・ラニスターと申します。そう、このサーセイ王妃さま、〈王の盾〉ジェイミー・ラニスターの愚弟、西部総督タイウィン・ラニスターの息子、ですよね?親愛なる姉上」  にやり、とサーセイに、左右色違いの瞳がいたずらっぽく笑いかける。彼女の目が、いつもそうだけど嫌悪と殺意に燃えている。  人目を惹きつける醜さ、というのは知っている。異常に醜いけどすごく尊敬された上官がいた。そしてその瞳の中には、鋭く熱い頭脳があることもわかる。 「いや、ここは天国そのものですよ、ロバート陛下」と、興奮気味に話している。「『あなたのお体でも、ちゃんとできる楽しみはたくさんあります』と案内された、素晴らしい身障者用スポーツ設備。今日は、この船を運営している人たちが、どれほどハンディキャップを持つ人たちを使っているか、見せてくれるとか」 「まあ、楽しみはあればあるほどよい」とロバートは笑って、山のように盛ったハムやチーズを食らっている。 「それなら、これぐらいの船をわが国も作るわよ」とサーセイが言う。  軽くエラナとスパーホークが目を見合わせ、エラナが上を向いて目玉を回した。わたしもそうする。  アルサも苦笑した。この人たちは、ある程度は技術水準がどれだけ違うか、わかってるんだ。  それに、経済力も。そうよね。この船を作った今のアメリカは(訳注:船そのものの建造はフィンランド)、この人たちには想像もできない、とんでもない量の鉄やセメントを作ることができる。  みんな信じられないほど大量に食べて、それから甘いケーキやキャンデーをまた山盛りに食べている。  食べ終わるころ、わたしにだけ食後のコーヒーが運ばれてきた。一口飲んでびっくりした、飲んだこともないような高級品。 「それは?」とティリオンが聞いてきた。「それなに?」と、アリアが声を合わせる。 「コーヒー、よ」 「奇妙な匂いのする飲み物ですね。私にもいいですか?」とティリオン。 「あたしにも!」アリアが目を輝かせる。 「異国の飲み物なら、楽しんでみたいですね」と、ローリがうなずく。 「ええ。すみません」と言うまでもなく、素早くジュウドウ着が動き、間もなく湯気の立つコーヒーが届いた。 「香りと、苦味を楽しむものですよ。アリア、あなたは」砂糖とミルク、と言おうとしたけど、この子が小さい頃のわたしに似てるからやめた。  三人とも、おっかなびっくりで口にし、びっくりする。  苦笑するしかなかった。 「毒じゃないの、吐き出しなさい」とキャトリンが言う。 「おいしいよ!」と顔をしかめて言うアリアが、わたしににっと微笑みかけた。 「珍しいものですね」とティリオン。 「奴隷にされていた頃に食べた、焦げた草の根の茶に似た香りですね」とローリが言うのに、ティリオンとアリア、それにブランも声をそろえて飛びついた。 「奴隷に、って?」 「ああ、昔の話です。わたしが仕えている諸島王国に、あるとき別の世界の軍勢が攻め寄せてきました。こちらでも、ツラニ帝国の人は何人か見かけましたよ……わたしは捕虜になり、奴隷として売られてそちらで暮らし、たまたま秘密の使者として元の世界に帰ることを許されました」 「ツラニってどんな国?」とアリアが目を輝かせる。 「どっちが勝ったの?」ミアセラ・バラシオンも目を輝かせて聞こうとし、サーセイとジョフリーににらまれ強くにらみ返した。 「それは貴重な体験ですね。ゆっくり聞きましょう、ねえ、陛下」ティリオンがミアセラを励ますようにじっと見つめて、ロバートを味方につけた。  ローリの体験談で盛り上がり、そのまま食事を終えて、あらためて船をぶらつく。わたしが案内役のようになって。  デッキでは、たくさんの人が食い入るように陸地の、豆粒のようにしか見えない青年を見ていた。  広い、いろいろな植物が茂る庭園。プールを囲む円形劇場。映画館もいくつもある。  ちょっと運動不足で食べすぎが怖いので、ジムかプールを使わせてもらおうかと思って最上層に行く。結構寒い、昨日は人が多く熱気があったのでわからなかったけど。プールも水が抜いてあって、かわりにたくさんの発泡スチロールの粒が入っていて、子供の遊び場になっていた。ブランたちや、ミアセラも大喜びで飛びこむ、キャトリンは相変わらず死にそうな目をしていた。  ジョフリーはバカにしきった冷たい目で見ている。放っておいたら、リコンをこの高さから海に投げこみかねない、ここはわたしもキャトリンのそばにいて小さい子を守った。  ロバートも子供たちに混じって遊んでいる。 「温水プール、ないかしら」と言うと、 「はい、こちらになります」と笑顔で答えが返ってくる。すごく素敵な笑顔、よく見れば本当にこのジュウドウ着、長身で美形が多いわ。 「皆さんも、泳いでみます?」  誘うと、ロバートは嬉しそうに「行くぞ」と叫ぶ。エダードは謹厳に「お供いたします」。  リアムたちも苦笑気味にうなずいた。  男女別の更衣室の入り口、キャトリンが「あまり一家で離れたくない」と文句を言ったが、エダードが「心配ばかりしていてもどうしようもない。この人たちに悪意があれば、われわれには対抗できないのだ。信じたほうが楽だ」となぐさめていた。  広い温水プールと、スパが並ぶ。  わたしたちだけでなく、何人もの人が水着にビックリしながら水につかっていた。 「そうそう、こちらの方々は、うちの女官たちより全身をとことん丁寧に洗ってくださるんですよ。歯まで磨いてくれて」とカーラインが嬉しそうに笑う。  そういえば、最初は臭かった人たちも、朝からはすごく清潔な香りがする。 「ずっと音楽も鳴っていて、眠るのがもったいないほどでした」とエラナ。 「楽団が見当たりませんでしたね、素敵な曲でした。ちょっと下品でしたけど」とアニタが微笑む。  わたしは説明しようとして、苦笑するしかなかった。考えたこともなかった、スピーカーというのがどうなっているのか。わからないから説明もできない。 「こうしていると、ウィンターフェルの温泉にいるみたい。セプタ・モーディンやメイスター・ルーウィンがいないだけで、うちと変わらないようよ」とキャトリンが子供たちを集めて、エダードに微笑む。幸せそうな表情で。  カルテンとジェイミーが、いつの間にか激しい泳ぎ比べを始めていた。それにアルサも加わる。ロブとジョンが、目を見合わせて加わった。こんな大きなプールは初めてのようだけど、勇敢に泳ぎだしている。  ブランとアリアがプールに行きたがっているのを見て、目で誘ってジェットバスから出た。  キャトリンは文句を言おうとしたけど、エダードが止めてくれた。  ひと泳ぎして、浴槽で温まり、昼食は近くにあった中南米レストラン。うん、合格点。 「うわ辛い、うまい」とロバートが喜ぶ。 「ドーンの料理のようですな」とバリスタン。ブランがおっかなびっくり食べている。  それからちょっと買い物をした。王族のみんなにはオーダーメイド店のほうが向いてるかな、と思うけど、高いのよね。  トレーニングウェア、下着、それに……最初にいっぱい貰ってるけど、別のも欲しくなる。  わたしの故郷で売られている普通のブランド品もあるし、そうじゃない、手縫いと思える素朴な服もある。  キャトリンやエラナに、故郷の服を着るコツを教えてあげたら喜んでた。ジュウドウ着も、気を悪くさせずに教えるのが難しいのかな?  そうやっていると、女性どうしが話を広げて、他の名も知らない女性たちにも服のアドバイスを頼まれる。  そのお礼にと、店からいろいろ値引きで素敵な服を買ったし、美人たちをマネキンに楽しめたからいいわよね。  それから、ゆっくりと屋上の公園で草木を見て回る。  夕食はちゃんと、レストランで正式に。フレンチのフルコースに近い料理。  ただしカトラリーはスプーンとトングのみ。食べる都度ウェットティッシュでぬぐう。  やや量が多めで、ワインがとても贅沢だった。  マナーがまちまちなみんなだけど、さすがにそれぞれよく周囲を見て、丁寧に食べていた。  チーズとチリの極上白の組み合わせがまず素晴らしかった。  パンもすごくいい。  そして牛肉の赤ワイン煮、おいしかったこと!根菜の飾り包丁がすごく繊細だった。  さっと挨拶してくれたのが、中心人物と思える三人。  ローラという、エラナたちに似た王族らしい美女。小さい男の子と、赤ん坊を抱えている。船客も、『別世界から』じゃなく『この世界の国々の人』の人々はよく知っているみたい。  ゴッサと名乗っただけの、背は低いけどものすごい筋肉の男。  ジジという、あの女ディーラー。  ローラの女主人ぶりはとても立派で、エラナやキャトリンもほめていた。  合流したティリオンがすごく興奮していた。 「目が見えない人が手触りで削った木を検品したり薬の香りを確かめたりしていました。それに足が動かない人は石版を彫って本を刷り、手が少し動くだけの子さえ指先だけで計算をしているんです。誰もが仕事ができるように、みな助けを惜しまないんですよ」  と、熱っぽく語っていた。 「そんなクズども、まとめて切り刻んで豚のえさにしてしまうべきよ」サーセイが言う。その目は雄弁に、ティリオンとロバート、それにわたしやエダードたちもまとめてそうしたい、と言っていた。 「そうだ!五体満足でないものは、わが七王国では誰一人生かしておかんぞ!」とジョフリーも合わせ、陰険にティリオンをにらむ。サンサはその陰険な目も、うっとりと眺めていた。頭を抱えたくなる。 「犬や馬ならばな」とロバートが肉を食べながらニュージーランドの最高級赤をあおり、舌鼓を打つ。 「こちらの人々なら、それをもったいないというのですよ。足が悪くても頭がいいなら無駄にするのはもったいない、と。ここに生まれたかった」その漏れた言葉には、強烈な真情がにじんでいた。  みんなは食後のシャンパンとチョコレート菓子を堪能していた。  食後、シアターの一つに行った。  このあいだタレンを捕まえていた女ディーラーが手品をしたり、きれいなボーイソプラノの男の子が、日本で聞いたことのある歌を何曲か歌ったりした。  ローリが、自分はもっとうまいと言っていたのにちょっと苦笑した。もしカラオケがあれば、本当かどうか聞いてみたい。  そして、『シカゴ』を翻案したようなミュージカルをディズニーの着ぐるみでやっていた。  バラード調で、アロンドというあの若い男を歌う叙事詩の弾き語りもあったけど、途中で出て子供たちを休ませるというエダード一家を送って行った。  ずっとブランは、明日こそ岩登りをさせて欲しいと訴えてた。さてキャトリンも、いつ根負けするか……  もっと悪いのは、ふとアリアが上を見上げて、船内吹き抜けの上を縦に通る、ロープ遊びを見てしまったこと。  そうそう、サーセイ・バラシオンと子供たち、それにジェイミー・ラニスターは、また別行動をしてたわね。でもミアセラだけはタレン・ジミー・ジョン・アリアの四人になついたみたいで、ついて回っていた。  トメンは寂しそうにロブやサンサに頼っていたが、サンサはジョフリーに憧れてばかり……ロブももう少し、大人が行くところで悪さをすればいいんだけど、キャトリンに気兼ねしてタレンやジミーの仲間には入らない。 「ミアセラも獅子よ。それにジョン・スノウも狼じゃないわ、敵なのよ」とキャトリンがアリアに言ってたけど、全然彼女は聞こうとしてない。  三日目の朝食前、わたしたちのグループがジュウドウ着に、いつもとは違う道に案内された。  わたしだけ、別の小さい部屋に案内され、そこのジュウドウ着が言った。 「すみません、今日はこちらの皆さんの健康診断と治療を行います。あなたは、ウリエルさまの故郷からいらしているので説明するように、ということなのですが、診断に同意していただきますか?」  びっくりした。  しばらく呆然として、出されたミネラルウォーターを一口飲んで、ちょっと考えた。  まあ、別に損するわけじゃなし。 「じゃあ、お願い」と言うと、窓のない小船に移って、そして二十分ほど高速で航行して、どこかに着いた。海上に張られた、大きなテントの中。何に着いたのかわからない。タラップを上がるとゆっくりとした揺れがある、超大型船?  入って、花柄の壁紙に覆われた廊下を歩く。でもどこかで見たことがある気がする、わたしの足はこの廊下と、部屋を知っている。  健診は、驚いたことに血液・尿はもちろん、レントゲンや腸内内視鏡検査まで徹底的にやってくれた。  出くわしたエラナが、「すごく楽しいですね、このアトラクションは何ですか」というのには吹いたわね。  まさか、この千人以上全員?いくらこの客船には医療設備が充実しているとはいえ、無理でしょ。別の病院船を用意してまで?  みんなにまた合流したら、単純な服に着替えて、「台に乗ったら、針が動くのよ」とか、「腕をきゅっと締められたの」とか、まるで娯楽か何かのように楽しそうにしゃべっていた。  目の端で、ジョフリーが物陰でジュウドウ着の女の子を怒鳴りつけ、蹴りつけようとするのが見えた。  素早く大人のジュウドウ着がかばい、言葉では謝っているが暴力はできないように抑えている。暴力は受容しない、でも苦情には忠実に応える、難しいのよね。特に、サイコパスの客の扱いは。  小さい子もスタッフにいるのね、ここは。そう、よく見ると結構……児童労働がありなんだ。  やっと今日始めての食事。おなかがぺこぺこ、ボードウォークから、魚の大きな絵がロゴになったハンバーガーショップ。わたしが知ってるアメリカのどこでもない、すごく面白い絵がいっぱい。  そして新鮮な魚を、客席から見えるカウンターで日本風のテンプラに揚げて、それにたっぷりオニオンをそえて、和風のソースと焼きたてのパンではさんでくれたのが素晴らしくおいしかった。  フィッシュアンドチップスもあって、イギリス式にビールの味がしたわ。  スイートポテトのフライや、中東で食べたことのあるファラフェル、オイスターをフライにしたの、ニンニクやアスパラガスの丸揚げもたっぷりついていて、どれもすごくおいしい。  コーラがすごく合う。しゅわっとした炭酸にみんな驚いてたけど、すぐ夢中になってた。  それから、今日はアクアシアターへ。千人が座れる半円形劇場の真ん中に、飛びこみもできる深いプール、後ろの壁は大規模なロッククライミングウォール。  ブランはもうガマンできないように飛び出そうとしている。 「ほら、ちゃんと命綱があるではないか」と、エダードが必死でキャトリンを拝み倒していた。 「ジョフリー。命綱を切ったら面白いわね?」そっとささやいてやったら、図星だったらしくすごい殺意でにらみつけてきた。  それでサーセイが怒っていたが、わたしはロバートやスパーホークに挟まれていればいい。もうこの最悪母子の扱いは、かなり慣れてきた。夜寝るとき、枕元に拳銃を置かなきゃいけないわね。  やっとしぶしぶ許可が出て、もう何度も登っているタレン・ジミー・ジョンを追うように、ブランとアリアがプールなど目に入らないように壁に駆け出し、命綱をつけるのも嫌がっていたがそれはジュウドウ着が強引に止めて、しっかりとハーネスをつけた。  キャトリンやエダードは、まるでプールなど目に入らず、壁のブランやアリアのことばかり見ている。  サンサが少し淋しそうにしていたから、宝石やバッグのカタログを渡してあげた。  そしてロバートとカルテンのバカコンビが大声を上げている……水からきわどい水着で飛び上がり、どんな仕掛けか高く飛びあがり空中で踊る女の子たちに。  もう夕食の時間、今夜はトルコ風の料理だった。みんなもしっかり着飾ってきた。  ブドウの葉に米と肉を詰めたのや強烈なチーズの前菜、強い蒸留酒、ラク。  極上のヨーグルトを添えて、ニンニクをたっぷり効かせてたっぷりと焼かれた羊肉。ニンニクだけじゃない、もっと強烈な匂いもする。  それにすごくおいしいピラウ。ちょっと味が日本風に調いすぎてたかな?中東任務で食べたのはもっと、いろいろ壊れた味だったわね。  パンもすごく良かった。  極上のオリーブオイルとナスを使った、ピザに似た料理も素敵だった。  お待ちかねの、のびーるアイスクリームがやっぱりおいしいし、他にもたっぷりとナッツを使った厚いパイ、果物のコンポートなどいろいろな菓子に子供たち+ロバートは大喜びだった。 「明日は狩りに行きたいな」とロバートが言ってたけど、さすがにそれは無理ね。この船なら、寄港時にネイチャーツアーがあることも多いけど、どうやらこの沿岸から動かないらしいもの。  今日はかなり大音量でジャズが伴奏されてた。でも生バンドじゃなくてスピーカーだったわね、それがちょっと残念。  気がついてみると、クラシックにしてもロックにしても、わたしの故郷の楽器の生演奏はないわね。見たことのない楽器を使う生演奏はあるけど。  それから、映画館で『グラディエーター』を見た。みんな、映画を知らないらしく信じられない、と呆然として、すぐに夢中で楽しんでた。  ちょっと運動不足気味だから、明日はジムに行こうかしら。みんなもそうしたほうがいい、と思ってスパーホークやバリスタンに言った。 「確かに、馬に乗って走り剣の訓練をしないと」 「このように食べて寝ていては、騎士として使い物にならなくなります」と、バリスタン。 「狩りに行きたいなあ。そして乱戦の試合で、思う存分戦鎚を振り回したい」とロバートが情けなさそうに言う。 「身体を動かす楽しみも、この船には豊富にあります。よろしければメニューを」とジュウドウ着が言うが、なんだかロバートは気に入らないようにため息をついた。  今朝のビュッフェは、ハンバーガー・ポテトフライ・フライドチキン・ホットドッグ・ピザ……ファストフードみたいなメニュー。それにさまざまな肉や魚のフライとチーズ、ナッツやドライフルーツもたっぷりとあった。  ファストフードの設備があるようで、シェイク系や各種のドリンク、ソフトクリームも出してくれる。  標準的なメニューも提供してくれるけど、自分で選んで食べることもできる。いろいろなパンに、思い思いにサラダやチーズ、ビーフパティをはさんで、好きなように食べる。  ついているおもちゃの類に、子供たちだけでなくロバートやエラナも大喜びしている。  みんなをジムに連れて行って、バーベルを見るとみんな楽しそうに競い合い始めた。他の、特に騎士や武人たちは誰よりも強いところを見せようとしている。  ロバートはベンチプレスを見るなり、どんどんウェイトを増やさせて、いきなり五百ポンド上げた。三度目で動かず助けてもらっていた。サーセイの嬉しそうな顔ときたら。  そういうものじゃないんだけどね、これ。でもそれだけ持ち上げられるのってすごいけど。  女性陣も運動しようと誘ったけど、みんな全然やろうとしない。どうすればいいのかしら……なんで太らないんだろう。  エアロビクスとかをやるフロアで、刃を落とした剣でカルテンとスパーホークが練習を始め、それにジェイミーやアルサも加わる。  ジョフリーをジェイミーやバリスタンが教えようとしていたが、サーセイが止めた。  ロブとジョンが、隅でずっと激しく打ち合っている。ブランやアリアも入りたがってる。  わたしはそれを見ながら、ひたすらエアロバイクをこいでいた。  ロバートは、重い物を持ち上げるのに疲れたようで、エアロバイクやトレッドミルは、やりたいけど恥ずかしい、という感じで見ていた。 「思い切り身体を動かすと、すごく楽しいですよ」とロバートに言うと、サーセイに鉄板を貫きそうな殺意を向けられ、ロバートは肩をすくめた。 「狩りに行きたい。馬に乗って飛ばし、戦場で戦鎚を振り回したい」切なげにつぶやく。  昼、軽くニューヨークふうベーグルサンドを食べてから、セントラルパークをゆっくり散歩した。  ジュウドウ着の勧めで、ジョフリーがゲームコーナーに連れられていて、あれで少しは安心できるかもしれない。  みんな、いろいろと楽しみ疲れが出てるみたい。  浜辺を模したプールサイドとスパで夕食までゆっくりした。  今日の夕食はビュッフェ形式で、日本料理・中華料理・イタリアン・ファストフードメニューなどを自由な形でお召し上がりください、ときた。  そしてゴッサとジジがマイクに話し始めた。  二人とも、和風でぴしっと決めている。地味に見えるけど、すごい高級感がして迫力を増してる。 「みなさま、お楽しみいただいていますか」それだけ男が、すごく重い声で言う。  船客の歓声が上がった。  あとはジジが、 「さて、ただ見てるだけも楽しいですが、みんな自身で歌ったり踊ったりすれば、もっともっと楽しいですよ。もし歌や踊りなど、特技がある方はどうぞ飛び入りください。トークンを差し上げますし、高い評価を受けたらとってもたくさん差し上げますよ」と言った。  ローリが真っ先に出、歌い始める。  その素晴らしい声に、船客みんなが呆然と聞き入った。うん、自慢するだけのことはある。  でも、スパーホークやエダード、バリスタンらは、ゴッサという背が低く若い男の話をしている。 「恐ろしく力のある武人だな」 「はい。戦場で敵にしたくはありません」  ジェイミーが、いかにも勝負したい、という表情でゴッサを見ている。  今朝も、すっかりビュッフェ形式が定着した。少しずつ改良しながら、人気があるメニューを多くしているみたい。  パスタとピザ、フライドチキンや日本風の豚やエビの揚げ物、カレーライス、サラダがたっぷりあるのが嬉しい。ステーキやハンバーグもある。  お菓子も相変わらずおいしい。焼きたてのクッキーが何種類もあるし、他にもすごくたくさんのお菓子。キャンディーも豊富で取り放題。  めちゃくちゃ太りそう、またジム行かないと……  カラオケになっている部屋に案内されて、みんなアカペラで、好き勝手に自分たちの歌を歌っている。中にはとても上手な人もいる。  わたしの勧めで、わたしの故郷の曲をカラオケで演奏して歌うのもみんな覚えてきた。字が読めないので歌詞は適当に。  昼はイタリアンランチで、おいしいパスタとピザ、イタリアパン、イタリアワインを堪能した。  相変わらずサーセイ・バラシオンの姿はない。ジョフリーも見当たらなくなって、ほっとしている。ミアセラとトメンはジョンやタレンが面倒を見ているようだ。  子供たちにべったりのキャトリンと、どちらがいいのかしらね。  少しジムで汗を流して、他にも船内のあちこちを見て回った。  アメリカ軍の新式銃剣格闘訓練みたいに、柔らかい棒で打ち合うのに男性陣ははまっていた。特にロバートは誰彼なし。  ここに呼ばれている人には、ロバートやスパーホークなど、アメリカでもNHLでスターになれそうな化物じみた身体能力の持ち主がたくさんいる。バリスタンやアルサ、ジェイミーもフェンシングでオリンピック級だと思う。でも、客に混じったサクラの、顔立ちでジュウドウ着とわかる連中は、特に素手ではそれと同等かそれ以上。  女性陣は、ダンスの練習で少し身体を動かすことを覚え始めた。  夕食はソーセージ・ハム・ベーコン・チーズが何十種類も。それにドイツワインとビールの大品評会。もちろんジャガイモ料理もたくさんあったし、ドイツパンもいろいろおいしい。昔のルームメイトがドイツ系で、おいしいパンを焼いてくれたっけ。  朝食がオートミールや米粥など、粥中心だったことにみんな少し驚いた。でもごちそう責めに参った身体にはとても嬉しかった。本当はルームサービスでコンチネンタルにしようかと思ってたところ。  このクラスの客船は、いろいろな教室もやってるはず。それも見てみようかな、と回ってみた。  ロバートとかは逃げて、アクアシアターでもある深いプールへの飛び込みを、度胸比べとしてやってた。  女性のための教室もあるだろうし……  あちこちの部屋でいろいろなことをやっていて、客のほうが探り当てて口コミで行く、という形にしているらしい。コンピューター画面を見るのは無理だろうしね。  幾何学やダンス、ダイビングの教室とかが結構人気があるようだ。  カーラインが、小さい船で少し離れた岸に行って、釣りやスキューバダイビングを楽しんだ、と嬉しそうに言い、アリアも行きたがってキャトリンが止めた。  サンサとキャトリンは、刺繍の教室をのぞいてみたそうだ。  ランチはハンバーガーにした昼過ぎ、ムツキというジュウドウ着の美女に勧められた設備をのぞいてみた。一人一部屋案内され、入ったらベッドなどが取り除かれてがちがちに防音され、大きい高級そうなスピーカーと安楽椅子だけの部屋。  そして目の前は一面の海。  安楽椅子に座ってCDを選ぶと、ジュウドウ着がプレイヤーにセットしてくれて、すぐに素晴らしい音楽が流れてきた。見れば、プレイヤーとアンプもすごく立派で高価な代物だ。この音質も納得。  ジュウドウ着の一人がずっと控えていて、目線一つで菓子とジュース・紅茶・ホットココアなどを出してくれる。  話だと、別の部屋にはホームシアターもあるらしい、と聞いて近くの部屋に移って、大画面にサラウンドで大好きなアクションものを見た。  うーん、たまらないわね、こんな贅沢も。  そうそう、ずっとロバートはムツキを口説いてて、それでサーセイがムツキにすごい殺気を向けてる。彼女には夫がいて、船医の一人だって話も聞いたけどね、ロバートも厚かましい。他にも何人も口説きまくって、おだてられては激しい運動をしているのを見た。  サーセイがジェイミーを煽って、ジュウドウ着に挑戦させようとかしてたけど、バリスタンがうまく手綱を取ってた。格が違うのよ。  夜はイタリアン。種類豊富なパン・チーズ・ワインがすごく贅沢で、最高級のオリーブオイルとオレンジがよく活きていたし、シーフードも絶品だった。見た目がちょっと最高水準じゃないな、って気がしたけど、味は良かった。  ある日気がついたら、大型店の一つの中が、アメリカのスーパーの商品が生の食材以外そろってた。  その膨大な調味料や調理済み食品に、ロバートやリアムのような王さまも腰を抜かしてた。 「みなさま、王様でしょう?なぜ驚いてるんですか?」 「何十種ものスパイスなんて、夢みたこともございませんよ……ケッシュ帝国ならともかく、いやあちらでも絶対に考えることもできないでしょうよ」とアニタ。  へえ、王様でも、百種類のスパイスなんて持ってないのね。  それから、いろいろと王様たちの暮らしを聞いてみると、見方によってはアメリカの一般人のほうがよっぽど豊かな気がしてくる。第一テレビもゲームもないんだから。  最上階の展望台から、海と広い大陸を見ていた。そのとき、ちょっと大きい波に揺られて、その拍子に、見えてしまった。  岬の木々の隙間から。その向こうに、あれは……わたしが磨いていた、アメリカの原子力空母の、マスト。 「ウリュウ!」通信機に叫んだ。 「はい」 「ちょっと、こちらに来て。ここは、最上部展望台」 「あ……はい。少々お待ちください、五十、じゃなく、じゅうご分以内に」  通信から一瞬、しまったという雰囲気がした。  白衣の、過労気味の男が上がってきた。  わたしが、かすかに見えるマストを指差す。彼はため息をついた。 「はい、ニミッツ級原子力空母です」 「この前の健康診断で、なんだか覚えがある場所を歩いたと思ったら、その中だったわね」 「はい」 「どういうことなの?」 「……この客船の、母港として倉庫やスタッフの宿舎、病院の機能を果たすためです」  その言葉に、呆然とした。 「ジーザス!信じられない!」  ここが何なんだろう、と考えたことはほとんどなかった。 「すみません、急患があるので」と彼が飛び出す。 「今度、空母に連れていきなさいよ!」  後ろ姿に叫ぶと、それをタレンとアリアが聞いていたことに気がついた。 「くうぼ、って何?」アリアが聞いてくる。  しまった。どうしよう……サーセイよりキャトリンに殺されそうだけど、いいや。言っちゃえ。 「空を飛ぶ乗り物をたくさん乗せてる、これより大きな船よ」  子供たちの悲鳴が上がる。  今夜の料理は見た目がすごい。ヘリポートやセントラルガーデンなどの露天で、耐熱煉瓦でかまどを組んでコークスを積み、牛・豚・羊の半身枝肉の丸焼きがたくさん。みんな大喜びで群がっていた。  それから広いガーデンで、ロック音楽思い切り鳴らしてディスコ風にダンス大会。  おもいきり楽しんだ。  ジミーがわたしをダンスに誘い、踊りながら、「子供たちの間で、空を飛ぶ機械という噂が流れて、何人かが嘘つきと責められてるよ。まああいつはね」とささやいてきた。ジョフリーのことね。  子供たちの世話をすることが多いジミーやタレンも、ジョフリーには悩まされているらしい。 「ゲームとか、すごい残酷な本とかでやっと少し大人しくなったと思ったのに」  そういいながら、驚くほど優雅に踊ってくれる。こう見ると、ジミーやロブもまだ若いけど、十分いい男ね。  そんななか、突然アナウンス。 「明日、とんでもなく特別なアトラクションをかけて、いろいろなことをお客様で競い合いましょう。  温水競泳プールでの200mスイミング、バスケコートでのフリースロー、ロッククライミング、ランニングデッキでの1500走、そして観客投票での歌、大食い大会など、いろいろご参加ください!トークンも商品にします。そして各分野の優勝者のみなさん、とてつもない特別アトラクションをご用意しています。空を飛ぶ、という……本当か嘘か、それはやってみてのお楽しみ!」  みんなが夢中で叫び、激しくなった音楽にあわせて踊り狂う。  翌日、本当にあちこちでたくさんの人が泳いだり、いろいろやっていた。  わたしはフリースロー、みんな未経験者だから楽勝で優勝した。  そしてちょっと残念だったけど、チケットをアリアに譲った。  ただし、キャトリンとわたしが離陸までついていくことを条件にして、それにトークン五十万ドルの副賞はもらった。  ロッククライミングはブランもがんばってたけど、べつのところから来た山岳民・マーティン・ジミー・タレンの優勝争いにはついていけなかった。タレンがとんでもないオーバーハングを小指一本でぶらさがるパフォーマンスも決めて優勝。  ウェイトリフティングでロバートがなんとか優勝した。ウェア姿でカップを掲げる彼を改めて見ると、あの食べ過ぎにもかかわらず、この数日でかなり腹が凹み筋肉が盛り上がってる。  大会の表彰式ついでのランチを、セントラルパーク全体を食べ放題の屋台だらけにして船客ほぼ全員で祝う。  わたしとキャトリンが付き添い、アリアやタレン、ロバート、ローリを含む何人かが、健診のときと同じ窓をふさいだ船に乗せられた。  しばらく揺れに耐えると、そこは空母からテント様の布を大きく張り出し、外が見えないようにした舟艇発着場。  そう、二度目に乗ってみると、なぜ初回でわからなかったか、というぐらいわかる。  塗装などがろくにされていない廊下を、ジュウドウ着が案内して……そう、飛行甲板へ。  ただ、その乗員に、空母乗員なら誰でもわかる共通のサインを出しても、誰もわからないようだった。大丈夫かな?  うーん、この空気懐かしい!甲板に並ぶ、十機以上のA-6やF-18。わたしはF-14の最後のほう、といってもすごい後方勤務で、飛行甲板に上がったのなんて掃除や消火訓練、行事ぐらいだったけど。  みんな、呆然としてるなんてもんじゃなかった。地平線が見えるような、広大な甲板。そして近くで見ると巨大すぎる金属の巨鳥。  慣れない、身体を拘束する服を着るのを手伝ってあげる。ロバートは重量オーバーじゃないか、って気もするけど、ジョフリーに譲ってやればという言葉は断固拒否した。  そのジョフリーが、半ば腰を抜かし、自分に譲れ命令だとアリアに怒鳴りつけている。 「そのチケットはわたしがアリアに譲ったの。アリア以外が乗るなら、わたしが乗るわよ」というのに、キャトリンが「ジョフリーに譲ってください」と懇願するが無視する。  無論アリアは大喜びで、戦闘機に走ろうとするので襟髪をつかんだ。 「アリア。ここはとてつもなく危険な場よ。許可を得ない動きを、まばたき一つでもしたらチケットを破り捨て、この手であなたを海に放り込む。この高さからの落下だけで、海面でも死ねるわよ」  そういうと、アリアはものすごく真剣な目でうなずいた。  空母に乗った日に、軍曹に同じことを言われたものね……  キャトリンに殺されるかと思ったけど、正しいとはわかってくれたみたい。  パイロット全員に天候が説明され、乗客にも簡単な説明がある。最初に、アリアが後部座席に縛りつけられる。  巨大なカタパルトが一つずつ起動し、次々と艦載機が空に打ち出される!  ここで見るだけでも、すごく素敵な眺め。強烈なアフターバーナーの、燃料の匂い。カタパルトの蒸気。  圧倒的な熱気と、巨大な塊が高速で動く空気の感触。そして、最初の一機が宙に舞い上がり、高速で急上昇する。  甲板員も、少しわたしが知っているのとは違うけれど、安全のため必要なことはしっかりやっていた。ちゃんと、人はミスすることを前提にして、誰がミスしても誰かがフォローできるようにしている。  全機が離陸し、そしてあっという間に見えなくなる。  客船のすぐ上を低空で飛びすぎ、それから安全のために海沿いに三十分ほど飛んで、耐えられそうなら曲芸飛行もやって帰ってくるらしい。  女子トイレでキャトリンにつかまった。わたしは拳銃に手をかけた状態、ついているジュウドウ着がキャトリンを抑えている。 「あなたには、わからないんですか?家族全員が滅びるかどうかなんです、ジョフリーに恨まれたりしたら、彼は次代の国王なのですよ」  ジョフリーがいないことを確認して、銃を半ば抜いて、 「ムダよ。ジョフリーとサーセイはもう、スターク家全員を殺す気よ。理由なんてない、猫に近づいたネズミと同じ。あなたに愛国心があるなら、家族を守りたいなら、戻ったら一刻も早く、あの二人を暗殺することね。トメンやミアセラならまだましだから……あなたの国の人間じゃなくて、すごく幸運だと思ってる」 「それができたら苦労はしませんよ!エダードはロバートを、そして王室に仕えると誓っているんです。『家族、本分、名誉』……」  強烈な感情を、強烈な意思で抑えているのがわかる。わたしは思わず彼女を抱き寄せようとしたが、はねつけられた。  着艦も無事に済ませ、機体からパイロットが降り、乗客が助け降ろされる。そして機体は順番に場所を開け、巨大な飛行甲板に整列される。  乗せられた誰もが、夢でも見ているような表情でフラフラと歩いてきた。  これほどの幸せがこの世にあるなんて思えない、って顔にはっきり書いてある。  アリアの無事な顔を見たキャトリンが、泣きながら駆け寄り抱きしめた。  艦内に退避し、控え室でしばらく休んで帰って……そりゃもう船客みんな、体験談を聞きだそうと夢中だった。  それから、毎日のようにブラックジャックなども含めて、いろいろな競技会が開かれては皆が競い合うようになる。  わたしも時々、ウリュウらに呼ばれてこの客船や空母を案内され、間違っていることをしていないかチェックしてくれ、といわれた。最高ブランドの服や高額のトークンが報酬。  そっちのほうが楽しいし、それもやるようになる。  詳しく聞いて驚いた、経験がある人はいるけどほんの十数人で、あとは読み書きできるだけの素人がここまでやっているらしい。道理で、最初から違和感があったわけだ。  まだローティーンの天才美少女を中心とした技師団が、巨大で危険な原子炉と、客船の巨大ディーゼルエンジンを制御している。その子は英語もうまいし、あらゆる技術でもものすごい天才。  わたしは知っている。巨大豪華客船も、空母も、物だけでは一セントの価値もない。クルーという血が流れて、やっと動く。  とんでもない量の配管をチェックし、隅々まで清掃点検し、どちらも大きい町に匹敵する物流を通わせる。  高圧の空気や油圧、潤滑油、高温高熱の蒸気、高電圧の電気、汚水、清水、海水……数限りない、危険極まりない配管。  大きい町より多い人数を、統率する。働かせ、休ませ、楽しませ、けんかを仲裁し、罰し、賞する。  華やかな着ぐるみダンサーやブリッジクルー、また戦闘機のパイロット……その人たちを、どんなに多くの裏方が支え、指揮官が巨大組織を統制しているか、わたしは知っている。  それが、素人だとは思えないほどできている。清潔と安全に徹底的に配慮して、わたしが知る五倍の人数で、その人海戦術をきっちり統制して。  何人かの指揮官が、本当に有能。  最近、タレンやジミーが、彼らの部屋じゃないフロアから出くわして、一瞬後ろめたそうな表情をすることがある。  カルテンが、わたしのよく知っている顔で、舞踏室に戻ってきたのを見て、どういうことか直感した。  タレンをしめあげてやったら、あっさり吐いた。自分で探検して、噂を追っていくと、隠された部屋でポルノ上映室とかポルノ小説朗読会とかがある、って。 「ジョフリーは悪質に残酷なのにはまってる。それであいつ、最近おとなしいんだよ」 「それに、なんかすごく変な薬も使ってるらしい。正義の人が絶対許さないような」  そういわれてピンときて、ウリュウをしめあげた。 「ええ、薬物を需給してらっしゃいます。ただし、あなたがジュウドウ着と述べてる人たちとか、ノルムな客には出してません。邪悪な連中だけですよ。まあ、連中は帰ったら手に入れるられありません」  ……まともな客船の基準じゃ、絶対許されないことだけど…… 「アルトネーテブがあったら教えていらっしゃい」代案、ねえ。 「本当に、あーゆー連中だけ?」 「どんな形でもチャックください。麻薬検査キット、使う?」  さすがにそういわれると、どうしていいかわからなかった。とにかくジョフリーとサーセイが今おとなしいなら、あとはどうでもいいか……納得していいのかなあ。 「帰ったらFDAに報告しないといけないかな」と脅してみる。 「何度も言いました、戻ったらどうか当局に報告してください、誰も信じねーよ、と」  十日を過ぎると、すっかり生活のリズムができる。  朝起きて、目覚めのペリエを飲み、シャワーを浴びて軽く化粧をして、朝食。  疲れが残ってる朝はルームサービスでコンチネンタル、軽くシリアルで済ませて、ゆっくりストレッチする。  そうでなければビュッフェに向かい、多種多様な料理を楽しんで、午前はジムで運動したり温水プールで泳いだり、絵の教室に通ったりする。  または、ウリュウに頼まれて、この客船や空母の仕事をチェックすることもある。  空母の仕事、というのが勘でわかるのか、タレンとアリアが密航しようとする。誰かが見つけて、キッチンなど当たり障りのないところを見せてやることもある。  男たちはジムでウェイトを持ち上げて自慢しあったり、あちこちで開かれるいろいろな競技会に参加する。  時々、その優勝者が空の旅に招待される。  女性と女の子たちは料理や刺繍などの教室に通うか、音楽を聴いていることが多い。活動的な女の子にはエアロビクスや泳ぎ、幾何学を習う子もいる。  子供のためにもさまざまな教室がある。剣術が騎士の子供たちに、また絵も人気だ。  昼食を好きな店で済ませてから、エラナやカーラインを誘って、午後にどこに行くか選ぶ。  いろいろな店、映画、音楽……映画も、ホームシアターも昔を舞台にした作品しかないけど、それは仕方ないか。ここの人たちには、『風と共に去りぬ』だって十分SFだもの。  わたしが故郷で知っている作品を昔を舞台に翻案した劇、知っている曲を集めた短いミュージカルはたくさんある。  本当にこの船は、二十日では楽しみきれないぐらいいろいろなところがある。  夕食を巨大なレストランでゆっくり食べて、それから舞踏会になることもあるし、またはスパでゆっくりしたり、音楽を聴いたり、展望台から夜景を楽しんだりする。  バーで世界のあらゆる素晴らしい酒を楽しむこともある。ワインもすごいしブランデーやウィスキーも、そして日本のライスリキュールやスピリッツもたくさんある。  クラシックが流れている正統派のバーもあるし、生演奏はないけどジャズバーも、西部劇みたいでカジノを兼ねたバーボン専門バーもある。  カルテンやロバートは、すべての酒を二十日で試すという荒行に挑んでもいる。まあわたしも、せっかくただみたいな値段だし、片端から一口ずつ楽しんでいる。  時々の楽しみは、あちこちに出没するいろいろな屋台。ホットドッグやポップコーン、タコスのようにアメリカで見るのもあるし、日本のおでん、東南アジアの豚皮揚げなどもある。  男たちの間では、ポルノコミックが流通しているようで妻たちは文句を言っているが、その妻たちもやばい内容の映画を見てるんだからお互い様よ。  眠るときにも好きな音楽をつける。ウリュウに言って、音楽システムを高級機にしてもらった。  男と寝ることも、まあ時々ある。  わたしを殺したがっている奴もいるので、拳銃はトイレや風呂でも手放さない。眠る前には点検清掃し、時々空母の射撃訓練場を借りて練習させてもらう。  そこではいつも何十人という男女、子供たちまで、厳しくAKの練習を積んでいる。  また、演技・歌・ダンス・マジックも、若い男女を中心にいつも練習している。  楽しすぎる日々はあっという間だった。そう、この巨大客船の全部を見るにも、二十日は短すぎる。  二回行われた避難訓練も楽しいアトラクションのようだった。  わたしが追加健診に呼ばれて、初期のガンの内視鏡手術をしたのは幸運だった。  話していて特に楽しいのがティリオン。熱心に、ジュウドウ着たちと心身の障害者を助けるボランティアをし、時には賭博を楽しむ彼の話は、いつも笑い転げる。故郷の家族の話は悲しくなるけれど、それを酒と笑いにするのもうまい。  遊んで楽しいのがロバート。周囲も楽しくさせてくれる。  スパーホークとエレナ夫婦、リアム・アルサ・マーティンの兄弟もすごく素敵な人で、話もうまい。  最終日に、全員が大陸を見るほうの船周ランニングコースに、サンドウィッチつきで集められた。  こちらの人たちから聞いた、禁断大陸を解放したという若者が何か儀式を始めた。手作りの小さな桟橋を仕上げ、丸一日瞑想していた。  双眼鏡で見ているけど、見れば見るほど恐ろしいぐらいの美形ね。  彼が、空から飛んできた鎧かぶとを身につけると、あちこちから高速で船が押し寄せ、また次々と人々が瞬間移動してくる。  双眼鏡で見ると、見知ったジュウドウ着も何人かいる。  それから、目の前に飛行船が降りて大型ディスプレイをつけ、そこにもその儀式が生中継される。  すごかった。大統領選挙より迫力があった。  あっという間に万単位の、ものすごい人数がぴしっと整列し、歌いだす。  中心にいるのは、こちらの船でも女主人として、主にこちらの人々をもてなしていたローラ。その子たち。  ウリュウとジジも、そのすぐそばにいた。ゴッサは何万という人を、軍の優秀な将官のように統率していた。  そして演説が終わり、全員の、とんでもない音量で歌詞のない歌と共に、凄まじい光が沸き立つ。  考えることができなかった。ものすごい力を直接感じた。……そう、湾岸で戦艦ミズーリの艦砲射撃を、かなり近くで感じたときとか、レニエやエルバートに登頂したときとか、それに似てるけどそれ以上の衝撃だった。  いろいろな、空や海を覆いつくすような幻も見た。鯨を至近距離で見たような、でももっともっととんでもない。  湾岸で、空が煙に覆い尽くされたのを見たこともある。でももっとすごい、とんでもない化物をいくつも見た。  意識を失いそうなほど美しい女とか、とんでもなくおぞましい悪魔とか、とてつもない木とか……。  気がついたら、すべては終わっていた。新しい王の演説を聞き、解散が告げられる。  そして、『この世界の国々の人』はボートや魔法で帰り、残った『ほかの世界から』の人たちは、最後のパーティを始めた。  ありったけの酒とステーキ、ケーキが振舞われる。  これでお別れなんだ、というのを、わかりたくない。みんなが、大事な家族のような気がする。  頭のどこかはわかってる、非日常の家族を作るのが、クルーズ客船のコンセプトなんだ、と。  アリアが泣くのをガマンして抱きついてきた。「負けるんじゃないわよ」それだけ、何度も言った。  サンサはあくまで小さいレディらしく、そしてロブはもういっぱしの騎士だった。  一歩引っ込んで、タレンと肩を組んだジョンがいたずらな笑顔を見せた。  エダードが「わが子たちに、多くの喜びをくれて心から感謝しております」と真情あふれる言葉。キャトリンも、貞淑にあわせてくれる。  何度も対立したけど、彼女が心から子供たちを心配していたことはわかってる。  ロバートが激しく抱きしめて、サーセイとジョフリーの丁寧な挨拶の一言一言が「殺す」に聞こえた。  ロバート、それにエダード。あなたたちのことを考えたら、今ベルトにある拳銃でサーセイとジョフリーを殺したほうがいいんでしょうね。  バリスタンが、しっかりと握手してくれた。こちらも心からの敬礼を返す。  エラナとスパーホーク、カルテンに、かわるがわる抱きしめられる。タレンにアリアが抱きしめられ、別れを惜しんでいた。  アリアにとって、わたしとタレンは生まれて初めて、ありのままのすべてを認めてくれる存在。  リアムたちも、暖かい挨拶をしてくれる。 「お礼をいうのはこちらよ。あなたたちのおかげで、どんなに素敵な日々を過ごせたか」  涙ながらに、そう返す。  一人、また一人と、ヘリポートの中心にいる何人かの魔法使いが、船客を元の世界に返していく。  わたしは、一番最後だった。  ウリュウがいつのまにか船に戻って、わたしに手をかざして呪文を唱え始める。そうなると、まるっきり魔法使いだった。 「ねえ、もしあっちで、また会ったら」 「探しても無意味だ。もしかしたら、おれいない平行時空かもしれない」  それだけ彼が言って、ジジとともに呪文を続けると、いつしか意識がふっと失せた。  そろそろ引っ越そうと思っていた部屋。  意識を失った、ちょうどその時だった。時計の時刻も変わらない。  テレビも、もうろくに覚えていない、NBAの試合のその続きだった。 「あ……」しばらく呆然とする。  メイプルリーフ金貨が床に、何百枚もまとめられていた。  他は何もない。銃も、服も、宝石も。  みんなも。  そして、激しい吐き気とともに記憶が混じり合う。  思い出してしまった。引っ越そうとして、最近読み返した本。『氷と炎の歌』『エレニア記』……ほかにも、若い頃に読んだ『リフトウォー・サーガ』を含む、何冊ものファンタジー小説。  その作品の中の人たちと、一緒に食事し、飲み、運動し、愛し合い、憎み合った。  枕を口に押し当て絶叫した。思い出してしまった。ロバートの、スターク家のその後を……アリア!ロブ!エダード!キャトリン……  もう、わたしには小説の登場人物ではなかった。声、体の熱さ、口臭、笑顔、全部覚えている。  箱をひっくり返し、分厚い本を取り出して、素早く見る。どこも、買って読んだときと変わっていない。キャトリンは、戻った時に全部忘れたか、忠告を聞かなかったか……いや、夢だと思った。なぜかそうわかる。  何もできない。あの人たちの運命を変えることは、できない。  なんという、なんという残酷なことを……激しくウリュウを恨んだ。 「こんなので、取り返せないわよ!」  叫んで金貨を蹴り飛ばそうとして、その下の書類に気がついた。 『医者にこれを読ませてください』と、下手な英語で書かれている。  手術の記録ね。そう、命の恩人、なんだろう。もしこの健診と治療がなかったら、わたしは死んでいたかもしれない。  あの人たちの多くも。  そう、クルーズ客船……出会いと別れ。ひとときの家族……でも、でも!  一日泣いて、それからしばらく暇なときは思い出して泣いた。  時間が経つと思い出した……わたしは、確かに小さい頃ファンタジー小説を読んで、この人たちと一緒に遊びたいと思っていた。本当にその願いが叶ってしまった。あまり仲よくはならなかったけど、確かに小さい頃読んでた作品のキャラもいたから。  その願いを思い出したら、泣き笑いが止まらなかった。  ウリュウを探そうとしたけど、ちょっと探したぐらいでは見つからなかった。  空母さえ別の世界に持って行けて、さまざまな魔法を使える……危険人物なんてもんじゃない。でも、だからこそ当局に通報しても信じてもらえないのはわかる。  むしろ、当局をもう買収してても驚かない。もしかしたら、マーベルコミックのS.H.I.E.L.D.みたいな機関があるのかもしれない。だとしたら、わたしに教えてくれるはずもない、むしろ消されるだけ。  でも、彼にまた会いたい。思い出を語るためだけでも。  わたしにできることは、小説として書くことだけ。  もし彼が、これを読んでくれるなら……もしかしたら、あの白衣で、疲れて慌てた表情でやってきて、南アフリカ訛りの英語が聞けるかもしれない。  みんな、みんなは。本を開けば会える、心の中で生きてる、なんておためごかしは言わない。クルーズ客船の相客、ひととき楽しみ別れた。クリスマスカードも届かないけど……それだけ。それだけ。  だからこのアパートを引き払って、また客船で働こう。  ひととき、だからこそ、今このときをめいっぱい楽しんでもらう。その奉仕がクルーに、この上ない楽しみをくれるって、よく知ってるから。 ******  その二十日間、もっとも大変だったのはアロンドだったかもしれない。  最低限、小型無線機で隠れて連絡は取っていたが、彼は決して一度任せた部下の仕事に干渉しない。  小さい頃から両親に、習字として「指導者は絶対に任せた部下の仕事を、どうやるか指図するな。たとえおまえ自身のほうがずっとうまくても、その部下がバカなことをしていてもっと合理的なやり方を思いついても」などと毎日のように書かされた。  二度目のガライの墓で、ヒトラーの生涯をつぶさに経験し、マイクロマネジメントの害はいやというほど見た。  だが、すべてを任せてひたすら、食って寝て木を切り植え、本を読むだけの暮らしは辛かった。  木を切るのも、全力ではできない。彼が全力で斧を振ったら、せっかくの大陸が吹っ飛ぶだろう。  すべてを見られているのも、恥ずかしかった。  ひたすら、飲み騒ぐ人々を逆に見ながら、草や虫を観察することに集中し、瞑想した。  召喚された中には、とても厄介な人もいた。  といっても、気難しくサディストな貴族の扱いはキャスレアが慣れていた。  まず彼女が対応し、その対応をリレムが学んで、何人かにこつを伝えて相手が望むものを与えるようにした。 「バラシオン一家からの苦情が多い」とゴッサが、珍しく怒った様子で言う。 「ロバート・バラシオンは、売春がないことに驚いていましたが、自由恋愛をすればいいといわれれば大喜びでした」とムツキ。何度も口説かれて、げんなりした態度だが満更でもないようだ。 「その人がほしいものは?」とハーゴン。 「戦争で走り回って、女と肉と酒があればそれで満足、ですね」とキャスレア。 「彼の生活には、おれの故郷のように運動のための運動、というものはないんだな」と瓜生。 「われわれのように剣や馬、徒手武術を稽古したり、肉体労働を割り当てられることもないのですね。アレフガルドの文貴族が、体を動かすことはすべて軽蔑するように」とサデル。 「なら運動が、稽古が楽しいってわからせればいいのよ」とリレム。  全員がうなずき合う。 「さて、次は妻のサーセイ」ハーゴンが楽しそうに言う。 「危険な女じゃ」とキャスレアが真剣に言う。 「あたしやジニもエサになれない?」とリレム。自分が〈ルビーの涙〉だと自覚しているからこそ。邪悪な人間が自分に向ける目を知り、それを利用する経験を積んでいるから。そしてサーセイに、邪悪な視線を向けられているから。 「ジニは原子炉の整備に必要なんだ」と瓜生。 「ケエラにモシャスさせたら?」とサデルがいうが、キャスレアが首を振る。 「あれは、変身では無理じゃ。本人でなければ……では、リレム。わしについて、学んでみてくださらんか」  リレムがうなずく。 「あの女性は、何を求めているのでしょう?」と、ハーゴン。答えは持っていますよ、という笑みをはりつけて。 「言え」というゴッサにうなずく。 「まず、実の兄弟にして近衛騎士のジェイミー・ラニスターとの逢引ですな。それに、ロバートを強く憎んでいますが、同時に誇りも強すぎるのでロバートの誇りが傷つくのが、嬉しいと同時に許せない」 「見事じゃな。わしもそう見た。その上に、とてつもなく強い恐怖を常に覚えており、やらなきゃやられる子を守らなければ、が強い。陰謀をめぐらして先手を取っていなければ安心できない」とキャスレア。 「オサミツが生きていたら、さっさと暗殺してますね」とサデル。 「なら、陰謀を与えてやればいい……そう、相手がほしがるエサを。わざと噂を立ち聞きさせて、有能な人が必要なんです助けてください、ってね」とリレムが、無邪気な顔でいながら目にぞっとする翳りを浮かべる。  全員、静かにため息をつく。 「子供たちのうち、妹と弟は問題ない。でも長男が厄介です。人を拷問し処刑するのが大好き、自分が誰より偉くなければ気がすまない」と、ハーゴン。 「剣の稽古をさせてやれば?」とサデル。 「さあどうかな。あいつの、父親やバリスタンが見ていないところでの態度を見たら……負けて自分の弱さを思い知り、そして真剣に稽古して昨日の自分に勝っていく…それができるとは思えないわ」とムツキ。 「なら、いっそおれの世界の、ファミコンを、それからより高度なゲームを与えてやるといい。あれは暴力衝動を満足させ、全能感を満たすには最適だ」と瓜生。 「あの母親に承知させるのが難しいですが」とサデル。 「逢引させている間に、時間を見はからうのは女官には基本技術じゃよ」とキャスレアが笑う。 「それと、拷問シーンてんこもりの話、子供たちが隠れて読んでいるのを見せて、その輪に入れて……ついでに麻薬も与えてもいいわ。食わせてやればいいのよ、太って破裂するぐらい」と、リレムが、恨みをこめた冷たい目で言う。いきなり目をつけられてかなりひどい目に遭わされているのだ。  ただ一人瓜生の故郷から召喚された、メラニー・ジョーダンという女性の扱いも面倒だった。  確かに、彼女にはロト一族がつききりで蛇口をひねり体を洗ってやる必要はない。でも、ちょくちょく瓜生が呼び出され、空母の存在もばれてしまった。  だが、彼女が空母・客船の両方の経験があることを聞いてから、彼女に自分たちがやっていることが正しいか見てもらうことで、運営をよりよくすることはできた。  ジニは機関の扱いについて、またロムルは清掃や大型洗濯機の扱い、配管の扱いについても多くを学ぶことができた。  途中から、リレムがとんでもないことを思いついたことで、ロト一族の負担は一気に軽減された。  客を出演者にする。それだけ。  人の、舞台で注目を浴びたいという欲望は並大抵ではない。それを引き出し、一人一人に何かさせる……  それを録音し、後に楽譜に起こすことで、ガライ一族は膨大な音楽のレパートリーを後に増やした。  トークンを利用して競い合わせるのも、売春をしないかわり自由恋愛を認めるのも、凄まじい効果になった。  全員の健康診断も大変だった。娯楽だと思わせ、時には幻術で操って。  下手に幻術を使うと、魔法の素質がある者には気づかれる。ある程度以上の魔術師は召喚されていないということだが、念は入れた。  そして、想像以上に多いビタミン欠乏症・皮膚病と、体内のガンや悪質な寄生虫……  内視鏡手術が次々と行われ、最低限の入院でまた遊び場に送り出す。  ……さまざまなファンタジー作品で、ガンで死ぬ人間が異常に少ないのはこのときの徹底健診のおかげもある。  召喚された本人たちは夢だと思っているが。  短いようで長い二十日間、ロト一族の多くが働きぬいた。  昼夜三交替、八時間二人で細かく交替しながら働く。待機する側も書物を読み、反省事項を書きとめ、仮眠を取る。  そして睡眠時間はしっかりとって、反省と座学、情報交換、そして自分たちの娯楽。  客にまぎれて楽しみつつ客の立場からチェックすることもあるし、ルーラで大灯台の島に戻って竜馬を走らせることもあるし、また空母でゆっくりと映画を観たりジムで運動したりすることもある。  空母の巨大厨房も、常に動き続けている。  瓜生は常に、想像以上に膨大な資材を出し続けている。何万という人に払う報酬も膨大だ。  それぞれの故郷で、家畜や農地、幼児や老人、身障者や妊婦を守っている人々にも、アロンドたちは同じように報いている。  一線で、顔だけジジやジニ、ラファエラなど美人にモシャスして踊っているケエラよりも、何百という家畜の手入れを続けたダンカのほうが高く褒章されたことに、終わってからケエラはかなり文句を言っていた。  即位式の直後、ザハンに向かう旅の扉を中心に、さっそく天幕をいくつも作って仮の宮殿とした。  それから、ローレシア大陸と呼ぶことになった大陸の測量と開墾が始まった。  巨大な客船と空母が少し回航され、旅の扉近くに係留される。巨大な学校と病院、図書館になるし、空母は飛行甲板は高すぎるもののボートの発着・荷役設備は充実しており、埠頭としてさえも使える。  レストランや劇場、カジノは技術を維持するために最低限動かしている。また、レストランの一つは病院・学校の食堂として、瓜生の資材に頼らずこの地の産物で営まれることになった。  瓜生が出しまくった、故郷の日本語の売られている本すべてとかなりの洋書が、空母の巨大倉庫に整然と詰められる。  測量は瓜生もいるし、元々〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉ともに大地を測り水路水田を掘ることには熟達している。  さらにムーンブルクの穴掘りの後に、先に予言でデータを得ていた測量を徹底的にやったことで、何十人もの優秀な若者が現代的な道具を用いた測量に慣れた。  ガライの墓の試練で飛行機操縦経験がある者が、次々と大型飛行艇や艦載機で旅立ち、まず大陸全体を空撮する。空母が本来の仕事、飛行機の発着にもやっと使われたわけだ。  その広さには圧倒された。総面積はアフリカ大陸全土を上回り、その大半が十分な降水量のある温帯で、肥沃な森林が広がっている。  航空写真の精度を上げ、重ね合わせて補正する。そしてあちこちの山頂にパラシュート降下して三角点を設定し、レーザーレンジファインダーやレーザーを用いる精密分度器で測量する。  測量ついでに、地下資源や地上資源も調べる。気候も調べる。  測量そのものに、常時千人以上の人数を貼りつけている。  ローレシア城から十キロ程度は開発済みだったので、そこでもロト一族の先進的な農耕技術を導入する。  開発済みの地域に、多数の木を植えるのも欠かさない。ニセアカシア・アカシア・ヤマモモ・ハンノキなど空中窒素固定種と、桐・柳・ポプラ・ユーカリなど生長の早い樹種、柿・栗・クルミ・トネリコ・ハゼ・漆・コウゾ・桑、アブラマツなど有用樹種を混ぜる。  尻を拭くための葉が柔らかい常緑低木、手を消毒するための殺菌性の高い薬草も植える。  ロト一族の暮らしぶり……角のある巨大な竜馬と鉄の重機に、ザハンの人々は驚いた。  通行に便利な川沿いから一辺がキロメートル近い水田を、大型ショベルカーと測量技術を利用して一気に築く。万単位の人馬の食料を作り続ける、特に馬を爆発的に増やすためだ。  ザハンの人たちには、まず馬の力で大きな犂を引き、少人数で広い田畑を耕すことに慣れてもらう。  周辺で、植物や動物の分布も調べ始めた。  といっても、真新しいものはあまりない。ルビスが言ったように、数百年前に瓜生の故郷……地球全体から適当に取ってきて、適当にばらまいただけだったそうだ。  特にタフな、有害外来種に指定されるような植物ばかりが生き延び繁茂している。  その影では、奇妙なほど大型動物が少なく、大きなアリ・ナメクジ・ネズミが多少はびこり、竜がそれを食べているだけだ。恐竜だらけにも見える。  大灯台の島や、アレフガルドの北、雨のほこらに近い地域では、鉄鋼が大増産されている。  竜王が倒された直後からも、アレフガルドの再建のためにも鉄や木炭は増産されている。  木々を切り倒して木炭に焼き、鉄鉱石を掘って焼く。〈ロトの民〉からも余剰の人手、馬の力を出している。  これには、瓜生は余計な物資を出さない。彼が鋼を出すと、地場産業が衰えるからだ。  無論〈ロトの子孫〉のやること、環境保護は徹底している。  木の伐採も択伐、間引きや萌芽更新を活用している。その木材を、山奥に隠れたかまで炭に焼く。煙で大気を汚染しないよう、長い竹筒で煙を冷やす。  その木酢液も無駄にはしない、強力で用途の広い農薬だ。他にも農薬となる薬木はある。  また、ガスも分解して運んで簡単に組み立てられる炉で燃やし、石灰石を焼いて漆喰にするなど長時間熱を出し続ける必要がある作業に活用する。  同様に排煙の硫黄などをちゃんと回収するコークス炉も、大灯台の島やメルキド北方などに作られている。  規模の大きい乾留炉では大量のガスが出るので、それは風呂に使っている。ちなみに産業革命で、西洋の大都市を照らしたガス灯の燃料は石炭を焼いてコークスにする時に出たガスだ。  鉄鉱石も崖を崩したりはせず、露頭から深く縦坑を掘り下げ、確実に換気し、螺旋を描くアルキメデスポンプで水をかい出して掘り出している。  瓜生の故郷でもつい最近までは、鉱山労働は半年以内に死ぬような使い捨て重労働、家畜以下の奴隷が当然だが、ロト一族はそれも徹底的に安全と環境に配慮する。換気や睡眠、栄養はもちろんマスクすら義務づけているのだ。  いくらあっても足りない。ノコギリ、斧、クワ、シャベル、馬に引かせる重量犂……建築にも使う太い針金や釘。煙突。  アレフガルドの、特に地方では前から鉄の武器が普及し、特に南側のリムルダールやメルキドでは良質の鋼も作られていたが、それは木炭と鉄鉱石を混ぜフイゴで加熱するぐらいだった。  ペルポイでは豊富な石灰石が用いられ、ムーンペタでは石炭と黒鉛るつぼも使われている。  再建途上のベラヌールも、膨大な鉄やその他金属を必要としており、世界中どこも余力はあまりない。  大灯台の島ではコークスを高炉に積み、風力や水力を用いた強力なフイゴを使い、安定した温度管理がなされている。百年以上前、瓜生が大量の鋼を与えているが、それに頼ることなく自分たちでも技術を築き上げた。  腕のいい鍛冶も多く、何万もの人口全員に良質な鋼の武器や道具、農具を持たせることができている。  ジニが、その技術の一段上でどんなことができるか、瓜生の本も活かして研究を始めた。  いきなり転炉はできないが、今の技術が瓜生の世界の技術史のどの段にいるか、それもヨーロッパだけでなく中国やインドにも製鉄技術史があることも理解したうえで、もっとも合理的な次の段を模索する。  ある技術を実現するのに必要なのは何か、徹底的に調べる。その中で、瓜生の能力なしで実現できることは何か、模索する。  耐熱レンガの耐熱限界と、酸やアルカリ。現在使われる鉄鉱石や、木炭やコークスの化学的性質。それが、温度を上げるとどうなるか。  純酸素は、圧力でやるには鋼加工の精度が足りない。だがマヒャドをとことん強化すれば何とか大気を液化し、分留できる。  そんなことができるのは、アロンドとゾーマにモシャスした瓜生と、ジニが人間には不可能なほど細かく編んだ呪文をローレルが人間とは桁外れの魔力で発動させるのと、それぐらいだ。ちなみに瓜生/ゾーマは制御不能だ。そんなものに頼るわけにもいかない。  まず、そのために世界中から、土や鉱物のサンプルを集めて、耐熱レンガを研究し始める……  鉄以外の金属も増産されている。岩山の洞窟やガライの町は掘り尽くされているが、優れた技術を持つ〈ロトの子孫〉はアレフガルドだけでも多くの鉱山を見つけている。  ここは、モデルとなる小さな村を見てみよう。  ケエラの実家。そろそろ、サラカエル・ムツキ夫婦も開拓村から離れる準備を始めているので、ケエラも半ば実家に戻っている。  ケエラの両親ナレルとタルエラ、ナレルの妹、タルエラの母親。夫婦の間には竜王との戦いで死んだ長男、兄のイスサ、ケエラ、弟のタルエル。他にもタルエラの父親や姉など、何人か戦死者がいる。 〈ロトの民〉のダンカも瓜生の計らいで、同じ場所に送られている。彼の家族の何人かは元鬼ヶ島に残り、兄二人と姉一人、父親の弟も共にやってきた。それに竜馬が一人二頭ずつ、それに数種類の家畜と、何体かの人を襲わない魔物。  他にも〈ロトの民〉から、新婚夫婦と妻の兄の三人、教育が終わったばかりの若い独身女性が来た。  また、ザハンから来て耕していた、夫が最近死んだ女性とその小さい娘、神殿の私生児である十歳ぐらいの男の子がいる。  空から空撮しただけの谷間。水が豊富だということはわかるが、それ以外何もわからない。  といっても、ケエラはサラカエル・ムツキ夫婦と共に廃村の開拓をしていたので、何をするかはわかっている。  ナレルの妹とタルエラの母親も、別のところで開拓をしていた。  そして〈ロトの民〉は遊牧民の血を誇り、気軽に新生活を始められる。  ケエラの母親・祖母は鍛冶屋で風力ハンマーとフイゴ、鉄床なども持ってきている。  他にも役畜・乳・肉と多目的な大型で一本角のセロ、毛も得られる熊犬ゼド、鼻が長く木の葉も好むベルベ、飛べない鳥キーモアも連れてきている。  何より、〈ロトの民〉は一人二頭以上の竜馬を持っている。必ず雌馬もいて、瓜生の故郷の近代乳牛ぐらい乳も得られる。  また、竜馬と同時に変種のゼドやセロ、ラツカという家畜も連れているし、大灯台の島に来てからはアカアリも飼う。  遊牧種のゼドは足が速くスタミナがあり、知能が高い。セロはアレフガルドの品種より大型、こぶがなくヒツジを牛サイズにし、角をとんがり帽子にしたようだ。  ラツカは柴犬ぐらいの、カンガルーのように二本足ではねる家畜。小さい分繁殖や成長がとても早く、多数で群れをなす。山岳地帯や葛だらけの裾野に適応し、草を反芻する。毛がとても長く良質、脂身の多い肉もうまい。 〈ロトの子孫〉は隠れ住むため、山間地に細かな棚田を築いて、そこで労働力を集約した稲作をすることが多い。  それに対して、〈ロトの民〉は広い土地で大きな田畑を作り、馬に工夫された農機具をつけて、少人数で大規模な農耕をすることを好む。  特に二十年ほど前に、馬を用いて田植えと除草を大規模にやる方法ができ、実は大灯台の島・鬼ヶ島の両方で、人口の三割もあれば十分に耕せる状態になっていた。余剰人員は医学と製鉄法などの研究・教育、治水土木に回していたが、それでさらに進歩が進んでおり、一つ間違えれば鎖国に限界が来て社会が爆発するところだった。  指導層は、その危うさをよく理解していた。だからこそ、アロンドの到来は大いに喜ばれたのである。  瓜生は、さまざまな資料をアロンドたちに与えた。  地主制度の害。地主が力を持ってしまって中国で易姓革命が起き、また近代インドでは大量の餓死者が出たこと。フィリピンや中南米の農地改革の難しさ。  小規模自作農ばかりになったときの非効率。農協の功罪、出稼ぎを必須とする経済構造のゆがみ。  大規模すぎる農業による、きわめて大規模な表土喪失や化石地下水浪費、硝酸塩による水質汚染のリスク。  新しい大陸では、いろいろと試すこと、ただし全体としては大面積の馬力機械化と環境保護の両立を図ることを基本方針とした。  まず、詳細な測量と、植生を確認して特に有用な果樹・堅果樹を見つけ、巨木も印をつける。それらは切らない。  百年後も三百年級の巨木に不自由しないように、そこまで計画しておく。  まず、川に荒らされている洪水地域で、焼畑で短期の収穫を得、同時に洪水地域に強い木を植えて治水。  適当な斜面を利用して、棚田を作る。  上流部の水力を利用して水車を作る。  風車を建てる。  やることはたくさんある。  着いたのは、まずくねる流れの氾濫でできた広い河原、川の一方は急な斜面でもう一方はゆるやかな丘。  丘の斜面は、最近ニセアカシアがまとめて倒れたのか地滑りの跡がある。やや上から、反対側の下りはずっと深い森だ。  竹林も見える。  そしていくつか、バオバブや楠、セコイアスギの巨木が見える。 「家畜が逃げないよう、その辺を囲ってくる」  家畜を運んできたダンカの家族が、家畜たちをとりあえず囲えるように、野の一部を乗馬のまま回り、針金を木に張る。 「ああ、頼みます!」 「まずトイレ穴と、水。そして天幕」と、ケエラが荷物に飛びつき、彼女の親がにっこり笑った。  ケエラの一家はまず、いくつも天幕を張り、トイレ用の穴を掘った。  崩れた斜面が崖になっているところを見つけ、そこに横穴を掘って上から穴を開け、当座用の炉を作る。  ダンカたち〈ロトの民〉は、遊牧民の大天幕、ゲルを持ってきたので二時間もあれば住み家はできた。  多数の役畜に、さらに二人天秤棒+もっこで立っていられる限度の荷物を持ってのルーラ。膨大な量の資材を運び込んでいる。  一人一人に、大灯台の島で作られた鋼の斧・長柄鉈・ノコギリ・シャベル・ツルハシ・バール・大金槌・クサビ・手回しドリル・大型の握りはさみ・大小の鎌・剃刀兼用の切り出し。ソロバン。大量の厚布、防水布バケツ。ロープ。裁縫針と糸。ハンモックと毛布。 〈ロトの民〉は投槍棒と投槍、山刀のようにも使える刃ブーメラン、馬具、テントなど、金属椀・箸・スプーン・ナイフ・ハサミのセットも全員が持っている。  一家ごとに小型の二次燃焼があるストーブと、脚がついた鋳鉄鍋。二人で引く大型ノコギリ。手押し車。グループ全体にはフイゴと鉄床。  三十キロ袋をいくつもという大豆や小麦粉、味噌や漁醤、塩。  瓜生が出したものは、一人一人にノートとボールペン各一ダース、地図用紙、精密な六分儀、大型のペンチ、〈ロトの子孫〉が使い慣れているAK-74、操作が同じサイガ12ショットガンと弾薬。  グループ全体に対して、レーザー測距儀など測量器具も三セット、RPG-7とバレットM107対物ライフルも三挺ずつ支給されている。またかなりの量の高性能爆薬。気圧計・温度計・湿度計・風向風速計など。井戸やボーリングに使うパイプ状の刃。  大量のスパム缶と乾パン、マルチビタミンミネラル剤。抗生物質。  本と種。  瓜生の故郷での、昔の開拓とは違う。食い詰めた貧困層が乏しい装備で挑むのではなく、最初から豊かな状態で、しかも豊富な経験と支援がある状態で開拓を始める。  さらに軌道に乗ればだが、ネジで油を絞る道具、石臼、繊維を紡いだり皮をなめしたりするための道具・薬品、馬に引かせる犂の刃も、予約されている。  まず、家畜と人、資材が風雨をしのげる屋根を、と森のほうに向かったケエラの前に、竜が飛び出してきた。  大きさは巨大な竜馬とさして変わらない。しかし、その牙と口から吐かれる熱気は、強力な肉食獣のものだった。  ケエラはとっさに銃を手にするが、アロンドの叫びが耳によみがえる。  竜を殺すな。この地の竜は人や家畜を襲わない。 「み、みんな」必死で、駆けつけようとするダンカに、「もし、わたしがやられたら、仇はとって」  そう言って、銃から手を離し両手を挙げて、近づく。  食いちぎられる、焼き尽くされる覚悟をしながら。  口から奇妙な声が漏れていることも、知りながら。  遠くから激しい叫びが聞こえる。  至近距離で、竜と見つめあう。  ほんの数秒、だが永遠。竜は静かに、長い舌を出してケエラの鼻をなめた。 『や…く、そ…く』どこから出しているのかわからない、明らかに人のものではない声。 「やくそく」ケエラもくり返す。 『なかば』 「半ば以上、耕さない。竜は殺さない。だから、竜も人とその家畜を殺さない」 『しょう、ち…きり、がでたらルーラでとおく、にげよ』  その声と共に、恐ろしい敏捷さで竜は森に消えた。 「ケエラ!」ダンカが絶叫と共に竜馬を飛ばし、激しくケエラを抱きしめた。 「あ、ダ……ダンカぁ」と、ケエラは恐怖に泣きじゃくりながら抱きつき返していた。  そんなことがあり、仕事が山ほどあっても学校には行かなければならない。幸い、今はケエラがルーラを使える。  ザハンから来ていた人にとっては、それはもう驚きを通り越していた。 「魔法まで使える、読み書きもできるって、貴族さま?神官さま?」 「ロト一族の半分は魔法ぐらい使えるし、どこか悪くなきゃみんな読み書きできるわ。さ、これからはあなたもロト一族。なら、ちゃんと子供は学校で学ばせなきゃいけないの」  と言って、まだ体をきれいにすることすらおぼつかない子の手を強引に取り、もう一方の手でダンカの手を数度ためらってから握って、そして呪文を唱える。  出たのは王宮に近い、植林中の広場。また今までどおりの学校生活が始まる。クラスメートも多くは、新大陸で開拓を始めている。  学校にも、測量のデータを持って行き、それで地図を作り始めるのがソロバンの課題になる。  また、隣の子も同じように別のところを開拓し、測量しているので、データを交換して計算すれば検算にもなる。  学校から帰ったらすぐ、仕事はある。ちゃんと宿題や遊び、睡眠時間は確保されてはいるが。  ケエラがいた開拓村にあった、水車はまだできていない。測量してからだ。  だから洗濯も洗濯板を使う重労働になる。それ以前に、川を汚さないためには排水を捨てる小さい池だけでも掘らねばならない。  単にちょっと穴を掘るにも、二十頭まとめた竜馬の力はとてつもなく強力だ。 「あっちの斜面で、ニセアカシアが倒れてる。これなら木を切り倒さなくても材木をかなり得られるし、肥えて掘り返された地面もある」 「孟宗竹の竹林が広がってる。今ちょうどほとんど枯れているから、炭を焼けば来年一杯はもつし、少し交換もできるわね。それに当座の家なら、竹と土で壁を作ってもいいわ」 「この範囲の荒地を焼く。とりあえず春、ソバとモロコシ、サツマイモなら育つだろう」 「結構いい粘土があるよ」  次々と、〈ロトの民〉の竜馬の機動力と〈ロトの子孫〉の開墾経験で、広い地域が調査されていく。  粘土質の斜面を掘り、長い竹筒を挿して炭焼きを始める。  木を切り倒さなくても開ける荒地などで、とりあえず食えるだけの焼畑と、家畜の放牧場を定める。  家畜用に、広くちゃんとしきられた天幕を作る。  倒木を竜馬の力で引きずって持ってきて、腐りかけた樹皮を斧でそぎ落とし、無事な部分をクサビで割って当座の杭と柱を立てる。  二日。三日。毎日、次々にいろいろなことをする。  まず家畜を死なさないために、屋根というかシェルターと暖房を整える。  毎日のように、支援するダンカの実家、またローレシアのテント群までルーラで飛び、その都度いろいろと持ち帰ったりする。  最初のうちは風呂に入るのも実家や、ローレシア仮都、各地の学校に仮設された公衆浴場を使っている。  そしてテント内の、竹の底にたくさん穴を開けてゴム引き布袋につなげたシャワー。室内風呂ができるのはいつになるやら。  まだ寒い。ちょうど冬至に即位式、だがそれから二月は事後処理や簡易測量と土地割り当て、物資の準備と配布に費やされている。  どこを何に使うか、どこに住むか、という以前に、自分たちが与えられた土地がどんな形をしているかすらわからない。  また、測量や気候観測……天気・気温・気圧・湿度・降水量・風向風速を記録するだけ……も、きわめて重要な仕事だった。  広い大陸を理解し、将来の天気予報すら可能にするには、濃密な観測網が欠かせない。  土地を任された開墾者は、単に開墾して耕すだけでなく、その観測や測量という公務もあるのだ。  春。  野には花が咲き乱れ、竜馬やセロ、ラツカは嬉しそうに食っている。  かなりの範囲が掘り返され、ジャガイモ・サツマイモ・ソバなど主食になる作物、キャベツ・スウェーデンカブ・ビーツ・ニンジンなど人間も食べるし飼料にもなる野菜、そして針金に沿わせてニガウリ・カボチャ・トウガラシ・インゲンマメなどの野菜が次々と植えられている。  拓いた地はアレフガルドの再開拓とは違い、岩石や根株もそのままだ。それを除去し、排水するのも大仕事。一部は人手で耕し作物を育てながら、岩を砕き溝を掘る作業も進めている。ケエラが自慢げにイオを集中させ、岩を砕いていた。  まだテントで一つだけ、川から苦労して水を汲んでこなければならないが、大きい樽を作って焼け石を放り込む風呂はできた。  大灯台の島では、陶器製の五右衛門風呂もできているそうだが春の収穫全部と引き換えになるので、十分収穫が得られるようになってからとした。ケエラの親は文句を言っているが、ケエラは学校で風呂に入れるのでどうでもよかった。  また粘土質の斜面を掘ってサウナもできた。  将来の水田作りに向けて、測量した候補の土質を確かめたり大人も忙しく働いている。ザハンから通っていた夫婦は単純な農法しか知らなかったので、さまざまな先進農業技術を教えるのがまた大変だ。  瓜生由来の先進巣箱からミツバチが飛び立つ。多数の外せる巣枠があり、女王蜂を隔てる巣箱は、従来の蜂を事実上全滅させて蜜を取る養蜂とは収量が桁外れだ。  巣穴を作り草木の葉を引きこんでキノコを育てるアカアリも、ミツバチの巣箱と同じ発想で穴を掘り竹筒を多数束ねて埋めておけば、先進巣箱同様に女王蟻や働き手を殺さずに卵や幼虫を得ることができる。  子供たちも学校で学び、また耕したり家事を手伝ったりと忙しい。  時々出てきては苗を食べようとする大ネズミを、遠くからケエラがAK-74で仕留め、ダンカに自慢する。銃の扱いは、幼い頃から訓練されてきた〈ロトの子孫〉に一日の長がある。  その肉は食べて安全かどうか、今空母にある研究所では何人も研究に取り組んでいる。  時には大人も学校に行き、百年前に瓜生が〈上の世界〉から持ってきて、鉄化して氷漬けにしていた家畜の育て方を学んでいる。開墾に余裕ができたら、連れて行ってもっと増やすようにと指示されている。  ヒポタム。小型のカバに似た、騎乗もできる役畜。海・淡水の両方で生活でき、海藻や水草を好んで食べる。きわめて力が強く、厚く硬い皮と頑丈な頭蓋骨の突進は槍衾でも止められないし、牙も強力。水田で犂を引かせることもできる。  バロ。頑丈な役畜。悪路にも強く、木の皮や質の悪い草も食べられ頑健。たっぷり得られる乳はいいチーズになる。  ペッカー。オオクチバシの家畜種。キーモアより大きな飛べない鳥で、良質の卵を産み、知能が高く雑草と害虫だけを食べろ作物は食うな、としつけることができる。残飯や野菜クズも喜んで食うし、草だけでも育つ。  ギヘヤエフ。砂漠に適応した鼻の長い役畜。塩生植物も食べ、海水を飲むこともできる。トゲの多いアカシアのような厄介な植物も食べる。長い毛はとても質がいいし、乳もうまい。  ブホ。鼻のかわりに角が頭の前に突き出し、それで地面を掘り返す小さめの豚。人糞から草の根までなんでも食べる。肉もうまいし皮も良質だ。  ガベーメ。甲羅の柔らかい羊サイズのリクガメで、広葉樹針葉樹問わず木の葉を好んで食べる。卵も肉もうまい。変温動物なので、少ない飼料から多くの肉や卵を得ることができる。ロト一族は竜を殺すなといわれているが、トカゲはダメだがカメやヘビはいい、ということになっている。  ミラジ。羊同様に草を食べて最高品質の毛と肉を得られる角のあるウサギ。  どれも有用な家畜だ。  まだ開墾は始まったばかりなので、比較的扱いやすく、繁殖が早いので個体数も多いミラジやブホから飼育を始めている。  説明書のコピーはあってもなかなか難しいものがある。  住居作りは農作業に忙しくて後回しになっている。だが、冬の間にテントや炉をしっかりつくってあったし、〈ロトの子孫〉は開拓の経験があるのでそれほど難しくはない。二次燃焼で煙も焼くストーブは悪臭もなく、わずかな薪で十分暖房と調理が可能だ。  冬の間毎日、穴を掘ってテントを張り全員で共用トイレとしては埋めていた地域には何本も果樹を植える。  それ以降テント内で使い捨て容器を使い、風下の堆肥場に草とともに積む。  竹が豊富なので、使い捨てトイレが実に簡単だ。二節分の、一方がふさがった太い竹筒に出して、泥を塗った広い木の葉で蓋をすればいい。  アロンドが瓜生に頼らず銃と火薬を作ろうとしているので、石灰岩か貝が豊富に得られる地域では、尿は硝石を作るのに使うようにも言われている。  尿は別に、というのはケエラたちには慣れない事だったが、ケエラがごく小さいころ暮らしていたリムルダールの町では大小別容器だった。尿を発酵して得られるアンモニアには、洗浄など多様な用途があったのだ。  他の地域でもさまざまな工夫がある。  特にアロンドをはじめ〈ロトの子孫〉はアレフガルドに隠れ住むため、当地の習俗に合わせた陶器の便器を洗う仕事をしており、常に苦しい思いをしている。だからトイレに関する物をできるだけ、そのまま堆肥化できる使い捨てにするのが、彼らにとっては最も重要なことだ。  元々野山を走り回り、家では木の葉を刈り集めそのまま堆肥化して済ませる〈ロトの民〉も、巨大客船や空母が必要とする膨大な清掃作業に参っていた。  プレスを応用して木の型に、内張りで耐水になる広めの木の葉・外側から全体を固定する長い草の葉や質の悪い蔓草などと泥を入れて型押しすることで、編むよりはるかに早くなった。  木を薄く削ったり、粗悪な素材を用いて紙を作ったり、工夫する人たちがたくさんいる。  それらを交換する貨幣も厄介な問題だった。  貨幣というが、各国が発行しているゴールド貨は、経済の一部でしかない。貨幣経済以前である部分も多いのだ。ただし、そのような場では、勇者のような旅人は物を買ったり泊まったりすることが難しいので、そのような村には立ち寄らない。  瓜生も、塩や布、蜂蜜、銅のインゴット、鉄など、金銀宝石以外の交換価値のあるものを使って旅をすることも多くある。  アレフガルドもムーンブルクも一応ゴールド貨を発行しているが、その金貨としての品位は低い。金属精製技術も元々低い。 〈ロトの子孫〉の経済は、アレフガルドに依存している。彼らは徹底的に、アレフガルドに隠れ住みいろいろな部分で混じり、目立たないように暮らしているからだ。  アレフガルドでゴールド貨を手に入れることも難しくない。  確かにロト一族がよくやる上下水道・公衆便所関係の仕事は卑しい仕事とされるためまともな給料が与えられないが、肥料やアンモニア水は高く売れる。  また、港湾や測量、〈ロトの民〉とほぼ独占的に交易される竹綿や工芸品も膨大な儲けになる。  何より、世界樹。竜王戦役の初期に焼かれたリムルダール北の若木、そしてペルポイ半島沖の成木。どちらもロト一族以外には近づくこともできない。その産物はすべて何よりも貴重で高価な魔法薬となる。  農業をしている人たちも、技術水準の高さから常に豊かな生産量を得ることができ、それも自分たちで食べるだけでなく多くの富ともなった。  そして、必要さえあれば瓜生由来の、膨大なメイプルリーフ金貨と宝石がある。高品位のメイプルリーフ金貨は一枚で十ゴールド以上の価値がある。まして宝石の価値は桁外れだ。  さらに、竜王戦役では膨大な、高額に売れる魔物の遺体から得られる品も手に入れていた。  秘密で請け負う産婦人科医の仕事は、事実上無償でやるのを掟としていたが、それができるほど〈ロトの子孫〉は富んでいたのだ。  そして、隠れ住み、日本語という言葉と家系図、子の訓練など常に必要となる緻密な連絡でつながる彼らの間には、相互の信頼という貨幣以上のものがあった。  契約違反や犯罪行為をしたら、その事実は一族全員がすぐに知ることになり、誰も契約してくれない。それほどの恐怖はない。逆に、きちんと契約を守って試行錯誤すれば、失敗してもちゃんと助けが得られ、圧倒的に得になる。  貨幣は信頼であり、信頼がしっかりしていれば、それこそ紙に書かれたアラビア数字と指紋で十分取引はできていた。  独自貨幣を作ることは、必要なかった。  それだけでなく、ガライ一族の存在もある。瓜生が残した膨大なCDを聞いたガライ一族の吟遊詩人は、情報収集・操作と共に常に多額の収入を得ている。  大灯台の島・元鬼ヶ島と散らばる〈ロトの民〉は鎖国を守っており、少人数から徐々に増えていったのだが、瓜生が残した多くの本と高い教育による高い技術水準は、膨大な富を生み出していた。  馬や人を襲わない魔物を巧みに用い、瓜生から与えられた稲・アゾラ・大豆・キャッサバ・トウモロコシ・ピーナッツ・アルファルファ・ニセアカシアなど多くの作物を使って大量の食料と飼料を生み出していた。  また、ガライ一族と協力し姿を隠し偽って、各国で情報を集めながら交易をする人もいた。  陶磁器・武器や銅像など金属製品・蒸留酒・菓子・薬品など、高い価値のある品を作り外の世界で売り、ムーンブルクやペルポイ、ムーンペタなど多くの人々の鑑識眼で磨かれ、質を高めていった。  そして竹綿という、大灯台の島で発見された繊維。モウソウチクに似ているが肉薄、その内部には繊維が綿状に詰まっている。木綿同様の柔らかさでありながら、その二倍近い強度がある、極上の繊維だったのだ。  それは大灯台の島の特産品となり、世界のどこでも高価に売れる。  だが、〈ロトの民〉の経済には、重大な問題があった。需要不足だ。  購買力はある。彼らが本気で物を作り世界と交易すれば、それだけで世界中からゴールド貨を吸い込み、あらゆる宝物を買い占めることはできる。  生産力も、農業生産・鉄鋼生産ともにきわめて高い。  だが、全員に十分な鉄が行き渡り、三割もいれば馬に田植え機・稲刈り機を引かせて収穫できる彼らに、それ以上必要なものはなかった。  浪費には適していなかった。邸宅を作ろうにも土地は耕すほうが儲かるし、侵略や飾りの多い武装示威行為は厳しく禁じられているのだ。  貨幣も、外と中では価値が違いすぎた。  江戸時代の日本のような細かい工芸や短歌・歌舞・絵画などの美と、科学技術実験で浪費しようとしていたが、経済的なエネルギーは冗談抜きに爆発寸前だった。  そこに、アロンドがきた。膨大な力に、目的を与えた。  ムーンブルクの『穴掘り』。ベラヌール戦役。  どちらも、瓜生由来の膨大なメイプルリーフ金貨・日本語の書物・絹や合繊の美服・宝石などの報酬があった。  だがそれは、一時は大きな喜びになるが、長い目で見ればそれほどの豊かさを実感させてはくれなかった。隣より豊かになることはない。買う土地もない。  借金による奴隷化は防止されているし、邪悪な行為は禁じられているので、人を買って苦しめる楽しみもない。  それが不満になる、ちょうどいいタイミングで禁断大陸が解放され、広い土地を多くの人が得た。誰もが喜んだ。  だが、複雑な国の貨幣制度をどうするか、アロンドたちは苦慮していた。  はっきり言って、瓜生の存在そのものが経済を根底から破壊する特異点だ。  経済、特に貨幣は希少性を根本的な前提とする。だが、瓜生は無限に何でも出すことができる。  金銀など、瓜生がいつでもいくらでも出せると多くの人が知っていれば、何の価値もない。  特に大灯台の島で希少価値があったのは、竜馬。だが竜馬も、食糧生産が増せば簡単に増やせることは誰もがわかっている。  ゴールド貨をそのまま使ったら、すぐに膨大な生産力から貨幣不足になることが明白だった。  だが、紙幣は大胆すぎた。  一時的に採用されたのが、豪華客船で通貨として使われた、瓜生の世界のプラスチック製トークンである。  今は誰にも作れない。ただし、それも時間の問題だということはわかっている。  将来的には、次には紙幣を使って、その交換そのものを税にしようかなどとみんなで相談している。  嵐のように忙しい春から初夏。  あちこちにある竹林の膨大なタケノコ。食べ飽きているにもほどがあるが、毎日腹がはちきれるまで満腹できるのは幸せなのだろう。  儀式的に作られた、標準教室程度の狭い水田の田植えが忙しさのクライマックスだった。  木の葉を好む家畜は春の木の芽をおいしそうに食べていた。  時々大雨が降る暑い夏、猛然と雑草が伸び始め、キーモアが根こそぎ食べている。  ソバのように収穫の早い作物は収穫され、竹で間に合わせに作った千歯こきで脱穀される。竜馬やセロたちはご機嫌に牧草、脱穀後の藁、抜かれた雑草を食べている。  間引き菜が食卓に並び、弁当に詰められて学校で自慢しあっている。  食べられる野草もたくさんある。食卓に緑と香りを添え、干草として独特のにおいをあげている。  夏は物が腐るのも早いし、家畜の世話も大変だ。 「おいケエラ!」ダンカの厳しい声に、ケエラは驚いている。  普段穏やかで安定している、自分がどんなにからかったり刺激しても、こういう表情はしない彼だった。 「なによ」 「見ろ」と、ダンカはケエラが与えられている竜馬の尾を優しくなでてめくった。  ケエラは嫌悪感に叫びそうになった。尻にびっしりと、親指の頭ぐらい膨らんだダニ。 「ちゃんと見ろ!こいつら全部、つけてやろうか!」そう叫び、息をつくと、ダンカはついてきたスライムベスを抱き上げ、馬の尻に吸いつかせた。  あっというまにダニが溶け、血がスライムの透明な赤と明らかな違いをもって混じり、同じ色に吸収されていく。 「こっちもだ」と、たてがみの下も梳いてみせる。シラミがすきとられる。 「ろくに世話してないだろう、なんでそんなことができるんだよ!なんでそんなひどいことができるんだ!それに」  と、そっと脇腹をなで、傷跡を指で探って叫ぶ、 「鞭なんていらないんだ!いいか、〈ロトの民〉はとっくに、無視で躾けてる、〈ロトの子孫〉は家畜の扱いを知らねーのかよ!」 「いえ、違います。〈ロトの子孫〉もそれはちゃんと教えていますよ」と、ケエラの母親が引き継いだ。「私が言っておくわ。ごめんねえ、ダンカちゃん」 「ごめん、ちゃんとみてやれば、ごめんな。治してやるからな」と、ダンカが優しく馬を抱きしめ、ゴムの木でできた櫛であちこち検査を続ける。  母親に連れて行かれようとしたケエラが、爆発した。 「馬がそんなに好きなら、馬と結婚しなさいよ!」と蹴りつける。 「ケエラ!」  母親の叫びをよそに、反撃しようとしたダンカの拳が寸止めになった。 「もう、人を殴れないんだ。させないで!」そう、悲痛に絶叫して、息を整え、手を優雅に鋭く舞わせつつ踏み出し斧刃脚。一抱えある大石が三つに割れていた。  衝撃に顔を見合わせる母娘。よく知っている基本の一つだが、これほどの威力を出せる者は少ない。ダンカは肩を落とし、病みかけた竜馬にしがみつくように、細かく体中確認していた。 「当分、家畜さわるな」それだけ、馬に顔をうずめるように、ケエラを見ないでつぶやくように言った。  しばらく怒られていたケエラが、ダンカに謝れといわれて近づいた。 「助かるよ。助けてみせる」  ダンカはケエラを見もしないで言った。  ケエラはしばらく黙っていた。 「ちゃんと尻を見て、体中見ろ。できないなら家畜さわるな」 「汚いのよ、それに蹴るし」 「〈ロトの民〉は、家畜の尻は汚くない」  それに、ケンカする気で腕まくりしていたケエラの兄イスサがはっとなった。 「ケエラ。サラカエルさんの村では」 「セロはエヤエレエが見てて、家畜には触らせてもらえなかった」 「そうか、まだ学んでなかったんだな。慣れろ」そういって、「でも一発殴らせろ!大事な妹を泣かせたんだ」  ケエラが止めようとしたが、ダンカは黙って手を後ろに組んだ。 「でも、あの石見てよ。ダンカ、蹴り一発で」怯えるケエラ。イスサも割れた大石を見て、びくっとなったが、あえて頬を笑いにゆがめ、 「けじめだ、勇気とは打算なきものぉ!それに銃と魔法が使えるオレのほうが強いんだよ」と、殴った。だが明らかに腰が入っていない。 「汚い、って教えられることなのね」と、ダンカに駆け寄った彼の姉が、イスサをにらんで言う。 「そうなんだな。あいつらなんて」……と、遠くで手鼻をかみ、それをなめている、ザハンから通って耕していた子を見る。 「学校じゃ、なめずに手を洗えばいい、伝染病を防ぐことが目的なんだ、差別をするな、って言ってた」と、ケエラ。 「差別をしちゃったら、私たち〈ロトの民〉は存在意義を失うわ。差別され虐殺されそうになったのを、勇者ロト様に救われた民なんですから」と、ダンカの姉。 「ごーはーん!」と、ケエラの小さい妹の大声が聞こえる。  とろとろと家畜たちを見ていたダンカを、姉が急かす。 「ケエラちゃんのことも、馬みたいにやさしく扱ってやりなさいよこのおたんちん」と軽く小突く。  そしてケエラを、「人の伝染病と同じで、一匹が冒されたら、全員が危なくなるの。差別はしない、正しく伝染病と戦うのが、〈ロトの民〉なのよ。それは〈ロトの子孫〉だって同じでしょう?」と優しく諭した。  夏至の慰霊祭が過ぎ、刈り入れた土地は即座に豆をまいて覆う。余裕がなければアルファルファやクローバーでも。そこらの雑草の種でも。  窒素を切らせるな、土地を露出させて表土を失うな、それは小さい頃から学校で学んでいることだ。  だが、それがわからない人々も加わった。  ザハンから通っていた人々は異質だった。小さい頃から栄養失調・ビタミンやタンパク質などの欠乏症、乳幼児・妊産婦の高い死亡率が当然、ロト一族とは身長も歯も何もかもが違う。  だが、〈ロトの子孫〉はアレフガルドの難民に混じって開墾をしており、外の人との接触には慣れている。  またザハンから通っていた人がいるからこそ、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉が馴染みやすくなっていたのもある。  その一人一人も血の通った人であり、新しい運命を受け入れて何とか生きようとしている。逆に、従順に従う態度が強すぎることが、ロトの民やロトの子孫には戸惑いになる。  そして、いろいろな人がいる。  ザハンから通っていた子の一人、ディウバラ。八歳の男子、共通語の読み書きもできず、うまく話せず泣き虫で、体力も乏しい子だが、いつも客船の暮らしで聞いたクラシック音楽ばかり歌詞のない歌で歌い、ガラスビンを吹いている。  そして、暇さえあればバイオリンを弾く真似ばかりしている。  学校でも、歌舞音曲の授業だけ凄まじい熱意を傾け、ガライ一族が使うしザハンの宗教儀式にも使うハープの一種だけは真剣に演奏している。  だが、それを木とそこらの樹皮繊維で弓を作り、バイオリンのように弾こうとして怒られてばかりいる。  ソロバンなどの授業をすっぽかして音楽の授業に混じろうとし、怒られることもある。  そんな彼に、ケエラは奇妙な感じを抱いていた。  共感すると同時に、なぜか腹が立つのだ。  ダンカは、〈ロトの民〉は、とにかくどんな人でも何とか包摂したい、というだけだ。  次々と野菜が実り、毎日飽きるほど食べて、漬物にもする。  学校からルーラで帰ると、その手には新聞が握られていることも多くなった。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉ともに、製紙と印刷にはかなり力を入れている。コウゾ・ミツマタ・ケナフなども植えているし、他にも紙になるような繊維を取れる植物はある。鬼ヶ島で得られるサトウキビの絞りかすも、竹も紙になる。  少なくとも江戸時代の日本程度の生産力と、主に石版や素焼き活字などが用いられていた。  日本語の特性上活版印刷はやや遅れている。瓜生とジニは、むしろ活版印刷は〈下の世界〉〈上の世界〉の共通語に用い、日本語は活版印刷を蛙飛びしてDTPに行ったほうがいいとも考えている。  王室の動静、結婚や死亡の記事、各地の天気、アロンド・ローラ・瓜生の談話……  霧が出た。  それは、普段の霧とは全く違った。  白い塊が押し寄せてくるようだった。  竜の警告は他の開拓村にもあった。また、ザハンから通って耕していた人たちも、霧の恐怖を語り伝えていた。とにかく霧に呑まれたら誰も助からない、と。  避難訓練は徹底していた。  家畜は担げる最低限だけは担ぎ、それ以外は斜面に掘った仮倉庫に隠し、一度来てくれたサデルがマホカトールで封じた扉を閉めて、人は全員大灯台の島にルーラ。  全員を探し当て、強引にひっくくるのに、ダンカは最後まで竜馬で走り回った。姿を見なかったケエラを探してギリギリまで走り回り、そして姉に捕まってキメラの翼で跳ばされたが、泣きわめいていた。  後にケエラは学校で居残りをしていたことが判明したが……  霧が迫る、まだゲルでしかないローレシア王宮には、少人数だけが残っていた。  アロンド、アダン、瓜生、竜女、ジジ、サデルの六人。  アロンドとアダン、竜女の三人が生身。  瓜生は一人で射撃・操縦を兼ねられるよう、遠隔砲塔に改装したM2ブラッドレー歩兵戦闘車に乗っている。ジジとサデルも、ハッチからいつでも飛び出せるよう身構えている。  サデルの手には隼の剣とAK-74。威力より使い慣れていること、軽さを優先した。  加えて、戦車の操縦に優れ、全員ルーラは使えるロト一族が十四人。メルカバと87式自走高射機関砲が二両ずつ。  ゴールキーパー対空システムが三つ、王宮周辺の地盤が頑丈な高台をコンクリートで固めて設置され、膨大な弾薬を抱え瓜生のノートパソコンにつながっている。  それだけで、城壁は不要だ。モンゴル帝国全軍やダースドラゴン百匹が攻めてきても全滅させられる。 「警告は受けているが、何が来るかはわからない」静かにアロンドが言う。 「腹ごしらえはすんでるわよ」とジジ。  強力な魔法使いたちが、ミナカトールを張って備える。  霧が来た。白い闇。  それはわかっていた。瓜生が赤外線に切り替える。 「レーダーは?」と、瓜生が対空自走砲と無線連絡し、目をノートパソコンの画面に近づけてゴールキーパーのレーダー情報を確認する。 「ロトの掟は忘れるなよ。先制攻撃はしない」というアロンドに、ジジが「いつもうるさいんだから」と笑い飛ばす。 「霧そのものは、中性。普通の水微粒子だな」と、瓜生が車外に用意した分析機器のデータを遠隔で見る。 「でも、魔法がかかってる。普通ならこんな霧、遠くまでは出ないけど、ルビスがかけたこの大陸の結界全体に広がってる」と、ジジが言い添える。 「む?巨大だな」と、レーダーを見た瓜生がいぶかる。 「どれぐらい?」聞くジジに、〈上の世界〉の言葉で答える。 「まさかあ」 「高さだけで500mか……故障じゃないだろうな」と、瓜生は日本語で言い直し、別のレーダーも確認する。 「こ、これ」サデルの、震え声。 「無理せず戻れ。今回は小手調べだ、死なないことが最優先」とアロンド。すでに指揮官の声だ。  くん、と一瞬アダンが鼻を空に向け、「散れ!」と絶叫した。  同時に、対空レーダーがそれを認識し、瓜生が戦車隊に叫ぶ。  竜女が巨大なダースドラゴンに戻った。  一気に、戦車と巨竜が時速五十キロで四方にダッシュする。  そこに、100mはある塊が高速で落下した。  アロンドだけを狙って。  霧の中、かすかな光。音は霧に吸収されている。  対空レーダーが至近距離に、巨大な姿を浮かび上がらせている。20mはある何かから伸びた何かが、一瞬でメルカバの一台をつかまえ、軽々とひっくり返した。  乗員四人が後方ハッチから脱出し、ルーラで逃げようとしたが、一人が寸前に深く切られた。  くずおれそうになるのを、人の姿に戻った竜女がバシルーラで逃がした。無論それは霧の中、他の者には何一つ見えはしない。  そして竜女を、四方八方から見えない刃が襲う。  何か、何かとしか言いようがない。対NBC水準で密封し、カメラは霧しか見えない。  ほんの一瞬、無数のトゲが浮いた棒が見えることはある。  ほんのわずかに、黒い影が高速で見える。  ケンタウロスのような姿の影が、駆け巡っている。変形したアダンにまたがったアロンドだ。  乱射していた対空戦車の一台から激しい悲鳴。 「退避しろ!」と瓜生が叫ぶ。 「どこ?」と聞くジジを抱えてハッチを空け、「ルーラで逃げろ」とサデルに命ずる。  サデルは迷いなく従った。  そして両手剣を手に出した瓜生は一瞬消えて、対空戦車の脇に立つと切れぬものなき剣をふるって、何かに穴を開けられた装甲を切り破り、乗員を露出させる。  全身を何か小さい虫に食われて絶叫する乗員が三人見え、ジジが呪文を唱えると三人が一瞬表情を消し、ルーラを唱えて消える。 「おまえも、危険だ」と瓜生が言うが、ジジがにっこり笑ってブラッドレーのところにルーラで戻る。  あとは目に見えていないが、魔法でわかった。瓜生が得意とする、ドラゴラムの応用でブラッドレーと融合したのだ。  瓜生も即座にメルカバをもう一両出し、融合する。ここで生身でいるのは危険すぎる。  竜の魂が機械と融合し、あらゆる通信をそのまま受け取る。それが、三台のゴールキーパーが伝える、超高速の敵の姿をつかみ通信で発砲を命じ、同時に炎を吐き120mm砲弾を連射した。  ブラッドレーに変じていたジジから、他の普通人が乗っていた戦車の乗員を助け出し、ルーラさせたと連絡。そしてブラッドレーが、ものすごい速度で空に持ち上げられ破壊されるデータが入った。  だが、瓜生は動じない。もう彼の魂は竜だ、戦いしか頭にはない。鉄と炎、双方を爪にして。  アダンとアロンドは、軽い失望を感じていた。  確かに、ロンダルキアよりも数段強く厄介な魔物ばかり。何十メートルもある、鋭い毒牙を秘めた触手。高速で飛び交い触れれば何でも切断する糸。強靭なアゴでアルミ装甲を食い破った、昆虫とは全く違う数センチの虫。強酸を吐いて鉄装甲も溶かす空飛ぶ七本腕のヒトデ。そして、鋼でできた戦車より大きな体を何本もの脚で支え、凄まじい威力の鉄球を叩きつける何か。  どれも、二人には一指も触れられない。  近づけば高速の小虫も、アダンの髪が変じた毒蛇に食われる。金属より硬い塊が、雷光を帯びた一撃で粉砕される。巨大な獣が破壊の剣に斬られ、溶けるように自壊する。  ダースドラゴンは苦戦していた。鋼に匹敵する鱗も頑丈なアゴを持つ小虫に食い破られ、内部から食い荒らされそうになる。その背に乗っていたジジがそれを確実に焼き焦がすが、逆にそれも痛い。  痛みが怒りになり、理性を失いそうになるのを押しとどめ、高速で移動することで標的にならないようにする。  少なくとも、巨大なイカのようなものに濃厚な炎を叩きつけ、食いちぎりあっていれば、余計なことは考えなくていい。  瓜生が融合したメルカバも、飛ぶ怪物の吐く強酸に分厚い装甲を溶かされ、苦しみにうめいていた。  限界が来ればメルカバを乗り捨て、遠距離に移動して新しい戦車を出してまた融合するが、それも数分持たない。  戦いが続いていた中、アロンドたちは霧が来た西側に向けて移動していた。  無論、ルーラ寸前まで霧を見ていた各地の開拓者や測量員が、今ルーラで退避した大灯台の島で霧のマッピングをしている。  無線通信でそれを聞いていた瓜生/竜/メルカバMk4が、照明弾を発砲し、それは霧を隔ててもかすかに見えた。  そして、引いていく霧を追ってアロンドたちは移動した。  アロンド以外は、一度霧から離れて空母に戻り、ベホマをかけてもらってから、艦載機の後部座席に乗って。  大陸からかなり離れていた空母の飛行甲板では、すでにF-18が十機スタンバイしていた。  増槽を限界まで積んだスーパーホーネットたちが次々と、ガライの墓で経験済みのパイロットに操縦され飛び立ち、霧に入らないように霧を、アロンドを追う。  アロンドの電波ビーコンを追って広い大陸を横切り、増槽を一つ、また一つ捨てる。  その眼下、突然霧が消えた。  そして、アロンドと馬の姿をとったアダンは、大陸の半分を横切ったところで、瞬時に霧が消えたのに苦笑していた。  ただ、たまたま彼が見つけたものがある……旅の扉だ。  調べてみると、それはベラヌール北の、封じられていた扉に通じていた。  二人の横で、モシャスで変じていた怪物から元の姿に戻ったジジが、しれっと笑っていた。  死者は三人。正確には行方不明だが、わずかな血痕が残るだけで絶望とされた。逃げ損ねた開拓民だ。  戦車兵の多くは全身を小虫に食い破られたり、体半分を奇妙な口に食いちぎられたり、戦車を激しく叩かれて衝撃で体が潰れたりして、五人は世界樹の葉で増強したザオリクで復活させる必要があった。  奇妙にも、負傷者の体内を食っていた虫は、霧の外に出ると瞬時に死んだようだ。  家畜の被害は多かった。担いでルーラしたり、マホカトールで封じた穴の中にいたのは無事だったが、その暇がなかった開拓村も多い。  アロンドたちが竜と話すと、大陸を闊歩する竜たちも、実は霧の時には魔法で魔の島や未開の地に逃げていたという。  いくら殺されても瞬時に増殖できるスライム・グンタイアリ・大ネズミ・大ナメクジの類ぐらいしか、この大陸では生きていけないのだ。  植物は、草木も貯蔵されていた作物も無事だった。  霧が晴れれば、大陸は嘘のように豊穣を取り戻す。  動くもののほとんどが殺されても、巨大なナメクジとネズミ、スライムの類は変わらずに出る。竜たちも森に帰ってきた。  そして緑は濃くなり、果樹も花をつける。栗の蜂蜜は渋みはあるが栄養豊富だ。作物もぐんぐん伸びていく。  野には圧倒的な強さで葛がはびこり、伸びるそばから巨大なナメクジと取り合うように家畜たちが食べる。  そしてナメクジは斧で切り刻んでゼドにやると、喜んで食う。  葛からは繊維も得られ、つるのまま縄がわりにもなり、若い芽は野菜にもなり、太い根株からはデンプンも取れる。  ある夜、見回っていたケエラが絶叫し、ダンカが竜馬で駆けつけてきた。  牝馬にドラゴンがのしかかっている。 「援護して!」叫んで銃を構えるケエラ、その銃口の前にダンカがたちはだかった。 「何をするんだ、竜を」 「ば、ばかっ、だって、馬を、馬を」最近、やっと蹴られず馬の乳を搾れるようになり、そしてチーズ作りを習っているケエラは必死だった。 「あれは、子作りしてるだけだよ」というダンカは、なぜか真っ赤になって言葉もつっかえていた。 「え」ケエラが一瞬後に気づいて、思わずダンカをひっぱたいた。  ダンカはちょっと戸惑ったように痛む頬を押さえた。  そこにまた、ケエラとダンカの兄姉が飛んできて、またひと騒動あったのは言うまでもない。  毎日が暑い。塩と大量の湯冷ましが欠かせない。  塩は、ルプガナに良質の岩塩鉱がある。ペルポイ近くからロンダルキア山塊のかなり奥まで駆ける遊牧民も、いくつか秘密の岩塩鉱を知っている。  また、大灯台の島でもありあまる石炭資源で塩田から作られていた。  最近、測量のついでに大陸中央部の乾燥地帯に、素晴らしい岩塩の山が見つかった。  野菜が次々に収穫され、豆は乾燥されたり納豆にされたりする。  少しでも時間ができたら、測量し開墾するのも続いている。  農業にも忙しかったが、それでも中規模の水田の候補地は見出したし、春の倍近い土地がジャガイモ畑になっている。  セロや竜馬、ベルベ、新しく加わったバロが出す大量の乳は、二十人が生で飲みきれる量ではない。  かといってローレシアまで背負っていくのも無理な量だ。  たくさんの家畜の乳を毎日搾る作業ももちろん大変だ。 〈ロトの民〉は、発酵乳製品に熟達している。再開墾を経験した〈ロトの子孫〉もある程度できる。  馬乳の一部は馬乳酒として、季節にもよるが主食ですらある。ヨーグルトも野菜とともによく食べられる。  運んで売り物になるのはバターとチーズだ。  バターは乳から分離したクリームを攪拌すればいい。本来なら重労働だが、朝の乗馬のついでに揺らせばいい。羽根車を工夫してセロにちょっと一仕事させても楽だし、夏の終わりに立てた風車を使えばもっと楽だ。  そしてチーズ。本来は仔の第四胃の酵素を使うが、抗生物質を作るのも得意な〈ロトの民〉はカビレンネットをもう完成させていたし、温度計も使いこなしている。  すべての器材を煮沸消毒してから作業をはじめ、乳酸発酵させてから固めることで、より安全確実にできる。  その技術に、不潔で原始的なやり方しか知らなかったザハンの人は驚嘆していた。  だが、ザハンの人々がローレシアでセロを育て作っていた乳製品にも価値のある微生物は多くあり、それらは空母でしっかりと保存され、研究されている。  バターやチーズ、ヨーグルトを作るときには、かならず水気が余る。ヨーグルトなら乳清、バターならバターミルク、チーズならホエーと呼ばれる。どれも豊富で栄養価は高いので子供のドリンクがわりにもなる。家畜に与えてもいい。  長期保存のため、バターもチーズもかなり多めに塩を入れる。チーズが成功しているかどうかわかるのは、斜面に掘り下げた穴倉に入れて、二年ぐらいしてからだ。 〈ロトの子孫〉はヒャド系呪文が使える者も多くいるので、実は地下室を植物で断熱し氷で埋めれば、かなりの冷蔵冷凍は可能だ。  だから腐敗の早い内臓肉・青魚・カニやイカなども冷凍保存し無駄なく活用できる。  そして、ついに稲やトウモロコシ、ジャガイモやサツマイモなどの収穫。  馬につける機械を使えず手でやる重労働に、〈ロトの民〉は悲鳴を上げた。  特に面倒なのは、ある程度分けてはいるが、水田の四分の一ほどは田ヒエや田芋を植えていることだ。  最悪の場合でも全滅しないように、常に多様な雑穀を田畑に育てておく。だからこそ、ロト一族は飢えを知らない。だが、収穫となるととてつもなく面倒くさい。  収穫が終わっても、それで仕事が終わるわけではない。狭い水田だが、半ば練習として、即座にレンゲ草・ライ麦・ソラマメを混ぜて撒く。  畑も収穫してすぐにライ麦を撒き、鳥が来たらAK-74やサイガ12、メラで撃ち落としおかずにする。まずいのはゼドのごちそうになり、うまいのは人が食べる。  そしてケール・ライ麦などの冬も家畜の飼料になる作物は作業が続く。  収穫残りの株や藁、つるなどを家畜はおいしそうに食べている。ただし稲藁は用途が広いし、サツマイモの茎や葉は野菜がわりにもする。  だが、それでも収穫の開放感と、自分達で作った新物を食べ、祝い、祈る小さな祭りは楽しかった。そこにはドラゴンも来て、家畜は約束だからと食わなかったが魚は喜んで食い、酒を飲んだ。  そんな日々の中も、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉ともに、日々戦闘訓練も欠かさない。  子供たちは学校で剣術・徒手共通の基礎と激しい運動に加え、銃の訓練もやるようになった。 〈ロトの子孫〉は元々教わっているが、竜王が倒れて後は瓜生の存在もあり、〈ロトの民〉にも銃が支給され、扱いを学ぶようになった。大人も時々学校に通って銃の扱いを学ぶのだ。  小さな開拓村でも、わずかでも時間があれば全員で竜馬に乗り、銃を背に走り腐った木を皆で撃ち、銃の手入れをする。  呪文と銃、また騎馬の機動性と銃の威力を合わせることも練習する。馬が銃声に驚かないようにするにはかなり訓練が必要で、最初は〈ロトの民〉でも狂奔した馬に苦労していた。  逆に〈ロトの民〉は〈ロトの子孫〉に乗馬や家畜の扱いを教えていた。  さまざまな仮想敵を相手に村全員で訓練するほど、一体感を感じることもない。無論、ザハンの人たちは馬に乗ること自体が大変で、徐々に学んでいる。  訓練が終わった後、〈ロトの子孫〉が竜王軍の魔物たちとの戦いを語ることも多くあり、〈ロトの民〉もザハンの人たちも興味深そうに聞いている。  巨大客船や空母で、万単位の人間が避難することを訓練したこともいい経験となった。霧から素早く逃れられたのはそのためでもある。  収穫が一段落し、寒さが増す。そうなると酒がほしくなる。  酒もいろいろと挑戦している。大麦の麦芽で自家製ビールを作って飲む。それぞれの故郷から持ってきた麹で、米や麦、豆を味噌や酒にする。甘味の強い天然の果樹の実を潰し、蜂蜜を加えて発酵させる。  先を見越して、リンゴやブドウ、柿などの果樹もあちこち木を切った跡に植えている。  初期近代国家の多くは酒を専売にし、自家醸造を厳しく禁じるが、アロンドや瓜生たちは相談の末にそうしないことを選んだ。維新当時の明治政府ほど、貧しく弱い国ではない。  だが税金を取らないことはしない、税金を取らない産油国は国民に参政権がなく、腐敗と不自由がひどく発展の余地がない。  ものの売り買いそのものに、浅く広く消費税をかけて、それを税金としている。また、労働力や軍事力の提供も常に求めることにしている。  ただし、大灯台の島などでは蒸留酒が作られ、それを買うほうが満足できることもある。蒸留器は銅やガラスを使い高価なので、開拓民たちにはなかなか手が出ない。  子供たちにとって切実なのは、酒より甘味だ。  先進巣箱とニセアカシア林があるのでかなりの蜂蜜は得られるが、足りないし高く売れるので自分たちだけで消費するわけにもいかない。 〈ロトの子孫〉はアレフガルドではビーツ=サトウダイコンから砂糖を得ることができる。ただしそれは隠れ里で少量作るだけ、それでも少ししか得られない蜂蜜やメープルシロップしかないアレフガルドの富裕層には高く売れた。  他にも、この地独自の産物として甘味が強いミツキノコがあるが、瓜生たちが分析すると糖分は含まず味覚を騙して甘味と感じさせるキノコだった。 〈ロトの民〉は、大灯台の島でビーツやナツメヤシ、亜熱帯である元鬼ヶ島でサトウキビ、またテパに近い熱帯雨林でサトウヤシなどを栽培し、かなりの量の砂糖を得て換金していた。  麦芽にデンプンを混ぜた飴はより簡単だ。  だから、他の人々に比べ甘味にはより親しんでいた。  といっても、豪華客船での二十日……トン単位の砂糖・チョコレートの山を好き放題の生活に触れてしまい、より強く甘味を求めるようにもなった。  広いローレシア大陸で、サトウキビやビーツが広く栽培されるのは間違いないだろう。ただ、サトウキビは悲劇を背負った作物だ。アブラヤシやゴム、コーヒーもそうだが、〈ロトの民〉たちはそのあたりは注意している。特に最小限の食料だけは自給できるように、それだけは徹底している。  だが、酒は一時しのぎに過ぎない。寒さに耐えられる住居がほしい。  収穫から寒さまでのわずかな時間に、全員が過ごせる家を。  二十人が総力を挙げて、やや大きな、空気吹き込み二次燃焼室のついたストーブを大灯台から買ってきた耐熱タイルと鉄板で作り、煙突は上向きではなく平らな石を漆喰で固めてオンドルとした。  あとは、その床の周囲に仮に竹を曲げて縛りつなげ編んで、藁を混ぜた泥で隙間を埋めて乾燥させ、その上に隙間を開けて木の柱を立てテントで覆った。  二重なので暖かく、テントが吹っ飛んでも竹が持ちこたえてくれる。ドームをぶち抜くいくつかの柱に三段ぐらいハンモックを吊れば、なんとか全員暖かく眠れる。  レンガにしても木造にしても、かなり時間はかかるのでじっくりやるしかない。  水力を利用し水を得るための魚道のあるダムと水車、貯水池、竜馬に引かせる大型の装置を使える規模の畑や水田……それ以前に測量すら、荒い精度でしかできていない。  ある程度は調べて、自分たちの土地の全体像はわかっている。合計で3平方キロメートル近くあるが、半分は森を残さねばならない。それでもものすごく広い。  荒れた二つの丘と急斜面、一方の境界が川と小川が三つ、池が大小四つ、深い森である谷、やや広い平地など、大まかな地形は地図にした。  土地所有そのものは、地主・農奴制度でも微小自作農でもコルホーズでも弊害がある。所有権をなくしても、所有権が強すぎても弊害がある。  広すぎるアメリカの農業も、機械化された効率第一主義で収穫後にランドカバーを育てないので表土を失う。中南米のように広大なプランテーションで奴隷同然の労働者を使い単一作物を育てるのも、奴隷も不在地主や大企業も土地に愛着がなく、広く多様な土壌に強引に単一作物を連作するので土は疲弊する。  狭すぎるアフリカの分割相続自営農も貧困で知識が失われ、森を保つ余裕がなく緑肥すら与えず、痩せ地でも育つ作物の連作になり、土には致命的だ。日本の機械化自作農も、狭い土地を丁寧に耕すのはいいが農業だけでは暮らせず、大量の農薬と化学肥料を使う。  要するに、広すぎても狭すぎても持続可能ではない。  個人の田畑もしっかり確保する。また各自は所有権の一部を株として持ちつつ分割して耕すこと自体は原則禁じる、同族会社に近い制度にしている。  さらにそれ以前に、この地域の気候そのものも一年しか経験していない。冬はあまり雪は降らないしひどい寒さではないが少し霜が降りる、春に強風が吹きたびたび雨が降る、夏前に長い大雨が降ってしばらく湿度が高い……一度、悪夢の霧。それぐらいしかわからない。  やることはまだまだたくさんあるが、全部一度にやろうとしても無理なので、毎日こつこつと無理せずやるだけだ。全部やろうと無理をするとぶっ倒れて何もできなくなることは、再開墾で〈ロトの子孫〉はたっぷり経験している。  川には多数の魚も来るが、産卵前の乱獲は厳禁されている。 「こんなにたくさんいるんだから」というザハンから来ている人々だが、 「じゃあ、あんたたちがいけた範囲にあった川は、なぜもうほとんど来ないんだ」の一言で解決されてしまう。  人間の手が触れれば乱獲になり、そうなればどんなにたくさんあるように見えてもすぐになくなる。  この大陸は魚介類の資源も、いうまでもなく豊富だ。  海辺に入植し、船で海に出て網を打っている人々もいて、子供たちが学校帰りに、ルーラで新鮮な魚を担いで帰ることもしばしばある。  もう沖合いでは貝と海藻の養殖を始めている。魚貝が産卵する干潟は保護しつつ、収穫は養殖網で得るのが将来の目標だ。  冬、まだ果樹も乏しい。かんきつ類も、まだ植え始めたばかりだ。  日増しに緑が減る。だが何もないわけではない。  ビタミンCだけなら、ジャガイモからもかなり得られる。無毒を確認してからだが、針葉樹の若葉を食べたり、葉を茶にして飲んだりもする。  芋はたっぷりと埋めて保存され、空腹になることはないが飽きる。  乳は減っているが、バターとチーズはたっぷりあるので、それで食べる。  芋の皮などを食べたキーモアの卵、芋、ひき割ったトウモロコシと豆の粥、野菜の漬物が主な食べ物だ。時々塩漬け肉もつく。  開拓地から、特に温暖な元鬼ヶ島やテパ近くのゴム園などに収穫を背負ってルーラで飛び、暖と食事を楽しむこともたまにある。  ただ、まだまだ収穫も少ないし交換価値があるものも乏しく、それほど贅沢はできない。来年からはさらに多くの資材、特に土木工事・住居・馬に引かせる農業機械という高価な品が必要になるのだ。  というわけで、大体は寒い中、測量したり木の枝の大半を切ったり、また別の土地を開拓して岩を砕いたり、藁を編んで縄を作ったりしながら、ひたすら芋や粥を煮て、ニンジン・ケール・ビーツ、チーズや納豆、干しキノコ、塩魚を加えて食べている。  特に呪われているのはスウェーデンカブ、別名ルタバガ。まずい。半ば罰としてしか人の口に入ることはないが、セロや竜馬は文句も言わず食べている。  そして冬至。建国より一年、幼児・要介護老人・身障者・家畜の面倒を見る最低限を除く、何万もの人々がルーラで王都近くの原野に集まった。  十分に整備された簡易トイレ、給水所、医師団。  そしてそれぞれが持ち寄った農産物・水産物・肉。  前日の昼から、集まりながら売買はされていた。その売買そのものから、少しずつ国は税を取っている。  いくつもの屋台で料理がうまそうなにおいを上げる。  真夜中が近づくにつれて、全員がきちんと整列した。  いつでも組織を作れる。自分が誰に従うかはわかっている。  そして、星空がその時を指したとき、たくさんの花火が打ち上げられた。  雷鳴と轟音を響かせ、閃光を演出にアロンド王が王妃ローラ、そして二人の息子と共に空を飛び、中心に降り立つ。  絶叫が上がり、全員が熱狂になる。  多くの婚約が結ばれる。  酒が配られ、肉が焼かれ、一体になって食い、飲み、歌い、踊る。  二日酔いが残る翌日は、集まった全員が武器を手に整列し、アロンドの指揮通りに素早く展開して陣を組み、水と保存食の配給を受け三十キロは歩き、また走った。  いくつも出現するゴーレムを、強力な呪文や銃撃で整然と破壊し、大声を上げた。  常在戦場、実戦能力を失わないために。  その午後は開拓が始まる前に親しかった者どうしが集まり、去年の反省をしたり、〈ロトの子孫〉が〈ロトの民〉に竜王戦役の話をしたりして、昼過ぎにまたたっぷりと酒と料理がふるまわれ、最後にアロンドが一言話して解散となった。  その一言が重大だった。 「来年から、この祭りのついでに、いくつかのことは直接投票にかける。何を投票したいか、よく考えてくれ」  ……全員が目を見張った。  もちろん、留守番していた皆にもたっぷりとお土産を持って帰り、それから家庭での正月となる。  翌日は、留守番していた者はゆっくり休み、土産話を聞いた。  冬。普通の農家にとっては農閑期で、ゆっくりと寒さに耐え体を休め、藁を叩いてさまざまなものを作る時期だが、開拓者にとっては忙しい日々となる。  去年開拓した畑を詳しく測量しなおし、深い溝を掘ってパイプを埋め、暗渠とする。  新しい荒地に家畜を放す。木を切り、良質な材木は乾燥させて岩を砕き除き、耕す準備をする。  木を切ったら植えるのが掟なので、極力木が少ない荒れ地を選ぶ。切った分は河原に柳・ハンノキなどを植えたりする。  また、大陸のはるか奥、まだ開拓されるのはずっと先の荒れ地に、クリ・クルミ・ピスタチオ・アーモンド・ナラ・トチなど食べられる実をつける木、リンゴ・柿などの果樹も植えておく。ひどいやせ地には空中窒素固定植物を植える。乾燥地帯にはナツメヤシ、沿岸にはココヤシを植えておく。  何十年かして、そこも開拓されることになれば、その人々が利益を得られる。  竜王に荒らされたアレフガルドや、そのほか世界各地の荒れ地に出向いて木を植えることもある。  子供たちは学校に通い、学んでいるが、〈ロトの民〉の生徒の間では何か変な雰囲気がある。 「なにこっち見てニヤニヤしてるのよ」とケエラが言う。 「いーや」と言って、〈ロトの民〉たちは〈ロトの子孫〉たちの靴を見て、笑っている。 「何よ、おんなじような靴じゃない」とケエラが言うが、 「彼らの靴はとても頑丈で、質がいい皮を使っている」と、ジニがつぶやくように言った。「皮革も、動力伝達ベルトなど重要らしい。もっと学んでおかなくては」 「なら今度、うちの工場来いよ」と真っ赤になって言う男子を、女子が集団で潰す。  それを無視して、ジニは図書館に向かう。  そんなある日、学校から帰る前、少し大灯台の島の町にダンカが寄って、ちょっと大きい荷物を持って帰ってきた。  ケエラは気にしないふりをしていたが、気にしていた。  そして、わざわざゆっくりと家畜を見張っていたら、ダンカが竜馬に乗り枯葉と薄い雪を踏んで迎えにきた。 「ダンカ」ケエラが見上げる、巨大な馬から軽々と少年が滑り降りる。ちょっとした荷物を持って。 「やるよ」と、彼が差し出した紙包み。ケエラは嬉しさに呆然として、受け取り、重さにびくっとした。 「そろそろ、だからな。開けてみろよ」その言葉にケエラが震える手で包みを開けると、それは頑丈な革で作られ、膝まで厚い苧麻布で覆ってベルトで締め、膝も革のパッドが着いた、無骨で実用一本やりのブーツだった。  それも明らかに中古。  ケエラは呆然としていた。感情が凍って。 「今の靴じゃ、無理だから」 「ば……」ケエラはぶるぶる、と震えていた。 「服とか、舞台用とかじゃなくて、……」理不尽だ、と分かっていても怒りが抑えられない。「ばかあっ!」  大声に、両方の家族が飛び出してくるが、まあどちらもいつものことだ、という感じだ。 「教えちゃダメだろ」という、ダンカの元気なほうの兄がダンカを怒鳴る声が聞こえてきた。  それから数日、なんだかんだ言ってケエラはもらった靴を履いている。それまでの靴が、過酷な農作業で壊れかけ、足が冷たかったからだ。サイズは少し大きいぐらいだった。  そんなある日、明日は休日だと浮かれて学校にいつもどおり行くと、一時間目だけ普通に授業をして、突然「さて、今から行軍演習に入る。ご家族にも連絡は行っているな」ときた。 〈ロトの民〉の子供たちの悲鳴が上がる。〈ロトの子孫〉は、もちろんザハンからの人々にはまったくわけがわからない。 「さあ集合、行進隊形。物資を受け取りなさい」  と言われて気がついてみると、校庭に竜馬に車を引かせた大人たちがたくさんいて、ものすごい量の物資を積み上げていた。  それこそ、ムーンブルクでの穴掘りのときのように。  十人ずつ集まる。そして、一人一人分厚い毛糸のコートを着せられ、二十キロはあるリュックを背負わされる。 「湯冷ましを飲んでしまった者はここで補充!」 「塩をちゃんと受け取りなさい」と、両手いっぱいの塩を竹筒に詰めて渡される。 「さあ、みんなでルーラでついてきなさい」という号令にあわせてケエラは呪文を唱え……  着いたのは、一面の雪と急な岩山だった。子供たちの悲鳴が上がる。  はるか遠くまで登る、細い道が刻まれている。 「さあ、全員行軍開始!はぐれないように、十人の班で助け合いなさい」  号令とホイッスルの音にあわせて歩き出すが、荷物も重いし道も急、しかも風が信じられないほど冷たい。 「ねえ、どれだけ歩くの」と、ケエラがチームメイトになった子に聞くが、わかっていないようだ。 「終わりなんてねえよ。短くて丸一昼夜、一昨年は三日半歩かされたんだ」と、〈ロトの民〉の子が虚ろに笑っている。  言葉どおり、日が沈んでも歩きは止まらない。休憩は一切なく、背の荷物に詰められた乾パン・揚げ芋・塊になった黒砂糖・チーズ・脂身の塩漬け、そして塩と水を歩きながら口にするだけだ。  崩れ倒れる子がいれば、その場に荷物から布や柱を出してテントがわりにする。だが、息を吹き返す間もなく大人が竜馬で乗りつけ、怒鳴りつけて歩かせる。逆に、死ぬことだけはないようにしっかり見守っている。  月明かりに照らされた岩山、道はどんどん険しくなり、岩を鎖にすがってよじ登るようなところも多い。  トイレも道の下を選び、岩の間にテントを張ってやるだけだ。 「このために、靴を」ケエラがダンカに話しかける。 「しゃべる息も惜しいだろ」と、ダンカ。 「なんでこんなことが」泣いている〈ロトの子孫〉の子に、〈ロトの民〉の子が嘲笑混じりに、 「〈ロトの民〉の子は毎年やってるよ。去年はいろいろ忙しかったからやらなかったけどな」 「〈ロトの子孫〉も、竜王が出るまでは毎年やってたんだ。竜王が暴れている間は、行き来できなかったからな」ダンカの言葉に、ケエラは黙って血が出ている足を腹に巻いている布の一部を裂いて巻き直した。 「靴が大きめで助かったわ。こんなことなんでもない。わたしたち〈ロトの子孫〉は、竜王が暴れていた何年もの間、戦ってたのよ」  目を厳しく輝かせ、先頭に立って歩き始める。もう、痛みも疲労も寒さも、何もないかのように。 「戦いなら、〈ロトの民〉だってベラヌールで」ダンカが言うが、 「家族の死を知らされた人が、何人いる?三回家を追われ、焼け落ちるのを振り返りながら逃げた。こんなの、遊びよ。ジジ先生の特訓に比べても、なんでもないわよ」  ケエラはそういうと、高くそびえるような崖の割れ目を、歯を食いしばり手からも血を流しながら登り始める。  その言葉に、〈ロトの子孫〉たちは大声で「そうだ!」と絶叫し、疲れきった身体で起き上がり、荷物をまとめた。 「死にやしないんだ」 「なんでもねえよ、こんなの。母さんが死んだリムルダール北に比べたら」 「ドムドーラから南に逃げたときは……」  全く違う表情で岩を登り、道を見つけて前進する〈ロトの子孫〉。  ダンカも、他の〈ロトの民〉も一瞬圧倒され、「負けるか」と叫びながら追った。  準備していた〈ロトの民〉の子以外の靴はどんどん悪くなり、壊れたのを布を使って補修しながら歩いている。歩けない靴を履いてきたのは常在戦場を忘れたから、というわけだ。だが頑丈な靴でも、丸一日歩けば足は血を流し、凍りつく寒さに痛みすら感じない。  丸二日間、過酷なロンダルキアの山道を、火は一切禁止のハード・ルーティン。  なぜ歩いているかも忘れる。次の一歩、雪をラッセルし、崩れ落ちては支えあい次の一歩、それが世界の全て。心が壊れ、泣き叫び、錯乱する子もいる。自分の弱さと強さを直視させられる。  常在戦場を忘れぬため、平時のロト一族は厳しく子を、そして己も鍛える。  大人たちも時々、国民皆兵国の予備役訓練のように呼び出され、厳しい訓練を受けることがある。  全員、体力に優れている子も劣る子も、それぞれの限界を通り越すまで歩き続けた。そして全員男女に分けてゆっくり入浴し、手足の治療を受けて熟睡した。  雪が少ない地域で、毎日の行動は楽だし、枯れてはいるが草も結構ある。  雨も少ないので、測量や開拓が思ったよりはかどっている。  二日に一度ほど、家畜たちを入れているテントを移動させる。雪がひどい極寒地だったら、しっかりした建物ができるまでは、家畜は冬季は元鬼ヶ島に運ぶつもりでいた。    春が迫るにつれてケエラは、自分の牝馬の膨らむ腹、竜の子のほうが気になっていた。  口では「竜の子なんて」といっては差別を嫌う〈ロトの民〉に叱られているが、遠くから枯れ葛を刈って来ては牝馬に与えている。  テントを移すそばから家畜糞が発酵し、熱い湯気を上げている。それが冷めた頃に藁に包んで煮た大豆を入れれば納豆ができる。  春を前に、去年の収穫で新しく手に入れたのは馬二頭に引かせる犂。先端を交換すれば芋の収穫や除草もできる。  それに、馬も人も引くことができる、大きな木製の車。  毛糸を加工するための紡ぎ具や織機は、むしろ毛糸をそのまま大灯台の島にでも運んだほうがいい、と買わなかった。  春、まだ寒いうちから農作業は始まる。  去年はすべてが新開拓地だったので考える必要なかったが、今年からは輪作をしなければならない。  同じ作物を続けて植えると収穫が減り、土が死ぬ。  冬に新しく開墾した土地にはまずトウモロコシとアブラナ・カブ・キャベツを大量に植えた。  去年開墾していろいろ育ててしまった土地は、ヒマワリとアマランサス、タマネギ・ニンジンなどをまいた。  作物を科で分け、連作を避けることも優れた教育があるからこそだ。  イネ科。トウモロコシ・小麦・稲・大麦・ライ麦・コーリャン・アワ・ヒエなど大半の穀物を含む。サトウキビや多くの牧草も。比較的連作障害は少ない。  マメ科。大豆・小豆・インゲンマメ・ピーナッツ・ソラマメ・リョクトウ・ヒヨコマメ・レンズマメ、アルファルファ・レンゲ、またクズ・ニセアカシア・アカシア・イナゴマメなど、豆だけでなく緑肥・飼料・木やつるも含め実に多様だ。根粒菌との共生で高い空中窒素固定能力があり、窒素肥料を土に供給するが、連作障害もつきものだ。  ナス科。ナス・トマトなど重要な野菜もあるが、重要なのはジャガイモだ。桁外れの収量があるが、だからこそあっというまに土地がやせ、ひどい連作障害が起きる。  アブラナ科。キャベツ・カブ・ルタバガ・ケールなど飼料としても重要な野菜が多くある。セイヨウアブラナも重要だ。連作障害が激しい。  ウリ科もキュウリなど多様な野菜を含み、特にカボチャは主食にすらなる。  サツマイモはヒルガオ科。ソバはタデ科。サトイモはサトイモ科。アマランサスはヒユ科。キャッサバはトウダイグサ科。  ビーツ・ホウレンソウはアカザ科、ヒマワリはキク科。  ワタはアオイ科、アサはアサ科、亜麻はアマ科、苧麻はイラクサ科。  原則として、同じ科の作物は続けて栽培しない。特にマメ科とアブラナ科は三年ほどは間をおく。  ロト一族はランドカバーなしで土を放置することはないので、作物を収穫した後すぐに別の作物や牧草でもまきつける。  特に冬小麦が絡むと、輪作はきわめて複雑になる。  また、連作障害が少ない水田も五年をめどに畑に転換し、肥えた土で作物を集中的に育てる。  気候に応じて稲や田イモの収穫後、麦やゲンゲの二毛作もするし、また水田に水を張った直後からアゾラで大気の窒素を固定し、飼料および緑肥にする。気候によっては二毛作ではなく、冬も水をためることで土の質をよくする。  地勢によっては、水田を深い畝の畑のように掘り、掘った土を畝の上に乗せて、畝の間に水を溜める。翌年は水と畑を入れ替える。木綿のように水も肥料も膨大に必要な作物と稲を、乏しい水でも同時に育てることができる。  救荒食物も常に、四分の一から三分の一の面積を費やし育てている。多少の金より飢える者を出さないことを優先する。  ナッツ・果樹・桑、田を囲むハンノキなども先を見越して植えられている。  これらは瓜生が出した故郷の作物だが、この〈下の世界〉の作物も分類されている。特に田で育つ豆や竹綿、変種の葛は瓜生の世界にない、きわめて重要な作物だ。  高い読み書きソロバンの能力がなければ、到底不可能なことだ。  だから、古代では少数の貴族が膨大な奴隷を使う形になるのだ……ほとんどの人が文字を読めない、だから文字を読めるほんの少数の人が、巨大な権力を得られる。  作物だけでなく、春は家畜の世話も忙しくなる。  二十頭の竜馬……一頭だけが種牡馬、六頭が去勢牡……から、十二頭の仔馬が無事に産まれた。そのうちの四頭は竜が父親で、一頭が産まれてすぐ死んだ。  ケエラが大切にしていた竜を父親に持つ仔馬も、気がついたら母親の乳を吸っていた。  他の家畜……セロ、ベルベ、ゼド、ラツカ、ミラジ、バロ、ブホ。次々と仔を産み、最低限必要な世話だけでもてんやわんや。無論、キーモア・ペッカー、ガベーメも放っておいていいわけではない。  そして仔を産むと、これまた大量にえさが必要になる。それぞれ違うえさを。  桜が咲き、草が生え始めているとはいえ、まだまだ乏しい。幸い広い荒野がそのまま干草で覆われているようなものだが。  セロと竜馬は図体がでかい分大食いで、食べてからじっくりと反芻している。それだけ糞も多い。干草が尽きてきて、車を馬にひかせて少し離れた荒れ地の枯れ草を取ってきた。そんな作業をさせるときには穀物や豆を与えなければならず、それもまた備蓄が乏しくなっていく。セロの背のこぶがやせ、乳が減っていくのは見るに忍びない。  ラツカは葛原や山岳を好み、つるの下を潜ったり、つるマットの上を身軽に飛び跳ねたりする。頑丈な平爪がある前脚でつるをつかむこともする。枯れたつるでも旺盛に食べる。  ミラジは成長が早く、人間の体重ぐらい重くなる。おとなしいが、長い角でいつも地面を掘り返して草の根も食う。ブホの鼻面を覆う角とともに、広い荒野をあっというまに掘り返す。  バロは頑固で人を乗せないが、信じられないほど重い荷を運んでくれるし、きつい山道でも平気だ。木の皮や笹を食べるので、大助かりだ。  バギで木の葉を叩き落し、ベルベやガベーメに与える。常緑樹もたくさん生えており、葉を得るのは簡単だが運ぶのが大変だ。ペッカーやバロも、木の葉でも樹皮でも草でも何でも食う。  バロやベルベの乳が、冬の後半から春には大いに役立った。  ラツカとゼド、今年から五頭与えられたミラジ、三頭与えられたバロも毛刈りが始まった。  それぞれ大きさが違う。毛の質も違う。柴犬サイズのラツカ、セントバーナード大のゼドやミラジ、小型馬の大きさがあるバロ。  ケエラは「傷つけるなよ」と何度も脅され、おっかなびっくりでハサミを使っている。だが彼女の不器用さでは、どうしても……だが、彼女はかなり魔法を使えるので、傷を癒したり扱いやすいよう眠らせたりと活躍もできる。  たっぷりと得られる毛は、自分たちで紡ぎ織るのは無理なので大灯台の島までルーラで運び、毛製品と交換する。  大灯台の島では、風車を用いて紡ぐ・織る・縫うをかなり機械化している。  乳が減ると、淡水魚が重要な蛋白源になる。  足のようになったヒレで地面を少し這ってまで草を食う、大きいカツオぐらいある魚がとてもうまい。草を放りこんでおけばどんどん増えて太るようなので、これからは時々沼地のアシなどを切ってやるか、と話し合っているし、新聞にも載る。  また、広い池があるあちこちの開拓地でヒポタムも飼われはじめた。  すぐ出てくるオオナメクジは、人が食うには毒があると判明したが、斧で切り刻んでゼドやブホ、キーモアにやればいいエサになるとわかった。また、ワラビ・スギナなど、家畜は絶対に食べないシダ植物やトリカブトなどの毒草を食べてくれるので、半ば家畜のように扱えるとも情報が伝わっていく。  冬小麦の穂が出て、刈り取りが近づく。  広い苗代で、丁寧に選別された稲が芽を吹き、育ちつつある。他にも大量の、多くの種類の野菜の苗が育っている。  咲き誇るレンゲと森の木々の葉が、馬に引かれる犂で泥に混ぜられ、田植えの準備が近づく。  山は新緑の淡い緑がまぶしいほどだ。  多人数の開拓民が働いている間、アロンドたちも多忙だった。  瓜生の世界の、またムーンブルクやアレフガルドの法学を参考にしつつ、あくまで〈ロトの掟〉を中心にした法制度を検討し制定する。  あちこちから持ちこまれる裁判。  多人数と膨大な近代器材を使う測量、天文・気象観測。そのデータを実際に使える地図やカレンダーにする膨大な計算。  病院、学校、農業・家畜・天文・測量・工業・魔法など他分野にわたる研究。  天才的な子を見出し、全寮制の衣食住から小遣いまで全額支給で教育する。  不公平にならぬよう人手を集め、十分支払って土木工事その他。  わずか一年でかなり大規模な、そして水車の動力で排煙を徹底的に脱硫し、水銀まで回収するコークス炉、かなり大型の高炉も整備され、膨大な鉄が産出され、次々に鋼の農具になっていく。  この禁断大陸はまさに地下資源の宝庫で、ローレシア王都の真北には超巨大鉱山がいくつもある。  瓜生は世界各地の王侯貴族の患者たちも治療し続け、助手に教えている。学校で授業をし、膨大な資材を出し続ける。そして、魔の島の地下で半ば眠る竜神王子を監視する。  ローラ王妃も貫禄が出てきて、客船から仮王宮としている大型テントで、遊牧民のような暮らしにもめげず二人の息子を育て、アロンドを支えている。  世界各地から訪れる商人や大使は、ローレシア近くの海に停泊している巨大豪華客船でゆっくりと饗応する。  最後の試練では巨大キッチンを一手に指揮し千人の王侯貴族の舌を満足させたレグラント、清掃や接客組織を見事まとめたロムルの元アロンドの孤児仲間夫婦は行政上の仕事が多く、客船の仕事は部下に受け継がせつつある。  瓜生の物資に頼らずこの世界の産物を用いて素晴らしい料理を作り、巨大すぎる客船を清掃している。今も、閉まっているか中身を替えている店は多く、質は微妙に変わっているがサービスの水準は高く、諸国の貴族や豪商も好んで新国に通う。  激しい労働と学校での運動があり、子供たちの食べる量は凄まじい。  10歳の子でも、米・麦・トウモロコシ・ヒエ・ソバなどを合計八合は軽く平らげる。  麦飯もよく食べ、アワやヒエを混ぜることも多い。ジャガイモやサツマイモ、田で育てたサトイモも季節によるが主食にする。  トウモロコシは秋のシーズン以外はトルティーヤにして食べるし、粉をパンに混ぜることもある。ヨーグルトを入れたパン、乳で練ったホットケーキなどもよく食べる。ライ麦パンもある。  副食で多いのは卵、納豆、油味噌、豆・魚・芋の煮物、季節にもよるが馬乳酒・ヨーグルト・チーズ、アカアリの幼虫や卵など。  卵はキーモア・ペッカー・ガベーメがたくさん産む。ペッカーやガベーメは針葉樹やヒイラギなどの葉も食べるので、冬でも卵を得られる。  アカアリの、ソーセージサイズの幼虫やウズラ卵大の卵は濃厚な甘味があり、タンパク質や脂肪も豊富だ。周囲に森でも草原でもあり、巣穴を埋めておけば葉を収穫してキノコを育て勝手に増える。佃煮にすればかなり保存できる。  肉は三日に一度ぐらいしか食べないが、毎朝レバーソーセージとビタミンCは欠かさない。  大きい缶に入ったコンビーフも時々食べるし、その材料の肉も出荷する。  もちろん、さまざまな乳を沸かして、水同様に飲んでいる。  春になれば野山は山菜野草にあふれ、食べられる草や木の芽がまた山のように食卓にのぼる。  特に、悲惨ともいえるのがタケノコ責めだ。どこの開拓地でも大量に得られるタケノコを皆が飽きるを通り越して食べる。  そして昼も、保存できるように焼いた芋や種無しパンなど、文明社会の大人なら三食満足できるほど持たせて、さらに給食まで食べる。  瓜生が一度検討したら、子供たちみんな一日4000カロリーは軽く摂っている。 「これがあたりまえになって、機械化で運動量が低下したら肥満地獄だ」と、瓜生は今から頭を抱えている。  少なくとも、ザハンから大陸に通って耕していた人たちは、毎日そうして腹いっぱい食えるというだけで王道楽土だと思っているようだ。  田植えが迫り、苗代で稲の苗が育っている。  冬小麦などの刈り入れももうすぐだ。  広い畑を、馬が犂を引いて耕し、その後から種がまかれ、苗が植えられる。  去年植えた柳などの生垣が急速に伸び、その枝を編み合わせるだけで家畜囲いになる。ペッカーが柳の若木をほぼ丸ごと食べてしまうのには閉口するが。  カエルの泣き声と、瓜生に貰ってから毎晩のようにディウバラが弾いているバイオリンの音が響き合って、耳障りではあるが日増しに上達しているのはわかる。 「うるさいのよ」 「音楽があるなんて贅沢だろ、おまえも弾きたいのか、ケエラ?」とまたケエラとダンカがケンカしている。  地図の精度も日増しに上がっていく。あちこちから持ち寄られるデータを、学生たちが実習がてら分析している。  あちこちでボーリングも行われ、その豊富な地下資源の一端が見えてくる。  地図ができてきて、ゴッサを中心とした数千人が、大陸の中央やや北方に別の拠点を作りはじめた。  山脈の外れで、広い平原と森の境界。二本の川と豊富な湧き水があり、近くには巨大な炭鉱がある。やや西には大規模な鉄鉱石も発見された。北方には大規模な岩塩と石膏の鉱脈。  景色もよく、交通の便もいい、とてもいい都になりうる。  その身長より高い、どこまでも続く草原は遊牧民にとって最高に魅力的だった。  遊牧民のライフスタイルは、家畜とゲルさえ空輸すればそのまま暮らし始めることができるので楽だ。  また、多数の技師が鉱山を調べ、将来の工場も考えている。  最近急速に普及しているのが、堆肥置き場にテントをかぶせ、その悪臭のする空気を温度差で集めて、火を絶やさない中型ストーブに吸わせて燃やす悪臭除去装置だ。  毎日少しだけ薪を使うが、それで悪臭を燃やせば排煙は高温の二次燃焼できれいに浄化され、そしてある程度の量の湯を常に沸かし続けているので水仕事も楽だし、常に浄化された湯冷ましを飲むことができる。常にメタンガスなど可燃ガスが混じっているから少し燃料を節約できる。  風呂の保温もするし、冬季には煙突をオンドルに切り替えれば一部屋足元から暖めることができる。  特に皮革工場や発酵施設など、強烈な悪臭が出るところではその設備は必須だ。  そのような発明は、大抵は発明者に報いがないことを瓜生はよく知っていた。それどころか、発明そのものを罪とし処刑する地域のほうが多かったことも。  昔からロト一族の間であった制度を応用し、瓜生の無制限の資金を持つアロンドたち王室は、こうした。  発明は登録され、実用化しようとする者には王室が資金の二割を、有限責任の株として与える。  成功すれば一割が発明者、一割が王室。失敗すれば王室が二割丸損だけ。  それでも、今のところは王室は得をするほうが多い。  アロンドとローラの夫婦が久々にラダトームを訪れる。  もちろん、たくさん土産を持ち、キャスレアが貴族たちと旧交を温める。彼女の下でリレムとレグラントが、何人かの貴族に引き合わされた。  リレムは両親と数年ぶりに再会しそうになったが、両親のほうが避けた。家族を裏切り、そして新しい国で奇妙に重視されている彼女を、どう扱っていいかわからないらしい。  慰めようとするローラに、リレムはにっこりと微笑みかけた。 「あのときに、もう覚悟はしていました。いつか、わたしに利用価値ができたら、また話しかけてくるかもしれませんよ」  ローラは、ただ彼女を抱きしめるだけだった。  麦刈り、代掻きと田植え。去年は大変だったが、今年は馬に引かせる農具ができていたのでかなり楽だった。  設計は公開されているし、大工道具も手に入れたので木材から作れる。乾燥木材ではないので、一年か二年しか使えないが、そのために乾燥させている木材はある。  その作り方は学校でも必修で、子供たちも手伝った。ケエラは相変わらずの不器用さで失敗ばかり、結局魔法で貢献するだけだった。  生垣にしている柳なども急速に伸び、それにカボチャやニガウリが太いつるを巻きつけ、その葉の緑が日々濃くなる。  ラツカやキーモアは年中小さい子を連れているし、竜馬やセロ、ミラジやバロの仔も急速に大きくなっていく。  だが、明らかに竜の血を引く子馬は、大きくなり方が妙に遅い。  草が伸びると蚊も出てくる。ロト一族は伝染病との闘いに熱心なので、少しの蚊でも大騒ぎする。  水たまりを埋めたり、小さな池があれば川につなげて魚が出入りできるようにしたり、竹林ならクモやカマキリを放したり、リザードフライの巣箱を作ったりする。  いろいろな作物を、馬で走りながら広い畑にまく。  忙しい中麦を乾燥させ、パンを焼いてちょっとした祭りにしたりして食べることだけでも楽しむ。ビールを作る時間はとてもないが。  大陸だけでなく、アレフガルド大陸に隠れ住む〈ロトの子孫〉や、大灯台の島や元鬼ヶ島の〈ロトの民〉も多忙だった。  馬を使う機械化が進んでいたので、農業の働き手がかなり取られてもそれほど困らない。だが、最上流の鉄鉱石・石炭・木炭から、製鉄、その鉄で斧や犂を作る……と、あらゆる産業の需要が爆発的に増え、皆が忙しい。  瓜生がまた多くの機械や教科書を持ち込み、学習用に工場も建ててそれも使うことがあるので、工業技術自体も急速に進歩している。  特に増えている産業が、木や野菜の苗を育てること。大陸の開拓者たちはあちこちに木を植える。  アレフガルドでも製鉄のために木を切れば、十本植えるのがロトの掟、というわけで十本苗木が必要になる。そこらの木の枝や実でもいいが、果樹などのちゃんとした苗を植えるほうが、後々自分たちが得をする。  果樹と言えば、開拓地や客船のレストランなどでは、果物の需要も大きい。一年ではできないのだ。  真夏、雑草が生えだしてはペッカーがついばんでいく。  アゾラが浮き広がり、空中の窒素を固定していた水田に、急速に稲が伸びていく。  霧に備えての避難訓練がしょっちゅうある。  野菜がどんどん収穫され、客船にルーラで運べば買い取ってくれるし、自分たちでも食べる。  新鮮なトマトやキュウリを生でかじるにまさる美味はなく、親戚から送られる味噌をつければうまさは倍増しとなる。  酢も自分たちで醸造する。開拓民はまだできていないが、実家などから手に入れてドレッシングやマヨネーズを自作する。  野山の草もさかんに伸び、家畜たちは毎日満腹し、太っていく。だが湿度と暑さは不潔による皮膚病や寄生虫の原因でもあり、ダンカは遊び時間も削って家畜たちの身体を手入れし続けている。  暑いときには泳ぐこともあるし、ヒャド系呪文を使える魔法使いは子供でもちやほやされる。  測量の結果、ローレシアの真北の半島に洞窟が見つかった。そこに近い北のお告げ所から、そこは神聖な場だと告げられる。  その洞窟にある泉には、ラダトーム城にある聖なる石に似た場があり体力を回復できる。  だが、北のお告げ所からもそこは神聖なので開発するなと言われ、予言者たちの修道院のような場とした。  そこは勇者の洞窟と呼ばれるようになる。  地底湖を越えた奥には何かあるようだが、アロンドは入ることを禁じられた。  予言者たちは、「その時が来れば」と言うのみだった。  次の霧が出る前に。  主力戦車の装甲でも、多数の、非常に小さく強力な怪物を防ぎきれないことははっきりした。  行動しながら使えるトヘロスの上位呪文が研究されている。  サデルとラファエラ、数人の長老格の上位魔法使い、こちらはパートタイムだがジニが中心となり、集団で魔法を使う研究が始まった。  それは自然に、魔法を教える上級学校となる。方針として、「絶対ガロア様を落とさない学校」と、普段冷静な彼女だがガロアの話にだけは熱くなる。  瓜生のアドバイスも受け、技師、集団魔法の研究、そして天才のための数学中心の早期教育と、三つの学校を総合させる形を目指している。 「上級学校は一つに固定するな、弊害が大きい。いくつも最高の学校があり、それぞれ得意分野があって、実際に何ができるかで評価されるのが一番いい」と瓜生とアロンドが声をそろえた。  瓜生とベルケエラも、独自に医学・農学・獣医学・生物学・鉱物学など総合した高等学校と、公文式を中心にした学童保育校を作り始めている。  測量機関も生徒全員に給料を出し、仕事を割り当てつつ教育する、フランスのグランゼコールに似た技術学校となりつつある。  ガライ一族も音楽・踊り・演劇・美術などの総合学校として機能している。  軍のための士官学校も、法律家の塾もできつつある。  料理の学校もあるし、鍛冶の学校もある。  ジニがサデル・ラファエラなど魔法使いを集めて取り組んでいるのは、集団で空気が液化するほどの超低温を実現し、純酸素を得ることだ。  純酸素が手に入れば、製鉄が一気に進歩する。反射炉・パドル法とベッセマー転炉の段階を蛙飛びできる。  ジニの桁外れの頭脳でしかできない精密な魔力の編み目。そして、ローレルの人間とは次元の違う魔力。それを合わせれば、実際に空気を液化することは可能だった。  だが、それはどちらかがいなければできない。誰にでもできるものでなければ、技術ではない。 「でも、ウリエル先生の世界はもっと細かな、超LSIを作ることができています。縮小印刷で」  それでわかれよ、という目。 「分担して、一人一人は普通に編む程度なのを、たくさんつなげて、細かい編み目と同じににするのか」  アロンドの言葉にジニがうなずく。 「それなら、普通の魔法使いだけでも、大気を液化できるかもしれない」とラファエラ。 「大気を液化できれば、純酸素が得られるんです」ジニが熱く言い、マヒャドを極度に増幅した、恐ろしく細かな呪文の編み目を広げてやる。  皆が一瞬、恐怖に怯えた。だが、ほっと息をつく。ジニは呪文を編むことはできるが、発動できない。 「それができれば、薪炭も節約できますよ」とヘエル。  真夏にお祭りをするのは、〈ロトの子孫〉に多いジパング系の伝統だ。  藁などで何か巨大なものを作り、思いきり飲み騒ぐ。  馬で遠くまで走り回ることもある。  そんなとき、下手なバイオリン一挺だけでもあるのはとても嬉しいものだ。  ドラゴンもやってきて酒を飲むが、ケエラはそれが余計に気に入らない。それでディウバラにやつあたりし、ダンカがそれを叱ってはケンカになる。  王宮の建築は、今は基礎だけをやっている。ザハンの隣島に向かう旅の扉を取りこむ形だ。  開墾で特に厄介な、大きい石が出たら王宮に連絡すると、怪力の持ち主が何十人か来て、そして大型ヘリが来て運んでいく。  海に近ければ切り出し、石は海に沈めた状態で船で運ぶ。そうすると浮力で重さが半減し、運びやすくなる。  そのような人たちを開拓民がもてなすが、そのときにはちゃんと十分な保存食と現金で支払ってくれる。  測量する人が立ち寄るときも、同様だ。  ロト一族は技術水準は高いが、それほど建築には関心がない。  アレフガルド内で隠れ住む〈ロトの子孫〉は、山間地の隠れ里では防御されつつすぐ撤収でき、外からは建物ではなくただの岩のように偽装する半地下砦を好んで作っていた。廃坑に住むことも多い。  また、町では人々にまぎれるため、周囲と同じ家に住んでいた。独自の建築様式など発達させるわけにはいかなかった。 〈ロトの民〉は、もっとも定住性の高い水田稲作を主にしており、ジパングから聞いた茅葺平屋を真似る者もいる。長期保存には高床倉庫も建てる。  だが、遊牧民の誇りを忘れず気軽に移動できるゲルも理想とされ、気まぐれに野宿する。  南方に住む〈ロトの民〉は、テパと同様に絞め殺しの木を使う木家を育てることもある。完成まで三十年はかかるが、いちどできれば数百年メンテナンス不要で、同時に食料も得られる。ただし、それは熱帯でしか育たない。  全員が数学を学んでいる。そのため開拓地でよく建てられるのが、幾何学的にもっとも合理的なドーム状の家である。ゲルにも似ているので、親しみやすくもある。  屋根はいくつかの窓を除きつる植物が覆うに任せれば、夏涼しく冬暖かい。雨水も無駄にせず、樋を地面近くに螺旋を描き一周させ、水がめで回収する。  家畜を入れる建物も、固定式は好まない。遊牧民は元々、寒くなれば暖かい地域まで移動するので家畜を屋根の下に入れるなど考えない。  大型の二重テントに入れ、テント自体を移動すれば掃除の手間はかからない。固定式の畜舎は糞尿の清掃が大仕事だ。さらに近代工場畜産となると、膝まである糞尿の池で牛豚を暮らさせたり、鶏の場合金網の上で生涯を過ごさせたりという残酷な代物になる。  移動したら耕しておけば、家畜の糞尿がたっぷりの肥料となる。それこそ、瓜生が出す最新改良種、本来は大量の化学肥料を投入してやっとまともに育つ代物にすら十分以上だ。  春ならばしばらく休ませてトウモロコシ。  夏なら分解が早いので耕してすぐ雑草を茂らせて牧草とし、伸びたら刈り取ってサイレージ、刈り株をラツカが食い尽くしてブホが根を掘り耕し、そのまま冬小麦を蒔くのに間に合う。  冬作に間に合わない秋や冬なら、春まで寝かせて最上の野菜畑としたり、トウモロコシ・木綿など肥料要求が激しい作物を植える。  みんなが一人用のテント・毛布・ハンモック・蚊帳は所有していて、家畜を追っていて日が暮れたらそれで寝るし、いい加減な建物で寒くなれば建物内でもテントを張って寝る。  ドームを建てるには、木で足場を築き、成型した石をセメントで積んだり、木を三角の組み合わせで組み、藁を混ぜた土を塗り、上に漆喰を塗るなど、さまざまな方法が使われる。そこで手に入る資源を、環境負荷が小さいよう、組み合わせる。  アレフガルドの再開墾で、多数の〈ロトの子孫〉がいろいろな建築を試し、多くの失敗データを手に入れている。  そして、ローレシア王宮も、高い壁に囲まれ多くの人が密集した都市にはしなかった。  元々都市は、集まって外敵から身を守るためだ。城塞都市メルキドのように。  だが、〈ロトの子孫〉は隠れ逃げる暮らしだったし、銃器があるので高密度に集まる意味はあまりない。  また、銃砲や高度な魔法が発達すれば、城壁などお笑い種になることもよくわかっている。数十年後には廃れるもののために、膨大な費用と人材を費やすなら治水に使うほうがいい、とアロンドが決断した。  何より、アロンドがガライの墓で体験したヒトラーの記憶が、マジノ線が役立たずだったことを痛感している。  元々大灯台の島など〈ロトの民〉の領土でも、大きな城はなく住居は分散されている。  移動距離を短くして集団で仕事ができるようにするのも都市の長所だが、全員が馬を持ち、多くはルーラも使えるロト一族なら移動距離が長くても問題ない。自動車前提のロサンゼルスも参考にした。  一つの家あたりの面積を広く取って家と家の間を開け、各戸が悪臭を処理できるストーブがついた堆肥場と廃水処理畑を構え、馬を飼って野菜の多くを自給しながら、乗馬で遠距離を高速通勤する。  果樹も植えて堆肥をやる。レモンやオレンジなどかんきつ類やベリー類はビタミンC補給のため必ず植える。気候によってナツメヤシ、マンゴー・バナナ、ブドウ・イチジク・オリーブ、リンゴ・柿・梨など果樹を育て、できるだけドライフルーツや酒にする。  家の間の、水の便がいいところは深いあぜを掘り、高い部分では木綿、低いところには水を溜めて稲を、大量の堆肥で育てる。  上水道がやりにくいが、各戸上総掘りの技術で井戸を掘っている。  通勤先の工場や学校、病院などにはそれぞれちゃんと馬小屋があり、馬に水と餌を与え、運動がてら動力も出させている。  ローレシア王宮の近くも、いくつかの緑に覆われたドームばかり。煙突からは浄化された色のない煙だけ、大きなテントから竜馬が出てきては草を食んでいるだけ、都市とはとても思えない眺めだ。  だが、訓練ではっきりしている……あちこちのドームに据えられた迫撃砲と重機関銃の網、いつでも掘れる塹壕と鉄条網は、城塞都市よりはるかに敵を寄せつけない。  そんな、一見森と野原のような都だが、いくつかの大型ドームは常設の市場となっている。  また、河岸の漁師町から、河口をぬけてしばらく行くと、巨大な空母と超豪華客船が係留されている。  秋が近づき、トンボが舞いはじめると、緊張感が強まっていく。  霧が近い。といっても、べつに霧は秋に出るとは決まってないから、いつでも油断するなとは言われている。  ロト一族は、みなが戦いたがっている。だが、戦車があってさえも常人は数分もたなかった。  ラファエラたちも頑張っているが、今年はどうやら時間切れのようだ。  今年は、アロンドとアダンのコンビに加えて、ジジ・ジニ・ローレルの三人が加わった。  瓜生はひたすら、遠距離から無人機で、また多数仕掛けた赤外線カメラやマイクなどで観測に徹する。  同時に、開拓民たちは収穫できる作物を次々に収穫し、大量の野菜を塩漬けにし、穀物を干している。運べるものは大灯台の島や元鬼ヶ島に運んでおく。  また、家畜が短時間で隠れられるように地下倉もあちこちに掘って、魔法をかけておく。  そんな中、ケエラはいろいろ悩んでいた。  前にムツキの元で姉妹のように過ごしたラファエラと、ジニがやっている魔法研究に、自分もジジの特訓を受けた縁もあり参加している。  そして、ムツキに武術の特訓を受けているダンカを、ルーラを使える彼女が迎えて帰る。  そのとき、ダンカがジニやラファエラに会ってしまう。そのとき、どうも嫉妬してしまうのだ。  毎日のように、「何話してたの」「なに約束したのよ」などと問い詰めては、嫌われたかと自己嫌悪に陥る。  そして、そのことでラファエラに笑われたり、またラファエラがダンカをからかったりするので、余計面倒なことになる。  ちなみにジニは無関心そのものだが、彼女がダンカを信頼していることはよくわかってきて、それが余計許せない。  またディウバラに意地悪をするのもやめられない。彼がバイオリンに夢中なのが、なぜだか許せない。  自分の、竜の種を受けた馬がなかなか大きくならないのも、何か悪いことをしたのかと思ってしまう。  そして何より、霧に対して無力であることが辛い。  霧が出ぬまま稲刈りを迎え、不安の中収穫を祝っている。  家畜に引かせる稲刈り機が普及しつつあるので、仕事は大幅に楽になっている。 「もう、霧なんて出ないんじゃないか」と言うものもいるが、そんな人ほど怯えている。  収穫は莫大だ。貯蔵庫を作るのが追いつかないほど。  もう、二十人と多数の竜馬、セロで、必要な食料の五倍は軽く収穫され、当座必要な分以外は売られている。  家畜が急に増えているので、需要はある。  その収穫で、いろいろな買い物をすることもある。  大ヒット商品になったのが、かまどに埋め込む形の鋳鋼製圧力鍋である。  蓋は木製でねじになっている。重りで圧力を調整し、バネで圧力を測る非常弁と低融点金属で二重に安全を確保した大型のもの。別の鉄蓋を使うと、厚い鉄はダッチオーブンのようにパンを焼くことも揚げ物をすることもできる。  かなり大型で、内部に薄い鉄でできた鍋を二段か三段入れて、飯と煮物を同時調理するのが普通だ。  それを実現したのは、ネジ切りを実現した旋盤技術。ジニはまだまだ全然精度が足りないといきまいているが。  それと、ミシンの前段階と言うべき縫い物を補助する器具も売れている。  収穫が一段落して、久々に学校に行けることになったある日を、少し描いてみよう。  ダンカの一家を含む〈ロトの民〉は皆で、設備の整ったゲルで暮らしている。いくつもの家族が混成なのでややこしい。  その近くに、竹を編んで土を塗ったドームの、その上にテントをかけた家がいくつか並び、その一つでケエラたちは暮らしている。  朝は相変わらず、夜明けより早いほどだ。  上総掘りの深い井戸から水を汲み、水がめに入れる。また大型ストーブのボイラーから、残った湯を抜いて、新しく水を入れる。  残った湯は朝の支度に使う。大きなヤカンで運び、ぬるま湯にする。  瓜生の故郷や豪華客船の、蛇口をひねれば湯が出る水準から言えば不便だが、ザハンやアレフガルドの庶民から見れば王侯貴族だ。  まだまだ、大方のことは皆で協力してやる。  全員でハンモックから降り、それぞれの仕事に走る。  ダンカはもう、たくさんの家畜たちの世話を始めていた。昨日、セロの一匹の腹が異常発酵で膨れ上がり、ろくに寝ていない。ホースを呑ませてガスを抜く、という荒療治でなんとか助かったが、睡眠不足は皆も同じだ。 「今霧が出たら」それに、怯えている。対処できないことはわかっている。  でも今は、と気持ちを切り替えて、増え続ける家畜を見ていく。家畜の仔が次々に増えて、にぎやかな作業でもある。  昨日死にかけたセロは、なんとか生きているし、ダンカの手に反応する。  セロ、竜馬、ベルベ、バロ……乳を出す家畜だけでも何十頭にもなる。その乳を搾り、運ぶだけでもとんでもない労力だ。  大量の、種類ごとに混ぜた乳、それに卵が運ばれ、冷やされる。  乳の家族消費分は飲める者は飲むし、合わない者はヨーグルトにしてしまう。  卵を運ぶとき、「一つのバスケットにすべての卵を入れるな」は子供全員、身をもって経験している。貴重な現金収入源、朝のごちそうを全員分失った時の皆の非難は、一度やったら骨身に染みる。けれどもどの子も、笑い責める側にこのあいだいたばかりでも、やらかしてしまう。  ちなみにそのバスケットも、葛や柳、竹から彼ら自身が編んだものだ。アレフガルドの再開墾で、使い捨てトイレとして毎日素早く草を編んできた経験はちゃんと活きている。 「朝よ!」という女の声が母屋から響くまで、骨の折れる作業は続く。  ケエラは、朝はむしろ力仕事を担当する。無器用なので料理はとてもできない。ただし、ヒャドで冷蔵庫を冷やすのは誇れる仕事だ。  共通の地下貯蔵庫から、アレフガルドから買い入れたリンゴ、オレンジ、元鬼ヶ島産の赤い果物を桶に入れて台所に運び、それから炊事用の水を汲んでくる。  たっぷりのミックスジュース、絞りかすは家畜のところに持っていく。竜馬やブホにはごちそうだ。  トイレも順次済ませる。竹筒を使うこともあるし、最近はローレシアで、乾性油で防水した竹紙の袋も安く売られ始めている。  大と小は別にし、大は家の近くにある堆肥場に、小はその近くに密封状態のまま積んでおく。あとで、石組みの半密閉された、中に石灰や草木灰が積んである地下室に流し入れる。尿素がアンモニアに分解され、さらに細菌の作用でカルシウムやカリウムと反応して硝酸塩、硝石になる。  硝石は火薬の原料であり、ハム作りにも欠かせない。  朝、ジュースを飲み小さなレバーソーセージを食べ、本格的に朝食。  今だけしか味わえない、つみたてをゆでた甘く瑞々しいトウモロコシ。  キーモアのスクランブルエッグ。ラツカの肉が親指程度。糠魚と炊いた大根と大豆。  ゆでたサヤインゲン・カボチャ・レンズマメ・ビーツ・大根葉と、生のアルファルファスプラウト、クレソン、タンポポにマヨネーズをかけて。  糠漬けにしてから間もないキュウリ、ザワークラウト……塩漬けで乳酸発酵したキャベツ。  ヨーグルトがたっぷり。  山積みになるトウモロコシの皮と芯は、家畜のごちそうになる。  箱膳を使って、最後に食器に湯を注ぎ漬物でぬぐって飲み干し、蒸留酒を含ませた布でひとぬぐいするので、洗い物はないに等しい。  大人は弁当を作るため、また料理に戻る。新米を硬めに炊いて握り、味噌をたっぷりつけ、大型鋳鉄ストーブのオーブン機能で焼く。ピーナッツとヒマワリの種を炒る。アカアリの幼虫の佃煮を包む。  子供たちは馬で池まで走り、体を洗う。今まで男女は意識していなかったケエラだが、数日前から恥ずかしくなって、男女別で洗うように言い始めた。  ケエラのものとされる、竜の種を受けた馬は、そうでない竜馬がぐんぐん大きくなるのにまだ小さい。  ほかの開拓地でも、竜の種を受けた馬は小さい、という噂も聞く。  身支度を整え、運んでいく生乳・卵・野菜などを四人一組で担ぎ、次々とルーラを唱える。  ローレシア王都の、半ば葛に覆われた半径8m程度のドーム。それが仮の王宮だ。  そこでは、目覚めたローレルが早くも走りたがっている。  だいぶ大きくなった次男のサムサエルを、ローラとキャスレアが世話を始めた。  アロンドは、さっそくグレープフルーツジュースを一杯だけ飲み、軽く歯を磨いてすぐ謁見に向かう。  朝から、謁見を求める人たちは数多くいる。  ローレルが、駿馬に乗った若者を追って、しかも腰にはタイヤを引きずりながら外を走り始める。それでも、簡単に馬に追いついてしまう。  世話役を買って出る若者たちも、次々とギブアップしてしまう。  怪力をアリアハン王家から受け継ぐロト一族だが、ローレルのパワーはまだ子供、見た目は普通の可愛い盛りなのに大人の誰よりも、桁外れなのだ。ベンチプレスで、瓜生の故郷の世界記録の三倍は四歳のとき軽く持ち上げている。  本格的に謁見が始まる。 「なぜ、これほど広い土地を王家の土地として?」地図に、王宮を囲むように太く描かれた円帯と、港の近くの広い岩山が示される。 「正当な代価を払い購入していることは、検証できる。そうだな」と、傍らのハーゴンに目をやり、その頷きを確かめる。 「この土地は将来、都を囲む環状線となる。鉄道としても道路としても、何十年か後には必ず必要になる。ここの広い土地は、空港の予定地だ。ウリエルの故郷では、空港が政治の問題となり、激しい争いが長く続いたそうだ」 「ですが、これほどよい土地を、それまで耕作を禁じるとは、もったいないのではないですか」言い募る老人。 「この大陸には、よい土地はたくさんある。また、収容地は将来の枕木のためのクリやオークを植え、その実でブホを育てる計画もある。そなたの欲のためであれば、よりよい土地を与えよう。公のためであれば、将来紛争なしに鉄道や空港を整備できることが、大きな公益になることは誓う。また、思い出の残る巨木など、失えぬものがあるのなら考えよう。公の力で人を踏み潰すための国とはしない」  アロンドは暖かく語りかけ、はっきりした威を示した。  老人は思わずひざまずく。  次にはザハンの神官がやってくる。 「おうかがいしたい、あなたの王国では邪神教団の存在を許しておられるのか」と、憎悪に満ちた目でハーゴンをにらむ。  ハーゴンの目は、信じられないほど暗く深い虚無だ。何の感情もその顔には出ていない。 「宗教は禁じない、だが人間の生贄は絶対に禁じる。それだけだ」アロンドはきっぱりという。 「それが、できるとお思いですか。魚に空気を呼吸せよというに等しいのですぞ」 「〈ロトの子孫〉の祖には、家族を偽ヒミコに生贄とされたジパング民が多くいます。彼らは決して、生贄を許しません。彼らの目を逃れることなどできません。そして私自身も、妹と母親を生贄にされた男の子孫でもあるのです。ラメエル」  アロンドの言葉に、何人も〈ロトの子孫〉の官僚がうなずき、厳しくハーゴンをにらむ。  目配せを受けた老人が系図を取り出し、ジパングの女からアロンドにいたる系図を説明した。  やっと朝の謁見を終え、ローラとサムサエルを交え大急ぎで朝食をすませて、また少し仕事をしてから、アロンドも運動する。どんなに忙しくても睡眠・栄養・清潔・運動は欠かすな、とロト一族共通で言い聞かされている。  ローラ王妃さえも、注意深く運動をしているのだ。  おかげで体型と美貌が保てる、と彼女自身は喜んでいるが、キャスレアはアレフガルドの貴族女は子を産めば太るほうが美しいものを、と嘆いていた。  今の、集中せずに戦闘力1300以上のアロンドと、体力だけで200ぐらいはあるローレル親子が運動するのは並大抵ではない。基本の徒手と剣も、通常の重力……地球の95%程度……ではほとんど負荷にならない。  ルーラで土木工事など必要な場所に赴き、何千トンもの重さを引きずることで、かろうじて軽い運動になることもある。ただし、どれほど力があっても地盤が軟弱なら足が地面を削って空回りするだけ、彼らが運動できることはめったにない。  魔法で空気抵抗を何万倍にもして走ったり踊ったりすることで、かろうじて運動している。その呪文も、サデルやジニを中心とした魔法エリートが作った代物だ。  学校となっている空母につき、まずバイヤーたちに農牧産物を見せる。幾人かの買い手が品質を見比べ、最も高い値をつけた者が買う。  代金はちゃんと金融を通じ、開拓村に行っている。ソロバンを打って、粘土を塗った板に押しつけ、それに売るダンカと買い手両方の指紋を押せば、認証は確実だ。  時々、バイヤーたちも開拓村に行き、清潔に扱われているかどうかは審査する。きえさりそうを使っていることもあるので、油断はできない。  それから、子供たちはいつもどおりの授業。  徒手と剣の練習、一時間近く荒れる外洋をボートでこぎ、競争する。  宿題をやってない子はやり、やってきた子は提出して遊ぶ。  そしてそれぞれの授業に移る。  今日は授業に、ローレルとアロンドが来た。時々学校に顔を出すことがある。  そのこともあり、今日の授業は前半と後半に分けることになった。前半は十人に一頭ずつラツカの解剖、後半は人間の死体解剖。  まず、すでにザラキで死に血抜きが済んでいるラツカを、十人の班が机に置く。  匂いが強烈だ。  血と体液が、あちこちの穴からもれる。 「後で食べられるように、ちゃんと処理しろよ」 「徹底的に、肘までちゃんと手は洗ったな」 「髪の毛は出してないな」 「マスクに漏れはないな」  など、先生が一人一人徹底的に調べる。全員、白衣にゴム長靴に着替えている。  とはいえ、特に開拓組は、自分たちで家畜を解体するのは慣れている。〈ロトの民〉も、家畜解体は儀式ともども、生活の一部だ。  儀式や歌で感情を制御し、悲しみより喜びと、生命との一体感を歌いながら、慣れている者が鋭利な短刀で素早く腹の皮を切り裂き、肛門を縛り、匂いのある腺を外す。 「一つ一つ、スケッチして触ってみるんだ。ちゃんと名前を、共通語と日本語で書き取れ」  血に濡れた手で、先生が示す大きな絵図を見ながら、石板に字を書いていく。  絵が得意な子は丁寧に、細かく書く。  まだ日本語を覚えていないザハン出身の子は、ひらがなで共通語の発音を書き、また絵を描いている。 「ルーペも使ってみろ」  レンズの加工も発達している。それでより細かく見て、細かな血管や組織も理解する。  手早く皮をはぐ。柴犬程度の大きさだが、皮だけでも結構な重さだ。  内臓を一つ一つ、別々の器に入れていく。  腸の中身は別に堆肥に入れるが、凄まじい匂いにみんな辟易した。それを丁寧に洗えば、ガット……羊腸線、テニスラケットに昔使われていた強靭な繊維にもなるし、ソーセージの皮にもなる。  一つ一つ、名前を確かめながら内臓を切り離し、スケッチする。  神経・血管・リンパそれぞれの、全身を覆う網を手と目で確かめる。  筋肉を一本一本確認し、骨から外す。最後に完全骨格を作り、それから骨を割って中身をのぞく。  頭蓋骨を分解し、柔らかい脳を丁寧に調べる。  子供たちは皆、夢中を通り越している。この授業では私語もないし、気が散る子もいない。 「刃物を使うんだからな、気をつけろ!怪我をしても慌てるなよ」 「人に刃先が向かないように、いつ滑っても、自分も他人も怪我しないように」  と、先生が叫ぶまでもない。  まあ、無器用なケエラが怪我をしそうになってダンカが後ろから抱くように押さえ、皆にからかわれることはある。毎日のようにしていることだから、なぜからかわれるかダンカにはわからない。  むっと、血と内臓の独特のにおいが満ちている。防水の床が、大量の体液で濡れている。後で洗い流すほかない。  意外なほど、色鮮やかな眺めだ。白と赤だけでなく、黒や青、黄色や緑すらあちこちで見られる。  アロンドはひたすらローレルを押さえて、丁寧に手元の本と見比べながら、興味深く見、子に見せている。  版ごとに大人が監視し、合格とされた家畜は市場で肉や皮として売られる。  失敗したのもいくつかあり、それは教師のごちそうとなる。だから、子供たちはわざと失敗しようとは考えず、真剣にやっていた。  最後はちゃんと儀式と歌で、気持ちを切り替える。  昼は皆が持ってきた弁当だが、茶だけでなく粥と馬乳酒も食べ放題になった。  昼食の後、病死した老人の死体を解剖する。  ロト一族は、原則として死者は全員献体され、解剖実習に使われた後に、埋めて寿命が長く大木になる木を植える。  そしてその木に名や業績を刻めば、きわめて長時間生き続ける。果樹は禁じられ、伐採もされない。  まず葬儀の延長で、故人の事を聞き、体を捧げてくれる死者に感謝を述べた。  それから、こちらは医者たちの執刀で、人体が一つ一つ解体される。  性器も生々しく丸見え。ついさきほど、自分たちで家畜を解体した子供たちだが、こちらはまたショックが違う。 〈ロトの子孫〉には、戦場で見た死体を思い出してPTSD状態に陥る子もいる。  ケエラも激しく震え、涙も出ず激しい呼吸で過呼吸に陥り、ダンカが必死で支えていた。 「過呼吸だな。口を布で覆うか、紙袋などで呼吸を制限しろ」と、大人が言うのに何とか従う。  医者たちは冷静に解剖を進める。  ザハンから耕していた人々のショックは大きい。教育・医学のために死者を解剖するなど、想像すらできないことだからだ。  病んだ臓器の衝撃も大きく、嘔吐する子もいる。  それでも、解剖は淡々と進む。冷静な子や上級生はいろいろ書いている。  消毒薬の匂いが、むっとただよっている。医師の言葉だけが、静まり返った教室に響いている。  死んで解剖される人もいれば生まれる人もおり、ケエラの村では〈ロトの民〉の新婚夫婦に、近く子が生まれる。  結婚で出て行く予定の者もいるし、新しく加わる者もいる。  実習が終わり、遺体は再び丁寧に縫い直される。そして儀式が行われ、解散となる。  一休みしたら、今日最後の授業は銃の練習だ。  走り、伏せ、掘り、撃ち、また腕立て伏せのように身を起こして走り、伏せて銃を構えながらほふく前進し、また撃って、障害物を越えて走る。  鉄条網をくぐり、銃声とともに非致死性弾が飛び交う中をほふく前進し、塹壕を掘る。  また、騎馬で走りながらの射撃もやる。  今は瓜生がいるので、全員が無制限の弾薬で、AK-74とサイガ12ショットガンを練習している。  ショックからやっと立ち直ったケエラが、得意のAK-74による正確な伏せ撃ちで次々と的を撃ちぬく。  だが、騎乗して駆け回りつつ、距離を正確に測っての遠距離射撃では〈ロトの民〉が優れている。  ザハンから来た子も、やっと叱られずに銃を扱えるようになってきた。  アロンドも練習に参加し、手本を見せる。幼いローレルさえ、銃の安全な扱い方は教えられている。  子供たちにも刃物や銃を握らせ、魔法や武術を教えるロト一族にとって、暴力の管理は実に頭が痛い。  逆に圧倒的な暴力ゆえ、いじめは起きにくい。狙撃は誰にも防げないのだ。  それでも、子どもは残酷だ。男の子も女の子も、形は違うが残酷だ。  前から、ケエラはディウバラのバイオリンに触りたかった。理由は自分でもわからない。  そして、女子の集団で下級生の教室に、通りかかった。  ディウバラが、何か用があったのか、肌身離さないバイオリンを置いて出かけていた。 「あんたのとこのザハンからの子でしょ」 「特別にウリエルさまに、すごい楽器もらったんだって?」 「ずるいよね」  そんな、女の子どうしのちょっとした会話。寝不足。  理由などない。なんとなく下級生の教室に入り、好奇心からバイオリンのケースを空け、木の芸術を眺め、手に取る。 「どうしたっけ」 「確か、客船で見た映画では」と、弾くフリをしてみる。だが、見ているだけではわからないことがある……バイオリンは、手で持つのではなくあごと肩ではさんで支える、ということなど。  誤った持ち方の弓が弦に触れ、音に慌てて取り落とす。  パニック状態になる女の子たち、だがそこに、小さな影が入ってきた。 「大丈夫ですよ。わたしに任せてください」 「ハーゴンさま」 「大丈夫大丈夫。みなさまは〈ロトの子孫〉の、それも勇者ロト直系のエリートですよ。悪いようにはいたしません」 「そうよ、そうよね。エリートだもん。ミカエラ女王直系だもん」 「お、お願い」 「どうやるの?」 「それは、女の子達は知らないほうがいい方法ですよ」ハーゴンがニヤニヤ笑う。 「えー、教えて教えて!」もう、罪悪感などどこかに行ったように、女の子たちが興味津々に聞く。 「ゴキブリ、という言葉になりますが、それでもわたくしめに石を投げないでしょうか?」  キャーッ、と押さえた悲鳴が上がる。だが、それは歓声も混じっている。  嫌悪と興味は紙一重だ。特に、被害者が自分以外なら。いじめられっ子を苦しめるためなら、喜んでクモを素手で集めてくる。 「ケエラさま、ジジさまの教室でラファエラさまやジニさまと学ばれた、エリート中のエリートであるあなたならおわかりでしょう。  魔法で姿を変え、敵将の側近と入れ替わって、敵の従卒を操って敵将を刺させて、あなたはこう叫ぶ……『いくら、前の戦で女を奪われたからって』そうすれば、あなたは安全です。  操られ主君を刺した従卒自身が、『操られた』という情けない事実よりも、『恨みからだ』という言い訳のほうが正しいと、そちらにすがってしまいます。そうなればどんな拷問もうそ発見魔法も、『恨みからだ』という答えしか引き出せません」 「そう、そうね」ケエラの表情が笑顔に戻る。  もちろん、ハーゴンは自白しているようなものだ……自分が操った、と。だが、パニック状態の彼女たちはそれを絶対に直視しないことも、わかっている。 「もちろん、誰にもないしょにしますよ」  ハーゴンの不気味な笑顔。  ケエラはほっとしたようにバイオリンをハーゴンに押しつけ、いそいそと教室から逃げた。  学校の視察を終えたアロンドたちは、ルーラであちこちの開拓地や鉱山を回り、視察とその場での謁見をする。  彼は自分の目で、どんなふうになっているか確かめたがる。謁見を待って会いたがる人に会うより、自分から現場で働いている人に話しかける。そんなところは、ヒトラーのうまくいっていたころを真似ている。  放課後、ディウバラは何も知らずに、ガライ一族の音楽学校に向かう。  ケエラはラファエラたちの魔法教室に。  ダンカは本当なら徒手武術の特別講座だが、今日は寝不足なので休む、黙って教室に行ったら追い返せ、と実家から連絡されていた。  馬で帰ったら深夜にはなるしキメラの翼は高いので、ケエラを待つことにした。ダンカは烈光拳が使えるが、僧侶系の素質しかない。  魔法教室と言っても、ローレシア北方にできつつある、製鉄所の近くにあるドームだ。  滝のような急流のほとりで、上流から引かれた別の流れが水車を回している。かなり大きく、上から水を注ぐ効率の高いタイプだ。  急流自体にも、多くの水車がある。桟橋もあり、上流や下流から鉄鉱石・石炭・粘土・石灰石などが運ばれる。  騒音と、奇妙なにおいと熱気が常にある。  そんな中、ジニが何度か、非常に細かい魔法の編み方をやってみせる。彼女は発動はできないので、サデルが発動するための魔力を注ぐが、それが一回で魔力切れになるほど大量の魔力を消費する。  鉛板の箱の中に、何かとんでもないことが起きていることがわかる。あっという間に箱が溶け、凄まじい高熱を感じる。 「極小のブラックホールが蒸発した。鉛はガンマ線を浴び放射能を帯びているので注意して、あとでウリエル先生に消去してもらうように」 「さ、みんなで同じ呪文をやってみましょう」  サデルに促され、皆で魔法を編む。一人一人の分担分も、かなり細かい。維持し、発動準備をするのにかなり呼吸が乱れている。  サデルが監督して、一人一人の編み目をつなげ、全員で大きな編み目にする。  ミナデインや二人で放つメドローアのように、大きい編み目が広がる。それはジニの、細かな編み目と相似だった。  ラファエラが注いだ魔力に、同じ大きさの鉛箱が激しく揺れ、爆発する。魔法使いの一人が防御呪文でかろうじて全員を守った。  ケエラが、糸がぷつっと切れるように意識を失い、倒れる。ラファエラも激しく息をつき、へたりこんだ。 「できなくはない、わかってるけど、やっぱりきついわね」歯を食いしばりながら、サデルが二人を助け起こす。 「極大呪文を連発するほうが、ずっと楽です」ラファエラが深呼吸する。  ジニは、もう工場に向かっている。耐熱煉瓦の比較試験の結果が出る。そちら側の、技師たちの間でも彼女は中心人物だ。  自信に満ちた、学校での彼女とは別人のような美貌。控え室で居眠りしていたダンカがその気配に目覚め、驚いた。  意識を取り戻したケエラが見たのは、ジニを見送るダンカの後ろ髪だった。  日は暮れかかっているが、ケエラは何も言わずダンカと、用があるジニも連れて、ディウバラを迎えに客船にルーラ。  ジニもケエラも疲れていて、ダンカに半ば支えられながら。  ディウバラは、何か非常に辛いのをこらえている表情だった。 「どうかしたのか」ダンカの言葉に、 「なんでもない」と、ディウバラは首を振った。 「その表情は、大丈夫じゃない」ジニが言い、かといって何もせず、「送ってくれてありがとう。わたしは0805室に向かう」  と、無表情のまま廊下の分かれ道から歩き出した。ただ、いつもの会釈と声に、わずかな感情をケエラは感じた。 「ダンカ!寄っていこうぜ!」〈ロトの民〉がカジノから呼ぶ。 「あ、今日は疲れて」ダンカが言いかけたのを、 「やろうよ!」ケエラが叫んで引っ張りこむ。「ディウバラも、いやなことがあったならぱーっとやろう!」  瓜生はその光景を見るたびに、違和感に叫びそうになる。子供たちが、パチンコ・カードテーブル・ルーレットを囲んでいるのだ。  入り口で大人が、共通貨幣のトークンとは別のメダルを渡す。ケエラは早速パチンコをはじめる。  ディウバラがどこにも行こうとせず、一人で泣きたがっているようなのを見たダンカは、麻雀のテーブルに誘った。  三十分遊んで、ディウバラが倍満を出したのを潮時にダンカが容赦なくケエラを引っ張り、出口でメダルを換金しようとした。  そこで、当然のように大人は三人を別室に連れて行く。  怯える三人だが、そこは何十人もが座る教室だった。  プリントを配られる。それには、「統計・確率」と書かれていた。 「遊んだら、ちゃんと授業を受けていきなさい。いい、ロト一族はカジノを運営する側であって、金を捨てる側じゃないんだ」  皆が帰ったときはもう日も沈んでいたが、子供たちの力もあわせて四日ぶりに家畜用ゲルを移動する。  上のカバーを外し、重りをのけ、竹でできた骨を外してたたみ、十メートルほど蓄力を借りて移す。  移す予定地も軽く足で測量し、水たまりになりそうな窪みからは竜馬三頭の力で溝を掘る。周囲にも、雨が流れこまないようすばやく溝を掘る。  残暑はまだ残るが、かなり夜は寒いので、ゲルはしっかりしなければ特に幼い仔が死にかねない。  雨がちなので、糞尿の溜まった土は耕さず放置する、と大人が決めた。かなり気温は下がってきてるが、うまくすれば冬までに一度、今育っている雑草を収穫できるかもしれない。それから耕してライ麦などをまけばいい。  そして夕の乳絞りを終え、水と飼料をたっぷりやって、やっと夕食。今日は昨日の疲れが残っているので、開拓村全員で食べることになった。  夕食は新米のご飯一杯ずつ、サツマイモ・カボチャ・大豆・ヒヨコ豆の煮物、ゆでたトウモロコシ、ヨーグルトがいっぱい、サツマイモの茎と納豆の味噌汁など。  みんな、ものも言わずがつがつと、信じられない量を腹に詰めていく。  子供たちが学校に行っている間、大人たちも仕事をこなしている。  セロや馬の力を使ってだが、収穫したり冬用の貯蔵庫を掘ったり、池や溝を掘ったり。  木を切り、炭を焼き、切った分の苗を植えたり。  全員分の洗濯も大変だ。家畜の力も借りるにしても。  測量や気候観測などの仕事も、毎日こつこつとやっている。  疲れきり、今夜は音楽もない中、宿題に手をつける余裕もなくハンモックに這いこみ、熟睡した。  ケエラだけは罪悪感で、よく眠れなかったようだが、それも圧倒的な疲労に勝てなかった。  ディウバラはバイオリンから虫が這い出したとき、バイオリンを落とさず抱き締めた。  だがその力が強すぎたのか、明らかに音が狂った。 「ぼく、うまれ、つき、しんし、ないぼく、バイオリン、いけないの」と嗚咽をこらえる彼に、瓜生は故郷で売られている、バイオリンを作るための道具と材料のキットを与えた。  それから、彼はバイオリンをひとりで作り始めた。誰も信用せず、森の奥にテントを作り、頻繁に移動しながら。  一頭の竜が、その音に惹かれたように出てきた。  そして、音の狂ったバイオリンの音を聞き、バイオリンを作る作業を見守っていた。 「ききたいの?音楽」少年の言葉に、竜は答えない。だが、小さな竜も加わっている。 「ウリエル先生、言っ、た。『バイオリンより素晴らしい、この世界ならではの楽器を作って欲しい。この世界の曲を作って欲しい。俺の故郷を追いかけるのはやめて欲しい』。でも、バイオリン、すごい、音楽、音楽、音楽」  そう、もつれる舌でつぶやきながら泣いて、涙を押さえて壊れたバイオリンを弾き始める。  霧が出た。今回はもう経験済みで、避難訓練も欠かしていなかったので家畜も混乱なく避難させ、全員が大陸から避難している。  馬のように変身したアダンの背に乗ったアロンド。アダンの髪の数本が長い蛇となり、襲撃する無数の、虫サイズから象サイズの魔物を瞬時に毒牙にかける。  ジニとローレル王子は、ローレシアに近い工場群周辺を守っていた。  ローラ王妃は心配していたが、ローレルが駄々をこねて押し切った。  ジニが常人の頭脳では不可能な情報量で、とてつもなく細かく魔力を編み、それにローレルがサデルでも一度でカラッポになるような魔力を一気につぎこむ。  トヘロスの上位呪文が発動される。地下も含め二人の全身を入れる正二十面体の内部には、何者も侵入できない。  魔法使いたちのマホカトールが工場群全体を守っている。一つ一つは小さいが、高炉、熱風炉、反射炉、コークス乾留炉、圧延工場など複合製鉄所が隣接して、水力を利用して集まっている。明治維新には近い水準だ。  去年は、巨大すぎる怪物の踏みつけで、魔法で守られた建物も破壊された例があった。そのため、本当は図書室で勉強していたいジニだが、ローレルを伴い戦場に出てきた。  といっても、広い机を用意して、そこにたっぷりと食物や飲み物を並べ、左手でローレルの手を握って、右手ではワイルズによるフェルマーの最終定理の証明を《下の世界》の共通語に手書きで書き写していた。瓜生がゾーマに教わった同値な別解とも比較し、注釈を書き加えながら。  机の紙もぼやけ、湿るほど濃い霧。  その脇に、軍用のタブレットやレーダーの表示板がいくつも押しやられている。二人の後ろには剣が何十本も積んである。  ローレルは、恐ろしく分厚い鋼の鎧を着ている。子供サイズでオーダーメイド、だが合計重量は彼の体重より重い、100kgは軽くある。まともな子なら立っていることも無理だ。  鎧の上のベルトに、何十本もスパイダルコナイフがずらりと、クリップで留められている。  むずがるローレルが、突然敵意をむき出しにする。  ジニはうるさそうに手を止め、軍用のタブレットを取り出し、机に並んでいるレーダー計器を見る。 「製鉄所には、誰だろうと指一本触れさせない」  霧に何も見えないが、レーダーははっきりと怪物の姿を映し出している。瓜生が出した、大量の遠隔操作砲塔やレーダーもジニは掌握している。  高速で襲いかかってきた、地上を走る戦艦ともいうべき金属の巨体。地震とも思える振動だけが伝わってくる。  その巨大さは、レーダーだけが知っている。叩き込んだファランクス20mm機関砲・メララ76mm艦載砲も、レーダーを埋め尽くす影の動きを変えていない。  美しい顔を眉一つ動かさず、ジニが軽く呪文を唱える。突然超巨体が宙に浮かび、巨大な足があがくのがレーダーにも映る。  重力を反転し、倍加した。浮き上がり、突進の勢いのまま上に加速していく。そして……百キロ以上離れた、周囲に一人も人がいない岩山に、高度二万メートルから落とした。  その間にも、正二十面体を無数の怪物が叩く、ジニはうるさげに別の呪文を唱える。  ローレルの掲げた手から、焔の鳥が姿を現す。  大魔王や神々の水準で放つメラゾーマの真の姿、カイザーフェニックス。それも一度に四羽。  さらにその、アロンドが放つのとは違いハヤブサ程度の小型の焔鳥は、いつまでも消えることなく高速で霧の中に飛びこみ、そのまま飛び続ける。  それでも、霧を通して激しい熱気は伝わってくる。  持続時間と速度だけを高め、ローレルの魔力が敵と判断した相手だけを自動的に攻撃するよう命じた。  数メートルの、それぞれが高速で岩のように頑丈な怪物が蒸発し、熱気に霧が揺らぐ。無数の怪物がつながった、ネックレスのような何かがまとめて炎に変わる。  霧を、強烈な20mmガトリング砲と76mm砲の砲口炎が揺るがし、レーダーの奥で次々と怪物が破壊され、直後に周囲の霧ごと凍結している。 「サンプルも必要だ、とウリエル先生が言ってた」ジニは静かに一つ一つレーダーを眺めている。 「ジニ、ジニ!退屈、退屈、戦いたいよお」とむずがり、泣きながら手に力を入れるのを、必死でローレルは抑えている。  ジニは軽く困惑しながらローレルを見た。  この子が本気でつないだ手を握ったら、彼女の手は一瞬で消える。彼女は機械を学ぶために何度も手を潰してはベホマで回復しているので、その痛みには慣れているが。  彼女の手は、美少女のそれとは思えないほど油で真っ黒に汚れ、古木のように節くれだち、傷だらけだ。数学や魔法だけでなく、機械やガラス加工にも高い才能を持つ彼女だが、それは常に手を痛めつけることにもなる。 「我慢できないの」ジニが冷たく言い、静かにレーダーを見回すと、厚く幅広の長柄剣をローレルに示した。  普通の鋼。10kgはあり、大人、それも怪力専用と言っていい。だが、ローレル王子は藁のように、小山から二本二刀で抜き出した。  ローレルの怪力は桁が違い、怪力を誇る〈ロトの子孫〉すら対抗できない。  とんでもなく分厚い板金鎧のまま走り出し、2秒で時速100kmを超える。霧を見通せる者なら悲鳴を上げるだろう、何本もの足を持つ20mはある塊が待ち受けている。  容赦なく、霧の中から太い金属棒が高速で突き出されてくる。  見た目小学校低学年の少年が、戦車装甲もぶち抜くようなそれを、自分の体より大きい剣を片手で振るい受け止める。金属棒に着地、走り渡って本体と思しきところに巨剣を叩きこんだ。  その瞬間、凄まじい魔力が剣を通じて炸裂し、巨大な怪物と剣が一瞬で光に融ける。  魔法剣。それもめちゃくちゃな威力だ。  着地した小さい鉄塊に、霧の中から巨大な角が突き出される。だが分厚い鎧はその先端を受け止め、よろめきはしたが立て直した。手が角をつかむや、サイぐらいある巨体を軽く投げ上げた。  落ちてくるのを残った剣で切りつけると、怪物と剣がまた光に消え、湧き上がる気流が霧を乱す。  ローレルが使える剣が存在しないのが、アロンドたちの悩みだった。魔力を帯びる、市販の最高級品である炎の剣・光の剣・隼の剣でも、小さい少年の手に握られ、山にでも叩きつけられれば一撃で消滅する……山もクレーターとなる。  雷神剣や、老いたロトの剣でも壊れるだろう、と上位魔法使いたちは見ている。  竜神の魔息、メドローアの魔力に耐えられる剣など、人智の限り存在し得ない。  アダンが破壊の剣の姿を取ったこともあるが、小さい子に握られた瞬間慌てて人間の姿に戻り、「無理だ!死ぬって、消えるって」とわめいていたものだ。  鎧の小児を霧の中から次々とタコのような触腕が襲う。一つ、スパイダルコをベルトから抜いて親指一本で刃を開き突き刺し、消滅させる。  だがその間に、さらに三本が周囲から絡みつき、手足に巻きつき持ち上げる。  一瞬で、1cm近い鋼の板金鎧がひしゃげるほどの力がかかるが、ローレルの肉体はそれにも耐えた。  いくつもの吸盤にある、鋭い牙も板金鎧が防いだ。  引っ張るだけで引きちぎれる、だが触腕は何十本も次々に襲う。  プレスのような力に軽く対抗している、それでも持ち上げられ、まるで濃い海水に浮かんでいるように、身動きが取れなくなる。  呼吸もふさがれ、じたばたする……それをどの計器でつかんだのか、霧の向こうで何も見えないジニが、通信機の一つのボタンを押した。  直後、バギクロスと長い剣が、次々と触腕を切り刻んだ。  竜女と瓜生が、ひしゃげた鎧に包まれたローレルを抱え上げる。 「よく助けを呼んでくれたな」瓜生が霧の向こうのジニに、ヘルメットのヘッドセットから通信で呼びかける。そして魔法のかかったブルパップ散弾銃から放たれた短距離メドローアが、怪物に大きな虚無の穴を開ける。  その瓜生を襲う別の、クラゲのような怪物の触手を巨大なダースドラゴンの牙が食いちぎり、直後凄まじい炎が吐かれる。 「こちらも竜王の御子。殺させはしない」  巨大なアゴが横から襲う。ダースドラゴンの30m以上、太さも10mはある巨体を、猫がサンマに食いつくように襲う、牙の長い深海魚のようなアゴ。  それに瓜生の散弾銃が向けられると、凄まじい衝撃波が霧を揺るがす。魔法で加速されたスラッグ弾が、砲弾並みの運動エネルギーで連射され、アゴを爆砕した。  巨竜に守られた瓜生の手から両手剣が消え、ペティナイフが出現すると、それがまた切れぬもののない切れ味で鎧を大根のように切り裂き、幼い王子の姿を出す。  瓜生が竜女に一言いい、ローレルを抱いて消える。  ジニはやってきた竜女の手を握り、結界呪文を強化すると多数の火器を遠隔操作し続けた。 「普通なら人は、人を頼ることをためらうものだが」と、竜女。膨大な魔力を引き出され、ジニの精緻な編み目に驚いている。 「わたしは単独では魔法を使えません。銃器だけでは、あの状態から王子を助けるのは不可能でした」  竜女が、呆れたような共感したような表情をする。二人共、常人とはかなり違う合理主義者だ。  アダンが変形した、馬のようなものにまたがったアロンドは、怪物を撃退しつつ西へ西へと駆けていた。  霧の源、異世界への門を見出すために。 「こちらからは攻撃しない、話をしよう!もうやめてくれ!」と、アロンドは叫び続けながら戦っている。  だが、怪物たちは霧の中、すべての動く物を攻撃してやまない。あるところより西にいくと、怪物の質が大きく変わる。  海に暮らす生物のような怪物が多かったのが、半透明なクラゲに似た怪物と、岩のような材質のザリガニに似た怪物が大半になる。  どちらも小さくて20m、大きければ300mはあり、恐ろしく頑丈だ。  クラゲの無数の触手は、人間の腕ぐらいの太さでも主力戦車の主砲をひんまげる。  50m級の、ザリガニもどきがジニたちを襲ったときには、ファランクス……バルカン砲の20mmタングステン徹甲弾でも阻止できなかった。音速に近い速度で動き、凄まじい威力でハサミを叩きつけてくる。  だが、アロンドとアダンにとっては敵ではない。破壊の剣が流し込んだ魔毒に、100m級のクラゲが制御を失い霧に溶けうせる。雷神剣の一撃がザリガニもどきに風穴を開け、その穴を騎馬が走り抜ける。  霧がより濃くなり、邪悪な気配が強まるほうに向けて駆けている。  前回はそうして追っていると突然霧が晴れたが、今回は霧はより濃くなり、霧に重みすら感じるほどだ。  白い闇。  徐々に心が蝕まれそうになる、むしろ敵の攻撃が救いともなる。 「むしろ、とんでもねー強いのにでも出てきて欲しいもんだ」アダンがぼやくのに、 「まったくだ」とアロンドも答える。  霧がより濃くなるところへ、まるで犬が嗅覚を頼りに獲物を追うように急ぐ。コンスタントに時速200km以上、疲れも知らずに。  たどりついたのは、巨大な大陸の西端近く、湖のほとりだった。 「ここか」  そこの怪物の密度は異常だった。  それに対し、アロンドは地に下りるとアダンを剣の姿に変え、魔力を増幅・集中して一閃する。  絶大な魔力に増幅された破壊の力が、周辺地域を侵していく。  ゆっくりと、蛇に噛まれた傷口から毒が広がっていくように。そして、奥の何かの心臓を冷やし止めるように。  その直後、後方から襲おうとした怪物が動きを止め、見当違いの場所を破壊した。 「油断してんじゃないわよ」と、ジジの声。 「そうだな」とアロンドが言うと、アストロンを唱えて多数の怪物を鉄にする。 「固定してくれ」という言葉に、ジジが呪文を唱え、すぐに消えた。  彼女はほとんど姿も見せず、アロンドをサポートしているようだ。 「む」アロンドが、強烈な恐怖と脅威を感じ、破壊の剣すら手放して力を集中させていく。  霧を通して、凄まじい稲妻が溢れるようにアロンドの、拳を掲げた肉体を包む。 「お、おい」アダンが怯え、離れた。  と、みるみるうちに霧が薄れ、晴れていく。  蠢く怪物たちの気配が、みるみるうちに減っていく。  アロンドが力を抜き、普段どおりに戻って見回してみると、久々の青空が広がっている。湖面だけが濃い霧に覆われていた。 「なにするつもりだっんだよ、どれだけぶっ壊すつもりで」とアダンがかみつく。 「かなり強い相手がいた気配がしたんでね」と、いつもどおりのアロンド。 「ま、まあ確かに嫌な奴がいたよ。でも」あんたにくらべたら、とアダンは言おうとして口をつぐんだ。  霧が晴れて後、宮廷では何人かが、多くの資料を見ながら会議を続けていた。  長かった霧の事後処理も大変だったが、それも後回しにして、霧とその怪物たちについて。  昨年は対応しただけだが、今回はジニが何体もサンプルを得た。  昨年、倒した怪物の死体は霧が晴れれば消えた。今回はジニが凍らせたり、アロンドが長期間持つようアストロンをかけたりしたサンプルが多数あった。 「まず、あれは何なのか、だ」と、アロンド。 「竜王の創る怪物、この世界に普段からいる魔物、また竜族たちとは違う」と竜女。 「機械、にも思える怪物が結構いたな」と瓜生。 「あの怪物たちは、何を目的にしているんでしょう」サデルが首をひねる。 「いくつか仮説を」と、ジニ。「動物を食料として狙っているだけ、というのが一つですが、効率が悪すぎます。また、あれほど異質な生物が、普通の動物を食料とできるでしょうか。  また、単に熱源を攻撃している、とも見えます。熱源を狙っているかどうか、天然の温泉や火山で検証できます。  魔力の源を攻撃しているかもしれません。それも検証可能です」  竜女がうなずく。 「生前の、竜王の戦略目標をうかがっていいでしょうか?」とアロンド。 「竜王陛下はそれほど理性的ではなかった。光の玉を奪った人間に対する憎しみが強かったし、それにローラとの子が強い王になりすべてを征服できる、という予言に憑かれておった」竜女が軽く肩をすくめる。  竜王との戦いで家族を、仲間たちを失った〈ロトの子孫〉たちが怒りを押さえ顔を伏せる。  竜女の、復讐心のなさも人間にとっては異質だ。 「サンプルの分析は?」と、アロンドがレポートをめくる。 「今も続けていますが、難しいですね。アストロンがかかっていても、霧から出たらすぐ消滅します。人工的な霧では維持させられません」  瓜生とジニが肩をすくめる。 「その、消失するということ自体が面白い」 「元素は、大半が生物と同じ、水素・酸素・炭素・窒素です。霧から出ると、そのつながりがなくなり、水・窒素・二酸化炭素にまで瞬時に分解されるようですね」とジニ。 「霧にも、我々の魔力とは違う、なにかの力がこもっています」とサデル。 「目的は何か、忘れるなよ。最終的には、交渉か打倒か。そのために相手を知ることだ」アロンドが軽く脱線を止める。 「このまま、霧の時だけ逃げてれば?」とジジ。 「やめたほうがよい。今回、アレフガルドやムーンペタの一部にも霧が来ようとした」と竜女。 「ありがとう、止めてくれたんだな」アロンドが一礼する。 「魔の島は今上、そなたらがヤエミタトロンと呼ぶ竜の領土じゃ」 「霧の中心は、あの霧が絶えない湖のようですね。上空からのレーダー探査で、どうやら洞窟があるようにも見えます」瓜生がデータのプリントアウトを広げる。  霧はともかく、開拓や研究は進んでいる。今回の秋は、測量データがかなり整ってきたので港湾整備もはじめた。  原則として、干潟は開発しない。やや沖合いに、今は瓜生の能力を用いて大型船を固定し、そこまで陸から吊り橋をつなげることにした。 「将来、鉄道がこちらに広がりますからね」アロンドが地図を見ながら機嫌よく笑っている。 「鉄道やるなら絶対狭軌はやめろ。最初にケチるとあとで絶対直せないぞ」と瓜生。  開拓民も、収穫後も忙しい。  水田の刈り入れがすめば豆や麦、ゲンゲなどをまきつける。畑にはライ麦など。  冬に備える。根菜を収穫し、葉を漬物にしたり家畜のごちそうにする。  ジャガイモを積み上げ、藁で空気が通るようにして土で埋める。  ついでに、少し離れたところにも上総掘りで井戸を掘り始めた。  枯れかけた葛を刈っていると、突然大きな蛇が巣を作っていてビックリしたこともあった。  春生まれた家畜たちも大きくなっている。ラツカやミラジ、ブホなど成長が早い肉用家畜はもう出荷されている。  ケエラなどは泣いていたが、誰よりも家畜を大切にしているダンカは逆にさばさばしたものだ。ディウバラは言葉や表情ではなく、音楽で表現しようとしている。  竜馬やベルベも十分大きくなっている。  だが、ケエラが与えられている、ドラゴンを父親に持つ馬は、大きくなってもポニーサイズだ。だが力は巨大な竜馬に劣らない。それに粗食に耐え、凄まじいほどにスタミナがある。  巨大な馬を見慣れているとなんだか情けないが、乗るのは楽だ。最初バカにしていた子もいたが、竜の血が濃いからだと知れば掌を返した。  さらに、竜と馬の雑種に魔法使いが乗っていれば、魔法使いが使える魔力が圧倒的に増す。  瓜生たちが綿密に測定すると、食べた飼料の、普通の食物のカロリーと筋肉だけではその力は説明できない。ある種のバイキルトを使って肉体を強化しているようだし、エネルギーも別のやり方で取り入れているようだ。  魔物も食物のカロリーだけでは説明できない体力があるし、肉体も普通の動物よりずっと強靭だ。  出自の違う人々が集まって働く暮らしにも慣れてきた。子供が次々と生まれて、いつも少しずつバランスは変動する。  子の世話も分担しているが、教育が最優先される。  ケエラとダンカの村では新婚夫婦が、いい見本となった。  妊娠期間中のややこしい健診、出産が空母の病院で行われたこと、そして退院後も健診などが繰り返されること。何より、二人続けて生まれた赤子が二人共死なずに育っていることに、ザハンから来ていた人たちは驚嘆している。  出産で歯が抜けたりしなかったことも。  ロト一族の乳幼児・妊産婦死亡率は、他の常識からみれば異常に低いのだ。  人口はこの二年でもはっきりと増えつつある。〈ロトの子孫〉は竜王との戦いで若者が多く死んでいるが、当時子供だった者が成長しているので、もう三年もしたらたくさん子供が生まれると計算されている。  その時に備えて、産婦人科医の育成にも、瓜生やベルケエラが熱心に取り組んでいる。同時に、獣医の需要も多く、ダンカはそちらに誘われている。  ただし、ザハンの人たちが戸惑うこと、それは〈ロトの子孫〉や〈ロトの民〉が、普段の生活にも幼児の子育てにも常に干渉することだ。  このことは、以前からはっきりしている。家族でも女子供を殴ることを許さないロト一族に、外から人を入れるときには、ある程度のプライバシーの侵害はやむをえない。  小さい子だけでも、ある程度まともに育てなければならない……オーストラリア先住民の、子を親から引き離して白人の手で育てた悲劇と紙一重なのだが。  ローレシアの都に初雪が降った頃、ザハン出身の人々が、子供たちも含めて客船に集められた。  何事かと思った彼らに、アロンドが話しかける。 「新しくロト一族に加わった諸君に、ともに学んで欲しいことがある。このほど、ムーンブルクの貴族の次男、セラデミがこのローレシアを侵略する計画を立てた、と知らせが入った」  軽く間をおく。 「数百から、最大でも二千程度の食い詰め者を率いてくるらしい。ムーンブルクの宮廷神聖医師の過激派、ジャテエカも加わっている、そちらが主導だとムーンブルク貴族のレアヤから。こちらの防衛を、手伝いつつ見ていて欲しい」  言葉に、ザハンの人々は顔を見合わせている。  特に、ムーンブルク宮廷神聖医師団の名前にどよめきが上がった。 「ザハンのルビス大神殿と、ムーンブルクの神殿は歴史的に軋轢があるようだな。特に神聖医師団はザハンからの独立に積極的で、またロトの医術を強く憎んでいる」 「勇者ロトに従うぞ!」 「共に戦うぞ!」 「アロンド王に従うぞ!」  と、かつてと同じ絶叫が、特に若く貧しかった人々から上がる。  だが、老人やかつての神官貴族層は不満げな表情もしている。ロト一族に加わってからの、生活の激変は凄まじい……虐待されるわけではないが、かつてのように多数の奴隷を使うような暮らしはできない。  それでも、ムーンブルクに対する反発はあるので、複雑ながら感情を表に出さずにいる。 「こちらで、それに関する報告を見てください。全員、です。文字が読めない人は隣の読める人から聞いてください。  ガライ一族の歌い手からの報告書。ムーンブルク宮廷に通っている医者が聞いた話の報告。  どちらも本来は日本語ですが、共通語訳もついていますのでお読みください」 「ムーンペタは、一応ムーンブルクに服属しているけれど積極的には加わらない、と知らせてくれました」 「水の補給はするけれど、上陸は認めないと」  ムーンペタそのものには寄らず、アレフガルドに挟まれた内海の沿岸沿いにやってきた船が、旅の扉がある場所近くの岸辺に錨を下ろした。  長い航海と激しい嵐に帆は吹き散らされ、船は汚れている。  誰もが、壊血病で口から血を流し、ふらつき死にかけている。  大型のボートが下ろされ、岸にこぎ寄せられる。それもかろうじて。  一人の、贅沢だが汚れた服を着た男がよろめき降りると、地面に倒れた。 「おお、神さま、この大地を与えてくれてありがとうございます!この大地は全てこの俺、セラデミのものだ!」  叫びを聞きながら、ぼろ服を着た男たちがよろめき降りてくる。 「さあ、行こう。ローレシア王城を攻め落とせ、アロンドとかいう偽勇者を生きながら手足の指を一本一本焼き、潰し、腕や足を引きちぎり、焼き殺すのだ!」贅沢な服を着た男が叫ぶ。「われらにはムーンブルクの神官、ジャテエカどのもついている!」 「ロトの医術という邪法を用いる邪教の者たちを皆殺しにしろ!」と、後からよろめき立ち上がった長身の男が叫ぶ。 「女はよりどりみどり、宝石と黄金の山があるぞ!」  セラデミの声に、力尽きかけていた男たちが絶叫し、走り出そうとする。  そこに声。 「上陸を歓迎いたします、ただし検疫と、当局への報告をお願いいたします」ムツキの穏やかな声。  十七人の男女と、さらに百人以上の男女が次々と馬に乗り、あるいはルーラで出現していた。  それだけではない。船も、複雑な三角帆を持つ七隻の船に囲まれている。 「ぬ、ぬうさっそくあらわれたか。よし、では来い。女と黄金をよこせ!」  ぬめり、と邪悪な笑みが男たちの頬をゆがめる。 「お断りします。平和な交易のためにいらしたのなら話しましょう」  平然とムツキが言う。 「なにを……」いきりたつ、贅沢な服のセラデミに、長身のジャエテカが話しかける。 「よし、長を呼ぶがいい、長を!」  そう叫んで、何枚かの布や宝石、剣などを並べ始める。  ゴッサが、のそりと低く筋肉太りした体を運ぶ。服装は簡素。ゆっくりと、重々しい歩きだ。  静かに男を見上げる。 「お前がここらの長か?」  ゴッサは頷くのも面倒、という表情だ。  贅沢な服の男が、左右に軽くあごをしゃくる。  その瞬間、槍を突きつけようとした従兵二人。ゴッサは一瞬で槍のけら首を二本とも切り落とし、長柄剣を柄頭いっぱいに長く突き出して、セラデミの鼻の穴に剣先を入れていた。  剣先の平部が鼻の穴を引き上げているまま、すっと体を寄せて剣を短く握りなおす。 「ロト一族は昔から、ウリエルさまの本を通じてスペイン人やイギリス人たちのやり口はよく聞いてるわ」と、ムツキが無表情につぶやく。 「大灯台の島の〈ロトの民〉も、何度もあんたたちみたいなのを撃退している」と、〈ロトの民〉。 「お、女」 「美しいぞ」 「黒髪」 「おんなああああああああああ!」  ボロボロの男たちが、激しい獣欲をむきだしにして襲いかかる。  ムツキのポニーテールが軽く揺れる。最初の男の手を手の甲で触れたかと思うと軽く引き崩し、顔面をはたくと同時に股間に蹴り、即座に投げ倒す。  男の歯がほとんどない口からあふれる血、どす黒くただれた皮膚を見て、「ひどいビタミンC欠乏症ね」とつぶやく。  次の瞬間、鋭い体落としにまた一人宙を舞い、ほぼ同時に襲う男が斧刃脚にスネを蹴り折られ泣き叫びながら突っ伏す。  比較的元気な男が剣を抜きゴッサを襲う、ゴッサは基本に忠実な一突きで心臓を貫いた。  そして腰の手旗を抜き、数度振るう。  遠くの峰から閃光、それから……ほんの一秒後、男たちが乗ってきたボートから激しい炎が上がる。  バレットM107の、徹甲焼夷弾。着弾から三秒ほど経って、やっと銃声がかすかに響き、煙が上がっている。  直後、激しい音と共に森影から多数の騎馬が駆けてくる。 「降伏しろ。戦うなら来い」と、ゴッサたちは空馬に飛び乗り、駆け去った。 「く、くそおおおおお!怪物どもめ、悪魔どもめ、皆殺しにしてやれ!」  叫ぶ長身のジャエテカ。セラデミは贅沢なズボンに大小のしみを作っているが、それも今更というほど服は汚れている。  船から、何度もボートが来ている。  もちろんその船を囲んでいる軽快な帆船には火器も積まれている。  M2重機関銃と25mmブッシュマスター機関砲、81mm迫撃砲。一隻でナポレオン時代の戦列艦隊をアウトレンジで圧倒できる火力だ。  だが、その帆船は手旗信号を見て何の干渉もせず、包囲しつつ鮮やかな技量で細かな上手回しを繰り返し、位置を保っている。  何度も、大型のボートが波に揺られながら往復している。何人かが力尽き、激しく殴られてこぎ続けている。  よろめく、ムーンブルクの侵略者たちは数頭の馬を引き、よろよろと甲冑を身につけて、よたよたと広い野に向かう。  四百人ほど。船に詰められるだけの人数だ。ここまでの船旅で百人以上は死んでいる。  すでに、数十騎の騎馬隊、それも一人につき馬三頭ずつが並んで待っていた。  百頭を超える竜馬の迫力は凄まじい。  対して、ムーンブルクはわずかな板金鎧の騎士。ほかは槍を持った、ボロ服が多い。数人は鎖帷子を着ている。  魔法使いも二人いる。  かろうじてまとまろうとする、そこに凄まじい速度で騎馬が押し寄せる。 「迎え撃て!」という叫び、呪文を唱えようとする魔法使い、だが呪文は完成せず、魔法使いも僧侶も口を押さえる。 「ま、マホトーンだと」  焦っているあいだに、もう騎馬は二百メートルに迫り、そして鮮やかに左右に分かれる。  その、分かれた股から、すっと天に線が伸びる。  よく見れば、小さくしか見えない影が何かを投げている。  数秒後。天から、鋼の細槍が降り注いだ。  騎士も鎧や馬ごと貫かれる。 「あれ、歩けない……あ、あれ」一人が見ると、足が地面に縫われている。  やっと気がつき、阿鼻叫喚の絶叫が起きる。  同時に凄まじい閃光。三騎ずつが隊列から離れて敵に接近し、左右各イオナズン二発とギガデイン一発ずつ。  大爆発と稲妻の嵐が何十人も打ち倒す。  左右に分かれた騎馬隊は包囲するように統制を保ちつつ、鋼の槍と攻撃呪文を放ち続ける。  次々に貫かれ、海に向かって逃げ出す者もいるし、泣き叫びひれ伏す者もいるし、わけもわからず武器を振り回し泣き叫びながら騎馬隊に向かおうとする者もいる。  戦意がある者は、瞬時にメラゾーマに焼かれる。  戦力が失われた瞬間、ぴたりと投槍はやんだ。  それから数人が駆け寄ると、駆け回る男たちをうつ伏せに伏せさせる。  それから血の海を作っている死傷者のところに向かい、槍を抜き、懐のビンから酒を注ぎながら呪文を次々に唱えた。  死体が、一つずつ蘇る。爆発や稲妻の嵐に、バラバラになっている悲惨な死体すら蘇るものがある。  世界樹の酒を使った、瓜生に習ったザオリク。確実に蘇生するのは正統な王に祝福された勇者たちだけだが、世界樹の酒を用いれば八割は蘇生する。  そして世界樹の利権も、ロト一族が独占している。  重傷者はベホマラーで一気に全快し、何が起きたのかと呆然としていた。 「まだやるか」ゴッサの重い一言。  男たちは恐怖に震え、ひざまずいていた。 「こ、降伏する」 「助けてくれえええええええ」 「もう、もういやだ」 「お、おろかもの、なにをいうか、このような悪魔たちには神罰が下ろうぞ」長身のジャエテカがバギを唱え始めるが、それも即座にマホトーンで黙らされる。 「う、うぎえあ、こ、こんがげがはありえぬ。あれえあぬ、かみがゆぐううすすはあああずー」  もう、ゴッサたちは相手にしていない。一人一人を見回し、戦意がないことを確認する。 「なら、送り返してやろう」 「全員ビタミンC欠乏症、死ぬわよ」とムツキが言う。 「ライムジュースを与えましょう」 「いや、だめでしょう。ムーンブルクの宮廷神聖医師、ジャエテカがいます」 「なら仕方ないでしょう」  と、数人の士官が話し合い、ゴッサのうなずきを受けて、素早くかつ容赦なく、敵軍全員に注射を始めた。瓜生の指導のもと、工夫で作り上げられた滅菌注射器と薬。実は圧力鍋を作ったのも、医療器具の滅菌のためだった。  もちろん全員、槍で刺されるように怯え震え上がっている。 「これでしばらく持つだろう」  もちろん、ジャエテカは泣き叫び、口から泡を吹いている。 「さ、さっさと帰れ」  と、次々と捕虜を三人ずつに分け、一人のロト一族がつかまえたままルーラを唱え、消えていく。  しばらくしてまたルーラで戻り、同じことを繰り返す。  母船もとっくに制圧し、帆を交換し水を補充してやって、回航が始まっている。  一部始終を見ていた、ザハンから耕していた人々は呆然としていた。 「じゅ、銃も使ってない」  銃の訓練を受けている子供たちが、自分の銃を抱きしめた。 「こ、これがロト一族」 「ぼくたちも、その一員なの」 「信じられない」  大人は恐怖と畏怖に、子供は畏怖に誇りが混じる。 「なぜ、皆殺しにするとか奴隷にするとかしないんだ」  ややいい服を着た大人の言葉に、子供が 「ロトの掟!決して虐殺、拷問、強姦はしない、人を奴隷にしない!」と叫んだ。 「生意気を言うな、そんな……非常識な」と殴ろうとしたが、見えない手がその拳をつかむ。 「子を殴るな、誰かが常に見ている」と、声だけがささやき、そしてまた気配が消える。  いい服を着た大人は、恐怖にへたりこんだ。 「さて、戦後処理だ。そのほうが重要だぞ」と、いつの間にか出現していたアロンド。 「みんな一人一人、考えてくれ。もしも君が王なら、まずどうする?」アロンドの問いに、ザハンの人々が驚く。 「そんなこと、考えていいはずがあるわけないじゃない」 「考えること自体が反逆だ」 「農奴の子が考えていいはずなんてない」 「われはアロンドに従うと決めました、お試しくださいますな、反逆を考えることなどいたしません」  しばらく好きなだけ言わせておいたアロンドが、軽く手を叩き態度を変える。  ゴッサやムツキたちが下馬し敬礼するのに、ついザハンの人々も真似てしまう。  子供たちは学校でしばしばやるように、きちんと整列する。  近代国家は、国民の集まりだ。その国民を形成……型にあわせて射出成型・大量生産するのは、義務教育と徴兵制度だ。  工場・病院・刑務所も同様に近代的規律を核心に持つ。  学校で何より重要なのは、時間を告げるベルに合わせて、多人数全員が一人を注目し、姿勢を維持すること。  教室で先生の話を聞くのも、全校集会で校長先生の話を聞くのもそれだ。  体育祭などのために行われる、集団行進の訓練も重要だ。鼓笛隊も重要な要素だ。  その集団行進は公立中学の卒業式で完成し、徴兵制度で磨きをかけられる。全員が制服を着て、ばかばかしいほど細かい校則を守るのも、軍隊に適応するための準備と言っていい。  銃器が普及し始めた、フランス革命からナポレオンの時代の軍隊は、規律こそが戦力だった。  全員が一糸乱れず、太鼓とラッパに合わせて行進する。戦場でも訓練どおりに。  たとえ大砲が目の前で自分に向いて火を吐き隣が肉塊となっても、退きも走りもせず横一列行進で歩き続けて敵に接近し、命令されたときだけ一気に斬りこむ。……第一次世界大戦で、鉄条網と機関銃で何千万もの将兵が犬死にするまでそれは変えることはできなかった。火縄銃程度の銃しかないナポレオン戦争では有効だったから。  それこそが無敵の近代軍にほかならない。  軍隊だけでなく、工場でもその訓練を受けている工員とそうでない者では、生産性は桁外れに違う。  学校が時間割で動くのも、軍隊と工場に適した人間を作るためだ。  単純に学習効率だけなら、授業前後に十五分ずつ自習時間を設けて予習復習させ、昼に三十分昼寝をしたほうが格段にいいが、その延長では蒸気機関で動く織機のボビンを昼夜二交替で点検し続け、フォード以来の自動車工場のラインでネジを回し続けることはできない。  50分授業10分休憩は、工場でもそのまま通用する。軍隊も、音楽とベルやブザー、ホイッスルで人は動く。  国家にとっては、どちらかと言えば読み書きソロバンより、起立・前へならえ(整列)・気をつけ・休め・行進ができればそれでいいのだ。  当然のように整列する子供たちを、ザハンの老人たちは怯えるように見た。  大神殿との関わりが多いザハンゆえに、宗教儀式における規律も多くは経験している。  近代の学校の構造、時間割、細かな規律などは教会・修道院の影響もある。全員が並んで座り、一段高い段から説教する神父や牧師と、学校での授業・朝礼や全校集会を比較すれば明らかだ。  それを言葉として理解することはない。ただ、自分より上の人間がやるのをまね、従うだけだ。だが、人間の心と体はそれを理解している。それで、言葉にできない凄みをロト一族から感じているのだ。  子供たちが、怪物になろうとしている、と感じている。 〈ロトの子孫〉の祖の中心にいたのは、瓜生が〈上の世界〉ネクロゴンドに創立した産婦人科医学校の出身者。病院と学校の両面で、徹底した清潔と科学的思考、人権思想に並んで、近代的規律も一年弱で叩きこまれた人たちだった。  ジパングやサマンオサ出身者の権威主義や無駄な儀式を嫌う面で修正されながら、最低限必要な規律は教育制度に入れ、伝えてきている。  実戦と、建築や農業のための規律を。徒歩でも騎馬でも集団で一糸乱れず歩き駆け、行進し伏せて銃を構えて発砲し、全員で拳と剣を繰り返し、歌や踊りを練習し、農業や土木などの実習をすることで。  血縁と暴力ではなく、言葉で解決する経験を繰り返すことで。  規律のある集団の戦闘力、生産力の凄まじさを常に体験させることで、心から納得させている。だからこそ、誰もが真剣に取り組む。  それと根本的に相反する、自分の頭で考える訓練もしているのがちょっと分裂している。他にも、近代規律集団の最悪の面は取り除いておくため、ガブリエラと瓜生が考え抜いて基礎を築いた。  その規律で並ぶ、ゴッサたちとザハンの子供たち。 「さて、みんな考えて、今度の宿題に出すように。共通語も読み書きができなければ口で言ってもいいよ。  私は、ちょっと勝手にやらせてもらう。いいね、自分の頭で考える。同時に、実戦では命令に従って行動する。命令でも、ロトの掟は破らない。その区別をちゃんとつけ、どちらも大事にするんだ」アロンドが子供たちに声をかけ、命令する。 「戦勝を祝う宴の準備。同時に、各国に知らせを」  命令を聞いたムツキが復唱敬礼し、ルーラで消える。  ザハンの人々が大量に担いでいた酒や食料、天幕は、そのためだったかと納得する。  さらに、ルーラでかなりの数の〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉が出現し、彼らがザハンの人を指導して動き出す。  素早く穴を掘ってテントを張りトイレの準備をする。  穴を掘って枯れ木をくべ、近くの水場からくんだ水を沸かし始める。  何度も繰り返された、集団での行動。トイレ、火を焚く穴、湯冷まし、食料、寝床。それは近代的な軍隊が常に行わねばならないことでもある。  ムーンブルクから来た侵略者は、不潔な生活とビタミンを知らないこと、食糧不足による体力低下で伝染病が蔓延し、戦う前から半分壊滅していた。  だが、こうしてきちんとトイレを作り、湯冷ましを飲み、栄養を取っていればずっと長い間、戦闘力を維持できる。  そして次々に炉が掘られ、火が燃えて肉が焼け、ごちそうがふるまわれる。  勝利したゴッサたちはもちろん称賛を浴びる。アロンドも称賛を惜しまない。 「危険ですよ」とハーゴンがささやくが、それも無視してゴッサに、なみなみと蒸留酒を注ぐ。 「さあ、みんなよく考えてくれ。まずすることは何かな?こんな、宴会じゃないだろう?」 「ええと、ごほうびを今回戦ったゴッサたちに」と一人の子が言い、親が止めようとするのをアロンドが鋭い視線で止めた。 「そうだったな。よく言ってくれた、勇気あるぞ。反対する人は?」アロンドの言葉。 「だって、あんなの弱かったじゃない」 「何をあげればいいかな」 「畑!」 「いや、貴族にしようよ」  子供たちがわいわい言うのを、大人は慌てて止めようとしていた。 「それもゆっくり考えようか。みんな一人一人。さてそれから、別にやることは何かないかな?」  そう、アロンドが子供たちに、次々と問いかける。 「追いかけて、ムーンブルクを滅ぼそう!そうすれば、二度とやってこないよ」 「侵略しちゃダメだろ!」 「でも、侵略してくるのを止めるのは、自分を守るってことだろ」 「それに、宝物だってあるかもよ」 「宝物なら、こっちにもたっぷりあるじゃない。食べきれない以上に取っても、もったいないだけだし、無理やり食べさせられて苦しいだけよ」  子供たちが話すのを、アロンドは微笑を浮かべて眺めていた。大人たちは、それを怯える目で見ていた。  考えてはならない、従え……絶対の常識を根底から破る、それが自分たちが仕えると誓った王なのだ。  大人は、どうしようもない。少なくとも全員に、新しい常識に順応するのは無理だ。ほんの少数、順応する者はいるにしても。  だが、子供は別だ。その子供たちも小さい頃の栄養不足で弱さがあるが、そのさらに子供たち。  追いつくのは孫の代だ、といったのは、嘘ではない。もっとも楽観してもそれだけの時間はかかる。 「そうそう、あの連中は、確かに弱かった。でも、ウリエルの故郷の歴史では、あれくらいの人数でも、何千万人もの帝国を倒してみんなを奴隷にし、黄金を奪った事だってあるそうだ。油断してはダメだよ」とアロンドが付け加える。 「うそだあ」 「どうやって?」 「それはね……」と、何人かの大人を集め、そのまま瓜生の故郷の歴史の授業が始まってしまう。  もちろん、ローレシアに残る幹部たちは素早く、外交面でさまざまな活動をしていた。  そのデータも、後にアロンドが子供たちを集めて教育する資料にするつもりだ。その時にはロト一族の子供たちも加える。  寒くなってきて森は紅葉し、イチョウなどは大量の落ち葉を落とす。  それは集めて堆肥にしたり、ベルベやガベーメに大量に食わせたりする。  銀杏の臭いに大騒ぎしては、埋めて種を得て食べるのも子供たちの常だ。  他にもさまざまな木々がたくさんの葉を落とし、冬を前にした畑は広くライ麦などがまかれている。  暖かい元鬼ヶ島で作られたケールなどの苗が大量に植えられている。  収穫などが一段落して、どこの開拓農村もたくさんの穀物や飼料を貯蔵している。  また、長期保存が難しい芋などは、できれば船で、なければ大きな箱に入れて担いでルーラで、ローレシアの工場に運んでデンプンにする。蒸留器を買ったところは発酵させて蒸留酒にしている。  二年で開拓した土地の収穫は、二十人から四十人の頭数と、それに家畜たちの一年分の食料の三倍から多いところでは十倍にはなる。  あちこちでその調子では、売るにも値下がりがひどくなる。  ロト一族は常に大量の食料を貯蔵するので、特に竜王戦役で備蓄を使い切った〈ロトの子孫〉には多少は売れる。  常に金になるのは、砂糖になるビーツやサトウキビ、苧麻・亜麻・麻薬成分のない大麻・ジュート・木綿・竹綿など繊維、アブラナ・ヒマワリ・エゴマ・アブラマツなど油、リンゴ・ブドウなど酒、アイ・ベニバナ・ウコンなど染料や薬になる作物。  ピーナッツは油としても、普通に食べ物としても、家畜飼料としても価値があり、かなり金になる。  家畜そのものも換金価値が高いし、毛・乳・卵も金になる。  桑からカイコを育て、絹を得るのは大変だが、その換金価値は圧倒的だ。蜂蜜や蜜蝋も金になる。  麻や木綿、竹綿、毛糸、皮革を服にまでするのは、昔の農村では多くの処理を自分たちでやるものだった。  実習としては子供たちもやり方を習う。  だが実際には、大半は大灯台の島などで、風車や水車、補助として馬を動力として機械を用いて加工している。もちろん、瓜生の与えた本から産業革命時代のジェニー・アークライト・ミュール紡績機・飛び杼力織機を何十年もかけて再現し、改良して。  これは〈ロトの民〉にとってかなり決定的なことだ。そうしているからこそ、子を教育できる。  農村で、繊維加工を自給自足でやれば膨大な時間をとられ、教育は不可能だ。宿題どころか、子供の労働力としての必要性が大きすぎて、学校に行かせることもできない。  アレフガルドの再開墾で、子供たちはそのことは思い知っている。宿題のほうがずっとましだ。  手の感覚がなくなる冷水に漬けた亜麻から、一本一本皮を剥いで、さらに裏の強靭な繊維だけをとっていく。それを糸にする……手先を非常に細かく使う、時々怪我をする作業を、何時間も集中し続ける。しかも強烈な悪臭もおまけだ。  織るのも、先進的な織り機があるとしても手間と時間がかかる、とんでもなく大変な作業だ。  工場で、動力でそれができてしまうことで、どれほど子供たちが遊び学ぶ時間を作れているか。  そのおかげで生じる余剰労働力も、アロンドたちは無駄にしない。測量や研究、工業基盤を築くのにも使うし、土木にも使う。  洪水防止・農業や工業や上水道の水を得るため・水力利用でダムはどうしても必要だ。鉱山の鉱毒貯めダムも必要だ。  だが、瓜生の故郷での弊害を知っている。  基本的には、流れをせき止める通常のダムではなく、主にトンネルを瓜生とジジの円筒距離制限メドローアで掘り、山を越えたところに分流してダムにしている。  川全体でもダムを作れる地勢は限られるが、山を越えて分流してそこをダムとすれば地形の制約がほとんどない。  そして本流は自然流なので、環境問題もおきにくい。  洪水防止のために本流をせき止める場合には、例外なく魚道と、土砂放流用のフラッシング……ダムの下側に水門を作るやり方をする。  ダムの必要性が薄い時期に水位を下げて下の水門を空け、土砂を自然な流れで流してしまうわけだ。  冬至が迫り、子供たちはいつ何日も不眠不休で歩かせられるか、と毎日靴を吟味しつつ、減った農作業の合間に集団で遊びまわっている。  時々、本番ほどではないが丸半日歩かせられることはあるので、歩ける靴をはいていて損はない。  冬至まであと十日ほどのある日。  妙に暖かい日で、そこらに見られる氷も解けかかっていた。  今日の学校はちょっと遠いが、大陸中央部にゴッサたちが作っている別の拠点に行き、朝は集団での乗馬、それから地図の計算や開墾の手伝いをして、そして放課後はそのまま夜中まで重い荷物を背負って歩くことになった。  その荷物も、炭鉱に必要な資材ばかりだったので、文句も言えない。  たまたま、グループとしてやや先輩のラファエラ・ヘエル・トシシュ・リレムが集まり、ジニ・ケエラ・ダンカ・ディウバラもそのグループに加わることになった。  開拓地の三人以外はかなり有名なエリートで、顔を合わせることも多い。ケエラとダンカも一応特待生ではある。 「みんなそろうのは久しぶりね」と、ラファエラ。  全員それぞれ重い荷物を背負い、息を切らせつつも、再会の喜びが大きい。  ラファエラは背も伸びスタイルもさらに美しくなり、勇者ロトことミカエラの写真に似てきている。 「ジニ、この子たちも紹介してくれます?」とリレムがケエラたちを見る。「ごめんなさいね、あちこち飛びまわっていて」  リレムは、年齢を推し量ることができない。美しくも思えるし平凡にも見える。今は素の、高一ぐらいの女の子に見えるが、彼女を知る仲間はそれすら演技と疑ってしまう。 「北緯42度12分、ザハン基準西経17……」ジニが言うのを、リレムが「人間にわかる言葉にして」とぴしゃり。 「ケエラはアレフガルドで一緒だったこともあるの」とラファエラが、重い太針金の輪に肩を通しているケエラに、姉のように抱きつく。 「やめてよっ」ケエラがもがく。 「ダンカは〈ロトの民〉。ローレシアの東北東の村で開拓をしているのよね。えと……」ラファエラが、面識のないディウバラに首をひねる。  ディウバラはラファエラの美しさに圧倒され、声も出ない。 「ディウバラです。ザハンからの」というダンカに、にこっとあでやかな笑みを向ける。  抱きつかれているケエラには見えないが、ダンカの表情で察して、ラファエラの足を踏んだ。 「あっれー?足が滑ったのかな?」と、ラファエラは抱きしめる手を強めながら、呪文を編み始めた。仲のいい姉妹ケンカにも見えるが、ラファエラは魔法使い系を極めたし、ケエラもベギラマに手が届く。 「あーれー、女の子がー」とトシシュが間延びした声で言う。  急に背が伸びていて、アダンに似てきている。一見するとでくの坊のバカにしか見えない。  それにケエラとラファエラも、なんとなく笑ってお互いを離してしまった。 「ガライせんせーの授業で、会ったーね。とーんでもない天才だって」トシシュが真顔でディウバラを見つめる。 「そ、んな、へたくそ、うーっ」ディウバラが舌をもつれさせ、重い荷物と急な坂道によろけるのを、最年長のヘエルが大笑いしながら手を貸した。 「こいつの言葉は全部嘘だから。おれはヘエル」と、あまり背が伸びていないヘエルが、トシシュを親指でさす。「こいつが製鉄所の治安や不正の大半はチェックしてる」 「うた、すごい」とディウバラがまだ覚えかけの日本語で言う。 「棒に、二本線」と、トシシュがダンカの、首に下げた棒を見る。 「ムツキ先生の教室か。この年で二段はすごいな」と、ヘエル。なんとなく、男子どうし強さを比べようとするが、二人共ばかでかい鉄の塊を背負っていて身構えようとしただけでよろめく。 「トシシュは今、ローレシアで工場の保安の手伝いと、ガライのところで歌の訓練をしているはずよ。ヘエルはサラカエル医長の下で、医師資格試験中ね」と、リレムがケエラに。 「医学のための技術開発もやっている。圧力鍋による滅菌は医学に必要」と、ジニ。 「リレムさまは、いま何をしているのですか?」とケエラがおそるおそる聞く。 「な・い・しょ」と、とても可愛らしい声でリレムが答える。 「もう、自分でもわからないんじゃない?ガライ一族と舞台演出してたり、ジジ先生と新聞作って、ハーゴンと何かやってたり、デルコンダルで女官やってたり、ローラ王妃さまの女官やってたり」  ラファエラが呆れたように言う。  リレムは妖艶な微笑みをダンカに向けた。  そうしている少年少女たちも、小さい子でも20kg、大きい子は50kg、怪力の子は150kgを越える大荷物を背負い、汗だくで山道を登っているのだ。顔だけ笑っているだけだ。 「水と塩の補給はちゃんとしなさい」ラファエラに言われ、小さい子たちも腹に何本も抱える竹筒から塩を入れた湯冷ましを飲む。  山道はどんどんきつくなる。  時々森が切れると、紅葉も散り針葉樹の緑しか残らない斜面に、白い筋のように滝が見える。 「あたしたちがこんな大変な思いするの、意味あるのかな」ケエラが息を切らせ、つぶやいた。 「おい」とダンカがとがめようとするが、 「よせ、思ったことはちゃんと言って、考えよう」とヘエル。 「だって、強さじゃアロンドさま一人のほうが、ロト一族全部よりずっと強い。ものだって、ウリエル先生がいくらでも出せる。なんであたしたちが剣を振り、耕したり工場作ったりしなきゃいけないの」  ケエラの言葉に、全員背負っている荷物が急に重くなる。その通りなのだ。 「アロンド陛下もウリエル先生も、ずっといるわけじゃない。それに税金もとられず兵隊も出さない、働かずに食えていると、すぐ人は腐る。  ウリエルさまがいないとき、その心を受け継いで、自分たちで工夫し戦力を高めてきたから、その中から出たアロンド陛下が竜王に勝てた」  ヘエルの言葉に、リレムがふとラファエラとジニにささやきかける。 「ジジ先生が、ヘエルに習ったとおりの言葉を言わせているわ」 「また?」 「……責めても無駄よ。ジジ先生の魔法を学んだほうが、得よ。ケエラも、どれほど高度な魔法か、見なさい」  リレムの言葉に、魔法使いたちがじっと魔力の目を凝らす。 「これからも一人一人が工夫し、瓜生が出すものに頼らず自分で生産できるようになり、強くなれるよう努力することは、無駄じゃない」  ヘエルの、操られているとは思えない普通の態度と言葉の裏、ごく微妙な心のひだに隠れた魔力の痕跡を、丁寧に探っている。 「さてと、三人とも……荷物、軽くなったろ?」  と突然、耳に幻の声が聞こえたのには、女子たちはびっくりした。 「人のやり口を盗むのに集中してたら、体が辛いなんてどっか行っちゃうもんな。ジニ、あんたもよくそうやって、辛い時間を紛らわしてたろ?」  ジジの言葉にラファエラとリレムは、してやられたと苦笑している。ケエラはただ呆然としていた。 「私は数学を考えるのに集中していましたが」ジニは、平然と返した。  だが、そうして思い出してみると重さと急な山道に、あらためて体が潰される思いになる。  水と塩は補給しているし普段から鍛えていても、きついものはきつい。  だが、小さい子の前で大きい子は弱音を吐けないし、逆もまたそうだ。 「で、ケエラ、ダンカ、ディウバラ。どっちにするんだ?」  というヘエルの言葉に、小さい子三人がびくっとなる。 「どっち、って?」 「今度の冬至に、噂があるんだよ。ローレル王子たちと、サムサエル王子をゴッサ」 「ヘエル」と、ラファエラが厳しく咎め、ヘエルは口をつぐんだ。 「ケエラ、あなたは魔法使いとしてラファエラ、ジニの魔法学校に参加している。芸能活動もしている。  ダンカ、あなたは獣医になれと誘われ、ゴッサさまにも注目されている。ゴッサさまの精鋭の一人、ムツキ先生の直弟子でもある。  ディウバラ、あなたは音楽をガライ一族に習っているわね」  リレムが冷徹な口調で並べる。  三人とも、呆然として一瞬荷の重さも忘れた。 「さ、行きましょう。日がくれたら動けなくなるわ」とラファエラが、リレムを止めて足を速める。 「貴重品の荷物を痛めてはならない」ジニがついていった。  激しい疲労と、一歩ごとに背に食いこむ重みと痛みに、今衝撃になったことを考える余裕はなかった。  暗くなる前に尾根を越えると、山間を切り裂く大きな川が木々のあいだに見える。  深い山の斜面に、かなりの規模の建物がいくつかある。 「ここからの山塊は、ウリエル先生の故郷のメサビ以上の超巨大鉄鉱山だ。水路でつながる近くに巨大炭田もある」とヘエル。 「何万人も、奴隷を連れてきて、死ぬまで働かせるんだよ」とトシシュが脅す。 「ロト一族以外ならそうするでしょうけど、わたしたちはそんなことしないわ」とラファエラがトシシュを軽く叩く。 「おーい、ここだここだ」と大人たちが呼び、明かりを振る。  それに導かれ、やっと荷物を下ろす。 「よくちゃんと仕事してくれたな」 「えらいぞ、まず飲みな」  ぬるい湯冷ましと塩、それから熱い甘酒をたっぷりとふるまわれ、つかれきった体を休める。  真正面から褒められ、ちやほやされて、照れくさいやら嬉しいやら。 「おう、機械が届いたか」 「従来より精度を上げた旋盤と、フイゴの部品。分光器とパッキン用ゴム」とジニが重い荷物を検品する。 「これがあれば、こちらの鍛冶がよりいい工具を作り、それでより深く掘り、楽に働ける工場が作れますよ」ヘエルがジニを助け、付け加える。 「私はしばらくこちらに留まる」とジニが言うのに、技師たちが歓声をあげる。 「いや嬉しいよ、美少女がいてくれるのは大歓迎だ」 「どんどん新しい機械を作ってくれ!」 「みんなで工夫しよう」 「ローレシア北方の鉄鉱山や、リムルダール南の銅鉱山、メルキド西の炭鉱の経験も、もっと教えてくれ。俺たちがここを調べ始めてから一年のあいだにも、すごい進歩はあるんだろ」 「少し資料も持ってきた。ローレシアにルーラで往復するといい」と、ジニは重い帳面も取り出し、鉱山の男女は争って回覧する。 「おう、重い物を持ってきてもらってご苦労さんだったな。ここからちょっと歩いたところにいい温泉もあるんだ、入るか?」 「バカヤロウ、ちょっとって丸半日だろうが。コークス乾留工場が風呂場を併設してるから、入っていきな」 「それからごちそう用意しとくよ」  そう聞いて、肉とケーキが焼けるにおいに気がつき、子供たちの顔が輝く。 「ダンカくん、ほらこっちこっち」とラファエラがダンカの手を引っ張る。 「わたしもいっしょ~」とリレムもからかうのに加わる。  ジニはまったくの無表情だが、ラファエラに促されると当然のように女湯に向かう。 「な、なにいってるのよ!」ケエラが怒ってダンカを蹴りつけた。 「うらやましくなるだろ、男同士こっちこいや」と、ヘエルがダンカとディウバラを誘って浴場に出かけた。  トシシュが平然と女湯に向かおうとし、ラファエラの収束したベギラマがその足元を正確に焼く。 「女の裸が見たけりゃ、絵なら……」と、ヘエルがダンカに男の子の秘密の店を教えている。絵や文章でのポルノは禁じられていない。  建国以来、三度目の冬至祭りがきた。  あちこちで大きな鍋や、即席に石と泥で作ったオーブンからうまそうな香りが漂う。  去年よりも活発な商談と、求婚。ダンカとケエラの村からも、二人が婚約を結んだ。  去年と同じ、音楽と花火。  アロンド王とまた妊娠中のローラ王妃、かなり大きくなったローレル王子と幼いサムサエル王子が、国民のあいだを回る。 「今年一年、みなよく働いてくれた!おかげで今年の総収穫は、去年の四倍以上だ!」  アロンドの声に、誰もが絶叫して喜んだ。  そして全員で歌い踊り、それからあらためてアロンドが拡声器で叫ぶ。 「さあ、去年の約束だ。全員で投票して色々決めよう! まず最初に私から。ローレシア王国はどんな制度にするか、承認するかどうかみんなで投票してくれ。 ロトの掟により、〈ロトの子孫〉は平時は、終身の有力者である長老・選挙で選ばれる議員・くじで選ばれた者が合議し、しばしば全員で集まって決めた。 〈ロトの民〉は、最初は全員で集まっていた。だが集まることが難しい人数になってから、選挙で選ばれる議会と、学校で最高の成績を取った人々と、多くの富を出せる人々が、均衡するようになった」  少し間をおく。 「選挙七・くじ三の議会。成績優秀者・功労者・有力者・公共事業に高額を寄付した者による終身の元老院。全員での投票。この三者の均衡を基礎とし、そしてロトの掟を変えられぬ礎としよう。承認するか否か!」  わあっ、と、圧倒的な承認の声が上がる。  次いで何人かの、ザハンの神官層が立ち上がり、叫んだ。 「アロンド王を、神々の一柱としてたたえ祀ろう!」  賛成の声と反対の怒号が交差する。叫びで収拾が着かなくなりそうになったとき、アロンドの絶叫が群衆を静めた。  そしてアロンドはその中の何人か、ランダムに指し示して演壇に登らせ、拡声器で主張させた。 「人を神とするのはロトの掟に反する、一人を崇拝してはならない!」 「だが、アロンド陛下とローレル王子の力は間違いなく、人を絶している。現実として神にほかならない」 「いや、〈ロトの子孫〉は、人を神にしたために家族を生贄にされたジパングの人々の子孫だ」 「王制も誤りではないか」 「いや、立憲王制ならよいとされている」 「それを言うなら、勇者そのものが終身ではならない。確かにいまは霧の脅威があるが、早くそれを打破して、勇者を辞すべきだ!」  色々な叫びが上がる。 「よく考えて、あとで投票しよう」とアロンド。彼自身は、神格化など冗談じゃない、と思っている。  次は、ザハンから耕していた人の老いた有力者だった。 「農奴制を許可してください。そうすれば、収穫の半分は陛下にさしあげます」  強い拒否と罵声が上がる。身の危険すら感じる発言者を、アロンドがかばった。 「人を、言葉で裁いてはならない」  さらに、〈ロトの子孫〉の長老に準じる男が壇上に上がり、一瞬ためらってからアロンドをにらみ、叫んだ。 「われわれは、ローレル王子が受け継ぐ国に住みたくはない。ローレル王子は、われらの兄弟姉妹を、父母を、子を殺した竜王の子でもあるではないか」 「医師らから聞いた。ウリエルどのが双子を帝王切開し、一方は人の姿のローレル、だが半ば人であるトカゲも取り出されたというではないか!」 「事実だ。二人とも、私の子でもあり竜王の子でもある!」とアロンドが叫ぶ。倒れそうなローラを支えながら。 「アロンドに匹敵する勇者であり、指導者であるゴッサの手に、純粋なロトの血を引くサムサエル王子を!われらはその下で、独立して暮らす!」  その叫びにも、賛同と反対の絶叫が沸き立った。 「一つだけ言っておく。私にとって最優先なのは、愛する妻子を守ることだ。そのためなら、全人類を敵に回してもかまわない。国を分けるというなら、好きにするがいい。だが私の子孫を立憲王制でも王としなければ、この大陸では眠れなくなるぞ」  アロンドはそう言って、次の議題を求めた。 「子を学校に行かせる義務は、ひどすぎる」と、これまたザハンの有力な老人たち。 「学校で何を教えるか、誰がどう決めるのかはっきりしろ」などという声も上がる。 「最低限、ちゃんと行進整列戦闘ができ、共通語と日本語の読み書きソロバン」 「医療と清潔、十分な体力」 「馬に乗る、田畑を耕す、船を操る」 「などができれば、ほかは自分達で学校を作って教育していいよ」と説明する人もいる。  他にもいくつか、国民投票にかけたいことは増える。  一通り出揃うと、アロンドは「これでいいな。ではよく眠り、よく話し合うことだ。必ず明日の正午、全ての議題を投票にかける」と宣言した。  翌日、全員が行軍準備隊形に整列する。整然と。ザハンの大人はなれていないが、それは彼らを指導している古くからの〈ロトの民〉が導いていた。  そして全員に議題の数、七つずつ、瓜生が出したパチンコ玉を配った。 「議題一つごとに全員に袋を回す。賛成なら袋に玉を入れてくれ。ちなみに、いま故郷で留守を守っている人々にも、議題は伝えられ投票できるようにルーラを使える魔法使いが飛びまわっている。  全員の人数は把握されている、だから重さを量れば、それで投票数は確定する。  投票箱は、手元を隠せるようになっている。完全秘密匿名投票だ。終わったら、処分用の箱を回すからあまりがあれば入れてくれ」  それ自体も、三時間ぐらいかかったがなんとか集計できた。 「来年はなんとか電気を使えるよう、みんな頑張って工夫しよう。疲れたな」とアロンドがいい、皆が大笑いした。  まず、制度そのものは八割ほどで承認された。  アロンドの神格化は大差で否定された。  農奴制の復活も、大差で否定された。  ザハンから耕していた領主は怒り狂い、泣き叫んでいた。「頭がおかしいのかみんな、欲望がないのか」 「欲望ならありますよ」と、サラカエルが言う。「人を搾取するなどという、愚かなことはしないだけです」 「工夫と試行錯誤こそ、本当に大もうけする道なのです」と、アロンドが威圧しつつ慰める。 「王室は大もうけしたくないのですか」と訴えるのを、 「大もうけしている」とアロンドが笑う。「ザハンの、元奴隷だったイェハルサ」  と、一人の、いい身なりをしているが明らかに貧しい生まれの女を壇上に招きライトを当てた。 「彼女が馬の足につけて農場を走るだけで雑草や害虫だけを殺せる、イオを変形した魔法がかかり、形も工夫された足輪の作り方を教えてくれた。私が資金を出して事業化させ、今年だけで二千三百売れた。ゴールドに換算して一本七百ゴールド、製造原価五百……四十六万の半分、二十三万ゴールド、私はもうかったんだ」アロンドが呵呵大笑する。 「だが、それを思いついたのは彼女の父親だった。そして、その発明ゆえに死刑にされたそうだな」と、厳しい表情で有力者をにらむ。発明者を処刑したのは、若い頃のその有力者だった、とアロンドが言うまでもなかった。 「奴隷制は、一時的に大もうけになる。だが長い目で見ると大損する。ロト一族は、長い目で大もうけしたがる大欲張りなんだ」  その言葉に、全員が怒号した。  だが、意外なことに、王国の分割が、六割ほどだったが可決されてしまった。アロンドがロト一族の存在を公開したこと自体、それに竜王の子でもある王子に将来支配されることに対する反発も、結構強かったらしい。  もちろん、教育義務の解除は否決された。単純に、ザハンから耕していた人々は、人数が少ないのだ。  終わってからアロンドは、あっさりと勇者としての、全権指導者の座を放棄した。  そのことでハーゴンはほくそえんでいた。  だが、アロンドも内心はほくそえんでいた。彼とジジ・リレムがいれば、国民投票を事前の新聞記事を利用して操るぐらい、難しいことではない。  ローレルの出生のことなども、ゴシップ誌や噂の形でさりげなく流してあった。出産に関わったスタッフを殺さなかった時点で、洩れるのは覚悟の上だった。  投票が終わってからあらためて飲み食いし、全員で行軍し、思いきり歌い踊った。  アロンドも、王ではあっても勇者ではない、という奇妙な立場で楽しんでいる。  瓜生が全員に高級肉・チョコレート・高級酒食べ放題飲み放題の大盤振る舞いをした。  高級和牛のステーキを熱した石で焼き、むさぼる。横穴で火を焚き、余熱で丸鶏や七面鳥を焼く。巨大な豚や牛の半身をまわしながらコークスで焼き、焼けたそばから切り落として口に運び、ふうふう言って食べる。  大きい鉄鍋に油が熱され、エビフライや高級豚のトンカツ、さまざまな天ぷらを次々に揚げて、塩や抹茶、マヨネーズなどをつけて食う。  チーズをかじりつつ酒をラッパ飲みする。ワイン。ブランデー。ウィスキー。日本酒。焼酎。空き瓶の山ができ、次々と酔いつぶれる。  さまざまなチョコレートを、紙をむくそばからほおばる。  大音量カラオケのセーラームーンミュージカル・アイドルマスター・ラブライブ・JamProjectの曲にあわせ、ガライ一族や歌舞の成績がいい生徒がかわるがわる歌とダンスを披露し、皆も絶叫するように歌い踊る。  かすかな不安と奇妙な高揚感が、激しい欲望となって肉・酒・菓子に手を伸ばさせる。  投票結果を実現するため、色々と忙しいことになる。  何よりも、サマルトリアと名づけられる、サマリエル第二王子を幼王、ゴッサを摂政とする新しい国を作る。  そのために、さまざまな人材を、どちらも機能するように振り分けていかなければならない。  樽作りや鍛冶屋、藍染職人などあらゆる職人たちの、独立のあてがなかった者が次々に独立し、サマルトリアに向かう。似たようなことはローレシア建国のときにも起きた。  率いるゴッサは〈ロトの民〉の若き指導者であり、アロンドが行ったいくつもの事業で〈ロトの子孫〉も含めて重要な立場を務めてきた。〈ロトの民〉〈ロトの子孫〉問わず強く信奉されている。  瓜生に故郷で医者がやれると太鼓判を押されたサラカエル、最高の武闘家の一人ムツキの夫婦、ほか冒険を共にした精鋭たちを中心に組織を作る。  遊牧民の血を誇りながらも狭い島で水田稲作をしていた〈ロトの民〉にとって、いくらでも遊牧ができるサマルトリアの広大な草原は天国そのものだ。〈ロトの子孫〉にとっても最高の耕地はたくさんある。  竜にまたがるゴッサが常に懐に幼い王子を抱いて野を駆け、そこに毎日のようにローラ王妃やアロンドも訪れる。  瓜生はアロンドに個人的に属しているので、サマルトリアも瓜生の資材を利用できるかどうか議論となった。 「サマルトリアにも、本や情報は惜しまない。必要な物資があればローレシア同様に出す。  ただし、ローレシアと同じ条件をつける。  何が必要なのか、国民が参加する政治で承認すること。税金を取り、それも同様に国民議会の議決を受けること。  私的財産権を守ること。  それがないところに物資を出したら、ざるで水を汲むよりひどい」  そうゴッサに言うと、早速サマルトリアの城と決まったところに、超巨大書店の在庫全部を出して図書館とした。  同じ、大量の本のセットは大灯台の島にも、ローレシア王宮にもある。  ローレシア・大灯台の島・元鬼ヶ島も、それまでのアロンド独裁制から議会制立憲君主制に着地するため、さまざまな組織変革が行われる。  計画はできていたからこそ、迅速・的確に。  王立病院のトップだったサラカエルがサマルトリアに移ったのは痛かったが、ベルケエラは残っていたし、他にも瓜生の故郷の医師免許模擬試験に合格点を取れる医師は、多数育っていた。  また、レグラントが王立病院の食事・清掃・人事など管理面をやるようになり、病院はとても快適で清潔、瓜生の故郷と違って常に病院食がうまい。  彼女の夫ロムルは、孤児・心身に障害を持つ者・犯罪者など特に弱い立場の人たちの世話を引き受け、妻のレグラントと息を合わせている。  一人で全員を助けていたらきりがないが、助けが必要な者の周囲に助けるよう命じ、しかも助ける人の得になるようにする。さらに虐待や奴隷化もしないように周囲に監視させる。  精神的にも、人を世話することで世話する者も助けられるように、よく見て配分している。強い者にも心には穴があり、それは他人を無条件に世話することで埋まることがよくあるのだ。世話を押しつけられて怒っている者が、半年後には笑顔で感謝することもよくある。  そのあたりの、人間の善も悪も知り尽くす苦労人ぶりは孤児のリーダーあがりだけはあり、豊かに暮らしてきた〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の部下も信服している。  アロンドの生活はそれほど変わらない。立憲君主の立場に下がり、魔術的儀式をすることもあるし、元老院議員として議論に加わることもあるが、それらの仕事は最小限。  ローレル王子がいるローレシア都・サマルトリアの、サマリエル王子が育つゴッサのテント・大灯台の島の客船などを、ローラ王妃を連れていつも飛びまわっている。  学校、工場、開拓農地、土木工事現場、鉱山、豪華客船や空母の施設……あらゆる場所に顔を出し、誰彼なしに話す。その点では、サマルトリアもおかまいなし。  時には姿を変え、身分を隠して働くこともある。  誰か困っている者がいれば、すぐにロムルに言いつけ、彼とレグラントの夫婦が素早く助けてくれる。  宮廷にあまりとどまっていないから、多くの廷臣が寵を争い利権をあさることもあまりない。元々、仕事と利権の配分は、アロンドは大灯台の島から、いやアレフガルドに閉じこめられ竜王と戦っていたときから、うまく人に任せていた。  生活そのものは、王らしい豪華さとは無縁で比較的質素にしている。尻は自分で拭く、宮廷の人数はごく少ない。  王制は常に、尻を拭いたり着替えたり、あらゆることを専門とする、実質不労所得者である廷臣が増えてしまい、費用が暴走して重税になっていくものだが、それはやらない。誰もが家事使用人を増やすより新しい道具を買い、忙しく働いている。  ラダトーム王宮で王女育ちのローラも、竜王に閉じこめられて極限生活も経験しており、そんな生活にも不満はない。  時々は豪華客船で贅沢が楽しめるし、外交や国事の時には、瓜生由来の最高ブランド品や莫大な黄金で装う。  それは母国やムーンブルクの王室の誰もが、想像もできないほどの贅沢ばかりだ。それを見てはキャスレアたちも文句の言いようがない。  また、あちこちに用意されている夫婦の私室には、発電機と、それぞれ別々の最高級オーディオやホームシアターがあり、音楽やブルーレイを存分に楽しんでいる。  楽しみと言えば、アロンドとローレルは時々何日も激しい修行をすることがある。  国有の富といえるものも膨大だ。  大陸開拓の最初に、瓜生が主導で大規模重機を用いて開拓した、十平方キロメートルにおよび大量の化学肥料と農薬、最新改良種で莫大な収穫を得た水田。それが王家の、最初の富だった。少人数で耕作され、その莫大な余剰は開拓の原資にもなるし、飼料として家畜を大量に増やすこともしている。  あちこちに、空港や環状線など将来必要となると思える地域、国立公園にすべき地域を確保し、それは用途を限定して国有化している。  ローレシア王宮の近くに、規模の大きい植物園と動物園も作られ、それは学校も兼ねている。この〈下の世界〉、〈上の世界〉から瓜生が持ってきた動植物など、多くの生き物が暮らし研究されている。  アロンドは以前から、主に瓜生から得た莫大な財産で銀行のような仕事もしている。  ガブリエルや〈ロトの民〉などにも銀行機能を果たしていた商会はあるが、瓜生の資金があるアロンドの銀行も規模が大きく、さまざまな発明や大規模工場などに投資している。その運営は孤児時代の仲間や〈ロトの民〉の商才がある若者にほぼ任せていた。  それがまた常に多くの金を産んでいる。  銀行も、アロンドが立憲君主となるにつれて公有にしようとはしているが、法整備など色々難しい。  さらに、アロンドは瓜生に、アメリカの金準備高の何百倍もの黄金や、銀・白金・銅・バナジウム・ニッケル・タングステンなど価値の大きい金属の地金などを与えられ、分散して埋めている。  他にもジジ・キャスレア・ジニ・ゴッサなども、莫大な量の富を与えられている。ジジやキャスレアは秘密工作や外交に、ジニは研究・教育・工場整備に、常に大金を必要としている。  まあ、埋めている貴金属を除いてもアロンドはこの〈下の世界〉で、桁外れに一番の金持ちで地主だ。  その王国分裂は、それまで協力して開拓をしてきた多くの村人に、決断を迫ることにもなった。  何年かの猶予は与えられたが、一人一人がどちらに属すか決めなければならない。  まだ大陸より多くの人口が暮らす大灯台の島の住民も厄介だった。元鬼ヶ島も多くの人口がある。彼らは元々独立国のようなものであり、自治権を与えられてどちらにつくでもない、という立場だったが、両国の法が整備されればどうなるかはわからない。  一人一人にとって、自分がどちらなのかを考えるのは辛いことだ。  そして、親が決めるのに従うしかない子供はもっと辛い。 「ほっとけばよかったのに!」ケエラがルーラで学校に着き、怒りながら早足になる。 「卵をよく産むペッカーだぞ。塩水を飲ませて吐かせて、なんとか助かったが……トリカブトやキョウチクトウ、ワラビやドクツルタケを平気で食うあれを、どうやれば」ダンカは本気で不思議がっている。 「うるっさいわね、ちょっと今朝料理してあげようとしただけじゃない!で、においが変だったから、もったいないから」ケエラは怒っている。 「たべ、てた」最後まで言おうとしたディウバラをにらんで黙らせ、彼の教室に突き入れて、自分の教室に急ぐ。 「学校でピオリムを使うな!」と、通りがかりの上級生が怒鳴りつけた。  ケエラとダンカが教室に駆け込むと、「ウリエル先生は急病につき課題図書を筆写」と板書があり、それぞれの机に本と紙束が置かれていた。  そして、二人での遅刻にクラスメートがからかいの声をあげる。ただし、見ている上級生が銃を構え、呪文を唱え始めているので暴力はありえない。  それに同じ開拓村の男女がクラスメートなのは珍しくもない。すぐ静かになる。 「お見舞いに行こう」と、ダンカ。 「そうね。一言いいたいこともあったし」とケエラ。(こんなふうにからかわれるのも、もうすぐ終わりかもしれない)と思ってしまうと、妙な怒りも沸いてくる。  空母の病室で、瓜生は点滴を自分で打って寝ていたが、ケエラとダンカ、ディウバラの三人が入ってくると目だけ開けた。 「だいじょうぶですか」と、ダンカ。  言葉が出ず、泣きそうになって何か鼻歌を歌いそうになるのを自制するディウバラ。 「失敗した。ケエラ、昨日の魔法の授業でやったはずだな。マヌーサやメダパニなど、精神に関わる魔法の勝負で負けるとどうなる?」 「実力を、全部知られてしまう。だから極力、マヌーサとメダパニなどでぶつかるのは避けろ、よね」ケエラの口調には怒りがこぼれている。  一息、沈黙し、 「なんでこんなことを許したんですか。王国を、二つに分けるなんて」  怒りの理由、(せっかくダンカと一緒に暮らしていたのに)は、意識にのぼすことはできないまま。 「すまないことをしたな」と、そこにアロンドが突然出てきた。ケエラたちは慌てて敬礼する。 「これによって本当の最悪は避けられた、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉が分裂し争うことは。今回は両方が混在共存を保っているからな」  と、アロンドが静かに言う。瓜生が目で発言許可を求めて引き継ぐ、 「それに、一つの帝国は抑圧をしやすい。いくつも国があれば、イノベーションを封じるのが難しくなる。  おれの故郷で、ひとまとまりにやりやすい中国は発明や大航海を、皇帝がだめと言えば完全に止められた。  だが、川とか山とかでバラバラになりやすく統一が難しいヨーロッパでは、ある王にだめと言われたら別の国に逃げて提案でき、それでケプラーやコロンブスは成果を挙げられた。当人は不幸に終わったがね」  と瓜生。ケエラは少しずつ瓜生の世界の歴史も学んでいるが、やはりよくわからない。アムラエルらが必死で本を読みふけり、こちらでのカリキュラムを作ろうとしている。 「魔法勝負、って誰と」ダンカが聞くのを、瓜生とアロンドは顔を見合わせて苦笑した。  瓜生が苦しそうに眠ってしまうのを、アロンドが軽く額を拭いてやってから、ケエラたちも連れ出した。  王国の分割で上層部は忙しいが、開拓民はほとんど変わらず開拓や建設を続けていた。冬は農閑期だからこそ、家や工場を建てたり新しく田畑を切り開いたりできる。  手間のかかる水田を谷間などに作り、水を引いて水道兼用の上射式水車も作る。  新しい大陸の北部はかなり寒く、ビタミンCもジャガイモとトウガラシ、また松の葉をすりつぶしたとてもまずいジュースが頼りになる……自給自足にこだわれば。  南方の元鬼ヶ島やテパ近くのゴム園からは十分新鮮な、ビタミンC豊富な赤い果物が手に入る。  またローレシア王宮より南は、ほとんど雪が降らない亜熱帯に近い気候で、真冬でもケールなどが収穫できる。  温室があれば真冬でも新鮮な野菜や果物が得られるが、大量のガラスが必要なので高価だ。そして、南方とルーラで交易することが今の時点でできる。  土木工事では、この冬は道路や運河も拓きはじめている。 〈ロトの民〉は海が近い島暮らしだったので、陸運の必要は少なかった。〈ロトの子孫〉はもとより隠れての暮らし、怪力任せに背負える以上の量は必要なかった。  だがこの大陸は広く、道路の必要も大きい。  ただ、人数が少ないこともあり、あまり徹底した舗装はまだできない。騎馬を重視し、広く牧草地を兼ねた大地に馬を走らせることが多い。  ルーラの圧倒的な速度も競争力が大きい。魔法使いが多数おり、通勤通学にすら使える。運べるのはせいぜい、四人で持ち上げられる最大重量だ。だが、特に船ごとルーラの速度・重量・体積は圧倒的を通り越している。特殊な聖木が必要なので量産は難しいが。  だが、運河がどうしても作れないところで大荷物を一度に運ぶには、どうしても家畜が引く車が必要だ。  まず起伏が多く重要な道に、ユニークな道路システムが試作された。瓜生とジニを中心に多数の技師たちや、実際に地を耕している人たちが協力して実地でさまざまな工夫をしてのことだ。  山がちなローレシア北方では、山や谷川に隔てられた小さな集落適地も多く、舗装道路はあまり現実的ではない。  だが、ケーブルカーなら事実上地理を問わず、鉄道に近い輸送能力もある。  道に沿って、二本の木を寄せて植え、その間に帯を渡し、そこから吊り縄とS字金具をつけて乗り越えレールを短く作り、そのレールの間を太い縄で結ぶ。  荷物はS字の上向き支柱に、丈夫な滑車をつけた籠に積む。見た目とは違い、車よりも楽に曳ける。  水力や、ハムスターが回す輪の大きいのに小型竜馬を入れて回す動力も急な坂を上るところなど、補助的に使われる。  それも今は、瓜生の物資に依存している。高品質鋼のケーブルや高精度のベアリングは、まだこちらでは量産できない。だが明白な目標を見て、リバースエンジニアリングを続けている。  そして瓜生が、これは〈ロトの民〉が大灯台の島に入植したときからだが、近代的な馬の呼吸を妨げない馬具を教えていたからでもある。  また今はまだ試作だが、竹を枕木に、長く割れる石に溝を彫ってレール代わりにするのもやってみているところがある。曲がる部分はセメントを利用する。竹や木材もある程度はレールになる。  鉄はまだまだ普通の刃物や犂などの需要が圧倒的に大きく、建材やレールに使えるほど生産量の大きい製鉄所はまだだ。  レールを用いるには車輪と車輪の間隔を統一する必要もあるが、車そのものが少なかったので比較的簡単だった。  また、色々なことを統一するという発想にも、瓜生が前に残した本を受け継ぐロト一族は慣れていた。  物を運ぶ箱、コンテナのサイズ。管の太さ。そしてメートル法の度量衡。それに車の標準軌が加わるだけだ。  アレフガルドでもムーンブルクでも、度量衡の統一など程遠い。ムーンブルクとムーンペタですら枡の大きさは違う。  勇者ロトのおかげでザハン大神殿が復活してから、再び各国を指導しようとしているが、武力が乏しいためできていない。  また、できる限り運河を掘り、水路で移動するようにしている。大量の物を輸送するのに、鉄道やトラックが本格的に実現してさえ、水運以上の方法はないのだ。  ケエラたちの村では、移動は今は主にルーラ、それに川を利用して底の浅い船や木材輸送を兼ねた筏に頼っているが、より水運を安定させるために水深の深い運河を作ろう、という計画がある。  村の中でも、森から木炭を運び出す、きれいな湧き水のある泉から居住地に水を引く、高いところから高低差を保って水を運び水車に使うなど、いくつも必要な土木工事が計画され、集中的な測量に子供たちも狩り出されている。  順調なことばかりではなく、うまくいかないこともある。  特に外交は多難だ。  ロト一族の荒れた手が、外国の貴族には馬鹿にされ、対等に扱われないことが多い。  長身と美貌、きらめく歯と身のこなしは、見ればだれもがほうっとなる。絹や高級な竹綿の美服を身につけ、黄金や宝石も豊富に持っている。  だがそれでも、手が固いことに対する軽侮が、常にある。  ロト一族が残虐な楽しみをしようとせず、むしろ禁じるように訴えるのも異質扱いされる。食事やダンス、歌や踊りなどでは一応同じ美的感覚があるのに。  法制度も生活習慣も、あまりにも異質だ。特にムーンブルクの、半ば教団となっている宮廷医師や貴族の一部は、清潔やワクチン、死体解剖に対して激しく反発し、ロト一族を滅ぼせとしょっちゅう叫んでいる。  もちろんデルコンダルは相変わらず鎖国を守って交渉を拒み、そして旅の扉でつながっている、ローレシア南西部の半島に静かに入植し広がっている。  リレムが時々デルコンダル王宮でのたくっているが、それも外交らしい成果にはつながっていないようだ。 「デルコンダルの鎖国は筋金入りですからね、こうして情報を得てくれるだけでもありがたいですよ」などとハーゴンは言っている。  医者としては高く評価されているが、医者以上の、対等な国という関係ではない。  ムーンペタは、ムーンブルクをはばかりそれほど関係を強めようとしない。だが、経済的な関係が深く、若い医者や商人、職人を何人もローレシアに留学させている。  ベラヌールはむしろ例外的に、アロンドらロト一族への恩を公言しているが、逆にベラヌール内部の権力抗争から、ロト一族に反発する派閥もある。だが、特に元鬼ヶ島は重要な貿易先であり、互いに相手の存在が欠かせない。  ルプガナは、アロンドが旅をしていた頃は、貴顕たちもアレフガルドの通商再開や瓜生による高度な治療を素直に喜んでいた。だがロト一族が国家を作ってから、そのあまりの力を恐れていたように見える。  ペルポイは今は、再び穴から出て都市を再建するのに忙しい。瓜生たちが邪神教団を一掃したことが、感謝されていると同時に恨まれ恐れられてもいる。何より、〈ロトの民〉は彼らが捨てた病人の子孫であることが公開されてからは、それゆえにさげすみはばかる世論が強い。  そのほかの小さい都市は、ロト一族との交易が恐ろしく儲かることを徐々に学びつつある。ただし、近くの大きい国や都市をはばかる思いも強い。  ラダトーム王宮は、ローラやキャスレアの存在もありローレシアとの関係は深い。  リムルダールやメルキドなど南方都市は内向きな態度で、あまり関心がない。むしろ、さげすまれる仕事ではあるが欠かせない存在だった、下水道関係などの仕事をする〈ロトの子孫〉の多くが禁断大陸の開拓のため姿を消したことで、奇妙な衛生状態の悪化に惑っていた。  マイラやガライは元々、〈ロトの子孫〉との縁が深い。だが逆に、彼らを異物として魔女狩りのように狩り立てよう、という動きもある。  春も近いある日。  朝点検する家畜の数がおかしいと思ったら、化けた竜がしれっと混じっていた。  寄生虫取ってもらったり洗ってもらったりするのが気持ちいいから、という竜にケエラは、誇りはないのかと怒ったりした。  実は前からそんなことはちょこちょこあり、今朝初めてケエラが気づいた、ということだ。  そんな朝、ザハンから耕していた子供たち、ディウバラともう一人の女の子が、学校に行くことを拒んだ。 「どうしたのよ」 「どうしたんだ」  ケエラとダンカが咎めるが、ディウバラは黙って首を振っていた。涙で赤く腫れた目、青く殴られた頬で。  頷きあう。 「おととい、知らせがあったんだ。ザハンの人たちの間で、学校に反対する人がいる、と」とダンカ。 「学校には行かなきゃ。子供を教育するのは、ロト一族の義務なんだから」とケエラ。 「おまえは学校に行きたいか?行きたくないか?」ダンカが一人一人の目を見る。  そして、ケエラが、ディウバラが背中に隠した何かを素早く取る。踏み潰されたバイオリンのケース。 「アテェヘね」と、ケエラ。神殿の私生児であるディウバラは、ザハンから耕していたアテェヘネという女性の養子のような形だった。ただし養育費の一部は国が負担し、また村全体で世話や家事を協力している。 「ディウバラ、ロト一族は、他の人たちとは違う。親が、保護者が……ロトの掟に背いたとき、教育や養育の義務を果たさないとき、暴力をふるったとき、全滅したときなどは、どこにでも行ってそこで新しくやり直せる」と、ダンカ。 「確かよ。両親を失い、別の人たちに育てられた人は、あたしたち〈ロトの子孫〉の間には何百人もいる。サデルさまだって、マサクニやアルメルスも」とケエラ。 「虐待の心配はない。誰かが必ず見ている」と、ダンカ。 「そういえば、昨日の夜兄さんが出かけてたっけ……それでね。殴るの止めるために」とケエラ。 「でも、最初の一発は止められなかったんだな」とダンカ。 「何かしたら見えちゃうもの。きえさりそうは高いし」ケエラが、最近使えるようになったレムオルを編んでみる。 「それにしても、アテェヘは、ずっと村にいたはずなんだけどなあ。誰がザハンの人たちの話を連絡したんだろう」ダンカが年長の人々を見る。  かすかにケエラがびくっとした。 (そう、ハーゴンさまはいっていた。これもひいては、ロト一族のため、正義のためなんだって)ケエラは、ジジに習った方法で表情を消す。 (「〈ロトの民〉と〈ロトの子孫〉の反目、またサマルトリアとローレシアが争うのを防ぐには、一番少ないザハンの人々を共通の敵にするのが一番ですよ。反目がひどくなったら、これまで普通だった結婚が認められなくなるかもしれません」) (一言も、バイオリンのことは言わない) (だからこそ怖い、ダンカに嫌われたら) (ダンカと結婚できなく……いや、もうなに考えてるの。またからかわれる) (それに、ダンカはムツキ先生についてサマルトリアに行ってしまうかも) (ジニとダンカ、仲がよすぎるわよ、最近)  そう、ケエラが唇を噛んでいる時に〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の大人たちが集まってきた。 「面倒ね」と、ケエラの母親。 「アテェヘさん!子はちゃんと学校に行かせてください。何らかの用事で手が必要なら、わたしたちで協力します」 「工夫すれば、少ない人数でも何とかなります」 「就学義務は国民投票で可決されているんですよ」  ロト一族の大人たちが説得するが、ザハン出身のアテェヘは怯えきって、泣くか怒鳴るかするだけだった。 「この人に言っても無駄ね。たくさんの大人が、つながりの中で命令系統を作ってる。彼女だけが無視したら、村八分にされるだけ」 「でもね、言っておくわ。わたしたち、ロト一族の側に忠実であれば、たとえあなたたちの故郷の同胞に村八分にされても、わたしたちは必ず守る」  と、ケエラの母親が断言した。アテェヘは首を振って泣くだけだったが。  そのとき、ディウバラがダンカのほうにかけ出した。 「バイオリン」それだけ叫んで。  ケエラはアテェヘの手を見て、とっさにディウバラとの間に割りこみ、叩きつけられるシャベルを腕で受け止めた。  その瞬間、閃光。  回復する目が見る。アテェヘの右腕が、むしろゆっくりと溶けて消えていく。足が妙な形にひしゃげていた。  絶叫とともに体が崩れ落ちる。ケエラの父がとっさに長柄剣鉈を抜いて溶けていく切り口を切り落とし、ベホマを唱える。 「わしの魔力では、全回復に半日かかる」  ケエラとディウバラを抱いて飛びのいたダンカも、ケエラにホイミをかける。  ダンカは自分がしたこと、烈光拳の凄まじい威力に驚きつつ、瞬時に覚悟を決めて目を据える。 「う、うわ」  ケエラは、自分を抱く腕の強さに恐怖した。 「お、折れちゃうよ」 「な、なんてことを」  そして、ケエラは思い出す。  数日前から、夜中、覆面をしてあちこちに、数人のザハン貴族を連れて飛びまわった。 (「よいな、たとえ子を傷つけてでも、子を学校にやってはならんぞ。学校は子を怪物にしてしまうのだ」あの人はそういった。でも、本当にこんなことに) (思う壺なんですよね、ハーゴンさま。ザハンの人と、ロト一族が争えば) 「人を傷つけようとしたのを、止めるのは当然だ」  大人の叫び。 「怪物、怪物よ」痛みと恐怖でかすれ崩れた声で、アテェヘ。「正しかった、ディウバラも、うちの子も、こんな怪物に」  ロト一族の大人たちが顔を見合わせる。 「そうかもしれない。でも、竜王を倒すにはその力が必要でした」 「それに、これは半分でしかありません。集団での戦いでは、もっと怪物なんです。でもそれも必要なのです、虐殺せずに自衛するには、それほどの力が」 「怪物が力をあわせれば、これほどのことができるんです」と、一人が周囲を手でさしまわす。「あの荒野が、たった二年、今は三十人ですが、それだけで」  豊かな森も多くあるが、見渡す限り広がる素晴らしい田畑。いくつものドーム家屋と風車。 「ケエラ、あなたたちはもう学校へ。どんな理由があっても、戦場での遅刻は敗北を意味するわ」  母親の言葉に、ケエラは呪文を唱えはじめた。  ローレシアの都では元老院が急遽集められ、昼食ついでに話し合いが始まった。  ロムルは「その子たち、みんな連れて来い。うちの子として育て、学校に行かせてやる」と言った。  多くの孤児や、弱者を多数引き受け、うまく里親と仕事を割り振って家庭の温もりを与えながら育てる、夫婦の能力には定評がある。  ハーゴンは「分断統治です。ザハンの人々にも、色々な勢力があるはず。それを争い合わせれば、統治するのはたやすいですよ」といつもどおり不気味に笑いながら言う。  サデルが、「ザハンの人々はもう一年以上バラバラにされ、特に身分が低かった大半は開拓地で生活の基盤があります。ひどいことにはならないのでは」と、〈ロトの子孫〉の長老を代表していった。  アムラエルは、「ザハンは小さく、人口こそ少ないですが宗教的に重要です。その神官たちに反感をもたれてはなりません」と案じている。 「人数を分けて、口をきけなくして土木作業をさせ、決められた身振りだけでもあればどれほど有利か見せる、とかは?」という意見もあったが、 「利害では動いてない。意地とプライドだけだ」とアロンドが否定した。「そうでしょう?」  視線を向けられたザハンの代表者は、青ざめた表情で下を向き、話に加わろうとしない。 「こちらの水準を満たし、共同作戦が取れる教育システムをそちらで独自に作ってくれるなら、それでもいいんですよ」とサデルが言うのも、かたくなに目を上げない。 「まあ、別にいい。歴史の歯車は止められないよ」と、軽くアロンドが笑うのに、全員がぞっとした。  少し間をおいたアロンドが、力強く話し始める。 「教育はまぎれもなく王国の基盤であり、これは深刻な危機だ!だが、われらには議会がある。元老院だけでなく、まだ選挙は行われていないが国民院の、くじで選ばれる者を今招聘し、熟議することはできる!」  その叫びに逆らえるものはいなかった。即座に魔法使いたちが国民から人をランダムに選ぶ作業を始めた。  結果的には、それどころではなくなったが。  学校に着いた、みな衝撃を受けている。いつもよりざわついている。  学校に来ていない子が多い、もちろんザハン出身の。  アロンドが仮の議事堂から飛び出して病院に向かった。  ローラ王妃の、三度目の帝王切開の予定日だ。  出生前診断で女児だと判明している。  ムーンペタや北のお告げ所の予言者たちが、世界一の美女となると太鼓判を押している。ローラの名を受け継ぐことも決まっている。  サラカエルが妻のムツキの縁でサマルトリアに行ってしまい、若い助手たちを瓜生が指導して手術にかかった。  だが瓜生はまだ完全には回復していない。座ってみているだけに近い。  もう、何十例も成功させている優秀な人たちだ。  手術は順調だった。 「呼吸正常。アプガースコア7」 「自信を持て!」瓜生の声。 「生命維持は問題ない、はや」  その時、突然闇、いや濃霧が手術室内を包みこんだ。 「非常用電源!」 「レミーラ」 「だめだ!」  ガタガタ、と照明を入れたり切ったりする音。 「闇の濃霧、照明は効きません」叫ぶ女の声が、パニックになりかける。 「患者最優先、なんとしても止血するんだ!」医師たちの叫びに瓜生がうなずく。自分は飛び出すのを抑える。 「うおおおおおおおおっ!」控えていたアロンドが、魔の気配に飛びこみ、剣を掲げて絶叫する。  それで霧は晴れ、全員が一瞬ローラ王妃の手術に戻った。 「出血は、大丈夫、心配していたほどじゃない」 「油断するな、見えないところからの出血もありえる!」 「血圧安定」 「自発呼吸、大丈夫です」  呼び交わされる声がふとやんだとき、キャスレアが絶叫した。 「ひ、姫、赤子が、赤子が」  全員が一瞬、呆然とする。 「赤ん坊がいない、だと!?」 「ローラさま……」 「全員落ち着け!」アロンドが鋭く叫ぶ。 「まず患者の生命維持を最優せ」瓜生の、声が終わらないうちだった。  瓜生の姿が、激しく揺れる。体が透けて壁が見え、そして激しい光と共に、消えうせた。 「き、消えた……ウリエルさま?」 「も、元の世界に戻ったのか?」 「静まれっ!」  またも場を収めたのはアロンド。 「いつでもその時は来る、とウリエルは言っている。何より今、患者の救命を優先しろ。ローラ、大丈夫だ」  アロンドの目に、局所麻酔ゆえにすべて見てしまって、そして体を起こすこともできないローラが、真っ青な目をアロンドに向ける。 「ゆ、輸血再開します」  医師たちがやっと動き出す中、アロンドはもう一度王妃にうなずきかける。  こちらから知らせよう、と思ったアロンドのところに、外からサデルが飛んで来た。  アロンドは緊急事態、と言おうとしたが、口をつぐんだ。サデルの表情も、緊急事態を告げるものだった。 「陛下。至急いらしてください、ムーンブルクで政変が起きた、という報告が」  数人の使者が次々とルーラで出現し、報告を始める。 「『ロトの医術は邪法だ』と叫ぶ暴徒が、離宮に押し寄せました」 「ほぼ同時に、王宮の奥にも王妃と、サマンエフ王弟の軍勢が攻撃を開始しました」 「王の、吹雪の剣が偽物にすりかえられています」  罠が閉じた。平和な日々が終わった。  三々五々集まる実力者たち。次々と飛んでくる使者たち。  ガライ一族と〈ロトの民〉が各国に情報網を築いていたし、ジジも別に情報網は築いていた。情報量は多いが、内容は錯綜している。  まずアロンドが何人かに声をかけ、とりあえず霧に準じる非常事態は宣告。行動できるように武装し、家畜をまとめるよう全国民に伝えていく。  アロンドはガライの墓での、ヒトラーの経験から、諜報機関の報告だけでなく整理される前の生報告をランダムにのぞく。それで現場は緊張する。つかんだ情報を上層部が信じなければ、どんな諜報も意味がないことは、ノルマンディー上陸作戦の経験などから痛すぎるほどわかっている。  少なくともムーンブルクで政変、サマルトリアを季節外れの霧が襲っているらしい、あちこちで航海中の船が襲われている、デルコンダルからローレシア南東に通じる旅の扉に軍勢が終結している、それらの情報が集まる。  ムーンブルクの政変は、突然だった。だが、予兆はつかんでいた。しかし、予想されていたより、はるかに激しかった。  新聞でも、前兆はいくつも報道されていた。新聞は多数あり、中には扇情的なタブロイド紙もあるが、どれもジジの影響があり、世論を操作している。 「クロスボウが、通用しないのです。槍と盾を並べていても、おかまいなし。リカントマムル級の強さです、暴徒全員が」  ムーンブルクの難題に応じて、瓜生が陸上に客船を出し離宮とした。  それを維持し、王の兵力ともなるよう、アロンドたちはムーンブルクの都から人を集めた。盾を並べ槍を構えて密集し、クロスボウを用いる戦術と武器防具を与え訓練した。電源にはなるエンジンや配管、電気機器の扱いを教えた。 「離宮である船が炎上しています!暴徒と、魔物にも襲われているようです」 「離宮で指導に当たっていたコカピエラが戻りました。報告を」 「シェメは、カシュは」  サデルの声に、戻った女は首を振る。 「シェメは離宮にいた客の護衛、カシュは燃料や機械を利用した防衛線を作る、と。離宮に滞在していた、ローレシア貴族のラルセールさまとご息女、ムーンペタ貴族セレマさまをお助けしました」  三人の貴人を抱えていた女は、即座にまた呪文を唱えようとした。そこに一人が治癒呪文を唱え、一人が弾薬が大量に入ったリュックを負う。もう一人老人がアロンドにうなずきかけ、浅く敬礼し駆け寄った。  四人手を握り、飛ぶ。その目、死の覚悟は明らかだった。 「マリア王女を診ていたアルメルスです。王妃の軍勢が王宮を襲い、王女の引渡しを求めました。彼女をお助けし、連れてまいりました」  初老の女の、血に染まった腕には美女が抱えられている。一瞬ローラの眉が凍ったが、すぐにキャスレアにうなずきかけ、ソファをつないで寝かせ自分の上着をかけた。  キメラの翼でローラのところに飛びこんだリレム。かなりの手傷を負っていた。 「リレム!」  ローラが一瞬目を見開く。 「ローラさま。アロンド陛下、報告します。デルコンダルでローレシア攻撃が決定、わたしも切りつけられ、離脱しました」 「きえさりそうもあったろう?武器もあったはずだ」  と聞かれ、リレムは傷の痛みに耐えつつ、 「王の近くにはべっていました。突然王に切りつけられ、生きて離脱するのが精一杯でした」  そう言って、半ば力尽きるようになる。  アロンドがすばやくベホイミをかけ、ローラに委ねた。  学校の子供たちにとっても、戦争は無関係ではない。  突然の、非常ベルの音。  とっさに生徒たちは、訓練どおり身一つで校庭に飛び出し集合する。 「集まれのベルよね」 「てんでんこだったら大砲と太鼓だろ」  別の合図であれば、バラバラに逃げることもある。海に近く、沖遠くに海底火山があるローレシアは常に津波リスクがある。 「緊急事態だ、常在戦場!疑問を禁じる。集まった班から、食料と武器、布とノートを取ってこい」  教師の命令に、全員が次々に荷物室に戻る。誰も疑問を出さない、しゃべろうとする子も、特に〈ロトの子孫〉に止められる。 「緊急事態よ」と、ケエラの目が恐ろしく厳しくなる。  そして、全員が持っているが授業中は荷物室においているAK-74と銃剣、弾薬、長柄剣鉈、厚いゴム引きポンチョなどを手にし、昼の弁当も身につける。  ディウバラが壊されたバイオリンを持ち出そうとするのを、ケエラが厳しく「あたしも本も漫画もおもちゃも、全部置いていくのよ」と斬り付けるように言う。  いやいやし、泣き出すディウバラの肩に、ダンカが手を置く。  その目に、ケエラもディウバラもぞっとした。大人の腕を溶かし、足を蹴り折った威力は目の前で見ている。 「ディウバラ、楽譜が読めるんだろう?」見ている教師が声をかける。  うなずくのを見て、 「なら鼓笛隊に行くことになるだろう」と、教師。「音楽は銃より強力な武器になる」  ディウバラが、バイオリン箱を見て、震えている。  大好きなバイオリンが、音楽が、初めて恐ろしいものに思えてきた。  戦争の準備は容赦なく進む。  校庭で、全員10kgほどもある荷物を受け取る。予備弾薬。大量の保存食……カロリーメイト・乾パン・MREレーション、炒った穀物と豆、黒砂糖、ビン入りの油。予備の服・下着・タオル。 「集合、整列!」ホイッスルと共にかかる声、重い荷物を担ぎ、子供たちが集合する。 「前にならえ」で隊列を整える。 「気をつけ、立て銃」声と共に、全員が直立不動、ライフルの銃床を地につけて教壇を見る。  老いた、〈ロトの子孫〉の長老でもある校長が教壇に上がり、普段の温厚さとはまったく違う大声で言う。 「戦争が始まった。敵についての情報も錯綜している。われらロト一族は常在戦場の戦う民、何が相手でもロトの掟を忘れず、正義のために戦い抜く!」  生徒全員が絶叫し銃を振り回す子もいるのを、 「しずまれっ!」と校長の、教師の声に皆がふたたび秩序を取り戻す。 「すぐに秩序を失うようで、戦えるか?戦えるわけがない!」そして校長はしばらく黙った。「従い、戦い抜こう。アロンド陛下が即位式でおっしゃった言葉を忘れるな、一人一人が勇者だ。全員深く息をして、いちにのさんで、一度だけ大声で『はい』だ。いち、にの、さん」 「はいっ!」絶叫がぴたりとそろう。 「総員控え銃。捧げ銃」校長の命令で、全員がAK-74を持ち上げ、抱える。それから体の前に立てる。 「おそい!休め。座れ」  全員が銃を抱え、重い荷を持ったまま一度座る。 「起立!立て銃!控え銃、捧げ銃!」今度は全員が何とかそろう。銃を使う訓練の前後、この訓練は必ずやる。  校長が全員を見回す。 「しばらく、帰宅はできない。学校で集団で過ごしつつ、できる限りの勉強をすることになる。場合によっては君たち、誰もが戦うことになる。全員、人を簡単に殺せる銃を持ち、刃物を持ち、呪文を使える者もいることは忘れるな。武装している限り、君たちは子供ではない。兵士だ」  そこまで校長が言ったところで、突然ルーラで着地した者がいた。  アロンド。  思わず動揺しようとするが、アロンドがぴしっと校長に敬礼し、校長も素早く受けたことで生徒たちも落ち着く。  壇上に登ったアロンドに、全員が敬礼する。  アロンドの声が響いた。 「ロト一族の若き戦士たちよ!今日から本格的に戦時教育になる。  戦時教育の目的は、勝つことだ。そのため国民全員が一つになり、思考を止め闘志に狂い、敵を殺し尽くすことだ。子供たち全員を、均質で心狂った殺人機械に作りかえることだ。  それは行わなければならない、だが弊害も大きい。過ちを正し、試行錯誤し、権力を分立するという、ロト一族の強みが損なわれてしまう。戦いつつ、考える一部を残し続けろ。皆で火の玉になる、安易な道より辛い道を選び、賢く戦ってくれ。  大人として、諸君に謝らなければならない。本当は戦争を避けるべきだったが、力が及ばなかった。どうしていれば戦争を避けられたかよく考え、君達が大人になったときには戦わずして勝ってくれ。  嵐の海では絶対服従、一心となれ。だがロトの掟が優先だ、時を間違えてはならない。ロト一族の誇りを!」  それだけ叫んで、すぐにルーラで消えたアロンド。  壇上の教師が入れ替わり、 「これから、時間割はかなり変更される。戦うため、銃後の助けをこなすために、学んでもらうことは多くある。また授業時間が終わってからも、色々な仕事を割り当てしてもらうことになる。  そのかわり、学校が諸君の衣食住を保障する。  そして、万一の時には君たち生徒全員、戦うことになる。大人たちはみな、君たち子供を一人でも生かすために死ぬ。竜王戦役のとき、多くの勇者が子を守って死んでいったように。  偉大なる先達の英霊に、敬礼!」  次の教師から新しい時間割の説明が始まる。 「あたしたちは物心ついたときから戦時だったもの、どうなるかはよく知ってるわよ」と、ケエラが自慢げに、恐ろしがらせるような表情で言った。  別の〈ロトの子孫〉の女の子もうなずく。 「勉強してから夜まで、できる仕事もさせられた。子守とか家畜の世話とか、草取りとか。 『孫子』って本を丸々暗記するまで書き写したり、子供たちが分かれて、いろんな場合に応じてどう戦うか考えたりした」 「あと、毎日誰かと競い合うことになるの。サイコロで7番は25番とかけっこで勝負しろ、とか、いろいろなことで。4対4で争うことも多いわ」 「それに、今の何倍も軍事訓練をすることになるわよ、きっと」  戦争のときの総動員体制は、前から何度も訓練し、決めてあった。 〈ロトの子孫〉が長い竜王戦役を戦い抜いたのは、つい数年前のこと。瓜生の無限の資材や貿易がない状態でだ。  前線に戦士を訓練して送り、疲れれば後送し休ませ、病や傷を癒した。  略奪をしないためにも、きちんと兵站を行った。食料・衣服・武器を富と備蓄から作り、瓜生が残した弾薬を送り届けた。  子の教育と、後方の人々、さらに難民たちも含め医療・清潔を維持した。 〈ロトの民〉も常在戦場、常に戦争を念頭において社会を構成し、全員を訓練している。  そしてムーンブルクでの穴掘り、ベラヌール戦役、巨大客船でのもてなし。そのまま戦時体制になる。 「まず〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉問わず、魔法を使える年配者から順に徴兵する。そして、ザハンから耕してきていた大人たちも、事実上全員」  アロンドの言葉に、皆が驚いた。 「反抗分子は強制収容所より、前線のほうがいい。これはスターリン閣下から学んだことさ」アロンドが、笑顔と怒りを混ぜた表情で言う。 「ですが彼らは日本語の読み書きができず、AKすら扱えません」反論するサデルに、 「みんな小島出身で船の扱いには長けている。そして前線でロト一族の力を見せつけ、戦法を学ばせ、戦友愛でロト一族との絆を強める。目の前に共通の敵がいたら、逆らう余裕はない。戦っていれば嫌でも絆ができる。  戦後も、軍事的功績により発言権も増すことができる。  何より、後方で変なことされたら面倒だからな。特に子供たちに」  そんなときのアロンドの目は冷徹そのものだ。  一日、また一日。かなりの人数が国の各地をパトロールし、人々に危機を伝え情報を集める。  素早い移動ができない幼児・子供・老人・病人・身障者らを都市に集め、緊急時避難する準備をする。  次々と情報はたまっていき、それを分析処理するのに苦労している。  ムーンブルクの情勢の展開は、急だ。何人も行かせているが、残念ながら内政不干渉のため、要人を守って離脱させるのが精一杯だ。情報収集すらほとんど進まない。  王の生死すら、わからないのだ。 「四日前の、ムーンブルク城下で医神廟の焼き討ちがあったことが、きっかけといえそうです」  元老院のアロンドを中心に、指導者たちが集まって使者の報告を聞いている。 「以前追い返した宮廷医師のジャエテカが、ロト一族を滅ぼせと叫び、何百人もの暴徒とロトを信奉する人々が衝突しました」 「彼らの演説を記録してきました。 『あの大陸はわれらのものだ!星の紋章もムーンブルクのものだ!泥棒ロト一族を許すな! 奴らは人を生きながら解剖して医学といい、邪神の力を借りて人を癒す! そして奴隷や生贄を禁じろ、と馬鹿なことを言う!人は奴隷と貴族に生まれるのが神の秩序だ、奴隷がなければだれが仕事をする! あのとてつもない富は邪神のものだ!彼らは邪神の徒だ!』  と、もう感情的で非論理的で」と笑っている報告者に、アロンドは静かに言った。 「非論理的で感情的、だからこそ有効だ。人間はそういう生き物だ、ということを忘れたら、ひどいことになるぞ」  その口調の変化に、全員がはっとなる。 「いや、ご苦労だった。ゆっくり休んで、次の任務を待ってくれ」 「はっ!」  アロンドのねぎらいに嬉しげに出て行く女、同時に何人も報告に来る。  情報収集、サマルトリアとの国境近くを攻撃して来た魔物を撃退、多くの人を集め武装させるなど、皆が忙しく働き始める。  サマルトリアとまったく連絡が取れないことは、特に幼いサムサエルをゴッサに預けているアロンド・ローラ夫妻にとっては気がかりを通りこしている。  まして、生まれたばかりの娘も行方不明なのだ。  もちろん、誰もがサマルトリアに、近い親戚や親しい友人がいる。  その激しい不安を戦時体制構築に向けるのは、それこそアロンドにとってはお得意のことだった。  サマルトリアとの境界近くに、本来なら霧の中に隠れるような怪物が、煙に包まれたような姿で出現した。  開拓村の者は命令どおり抵抗せず離脱し、報告した。  アロンドが、すぐに動ける少人数だけを連れて急行し、瓜生が残した器材を利用して撮影させつつ全滅させた。  それは強烈なプロパガンダ映像となった。  ラダトームの城より巨大な、サソリのような怪物が霧をまとって襲う。  勇者の盾を左腕に、アロンドが対峙する。傍らのアダンが奇妙な蛇と化し、アロンドの体に巻きつくようになると、ケンタウルスのような姿になる。  そしてアロンドの右手には、稲妻をまとう簡素な刃が握られている。  一瞬。高速で襲う巨大なハサミを断ち切り、正面から一閃、とてつもなく巨大な姿が崩れ、霧とともに風に散る。  その次の一瞬、別の遠くから撮影しているカメラが、いくつも同時に稲妻が落ちたような閃光をやっととらえ、多数の怪物が消し飛んでいた。  次いで、三本の長い触手を持ち、本体は煙のような霧に覆われた魔物。四人の〈ロトの子孫〉が進み出ると、前衛の二人の剣に稲妻が落ち、その剣が人を絡め潰そうと高速で襲う触手を両断する。  後ろの二人の呪文、爆発的な風が煙を吹き飛ばし白熱した火球が飛ぶ。上位呪文のバギクロスとメラゾーマだ。  巨大な奇岩のようなそれが恐ろしい速さで襲い、丸い口を開く、そこに後ろの一人が構えた筒から後ろに炎が吹き上がると、直後口の中で爆発が起きる。  それで一瞬固まった隙に、人間離れした速度で走る前の女が再び稲妻をまとう剣を怪物の頭に叩き込む。そして後ろの一人が呪文を唱え巨大な竜に変身し、強烈な炎を吹きかけ、牙と太い尾で怪物と格闘する。  隙を見て、竜から戻った魔法使いも含む四人が呪文を唱えると、巨大な稲妻が何十本も集中し、怪物も半ば崩壊している。  だがまだ動き、触手の一つが体から離れ巨大な毒蛇のように襲うのを後衛の魔法使いが放つマヒャドが動きを鈍らせ、即座に前衛の一人が炎をまとう剣で切り下げた。  同時にもう一人の前衛が本体に駆け寄り、背に負っていた荷物を放ってから少し後退し、後衛の一人が掘っていた穴に四人とも隠れる。  次の瞬間、爆発が本体を完全に破壊した。  別の怪物には、十人の〈ロトの民〉が馬で駆け回り距離を保ちつつ、強力な銃弾を次々と放つ。  高速の動きで茂みに誘導し、縦一列に固まり藪を飛び越える。追う巨大な怪物の足が何かに絡めとられる。  強靭なワイヤーにもがく巨体に突然大きな穴が開き、砕け散る。  その映像は世界各地の都市で、たくさんの人が見ている。  ジジが手なずけた香具師が場を提供し、そこにロト一族が布幕とプロジェクター、スピーカーと発電機と燃料、コンピュータを持ち込んだのだ。  ロト一族も多くは見た。しかし、特に子供たちは見てから、別の講義も受けることになった。  どのようにプロパガンダを作り上げたかの種明かし、現実にはどうだったかの未編集素材、さらに自分がその戦士たちの立場ならどうしたかを考えるように、とまで言われ、その前提で訓練させられた。  教師たちやハーゴンはそれを教えるのには抵抗を示したが、アロンドが強硬に主張して押し切った。プロパガンダのことを誰より知っているからこそ。 『うわああああああっ!』絶叫、揺れる画面の中剣士が突進しようとする。 『だめだ離れろ、距離をとれ!特攻は楽だ、賢く戦う勇気を持て!』  そう、四人組の後衛は叫んでいた。  生の映像は揺れ動き、見ていると気持ち悪くなるほどだ。長い時をにらみ合いや、どこかに隠れた敵を探し回るのに使っている。 「撮影者も一人じゃないのね」  いくつもの、色々な角度からの映像。それを編集したのがプロパガンダ映像だ。 『勝てない敵なら敵を固定しろ!ボミオスだ』 「ミナデインに見える集団呪文は、集団で増幅されたボミオス。アロンド陛下やローレル殿下が運動するために使われている。稲妻は後から映像編集で追加したんだ」  と講師自身も呆れながら説明する。 「敵の動きを止めることが、この戦いの目的だ。動きさえ止めて、ルーラで退避すれば砲撃のえじきにできる」 『止めろ、なんとしても止めるんだ!』 『おれたちはずっと、敵を足止めしてきた!子供たちを逃がすために!』 『ばか、前に出るな!死んだら足止めはできないぞ!』  戦士たちの悲痛な叫び。泥を踏む音と敵が起こす不気味な音に混じり、半分しか聞き取れない。  テレビ画面を見ている子供たちも青ざめてくる。戦意高揚のためのプロパガンダではない、別の迫力がある。 〈ロトの子孫〉の四人チームが戦った敵を破壊したのは、F/A18ホーネットからの精密誘導爆弾。戦闘機からのカメラ映像もある。 〈ロトの民〉の騎馬が戦った怪物は、砲兵が大型榴弾砲で狙い撃ちした。  四人組や、騎馬隊のミスもそのまま撮られている。馬で、間違った方向に走ろうとしてしまい、馬の足を泥に取られる。実はそれをアロンドがフォローし、撮影を再開させている。  それをバカにする者もいるし、ミスを見てじっと考える者もいる。 「あたしなら呪文を間違えたりしないわ。ちゃんとピオリムからやってる」ケエラが傲然というが、 「他人のミスからよく学べよ。安全なところから戦場の人を批判するな」と講師に言われて憮然となる。  そして、こうして見ているとはっきりわかる。戦いの目的は徹底して足止め、あちこちに設けた落とし穴や、太い鋼ワイヤーで巨大に作ったスネア、特殊な鉄条網で敵の動きを止めることだ。 「止めて、その位置を砲兵に伝える。距離と方向を正確に伝え、砲兵が位置を特定できるようにする」  と講師が説明し、子供たちを見回す。 「じゃあ、やってみよう。どうやって山の向こうにいる敵の位置を砲兵に知らせるか。まず土と丸太で小山を作り、その向こうに、小さなクロスボウで石を放つ。  何を持っていくか、自分で考えろ。実戦なんだから何をしてもいいんだぞ」  まずみんな、許可を取った荒れ地で、汗を流し馬を使って、大人の背丈ほどの山を築く。  それ自体、数日かかりの大工事だった。  まず誰がリーダーになるか。毎日「今日のリーダー」をくじ引きしているが、だれがくじに当たるかで大変なことになる。  そして人数自体が不安定な班同士で競い合う。時には人数が少ない四人の班が、多い十人の班よりも仕事が早いことがあり、下級生が泣いたりわめいたり、反省の作文で内容が危険なほどの非難になったり、大騒ぎになる。 「ねえ、あの後ろ側の魔法使い、ジジ先生よ」と、ケエラがダンカに話しかける。 「そういえば、あの歩き方」ダンカが土を運びながら頷く。 「男だったけど、歩き方とか仕草がジジ先生だった。でも」 「でも?」 「それぐらい気づけ、とわざとやってるのかも」  眉をひそめるケエラの美しさに、ダンカの胸が跳ね、疲労もあり息が速まる。ごまかすように、小山を築くのに働いた馬やセロを労わりに走った。  今日はダンカが、まるで家畜の群れを操るように集団に対し、断固とした命令と暖かな労わり、身を持っての率先で仕事を進めていた。 「頑張ってるな」ダンカの言葉に、ディウバラは表情を輝かせた。 「負けないわよ、ディウがこんな体でこんな丸太運んでるなら、あたしたちはこれぐらい」と、ケエラはもっこに土を大量に詰めて二人で担ぎ、ひっくり返った。  体力がなかったディウバラが、率先して一番重い丸太を運び、激しく息をついてへたり込むほど必死で土を掘っていた。無理をするなといわれるほど。  初めてバイオリンを弾きたいと彼が瓜生に訴えた時からだった。  瓜生は、ワーグナーのオペラのDVDをかけてバイオリンを渡し、「この第一バイオリンの真似をずっとして、適当に音出してろ」とだけ言った。  何時間も立ちつづける。トイレに行っていいのは休憩時間、しかもその間も画面内のバイオリニストの優雅な動きを真似続ける。適当なギーギー音に苦しみつつ、同時にDVDの華やかな音と映像に驚きながら。  失禁寸前の尿意。上げっぱなしの腕はしびれ、そして後半に入って疲労に失神した。たった八歳なのだ。  介抱した瓜生が「まず、体力をつけるんだ」と言う。 「どうしたら、いいんですか」 「毎日学校での運動。武術。踊り。銃の訓練。全力で走れ、一息一息全力で息をしろ。家での農作業も、全力で掘れ。体力は裏切らない。  二ヵ月後、体育の成績が期待通り上がっていたら、バイオリンを持たせてやるよ」  翌日は、そのディウバラが、それも43人もの多人数を率いることになってしまい、皆が驚き案じた。  彼は下級生であり、彼の年齢でも背が低い。ザハン出身で日本語もひらがながやっと、共通語すらどもりがちだ。  そんな彼に、ケエラは「あんなやつに指揮なんてできっこないわよ」と友だちと嘲笑していた。  ダンカが「誰が指揮官でも、権限がある指揮官には服従しろ、って習ったろ」ととがめる。  ディウバラは、くじを示され「指揮し、小山を築け」と言われ、意外なほど冷静に受けた。まず練習している鼓笛隊の、小太鼓と制服にきっちり身を固めた。  嘲笑半分のメンバーが集まっているところに行き、昨日作業した丸太で高くなっているところに上り、全員に背を向け深く一礼した。 「何やってるんだ?」 「おい」 「命令してみろよ、赤ちゃん」  とがやがやするのが、動かない背中を見て静まっていく。 「あっちにみんなで礼をしろ、ってことじゃないか?」  と、ダンカが言い出して礼をする。彼も、最近はムツキたちサマルトリア組が生死不明なので参加できていないが、武術の特訓で礼に始まり礼に終わる生活に慣れている。  昨日ダンカに引っ張られ労わられた小さい〈ロトの民〉の子供たちから、ダンカにあわせてディウバラが頭を下げる方向に礼を始める。  しばらくしてディウバラは身を起こし、振り返ると、右手の小太鼓のバチを高く振り上げた。  左手のバチで、小太鼓を細かく連打し始める。ダダダダダン、ダダダダダン、と決まったリズムで。  そして右手のバチをゆっくり揺らす。何人かが、それにあわせて体を揺らし、深い呼吸を始める。  あわせようとしていないケエラに、突然右手のバチが突きつけられ、同時に左手がダララララッ、と鋭く連打された。 「何よ」  怒鳴り返そうとした、その機先を制するようにバチをもう一度突きつけ、それから左手の小太鼓をゆっくりしたリズムにして、静かに歌い始めた。 『すすめわがはらからよ ともにちからあわせ』  音楽と体育にだけは全力の十倍を出す彼のこと、歌もうまいし、歌ではまったくどもらない。  共通語でも全員何度も歌っている歌だ。最初、とてもゆっくりしたテンポで独唱する。そして右手のバチを指揮者のタクトのように使い、全員に歌うよう指示する。ゆっくりしたテンポで、大きくタクトを振って。皆もいつも合唱しているだけに、自然に歌いはじめる。 「歌の時間じゃないわよ」といおうとしたケエラを、近くの上級生とディウバラの左手のバチが黙らせ、歌わせた。  歌い終えてから、歌うではなく右手はゆっくりと四拍子を振り続け、同時に左手のバチで前から一人ずつ指しては、昨日の作業場……土を掘る、丸太を運ぶ、積むの三つに分けていった。  次いでディウバラは『鋼の救世主』の前奏を歌い、両手の小太鼓で激しいリズムを叩く。全員が激しく歌いながら、タクトが土の山を示すと自然に仕事を始めた。自発的に最上級生がリーダーシップを取って、作業そのものは昨日の続き。  歌が終わったら、あとは左手でリズムを刻み、右手でゆっくりと呼吸を指示し続け、時々知られた歌や、著名なバイオリン曲を「ラララ」で歌って、全員も歌に参加させた。彼はタクトを振り、小太鼓でリズムを刻んでいるだけだが、なんとなく集団で何をすべきかわかってしまう。急ぐ、スローダウン、深呼吸、サボるな……  班分けがうまくできており、まるでオーケストラの各楽器を操るように段取りよく指示が飛ぶ。一人一人が好きな歌を知っていて、自分から歌いだし、皆に歌わせて一人を励ます。  ケエラも、文句を叫びたくなった時に自分の芸能活動での持ち歌『GO MY WAY!!』で乗せられ仕事に集中する羽目になった。  全員、呼吸を一致させての仕事だけに、とても心地よく集団行動がはかどる。  結局、一言の言葉も口にせず、音楽と身振りだけで、指揮者としてオーケストラのように全員に仕事をさせてしまった。  作業は大きく進んだが、その夜に全員が書いた作文では「今日のリーダー、何考えてたの」「どうして仕事ができたんだろう」などと、誰もがわけがわからないとばかり書いていた。 「水・トイレ休憩」がうまく指示されていなかったことが欠点だった、と冷静な何人かは指摘しており、真似をする人はいなかった。  ロト一族に加わって、まず客船で音楽に夢中になった彼はDVDで指揮者の動きも見ており、それを真似てみただけだ。他に「指揮」など知らなかったから。  そうやってできた小山、その向こうの標的は当然見えない。そこに、小さいクロスボウで石を放っても、当たったかどうかもわからない。  運動方程式も習っていない状態の子供たちが、直感だけで見えない小山の向こうにある標的をどうやってしとめるか、子供たちだけで考えていた。 「たくさん放てばどれかは当たるよね」 「違うよ、はさめばいいって兄さんが言ってた」 「銃のタンジェントサイトを使えばいいよ」 「山の上に見張りを立てればいい」  と、みんなが色々話す。十五歳ぐらいから五歳ごろまで、さまざまな年齢が混じり、上級生が下級生を教えている。  見張りを山に登らせたら、ライフルで正確に狙ったサインになる、変形レミーラに照らされた。 「どうする?」  と相談しては、色々試している。  いくつかの班が、それぞれのやり方を見出した。  丸太を盾に伏せた見張りが着弾点を見て、手旗信号を利用して東西南北に調整する者。  何発も放って、経験を頼りにするもの。  数学の教科書を引っ張り出し、上級生に運動方程式を解いてもらう一団。  発射してから、山上の見張りが風の呪文で強引に着弾を調整するグループもいた。  山の上のほうに塹壕を掘ろうとして、塹壕戦になりそうになったこともある。  それから騎馬隊の動きを真似ることで乗馬もしっかり復習した。  アロンドたちのところに、知らせが届いた。 「ムーンペタのヤフマさまから。ムーンブルクから、テアハス女王の名でロト一族に協力し国を裏切った、とムーンペタを断罪し、血祭りにする、という通告があったと」 「内政不干渉原則は」とハーゴンが言うが、アロンドは軽く首を振った。 「それは近代国家間の話だ。それに、ムーンブルクにはもう宣戦を布告する。こちらから送っていた医師や使者も何人も襲われている」アロンドの、確固たる意思。 「ですが、ムーンブルク王の意思は?」アムラエルの問いに、 「殺された。崩御されたよ」とアロンドは静かに言った。  ざわめきが上がる。 「いくつかの報告を総合した。間違いなく死体が確認されている」 「なぜ、あれほど強力な武器と武力を与えたのに」と声が上がる。  水の紋章で、王の権力の弱さ、ムーンブルク宮廷の権力闘争に悩まされたアロンドは、王にアレフガルド貿易の利権と吹雪の剣を与えた。  それで多くの、離宮で働く者の給料も払うように言っておいた。 「吹雪の剣は……王弟の一人バレヌラが、その妻の実家が何でも望みの物を王に要求できる権利がある、それで渡したとか。しかし何でそんな馬鹿なことを」サデルが怒りをぶつける。  アムラエルが苦笑して発言許可を求めた。「あの宮廷では、何代も前の約束などを突きつけられたら、王でさえ拒めません。多くの大貴族の、約束と義理のバランスでできている宮廷ですから」  皆がため息をつく。 「現在、ムーンブルクを掌握しているのはテアハス王妃・バレヌラ王弟。すべてはわれわれロト一族の陰謀だとして、皆殺しにして大陸を奪えと叫んでいる」  と、アロンドがいくつかの報告を回覧するようにサデルに渡した。 「あと、そろそろかな」と、アロンドが言うと、突然ルーラで一人の〈ロトの子孫〉の女と、ガライ一族の女が、老人と子供を抱えて出現した。 「ラメエラ」とサデルが嬉しそうに呼びかける。 「レアヤどの、イリン王太子殿下。ご無事でなにより」とアロンドが腰を低く迎える。  老いた大貴族は小さい少年をアロンドに渡し、力尽きたように座りこむ。  恐怖に凍りついた少年が、アロンドの首にしがみつき、すすり泣き始めた。 「さあさあ、どうぞ。医師も」とアロンドが声をかけ、何人かが動く。  とりあえずさしつけられたブランデーに、レアヤがほっとする。 「話にも何にもならん。アロンド……陛下、いわれていたとおり。チェス盤をひっくり返し酒瓶で殴りつけるようなもんじゃ。ムーンブルクもすっかり野蛮国になってしもうた」  レアヤが自嘲気味に笑い、ブランデーを震える手で干す。 「王妃とバレヌラが、あれほど乱暴なことをするとは。それに、サマ」言おうとしたのを、一瞬アロンドの目を見て口をつぐみ、ため息をついて軽く気絶した演技をする。  しばらくしてから息を吹き返し、 「わしも老いた。……今は亡き先王、ムーンブルク王イリン三世陛下から、いざとなれば王太子をどこへなりとも逃がせ、と託されておった。今そなたに託す」 「必ず」アロンドがはっきりとうなずき、しがみついていたイリン少年が離れるのを支えた。  レアヤが深く息をつく。 「これで、もう何も思い残すことはない。どうかわしを、わが所領に送ってくれ。領民や忠臣たちとともに、死ぬならばそこでともに」  大領主らしい決意の目。アロンドは頷くと何人かを呼ぶ。 「アルメルス。急ぎ少人数の精鋭を編成せよ。重火器を扱える、判断力が高い者だ。キメラの翼も多数持て、いざとなったら、できるだけ多くの人をこちらに避難させろ。弾薬も無制限に持って行け。  ロクシャ、ルーラでは運べない戦車や船の輸送作戦を始めておけ」  そしてレアヤを振り返り、「今日だけはどうぞお休みください」と、その手を強く握る。 「どうやらムーンブルクとの全面戦争だ。まずあちこちの開拓村が攻撃されるだろう、家畜も含め全員、確実に退避できるように連絡と援軍、輸送システムを準備しておけ」  アロンドの言葉に、ハーゴンが異議を唱えた。 「不可能です!多少の犠牲はやむを得ませんよ」 「いまはウリエルさまがおらず、近代兵器は使ったら終わりです」 「石油精製もこちらではできない」  賛成する者も多くいる。  アロンドは軽くため息をついた。 「一つの開拓村に、どれだけの食料がある?家畜と人がいる?」と、ハーゴンを静かに見る。 「はい、平均で百トンの穀物を埋めるよう指導しております。家畜は馬が五十頭、セロが十頭、その他。人間は四十人が平均、働ける年齢が半分です」  書類仕事で重要な立場にいるハーゴン、数字はすらすらと出る。 「それを敵に渡すのか?なら、こっちから兵站を送ってやったほうが、まだ非効率や運搬コストの分、敵にわたる量は少ない」  ハーゴンがぐっと詰まった。 「いいか、われらロト一族以外の軍は、兵站は略奪に依存している」 「なら、敵が利用できないよう」ハーゴンが言い募るのに、落ち着いているが激しさを秘めた口調で、アロンドが口をはさむ。 「スターリンはその手を使ったな。ナポレオンも私、いやヒトラーもそれでやられた。焦土作戦、物資をすべて焼き、人は皆殺しにするか、もっと悪い食料消費者……または弾薬の無駄遣いを敵にしてもらう」  いいかけたハーゴンがぐっとつまる。 「それに、その四十人のうち十人は魔法使いだ。それが敵に使われたらどうなる?」全員を鋭く見回した。「一人も渡すな。米一粒渡すな。そのためなら戦車何台使ってもいい。どうせ戦車の類は、あと三十年もすればゴムから朽ちる。それまでにリバースエンジニアリングできるようにするんだ、そのためには教育を受けた人、子にソロバンを教えられる親を、一人たりとも敵に渡すことはできない」 「しかし、卵を割らずにオムレツは」  アロンドの凄まじい殺気に、元老院の皆もびくっと硬直する。 「私以上にそれを知っている人間が、いると思うか?もう一つ、別の人生で学んだことがある。人は、卵を割ることそのものを目的にしてしまうんだ、オムレツを作ることも忘れて」  ふっと、雰囲気が和らぎ、皆が息をつく。 「まあ、こうして私が指揮官をやっているのも、なぜだ?私は一体なんだ、皆」 「王です」ハーゴンが即座に言う。 「勇者、は放棄しましたね」と、サデル。 「元老院議員」 「ゴーラのロンだ」とロムル。 「でも、あなたが最高の指揮官なのは間違いないです」  口々に出るへつらいと賞賛の声に、アロンドはぐっと眉を寄せた。 「立憲王制の王だ。私が最も優れた指揮官であっても、私が指揮を取るべきではない」 「それでは勝利できませんぞ」とハーゴンが言う。皆が口々に賛同するが、アロンドは首を振る。 「勝利は前提だ。だが勝利のために憲政を崩せば、敗北以上に取り返しがつかないのだ」  サデルを指揮官に、という声も多かったが、竜王戦争で中央司令部を壊滅させられ、総指揮官の首をとられたことが思い出される。  アルメラ船長を名目上総指揮官とし、実際の指揮はサデルにする。  アロンドは、サデルにさまざまな指示を与え、あとは全部任せてしまった。  念願の勇者に近い、実際の総指揮官になったサデルは、まず精鋭を率いて敵を迎撃し、同時にロト一族全体を総力戦体制にする仕事に着手した。  必要な物資は、瓜生が消えるずっと前に出し、備蓄している。サデルはその全貌を初めて知り、声を失った。湾岸戦争を十年間戦えるだけの、銃弾・砲弾・爆弾・燃料・食料・衣類などが備蓄されている。  AK-74が五十万、弾薬も五十億。RPG-7も十万、弾頭も合計五千万。手榴弾や地雷も何百万とある。  サイガ12ショットガン、RPK-74、FN-MAG、Lightweight Medium Machine Gun (LWMMG)、M2重機関銃、Kord重機関銃、14.5mm重機関銃、AGS-30グレネードマシンガン、バレットM107対物ライフル、ダネルNTW対物ライフルが各何万も。弾薬もそれぞれの銃身寿命以上にある。  戦闘機や戦車は、運転できる者が少ないため最低限だが、それでも原子力空母とF/A18とA6が各20機、A-10攻撃機、AH-64アパッチやCH-47ヘリ、C-130、US-2飛行艇、メルカバ戦車、ブラッドレー歩兵戦闘車、MLRS、87式自走対空砲、大型のブルドーザーや多数のトラック、中型輸送艦、汎用の船と、膨大な量の燃料・弾薬がある。  整備工場の資材すらあちこちにそろい、ガライの墓の経験から空母を整備してきた人たちはそれも使いこなす。  各地のドームには特に頑丈にコンクリートで作られたものがあり、155mm榴弾砲、76mm野戦砲、ボフォース40mm、20mmバルカン、M2重機関銃、迫撃砲などが配備されている。  毛布やテント、水筒なども大量にある。  わずか五万の人口、戦闘員一万前後だが、多くが魔法を使えることも考えに入れれば、瓜生の故郷の小国とも戦える。  一人五頭以上の馬で走り続け、雌馬の乳や血を飲み、休みなく走り続ける騎馬の戦士たち、それが銃を手にしたのだ。バレットM107の長距離射撃、近距離ではAK-74のフルオート・RPG-7・呪文の複合攻撃。何人かの高い訓練を受けた者はダネルNTW-20、LWMMGなどの長射程・高威力・多弾数の火器を用い、遠距離から敵を削る。  二台のブラッドレーが物資・火力とも支援する。  漫画で描かれたマニュアルと、義務教育で訓練に慣れていることから、多くの人が短期間で重火器や車両すら使えるようになっている。 「まず最初の作戦目標は、ムーンペタの民の多くを避難させること。受け入れ先はリリザ」  と、アルメラ総指揮官から発表される。  サマルトリア王都のほうが近いが、そちらは霧に襲われている。  リリザは理想的な都市候補のひとつであり、開発が進んでいた地域だ。ちょうどローレシア領とサマルトリア領の境界近くで、国境の緩衝交易都市と決まっていた。  広い草原の中、豊かな川のほとりの、頑丈な岩盤。  三日月状の山脈に守られ、今回の霧の被害も受けていない。  北は山脈のせいか乾燥地帯が広がるが、そこも埋蔵量豊かな銅鉱山と塩鉱山があるし、乾燥地帯は灌漑すれば豊かな収穫が得られることは確実だ。  海近くは豊かな森が広がり、木材も豊富。近くの半島が作る湾が極上の港となる。  ムーンブルクのある大陸にも近く、旅の扉にも近い。  近くには大規模な油田があり、それが毒沼にすらなっていた。  戦争が始まる前から、瓜生がいくつか大きな穴を掘り、大量の軍需物資を備蓄してある。  戦争が始まってすぐに多数の機関砲を据えてトーチカを作り、塹壕で町を囲んだ。  そこに、ムーンペタから数万人を受け入れる。  それは立派な大作戦だった。  豊富な測量経験も重要だ。  精密な地図があるとないとでは、戦闘力は段違いになる。  さらに、複数の三角点を望遠鏡で見つけ、精密な六分儀と水準器で角度を得て無線通信すれば、味方の位置は正確にわかる。  敵の位置も正確にわかり、そこに爆撃や砲撃が山を越えて正確に注がれる、というわけだ。  海を航海し貿易する船を襲う敵もいた。 「セイル・ホー!ムーンブルクの私掠ガレー船!」と、ザハン出身の見張りが叫ぶ。  ざわざわ、とザハン出身の船乗りが不安になる。 「相手はガレー船だぞ。こちらには櫂がないじゃないか」 「た、確かにこの船、間切りはすげえけどよお」 「凪いだらおしめえだ」 「殺される」 「奴隷に売られるんだ」  怯える人々、だがロト一族の船員は悠然と天測し、気圧や気温を測定している。  実は短波無線で、海のあちこちにいる船が自分の位置を把握した上で気象データを送れば、中央である程度の天気図は作れる。天気予報が可能になれば、航海はもとより戦争にも農業にも凄まじい利益になる。  一人が、マストからはるか上にトベルーラで浮上し、大型双眼鏡を持ったまま降り、船長に報告した。  船長が何かを指示すると、士官候補生がマストに走る。そこに用意された箱と本。メモを本と照らし合わせ、次々といくつかのボール状の物をマストの上に、滑車で引き上げる。  すぐに丸いものが旗となってたなびき、それがいくつか模様と色を変えて繰り返される。 「まあ、無線でもいいんだが、ウリエルさまがやってくるまではこれでやっていたからな」と船長がつぶやき、軽く指示を出した。  素早く船員たちが息を合わせ、大きな縦帆の向きを変える。ザハン出身者も、こういう仕事ならさすがにわかる。 「それにしてもこの帆、すげえよなあ」と、ザハン出身の、やや豊かな服を着た老人が嘆息する。「こんな少ない人数で、こんな鋭い間切り。とても普通の船じゃ相手にならん」 「それだけではないですよ」と、〈ロトの民〉が話しかける。「水平線のさらに向こうに、僚船がいます。両方がちょっと顔を出したり引っ込めたりして、敵を誘導してるんですよ。その間に本命の輸送船は、もう目的地に着いています」 「なんでそんな、大声でもとどかねえだろう」 「あの旗は言葉を伝えることもできます」 「おれらにゃ、せいぜい海賊だとか助けてくれとか、そんなもんだぞ」  水平線の彼方の敵船を見ていると、特に少年は腕が鳴るようだ。 「戦わねえのか?」と、愛用の斧を持ち出して振り回してみせる少年もいる。 「戦力に差がありすぎる、今は。虐殺でしかない」と船長が言い、別の仕事を言いつけた。 「さて、ザハンの諸君。戦わない理由を、ここでなら知らせられる。港に届けて、少し射撃訓練の許可をもらった。あそこに、丸太小屋があるのが見えるな?」  ザハンの船員が口々にうなずく。岸までまだ2kmはあるが、高台の丸太小屋は見えている。 「発砲準備。発射」  船長の言葉と同時に、船首近い甲板に据えられていたブッシュマスター25mm機関砲が、数発火を吹いた。  その炎と轟音にザハン出身者は度肝を抜かれた。そして丸太小屋が瞬時に粉砕されたのを見て、完全に圧倒された。 「仕掛けがあるかどうか、上陸して確認するか?」  皆、それに反応する気力もない。 「言ったろう?飛び道具もない木造ガレー船に、遠くからこれを発砲するのは、虐殺だ。ロトの掟に反する。さ、上手回し用意。ローレシア沖に向かうぞ」  船長はこともなげに言い放った。  攻撃に怯えるムーンペタに、まずアロンドとジジが姿を見せて人々を安心させた。  ジジは長年石像として、ムーンペタの象徴と愛されており、それが生身の体で叫ぶ。アロンドのカリスマがそれを補い、人々を整然と集めた。  超巨大客船とニミッツ級原子力空母、そして多数の汽船がムーンペタの二十万人近い人口を一気に、大陸を越えて移していく。どちらも標準で六千人の超巨船、クルーを減らし一部屋に何人も詰めて人員輸送に徹すれば、一万人はいける。  そこで、かなりの人数のガライ一族がショーをしながらローレシアまでの、半島を大きく迂回する長い海の旅をする。もちろん、ムーンペタが持っているような横帆船やガレー船でローレシアまで行こうとしたら半年はかかる旅を、ほんの一月でこなしてしまう。  他の船はレアヤが治める、風の塔に近いムーンブルク東部からも人を輸送している。  避難民たちにとって、それは圧倒的だった。  だがそれでも一夕一朝で運びきれるものではなく、人がまだいる時に敵は押し寄せてくる。 「河を守るぞ」「ムーンペタ大橋に兵力を集中しろ」というムーンペタだが、サデルは首を振った。 「川岸は長すぎて、防御しきれません。敵が橋を使わず渡河を選んだ場合、橋の防御は無駄になります。河は船で移動し、兵站を運ぶのに使わせてもらいます。むしろ、敵が上陸しようと近づくところを襲うほうがいい」  アロンドに、大西洋の壁がどんなに無理でムダだったか、いやというほど聞いているからだ。 「あれはとことん無駄だった。あれに使われた火器とコンクリートを、別の目的に使っていれば……上陸はどこからでもできるが、上陸した軍は必ず集まらなければならない。制空権を握られていても、ドイツ沿岸地帯の道や駅を罠だらけにして、進みにくくするほうがいい時間稼ぎになった。ロンメルは確かに経験から水際作戦を具申したのだが、それを実行する資金と資材、制空権・制海権がなかったことを見ていない。金が足りない時点で弱者だ、弱者が強者を倒せる方法は、ゲリラ戦だけだ。  まあ、あの状態では何をやっても詰んでいたがね」  アロンドは地図を見ながら、軍の皆に何度も当時の状態を説明し、解説していた。そうせずにはいられなかった。  空母が人を運ぶ前に降ろす膨大な兵器がムーンペタの町に一度集められる。空母の飛行甲板は人員輸送に使われるので艦載機は飛ばせないが、ヘリコプターや飛行艇が広い範囲を偵察する。人を逃がすのに使われる小型船は、いつでもムーンペタ河のどこにでも兵力を送り出せるよう準備され、訓練が重ねられる。  深い森、いくらか切った木を運び出すための道がある程度。そこに先遣隊が襲いかかる。  それは、もはや人ではなかった。いや、人以上に人といえるだろう。  姿を消して偵察していた人たちが、この世の地獄を見ている。  最初はただの暴徒だった。それが、あっという間に変貌した……最も凶暴な人間の心と、魔の体力を持つ軍勢に。  ムーンブルク王城街の多くが虐殺され、その死体が次々と蘇った。鋼の鎧を貫通し生身の人間の腕をもぎ取るAK-74もクロスボウも効果がない怪物に。 「竜王軍の魔物たちも、あそこまでひどくはない」と、戦いを経験した〈ロトの子孫〉が声をそろえた。 「血に酔った人間は、魔物よりずっとひどくなる」アロンドら、ガライの墓の試練を経験した人たち、人間の戦争を見てきた長老たちが声をそろえる。  その兵団がムーンペタに押し寄せてこようとする、そのかなり前にローレシアの、戦車と牽引砲が次々と運ばれ、上空からの偵察で敵軍の位置がわかる。 「速い。時速80kmは出ている」 「多数の、かなり強力な魔物が加わっているな」 「ムーンペタ河全体を、浸透するように渡ろうとしているようだ」 「いや、こちらの陣に集合しようとしているのでは?」  と、敵の状態を分析する。  同時に、敵が攻撃しそうな村や町に行き、できるだけ多くの人々を逃がす。襲われる村から人々を逃がすのは、竜王戦役で〈ロトの子孫〉にとってはお手の物だ。さらに今回は多数の巨馬と、瓜生が残したトラックや船がある。  兵站を準備し、風呂・トイレ・調理・寝場所を作る。訓練や塹壕構築で適度な運動をし、娯楽、熱い食事で士気を保ちつつ戦闘準備を整える。将棋や囲碁は戦線でも気軽にできる娯楽だし、ガライ一族が舞台でミュージカルをやることもある。逃がした難民たちにも食事を与え、楽しませる。  大型ヘリが次々に保存食や砲弾を空輸し、読み書きできる膨大な人たちが瓜生が緊急用にと残した大量の紙で記録を取り、ソロバンと瓜生が残した電卓で計算し、書類を書く。  こちらから少人数の、強力な魔法使いがあちこちに出て、砲撃をしやすくするための目印を設営する。  敵が迫ったとき、それはまるで雪崩のようだった。  膨大な数の、巨大な魔物たち。前線を駆けるのは、血と肉片にまみれ腐臭を放つ、戦いに狂った人間たち。  その集団に、メルカバの120mm砲とブラッドレーの25mm機関砲が次々と叩きこまれる。  象のように巨大なムカデも砲弾には粉砕されるが、直撃したときのみだ。大波に拳銃を撃ちこむように、ほとんど勢いは止められない。  そのまま蹂躙される、と見るものは思うだろう。敵の中の生者も、そう絶叫しあざける。  だが、大きい町に向かうための道、その一部が削られふさがれ、少し迂回するルートに広がる茂み。そこに敵集団が踊りこんだ時に、別の地獄が起きた。  何重にも張り巡らされたレーザーワイヤー。特殊鋼の薄帯でできた、刃の螺旋。  それが巨大な魔物たちも、蜘蛛の糸が虫をとらえるように絡め取る。生ける狂者は痛みに絶叫し、ますます狂気を強めて自らを傷つける。生ける死者は痛みを知らず、より深く鉄条網に自らの体をねじこみ、切り刻んでいく。  桁外れの力がある魔物も、一度それに絡められたら動けない。特殊鋼の薄帯の引っ張り強度は、極太の鎖もしのぎ戦車も妨げる。その端は深いコンクリート杭に埋められている。  あがきが激しく泥をはね散らかし、人ならぬ声の絶叫が天をつんざく。  その絶叫もかき消す、いたるところから吹き上がる爆発。無数の地雷が足を砕き、魔物でも狂者でも死者でも行動自体を不可能にする。  その死骸が集合し、より巨大な別の魔物が出現することもあるが、それもまたすぐに鉄条網に絡め取られ、対戦車地雷に下半身を吹き飛ばされる。  さらにそこに、正確に測量された山越えの砲弾が次々と叩きこまれ、爆発と破片がすべてを蹂躙する。  理性を残す生者に導かれたのか、その地獄をよけて、ふさがれた道に踏みこんだ軍勢はより一層の地獄に直面した。大量の燃料を爆薬が押し広げ、点火……窪地の内側が巨大な燃料気化爆弾と化して、生きていようが死んでいようが焼き潰し、立ち上る火災旋風が焼き尽くした。  別の道をたどる魔物たちも次々と、鉄条網と塹壕に絡められ、機関銃と迫撃砲、近距離からのRPG-7に粉砕され続けた。  ロト一族は全員穴を掘る。全員が肌身離さぬ長柄の剣鉈は、剣のようにも使えるが穴掘りにも十分使える。畜力も借りて測量し、杭を打つ。その技術はそのまま、塹壕を作ることに使える。  魔法は魔法で防ぎ、炎や吹雪、毒を吐かれてもその大半は塹壕の土塁に吸収される。  フレイムやブリザードが鉄条網も無関係に飛んでくることもある。だが炎は土塁に防がれ、数人の兵が集まり、サイガ12ショットガンで2mm系程度の散弾を、セミオートで大量に放つと心が砕けるような悲鳴とともに消えていく。周囲もAK-74のフルオートで弾幕を張る。アロンドとともにロンダルキアへの洞窟を攻略した精鋭たちは、凄腕の剣士が邪悪な気をつかんで核を斬るか、または散弾で核を砕けばフレイムも倒せることを学んでいた。  魔物が襲ってくれば、土壁の向こうから強力な重機関銃と迫撃砲が弾幕を張る。後方からは高速で動き回る戦車が次々と超強力な砲弾を、ほとんど狙撃の精度で巨大な魔物に命中させる。ブラッドレーが兵員と弾薬、食料を運びながら25mm機関砲で掃射し、危険が迫れば味方を積んで素早く逃げる。  空を飛んで戦線後方を狙う魔物も、AK-74や重機関銃の弾幕に撃墜される。トベルーラで飛びながら機関銃で連射する魔法使いにはとても対抗できない。  大軍だが、十分な清潔とワクチン、抗生物質。湯冷ましを飲み、ビタミンをちゃんと飲み食いする。伝染病は出ない。  敵も確かに強い。普通の人間に見えるのが、実際には倍の大きさになり、人間なら胴体ごと両断されるM2重機関銃の直撃にもかまわず馬の速度で走り続ける。だがそれでも、レーザーワイヤーを引きちぎることはできず、25mm弾やRPG-7の直撃にはひとたまりもない。  いたるところで、塹壕網をはりめぐらすローレシア軍に、次々に魔軍が襲いかかっては壊滅していく。  そうして時間稼ぎをしている間に、膨大な人数の民がリリザに逃げ、キャンプを作り仕事ができるものは仕事を始める。  ローレシアは三千人ほどが前線で戦い続け、後送されては人を運ぶ仕事に取り組む。後方にも一万人近くが常時おり、サマルトリアの人々を抜いて四万人前後の人口全体が臨戦態勢にある。  ほぼ同時にデルコンダル軍も攻撃も南からローレシアを攻めてきた。だが、こちらはほとんどが人間だ。  中には何人か、奇妙に戦いに応じて魔物のように化していく者もいる。邪神教団がアロンドの両親に駆逐される以前、遺伝子レベルで邪神に従うよう刷りこんだ者たちだ。  彼らがなぜかいっせいに命令を受けたように、激しくローレシアに対する敵意を燃やし、軍勢を集め攻撃を始めたのだ。  デルコンダル王もそれを止めることはしなかった。  半島を北上する一本道なので、守る側から見ればこれほどやりやすい戦争もなかった。  デルコンダル軍の数隊が、山を越えて開拓村の一つに攻めこんだ。 「やっと略奪できる、やっと腹いっぱい食える」  完全に食糧を輸送できた軍は、第二次世界大戦のアメリカ軍が最初だろう。それ以前の軍はすべて、食料は略奪で得る。多くは給料も。 「だれも、人っ子一人いねえよ。馬一頭、ゼド一匹」  という報告に、貴族は激しく怒って報告した兵を殴り倒した。 「もっと探せ!どこかに隠れてるんだ、腕一本たたっ切って、足に縄つけて引きずって来い!」  と、激しく怒って探し回るが、建物そのものが少ない。開拓村はテント暮らしも多いからだ。 「見つけました」と、一人がわずかにあったドームから、一枚の紙を持ってくる。 「なに?」と、指揮している貴族も文字はろくに読めないが、何とか見る。 「地図みたいだな。この印か?よし、掘ってみよう。その家は焼いてしまえ!」  と、腹ペコの百三十人ほどが、地図につけられた斜面を探し、必死で掘り始めた。  背後には焼かれた家の煙が上がっている。  一人の兵が、何かを見つけて隠そうとした。 「何が出た!」  殴り倒した貴族が、その手を踏みつけて奪う。 「おお、金貨だ!」  欲と喜びに絶叫し、飢えて疲れきった兵が吼えて、必死で掘り返す。  木を切り倒し、槍や短剣で重い泥土、強靭な草の根を掘り返し、岩を転がす。 「見つかった!」大声に群がる兵、そこに貴族が真っ先に飛び出す。 「どれだ!?」と銅でできた板と数枚の金貨を手にし、一瞬ホクホク顔をした貴族は、みるみるうちに額に青筋を立て、顔を真っ赤に染めた。 『掘ってくださってありがとう。ここを畑にしたかったんです。こちらは給料です、お納めください』と、やさしく共通語で書かれてある。  金貨は嬉しいが、食えないことに気がつく。  人間・家畜とも完全に避難し、収穫のすべてを見つからない場所に深く埋める……竜王が操る魔物から逃げ続けた〈ロトの子孫〉、そして霧から何度も逃げた開拓村の人たちにとっては、すべてお手の物だった。  そうやってからかわれ、飢えと怒りに頭に血が上った敵は、そのまま無謀な峠越えで余計に消耗し、次の開拓村で待っていた重火器のえじきになるだけだった。  谷の向こう側から、撃つ相手を確認することもできない……森の奥に隠されたコンクリートトーチカから放たれる迫撃砲と重機関銃、狙撃銃に、何にやられたのかもわからぬままやられていく。  逃げた者も飢えに耐えかね、指揮官も殺してあちこち野山に迷い、力尽きては救助され、捕虜としてやっと食事にありついた。  デルコンダル軍は兵力も弱く、最小限の兵力で十分撃退できている。  海から大灯台の島を攻めようとする軍勢もいるにはいるが、それは船を長距離砲で撃破すれば済む。  ムーンペタなどからリリザへの避難は成功した。避難民を突然海の魔物たちが上陸して襲おうとして撃退することはあった。  一度ならず、霧をまとう巨大な怪物がリリザを襲い、アロンドと艦載機部隊が撃破したこともある。  そんな中、突然ムーンペタがある巨大な半島の北端に、多数の敵が出現した。  海峡一つ渡ればサマルトリアの南、ベラヌール北方につながる旅の扉がある。  およそ百年前に、平和なアレフガルドでリムルダールとラダトームをつなぐ海底トンネルが掘られた。  その職人たちが、ムーンブルクのサンケス四世王と、美貌と狂気で知られるアレフガルドのローラ女王の命を受け、ムーンブルクとアレフガルドの総力を挙げてムーンペタ北の大半島から禁断大陸に向けて、海底トンネルが掘られていた。  ローラの門と言われるそのトンネルは、二十年にわたり掘り続けられたが、開通直前で頓挫した。  アレフガルドにおける大地震と、やはり地下であっても大陸の結果以内で眠り死んだ者がいたことで、労働者の間に恐慌が起きたのだ。  それをムーンブルク軍は思い出したようだ。  もちろん工事を妨害するのは容易なはずだが、なぜかその作戦は進まなかった。  サデルはそのことに、少しいらいらしている。軍が自由に動いていない、意思決定がうまくいっていない感じがする。  ムーンペタを大きく迂回し穴を掘りに来るムーンブルク軍に、キラーマシーンと呼ばれるようになった異質な魔物が多数混じるようになったことも、妨害がうまくいかない理由だ。  戦車ほどの大きさで、AK-74の5.45mm弾ではノーダメージ。魔法もほとんど通じない。金属製の巨体は瓜生が出す重機のような印象だ。ただしエンジン音はしない。  RPG-7や20mm弾以上が直撃すれば行動不能にはできる。魔法剣を使ってもなんとかしとめられるが、すさまじい攻撃力でやられるリスクも高い。  結構素早いので戦車砲を直撃させるのは難しい。また四本脚があるし巨大な剣も持っているので、塹壕も潰され乗り越えられてしまう。  高い鉄条網でからめ、対戦車地雷や対物ライフルで脚を破壊し、至近距離からRPG-7を直撃させるのが一番安上がり、と結論されつつある。  それでもそれが多数出現すると、ローレシア側はかなり押されてしまう。  戦争が続いている。それ以上のことは、子供たちには知らされない。  新聞に戦局は出ているが、授業では「政府は戦時中は嘘ばかりつくぞ」とやっているのだから誰も信じていない。だがそうなると、何が本当なのかは誰にもわからないのだ。信じたいものを信じるしかない。  そして、生徒たちと、体が不自由な老人や身障者、幼児が集まって、監督する大人たちと共同生活をするようになってきている。  あちこちの開拓村には、戦闘で足手まといになる子を置く余裕がないのだ。  年長の子供たちが料理や洗濯をし、小さい子供たちは掃除などできる手伝いをする。魔法を使える子は魔法で。瓜生の世界の近代教育とはやや異なり、得意なこと、実際にできることを多くやる。  全員が二つ下の子に勉強を教え、いじめをしないよう見張る。その年長の子はより年長の子が見張る。  毎日激しい戦闘訓練がある。朝昼晩、給食のような食事になる。  授業も以前とはかなり変わっている。特に魔法は。長老による教育と違い、〈上の世界〉で学んだジジと瓜生は禁呪も含めた上位呪文が前提だ。ラファエラらはそれを前提にした初等魔法教育を作っている。  それら、急に変わっていく学校制度をうまくまとめているのがアムラエルだ。アロンドも熱心に金も口も出す。    朝。夜明け前にトランペットが響き、4人1組のテントから起きる。毎朝のレバーソーセージ、レモン・オレンジ・バナナ・アカビタシー(元鬼ヶ島原産の果物)のミックスジュースが配られる。ハンモックを片付け、4人で並ぶ。  そこに上級生が来る。  1人ずつ、叫ぶ。全力で腹から。わずかでも手加減があれば、4人とももう一度と言われる。 「さんじゅう、よばん、ケエラーっ!  わたしのーっ!武器はーっ!準備ぃー!できてるーっ!  わたしとーっ!仲間にーっ!牙をむくものーっ!殺す!  むかない!ものはーっ!殺さぬーーーーーっ!  アロンドーっ!ロトーっ!」  全員、喉がかれているのが当たり前だ。ダンカは声変わりもあるが。  それから30mほど、テントが円形に囲む中心にある、巨大な岩に向かって走る。  岩を覆う分厚いふとんに体当たりする。  大声・ダッシュ・体当たりの三つとも、全力でやる。見ている上級生が全力じゃないと判断したら、四人とももう一度やらされる。 『まず、十秒でいいから全身全霊全力で頑張ってみろ』が朝の標語だ。  それが済んだら、衣服を整えテントとハンモックを片付け、水場で顔を洗い、もう一度上級生の前で4人直立不動、服装や武器を細かく点検される。  剣を研いでなかったり、銃内部が汚れていたりしたら、みんなに笑われ一日中武器を没収される。  特に土木用具の手入れはサボりがちになり、「シャベルこそ歩兵の最大の友だ!きちんと磨き研いでおけ」「ノコギリが切れなければ、戦場で遮蔽物を作れず死ぬぞ」などと厳しく言われる。  それから、銃がない状態での敬礼と行進、銃がある状態での敬礼と行進を練習し、最後に徒手と剣を、48式太極拳と太極剣のように全員で。  行進などの間、鼓笛隊で小太鼓のディウバラが、丁寧に叩いていた。  やっと朝食。もう全員、腹がぐうぐう言っている。上級生たちと、器用な下級生も手伝って協力して作った食事に、味も何もなく子供たちがむしゃぶりつく。  ライ麦・オーツ麦・大麦・大豆・インゲンマメの粥に、砂糖入りヨーグルトと油少々。ベーコンエッグ。タケノコ・厚揚げ・〈下の世界〉原産の巨大なコンブのような海藻・小魚の煮物。春野草とコンビーフの味噌炒め。  粥と煮物は食べ放題だ。  調理班は同時に、昼の弁当のための固パンも二度焼きしている。  ケエラたちはかなり睡眠不足だった。昨日の夜、チーム対抗訓練があったのだ。  ロト一族は睡眠時間を大切にするが、どうしても夜間行動が必要なことはある。翌日から数日間、確実に十時間の睡眠時間を確保することで補うが、ランダムな夜間訓練や、家畜の急病などはどうにもならない。  昨夜ケエラたちは、分隊でとある森を、夕方から夜中までパトロールさせられた。そこまで実践的な訓練は、ケエラの学年には初めてと言っていい。  徒歩で、暗い森の中。銃には実弾を装填し、研ぎ上げた真剣を腰に、動くものがあれば攻撃してよいといわれている。 「う、うっかりしたら味方を撃っちまう」 「どうすれば、味方を撃たずに敵だけ見つけられるんだよ」  子供たちは半ばパニック状態だ。銃の威力は泥人形や煉瓦でよく知っている。  子供も大人も、戦時中の今はいつも集団で行動する。  学校では、支配関係が固まらないよう頻繁な変更はあるし、上級生や大人が時には透明化して見守っている。 〈ロトの民〉は騎馬10人が一つの生き物となり、〈ロトの子孫〉は魔法の都合上4人一組が基本だ。  普段の行動などでは、4人+班長1人を2組の10人分隊で行動することも多い。サマルトリアが霧に呑まれ行方不明だが、もはや伝説となっているゴッサの精鋭17人も模範とされている。  が、17人編成は特殊部隊と言っていい精鋭で、普通の人たちは〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉の人数比も考え、合計43人を一個小隊とする。 〈ロトの民〉10人の分隊が3、〈ロトの子孫〉4人、重火器を使う6人、指揮官・副官・通信の3人だ。全員が馬に乗る訓練をしている。  まず全体の指揮官。卒業したばかりの若者が、教師見習いの仕事としてやっている。  補佐する副官。大人の軍隊では軍の背骨である下士官、子供たちの場合も人望のある上級生だ。一人は通信担当、無線機や手旗信号を使い、本隊に報告書を書き送り、命令を持ち帰ることもする。  小隊長に直属する、〈ロトの子孫〉の4人1組。全員がAK-74も持っており、強力な魔物を魔法・銃・格闘で粉砕する。さらに今は全員が乗馬も学んでいる。主に後方の僧侶がRPG-7も担いでいる。魔法使いが多く教育水準が高いので、小隊長を補佐し魔法を使ったり難しい計算をしたりもする。  火力分隊。砲身・二脚・底板の三つ各7kg弱に分割した60mm軽迫撃砲と、2挺のFN-MAGを竜馬の力も借りて6人で運ぶ。こちらも小隊長直属で、小隊に大火力を添える。  そして3組の10人。馬術に優れ、10人が一つの生き物のように高速で多量の荷物を運びつつ走る。敵の手が届かない遠くから旧来の投槍や刃ブーメラン、新しく学んだAK-74の火力を叩きつける。反動が小さいAK-74は馬上でも問題なく使える。RPG-7とRPK-74も10人につき各2挺、分隊の火力を高めている。  全員が騎兵というのは食料などが余計に必要になるが、戦車と共に行動できるし運べる荷物も多い。まだ乗馬が下手なザハン出身者や〈ロトの子孫〉は、中隊以上にある重火器小隊、戦車隊、海軍などに入る。  ちなみに小隊と学級の違いは、小隊はさまざまな年齢の子が集まっていることと、数日に一度ランダムに何人かメンバーを変えることだ。あまり人が固まって固定的にベタベタするといじめが起きるからだ。  急な山でしかも森だから、馬から降りて徒歩で、2個分隊でパトロールした。  馬を下りても、〈ロトの民〉は10人で固まっている。5人ずつ2班に分かれ、一方が前進し止まって周囲を警戒して、その援護でもう半分が前進する。特にRPG-7を負っている子は重さにヒイヒイ言っている。他の子もRPG-7の弾や寝袋や食料、荷物は決して軽くない。  その後ろから、〈ロトの子孫〉4人チームと、一人7kg弱の迫撃砲部品と砲弾、10kgのFN-MAGが2人、その予備銃身・弾薬を担ぐ合計6人が続く。撃つ時には迫撃砲を二人で扱い、FN-MAGは射撃手・装弾手に分かれる。  全体を小隊の副官が率いている。  五歳から十五歳までの子供たちが21人。それは、単なる夜の遠足だった。  小さい子はあちこち冒険したがる。歩きながらケンカし、木登りのうまさを自慢する小さい子を大きい子がとがめ、しかりつける。 「訓練は実戦だと思わなきゃいけないんだ、真剣に敵を探せ」 「だって」 「戦場にだってはない」 「かあさん、にいちゃん、いつ帰れるの」と泣く子もいる。突然家から離れ、子供たちだけでの不安な共同生活が、いつ終わるかと知れず続いているのだ。 「ばーんばーん!」と実銃を手にはしゃぐ子は、容赦なく大きい子が関節技をかけ縛り上げる。原則として体罰は禁止だが、暴力を止めるためは例外で、上級生は発砲すら許可されている。  小さい子の腰に縄をかけて引っ張る上級生もいるほどだ。それぐらいしないと、小さい子を含めた一隊が、行方不明者を出さずに歩くこと自体が無理だ。 「なにあれ、まるっきりだめじゃない」と、ケエラたち〈ロトの子孫〉4人組はそれを見て笑っている。 「そうそう、この枝はかむと甘いよ」ケエラが枝を折り取って配る。 「さすが開拓でなれてるね」と、仲間たちが喜び……小さい子が真に受けて口に入れ、苦さと渋さにあえいだ。三人が罪なく笑う。 「ケエラ!木の枝をうかつに折ったりしたら、敵はそれを手がかりにするぞ」と隊長が叱りつけるのを、神妙に反省したふりをして、また楽しく小声で話しながら目標に向かう。 「何が来たって、あたしたち〈ロトの子孫〉4人チームに勝てるわけないわよ」 「ケエラはもうベギラマが使えるんでしょ?」 「あたしだって剣術では」  と、楽しげに歩いている。  遠くでディウバラが、重いFN-MAGを担いで急な坂をすべりながら這い登っているのが見え、思わず指さして笑ってしまう。  そして小休止、地面に穴を掘って空気が抜ける別の小穴を掘って、いくつか枯れ枝を燃やして暖をとる。寒いのでみんな大喜びだった。  お茶を飲み、お菓子を配る。疲れきったディウバラは崩れるように伏せた。  そして目的地に着いた彼らを、ダンカを含む騎馬分隊が笑っていた。寝ていたはずの子が他にも百人近く集まって、泥・つる草・竹で人形を作っていた。 「なに笑ってるのよ!」ケエラが怒る。  大人の教師が、「さて、どのタイミングでどうやったか、見てもらおう。ニセアカシアの谷間に戻るぞ」と声をかけた。 「えー、やっと眠れると思ってたのに」 「疲れてるのに」 「なんで谷間を通ったって知ってるの」  ぶつぶつ文句を言いながら、みんなでそこにいく。 「さて、第二・第三騎馬分隊、標的を置いてから今検討した急襲配置につけ」  教師の命令で、ダンカたちの分隊があちこちに人形をうずくまらせる。 「あ、あれ」 「そう、二一三五時点でのパトロール隊の配置だ。ここで全員が休憩に入ろうとしていた、間違ってるか?」教師の言葉に、ケエラたちがしぶしぶ頷く。 「間違ってません」 「じゃあ、みんな安全な場所から見るんだ。第二騎馬分隊、攻撃開始」  同時に銃の連射音。人形の頭の泥が次々と、弾け飛ぶのが銃口炎に照らされる。手榴弾で、火を囲んでいる5体がまとめて消し飛ぶ。 「発砲中止!近接白兵」叫びと同時に、40人が絶叫すると銃に安全装置をかけ、長柄剣鉈を抜いて襲いかかる。  真っ先に素手で、音もなく木の枝から飛び降りたダンカが一つの人形の首を蹴折り、着地と同時にもう一体の股間を殴って瞬時に首をねじ折りながら投げる。頑丈な竹が完全に折れている。  人形は銃に見立てた木の枝を、負うか近くの木に立てかけている。それも先ほどの再現だ。  次々と二人一組が人形を襲う。一人が長柄剣鉈で胴体を貫き、別の一人が首を叩き切る。  自分たち全員が数秒で、声も立てられず殺されるところを見せつけられたケエラたちは、声もなかった。  特にケエラたち4人は、固まってのんびりしている頭が4つまとめて、瞬時に吹っ飛んだ。 「さて、何が悪かった?言うまでも無いな、何から何まで、だ。あと、笑ってる側も。おまえたちも今日、パトロールしろと言われたら同じようなものだったろう?」  教師の言葉に、人形とはいえ殺戮に酔っていたダンカたちも我に返った。 「さあ帰って、少しだが眠ろう。帰り道でみんな、やられた側の立場で考えろ。どうしたら、逆に倒すことができたか」  先生に言われ、みんな一言もしゃべったりせず、びくびくしながら歩き始める。なんとなく行進隊形をとって。  そうして歩いていると、わずかな音や明かりがどんな遠くまで届くかわかる。  ケエラは、その屈辱で頭が一杯。朝の儀式も習慣だけでやっとこなしただけだ。  そんな爆発寸前の頭で、必死で計算をしていると、前席のジニが別のことに手を動かしていることが気になる。 「手が止まっているぞ!この計算は、実際の兵站を処理する帳簿なんだ。公務だぞ、二人で検算しあって、間違えるなよ。間違いが戦争の敗北につながるんだ。だから無制限に紙を渡しているんだぞ」  教師が言いながら見回って、計算法がわかっていないと思われる子を探す。  公文式に似たやり方でわからないところがないように教えてはいるが、特にザハンから教育されていない子を受け入れているし、〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉も教育水準が微妙に違うので、なかなか難しい。  ジニはあっというまに自分の割り当てを片付け、今は戦車のエンジンを修理するためのマニュアルを書いている。  戦争。彼女を含め何十人もの優れた技師が、瓜生が残した膨大な近代兵器をとにかく使おうとしている。マニュアルはあるが、載っていないコツを教えてくれる熟練者やメーカー技師はいない。マニュアルも英語だったりする。  事故や、使い方がわからないという現場の報告。それらをまとめ、失敗した者と共に実物に触れて見直す。いじり、分解し、破壊し、計測し、破断面を分析し、組み立て、動かしてみる。  ジニ自身も危険を冒す。超名門校を卒業したアンリ・ポアンカレが、鉱山技師として爆発事故直後の危険な炭鉱を調べ、見事な報告書をまとめたように。同様の調査で事故死した、同じ学校の卒業生もいる。  そして大量のマニュアルを書く。普通の……読み書きは学んでいるとはいえ、馬と剣で暮らしてきた人が短期間の訓練で兵器を扱えるように。そして兵器を修理し、部品を作るための工場の機械も使いこなせるように。  一日に十時間は戦場に近い野戦基地、大灯台の島やローレシアにあるいくつもの工場、空母などを飛びまわり、さまざまな機械を調べる。製鉄所での仕事も多い。  そして、六時間以上の授業の間は、ひたすら考えをまとめ、マニュアルを書いては印刷に回す。学校の授業としてクラスメートたちが版を削ることもあるし、大人が仕事でやっているところもある。  睡眠と運動だけは絶対に欠かすな、と瓜生に厳しく言われており、親代わりのロムルもその点は容赦が無いので、仕方なく眠っているが、起きている時間は常に機械をいじるかマニュアルを書いている。  ケエラたち女子には癪にさわる眺めだった。そして男子たちにとっては、その人間離れした美貌がただまぶしかった。  算数の次は天文。天文は航海や農業にも関わるので必須だ。 「さて、この世界そのものが、どんな形をしているでしょう?  今もアレフガルドは公式には、平面世界説をとっています。ムーンブルク宮廷医師教団は考えることを禁じていますね。邪神教団は世界は大鍋に沸く泡だと語っているそうです。ザハンは公式に平面と言いつつ、幹部はロト一族の結論をうのみにしています。  われらロトの…もといロト一族は、ウリエルさまの故郷の科学を学んでおります。ウリエルさまの故郷は、巨大な球の表面で生活していると解明されています。  この〈下の世界〉、そしてミカエラさまがいらした〈上の世界〉もそう、と思われるでしょうが、われらは科学的に考えねばなりません。科学とはなんでしょう?」 「え、ええと、ウリエル様の本に載っていること」 「結構ウソの物語もあるって話だよ」  生徒たちがざわざわと色々言う。教師が教卓を叩き、「それでは神が言ったから全部正しい、と同じですよ。いいでしょうか、科学とは、全部自分で確かめる、ということなのですよ」と言って、少し息を入れた。 「まず、どんな形の世界に住んでいるか、自分で証拠を探して、確かめてごらんなさい」 「どうやって?」 「平らにしか見えないよ」 「そう、自分の目で見るだけじゃわかりませんね。なら、どうしましょう?」  ケエラが衝動的に手を挙げる。 「はい、ケエラさん」 「この世界は球形なんですから、船で一周すればいいんです」  眠気をこらえながら自信満々に言ったケエラ。 〈ロトの民〉の男子がダンカに「ダンカ、ホントかどうか、ジニに聞いてみろよ」という。  ダンカに話しかけられたジニがうるさそうに、口で言うかわりに図を書く。  それを見た〈ロトの民〉が、「ドーナツでも一周できるよ」と叫んだ。 「穴が二つのドーナツでも」という子も、ジニが書いた図を見ている。ジニは完全に関心を失いマニュアル作成に戻った。 「そういうことです、残念ですが」教師がすまなそうに言う。  ケエラと、仲のいい〈ロトの子孫〉の女子たちがジニをにらむ。 「でもいい答えですよ。まず、平面には、水平線や地平線があるという否定する証拠があります」教師が広い板と、短い棒と長い棒を取り出した。  短い棒を、板に垂直に立てる。 「集まって、見てください」と言って生徒を集め、長い棒の一端が板に、そして立てた短い棒の、板から離れているほうの端にも触れているようにする。 「この短い棒が、わたしたち人間の高さです。そして長い棒は、視線です。  こうして棒をいっぱいに使っても」と、長い棒のもう一端が、短い棒の上端に触れるようにする。板・短い棒・長い棒が直角三角形になる。 「こうして、いつでも棒の端は板に触れています」と、今度は黒板に、大きい三角定規二つで平行線を引く。 「これが平行線です。平行線でなければ」と、少し傾いた線を引くと、平行線の両方に交わる。上の線と交わったところから、垂線を引く。 「こうして、かならず直角三角形を作ります。さっきの、人の頭と地面と視線の関係になるんです。だから、この世界に地平線や水平線がある時点で、ここは無限の平面ではない、といえるんです。有限の平面であれば、最後まで船の喫水が見えるでしょう。  無限平面の場合、遠くの船はひたすら遠くなりますが、決して消えません。曲面の場合だけ、ここで現実にそうなるように、まずマストの上が見えて、それから帆、船体と見えるようになります」と、黒板に曲線と、そこに立つ小さい人、その視線が曲線に接して水平線になること、徐々に下が見える船の絵を描いた。  水平線、地平線という言葉が、懐かしい船や草原を思い出させる。この、学校に閉じこめられるような暮らしはいつまで続くんだろう。 「さて、ウリエルさまは勇者ロト、ミカエラさまと共にこの世界を旅しながら、星や大地も測量しました。それで、この世界はドーナツでも平面でもなく、大きい球の一部だと確認されています。  一部、です。球形であれば、ウリエルさまの故郷のように、どこから北を目指しても一点に着くはずです。南も同じです。ですがこの〈下の世界〉は、たとえば北のお告げ所から北に行けば暑いままザハンに着き、ガライ港から北上すればベラヌールに着きます。  おかしい、実はドーナツなんじゃないか、という説もありましたが、その場合には反対側が見える場所があるはず、などから否定されています。  やはり球形の惑星の上で、表面積の半分程度の地域が切り取られ、その一番北に行くと同じ経度の南側に、南に進むと同じ経度の北に。また西に行くと同じ緯度の東側に、東に行くと同じ緯度の西に、瞬時に移動させられる結界が張られている、というのがロト一族の、今の結論です。  それは、その後の研究や調査でも常に正しいと確かめられています。いいですか、科学ではみんなが確かだと言っている説も、一つでも否定する証拠が見つかったら、それで間違いになるんです。  ここはウリエルさまの故郷とほぼ同じ恒星のまわりを、楕円を描いて回っています。一年の長さ、一日の長さはウリエルさまの故郷とほぼ同じ、一日はウリエルさまの故郷の時間で23時間51分13秒、一年はこちらの一日の364倍と2時間12分45秒。自転軸の傾きも31度です」  と、黒板にコンパスと、円穴の開いた板を使って図を描く。 「これらのことは、ちゃんと調べて確認することができます。自分で観測して証拠を集めることもできます。なんであれ、うのみにしないように」  と、教師は時間を気にした。 「ついでに。ウリエルさまの故郷と、この〈下の世界〉は、とても似た宇宙にありますが、少なくとも近くではありません。星空も違います。魔法があるかないかという大きな違いもあります。今日の授業はここまで、宿題に、『この実験でこの結果が出たら、今日習ったことを否定できる』実験を考えてください」  授業が終わった。  ケエラはジニを激しくにらみつけている。  次は本来は体育だが、昨日徹夜したので今日は三十分昼寝をしてから、ここ数日やっている洗濯や家畜の世話の仕事を皆で少しやった。  子供たちの共同生活で、家事も多くは生徒達で分担し合っている。  本来は洗濯のような重労働は上級生の仕事だが、ここ数日は、最上級生が何人か特別な授業をしているようで、仕事ができないのだ。 「ケエラ、きみたちは少し看護をするように」教師の命令で、洗濯しないですんだと喜びながらケエラは上級生のテントに向かった。  そのテントに入り、ケエラが驚いた。  ケエラの兄イスサ。十代後半の上級生、もう半ば働きながら学校にも通っている。ベッドに縛られ、呆然としていた。  他にも何人も、壊れた目でベッドに縛られ、激しい自責と後悔に泣きじゃくっている者も、うつろな目でじっとしている者もいる。  ケエラは、この状態を覚えている。共に預けられていたラファエラが、ジジの特訓で心身ともにボロボロになっていた。 「彼らの下の世話を。どんな動きもできる状態じゃないんだ」と、教師。 「はい」と、ダンカが率先し、ケエラを目で呼びイスサのところに向かう。  普段はダンカが障害のある兄マロルの世話をやっていて、ケエラもたまに手伝うことはある。  だが、健康で強い兄が… 「に、兄さん、何が、何があったの。どうしてそんな、ラファエラおねえちゃんみたいなことに」  と、ふとケエラが、戸口からのぞいているラファエラに気がついた。  そちらに行くと、「わたしがそうしたの」と、ラファエラが言う。  その声に気づいて、イスサたち拘束された上級生が、奇妙な絶叫を上げた者もいる。泣きじゃくる者も、激しく詰め寄ろうとして拘束衣で動けない者も。 「鎮静作用のある薬湯を作ってきたわ。飲ませてあげて」と、外でラファエラ。 「おねえちゃん!お兄ちゃんに何したの」ケエラが細く張り裂けそうに声を上げた。 「それより仕事だ」とダンカが、すさまじい力で大人に近いイスサの体を抱え、動かして尻を拭き始める。いつもやっているので慣れている。  プライドが高いイスサが、今は抵抗もしようとしない。 「ちょっとダンカ」とケエラが言うが、「手伝ってくれ」とだけ。  それから、さらに数人の体を拭いた。  一段落して、別室で。休憩にとラファエラがビワの茶を淹れてくれた。 「よく手を洗いなさい」 「何をしたの」ケエラが厳しい目でラファエラを見る。ラファエラは視線をまっすぐ受け止めた。 「もうすぐ戦場に出る年の最上級生を、二組に分けたの。捕虜と見張り。見張りは決まりを作って捕虜に守らせる。  そして課題を出させる。その課題ができなければ、捕虜を別室に入れて……看守がハンドルをひねると、別の声だけの人が、悲鳴を上げる演技をする」  スタンフォード監獄実験とミルグラム実験……通称アイヒマン実験の複合。 「ひどいものよ。見張りはすぐに、どんどん残酷になる。捕虜もどんどん卑屈になる。間違いなく死ぬような悲鳴でも、白衣を着た大人が罰を続けろと命令すれば、続けてしまう……ロトの掟だから、と拒否したり自殺しようとする子なんて、ほとんどいない」 「な、なんでそんなこと」小さい子供たちは激しいショックを受けている。 「ウリエルさまが消える前に、若者を戦場に出す前に必ずやっておけ、って。ロトの掟がどんなに無茶か、人間は集団になるとどんな簡単に堕ちるか、知らせておけ……って。人間が、自分が何なのか。だからこそ、ロトの掟が大切なんだ、ってことを。それを思い知るまで、戦場には出すな、って」  ラファエラの表情は凍り付いていた。ラファエラ自身も実戦経験があるし、ジジが課した試練で、普通の人の残酷さを思い知っている。  ケエラは思わず、ラファエラの手を握った。彼女が苦しんでいたとき何もできなかったことが悔しかったことを思い出して。 「ありがとう、ケエラ。……ケエラこそ、大丈夫?さ、仕事を続けてちょうだい。わたしは別の仕事があるから」と、ラファエラは出ていった。  昼食は保存食。昼ごろにできて、全員に配られる。  豆粉やふすまも入れて、石のように固く二度焼きしたパン。普通の乾パン。チーズの燻製や固いソーセージ。レーズン・ナッツ・干した小魚。肉の脂を溶かし、砕いた干肉とドライフルーツを混ぜたペミカン。そして、飴。  どれも日持ちし、緊急時にそれだけ持っていれば何日か口を慰めることはできる。  ただ、朝と同じ麦と豆の粥、馬乳酒、ホットミルクは飲み放題。  そんな食事では、飴をめぐって争いも起きる。 「ふざけないでよ!」ケエラの怒鳴り声がする。  飴が大きかったか小さかったか程度のことが、男子と女子のいつもの争いもあり、一気にエスカレートした。  実は最近、従来の麦芽酵素でジャガイモ・サツマイモ・キャッサバなどのデンプンを分解する飴から、シュウ酸を用いるメーカーができた。安いがまだ技術が未熟で、味も劣るし大きさも不ぞろいなのだ。 「負けたおまえらは小さい飴でいいんだよ」 「冗談じゃないわよ、あんたたちバカ男子に負けるもんか!」ケエラが屈辱に真っ赤になって怒鳴りつける。 「ケエラ、やっちゃいなさい」女子たちがけしかける。  ダンカとジニが、配膳箱をのぞいた。  ダンカに「なんとかならないか?」といわれたジニが争いの元になった飴をじっと見た。 「一度溶かして棒状に成型するか、細かく砕いて重量で量れば容易に等分できる。粉末を気送しつつ等分する技術を六十二日前やった」  ジニは相変わらず何の感情もなく言う。瓜生に莫大な資金を与えられ、製鉄所や学校を動かしている彼女にとって、贅沢は問題にもならない。 「いやよそんなの。そんな問題じゃないのよ、あんたもあんたよ」と、激しくダンカを小突く。「ジニに助けを求めるなんてさいっていよ!こいつは」 「ケエラ!」ダンカが激しく怒鳴る。ケエラが{人間じゃない}など差別的な言葉を言ってしまう、と思い、先手を取った。  一瞬絶句したケエラ。 「ジニ、あんたものすごい金持ちなんでしょ?でっかいケーキをみんなに配るぐらいできるでしょ」ケエラと仲がいい〈ロトの子孫〉の女子が叫んだ。 「客船にある技師学校、こいつが資金出してるって噂よ」 「ウリエルに託されている財産は、すべてロト一族の技術水準を高めるため、教育や工業基盤の整備に使うよう言われている。私の欲望で使ってはならない」ジニが冷静に言うのが、余計に怒らせる。 「冗談じゃないわよ」 「よせ」とダンカがジニを守ろうとしたのが、火に油を注ぐ。女子がしっかりとスクラムを組む。 「ケエラ、やっちゃいなさいよ」 「直系〈ロトの子孫〉の力、この二人に見せちゃえ!」 「ダンカ、なんでゆうべ、一番強力なあたしじゃなく、ディウを狙ったの」と、喧騒にまぎれてケエラの声が絞られる。 「ただ一人周囲を警戒し、銃を叩いて音を鳴らす準備をしてたからだ。わずかでもあいつを生かしておいたら、戦闘のリズムを鳴らされ全員が応戦していた」ダンカがはっきりと説明する。  ケエラの表情が激しい怒りに燃える。男子たちには、それが奇妙なほど魅力的だった。 「あたしたちがついてる」  男子も男子で、ダンカのうしろにつく。 「ダンカ、おれたちがついてるぞ」 「ムツキ先生の直弟子、最強の武闘家なんだから。懐にさえ入ればおまえらなんていちころさ」 「許さない」ケエラの目に殺気がこもり、魔力がふくれあがる。  そこに、大きい手が割り込む。 「待て!暴力で争っちゃダメだ」と、見張っている上級生が銃に手をかけつつ叫ぶ。  飛んできた教師が場を引き取り、力強い声を出す。 「構えよ!武器を構えよ!武器がない者はその場にある物を武器とせよ」  教師の叫びに、とっさに銃を持っている者は伏せ、銃床を肩につけて安全装置を解除、ボルトを引く。持っていない者は椅子だけでも構える。 「深呼吸!吸って、ゆっくり吐いて!」  周囲の子供たちが息を深く吸い、ゆっくりと吐く。 「全員集中して聞け。もう一度深呼吸」  深呼吸を確認した教師が、ゆっくりと話し始める。 「われわれはみんな、簡単に人を殺せる武器・呪文・武術を手にしている。その暴力は自分のため、自分たちの問題を解決するために使ってはならない。  大人たちも同じだ。人は争うものだが、暴力は許されない。暴力は国家が独占し、国家の許可がなければ使ってはならないのが、近代の、法の国だ。ムーンブルクやアレフガルドのように、貴族どうしが戦ってばかりいる国にしたいのか?  自分の怒りで仲間と戦ってしまうのは、臆病者だ。命令に従い、国が命じる敵とロトの掟にしたがって戦うのが勇気だ。  でも、不満や怒りがあるのは当然だ。ちゃんとそれは解決しよう。ケエラ、ダンカ、昼休みが終わったら軍事教練の予定だったが、その時間に代表として勝負しなさい」 「はい」 「やってやるわよ!」  ダンカは落ち着いた声で。ケエラは絶叫に近い。  わあっ、とクラスメートが喜び騒ぐ。 「いつもどおりだ。計算、息止め、目隠し片足立ち、1500m走、射撃、集団競馬、破壊」 「勝負なら実戦みたいに試合させろよ」 「そうだそうだ」  無責任なクラスメートの声に、教師は声を強めた。 「そこらの大人より強い魔法使い寄り勇者のケエラと武闘家のダンカ、どちらも手加減なんてできない。どちらかが確実に死ぬぞ。戦時中に世界樹の葉の無駄遣いはできない。  それに、真剣実弾を認めても、試合と現実の戦争はまったく違う。実戦では禁じ手はない、落とし穴を掘っても砂を投げてもいい。そしてケエラは遠距離、ダンカは近距離だ。どの距離から始める?  戦争を遊戯化して実戦能力を落とすな、もロトの掟だぞ。見てるみんなも、縄跳びと腕立てスクワット、徒手武術をやりながらだ」  皆教室に戻る。教師に言いつけられたクラスメートが計算問題を持ってきた。ケエラとダンカは席についてソロバンを手にし、二人で計算を始めた。 「やめ」といわれるまで、約5分。 「運動場に出るぞ。ゲラ・フェルバラ・レエラ・ミナヅキ、検算し採点するように」と言われ、運動場に向かう。着替えは必要ない。常在戦場のロト一族、走れない服装など論外だ。  ジニを除いた皆、興味本位で見に来ている。  まず、二人の前に水がいっぱいに入った大きい桶が持ってこられる。二人共何度か深呼吸して、顔を水に漬ける。  ダンカが先に顔を上げ、激しく息をついた。ケエラはそれからかなり頑張ってやっと顔を上げ、苦しみながらも勝利にガッツポーズをする。  次いで、目隠しでの片足立ち。こちらはダンカがどっしりと耐え抜き、先にケエラが倒れる。昨夜の疲労もあり、かなりきつい競技だ。  そして1500m走。 「最近の記録から10秒引いてケエラは3分47秒、ダンカは5分11秒を目標にしなさい。マホトーンをかけるぞ」  単にどちらが速いかでは、アリアハン王家の怪力をラファエルから受け継いでいる者がいたり、幼児期の栄養状態が違うザハンからの子もいる以上、不公平といえる。それで期待できる自己ベストとの比を競い合い、どれだけ全力を出したかを競う。  でもスタートは同時なので、優劣もはっきりする。  ケエラは勇者ロトの直系で、運動能力も優れている……瓜生の故郷では高校男子の記録級が出せる。  ダンカは普通だが、ケエラは明らかに1500m走のペースではなく、最初から全力で走りダンカを大きく引き離した。  歓声が上がる中、無理なペースで走り続ける。後半はやや失速し、最後に少し足がもつれたがそのままゴールした。 「3分39秒、見事だ」  ケエラは地面に倒れ、激しく息をついている。教師が四つんばいにさせた。  ダンカが遅れてゴールする。 「5分13秒。この勝負はケエラの勝ちだ」  ケエラは激しく顔を上げたが、まだ立ち上がれない。かなり無理なペースで走ったのだ。  わあっと、縄跳びをしながら皆が歓声を上げる。 「すぐ射撃だ!」教師の声に、ケエラは激しくあえぎながら気力で立ち上がって銃置き場に走り、AK-74を受け取る。  ダンカも銃を受け取り、射撃場に走って伏せた。  にらみつける、あちこちの穴からふっと標的が持ち上がり、それを素早く射撃していく。  号令を受けて、伏せる姿勢から素早く起き上がって数十歩走り、また伏せて射撃、指示に従いほふく前進して射撃。いくつかの的は500mの遠距離に出て、目で距離を概算しタンジェントサイトを調節して射撃する。  ほんの五分ほどだが、二人とも泥だらけで疲れきっていた。 「ケエラ、30発中24発が致命範囲。ダンカ、30発中19発が致命範囲。ただし、ダンカのほうが、的が出てから射撃するまで素早いし、きちんと頭も肘も下がっていた」  教師の評価に、ケエラが歯を食いしばる。女子たちは縄跳びをやめて拍手したが、ケエラは余計悔しがっている。  それから二人のそばに、学年もばらばらな9人ずつが馬を引いて集まる。  競馬は集団競技だから、10人で分隊を組み、競い合う。そのために、教師がバラバラに9人ずつ選んだ。  ダンカ、ケエラそれぞれの竜馬も引かれてきた。ダンカは大型、ケエラの馬は小さいが、その父は竜だ。  3000mの、多数の障害がある厄介な道。  ダンカは優しく竜馬の首を叩き、なでてやっている。  ケエラの小竜馬は激しく角をふりたて、闘志を燃やしている。口から激しく吐く息が炎になりかかるほどだ。  決闘の競馬は、決闘する本人が臨時の分隊長になる。ただしそれを濫用しないよう、次にローテーションで上の仕事をする機会を消費させられる。 「わたしたちはメーダ!鋼の甲殻のようにひとつ!」ケエラがかれた喉から雄叫びを上げる。 「ケエラ臨時分隊長に従う!負けないぞ!」9人の声がそろう。 「馬に塩と水は十分にやったな?みんなも水分補給はできているな?トイレには行ったか?」ゴッサが9人をゆっくり見回す。  一人一人、「はいっ」と大声を上げる。上級生も、率先して。 「おれたちリカント。さっきのようにメーダの柔らかい腹を食い破る」ダンカが、ゴッサを真似て落ち着いた声を出す。 「いつもダンカが従っているように、われらダンカ臨時分隊長に服従し駆ける!」 「おおおおおっ!」ダンカの属する分隊が絶叫し、彼を先頭にぴたりと隊伍を整える。  空砲の銃声とともに、二つの集団が駆け出す。複雑な地形の原野に、通るべきチェックポイントを決める。道は競技の都度変わるし、チェックポイントさえちゃんと越えればあとは自由だ。  100m。ダンカの巨大な馬が額と耳の後ろの角を揺らし、力強く地面を蹴る。ケエラが乗るポニーの短い脚がリズムよく踊る。  一気に加速し、最初の障害を同時に踊り越える。巨大な馬がやすやすと藪を飛び越すのも、小さな馬が凄まじい勢いで飛び上がるのも、どちらも素晴らしい迫力だ。  ディウバラなど、まだまだ乗馬が下手な子もいる。小さい子もいる。助け、また乗馬が得意な子を先行させてルートを確かめさせながら、隊が崩れないように馬を駆けさせる。  一対一で馬を駆けさせていれば、もちろんダンカの圧勝だったろう。  だが、ケエラは魔法使いで、遠くを見通す魔法も使えるし、地図を読むのもうまい。 「もっと速く!」叫び、馬と分隊のメンバーに怒鳴りつけて、激しく馬を煽り茂みに向かう。  ダンカにとって、集団で馬を走らせるのは歩くより多くやってきたことだ。  時々振り返り、軽く手振りをして間隔を調整する。全員をよく見ている。  ちらちら、と隣を走る最上級生の目を見る。そのうなずきと指示に、 「右へ」と、手でしっかり指示し簡潔に命令する。無駄な言葉を口にしないのも、〈ロトの民〉皆が尊敬するゴッサを模倣している。  障害に向かうのに、あえて遠回りのゆるい道を選んだ。  上級生は一瞬疑問を持ったが、従った。下級生が駆る馬の一頭の蹄に炎症があり、右に傾いた下り坂を嫌がることを思い出した。  強引に小川を押し渡り、近道をして障害を越えるケエラ。だが小川越えで下級生二人が馬が別方向に行ってしまい、藪で一人が落馬した。 「分隊長、ヘロヤセフ落馬」 「ふざけるな、かまうな突っ走れ!」ケエラの怒りの叫び。メンバーは反感を感じたが、迫力と訓練に押され、長く伸びた列になって全力で最短距離疾走する。先頭のケエラの、小さい半竜馬が火を吹かんばかりに息荒く砂利道を蹴立てる。  反面、ダンカはややペースを緩め適度な間隔を保ち、上級生で前後を挟み下級生や乗馬が苦手な子を助けさせながら、楽な道を駆けている。  結果、かなり遅れてはいる……だが、上級生も文句は言わない。危なげなく障害をリズムよく、全員順番に越えてペースを乱さず駆ける。  ゴールが近づき、ケエラが何度も絶叫し、馬首をひっぱたいて加速させる。鞭があれば馬は血まみれになっていただろう。その激しさに分隊の全員も打たれ、激しく馬を駆っている。  だが、最後の障害で下級生がまた落馬し、それにつまずいて落馬する者がいる。  ダンカは「テエル、ラメ、先行して救助。ほかは並足」とだけ命令し、上級生と僧侶系魔術が使える同級生が先行して障害近くの人馬を助け、治癒呪文をかけた。  泣きじゃくる下級生と激しくいななく馬、だがそこにケエラが駆け戻る。 「はやく、はやくっこのグズ!バカ!」絶叫に近い声。そう、この競技は集団。分隊全員がすべての障害を越えてゴールして、はじめてゴールになる。  ケエラは激しい形相でおびえて泣き出す子を馬に引きずり上げ、馬の尻を引っぱたく。その脇を、ダンカの分隊の馬群が、順に美しく、適度な間隔を保って生垣をやすやすと踊り越えていく。  乗馬が苦手な子も、隣の上級生が「だいじょうぶ、馬に任せろ」と声をかけ、馬は群れで一体となり悠々と飛ぶ。  そして、ケエラと下級生たちが必死で追い、一度は追い抜く。  ぴたりと間隔を保つダンカたち10人がすっとゴールをくぐり……ケエラの馬が、遅れた。 「ダンカの勝ち」誰が見ても明らかだった。  ケエラが自分の馬に、また分隊の者に叫ぼうとするのを、本来の分隊長が厳しく、 「反省しろ!」  と言い聞かせる。ケエラは涙を抑え切れていないようだが、次の競技がすぐに始まる。  最後は、攻撃力。銃を使わず、束ねた竹や大きい石を破壊する、それだけだ。普通の子は長柄剣や長柄剣鉈で竹を一本ずつ切り、石は別の石をぶつけて少しずつ壊す。  ケエラは多数の竹束や、身長近い大きさの石を相手に呪文を静かに唱え始めた。 「ベギラマ!」  中位攻撃呪文。彼女の年で使えるのは、ロト一族全体でも少ない。  大気が800度の高熱に揺らぐ。竹を束ねている針金がまぶしく輝く。風が吹きはじめ、竹の上に激しい炎が燃え盛る。石がぱきんと音をたてて割れ、土がはっきりと色を変える。  上級生は拍手し、下級生は呆然と見ている。  ダンカはすっと前進し、大石の前に立つ。そして軽く触れて、そのまま手を引かずに、ゆっくりと押した。  パン、と小さな音と共に、大石が三つに割れた。  また、嘆息と歓声が上がる。  すぐさま、竹を一本一本、鋭い斧刃足で蹴り割っていく。だが、呪文一発で焼き尽くしたケエラより明らかに遅い。  それを横目に見たケエラは、まだ熱い石に近づいて、柄の長い鋼の剣を天に突き上げもう一つ呪文を唱え始める。 「あ」みんなが驚く。 「ライ…デ…イン!」  曇り空から、ケエラの掲げる剣に稲妻が落ち、彼女が剣を構える。  振り下ろせない。口から、奇妙な黒煙が上がり、体が激しく痙攣して、人間に可能なのかと疑えるほど反り返る。黒い煙が全身を覆う。 「まずい、黒魔炎症」教師の声。 「ケエラ!」ダンカが叫び、駆け寄って抱きしめようとし、激しい衝撃を受けて崩れ落ちる。 「引き離せ、黒魔炎症は」 「対処します!」そこにラファエラが走りこむ。「ジジ先生に教わっています」  と、素早く呪文を次々と唱える。  長く美しいブロンドが身振りについて舞うのに、皆が魅せられる。そのラファエラが上空を、弓を真上に引くように狙うと、鏡のようにケエラが同じ身振りをする。  矢を放つ身振り、奇妙な呪文と共に、凄まじい魔力が爆発する。  ケエラの左手の先、曇り空の分厚い雲が一瞬で消えて、青空が見える。とてつもない魔力。  ラファエラの金髪が、額に張りつく。呪文を唱え終わるとくずおれた。  教師や上級生が慌てて駆け寄り、三人ともにベホマをかける。そのまま担架を用意し、医務室に運んだ。  そのまま三人寝ている。呼吸と寝返りが、深い眠りを証している。だが、もしラファエラが起きていればわかったかもしれない……姿を消した気配がベッドから出て、寝ているのは幻だけだ、ということが。  ケエラが急いだのは、ジジの隠れ教室の一つ。この学校の近くの森に隠されている。  そこで、ケエラは何かをして、素早く王宮近くに向かった。  きえさりそうの効果はとっくに切れており、底の厚い靴で身長をごまかし、顔を隠せるフードと目出し帽をつけて、衛兵に身分証を出した。 「よし、通れ。ごくろう」  何の疑問もなく通された先には、ハーゴンの執務室。  無言の彼に、ケエラも無言で、一本の杖を差し出す。 「まさしく、ジジさまの杖。これが必要だったのです、勝利のための特殊な研究に」  ケエラは怯えきっている。 「だいぶよくなったようだな」  日が沈む頃、ケエラとダンカは目覚めた。同じテントだが別のベッド。 「大丈夫?」クラスメートが心配してのぞきに来た。 「それで、どっちが勝ちになったの」と、ケエラが聞く。 「総合点でケエラね」と言われ、寝たまま激しくガッツポーズをしていた。  ダンカは横になったまま、ほとんど表情を動かしていない、複雑な微笑でケエラを見つめている。 「ラファエラさん、すごかったよ。倒れちゃったけど、たいしたことないって先生たちが言ってた」 「怖かったよ、ケエラ。若い魔法使いが魔法を使いすぎるとあんなふうに時たま黒魔炎症になることがある、って先生が言ってた」 「〈上の世界〉では、ジジ先生が対処法を見つけるまでは死んでたんだって」 「あ、午後の授業のノート、取ってきたよ」  と、クラスメート。 「ありがとう」 「やっぱりすごいよね、さすが直系の〈ロトの子孫〉」ケエラがにんまり笑って、ベッドから飛び降りようとしてふらついた。 「無理しちゃダメよ、ごはん持ってこようか?」 「おねがい」本当は外を出歩けるほど平気だが、演技だ。 「だいじょ(大丈夫な感じだけど、起きたらケエラも起きようとするからな、どんな無理をしても)…たのむ」と、ダンカは寝ていることを選んだ。  ケエラとダンカは病人だということで、パンは小さめで米だけの薄い粥をたっぷり作ってもらい、ゆっくりと食べている。 「今日、みんなが食べたの、なんだったの」ケエラが恨めしげに聞く。 「焼きたての、小麦パンとライ麦パン。あったかくておいしかったよ」 「たまらないよね、あの香り」 「新鮮なバターと蜂蜜、お好みでオリーブオイルに、リンゴやイチゴのジャムもついてた」 「キーモアのスクランブルエッグ、焼いた塩魚」 「スクランブルエッグ、塩が足りなかったよ」 「それにペッカーも混ざってなかった?ちょっと泥臭かった」 「コロッケとおからコロッケに、メンチカツもあったんだよ」 「メンチカツよりおからコロッケのほうがうまかったよ。ヘアエのやつ、何入れたんだ」 「春野菜をゆでたの、ちょっとまずかったな」 「え、おいしかったろ」 「あんなのが?」 「いつものタケノコと厚揚げの煮物に、ジャガイモもついてたよ」 「ちょっとだけね」 「揚げたてのおかきで、また騒ぎが起きそうになったんだよ。懲りろ、って先輩が怒鳴ってた」 「食べたかったなあ」と、ケエラが残念そうに言う。  食後は午後の分のノートを見せてもらい、宿題をやり、希望者は集まって、紙芝居のような形になったニュースを聞いたりする。 「みんなお風呂か」ケエラが残念そうに言った。  入浴も大きい浴場で、全員がゆっくり入れる。 「だれが体拭いたんだろ」と、ちらりとダンカが考えをもらしてしまう。ちゃんと着替えて体も拭かれていた。さっき自分たちがやったように、生徒たちが世話をしてくれたらしい。  ケエラが恐怖にはね起きた。(もし、外出してるうちだったら、ばれてる) 「けっこう調子よさそうだな」と、ダンカも大きく伸びをして体を起こす。 「え、いや」 「ちぇっ、なら起きて食べて風呂行けばよかった」 「え、もしかしてあたしにつきあって悪いふりしてたの?よけいなことしないでよ!」とケエラが怒りだす。 「しかし、誰かに世話されたんだ……くそっ、やられてみると悔しいな」ダンカがごまかすためにも、話を別の方向に向けようとする。 「そうよね、冗談じゃないわよ」ケエラが、内心の動揺を押し隠す。 「兄さんも、イスサさんも、辛いんだろうな」 「もしクラスの子だったら……生きていけないわ」とケエラ。 「まあ、前似たようなことがあったときは、二つ下と二つ上の子だったと思う」と、ダンカがケエラをなだめる。 (でも、誰かには見られたんだよな)と、かなり悔しそうだ。 「さっさと寝ましょ。それにしても、男の子が近いなんて何考えてるのかしら先生たち」 「去年はずっと、同じ大テントで寝てたろ」と、ダンカがケエラに背を向ける。そちらにはラファエラが寝ていた。 「そっち見るな!お姉ちゃんの寝顔見るな」  といわれてケエラのほうを向いたら、 「こっちも見るな!」 「はいはい」と、ダンカは仰向けに戻り、疲れもあってすぐ寝てしまった。 「まったく……」と、ケエラはダンカを見つめて、激しい動悸を必死で抑え、強く毛布を握り締め……そして、しでかしてしまったことの恐怖に今更気がついて、激しく怯えていた。  ハーゴンの命令。  いや、命令ではない。誰かが聞いていれば頼み、提案というだろう。 (一度も、脅されてない。ディウバラのバイオリンを壊したこと、ダンカにばらす、って)  そして、それからしたことを、教師や彼女の親、国に話す、とも。だからこそ恐ろしい。  何よりも、その言葉に従うのは心地いいのだ。ロトの掟に逆らう、と意識することはできない。そんなこと考えることもできない。ひたすら、それがロト一族の勝利に貢献している、というハーゴンの嘘にすがっている。  不安で不安で、それが気持ちいい。  それをやったあとは、いつも激しく勉強や運動、銃・剣・魔法の練習に打ち込み、ダンカとケンカする。  やみつきになっている。  翌日、アロンドすら飛び出す大事件が起きた。定期の情報報告に来なかったので、隠れ家に行ったトシシュとヘエルが、再び石化したジジを発見したのだ。  瓜生とジジ。ともに〈上の世界〉で修行し、勇者ロトを知る者。  最高の魔法使いであり、ガブリエラの判断で中位魔術しか教わっていなかったロト一族に上位魔術を惜しみなく教えてくれた存在。 「だいじょうぶ、われわれの上位魔法使いは、〈上の世界〉の最高水準まで達している、全部教えたと二人共おっしゃっていた」  とサデルが言うが、支えを失った恐怖は隠せない。  ましてジジは、それまでロト一族が築いていた諜報網とは別の諜報網を作り、情報を集めてくれていたのだ。  それが一度になくなった。  サデルたち中央司令部は、自らの軍がどこでどう働いているかも、くもりガラスを見るようにしかわからなくなった。  そして、不安も広がっている。 (叩いても叩いても、きりがない) (敵の頭を断たなければ、アロンド陛下が竜王を倒したように)  さまざまな不安が漂っている。奇妙な噂がある。 (ローレシア南方の、海底洞窟に行けば勝てるらしい) (勇者として。アロンド陛下は動けない) (自分が行かなければ) (みんなも行くんだから)  不安と恐怖が、噂を強める。  サデルらは、 「噂をコントロールしていたのはジジさまだったのね」  と、あらためてその存在の大きさを痛感し、戦争の激務と同時にガライ一族らを使って沈静化させようとしている。  そこで、傷癒えたリレムが大きい存在になってきた。  ジジが石になって一月、初夏。開戦から半年近くたち、戦闘では常に勝っているが勝利が見えない。  ローラの門が開通し、キラーマシンやキラーマジンガが大陸内にも出没している。 「デルコンダルが和平を申し出てきた」  などと新聞には載るが、誰も信じていない。 (やはり、海底洞窟に行くしか)と思うのが、特に若者に多い。  サデルは、そちらに行きたがる者をリリザに送って仕事を与えることでそれどころでなくしている。  二十万人以上の避難民をムーンペタ、ムーンブルクの東(レアヤの所領)などムーンブルク各地から受け入れたリリザ。  それ自体が大戦争だ。  今は備蓄と、瓜生が残した食料が頼り。膨大ではあっても、十万以上の口はそれ以上に膨大だ。  膨大な人数を暴れさせず、食料と水を与え、清潔にさせ、糞尿を処理する……それは、避難民自身の労働力を使っても簡単なことではない。  ロト一族は、サマルトリアが丸ごと霧に呑まれて合計でも四万人いない。働けるのは二万人以下。  戦争、開拓農地を維持する、子供の教育や老人・病人の介護、大灯台の島などのさまざまな産業などの人数を差し引くと、一万人もいない。  二十倍以上の人間を管理するのは、不可能にさえ思えた。  だが、ロト一族には豊富なノウハウがある。アレフガルドの再開拓。ベラヌール戦役。新大陸の開拓。ロト一族とは異質な人々を指導し、操ることには、十分な経験がある。  互いに経験を分かち合う。失敗も成功も情報を共有し、よりよい方法を模索する。  その仕事は特に重要なので、アロンドが自ら買って出た。 (強制収容所、でもあるからな。それを人道的にやることができれば、少しでも罪滅ぼしになるかもしれない)  と、ガライの墓での経験も活かしている。  基本的には、元住んでいた人間集団をそのまま、できるだけ職業別に活用する。また生活面はロト一族が、十進法で集団を作って指導する。  もちろん最初に、ヤフマはじめムーンペタの主要人物とは緊密に連携を取り、彼らの地位と権力、権威は保っている。 「石像に戻ってしまったジジを、避難中はお貸しします」  アロンドに言われたヤフマは大喜びした。  巨大な豪華客船の倉庫。その広さと膨大な物資にあきれ返りながら。 「わしとジジさまの像があれば、ムーンペタの誰もが、街にいたときと同じように落ち着くでしょう。さすがですな」 「なによりも、安定することが最優先ですから」 (虐殺だけはしたくないからな)と心の中でつぶやく。 「全員、避難の時には、備蓄食糧・布類・生業に必要な道具はできるだけ持ってくるようにしてください。多少の荷物は運べます」  ムーンペタからは何人かローレシアに留学している者もいたし、即位式を客船から見ていた金持ちも多い。ある程度、ロト一族のやり方は知っている。 「あなたたちは、体を洗ったりきれいな服を着たりすることにこだわるようですな。まさか、全員に、あなたが即位されたとき、あのすばらしい船で教わったように体を洗え、と?」 「はい。そうしていれば、伝染病は最低限ですみます」 「ならばそうさせてもらう。そのほうが快いしな」ヤフマの鋭い目には、(これは拒否できない)ことが浮かんでいる。 「必要な水や燃料、石鹸は十分にありますので、ご安心を」  と、今度はとてつもない規模の上水タンクを案内する。 「これほど大量に」 「この程度、一万人が二十日程度です。より価値があるのは、この水浄化設備です」 「だが、人は水と食事と屋根があればそれで満足、というものでもありませんぞ、アロンド」  ヤフマが思慮深く、鋭い目で言う。 「はい」  アロンドは先人の知恵を伺う、謙虚な態度を取る。ヤフマはそれが演技だとわかってはいるが、それでもうれしい。 「人は誇りで動く。自分たちは劣っている、そう思ってしまうと、特に身分の低い者や若者は、満腹であっても不満を抱くものです。ロト一族の前ではなあ。  そして『ロト一族さえいなければ』と思うことも」  アロンドはしばし沈黙した。ヤフマは迫力に圧され、 「まあ、わかっています。そなたたちがいなくても、ムーンブルクがあれほど邪神教団に冒されていては……」  もう一拍沈黙したアロンドが口を開き、ヤフマはほっと息をついた。 「それも考えてあります。忙しく働いていれば、そのようなことを考える余裕はありません。そちらの若者で、学ぶ力の高い者を選んでこちらのやり方を伝え、指導させればいいでしょう。  敵の存在も忘れさせない。そして時々大きな祝宴をやる」 「そなた、結構悪党だったのですな」  ヤフマが冷汗を隠し、愉快そうに笑った。 「悪党どころではないです。ああ、仕事はしても、死ぬほどではないように注意して管理していただけますか。塩水、休みと睡眠はしっかりと」 「われらは人を働かせるのは、家畜と同じように使い捨てるものだがなあ」  ヤフマは眉一つ動かさない。 「実は、そのやり方では、働かせるほうが損をします。家畜も同じですよ。  ウリエルがいれば、こう言ったでしょう……『故郷に、自動車を作った事業家がいた。彼は大きい工場でたくさんの自動車を作り、働く者に高い給料を与えた。高い給料をもらった工員が自社の車を買った。従来の貴族だけのための車より、ずっともうかった』とね」 「ほう!それにしても何度か見せてもらったが、自動車というのも恐ろしい技術ですな」 「まだわれわれだけでは作れません、もらいものです。あれを自分たちで作れるようになるためにも、高いコストをかけて教育し、死なないように働かせて長く果実を得るのが、われらのやり方なのです。  でも、人を使い捨てないほうがお得になるのは、伝染病が克服されていれば、の話です。まずそのために、水とトイレ、教育。そして蚊帳とビタミンも必須ですね」  避難民が上陸したらまず健康診断。伝染病患者・保菌者は別に隔離し治療する。  150人程度に分け、広い原野に大規模な仮設住宅を作る。中隊と同様のその人数なら、無理なく組織できる。  二十万人が生きるのに、最優先されるのは水とトイレ。水は、元々大都市候補だったリリザ、ふんだんにある。トイレは防水した紙袋に出して堆肥場に運べるようにする。それ以外の排水は専用の畑に流し、人の口に入らない繊維作物を育てる。  そのあたりのノウハウも、開拓やローレシア・サマルトリア都を作った経験で豊富にあった。  大きい都市を作っていたムーンペタ出身者は、少人数の集団に広い地域を割り当て、農地と伐採禁止の森を定めるロト一族のやり方には戸惑っていた。  人口密度の高い都市より移動距離は長くなるが、馬車をバスのように使っているので問題はない。  測量が済んでいた状態で、最初に避難した五千人に仮設住宅を建てさせる。  第二陣はトイレ用の穴を掘る、その間にも仮説住宅建設は続いている。  第三陣は上総掘りで井戸を掘り、水道も作る。  第四陣は道路。  そんな感じで、どれだけ人が集まっても仕事は常にある。また、生業に必要な資材は持ってこさせており、さまざまな生業も続ける。  生業を続けることは、社会組織と人心を安定させる効果もある。  そして避難のために必要な膨大な物資の一部が、たとえば布を織ったりすることから供給され、黄金を支払われ、経済が回る。  娯楽もある。ガライ一族があちこちの集合仮設住宅を回っては、劇やショーを上演する。少人数でも可能な映画や、高級オーディオと発電機による音楽演奏も楽しまれている。  また、簡単に覚えられるポーカーの大会を開いたりもする。  燃料も森林伐採は最低限。ローレシアから大量のコークスが常に送られているし、効率が高い二次燃焼ストーブなどを仮設住宅にあわせて大量生産している。  テント・ストーブ・圧力鍋・簡易風呂などは開拓のためにも必須だったし、戦争でも需要は多かったので大量生産が始まっていた。  仮設住宅の資材も、ローレシアが提供している。大量のセメントや、工場で作られた部品を運んで現場では組み立てだけというシステムもあり、建築は早い。  プレハブ材料もとんでもない量が備蓄されており、戦争にも使っているが、リリザにも回される。  できるだけ木を切らず、生きたまま木を活用する方法はムーンペタの人々も驚いた。邪魔になるほど低い枝葉だけを切って、太い布バンドを幹に巻き、丈夫な布で二重にした部屋を宙に吊るす。二重構造で高いところにあるので防寒性も高い。  ほかにも竹でドーム構造を作り、草原を草の根ごと掘ってかぶせ、生きた丈夫な屋根にするなど、状況に応じて多様な方法を使う。  また周辺ではエンジンを用いて強引に開拓して広い農地にし、半分は特に成長が早いソバを撒いている。去年のソバの備蓄の大半を種籾として使っている。残り半分はトウモロコシやジャガイモ、野菜を植えた。  雑草でも、食べられるものは多くあり、それは開拓前に収穫して避難民の食事に回している。 「ムーンペタの皆様に開拓に協力いただいた地域は、避難中はすべて皆様の食料とします。  そしてこちらに留まるならば、そのまま私有地でかまいません。ただし、自治は広く認めますが、われわれのルールをかなり受け入れていただきます。  またムーンペタに帰る方々は、開拓費用として金貨と布を受け取るか、または百年間1%を受け取るか、選んでください」  アロンドの言葉に、多くの人は大喜びで働いている。  その報酬で買えるゴムボールやルービックキューブ、折りたたみナイフにも、熱狂的に喜ぶのだ。  瓜生がいないのに資材も食料も出てくるのには、ロト一族も驚いた。 「ウリエルが元の世界に消えたのに、どこから出てくるんだろう」 「前に十分、アロンドさまに預けてあったんだよ。銃とかみたいに」  と、何人か膨大な軍需物資備蓄を見ている人は言う。 「でも、こんなのが必要になるなんて事前にわかったか?」 「サデルがモシャスでウリエルに化けてるって」 「ラファエラだって噂もあるぞ」  などと、色々な噂が飛び交っている。  そのままではすぐ疫病が蔓延するだろうが、十人に一人ずつロト一族を張りつかせて清潔な生活習慣を覚えさせる。  トイレ、服を洗濯する、トイレの後や食事前に手を洗う、食べたら歯を磨き食器を洗う……そんなことも、近代以前の暮らしをしている人はできていないことが多い。伝染病は何より恐ろしいので、アロンドもその点は譲らなかった。  飴と鞭……といっても、ロトの掟が禁じるので暴力は使えない。最低限の配給はあるが、砂糖・蒸留酒・娯楽用トークンは全員が指示を守った十人組だけに与える、それを徹底した。  監視する理由は他にもある。都市貧民であった者はすぐ人の集まりに、むしろ損するとしても向かいたがる。  何より厄介なのが、『竜を殺すな』という掟を守らせることだ。時々竜が出てきたとき、特に小型だと、避難民はすぐパニックになって戦おうとして、管理するロト一族は銃を使って手足を傷つける必要すらできる。  大半の人はムーンペタの暮らしを懐かしみ、しかし故郷の貧しい暮らしより量は多い食事を堪能している。そして砂糖や蒸留酒を激しく求めている。  中には、ロト一族のやり方を学びたいと望む者もおり、そのような人々には学校を作っている。  逆に、犯罪者もいる。単に邪悪で乱暴な者もいるし、人から奪う以外の生き方を知らない小集団もいる。どちらも、十人単位でロト一族に監視され、悪行を止められる。特に豊かで美しいロト一族の監視者が襲われることも多いが、魔法が使えない〈ロトの民〉でも武術と銃で圧倒してしまう。 「あの偉そうなやつをぶっちめてやれ、おれたち7人がかりなら」と襲おうとした、先頭を別の組のロト一族が銃で撃ち、ひるんだ隙に襲われたほうが素手で残りをなぎ倒す、それもよくあることだ。  ロト一族は大人として、本格的な仕事をしたり戦場に出たりする前に、ケエラの兄が経験したミルグラム・スタンフォード複合実験など過酷な試練を受ける。  中には多人数に襲われて殴り倒され、あとでじっくり考え抜くという過酷なものもある。  多人数に襲われれば確実にパニックになる。体が動かないことを一度体験し、あとで襲う側となって多人数の動きを経験すれば、統制されない多人数の隙もよくわかる。  動き続け、ひとつの技だけがとっさに出るよう反復練習し、多人数の敵が互いに邪魔になるよう地形を活かす。  逆に、こちらは少人数で、連携しての動きを体に刻む。  そこまでやっているからこそ、少人数で多人数を制圧することもできる。  無論ロト一族にも潜在的に邪悪な者がいるが、レムオル・きえさりそうを併用した相互監視が徹底している。  何より、時々少人数を前線に連れて行き、戦闘を見せる。帰ってロト一族の圧倒的な戦力が語られれば、大抵は逆らう気などなくなる。  文化も文明水準が違う集団を操縦し改善させること、それ自体慣れている。  彼らの中から人を選んで、体で新しい行動をなれ覚えさせ、その人を副官として指導させる。別民族であるロト一族の指導は聞かなくても、自分たちの一員の話なら聞く。  貴族出身の少尉と、たたき上げの軍曹による新兵小隊管理とも似ている。それは瓜生の故郷でも、軍に限らず植民地で異民族を支配する常套手段だ。  また、ロト一族のやり方にも固執せず、ムーンペタの伝統の中でもうまくやっている人を探し、その人をまねさせる手も使う。よそ者の先進技術を教わるのには反発があるが、自分たちの仲間がやっている工夫をまねることには抵抗は少ない。  ザハンから耕していた人たちも活用する。二年にわたってロト一族のやり方を学んできた彼らこそ、どんな不満を抱き何に喜ぶか、よくわかっている。  それまでの、飢え。ものの乏しさ。  不潔。疫病と産褥などの死。  極端な貧富の差と無知。奴隷制度、特に女と子供は家畜同様。  貴族同士の武力抗争・『ロミオとジュリエット』のような復讐の連鎖・山賊や海賊・公開処刑やモンスター闘技場など満ち満ちた暴力。拷問と冤罪が当たり前。  複雑な、服や食物のタブー、迷信。生贄。死に至る重労働と、極端な怠惰。  進歩というものはなく、奴隷を増やすことしか考えない。  ロト一族……残虐さを抜いた近代。それはすべてが違う。  食事は豊富。全員が馬と剣、豊富な服と靴を持っている。  徹底した清潔、疫病が事実上なく、妊産婦死亡率・乳幼児死亡率ともに少ない。  ある程度の富裕はあるが極端な貧困はなく、ほぼ全員が読み書きでき、奴隷制度や生贄は厳禁されている。  私的な武力抗争は厳しい相互監視で封じられ、山賊も海賊も圧倒的な武力と情報伝達・移動速度の前に存在せず、法の支配が行き届いている。モンスター闘技場さえ禁じられている。拷問もなく、指紋などの技術により冤罪もまずない。  質実剛健で迷信やタブーはほとんどない。精密な時計で厳しく管理され、勤勉だが労働時間は限られており、健康を損なわない。  そして何よりも、進歩して奴隷ではなく工夫を増やす。洗濯も人海戦術ではなく、風車で樽を回す。  そのギャップを一番理解しているのは、ザハンからの人々だった。そしてロト一族も、これまでの様々な事業で、多くのことを理解していた。  避難が一段落したときに、ムーンペタの伝統行事である祭りをそのまま避難所で行わせた。  華やかな踊りと食事、丸太を担いでの奇妙な競技。避難民たちは故郷を離れていることをひととき忘れて楽しんだ。  学校では実戦さながらの訓練が、授業として行われている。  小隊で集まり、敵との戦いを前提に騎馬で走る。さまざまな学年の子が集まる小隊が、共通の目的と訓練でまとまっていく。  先行する二つの騎馬ライフル分隊が、互いをカバーしながら前進。横一列だ。  縦一列ではAK-74のフルオートでも一掃されるし、こちらから射撃するにも前の人が邪魔で一番前しか射撃できない。横一列で連絡を維持するのは難しい。  特に移動するための縦列から横列に、複雑な地形で組みなおすのは大変で、繰り返し訓練している。  小隊本部には〈ロトの子孫〉四人組と重火器分隊が直属し、ペースを守って馬を駆けさせている。もう一つの騎馬ライフル分隊がカバーし、時に先行している。  指示を受けて重火器分隊が素早く馬を下り、機関銃を構え迫撃砲を組み立てる。 「あっちの一本杉までの距離!」  距離がわからなければ、遠距離で火器は役に立たない。特に迫撃砲にとっては、距離がもっとも重要だ。  投槍も距離感が命だ。 「420m」 「300m」 「結構高い木だよ、650m」 「上り坂だから、200m」 〈ロトの子孫〉の四人が次々と言う。  小隊長をしているイスサが手早く、レーザーレンジファインダーとスコープがついたAK-74で距離を測って告げる、 「328mだ。全員、測量で距離を計測しろ!」  分隊ごとに、一本杉までの距離を得ようとする。分隊長は、筒と鏡を用いて工夫された距離計測具、精密な分度器、水準器、コンパスを持っているし、他の子もいろいろな方法で距離を測る。 「第二分隊、迫撃砲に敵位置を知らせよ」  分隊長の次の指示で、丘の向こうにいる第二分隊が、あらかじめ旗を立てた木から自分たちの距離と方角を計る。  そして手旗信号で距離と方向を知らせる。 「いつおれが戦死して小隊長をしてもらうかわからないんだ、手旗信号は読めるように!」  小隊長の命令に、〈ロトの子孫〉四人がびくっとする。  イスサはケエラの兄だが、訓練中は関係なく厳しく扱わなければならない。二人ともわかっている。 「おまえたち四人、小隊長補佐は、血筋だから努力しなくていいと思うな。魔法が使え、読み書きそろばんができるからその地位がある。もっと読み書きができるやつがいれば、出自が何だろうと交代させるわよ!」  副隊長が厳しく言う。 「はい、こちらから第二分隊長まで、水平からの角度、北からの角度、距離がそれぞれ……」 「大人は三角関数で計算するけれど、まだ習っていないなら?できませんというなら替える。すぐ答えを出す!」  副隊長の問いに、ケエラが思いつく。 「せっかくいい分度器があるので、自分で同じ角度の三角形を作ります。形は同じはずだから」 「あ、ケエラあったまいー」と、〈ロトの子孫〉の四人が同じ距離と方向のデータから、紙を広げて三角形を描きはじめた。 「おっかしいな」 「高さがあることを忘れているわよ」副隊長に言われて、四人が頭を抱えた。 「ケエラ、何してんのよ」同世代の〈ロトの子孫〉に文句を言われ、ケエラがむくれた。 「それでもいい。誤差は大きくなるが、何のデータもないよりましだ。それで射撃し、着弾を観測して修正すればいい」  イスサ小隊長の言葉に、副隊長がうなずく。  ケエラの表情が輝いた。 「水平を底辺に、ここと第二分隊長の位置に、縦の直角三角形を作る。第二分隊長と標的も、水平を底辺にした直角三角形。どうすれば、ここと標的で、直角三角形を作れるの?距離と高低差がわかれば、ここに迫撃砲表があるのに」と、一人が表を見つめる。 「あ、そうかベクトルの和だ」と、年長の子が思いつく。「ここを原点に、高さ、東西、南北の直交座標でベクトルを作り、各成分を足し合わせればいい。そのためには、ここと第二分隊長との直線距離から、高さと、真上から見た距離を出す」 「方向をすぐに計算できるのか?」副隊長がさらに追い詰める。 「それも、直角三角形を分度器で作れば」ケエラが自分のアイデアにこだわった。  しばらく走っていて、突然分隊長の一人が部下に叫ぶ。 「セメラが負傷、ダンカがRPG-7を引き継げ!」 「イエッサー」  答えて、乗馬のまま重い鉄筒を上級生の女子から受け取ったダンカ。だが彼は一度しか使い方を教わっていない。訓練弾も発射していない。  使い方はわかりやすく図解されている。でも、馬に乗ったまま、筒に長い棒状のロケットをつっこむのは難しい。  分隊長が、素早く手を後ろに振る。  全員、陣形を変える……負傷したとされるセメラの左右が、彼女の左右になるように。 「バカ、今RPG射手はダンカだ」  RPGの、前だけでなく後ろも危険だ。左右に向けて撃つこともある、しかも後方炎は角度がある。真横で安心してもやられる可能性があり、邪魔にならない程度に斜め前に位置しなければならない。  しかも馬を走らせ、周囲の敵に警戒しながら。  やっとダンカが筒に、ロケットになっている筒をさしこむ。 「遅い!味方が全滅しているぞ」分隊長が叱りつける。 「準備できました」ダンカが重い筒を構える。 「ばかっ」本来のRPG-7射手であるセメラが小さく叫ぶ。 「今発射したらセメラが後方炎でやられるぞ!」  分隊長の声にダンカは歯を食いしばり、馬の向きを膝だけで変えた。 「いいな、班の進行方向を調節して、後方炎被害が出ないように。誰がRPG-7射手でもできるようにするんだ」  分隊長が言うと、別の子を振り返った。 「ダンカも負傷した。ミナヅキ、引き継げ。笑ってるということは、おまえは完璧に扱えるんだろうな?第一班、ダンカは自力行動不可能。馬を引き継ぎ後送せよ」 「セメラが負傷したと第二分隊より。治療に行け」  分隊長命令に、ケエラがポニーをそちらに向ける。 「おまえたち、〈ロトの子孫〉四人は負傷者が出た際の衛生兵でもある。命令される前に準備を整えなさい。命令服従をはき違えるな」  副隊長が厳しく言う。  ケエラが赤くなって走り出したところで、 「まっすぐ行ったら的だ、敵を警戒しろ。二人ずつカバーしあい、援護射撃をしながら進む、毎日何を訓練しているんだ」  と、また厳しい声が飛ぶ。  一段落し、汗だくの体を学校付属の公共浴場で洗い、学生基地に戻る。ちょうど昼、みんな保存食を受け取り、食べ始める。  馬乳酒を飲み粥を多めに食べ、配られた固パンは食べずに腰につけるダンカにケエラが、 「出かけるの」  と聞いた。嫌味たっぷりの声で。 「いつものあれでしょ」  と、女子も同調する。  ダンカがジニを製鉄所や工場に護衛するのが、ほぼ毎日の仕事になっている。 「みんなうらやましがってるわよ、あんな美少女の護衛なんて」 「必要だからやってるだけだ」(あれのおかげでみんなに嫌われそうなんだ)  ケエラは、緊張していた。  昨夜、ハーゴンから秘密の指令があった。 「少し、ジニさまと二人きりで、勝利のために話す必要があるのです。誰にもないしょで。明日のお昼休み、ジニさまに化けて、ダンカくんに送ってもらってくれませんか?  そうすれば、ダンカくんがジニさまと愛し合ってる、って噂も確かめられるかもしれませんよ」  ケエラの頬が怒りと嫉妬に真っ赤になる。  ハーゴンはそのまま去った。  ケエラは感情が混乱したまま、テントに戻って寝ようとしていた。その帰り道、高い木の枝を運動能力任せに飛び移っていたとき、見てしまった。  藪に囲まれた小さな空き地で、一人の少年が奇妙な動きをしている。 (ダンカ)  後ろ姿でもわかる。ケエラは、ハーゴンに習った方法で気配と音を消した。  裸に、怪力の子がハンデのために着る重い鎖帷子を着て、いわゆるバービー。ただし、腕立て伏せの姿勢からはそのまま腕立て伏せをして、立ち上がる時は全力でジャンプしている。  何十回も。声も出さず。崩れ落ち激しく呼吸し、塩をなめ竹筒の湯冷ましを飲み、かろうじて立って繰り返す。  また繰り返し、死んだように力尽きる。とっさにケエラが駆け寄ろうとしたほど。  ダンカは息も絶え絶えに、半ば寝たまま鎖帷子を脱ぎ捨て、しばらく深い呼吸をしてからゾンビのように起き上がった。  それから学校でもやる武術の、48のうち1つだけを繰り返す。二十回かそこらで力尽き、崩れ落ちる。また起き上がって、十回。  それからホイミで回復し、テントに戻った。 (な、なによあれ。特別な必殺技とかやってるんじゃないんだ)  サラカエル・ムツキ夫婦に預けられ開拓農業を学んだころから憧れた、烈光拳。 (あたしに、あんなきつい、単純な動きばかり、できる?)  激しい鼓動が止まらない。  ダンカがジニを迎えに行く前、ケエラは喜怒哀楽の表情を順に浮かべ表情を消した。表情を変えることを通じて感情を隠す、自分自身をだます。  存在感を消して、ジニがいる図書室に向かう。  瓜生の故郷で言えば、ロードサイド大型書店級の図書室。  瓜生が残した、大量の本がある。比べれば少しだが、ロト一族が共通語に訳し、印刷した本もある。〈下の世界〉に元から伝わり、印刷された書物もある。  美少女が一人、書き物をしている。見るだけでうっとりするような美貌。それに、焼けた針を刺されるように嫉妬が燃える。  ケエラはひそかに呪文を唱えて魔力を開放する。 『ラリホー』『モシャス』  ジニは魔法を、編むことはできるが発動できず、感知することもできない。  眠りこんだジニを、ジニの姿をしたケエラが、ハーゴンの指示通り棚の間に隠す。 「ジニ」  ダンカの声に、黙って彼のところに向かう。  ジニがどんな様子で彼と共にいるかは、何度も見ている。いやというほど……三人で動くことも多いし、そうでなければいつも遠くからにらんでいる。  一言の会話もないのが普通なのだから、演じるのも楽といえば楽だ。  ケエラは、ジニを演じながらダンカの目を読もうとした。  だが、ジニの目で見たダンカの目は、優しく気遣いと奇妙な冷たさを浮かべていた。 (え)  クラスの男子がいつもジニに向けているような、いやらしい視線とは違う。 (家畜の世話をしている時と、同じ目)  ダンカが、手を差し出す。  ケエラ/ジニが、いつものようにルーラを構成し、ダンカの魔力を借りて発動させる。ダンカの固い手を、油で真っ黒な手で握りながら。  着いたのは、リリザ近くの整備工場。  故障した戦車や大砲が運び込まれ、大型の機械で修理されている。  それを使うのは人だ。つい数年前までは江戸時代程度の文明水準だった人。それが必死で、さまざまな動力工具を扱い、精密に交換部品をはめこんでいる。  アセチレンバーナーや希ガスアークで精密に溶接していく。  クレーンで十トン単位の部品を運び、組み付ける。  瓜生が出した、まだ自分たちでは作れない精密旋盤で交換部品を削り出す。  その旋盤を見た瞬間、『ジニの』胸に炎がわくのがケエラにはわかった。  大切。すごい。素晴らしい。作れなくて悔しい。これを作るためには、先に鉄鋼そのものの、リンや硫黄を……そのためには鉄鉱石の選鉱、耐熱煉瓦の成分比……何十冊分の本、膨大な数値表や実験の記憶が頭にあふれ、ケエラは悲鳴をあげそうになった。  かろうじて抑え、『ジニは』昨日と同じように自分の持ち場に向かい、シリンダーの削り出し作業に集中した。  だが、『ケエラは』気になってしまう……今、ダンカが誰を見ているか。もしかして、ジニを見つめていないか。  ジニであるためには、ダンカを振り向いたりはしない。自分も一緒にいたことは何度もあるが、いつでもジニは自分たち二人に目もくれず、機械を操作して自分の世界に入りきってしまう。 (でも、あたしがいないとき、二人は何をしてるの)その疑いが、『ケエラの』胸を締めつける。  休憩時間が待ち遠しい『ケエラ』。 (ジニは休憩なんて考えない、ひたすら集中する)  そう、考えてしまうことさえ魔法を壊す。もともと、モシャス自体それほど持続時間は長くない。  魔法が切れそうになって、休憩室に行く。風呂上りのダンカと鉢合わせした。  廊下で、二人きり。  ダンカの、いぶかしそうな目。驚きと疑いを感じ、怯える。 (変身が切れる)  焦る。 (ジニは、焦ったりしない。怪物なんだから) (ダンカ、ジニを、どんな目で見てるの) (もっと、もっとジニになれば、わかるかも)  焦りが、ケエラの感情を激しく揺らし、転覆させる。  ダンカが、飲み物を取りに注意をそらした隙。 (もっと、もっと深く) (完全に、ジニになりきる) (ジニを、奪う……ほしい!憎い……)  ジジに禁じられていた、顔や肉体だけではない、魂全てのモシャス。  昔の特訓を思い出す。 「モシャスにもいろいろある。顔だけ。肉体。声。それに、あたしなら魔法なしでもできる、しぐさ」  そういって、ジジがやってみせた。確かにマホトーンで完全に魔法を封じた状態で、彼女は似ても似つかないキャスレアになりすまし、その仕事の一部をこなし部下に命令してのけた。  まったく違う顔なのに、誰もそのことに気がつかなかった。わかっている、そして顔がジジなのを知っているケエラから見ても、目の前にいたのはキャスレアだった。 「わかったろう、外見だけじゃない。しぐさも本人さ。ウリエルの計算機には、人を歩幅から判断するのもあるってよ」  歩き方を変えるだけで、今度はムツキになりきってみせた。 「最後の段階が、魂まで盗む。これができれば相手の能力もそのまま使える。でもそれは、自分が誰だかも忘れかねないんだ。いや、完全に忘れなければ、できない」  そう言って、ジジはケエラを操って激しい苦痛をともなう呪文を使わせ、深い深い無力感と自己嫌悪に感情を操った。 「この先、もう引き返せない崖の向こう。そこにそれがあるんだ」  それでもモシャスを使いたいのか、ジジはそう問うた。  ケエラは、何があっても使いたいと答え、耐えた。勇者として認められたかった。〈ロトの子孫〉としての誇りが、やり抜けと命じ続けた。  シンシアのような自己犠牲のために。 『モシャス』  ジニの、すべて。しぐさも。魂も。外見も。記憶も。  崖を飛び越えた瞬間、流れこんできた。  凄まじい痛みと悲しみ。ケエラが受けた特訓など、家族を失った悲しみさえ笑い事でしかない。ジニも家族を、全員失っている。  たったひとつ、学び工夫し、手で作る喜びだけ。でもその、すべてをこめた愛着を、何度破壊され激しく鞭打たれたか。生きていた頃の家族にも、奴隷頭たちにも、同じ奴隷仲間にも。  向学心と工夫は、古代社会の女にとっては重罪だ。  幼いときからいつもいた、遠くからでもやってきた、邪悪。吐き気どころではない。心が崩れそうにすらなるほどの衝撃。 (何をしても無駄)それだけが、人の間から学んだことだった。美しいのは数学と、ものづくりだけ。  生贄としての絶望のきわみ。  訓練中のリレムたちのついでに瓜生に救われてから、それまで重罪だったことが、もっとも褒められるべき天恵になった。 「これから、わたしが母親だと思ってね」と微笑みかけるレグラント。 「今、おまえが考え思っていることは、おれたちはよくわかってる。おれたちは城下の孤児だった」と言う、迫力がありまったく嘘のない手と目をしたロムル。「安心させて、次のお楽しみ……そう思っているだろう?そう考えてあたりまえだ」 「私たちが何か、行動で判断してくれ」圧倒的な美しさとカリスマが輝くアロンドが、それだけ言った。 「好きなだけ工夫していい、好きなだけ本を読んでいい、好きなだけ考えていい、何でも言っていい」と、瓜生が強くいい、アロンドが頷く。  実際に目の前に積み上げられた、何千冊もの本。よだれが出る、食物よりも。 「おれたちは、罰として叩いたり食事を抜いたりしない。暴力は、暴力を抑えるためにしか使わない。本当にそうかどうか、見てくれ」と、ロムル。 「約束するわ。二度と、誰にもあなたをいじめさせないから」と、レグラントが言って、額をぬぐってくれる。  その時も感じるすさまじい恐怖と、かすかに湧く安心感。  一日、二日、三日。長く馴染んできた暴力と罵声ではなく、本と、おなかいっぱいのおいしい食事、好きなだけ眠れる柔らかなベッド。  いつ、また始まるんだろう。その恐怖を忘れさせてくれるのは、本だけ。  傷つきすぎた孤児のことを知り尽くしているロムルとレグラントが、まるで傷ついた小さい野良犬を懐かせるように、適度な距離を保ち約束した距離からは決して踏み込まない。  そして数日後には体を洗ってくれたり歯を磨くことを教えてくれたり、その都度、明確な命令と報酬をくれた。気まぐれが支配する世界じゃない、ちゃんと信頼できる、そう伝えてくれる。そして二人とも、とても暖かい。甘えたい、でも怖い……  何より本。まず〈下の世界〉共通語の、多数の本。おなかいっぱいなど、ついででしかない。 「これは共通語に訳された、おれの故郷の本だ。まずここのみんなが使っている算数の教科書、それに幾何学と代数学、人体解剖学。動物・植物・鉱物・魔物の図鑑」と瓜生が言って、何冊もの本と白紙を一抱え……もちろん本も白紙も、彼女の常識から見れば二月分の食料、または奴隷一人を買える貴重品だ……それに純金の地金をジニに渡した。 「これだけで三千ゴールドにはなる。少し重いが、どこででも生きられる」と瓜生が真剣な目で言う。 「だめ。この子は〈ルビーの涙〉、金だけ持っててもあらゆる悪に狙われる」と傍らのジジが言う。 「じゃあ、武器の使い方と、できたら魔法も」瓜生が言って、どこからかAK-74を出す。「ちゃんと使い方を習えれば、だぞ」 「魔法。ちょっと真似てみて」とジジがいくつかの身振りをし、上位魔法語をつぶやきながら魔力を展開する。  前から親や悪魔神官が使うのをのぞき、知っていた魔法と上位魔法語、同様に自分の心を沈めて力を編んでみる。 「あ……編むのはすごいね、魔法の理論はわかってる。でも発動する力がないんだ。それはどうしようもないな」と瓜生。 「こんな素質があって発動できたら、へたすりゃ魔王だよ」と言うジジの表情が消える。  その目に、見慣れている憎悪と恐怖の目が浮かぶかと思ったが、それがうかがえない。何の表情もない。素直に、ジジの表情を消す能力をすごいと思う。  本が次々と加わる。日本語の勉強も始まった。  ソロバンを理解したとき、そしてAK-74を分解したとき、ものすごく感動した。絶頂と言ってもよかったほど。  数学を学んでいるときの喜び。自分で見出していた、2の平方根が無理数だということの証明。三平方の定理の多様な証明と、その応用。  そして瓜生は、工具も色々と見せてくれた。見ほれ、作れるさまざまなものにただ驚嘆した。  わずかに残るケエラの部分が、恐怖に打ちひしがれる。人間とは思えない凄まじい情報量、澄み切った思考。  膨大な学問の記憶。何百冊もの本を一字一句正確に暗記している。数学の世界を感覚として映像のように理解し、その広大で美しい抽象世界を貪欲に飲みつくしている。元々盗み覚えていた共通語、上級魔法語、神聖語に加え、二年で日本語、中国語、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語それぞれで二万語以上の語彙、発音記号と正確な書き方を記憶している。  手で物を作る喜び。精密にガラスを磨き上げ、金属を削る技術を習えるものは習い、習えぬものは自らやってみる。数限りない傷の痛みすら喜び。  細かな編み目の魔法など、その脳のちょっとした副産物でしかない。  数学と工学の圧倒的な喜びの前では、学校での規律やクラスメートの無視、男子上級生の欲望の視線など、ささいでしかなかった。  ほかの記憶も流れこんでくる。  ロムルたちが面倒を見ている孤児たちに、少しずつ加わる。学校に初めて行く。  どちらも、クラスメートの視線は、よく知っているものだった。  美少女を見る男子の目、女子の目……ジニの記憶にある自分の意地悪さに、ケエラは絶叫しそうになった。  だが、ケエラ自身の感情はあってはならない。ジニであり続けなければモシャスが解けるか、人格が崩壊して戻れなくなる。  男子たちの中でも、ダンカだけは何か違った。でも、ジニが感じているのは恋愛感情ではない……憧れは、すべて瓜生の世界の偉人たち……エヴァレスト・ガロアやニールス・アーベル、エミー・ネーターらの悲劇的な生涯と業績に注がれている。  ただ、ダンカはほかの男子とは違い、ジニを疎外し、からかい、欲情をぶつけ、攻撃しようとはしていない。  同じ何かを共有しているような、寂しがっていることだけを感じた。  それに、奇妙な冷たさもあった。それが逆に安心できた。感情を向けられることは、苦しむことを意味した。  ケエラにはわかる。ジニの目から見たダンカの目に浮かんでいるのは、孤独だ。 〈ロトの民〉の仲間と、武術の才ゆえに切り離されてしまった苦しみ。ダンカには、みんなと一緒にジニを疎外することができなかった。みんなと一緒に女の子をいじめたりもしたいのに、もう人を殴ることができない。ダンカには、ロトの掟しかなかった。  物心ついた時から孤独だったジニには、それがよく見えた。  ジニが感じている恐怖、ハーゴンの目。幼いころから知り尽くす邪悪の、桁外れに強いもの。  いつ自分はいけにえにされるかもしれない、そのことは覚悟して、だからこそ一日一日、一秒一秒を大切な贈り物のように思い、少しでも物を作り、一文字でも本を読みマニュアルを書く。  覚悟は、とっくにできている。  モシャスが解ける。涙がとめどなくあふれ、頬を伝う。  驚いた眼で見ているダンカに、ケエラは告げた。胸が張り裂けそうな罪悪感を抱いて。 「ジニが、ハーゴンに生贄にされる」  ダンカの表情が凍りつく。 「助けに行くわ」 「おれも」  ダンカにケエラはすっと寄って、唇を重ねた。背伸びをして。 (いつ、こんなに背が伸びたんだろう) 「人を連れてきて、武装して。大人に知らせて。ジニは絶対に助ける」  自分は死んでも、は当たり前すぎて、言葉にするまでもない。  魔力のこもった砂を、ダンカに握らせる。 「ディウバラのバイオリンを壊したのも、あたし。場所は、学校の南西、森の向こうにある荒れ地」  言うと、ケエラは外に飛び出し、ルーラを唱えてかき消えた。  ケエラは、ハーゴンの隠れ家の近くに出現した。  彼女が反省し、ジニを助けることを決めた……紙一重だった。刃の上を渡るように、わずかなバランスでどちらにでも転がるところだった。 「自分は〈ロトの子孫〉のミカエラ直系、エリートだから何をしてもいい、何でも手に入るのが当たり前」と、「エリートだからこそ、汚いマネはしない」と。  ジニになりきって、その目から自分を直視しなければ、どうなっていたかわからない。  今のケエラには、自己嫌悪と怒り、そして勇気だけだった。  服装と持っているものを確認する。ジニとして、工場内の服に着替えていた。ケエラもジニも肌身離さない銃はない。水も食料も。剣も盾も。  腰にはヴィクトリノックスのスイスツール、六角レンチ。ソロバン。紙とボールペン、ノギス、ルーペ。  スイスツールをズボンのポケットに入れ、それ以外を木のうろに隠す。  訓練が、彼女に深呼吸をさせた。  実戦になったらどうなるか、しばらく前の授業を思い出す。 「まず、初の実戦では半分近くが、大をもらします。実戦経験があれば、みんなそのことは知っています。  そして実戦では、人間は変な行動をします。気持ちのありようも全然変わります。  たとえば、視野が狭くなります。反故紙を配りますので、この形に切り抜いてください」  と、紙が配られ、黒板に縦のスリットが描かれる。 「これを、糸で目にかけてください。雪盲を防ぐためのものと同じです」 「うわ、こんなに?」 「そう、あたしも、逃げてて襲われたとき、そんなふうになった。何とか助かったけど」と震える子の頭を教師がなで、授業を続ける。 「また、左右対称の動きしかできなくなることも多いです。だからいつもやっている素手48・剣24の動きのうち、初の実戦でできるのは数種類だけです。  そのために、今日からは毎日の運動と訓練を少し短くするかわり、素手と剣両方、共通するひとつの動きだけを百ずつやってもらいます。実戦では何千回も体にしみこませた、訓練された動きだけしかできないのです」  その授業は半ば聞き流していた。  竜王戦役で何度も戦場の近くにいたケエラは、戦争や避難のストレスで人間がいろいろな反応をするのは見ていた。  だが、自分もそうなるとは思っていなかった。 (実戦で正しい行動をとれないなんて、臆病者だけよ。あたしはちがう)  そう、思っていた。 (あたしは死ぬ) (それは当たり前)  そう思いながらも、震えが止まらない。 (うごけなくても、どうなってもいい。ジニさえ助ければ。どうか……)  それだけ思って、呪文を唱え、合い鍵を使い隠れ家に入る。  岩を利用し、地下に隠れた部屋が奇妙に不揃いなろうそくの火で照らされる。それもまともなものではない、じじ、じじっと線香花火のようにはじけ、激しく揺らぐ。異臭が漂う。  寝かされた裸の少女の全身に、おぞましい魔の紋様を描いている小男。 「おや、ケエラさん」 「生贄は禁止ですよ、ハーゴン」 「掟破りはあなたもでしょう?」  ハーゴンは悪びれず、ケッケと笑っている。 「何の話です?」  ケエラは優雅に歩み寄り、ジニを抱き上げようとした。 「おや、助けるのですか?あなたのダンカくんを寝取った、よそものの怪物を」 「誰だろうと関係ない、生贄や虐殺は止めるのが〈ロトの子孫〉……ロト一族よ」  と、ハーゴンをにらむケエラ。 「でも、足が動かないでしょう?そりゃそうですよね、どんなに強がっても、小さい子のあなたが。まして剣も銃も、楯もなあんにも持ってない。失格だぞケエラ、常在戦場はどうしたっ!」  一瞬教師の口まねをして、ケケケ、と愉快そうに笑う。 「おや、恐怖のおいしい味を感じませんね」  と、ハーゴンが長い舌を、ケエラの喉に触れさせる。愉快そうに、しばらく笑い続ける。そしてケエラの、スイスツールを抜いて、かみ砕いて食べてしまった。 「若い!子供ですからねえ。自分が敗れるなんてかけらも思っていないんでしょうねえ。自分より強いものがいるなんて。そりゃそうですよ、無敵のロト一族ですものね!  そんなあなたが恐怖と絶望に崩れ、砕けて生贄になる、なんて嬉しくて美しいことでしょう。どんなに美しく砕けてくれるでしょう。  ああ、なんて楽しいんだ。キスしたくなりますよ、愛してますよ、アロンドさまの次にですがね、美しいケエラさん」  と、ますます醜くなる笑顔で、ケエラの唇を犯そうと……  ハーゴンの腹部に閃光が輝く。 「ぐ……」  左掌打を引っこめず、浅くしゃがむように腰を落として接近し、左肘をハーゴンの胸にぶちこむ。 「ケエラ、おまえには武闘家の素質は……うぐ、そうか。ムツキにモシャスしていたか、外見だけは自分のまま」  腹が溶け出したハーゴンの、苦悶の表情。  かすかな煙とともに、ケエラが、ムツキの姿に変じる。  ふっ、と笑ったケエラ/ムツキが、瞬間後ろを向いて手刀をふるった。それが、いつのまにか背後にいたハーゴンの、槍のように伸びる舌をそらす。 「ほう、これも読むとは」 「ジジ先生に教わったのよ、思い通りに行ったときには幻覚と思え、って!」  鋭く踏みこみ、拳を突き出す。  ハーゴンもすさまじい力と速さで、拳を叩き落とし応戦した。 「さすがはジジさま、デルコンダルの魔女。ですが、あの人も杖がなければ、なんてあっけなくやられたことか……ケエラさん、あなたのおかげでね」  嫌味に言いながら、余裕綽々と蹴りをよけ、指の一本が槍のように伸びてケエラ/ムツキの肩を貫く。  痛みもものかは、その指をなでるように押す手から閃光が放たれ、ハーゴンの指から手が溶けはじめる。  ハーゴンは愉快そうに笑いながら、呪文を唱え始める。 「さあ、守るものをなくしてあげましょうか……この、部屋の中でのイオナズンでね。それに、モシャスもそろそろ限界でしょう?」  そして鋭い一撃、それ自体はケエラ/ムツキが放った両手掌底と相打ちだったが、一気にモシャスが解けた。  容赦ない一撃がケエラを壁の向こうに吹き飛ばし、そして呪文が唱えられる。 「いいですねえ、その絶望の……いやいや、その中でまだ、何かやる気でいますね?さあ何をしてくれるのか、楽しみにしていましょう」  すでに傷を負っているケエラが、ジニを抱え上げる。  そして、ハーゴンにはジニを抱えて逃げようとするケエラと、真横から儀式用の短剣を拾って突きかかるケエラ、二つが同時に見えた。 「おや、このハーゴンに幻術を使うとは、なんといううぬぼれ」と、突きかかるのを無視してジニを抱えて逃げるケエラを追う。捕まえた、瞬間に二人の姿が消え、横から短剣がハーゴンの腹に刺さる……かに見えた。  刺さらない。その体を、背後から悪魔の目玉の触手が捕まえている。 「ケケケ」と笑って迫るハーゴン。  その瞬間、ハーゴンがとっさに額にかざした手に、銃弾が食い込む。同時にレーザーのような光が悪魔の目玉をぶち抜く。  銃声が狭い部屋に響く。 「うわああああっ!」  絶叫とともに殴りかかる少年。  ハーゴンが無造作に払う腕に、閃光が走る。同時に放たれた斧刃脚が足に打ちこまれるが、 「こざかしい!」  ハーゴンは蹴られた足をそのまま蹴り上げ、ダンカが壁にたたきつけられる。 「ほほう、まさしく勇者さまですね。〈ロトの民〉ふぜいですが。いやラファエラさん、あなたは本当の〈ロトの子孫〉。なんていい生贄がまた手に入ったんでしょう」  ハーゴンが余裕で笑う。  AK-74を構えたラファエラは、構わずフルオートに切り替えて伏せ、ハーゴンに連射する。  ダンカが口の血をぬぐって起き上がり、絶叫してケエラのところに走る。 「ジ、ジニだけは助けて。逃げ、て、早く」  死んでも触手は緩まない、それをダンカが閃光を放つ拳で溶かし、ケエラを抱くように引き上げる。 「うかつに動かないで。簡単に逃がしてもらえるはずがないわ」  ラファエラが自信に満ちた声で命令し、ダンカは素直に自分とケエラにホイミをかける。  直後、ろうそくが壁に落とすハーゴンの影から、顔の見えない仮面の人姿が出てくる。 「悪魔神官」と、ラファエラが素早く呪文を唱えるが、相手も唱えた呪文が打ち消しあう。  襲いかかる姿に、ラファエラは腰だめでAK-74を撃ちまくる。狭い部屋に銃声、耳栓をしていないケエラの耳が痛む。  隙を作って走り抜けたラファエラは、ケエラのそばに寄ると大人用の鋼の長柄剣を渡した。 「戦える」ケエラが立ち上がり、剣を構える。柄が長い分刃が短く、着剣小銃のように使えば室内戦でも有利だ。  襲ってきたハーゴンを、ダンカと二人で迎撃する。ケエラはジニを背負ったまま。  ダンカが応戦している間に、ケエラは素早く呪文を唱え、剣にメラの魔力を注ぐ。  そして、全く違う方向を襲う。……ちょうどラファエラの呪文をマホカンタで跳ね返そうとした悪魔神官を貫いた。  ラファエラはそれを予期していたように、AK-74を数発至近距離からハーゴンに撃ち、そのまま出口に走った。  ダンカとも、ラファエラともケエラは長く共同生活をしている。息を合わせるのはたやすい。  出口に移動していたハーゴンがケエラの剣を受け止め、ダンカの拳をはたき落した。その間にラファエラが駆け抜けようと、したのをケエラが止めて近くに転がっていた、燃えているろうそくを出口に投げた。  その塊は一瞬で焼き尽くされる。 「出入り口自体が幻よ、こっち」と、ジニを抱えたまま別の岩に体当たりすると、何もないように転がり出る。 「まだ油断しないで」と、ラファエラがイオを唱え、周囲を吹き飛ばす。森のはずれ、広い原野が広がる。  目の前には巨大化したハーゴンが二人、そして四人……どんどん増えていく。  ケエラが一瞬、メガンテを唱えかける。ハーゴンがほくそえみ、ダンカがダメだ、と叫ぼうとするが、(信じて)と目で訴えて呪文を唱え続ける。  ハーゴンは構わず歩み寄る。木に触れるとそれが人面樹と変わり、足跡から次々と泥の手が伸びる。  直前で呪文を切り替える、ザメハ。  ジニが目覚める。  ハーゴンは当てが外れ、なおも余裕を見せて呪文を唱え始める、それをダンカが走り寄り、拳を突き上げる。  幻を打ち空を切るダンカの拳、ハーゴンのイオナズンが唱えられた瞬間。  ジニが呪文を完成させケエラの魔力を借りて発動する。ハーゴンが唱えた呪文の威力が、宙に浮いたいくつもの石に集中し、多数の破片が超高速で飛んだ。  呼び出された魔物たちが次々と激しい打撃を受ける。 「もう許さん」ハーゴンの雰囲気が、ふっと一変する。「大魔王からは逃げられない、ルーラは使えんぞ。用事があるのでね、とっとと死んでもらう」  と、激しく足を踏み鳴らすと、多数の巨大な魔物が出現する。  絶望を感じながら身を寄せ合い、戦い抜く覚悟を固めた、そこに遠くから叫び声が響き、数十人の騎兵が出現した。 「各分隊、横隊!訓練通りだ!左右を見まわせ、深呼吸しろ!訓練通り動けばいい」  先頭で馬に乗ったヘエルが叫ぶ。  その左脇にはイスサ。朝とほぼ同じ小隊。大人も数人混じっている。 「兄さん!」ケエラが叫ぶ。  だが、ハーゴンが手を振ると、その周囲には恐ろしく強そうな、巨大な魔物が二十近く出現した。  剣を持ち翼を広げるガーゴイル。木が変じた人面樹。翼を持つグレムリン。不気味なスカルナイト。牛サイズのバブーン。おぞましいグール。長い牙をむき出すサーベルウルフ。そして妖術師。  ケエラたちにはスカルナイトとオークキングが突進し、合流を阻もうとする。 「さあ、生贄を殺せ、わが邪神にささげよ!楽しみを見ぬのはもったいないが、わしにはすることがある……ロト一族すべて、アロンドもローレルも、すべてを生贄にささげ、その力もてシドーを復活させる……ケエッケッケッケ」  それだけ言って、ハーゴンが消えて魔物たちが、殺気に満ちて咆哮した。  ケエラが消えて残されたダンカが目にしたのは、ケエラの兄イスサだった。  彼は用事を強引に作って、ジニの尻を追いかけて工場に来て、見てしまった。ジニがケエラに姿を変え、ダンカにキスしたのを。 「てめえ」と、混乱してダンカの胸ぐらをつかむイスサ。だがダンカの指がひじのあたりに触れると、むしろゆっくりと肘・肩ときめられ、苦痛に表情をゆがめる。 「ケエラとジニが危ない。聞いてましたか、武装して人を連れてきて、と」  激しくダンカが訴える。 「それどこ」 「おれはどうなってもいい!」ダンカが叫んだ。「間違っていたらどんな罰でも受ける、二人を助けるんだ」  と、魔力のこもった砂を、イスサに突きつける。 「そうよ」と、どこからかラファエラ、ヘエル、トシシュの三人が出現し、即座にルーラを唱える。  学校に戻ると、そこでは午後も訓練しようと、数十人が完全武装・騎乗でイスサを待っていた。 「行こう」イスサはそれを見て、瞬時に決意する。  今は、闘志しかない。 「先に行っているわ」と、ラファエラがダンカの手を取り、リリルーラを唱えた。 「大人を説得する。先に行け」と、トシシュが武器庫の前の教師に何か言い、扉を開けさせる。 「小隊長はおれが、イスサ、おまえは通信を」と、ヘエルがイスサに命じ、馬に飛び乗る。 「イスサ、命令を。全員馬に乗せられるだけの実弾弾倉」ヘエルの声に、イスサは反応した。命令するための声。 「よし、行くぞ!」  命令に、朝訓練したばかりの小隊全員が応えて叫ぶ。 「実戦だあっ!」 「戦いだ!」 「うおおおおおおおおおおっ!」  みんな大喜びである。子供だ。  四十五人、出自も年齢もバラバラ。全員が馬に乗り、AK-74と、ほかにもいくつかの火器を手にしている。  乗り手のいない馬もいる。ケエラの愛馬も。  分隊ごとに、縦に並んだ騎行隊形から、花弁が開くように広がる。 「息を大きく吸え」ヘエルの命令に、ケエラたちも含めて大きく息を吸い始める。 「第二分隊、銃を構えろ。安全装置解除。第一分隊、必要なら撃ちながら、突撃!」共通語での叫びと手ぶりに、全員が絶叫し、戦いが始まる。  十人の騎馬分隊が走り出し、射撃を始める。 (こわい) (訓練通り) 「馬に任せろ、訓練通りだ!」と絶叫する中央の小隊本部に、スカルナイトと、空を飛んでガーゴイルが襲いかかる。  それに、質の違う重い銃声が次々にほとばしる!  数人が馬から降り、伏せて機関銃を二脚で支え、連射している。 「遠距離戦はない、重火器分隊は全員FN-MAGだ」とヘエルがほくそえみ、上から襲ってくるガーゴイルの剣を盾で受け止め、剣を突き上げる。  ひらり、とガーゴイルは飛んで、翼をたたみ落下力を用いて今度はイスサに切りつけてくる。 「速い」 「深呼吸だ」  その、鋼と鋼が激しく打ち合う音に、皆が訓練を思い出す。 「走れ!」  第一分隊がケエラたちの側に向けて走りつつ、一人が人面樹にRPG-7を発射する。激しい爆炎が上がる。 「走り続けろ……停止!構え、撃て!」  十歳の子さえ、馬にしがみついては馬上から射撃している。AKは操作が簡単で、訓練すれば確実に覚える……少年兵の悲劇を生むほど。まして小口径の74は反動が小さい。  馬も銃声と発射ガスには慣れているが、魔物の気配に激しくいななき、激しく走っている。 「かかったな、襲え!」と妖術師が叫び、草の中に伏せていたバブーンが走る分隊を襲う、それが別の方向から撃たれ、倒れ転がった。 「よし、ちゃんとカバーができているな。第一分隊停止、第二分隊前進せよ」  イスサが大声で叫ぶ。  止まっていたもう一つの分隊が、前進している分隊の後ろからよく見ている。第三の分隊は穴を掘りながら、全体を広く見渡す。  二人がお互いに。分隊は五人と五人に分かれて。二つの分隊が。相互に援護して動くことばかり訓練している。目が届いていない部分があれば容赦なく、きえさりそうも含めて隠れていた大人に非致死性弾でなぎ倒される。  小さな丘を越えて前進する第二分隊に、グレムリンが呪文を唱え始める。それがイスサのマホトーンで呪文が封じられ、その間に全員が銃弾を注ぐ。15m程度の至近距離だ。 「みんな、ひとつの標的ばかり狙わないで!左右を見まわして!」  ラファエラが戦いながら叫ぶ。遠くから見ていれば、視野狭窄はよくわかる。 「それどころじゃないでしょ」と、ケエラがスカルナイトの剣技に、必死で切り返す。その影から飛び込もうとするダンカ。  が、鋭く振り向いたスカルナイトに肩を切られ、その隙を狙うケエラも激しい一撃を受け止めるのが精いっぱい。敵は瓜生の故郷で、フェンシングでオリンピックに出られそうな腕なのだ。陸上でも世界記録は軽く、重量挙げなら世界記録の三倍は軽い。  ケエラはなんとか剣を繰り出している。 〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉とも平和な百年の間、常在戦場の声のもと実戦で通用する武術を追及してきた。学校で毎朝、48式太極拳に似た套路はやっている。だが長老たちは型稽古も、防具試合も実戦とは違うことを理解しており、馬上槍試合やリング試合のようなスポーツ化は厳しく戒めている。単純な技の反復練習、多対一の奇襲、実戦的な集団戦の訓練で、とっさに技が出るようにはしている。そのおかげで、竜王戦役で〈ロトの子孫〉は戦えた。  ラファエラやケエラが回復呪文を唱えようとするが、猛攻に暇がない。 「ダンカを助けろ!」ヘエルの命令に、四人の〈ロトの子孫〉が馬を激しくあおる。 「戦い続けろ、血に酔い狂って自滅するがいい!そして人間は、命令する頭さえ押さえれば烏合の衆よ!」妖術師が怒鳴り、次々にガーゴイルをヘエルやイスサに向かわせる。銃撃のダメージもかまわず落下速度で切りつけては急上昇し、強大な力と剣技で襲うガーゴイルに、人数が減った司令部は混乱している。  特に馬を切りつけられると、集団でうまく動けなくなる。小隊司令部に直属するFN-MAG六挺は強大だが、重く上に向けたりするのは大変だ。  重火器班の二人が伏せたまま連射している。ディウバラもしっかりと銃を構え直し、立ち上がっては重い機関銃を持って走り、また伏せて木を利用して銃口を上に向け、連射している。  グールの腐った体が、7.62㎜NATO弾の連射に崩れ落ちる。  あちこちで、手榴弾の爆音がとどろく。騎馬分隊にとって、手榴弾も主力武器。特に動きが鈍いグールには有効だ。  弾幕と爆音をくぐり抜けて、草むらから襲うサーベルウルフが巨馬と共に倒れ、血しぶきと共に乱戦となる分隊もある。  長柄広刃の剣鉈が抜かれ、応戦するが、圧倒的な力を持つ魔物の前に子供の力ではまったくかなわない。  が、そこを別の騎馬分隊が駆け抜けながら、馬上から槍で魔物を貫く。  恐怖と痛みに絶叫する子供たちもいる。凍りついたように動けなくなる大人もいる。傷を負っても構わず激しく戦う女の子もいる。 「訓練通り、三時の人面樹を囲め!構え、撃て!」 「ミナヅキ、手榴弾!」  実戦経験がある大人が分隊長をし、必死で子供たちに単純な命令をする。訓練通りに動けるように。  むしろ、馬が訓練通りに動いてくれている。  ジニとケエラを襲う巨大で足も速いオーク、その豚面と膝をジニが編んだ呪文が爆発させ、巨体が崩れ落ちる。だが、次々と敵は襲う。ラファエラの呪文も敵の魔法使いに封じられ、スカルナイトの死体から奪った剣で戦っている。 「もうそろそろだ、もうガキどもは理性を失い血に酔って、統制を失う!」妖術師がおめく。  ヘエルとイスサは、激しく馬を走らせながら血まみれで剣をふるっている。剣の腕がすさまじい上にルカナンも使うスカルナイトに、大人も苦戦している。  だが、三つの騎馬分隊は平然と動いている。交互に前進と援護を繰り返し、適度に後退しては第三の分隊が掘っている穴に隠れて深呼吸しつつ戦線を見まわし、必要とされるところにセミオートで正確な射撃を、十人まとめて送っている。RPG-7は巨大で動きの鈍い魔物や、固まった群れを一発で撃破する。  穴には、火力分隊のうち馬が無事だった四人も退避し、すばやく機関銃陣を作って激しい連射を続けている。強大なバブーンが穴に突進し、崩れ落ちた。 「な、なぜだ、どうして統制を失わぬ。血に酔わぬ」  妖術師が見まわすと、戦場の一角で、小さな小さな少年が大音量のホイッスルでリズムを刻み、手旗を振っていた。  別のリズムになるたびに、激しく突進していた騎馬分隊が強引に馬首を返し、足を止めて次の分隊に交代して土壁の向こうに退避し、深呼吸し、水を飲む。  ピーーピッ、ピピッ、ピーピーピッピー。『第二分隊、後退し深呼吸し水を飲め』。  手旗には分隊それぞれの色と、丸・三角・十字など単純な図があり、銃声で耳が聞こえなくても瞬時にわかる。 「な…まさか」妖術師が気づく。「おまえが本当の指揮官かあっ!」  ディウバラも射撃を続けているが、方向は隣の火力分隊長が決めている、機械的に撃っているだけだ。意識は、全体を見て指示することに向いている。 (タヘエ、リズムがみんなと合ってない。ハーモニーが崩れる)  ここに向かう道で、ヘエルとイスサが全員に言い聞かせていた。 「司令部がやられたら、ディウバラが音楽だけで指揮を取る。いいか、リズムが崩れている人がいる隊を呼び戻すだけでいい。全員服従しろ」 「おまえの、あの指揮はめちゃくちゃだったが、みんな気持ちよく呼吸を合わせられた」 「竜王戦役の時から、司令部をやられるのは想定内だ」  と。 「やれ、本当の指揮官をもみつぶせえっ!」  絶叫とともに、次々に出現するグール。FN-MAGの弾幕も構わずディウバラを襲う。 「やらせるか!」  駆け寄るダンカ、だが彼も傷が重い。それゆえに力が抜け、拳の光は鋭く輝くが、命なきグールに烈光拳は通用しない!  皆が声のない絶叫になろうとした、その時。  恐ろしい速度で森から駆け寄った塊が、グールを踏みつぶし、強烈な炎を放って焼き払い、強靭な尾で弾き飛ばす。 「ドラゴン」人々が恐怖と驚きに、呆然とする。 「あらって、くれた、おと、きかせて、くれた」  ダンカとディウバラが顔を見合わせ、笑顔になる。 「のれ」  その一言に、二人が巨大な竜馬よりさらに大きい体に、這い上がる。 「ジニを助ける」  ダンカの一言に、ドラゴンは巨大な体を素早くひるがえした。 「させるか、戻れ!襲え!」叫んで岩陰から飛び出す妖術師に、大量の銃弾とRPG-7が襲う。  元から射程が長いAK-74、多少戦域が広くても、姿さえ出ていれば大量に撃てば当たる。  ガーゴイルが背を向け、統制が乱れ……一気に乱戦になる。  竜の背にしがみついたままダンカがFN-MAGを支え、ディウバラがバブーンの腹を数発ぶち抜く。それに別の分隊が、至近距離から全員で射撃し倒す。  穴の中から、馬から降りて冷静に狙う十人が、ガーゴイルを一体ずつ撃ち落とす。  襲うサーベルウルフとオーク、だが騎馬も槍もドラゴンの鱗を貫通できず、ドラゴンのあぎとがオークの腹に食らいつき、激しく振り回す。乗っている二人は必死でしがみついている。  食いちぎられて二つになったオークが転がる。ダンカが転げ降り、ドラゴンの脇腹に食いつこうとしているサーベルウルフに拳をぶちこむ。閃光とともに体が溶け、それでもふるう爪から、駆け寄ったケエラがかばった。  疲れれば疲れるほど、ダンカの拳は冴えを増す。ロト一族が伝える烈光拳を初心者に教えるには、とことん疲れて力を抜いて、それから目に焼き付けた見本通りの動きを一つ、数回でいいからやる。もちろん、全員が学校でやる基本そのものだ。  それから千回などとんでもない数一つの動きだけやるのと、徹底的に疲れてからできる限りやるのを交互にやる。 「元気な状態で二百回やっても、間違った形しか見につかないわ。力を抜けと頭で体に命じても、実際にはがちがちに力が入っているものよ。完全に疲れた状態で一回でもやりなさい。百の技を身につけるより、一つの技を一年かけて完全に体に叩きこむの」  そう、厳しく常に言われていた。ムツキが霧に飲まれたと知らされてからも、自分たちで練習を重ねているし、時には長老格の武闘家やアロンド王さえも見本を見せてくれる。  烈光拳、増幅された過剰治癒呪文に崩れながら暴れるサーベルウルフの頭部に、至近距離からディウバラがFN-MAGを注ぎ、ついに巨体が動きを止める。 「勝ったと思うなよ」倒れた妖術師の、呪いの声。「シドーよ、わが命を生贄にささぐ……より強大な魔を!」  そう言ってこと切れた、その体が不気味な、恐ろしい悪臭の風と煙となる。  煙が風に吹き去ったとき、そこには三体の、十メートルはある青い一つ目巨人と、五メートルはある四足の機械が何機も。キラータイガーの群れ。 「サイクロプス」「メタルハンター」大人がうめく。どちらも小銃弾はまったく通用しない。 「RPG-7!」  分隊長の命令に、四人が筒を担ぎ上げ、周囲は退避して、装填し発射する……訓練の成果か全部発射は成功したが、サイクロプスは横っ飛びにかわしたり掌で払いのけたり、メタルハンターは一機直撃で破壊できたが、まだ何機もいる。  はっきりとわかる、勝てない、と。 (塹壕を作るべきだった、対戦車地雷を持ってくるべきだった)ヘエルが後悔にとらわれる。  傷つき、疲れた小隊。 「まだ……最後まで、戦い抜く」ケエラが、おめいて起き上がる。  竜が激しく、戦いの咆哮を上げた。  RPG-7射手が、次の弾をねじ合わせ、筒に突っ込む。訓練通り、機械的に。 「指揮官に」ダンカに助けられ、竜に乗せられたジニが、弱りながら精一杯の声で言う。 「わかった、おねがい」と竜に言い、竜の巨体が素早くヘエルのところに向かった。 「地図を」  ジニは、ヘエルが持つ地図を見て、コンパスを調べ、西南西の方角を指さした。 「あっちに2.6km。そこに岩がある、そこまで逃げれば勝てる」 「そこに切り札がある!」と、ジニの記憶を持っているケエラが叫ぶ。 「……わかった」と、ヘエルがホイッスルを強く鳴らした。 「こちらに向けて走れ!突破しろ!」 「第二分隊と重火器分隊、そこの岩陰から弾幕を張れ!」 「手榴弾で血路を開け!絶対に止まるな」  騎馬隊とドラゴンが、道なき原野を駆ける。背後からは容赦のない、巨大な魔物の足音。  ひたすら戦い続けるのとは、違う。むしろこちらのほうが怖い。 (実戦) (怖かった) (追いつかれる)  みんな怖い。  それ以上に、実戦を見たことはあっても、実戦そのもの、まして指揮官として戦った経験などないイスサはもっと怖い。 (逃げて、もし崩れたら) (みんなが崩れたら、それは軍隊じゃない、無力な獲物だって) 「間隔を保て!移動しているんだ、逃げているんじゃないぞ!」  ヘエルの叫びも、ろくに耳に入らない。  ディウバラがリズムを刻むホイッスルも、背後の恐ろしい声と、自分と馬の激しい息にかき消される。  傷つき、疲れたケエラとラファエラは馬に乗っているのも精一杯だ。  馬の速さで、しかし長い時間がたったように思える騎行。  ついに大きい岩にたどり着いた時には、疲れを知らない機械に追いつかれる直前。 (どうするんだ、ジニ)イスサはそう叫びたいのを抑えた。 「心配しないで、ここなら」と、ケエラがほくそえみ、岩影に隠れる。  サイクロプスが岩を転がす、岩は軽々と吹っ飛び、軽さに戸惑ったように動きを止める。  瞬間ケエラが、半ば竜である小馬の魔力を借りて、すでに呪文を編んでいたジニに力を貸す。 「お姉ちゃんも協力して。ドラゴラム……竜機融合」  岩はコンクリートで作ったハリボテ。その下には、メルカバMk-4戦車!  ケエラが竜に変身し、機械に融合する。瓜生が得意とする呪文だ。 「みんな距離を取って」  ジニの言葉、ヘエルが慌てて手を振り、皆が馬腹を蹴って馬がダッシュする。  襲いかかるメタルハンターに、ゼロ距離から120㎜砲が咆哮、爆砕!  何人かが、砲口炎に馬ごとなぎ倒される。全員耳が聞こえなくなり、尾毛が燃え出す馬もいる。  訓練された馬も、さすがに狂奔する。 「馬を眠らせろ」と、ヘエルが決断し、ラリホーを唱える。  そんな中、竜と融合した戦車は恐ろしい速度で離れ、主砲がサイクロプスの上体をあとかたもなく消し飛ばす。キャタピラに踏みにじられた泥や灌木が飛び散る。  次々とメタルハンターを破壊する戦車。乱戦の中、歩兵のRPG-7も巨大な敵をとらえる。  別のサイクロプスを、ドラゴンが噛みつき爪で引き裂き、激しい格闘になる。 「戦車から距離を取れ!円陣を組み伏せ撃て」  キラータイガーの群れに、戦車からも重機関銃が連射される。  火力分隊を中心に、訓練通り走って伏せて、撃つ。  一匹、ジニを狙ってきたキラータイガー。  イスサが両手で突いた長剣が首に刺さる。……吹き飛ばされたが。  ダンカが踏みこんで放った拳の閃光が、肩から胸を溶かす。……そのまま勢いで引きずり倒される。  そしてラファエラのメラゾーマ。ジニを目前に、魔獣は力尽きた。  メタルハンターを戦車砲が撃滅してから呪文が解け、ケエラがメルカバの横で力尽き、崩れ落ちる。  戦いが終わり、傷ついた馬と人がうめき、硝煙と泥、腐肉のにおいに息が詰まる。  激しく息をついた子供たち。眠らされ、力なく足掻く馬。  馬腹を蹴って、どこへともなく走ろうとする子もおり、大人が必死で止める。  大小を漏らしていたことに気が付き、恥ずかしさに泥に顔をうずめる女の子もいる。 「負傷者や負傷馬を、みんなで手当てして後送しましょう」  疲労を押し殺したラファエラの言葉に、大人たちもうなずく。  魔力も尽きている者が多い。 「学校に、戻って、いろいろ持ってこい」ヘエルの命令で、かろうじて動ける大人がキメラの翼を使った。 「全員、警戒しつつ水を飲み、円陣」  それだけ言ったヘエルが、力尽きた。  ルーラで本部に戻った四人が、またリリルーラで戻る。四人で担げるだけのテントと衣類、ハチミツと水を持って。 「水場に歩いて移動し、シャワーを作って全員体を洗い、服を交換しましょう。汚している人も多いから……気にしないで、大人の兵士でも初の実戦では普通よ」  恥ずかしさに苦しむ子には、それがどんなにうれしいか。 「そして一人ずつ、たっぷりハチミツを入れた熱いお湯を飲んで」 「まだ終わったとは限らない、最低限の警戒はしろよ」  全員、とりあえず体を清潔にし、治癒呪文で傷を癒される。  治癒呪文がなければ、瓜生の故郷であっても生命や身体障害の危険があった重傷者も十人以上いた。  助からなかった竜馬も二匹。 「さてと」  学校の、広いテントに集められた全員に、校長と〈ロトの子孫〉の長老の一人が声をかけた。  後ろには十人も、近隣から僧侶が集められている。 「トシシュから、いろいろと聞いている。今回の、主に生徒による事後承諾の戦闘は、正当な戦闘行動と承認されている。安心しなさい」  長老の言葉に、わあ、っと声が上がる。 「ただし、一人一人どのような経過でこの戦闘に参加し、何をしたのか話してほしい。戦闘は深い心の傷になり、戦後の社会復帰にもかかわる」  校長が静かに言う。 「早期、迅速、接触、期待、近接、正攻法だ。早く、しっかり休むんだ。そして一人ずつ、一番恥ずかしいことやつらいことを、僧侶に言いなさい」 「待ち時間は、瞑想するもよし、もう一度風呂に入り直すもよし、本を読むもよし」  長老が言い、みんなほっとする。 「今は何を言っても頭に入らないだろう?ゆっくり休みなさい」 「ただ、この戦闘については、人に言わないように。重大すぎる」  トシシュが厳しく声をかけた。 「では、番号順に」  ケエラにとって、その待ち時間は、戦いよりずっと恐ろしかった。 (戦死していればよかった)そう、どれほど思ったかしれない。 「そもそもの始まりは、ディウバラのバイオリンをなんとなく触りたくて、壊してしまった時からです」 (ハーゴンのせいにはしない)そればかり自分に言い聞かせながら、すべてを話す。 「……最後に、ジニの記憶を盗んでいたので、機械との融合呪文をラファエラと協力して発動し、竜に変身して戦車と融合しました。それ以降の記憶はぼーっとしています」  言い終え、そしてじっと僧侶の目を見て、待つ。 「……ロトの掟を破り、同胞を生贄にしようとしました。以上です」 (どんな罰でも、死刑でもいいし、終身刑でもいい。早く) (ハーゴンの命令、脅しは、理由にはならないもの) (早く処刑して!)  体が爆発しそうなほど苦しい。  そんな中、静かに女僧侶が口を開いた。柔らかい微笑を浮かべて。 「ロトの掟には、罰則規定はありません。どう破ったかを、毎年何人かに告白するだけです。  罰や金で償うことはできません、死刑でも償えないんですよ。  ただ、今から生きる。行動を選ぶ。それだけです」  呆然とテントを出て、イスサとダンカ、ラファエラのところに行く。  やはり顔を合わせづらい。 「石を投げる資格がないのは、おれも同じだ」と、イスサがケエラにまっすぐ言った。 「行動を選んだじゃない。正義のために戦いぬく、って」ラファエラがケエラを抱きしめ、なぐさめる。 「わたしたちも、心が壊れる目にあった。でも、ロト一族はそれから立ち直るための、心の医療だってちゃんとあるんだから。全員、実戦でとても苦しんでるわよね、ちゃんと治療しなさい」 「ムツキ先生も、ガライの墓の試練で掟を破ったことがある、と教えてくれた。おまえが道を踏み外しそうになったときに教えるように、って」  ダンカの言葉に、ケエラはびっくりした。  なぜか涙になる。止まらない。とめどなく、泣き崩れる。 「ええっ、ぐ、うわあ、あああ、あああ、ひう、あああ」  その日はちょうど、暫定議会が開かれる日でもあった。日が傾き始めた頃。今日は休むといっていたハーゴンが、遅れてやってきた。  議会は、ローレシア王宮の議場で行われている。  飾り気のない、木造に土塗りの広間。  アロンド夫婦が上座にいて、横にはリレムとキャスレアが幼いローレルを抱いている。  アロンドの脇にはアダンの巨体が控えていた。  サデルが報告書の山を抱えている。  一方には、ロムルもいる。レグラントは仕事をしていた。  ガライたち、大灯台・元鬼ヶ島・テパ南、ザハンの神官など代表者もいる。  何人かは、ランダムに国民から選ばれ、同じ給料と任期後の職場復帰が決められた議員。 「ハーゴン」アロンドがいつもの落ち着いた笑顔で迎える。 「またいつもの話です。どうすれば、この戦争を終わらせられるか」 「困ったものですねぇ」と、ハーゴンが肩をすくめる。「ロトの血を濃く引く者が、あの海底洞窟に行くべきだと。流言飛語は厳しく取り締まるべきです」 「いや、戦時とはいえ、一度言論の自由を制限すると、元に戻すのが大変だ。それに、海底洞窟に行ってどうするんだ?」  アロンドが軽く笑う。 「まったくですとも」  ハーゴンが合わせた。 「いえ、海底洞窟に勇気ある者が行けばこの戦は治まる、と確かな筋より聞きました。どうか私に、行くことをお許しください」 「いや、私が行くぞ!」  と、何人もが勇気を競い合う。 「おお、やはりみなさん勇気ある人々だ。さて次の議題に入りましょうか」とハーゴンが大げさな身振りをつけて、紙をめくる。 「ローラの門と呼ばれるトンネル、破壊しないのですか?」 「破壊するな、とムーンペタ、北のお告げ所の予言者が声をそろえてね」 「リリザの、ムーンペタ難民たちは?」 「なんとか安定はしています」 「食料に不満があります。量はともかく味で」 「やはり納豆が不評です」 「あと、チーズはあの人たちは、ウォッシュタイプを好むようです」 「それも、ルグンの蒸留酒に限るぞ」ムーンペタの代表者が威張る。 「それはいいことをうかがいました。お国の優れた方法を学ばせてください」とアロンドがへりくだり、ムーンペタ側は大喜びする。 「大灯台の島、第三製鉄所で、新しい炉に事故がありました。温度が上がりすぎたとか」  議題が一つ一つ解決されていく。熱いお茶と菓子が配られ、時には激しい議論にもなる。  使者が一人議場に入ると、アロンドに電報紙の束を手渡した。 「事故の様子は?」 「今、ジニと連絡がつきません」 「ラグエラが消火中です」 「ジニは?」 「今、連絡が取れません」 「朝の予定ではリリザ北の修理工場にいる予定だったのですが」  などと、議員に報告の声が次々に出ている間、アロンドは静かに読み終え、サデルに手渡した。  一読したサデルの表情が、真っ青になる。激しくハーゴンをにらみつけ、その紙をロムルとレグラント夫婦に渡した。  まだ日本語が不自由だし共通語も文盲だった夫婦だが、共通語の抄訳を必死で読む。  そして、激しい怒りに燃えて立ち上がった。 「ハーゴン、よくもあたしたちの大事な娘を」 「殺してやる!」  ロムルが隠し持っていた短剣を手に、ハーゴンに襲いかかろうとする。  それを、瞬時に動いたアロンドが止めた。手首をつかまれ、まるで巨大な機械にはさまれたようにいくらもがいてもびくともしない。 「放せ!」 「ジェッツでも!」アロンドの口調の激しさに、ロムルの腰が抜ける。「おまえの子分が勝手に戦うことは、許さなかっただろう。おまえは私の子分だ。暴力は許さない」 「でも、でも、ならあなたの手で」 「ほう、あなたの手でこのわたしを切り殺してくださるのですか。アリストートス卿をイシュトヴァーン陛下が、軍事裁判をでっちあげてぶった切ったように」  ハーゴンの余裕に、人々が虚を突かれた。 「それこそまさに本望ですよ。それとも、アリストートス卿と同じく、私は武士ではないと命乞いをしたほうがいいでしょうかねえ」  と、ハーゴンはアロンドの前にひざまずき、首を差し伸べ、腰を抜かして命乞いをする身振りをする。 「何があったというんだ」  何人かが叫ぶ声に、サデルが負けない大声で言う。 「ハーゴン参謀長が、ジニ特務技師を生贄にしようとして、助けようとした同級生に多数の魔物をけしかけ戦いになった、と」 「なにいっ!」 「やはり邪神教団は邪神教団だ」  叫びで騒然となる。 「リール、われらゴーラの優しい母親リール、ゴーラの一員だったこのハーゴンをどうするのですか?アロンド陛下も、イシュトとともに苦楽を共に」 「やめろ」  アロンドの静かな一言に、議事堂が静まる。ハーゴンも口をつぐみ、何か言おうとしてはアロンドの目に黙ってしまう。 「私にわかっていないと思っていたか?リールも、メルキリウも気づいていたよ。何かが違う、おかしい、と」  ひたすら静まり返る。その意味を、全員が考えている。 「だが、そんなことは問題ではない。ロトの掟で、法で禁じられた、人の生贄をしようとした……それだけだ」 「証拠は?ここは罪刑法定主義、法の支配の国だ、と何度もおっしゃっているのはアロンド陛下ご本人ですよ」  ハーゴンは悪びれる様子もない。 「証拠ならある。もう、ある部隊がおまえの、複数の本拠地を押さえている。そしてついでに、告発させてもらおう。  今回、ムーンブルクとデルコンダル両国がローレシア・サマルトリア兄弟国を攻めているのは、おまえが黒幕だ……大神官ハーゴン」  声もなし。 「そう言って、このわたくしを切り捨て、湖に投げ込まれるのですね!何たる光栄、なんたる喜びか、わが愛しの、美しい陛下」  ハーゴンの笑いに、皆恐怖している。 「ですが、これはバイアでの、アリストートス卿の裁判とは限りません。逆に、トーラスでのイシュトヴァーン弾劾裁判かもしれないのですよ。そう、イシュトヴァーンとカメロン、それにわずかなドライドン騎士だけで、モンゴールを滅ぼしてしまった」 「どういうつもり!」サデルが叫んで、剣を身に着けていないことに気がついて呪文を唱えようとして、迷う。 「サデル、どうしたの」と隣に言われ、 「あんたは違うの?みんな、ハーゴン」 「幻覚よ、しっかりしなさい」 「そう、幻覚ですよ幻覚」  全員がハーゴンに見えているサデルは、イオナズンに呪文を切り替えて唱えかけながら、身動きが取れない。いくらなんでも、呪文を使えない者も多い議員……王国の要人の大半を殺す決断は、とっさにはできない。 「外を警戒しろ、軍を伏せているかもしれない」と『グイン・サーガ』を知っている者が飛び出そうとする。だが、扉と思ったらそれは壁、激突してひっくり返る。 「もはやあなたがた、〈ロトの子孫〉も〈ロトの民〉も、ことごとくわがもの……」  軽くハーゴンが目を上げると、突然アダンの右手が蛇に変わり、アロンドの首筋に噛みつく。同時に、議場の全員が次々と、何かに刺されたような反応を見せる。 「リレム。ローラ姫さまのためだ」  ハーゴンの一言を聞くや、リレムが幼いローレルの手を引いて、ハーゴンの傍らに飛び出してくる。  桁外れの力を持つはずのローレルの目はうつろで、リレムに逆らおうともしない。 「このリレムは、わたしの操り人形!『姫さまのために』と言ってやれば、どんなことでもする。  そしてアダン、これこそわが切り札、わが意のままの道具、破壊の剣!  そうだリレム、ローレルをシドーに捧げよ。姫さまのために、他に道はないのだ!ひーっひっひっひっ。  アダンよ、そなたが誰よりも憎み嫉妬しているアロンドさまを、今こそお前のものにせよ!その苦しみをシドーに捧げるがいい!  そして、アロンド陛下の名による布告一つで、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉すべてが海底洞窟に赴き、自らを生贄にささげてシドーを復活させるであろう」  ハーゴンの哄笑が響く。  全員、強力な幻覚と精神支配にかけられ、身動きもできなくなる。 「皆さんお一人お一人に、ご自分が望む幻覚をどうぞ……勇気を示せ、名誉はそこにあるぞ」  ハーゴンの言葉とともに、全員が操られるように立ち上がる。 「ふふふ、ついに久しく待ち焦がれたこの時が来たのだ。まずは議員たち、その命令でロト一族全員が海底洞窟に赴き、自ら生贄となる」  と、ハーゴンは手首を自ら切ると、血で複雑な図形を描き始める。 「さあ、アダンよ。生贄の王を連れてこい」  アダンが、そっとアロンドを押して地で描かれた、奇妙に歪んだ図形の中心に、踏み入ろうとする。  だがその時。  アダンの手から放たれた蛇が、絶頂に立つ大神官ハーゴンの喉に噛みつき、瞬時に長剣と化して貫いた。 「う、うぐ……」  何かに操られるように目の色を変えたリレムが閃光手榴弾を投げ、ローレルを抱き上げてローラ王妃のもとに走る。  次の瞬間、ローラ王妃は、再び石になったはずのジジに変わっていた。  そして、突然とんでもない邪悪、底なしの寒さが議事堂を叩く。  凍てつく波動が議事堂全体を叩き、魔毒に麻痺させられていた全員が目を覚まし……すさまじい邪悪と寒さに硬直して、ひたすらアロンドを見つめた。  悪ならば王が倒してくれる、と。  だが、アロンドは王座で静かに微笑み、軽く許可の身振りをし、声をかけた。 「ウリエル」 「う、ウリエル」  議場の全員が驚き、立ち上がる。  その瞬間、モシャスが解けて、闇をまとった影は白衣の男に戻っていた。  瓜生が、アロンドにひざまずく。 「ばかな、ウリエルは元の世界に帰っていたはずだ」 「いや、石にされていたと」 「殺されたと聞いたぞ」 「アロンド陛下に粛清されたと」 「ジジも、石だったはずなのに」 「石像は確かにリリザにある」  全員が、ハーゴンも含めて呆然としている。 「……二度目なんだけどね、パペットマンにモシャスを使わせたのよ」とジジがほくそえむ。 「ばかな、ウリエル……きさまは、この世界には存在しなかったはずだ」 「おれは、存在してなかったよ」  瓜生が軽く笑う。 「アダン、アダン!何をしている、こやつを」  ハーゴンの叫びを聞いたアダンが、すさまじい怒りで咆哮した。アロンドが鋭く一声叫ぶと、それも収まる。 「アダンの最終支配権はアロンド陛下に渡してあるよ。シシュンさんの犠牲のおかげで」  瓜生が痛ましそうに言う。  アロンドの隣でジジが浮かべる微笑に、少し影が混じる。 「リレムの、アドミニストレーターパスワードはおれとジジがもらっていてね。どんなハッキングをしても、おれたち二人のパスワード一つで、すべてを削除してシステム復元・再起動できる」  瓜生が共通語で説明したが、数人以外は理解できない。 「わかるわけないでしょバカ」  ジジが怒鳴り、瓜生が苦笑する。  そこに、キャスレアの姿になっていたローラが元に戻り、ローレルとリレムを抱きしめて泣きむせんだ。 「ローラ王妃様。あなたのためにリレムは、人が決して明け渡してはならない、最も深いところまでおれたちに委ねてくれたのです。その上でハーゴンの操り人形とされることも覚悟で」 「この子の才能は、人を楽しませることと、人を見る目、そして覚悟だ」  ジジが、そっとリレムのそばに行き、その肩に手を乗せる。もう、リレムは小柄なジジと同じほどに成長している。 「ジジはカンダタのこと、邪神教団への復讐だけは絶対に信頼できるからな」  瓜生の言葉に、ジジが面映ゆげな、何ともいえない表情をし……敵意に満ちた笑顔をハーゴンに向ける。 「お前がここで最高の幻術師だ、そう思わせたのさ。うぬぼれという餌を垂れれば誰でも釣れるんだよ」 「まず、お前はおれの実力を知りたがっていた。〈大魔王殺し〉がどれほどのものか、ってな。だからその餌を与えてやったのさ。だが、おれやジジより、お前より上の幻術師は、二人いる」  瓜生が冷静に、授業の口調で説明する。 「だ、だれだ」 「一人は大魔王ゾーマ。そして」  瓜生の言葉に、ハーゴンは激しく叫んだ。もはや人間のふりもやめて。 「ばかな!ゾーマは死んだ、おまえはゾーマにモシャスできるかもしれないが、制御できない」 「アロンド陛下なら、制御できるんだよ」  瓜生が冷たく言う。 「もう一人、凄腕の幻術師がロト一族にいた。マロルっていう」  ジニが、奇妙な表情で、小声で言う。 「ダンカの兄」  瓜生が静かに言った。 「あ、あんな?あんな」 「重度身障者だ。だが、ジジやおまえと同様、幻術の天才さ」 「それに、あの体じゃ自分と向き合い魔力を磨く時間は、常人の何倍もあるからね」  ジジが寂しそうに言う。 「おれがモシャスしアロンド陛下が制御したゾーマと、マロルの二人がおまえに幻を見せていた。かなり前から。  アロンド陛下がどんどん、『グイン・サーガ』のイシュトヴァーン王みたいに残酷に狂って、罪のない人も次々と処刑し、あちこち侵略して、もう九割がたおまえのものになってる、って夢を見てたろ」 「あんたが変なもんばらまいたからよ」  ジジが嫌そうな目を瓜生に向ける。そう、二人が言いあっている間に、ハーゴンはアロンドに近づこうとしていた。 「やっぱり、違うわ」  レグラントが気がつき、立ちふさがって、ハーゴンをにらんで言った。 「あたしたちが知ってる、ハーゴンじゃない」 「そうだ。私たちが知ってる、ゴーラの孤児仲間ハーゴンはもう、殺されている」  アロンドの言葉に、孤児仲間が激しい衝撃を受ける。 「おまえは、記憶だけ奪ってハーゴンとその里親を食ってしまうべきでは、なかったんだ。生きたままハーゴンを操っていれば、われわれ全員生贄にされていたかもしれない。  私とローレル、リレムとジジ、誰もかれも、と欲張らずに、一人だけを狙っていれば。あいつは、最高の悪だったのに」  アロンドの口調と表情は、全く感情を見せていない。だが、その底に深い悲しみと怒りが感じられる。 「すぐ調べたよ。ハーゴンを引き取った里親が、やたらと強い魔物に、残酷に殺されていた。別の、頭が食われた子供の死体もあったけど、別の孤児だろうってことになってた」  ジジが厳しく言い、サデルとうなずき合う。ハーゴンが加わった直後、そのことを調べ上げ、監視していた。ジジがラファエルやトシシュら、天才的な子を教えたのも、対ハーゴンのためだった。 「ハーゴン自身が言っていた。邪悪な人間は飢えている、自分の邪悪そのものに操られている、とな。おまえがそうなんだ」  アロンドがそっとつぶやいて、ハーゴンに迫る。 「殺すのですね?」  ハーゴンは殺してほしそうに首を差し出す。 「…て、アロンド!ハーゴンの仇、それにジニをひどい目にあわせた」  レグラントの叫びに、アロンドは黙って手を差しのべて呪文を唱える。  ハーゴンが鋭く動き、アストロンをかわして、そのまま天井にイオを放って破壊、ルーラを唱えて消える。  同時に、うなずき合った瓜生とジジがルーラで飛んだ。  直後、ハーゴンが床に描いていた血の図形が生きているように盛り上がり、強烈な悪臭と共に一体のデビルロードに変じた。 「アロンド、あなたにも勝てない相手があるんですよ……ずっとね、霧のことを調べてきた。霧の力を借りてキラーマシーンを作り、ひとつの世界そのものである霧を、石像にした。  さらに霧の本体は異界にあります。両方を同時に破壊しない限り、いくら破壊しても無駄ですよ……さあ、足掻くことですね」  言い終え、メガンテを唱え始めたデビルロード。アロンドが超高速で突進し、その手にアダンが投げた蛇が握られて、長剣と変わり、唐竹割り。呪文を唱え終える間もなく、デビルロードが消滅した。  アロンドは稲妻を奇妙な形に放って周囲を浄化すると、息も乱さず、紙とペンを求めた。そして矢継ぎ早に指示を始める。 「サデル、橋の近くに集まっているデルコンダル侵略軍に集中攻撃。リレム、デルコンダルに戻って王に、和平案だ……ちょっと待て」  と、素早く文章を書き始め、ながら次の命令を言う。 「ロムル、トシシュに話を聞いて、ハーゴンを告発して市民権停止措置」 「生ぬるいぜ、せめてあんたの手で殺してくれ」 「筋としては、そうだ。だが誰であれハーゴンを殺せば、殺した者の強さに応じた力で、破壊神シドーが復活してしまう」 「そんな」と、サデルが息を吞んだ。 「ちくしょうっ」ロムルが歯噛みをし、机を殴りつける。 「な、ならあのお二人がハーゴンを殺しても」 「大丈夫さ、二人ともよくわかっている。さあ、短波モールス信号を準備してくれ。『アロンド ヨリ ゴッサ イケ マカセタ』だけでいい」  議員たちが、今度こそ衝撃に凍りついた。ゴッサ、サマリエル第二王子をはじめとするサマルトリア勢は、霧に吞まれたとされているのだから。  ロンダルキアの、伸ばした手も見えずすべてが凍りつく吹雪。  暴風より激しい雷の轟音、封印された魔城。ルーラでたどり着いたハーゴンに、瓜生とジジが追いついた。 「マホトーン!」  ハーゴンの先制呪文に、二人が喉を抑える。 「お前らだけでも生贄にしてやる、わざわざ生贄になりについてきたとはな。出でよわが騎士ども、ギガンテスども、悪魔神官ども、アークデーモンども」  神々といえる巨人たち。  顔が見えないほどの巨体から、超音速で、大木をそのまま引っこ抜いた棍棒が打ち下ろされる。 「殺せ!殺せ殺せ殺せ!」  瓜生とジジは軽く目を見合わせ、素早く雪の中を動く。  棍棒がジジの白いシルエットを完全に叩き潰した、 「それはシーツだ、バカ何をしている」  ハーゴンが絶叫する。  瓜生は身長より長い両手剣で、ハーゴンの騎士やギガンテスを切り倒している。  彼の剣術はアロンドやサデルとは違い、華麗な技巧はない。上段から袈裟に切り下ろす、突くの二つだけ。  毎日。〈上の世界〉で諭されてから、両手剣と短刀で百ずつ練習を重ねてきた。万日の稽古を錬とするに至っている。  彼の剣は見た目は鋼の両手剣。だがそれにはゾーマ城で邪神の力を借り、諸刃の剣・はぐれメタルの力・メドローアの魔力が封じられている。どんな物体も豆腐よりたやすく斬り、形なき霊も滅ぼす。  両手剣自体は飾り気がない。だが、柄頭に唯一宝玉が輝いている。まったく別の世界で魔力を付与され、魔法の杖のようにルーラを何度でも使える。  その短距離ルーラで、超スピードと同じように攻撃をかわし、懐に飛びこむ。そして瞬時に両手剣が手から消えると優雅な短刀となり、突き上げがハーゴンの騎士の首を貫く。  と思うと、姿が消えると同時に別の場所に出現し、両手剣が巨人の脚を袈裟に切り落とす。  その技は、瓜生の故郷の見る人が見れば言うだろう……示現流の二の太刀不要と、八卦掌・太極拳の螺旋を兼ね備える。ロト一族の徒手武術と共通する、ゾーマ由来の技法だ。  瓜生自身が子供のころ習っていた剣道とは、もはや似てもいない。  防御もろくにないが、彼が身に着けている不可視の魔衣は鉄壁の防御力を持っている。剣と同じくゾーマ城で、竜の女王の鱗・水の羽衣・力の盾・カーボンナノチューブなどを合成したものだ。戦いながらでも回復ができ、魔法や炎も大きく軽減する。  単純な運動能力も超人的だ。ゾーマ殺しは伊達ではない。  雪の中、ジジが二枚のカードを投げる。それが風に乗ってすさまじいスピードで悪魔神官を襲う、だが二枚とも外れる。  仮面の下のほくそ笑みが見えるように、棍棒が振りかぶられる、だがそうして踏みこんだ瞬間、悪魔神官が目に見えない何かに縛られ、暴れた腕が、足が次々と切れ落ちる。  ぴん、とジジは手にした、目に見えないほど細い糸をはじいた。 「ゾーマから作り方を学んだ闇の衣と同じ繊維、天露の糸、そして……あとは企業秘密さ」 「前に見せてもらったが、軌道エレベーター余裕で作れる強度だよな」  瓜生が軽く微笑み、ジジを背後から押しつぶそうとしたアークデーモンとの間に出現すると、サイガブルパップショットガンを発砲する。  すさまじい衝撃波と魔力に、巨体に風穴がいくつも開き、頭部は消滅している。  剣と同じく別の世界で魔法をかけられたブルパップショットガンは、スラッグなら音速の何十倍にも加速して砲弾並みの運動エネルギーを与え、OOバックショットなら短射程のメドローアとなって目の前のすべてを消し去る。 「くそう、なにをしている!さっさと奴らを殺せ!」  ハーゴンが絶叫するが、瓜生とジジはのらりくらりと戦い続けている。  アークデーモンが瓜生にイオナズンを唱えようとするのを、すっと背後に回ったジジが軽く刺す、それだけで象より大きくコンクリートより頑丈な体躯が、内部で爆発するように弾け、溶けていく。 「この短剣には、アダンの魔毒がたっぷり塗ってあってね」 「ジジの魔法を封じたのは愚かだったな。こいつは奇術師としても、盗賊としてもアッサラーム仕込みの一流だからな」 「あんた、あたしたちと旅してた時はずっと戦士みたいに槍振り回してたわね」 「まだ賢者になりたてだったし、この能力はあいつらには言えなかったからな」  と、思い出話をしながら、瓜生が手元に出して放ったカール・グスタフ無反動砲がアークデーモンを直撃する。すぐにKord重機関銃に持ち替え、人間離れした力でM16ででもあるかのようにフルオートで撃ちまくる。12.7㎜弾の威力は、ギガンテスですら脚に当たれば転び、頭部に20発もぶち込まれれば動きを止める。  ジジもどこかに隠していたゲパード14.5㎜セミオート対物ライフルを巧みに使いこなし、奇術で誘導したギガンテスの一つ目をぶち抜く。 「うぬ、いでよアトラス。バズズ。ベリアル!」ハーゴンの絶叫と共に、ひときわ巨大な三体の魔神が出現する。  大型ビル並みの巨大さに似合わず俊敏なアトラス。  底なしの邪悪さと魔力を秘めたバズズ。  どれほど大きいのかわからない、城が歩き出したようなベリアル。  アトラスとバズズが、ギガンテスたちを率いて襲う。  瓜生がドイツのプーマ装甲歩兵戦闘車を出し、飛び乗る。車内から遠隔操作できる30㎜機関砲があり、一人で操縦と銃撃ができるように改造済み。キャタピラの悪路走破性能もある。  巨大な棍棒を、自動車並みの大スピードで回避、旋回しながら機関砲を撃ちまくる。ギガンテスやアークデーモン程度なら一発でも命中すれば上体がなくなる。  だが俊敏なアトラスにはなかなか命中しない。たまたま腕に一発命中して腕が吹き飛ぶが、動きを止めるには至らず、傷もすぐに再生する。  バズズが大呪文を唱えようとした。そのすぐそばにジジが、かぶっていた雪の下から出てくる。遠くで戦っているように見えたのは、糸で布を操っていたに過ぎない。  至近距離から口に投げ込まれた焼夷手榴弾が白燐の消えない炎を上げ、バズズが痛みに絶叫し毒煙を吐く。  アトラスが機関砲の弾幕すら超高速でかわして装甲車の懐に飛びこみ、棍棒を叩きつけて頑丈な鉄塊をゴキブリのように叩き潰した。だが、瓜生は直前にハッチから逃れ、魔銃のメドローアとKord重機関銃を連射し、白燐手榴弾の煙幕を張る。  そしてかなりの距離にルーラで逃れ、対空用の20㎜バルカンを用意すると遠距離から撃ちまくる。 「あたしもいるんだけど」というジジの叫びすら届かない距離から。  瓜生の死角からすさまじい早さで襲いかかるギガンテス、だがその足が糸にとられて転倒し機関砲が巨体をずたずたにする。 「最初からそっちにいたんじゃないか」 「わかっててやったんでしょ」 「やかましい、遊びはそれまでだ!」  ハーゴンが叫ぶ。その背後には、膨大な数の巨大なシルエットが吹雪の影に、かすかに見えている。 「霧、異界の魔そのものとウリエル、きさまの故郷の機械を参考にして作り出した、キラーマシーンとその眷属メタルハンター、キラーマジンガ……それがここには千あるのだ!  一つや二つは倒せても、とても千戦う体力などあるまい。  死ぬのだよ」  ハーゴンが嘲笑う。 「それが?」瓜生は言うと、通信機をいじくっている。 「あたしに時間稼ぎしろっての?」ジジがぶつくさ言っている。 「ロマネ・コンティ二十年ものやるから」 「あんたにとってはタダじゃない。うまいけど」  そう軽口をたたき合いながら、ジジは糸や布など単純な道具だけで、魔法も使わず鮮やかなマジックショーを繰り広げる。  魔機械たちがことごとく騙され、別のほうに誘導されたり同士討ちしたりしている。 「終わったよ、伏せろ」  瓜生が言って伏せる。直後、遠くから順に巨大な機械魔が、すさまじい爆発で粉砕されていく。正確に。 「な、何だ」 「上だよ、上」瓜生が空を指さす。  一瞬吹雪が晴れた高い空、そこには竜と融合した金属の巨鳥。B1ランサー爆撃機が可変翼を大きく広げ、低空をゆっくりと舞いながら多数の精密誘導爆弾を落としている。 「ラファエラとサデル、あとケエラとジニの二人に頼んでおいた」 「ケエラ一人じゃきついけど、ジニと組めばドラゴラムから機械と融合するのもなんとかなるからね。ドラゴラムは持続時間長くないけど、かわるがわるやればどうにかなるし」 「ばかな、この山々で隔てられたロンダルキアに」 「ランサーの航続距離と高空性能をなめるなよ」 「くそうっ、イオナズン!」  ハーゴンの呪文、だが爆発の中、巨鳥竜は悠々と飛んでいる。 「竜と融合してるんだ、呪文なんて効かないよ」  そう言っている間に、無数の精密誘導爆弾が次々とキラーマシーンを粉砕していく。  バズズが咆哮し、飛び上がってB1ランサーを襲おうとした、そこに突然空から、黄金の巨竜が舞い降りて蹴り落とした。  その両手と瞳は人のもの。アロンドと竜王の種をローラが産んだもう一人の王子、ヤエミタトロン。頭から尾までの全長は30mを越える、人の腕を持つティラノサウルスのような姿。  その手には、体のサイズに合う巨剣が握られている。 「あれは」 「ロトの剣。もう寿命に近いけど、あいつの力と融合してる」 「あんなでたらめな大きさになるなんて」 「まあ、もともと神々の剣だしね」  アトラスの巨大すぎる、何の石で作ったかわからない棍棒を切り飛ばす、その脇から噛みつこうとするバズズを、別の巨竜が体当たりする。  それが美しい竜女と化して、バズズやハーゴンと激しい魔法戦闘を始める。  そしていつしか遠くに離れていた瓜生は、バルカン砲で残った魔機械たちを次々に粉砕し、援護砲撃を正確にぶちこんでいく。  人の両手と瞳を持つ巨大な竜神王子が、アトラスとまともに力比べをする。相撲のように。  そして、とてつもない力で上手投げに倒し、その腹を鋭い牙で食いちぎると、口から黄金の光束を吐いて焼き尽くした。  バズズが背後から襲おうとするのを、竜女がはばみ魔法と魔法、炎と炎の激しい戦いになる。遠くから瓜生のバルカン砲が確実な援護射撃を送る。  有利な位置に飛び逃れようとしたバズズが、足をジジがかけていた糸にとられて地面に倒れ、その瞬間バルカン砲の集中攻撃で跡形もなく消え失せた。  そして残ったベリアル。  すさまじい威力で投げた槍が、バルカン砲を一発で破壊する。  瓜生が短距離ルーラで竜女のもとに逃れ、メルカバ戦車を出すと、ジジや人間の姿に化けた竜が飛び乗った。 「車長はいないが」  といいながら、戦車が高速で逃れる。  そして、巨大すぎるベリアルが竜神王子を襲い、すさまじい力と力の打ち合いとなる。  竜女の呪文、そしてメルカバの主砲が援護する。  竜神王子の剣技、そして口から吐くレーザーブレス、どちらもとてつもない威力と切れだ。  ベリアルの巨体と魔力も強大だ。  ハーゴンや悪魔神官が魔法で援護するが、それは竜女が装填手をしながら強力な魔法で相殺している。  逆にメルカバがすさまじい速度で動き、間断のない重機関銃を放ってベリアルをうるさがらせ、隙があれば120㎜主砲で容赦なく胴体をぶち抜き動きを止める。  竜神王子も重傷を負いながら、ついに足を戦車砲で吹き飛ばされたベリアルの腹を食いちぎり、喉にロトの剣を突き刺して動きを止めた。  ついに、ハーゴン一人。メルカバから、いつしかジジが滑り降りる。  ハーゴンは、それでも笑っている。 「ふ、ふふ……勝ったと思っているのか。だがな、ここではこのわしの力に限りはない、それにジジ、おまえには弱点がある」 「弱点?」 「ほう」 「おまえはかつて、石にされている。一度は戻ったとしても、あの呪いはおまえの魂の底まで食い込んでいる」 「それが?」  無表情なジジ。それを恐怖と取ったか、ハーゴンがすさまじい笑みを浮かべた。 「石に戻れ!それが似合いだ」勝ち誇って手を差し伸べる。  ジジは悲鳴をあげ、……絶叫するように笑って迫るハーゴンの、足が絡んだ。 「な」  徐々に、ハーゴンの手が、足が石に変じていく。  ジジの前に、魔力の壁がひらめいていた。 「ま、マホカンタ?だが、マホトーンで」 「効いてる、と騙されるのが悪いのさ」ジジが会心の笑みを浮かべた。 「おれは効いてたけど、それも罠になったようだな」と瓜生が笑う。 「あんたがヘボなだけよ」ジジは軽く瓜生を蹴った。 「く、くそおおおっ」と、炎を吐き、呪文を唱えるハーゴン、だが瓜生たちは魔剣の短距離ルーラで離れ、反撃しなかった。 「殺す、と思っていただろう?甘い」と瓜生。 「そう、あんたを殺したら、シドーが復活するって罠があるんだろ。今は邪神像がないからね、形なしに復活されたら倒せない。それがアロンドにでもとりついたら最後だ」ジジが手を掲げ、邪悪な微笑を浮かべる。 「百年ぐらいしたら、また邪神像ができるだろ。アロンドの子孫が形を成したシドーを倒せば、半永久的にシドーとこの〈下の世界〉のつながりを断てる」  瓜生が呪文を唱え続ける。  ハーゴンの、もはや人間とは全く違う体が、みるみる石と化していく。醜い石像に。 「解けるもんなら解いてみな。どうせあんたなんかにゃ無理だろうけどね」  ジジが言い捨て、瓜生と共にルーラで消える。  竜神王子は大きく咆哮し、竜女と共に魔の島に帰る。  激しい吹雪が荒れる氷雪のロンダルキアは、何事もなかったかのように変わらぬ姿を取り戻し、機械魔たちの残骸や爆弾のクレーターもあっという間に雪に埋もれる。  怒り・憎悪・呪いを体現するような石像が転がり、その背後に、激しい稲妻に封じられた魔城の扉がそびえているが、それを見る者ももうない。  ムーンブルクの南西、テアハス女王の出身地である砂漠の島を、騎馬の軍勢が急襲した。  その先頭に、幼児を抱えてドラゴンにまたがるゴッサの雄姿がある。  ゾーマに変じ、アロンドに制御された瓜生が強力な魔力で起こした擬似的な霧に吞まれたと見せかけたサマルトリアの老若男女一万余。ことごとくアレフガルドやムーンブルクの無人地帯と、瓜生が出した大規模な客船と強襲揚陸艇を往復し、隠れ暮らしていた。  瓜生が膨大な量の食料や燃料を与えていたし、サマルトリアの人々は草原や森があれば草や木の葉を家畜に食わせ、乳酒と肉、卵で暮らしていけた。  家族も含む仲間たちからも隠れ、航跡をローレシアの船に見られぬよう隠れて暮らしながら、ひたすら訓練を積んで、無線通信一つを受けて一気に動き出した。  全員が騎兵。全員が銃を持ち、多くは魔法を使える。さらに多数の大型輸送ヘリと攻撃ヘリ、歩兵戦闘車、ウニモグなど瓜生由来の近代兵器も十分に備え、使いこなしている。  疾風迅雷。連絡より、対策よりはるかに速く侵攻し、次々とオアシスを制圧する。  知らせすらない中、突然思ってもみない道から一隊の騎馬隊が襲うのだ。特に瓜生が参加してから、航空機写真を用いて世界中の細かな地図がある。またロト一族は、コンパスなどで自分の位置を正確に知ることもできる。  そして防御の準備をしている間に、イオナズンやヒャダインなどの大呪文。竜に乗る騎兵もおり、後方からは巨大な鉄の塊が砂煙を上げて高速で走る。それだけで、貧民を駆り集めた寄せ集めの軍勢は戦意を失い瓦解する。  当然放火・略奪・強姦・虐殺・拷問・奴隷化を覚悟し泣き叫ぶ民。ロト一族は恐ろしい盗賊であり、降伏すれば全員残虐な拷問のはてに殺される、と皆が言い聞かされていた。  だがその騎馬隊は一切の狼藉をせず、貴族や神官だけを捕えて数人の兵に監視させた。  食料を徴発し税金を高くすることすらしない。食料はすべて持参し、また遠くからヘリで運ばせている。むしろ、戦争によって上げられた税金を元に戻すよう布告した。  そして残された少数の兵は、全員が優れた医者で、次々と病人を癒していった。  民の恐怖と虚脱は、歓呼と変わる。  あるオアシスに攻め寄せたとき、そこは隠れる道筋がほとんどなかったので、一日前から侵攻は見られていた。  戦える年齢の男子は、すべて徴兵されている。村人たちは、事実上見捨てられている。 「ならば女子供、老人でも戦え!やつらは残酷な盗賊だ、攻められれば皆殺し、いや全員残酷にとろ火でじわじわと、子供から順に焼いて楽しみ焼肉を食らうというぞ」と脅されていた。なのに足弱の者たちも避難も許されず、しかも武器すら与えられず石を拾い集め、砂を積んで守りとし、むしろ庶民たちは奴隷とされる覚悟を迫られていた。  支配階層には「知らせに行き援軍を連れてくる」などと言い訳をして逃げてしまった者もいる。妻子を連れて逃げるのはまだいいほうで、中には妻子すら置いて身一つ、金銀だけ持って逃げてしまう者もいた。  特に武人面して威張っていた者に、そんなクズが多い。  その騎馬隊は、まさしく疾風だった。  それが近づくときに、ちょうど傾いた太陽を背負い、まぶしくて全く敵が把握できない。 「なにをしている、さっさと反撃しろ!逃げたりしたらお前たちの子の首を切る!」と剣を民の子に向けて怒鳴っている、置いていかれた老貴族の頭が、何をしたともなしに破裂する。 「あ、ああ」 「化けものだ」 「魔神だ」  恐怖に虚脱した女や老人は、ただ心を止めてしまったままその蹂躙を待つ。まさしく蛇ににらまれた蛙のように。 「殺してやる、化け物め」と絶叫して剣を抜き、挑みかかる、まだ子供の貴族の私生児が、いきなり転ぶ。血を吹く足を押さえてうめく。 「もうだめじゃ」 「せめて女を差し出せ!」と絶叫し、まだ子供と言っていい女の子を縛り上げる貴族の老女もいる。  それに反発し、戦い抜こうとする、こちらはオアシス土着の武人もいる。  そんな右往左往のさなかも足を止めず、すさまじい速度で迫った騎馬隊。  砂の防壁を迂回し、並べていた盾を槍で軽く吹っ飛ばして高速でつっこむ騎馬の前に、人々は怯えて走り回るか、それとも何もできず呆然と固まっているか、二つに一つだった。  せめて、と娘を刺し殺そうとする母親の短剣が、長槍の石突で跳ね飛ばされる。 「ああ」  輪姦と拷問の恐怖に凍りつく母娘を、とてつもなく巨大な馬から美しい男女が見下ろしていた。  先頭には巨大な竜にまたがった、背の低い男。その背には幼児が大切にくるまれていた。その小さい体から大音声が轟き、全員が戦意を喪失し座り込む。 「サマルトリアのゴッサだ!牙をむかぬものは殺さぬ、何もいらぬ。武装解除のみ。生業に戻れ!」  そしてそのすぐ後ろから、先ほど突進した私生児が、傷を癒されて戻ってきた。呆然として。 「早まって自害してしまった者、重病人がいたら言ってくれ!死んでいてもザオラルが使える、治療する」  そう、数人の騎馬戦士が呼びかける。 「町から離れて野営準備。七時間後に出立する。水は飲ませてもらう」と、ゴッサが代表になれるものを目ざとく見つけ、金貨を渡した。 「な、なぜ」  娘を手にかけようとした母親が、人間ではないものを見るように呼びかけた。 「なぜ。なぜなのです。近隣の蛮族がこちらを襲い、敗れたときはいつも女は犯され男は虐殺されるか売られ、収穫はすべて奪われるのに」 「あんたたちは、ものを食わんのですか?」 「持ってきていますよ。もし、備蓄を焼いてしまっていたら、言ってください。そんな村もありましたから」  そう馬上から、美しい女が語りかける。  少女たちが差し出され、「ふざけるな」「いらん」という声と共に断られ、縄目を解かれて呆然としている。 「ケエラと同じ年頃じゃない!」  ムツキの叫びにサラカエルが、 「ロト一族以外にとって、人は家畜と同じ戦利品、奴隷、ものなんだ。こっちがあたりまえで、われわれが特殊なんだよ、どれだけ違うかは開拓村で経験したろう?」  と慰めていた。 「なぜ」  母親の繰り返される問い。 「ロトの掟」  ゴッサは一言だけ言って、味方一人一人の間を回り、馬の調子や装備の様子を見ている。その視線一つで腹帯が緩んでいたり、銃の手入れを怠ったりしていた者が恥じ入り、直す。一言の言葉もかけずに、全軍をきっちりと見直す。 「集まれ、聞いてくれ!虐殺・略奪・放火・強姦・拷問・奴隷化をしない」  口数が少ないゴッサにかわって、サラカエルが説明を始めた。ロト一族の全軍にも、貴族たちにも、庶民にも。 「まず、われら〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉、ロト一族は、正義のために戦うことを使命とする。虐殺・略奪・放火・強姦・拷問・奴隷化は、悪だ。明白に。  もう一つ、実利的にも、やらないほうが得をする。  中でも略奪、ムーンブルクやアレフガルドの貴族軍などは、兵站や兵の給与という考え方自体がなく、食料は出先で略奪するもので、略奪・強姦・奴隷を給料とする。  ここでわかってほしい、事実。虐殺・略奪・放火・強姦・拷問・奴隷化は、人間にとって圧倒的に大きな快楽だ。ヘロインやアンフェタミンと同様、その魅力にあらがえる人間などいない。  その二点により、略奪しなければ飢え死にするから、略奪を許さなければ反乱が起きるから、略奪が楽しいから、とそれをやっていると、軍が進める道が限定されてしまう。略奪できる町がない道は、たとえ最短距離でも通れない。通らないと決めたら兵が反乱しかねない。  それは、敵に頭のいい者がいれば、略奪する軍を自由に操ることさえできるということだ。指揮権を敵に握られて勝てる軍などあるか?ない。  さらに虐殺・略奪・放火・強姦・拷問・奴隷化は時間がかかる。奴隷商人など余計な非戦闘員を引き連れることにもなる。進軍が遅れるんだ。  逆に最初から残虐行為を全面的に禁止し、自分たちで兵站を確保する我々は、好きな道を好きな速さで走ることができる。  その機動性が、圧倒的な戦力になることは今見たとおりだ。  何より、皆が残虐行為の甘さを知っていれば、残虐行為をしたいため、また略奪そのものに国家経済を依存しているために、残虐行為を目的に戦争を始めることになる。  政治そのものが、多くの人間の欲望に左右されてしまう。  一言で言おう。残虐行為を許せば、将は将でなくなり、王は王でなくなる。獣欲に狂った人間集団に引きずられるだけの奴隷になってしまうんだ。  そんなことは許せない。  さらに、残虐行為をするのは兵が恐怖に負け、指揮官が権威を失っているときが多い。逆に残虐行為を抑制できるほど規律がきちんとしている軍は、強い。  われらサマルトリア軍は、最強だ」  全軍の絶叫。 「といっても、それも重要だが、結局は虐殺・略奪・放火・強姦・拷問・奴隷化が悪だから、それが一番重要なんだ」  サラカエルの言葉に、村人は崩れるように畏れ入ってしまい、ロト一族たちは大きく歓呼の声を上げて、ゴッサとサマリエル、アロンド、そしてミカエラの名を称えた。  大きい砂漠島の中央にある、岩山を背にし城壁を巡らせた難攻不落の城。だがそれも、まさしく鎧袖一触だった。  場内では女王の家族を始め、貴族たちが報告をバカにし、応援を求める使者を罰して、饗宴を繰り広げていた。  まるで稲妻のように騎兵が押し寄せ、守ろうとしたわずかな兵を遠距離から投槍で瞬時に倒して城壁に到達。 「離れろ」幼児を抱く将の、小さな体から信じられない大音声が響く。つい、逃げてしまった兵も多い。  そして間もなく、繰り返し爆発が城壁の一点を襲う。  ムーンブルク側から見ればこうだ。  奇妙な、軽装の騎兵隊が森の影など、あちこちから出現して集まり、城壁に迫る。 「敵襲!」と叫ぶ間もなく数人が変な筒を背負い、次の瞬間その筒が、後ろに火を吹く。  すぐに大爆発が起きて、壁に穴が開く。それが何度も繰り返される。  そして、近くにいた人間が激しい揺れを感じ、気がついたら壁に、妙な角度で立っている。  床にではなく、壁に、横に立たなければ倒れてしまう。  それが激しい揺れとなり、壁がゆっくりと崩れ始め、無我夢中で逃げる……壁を走って。  その穴から躍りこむ巨大な馬が、守兵などないかのようにすさまじい勢いで城内を突っ走る。 「ああいう連中は略奪に時間をかける、その間に立て直せ」と叫んで逃げようとする兵を切り倒している貴族が、いきなり頭が破裂して倒れる。  女子供が、と激しい恐怖に振り返るが、騎馬隊は一切女子供に手を出さず、まっすぐに城に駆けていく……  ゴッサの側から見れば。RPG-7を多数発砲して壁を穴だらけにし、一年以上前にガライ一族が仕掛けた爆薬を遠隔操作で起爆した。それでゆるんだ城壁を、重力呪文の応用で重力の方向を変えて、引き崩した。  そして投げ槍についた閃光手榴弾を多数放って城下を混乱させ、一気に城の中枢に進撃する。  城壁からの使者さえも、罰が怖くて報告に来る以前。饗宴を繰り広げ、傲慢さをふくらませていたテアハス女王の親族を多く捕え、一気にムーンブルク王都を衝く。  美しかったムーンブルク王都だが、今は人も少なく、半ば廃墟となっている。  半ば魔物となった軍勢が暴虐の限りを尽くし、多くの人は郊外に避難した。殺され、ゾンビとして軍勢に加わった者は二度と帰ってこない。  憎悪と欲望に駆り立てられ、北に向かった若者たちもいる。  王が殺され、テアハス女王と何人かの王弟が支配するようになってから、税も際限なく上がり、ほとんどわけもなく人は処刑され、また徴兵され、悲惨のきわみとなっている。  そして苦しい生活は、すべてアロンドたちロト一族のせいだ、と何度も喧伝され、単純な者はそれを信じて憎悪に燃える。それでローレシア征討軍に加わり、帰ってこない者も多い。  ガライ一族も逃げており、時たま侵入しては逆に宣伝して、追われては逃げる。首に賞金をつけて追討されており、かなり危険な任務だ。  憎悪の象徴になっているのが、無残に焼けこげ今も異臭が漂う、巨大な離宮跡だ。  ガラスや金属は略奪され、弔いも許されず串刺しになった死体が腐っていっている。  放った火が燃料に引火して、攻めた人たちも多数死んだ。ロト一族は客たちを逃がし、戦い抜いた。そして離宮を作った時に雇い、使用人として、また兵士として訓練した人たちの半分はローレシアに避難させ、多くの犠牲は出たが撤退した。  特にムーンペタの人々を避難させるときには、客船で訓練した人たちもザハンで耕していた人たちと並び、核になっている。  焼けてしまえば、客船は鉄の塊だ。その鉄も略奪されているが、略奪しきれない。アルミニウムは錬金術師には金銀以上に貴重な金属だが、うかつに手を出すと群衆に殺される。  本や機械もあり、それらをリバースエンジニアリングすれば相当な技術も得られただろう。だが、そのようなことをするのは近代的な考え方をする者だけだ。宗教的憎悪に支配された人々は、すべて焼き尽くし破壊し、ごみとなった残骸を奪うだけだ。  憎しみに支配され、生贄を焼く煙が絶えぬ魔城となってしまったムーンブルク城が、突然統制を失った。  王が死んだのち、テアハス王妃が女王となってはいたが、実権を握っていたのはハーゴンに操られたサマンエフ王弟だった。多くの貴族や庶民を生贄にして魔軍をローレシアに送り、恐怖と憎悪で支配していた。  ハーゴンの石化と同時にそのサマンエフが狂い、おぞましい魔物となってテアハス女王を食い殺してしまった。  もともと王弟たちや残った大貴族、僧侶、どれも恐怖と憎悪と欲望、妄執に狂った愚か者ばかり。ただ主導権を取ろうと争い……  そこに、騎馬の疾風が襲った。  中には、彼らを味方につけて王位につき、裏切ろうとしていた者もいた。  憎悪に燃えて迎え撃つ、なかば魔物と化していた者もいた。恨みに満ちたバレヌラが率いる千人もない軍勢が、五万と宣伝されて迎撃に出撃した。 「この永遠のムーンブルク王城は落ちん」とおめく、傲慢で自分の見たいものしか見ない人たちも多かった。  ゴッサたちは淡々と、圧倒的な戦力と機動力で攻撃してくる者は殺し、そうでない者は殺さず武装を解除し秩序を守らせた。  バレヌラ率いる迎撃軍が西側に防衛線を張っていた。そこに東側からもムーンブルク城が襲われているという知らせ……偽情報を流して混乱させ、さらに戦闘ヘリのロケット弾で混乱をもっとひどくし、全員がAK-74をフルオートで連射しつつ突進する騎馬隊が蹂躙した。  ムーンブルク城の城壁もロト一族にとって、もはやないも同然だった。重力呪文や攻撃ヘリ。メドローアを使いこなす上位魔法使いも十人はいる。  城塞都市を住民ごと全滅させるほうが簡単だろう。だが、あくまで無辜の被害は一切容認せず、十分に警告し避難時間を与えてから城壁だけ破壊し、突撃。  混乱の中を人馬一体・馬軍一体の精鋭が駆け抜け、暴走して無差別殺戮を起こしている魔物をRPG-7や上位呪文で確実に屠る。  そのすさまじい戦闘力の前に虚脱し心を止めた人々が集められ、保護される。  圧倒的な速度と大呪文の爆炎・凍結・稲妻、馬や竜の迫力は、思考力を奪う。さらにそのことを理解して、発煙手榴弾や閃光手榴弾を放つ。時には殺傷能力が出ないよう人がいないところにサーモバリック弾も使い分ける。 「暴れる魔物を無力化!ロトの掟は守れ、暴れない魔物は保護!」  ゴッサの大音声と共に、騎馬隊が崩れた城壁を駆け抜け、城下町を駆け回って城内に飛びこむ。  魔獣と化したサマンエフ王弟が人々を食い荒らしながら飛び出す、そこにいち早く駆けつけたゴッサとムツキが挑む。  身分の上下を問わず恐怖に呆然としている民の前で、オークの上半身とバブーンの下半身が不気味につながり、頭髪が無数の蛇になった怪物に、馬を下りたムツキが閃光の拳を叩きこみ、離脱する。  そこに竜に乗ったゴッサがすさまじい速度で突進し、稲妻をまとわせた剣で斬りつける。  ムツキは別のオークを迎撃し、ゴッサが強力な呪文と魔法剣、そして背から外した20㎜機関砲弾を放つボルトアクションライフルで戦い続ける。  的確に手足をぶち抜いて弱らせ、マホトーンとマヌーサで戦闘力を奪い、自らの傷も構わず至近距離に手榴弾を放る。  強大な槍を紙一重でかわしつつ突進、稲妻をまとわせた長剣で魔獣の腹を深く突き刺す。  その大穴に、さらに巨大な銃をねじこんで20㎜機関砲弾を三発ボルトアクションで連射。すさまじい砲口炎とともに、巨体が大きくえぐられ、三つ大穴が開く。  ついに倒れる魔の巨体に、群衆の歓呼の声が上がった。  秩序を失った人々を、サマルトリア軍が確実に助け、集めて秩序を作る。病み傷ついたものを癒し、トイレを整備し、まず砂糖を入れた暖かい湯、そして柔らかい粥を配る。  人を集めて仕事を割り振り、監督する。  運河を通じて小舟で物資を運ぶ。その、小舟の出発港と、近くの海岸に停泊する強襲揚陸艇を、大型輸送ヘリがピストン輸送で物資を運んでいる。  中には暴れない魔物もおり、それは放置すると人々に襲われるので、隔離し後送する。  それらはベラヌール戦役から、徹底して経験を積んでいる。 「だが、われわれはどうなるんだ」 「われわれは、こいつらに征服されるのか」  そんな不安が貴族たちの間に出るころ、アロンドが駆けつける。イリン王太子とムーンブルクの貴族たちを連れて、まるでディズニーランドのパレードのように豪華な演出、大音量の音楽で。  その演出はリレムとジジ、ガライの苦心の作だ。 「ムーンブルクの人たちよ、安心せよ。ムーンブルク王国の正統なる王、イリン四世王はここにある!東のレアヤどの、ムーンペタのヤフマどの、そしてマリア王女ら、ムーンブルクの尊い人々の支援もある」  アロンドの大声が拡声器で響き、その美貌と綿密に計算されたカリスマが群衆を引きつけ統制する。 「イリン四世王をわしは支える!アロンドどのを説得して、捕虜をことごとく解放させた。彼らが再建の力となろう」 「ムーンペタも健在です、ムーンブルク王国の再建を支えます!」 「これからはアロンドさまたちロト一族やアレフガルドは、よき友として、再建を助けてくださるそうです」  レアヤ、ヤフマ、マリア王女が豪華に着飾り、高いところから大声を上げる。 「王妃の親族も砂漠より多数お連れしている。そして新しい王宮を助けてくださるそうだ」 「そしてごちそうもたくさん持ってきた、再建のための資金と資材も」  そして、アロンドについていた瓜生が、当主が処刑され離散した大部屋のある邸宅に入ると、大量の物資を出す。ロト一族の、それに慣れている仲間が手伝い、宴を準備する。  大量の焼いた肉、砂糖と油脂たっぷりの菓子、蒸留酒の三点セットと夕日を背景にした照明の乱舞・大音量の音楽は誰でもひきつけ、熱狂を起こす。  それを制御して人々を精神的にまとめ、国という集団幻想を作り上げるのは、アロンドたちにとっては慣れたものだ。  まだ幼いイリン四世王だが、アロンドたちが戦役の序盤で有能なムーンブルク貴族を多数助け、すべきことを教えてある。  まずごちそうと音楽。次に恩赦。その次に再建の仕事。 「生き残った王弟たちは、郊外に広い領土と、実権のない名誉職を与えて引退させましょう。金持ちにして権力を奪えばよろしい。処罰はしないほうがいい、恨みが残りますから。  報復よりも、政治が円滑に回ることを優先しましょう」  と、アロンドがレアヤたちを事前に説得していた。敵陣すら観察して有能な者を選び出し、捕虜にして、捕虜たちの管理を任せて経験を積ませることさえやっていた。  まずムーンブルクの新しい政権を機能させ、それから講和に向けた段取りを始める。  明らかにムーンブルクによる侵略戦争だったが、そこはあいまいにして、賠償や領土などの問題とはしない。 「賠償金とったり領土奪ったりして、ナチスが勃興したらどうする」とアロンドの鶴の一声。  ただ、ローラの門の、将来に至る管理権・鉄道敷設権という、相手には意味の分からない一文を入れただけ。  むしろムーンペタとムーンブルクの関係の調節に苦心する。  並行して、あちらこちらの戦線を処理する。  ハーゴンが石化され動けなくと同時に、なかば魔物と化していた指揮官たちが統制を失って、軍そのものが機能しなくなっていた。  また、キラーマシーンの類も機能を停止した。  ローラの門を通っていたムーンブルク軍は戦車隊とAC-130ガンシップの急襲に四分五裂、無害な魔物は逃げ散り、理性を残す人は降伏し、ムーンブルクに帰った。  デルコンダル軍もあっというまに壊滅する。旅の扉がある、ローレシア大陸南東端の半島を攻め上ろうとしてはやられていた軍勢だが、指揮官が統制を失ったところでF-18とB-1ランサーの空爆でパニックになり、ダメ押しの戦車数台の突撃で崩壊した。こちらは降伏する者が妙に少ないが、戦い続けようとする者はおびえる味方に殺された。  そのころ、デルコンダル王は、戦利品という美女を引見していた。  縛り上げられた年増の女が王の前に立ち、絶望した様子でひざまずく。  ぷん、と香りが漂う。  それに、王の重臣の一人が奇妙な反応をする。 「リレム」王の一言に、満場が驚いた。  宮廷のあちこちで見かけた、生意気で気がきく少女の面影もない……だが王が服の裾で乱暴にその顔をぬぐい、かつらを取り払って短剣で縄目を切ると、まるでモシャスでも解けたように見慣れた顔になる。 「陛下、ハーゴンは片付きました。アロンドより和平案をお持ちしました。そして、今ローレシアに侵入しているデルコンダル軍も壊滅しました」  そう言って隠していた紙を差し出す。 「ふむ。読んでみよ」  王は驚きもしない。 「はい。  賠償ならびに戦争責任追及は一切なし。  ローレシア側の旅の扉がある半島は、主権はローレシアだがデルコンダル人も自由に出入りできる。  周辺の漁業権はデルコンダル、ただし最大漁獲量および環境規制はローレシア準拠。  半島とデルコンダル大陸を結ぶ諸島はデルコンダル領とし、それ以上互いに侵略しない。  デルコンダルの鎖国を尊重し、外交関係はなし、貿易も原則禁止。ローレシア王とデルコンダル王、直接のホットラインのみ代々維持する」 「よろしい」  と、王があっさりとうなずいたことに、臣下たちは驚いた。 「陛下、あれほどローレシアを滅ぼせと激しくおっしゃっていたのに」 「アロンドを斬れとおっしゃったのは陛下ですのに」 「うううう」と妙なうめきも上がる。 「あれほどお止めしても戦い続けていたのに」 「もう、種明かししてもよかろう。アロンドと争ったのは演技だ。  アロンドの両親、ミカエルとラファエラが一度は邪神教団を一掃してくれたが、まだ血に邪神の跡を残す者はいてな」 「それらは、邪神教団大神官ハーゴンのみが知る調合の香で動きます。  わたしはずっと、別の支配を受けた上でハーゴンの命令を受け、こちらの邪神の徒を動かしては、送っていただいていました。  そしてハーゴンを封じたので、もう滅ぼしました」  その口調と、一切の感情を出さない笑顔に、何人かの老人が驚く。 「ま、魔女」 「その口調、おそるべき深謀と欺瞞」 「魔女の、弟子だったのか」 「お、おのれ!王もリレムも死ねえっ」  と叫んだ、先ほどリレムの放った香りに妙な反応をした重臣がおめき、果物に隠した短剣を抜く。その近くにいた十人ほどの男女も武器を手に取る。  リレムが王をかばって立つ、屈強の男はにやりと笑って襲う。  少女がスカートにすっと手を入れ、H&K-MP7を抜き、二連射。男が崩れ落ちるように倒れる。その後頭部が大きく潰れている。  素早くリレムは銃床を伸ばして肩付けし、撃ち続ける。胸、頭と狙う冷徹な連射に次々と、鎧を着た兵も含めて倒れていく。  MP7はP90同様、小型の小口径高速弾を放つPDW。拳銃のように小型だが反動が小さく、少女でも制御しやすい。鎧ぐらい貫通し、ストッピングパワーも高く、しかも弾数が多い。レーザー照準器があるので、狙いに迷うこともない。  弾倉を交換し、倒れた全員の頭に二発ずつ撃ちこんで銃をしまったリレムが、書類を王に差し出す。 「こいつらが、最後です」  王は笑顔で自らの腕を切り、血を印鑑につけて書類に押した。 「わがデルコンダルはこれからも鎖国を続けるが、そなたやアロンドはこれからもひそかに遊びに来い。宮廷にそなたは必要だし、アロンドはよき友だ」 「必ず」  と、微笑むリレムに、臣下たちは怯えながら見ていた。 「魔女の後継者」という、恐怖に満ちた声もささやかれる。  それら、甘すぎる講和条件には批判も多かった。  だが、アロンドが前面に出て、 「別に弱いと思われてもかまわない。実際には強いのだから」  と笑って説明した。 「弱いのに強いふりをしていれば、弱みを見せないようにしなくてはならない。だが、われわれは現実に、圧倒的に強いんだ」  それは、もう一つのことも暗示している。  アロンドが独裁的な政策を一切やらない、潔く立憲君主の立場に引いている理由。  アロンドは一人で、他国はおろか〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉全員と戦っても楽勝できる。  極端な差がない人間の君主の権力は、基本的には幻影に過ぎない。どんな独裁者であっても、それこそ親衛隊長の拳銃の前には無力だ。  だが、アロンドの場合はその心配が一切ない。だから、どれほど国民に譲歩しても、「王様は裸だと見破られて破滅する」心配はない。  それを悟った人々は、あらためて恐れた。そして、それはどうしようもないことも嫌というほどわかっている。  戦争の終わりに伴い、リリザに避難していたムーンペタ・ムーンブルクの人々の帰還事業も始まる。  巨大な客船や空母の輸送力があるので、帰りも早い。  ただしリリザの避難民には、肥沃な農地に愛着を持ち、帰らないことを選ぶ者も多かった。その人たちはロトの掟……環境規制・清潔・義務教育・法の支配などを受け入れることを条件に、ローレシア・サマルトリアのどちらにも属さず高い自治権を認められる。  ハーゴンを封じた瓜生たちはアロンドの待つローレシア宮廷に帰り、ムーンブルクでひと仕事をこなした。  それからアロンドと瓜生はすぐにローレシアに帰った。ムーンブルクはゴッサたちサマルトリア組に、戦争全体は部下たちに任せて。 「さて、霧を片付けよう。ハーゴンがいる間は、うかつなことはできなかったんだ」  アロンドの言葉に、ジジが軽く肩をすくめる。 「ハーゴンは、ずっとアロンドが本気で霧を倒しに行くように言ってた。アロンドと霧が争って両方弱ったところを両方生贄にしたい、ってね」 「この世界が霧に呑まれたら、シドーを復活させても破壊すべきものもないだろう。それに、できれば霧の力をシドーにも食わせたい。と思っていた。それで霧の魔王とアロンドが潰しあい、ハーゴンが漁夫の利で両者とも生贄にしようと狙っていたんだ」  瓜生が付け加える。 「そのハーゴンを封じたから、もう問題なく霧を倒しに行ける。湖の洞窟は私とアダン、勇者の洞窟には……すまないローラ」とローラに痛ましげな目を向ける。  ローラ王妃は一瞬おびえた表情をして悲しげに目を落とすが、何も言わずうなずいた。  アロンドもうなずき返して愛妻を抱きしめ、 「ローレル、ジニ。ウリエル、サデル。四人で行ってくれ」  と命じた。  そして、あっという間に荷物をまとめたアロンドとアダンは、二人でふらりと旅に出た。  といっても、サマルトリアまでルーラでひとっとび。もともとテントしかなかったそこは、数か月の放置で井戸や風車以外は元の野に戻っていた。  そこで軽く食事をとり、馬の姿に変わったアダンにまたがって全速。人間離れした高速で、一日もいらずに大陸を横断する。  霧に覆われた湖をゴムボートで漕ぎ渡った二人に、さっそく猫サイズの虫のような怪物が次々に襲ってくる。主力戦車でも噛み破る手ごわい相手だが、あっさりとアダンが叩き落としている。アロンドは霧で何も見えないので、そこらの棒を杖にして足元を探りながら、ゆっくりと歩いている。  どこにも力の入らない自然体で。  突然脇から襲ってくる怪物を無造作に、舞うような動きで雷神剣で切り倒し、また自然体で歩き出す。  洞窟を抜けると、明らかに異界の気配がする、無限の広さにも思える、深い深い霧の中だった。  アロンドたちは静かに歩き、襲う怪物だけを迎撃している。 「どれだけ強いんだよ、あんたは」  そう、アロンドの傍らを歩き、小さい怪物を食い殺しながらアダンが口にした。 「強さって何だろうな」 「そりゃ、殺し合いで勝てることだろ」 「戦闘力というわけか」  アロンドは、かつて修行で赴いた異界を思い出す。パンという少女は戦闘力を測る機械を持っていた。 「なら、ウリエルの世界の娯楽では、なんでみんな踊るような動きで戦うんだろう。あんなことをしても強いわけがないのに」 「かっこいいからじゃねーか?」 「かっこいい、が目的なのかな。そう、ナチスドイツもそうだった。結構多くの戦争は、かっこいいそのものが目的になってしまっているな。  ああ、でもこの戦争でみんなもわかったと思う。普通の人が強くなるには、軍隊に加わって、伏せて穴掘って銃を撃つとか、戦車や戦闘機を操縦したりするほうがずっと強いんだ。服従と忍耐、学んで覚えられる、それが強さだ」  一度目のガライの墓の試練で、普通の兵士を体験した記憶を思い出す。 「そんなもんなのかな」 「一人で一番多くを殺したのは、ウリエルの世界でなら、エノラ・ゲイの投下ボタンを押したパイロットだろうな。一人で十万人以上を殺した」 「すげえな」  アダンは軽く口笛を吹くだけだ。 「命令に従い、女子供が暮らし、そして兵器を作り修理していた街を破壊した。私も、命令の力は知っている……ガライの墓で、経験した。権力は強さかな?思い通りにできることは」 「あんまり考えたことねーな」 「でも、大灯台の島ではおまえも、みんなに慕われていたぞ」 「みんなを引っ張るのはゴッサだよ」 「まあそんなところか」アロンドは深くため息をつく。「それもまた……」 「考えるより、とことん馬を走らせて戦い続ける、それが気持ちいいんだよ」  アダンの言葉に、アロンドも共感をこめてうなずいた。 「強い、という気持ちになりたいんだろうな。なんでも思い通りになる、一人じゃない……」 「ケンカがだめだ、ってのがいやだった。ケンカなら俺ぁ誰より強ぇんだ、って思ってた。まあ、ゴッサと本気でやりあったらわかんなかったけど。あいつも底知れねぇ」 「強いよ、お前は。そんな体になる前も、なってからも。でもケンカ禁止の理由は何度も聞かされてるだろ、実戦なら砂を投げても穴を掘っても何をしてもいい……網を投げられたら、どんなに強くてもだめだ。  まして試合なんて、素手で目つぶし金的ありにしようが、真剣でどちらかが死ぬまでだろうが、実戦とは違いすぎる」 「でもなあ、つえー奴と思いっきりやりあいてーんだよ、ちっちゃいころゴッサの腕折っちまって『二歳ほど早いけどこれからはいろんなことやって競え、もうケンカするな』って言われたとき、世界が終わった気がしたよ」 「〈ロトの民〉たちに聞いたよ。ほかにも五歳の時に十三歳に突っかかって、足折られて骨が見えてるのに参った言わせるまで噛みついたとか、七歳の時にゴッサと二人で海の魔物を仕留めたとか」  と、アロンドが笑う。 「とにかくたくさんの強い敵と戦って、戦って戦って、それが好きなんだよ」  そういいながらも、アダンが放っている多数の毒蜂・毒蛇は、次々と巨大な怪物を葬っている。  しばらく、戦いながら沈黙している。 「私は、敵と戦うのも、人を率いるのも、どちらも飽食したよ。いやというほど。  満月の塔から行ったところで出会ったあの父子……どれだけ強いか、見当もつかない。アリ一匹潰すより簡単に惑星を潰せる。試合で比べられる強さで、私とあの父子の差はアリと戦車の差より大きい」 「そんなに」  いつしか、霧が薄らいでいる。地面は鉄板のようだ。  その大地に突然、気配が発生する 「キラーマジンガか」 「いや、その千倍はつぇえぞ」  と言ったアダンが、すっと剣と馬の姿になり、アロンドが馬に乗って剣を左手に握る。  そして音速の何倍もの速度での急襲、左右の腕からの強烈な攻撃を、一気に加速して飛びこみ破壊の剣が中心をえぐる。  連鎖的な破壊がその体を崩壊させようとするが、その部分を切り離してなおも襲うのを、ぱっと飛び離れてまた超高速で前進、雷神剣で両断して細切れに切り刻む。  そしてまた次、全長が2kmはある怪物だが、今までとは違い動きがすさまじく素早い。アロンドがふるう破壊の剣も、破壊しきる前に破壊された部分を切り離して再生する。 「離れろ」アロンドが一言いって左手の剣を手放し、馬から飛び上がって巨体を駆けあがった。  アダンが離れつつ、蛇を変形させた投げ槍で別の怪物を倒している間に、アロンドのいるところに何千何万という稲妻が降り注ぐ音がし、霧全体がすさまじく明るくなる。  そして、空間がゆがむようなすさまじい力が、一転に集中し……怪物が静かに崩れる。  合流した二人の前に、突然霧が渦を巻く。猛烈な風が吹き荒れ、アロンドたちはアストロンの変形で体を安定させる。  霧が渦の中心にどんどん吸いこまれ、薄れ、手が見えるようになる。  一つの、石の塊にすっと、霧が吸いこまれていく。立ち上がる。  目の前に立つそれは、人間のシルエットに似ていた。シルエット、というだけではっきりした輪郭はない。怪しい影のようにも見える。  一言で言えば、「邪」。  そのおぞましさは、常人なら一時間も見つめていたら心が壊れるだろう。はっきりと定まった形も、調和もパターンもない。  それが咆哮し、襲ってくる。  アダンが即座に自分全部を破壊の剣に変え、すっとアロンドの左手に握られる。右手には雷神剣が一体化しており、自然に二刀となる。無視するように、ただ立っている。  その人姿が、惑うように動きを止めた。  そして、アロンドを真似るように両手を刀剣のように変形させ、豹が樹上から襲うように跳んで襲う。  アロンドはただ、わずかに横に動いただけで、すさまじい攻撃をかわす。 (強ぇ)アダンが、剣になりきる。 「霧ならば切れなかったが」アロンドが言った。 「急ぎましょう。こんなことをしている暇はありません」  ジニはさっさと片付けたがっている。  飛行艇で北のお告げ所がある半島に行き、そこから上陸して、屋根がないアウトドア用バギーで勇者の洞窟に向かう。  瓜生がトベルーラで浮上しては、あちこちの山に置かれた三角点の位置を確かめ、ジニの計算で素早く位置と方向を確認する。 「ウリエル先生はいついなくなるかわからない、でもわたしたちは、戦争でディーゼルエンジンの力を知ってしまっています。  戦争が終わったら戦車のエンジンを、製紙のために木や竹を砕いたり、砂糖を絞ったり、製粉や製材などあらゆる動力に使おうと、あちこちが目の色を変えて払い下げを求めています」 「みんながそれに頼るようになって、おれがいなくなったらひどいことになるな」  瓜生が苦笑する。 「わたしたち自身の力で、エンジンを作れなければならない。  そのためには強靭な、つまり不純物の少ない鋼鉄を大量に作り、精密に加工しなければなりません。ガソリンエンジンなら電気技術も必要です。  さらに石油の採掘と精製技術も、燃料と潤滑油の両方に必要です。  ディーゼルエンジンに必要な鋼が無理なうちはコークス蒸気タービンを使うにしても、それにも耐熱合金の加工技術をもっともっと底上げしなくては。  そのための技術者も多く育てなければならない、ひとときも惜しいのに」  普段は無口なジニだが、こういう話は別だ。 「すまないな」  瓜生がふっと漏らす。 「リーマン予想やP=NP予想に一生を送ってもよかったのに」 「いえ、ウリエル先生の故郷の天才たち……ガウスやオイラー、ラマヌジャンやワイルズに比べれば、わたしなど。私はこれから生まれる天才たちが、邪魔されずに育つことができるようにしたいんです。  そして技術も、数学と同じぐらい好きなんです」 「いろんなにおい」  ローレルは、お菓子をもらってご機嫌だ。瓜生が次々と出しては、操縦席の横に用意した鉢に積み上げる。 「サデルも食べておけよ。腹が減っては戦はできないぞ」 「では、内臓をやられても死なないよう少しだけ」  と、おずおずと手を伸ばすサデルに、 「ならチョコレートがカロリー高い」  とジニが言う。 「なぜ、私なのでしょう」  と、サデルがつぶやいた。 「悪かったな、実質総指揮官として各地の戦争でも忙しかったのに」 「いえ、それは人に任せることを、陛下から学びましたから。それより、なぜ……むしろジジさまのほうが」 「きみも魔法では、ジジに劣らないぞ?勇者専用呪文はもちろん、魔法使い系全呪文、僧侶系も最上級含めて半分は使える。賢者を名乗ってもいい水準だ」  瓜生がほめるのに、サデルは首を振る。 「ですが」 「ジジなら、必要だと思えばいつでも出てくるよ。それに、ジジにだって仕事があるんだ……おっと、余計な悪口言ったらあとが怖い」  ため息をつくサデルに、 「がんばってるさ。それに、見せておきたかったんだろうな」  軽く瓜生が笑って、鉢に最高級のチョコレートを多数追加する。  そうやって半日ほど走り、バギーも通れない道を二時間ほど歩くと、洞窟が見えた。  車を降りた瓜生とジジは、ローレルにロトの鎧を着せ、ロトの盾と、補強した大型リュックいっぱいの五寸釘を渡した。  まだ子供のローレルだが、神の鎧はその体にぴったりと合う。  洞窟を抜ける、それ自体に困難はない。瓜生は一応銃を手に警戒しているが、スライム程度しか出ないのでサデルに任せている。  深い地底湖のところに着くと、ここで修行している予言者や世捨て人たちが待っていた。  中には高い力の持ち主もいて、四人を祝福してくれる。その地底湖の聖水には、体力と魔力を回復させる力がある。 「時が来ましたか」  そうつぶやいた、恐ろしく老いた予言者が、地底湖を指さす。 「どうか、お行きなさい」  その言葉に、ローレルが何も疑わずに水面に足を踏み出す。  固い地面を歩くように、そのまま歩くのに瓜生とサデルも歩き出した。  ジニは軽くうなずいて、ついていく。  そして地底湖の奥、いつしか全く別の気配が漂いだす。 「別の世界に入ったようだな」  そう、瓜生がつぶやいて、警戒する。  気がつくと、そこは巨大な生物の内臓のような、塔だった。 「三人とも、こっちに乗れ」と、瓜生がプーマ歩兵戦闘車を出す。  ジニが慣れたように乗り込む。サデルがローレルを抱いて、ハッチから入った。 「一人で操作できるように改装してある。ジニ、操縦を頼む」 「はい」  彼女は瓜生に、さまざまな戦車や飛行機、土木工事用機械などの扱いも習っている。今は瓜生以上に使える機械の幅は広く、多くの人に教える立場でもある。 「サデル、魔力は、敵の位置を正確に知ることに使え。ジニ、機関砲と、場合によってはローレルの魔力を利用して応戦」 「はい」 「サデル、絶対にローレルを放すな」 「はい、命にかえても」 「おまえが死んだらローレルも危ない」  それだけ言って、瓜生自身も同じプーマ歩兵戦闘車に乗る。どちらも改造済みで、一人で操縦・発砲できる。  突然、瓜生が発砲。  触手のようなものが伸びてくる、それが強大な30㎜弾を浴びて、直後激しくのたうちだした。  瓜生が魔力を感じ、 「やべ!」  叫んでナイフを手にしてハッチを開け、消えた。出現した瞬間、手には魔力を持つブルパップショットガンを握り、発砲。短距離メドローアがふっと、目の前に円筒形の虚無を作り出す。 「危なかった、ジニのブラックホール呪文か」  ブラックホールがガンマ線をばらまく前に、周囲ごとメドローアで消し去った。  直後、30㎜機関砲が何発か別方向に発砲され、サイに似た怪物を粉砕した。  次々と出現する怪物たちを、30㎜弾が容赦なく撃破していく。多少の攻撃は装甲で守れる。  とんでもない数の、巨大で固い怪物たち。だが30㎜弾は多くの怪物に有効、それすら通用しない規模ならローレルの魔力を借りてジニがマイクロブラックホールやカイザーフェニックスをぶっ放す。  ジニ・ローレルと、サデルが組めばメドローアもあり、次々と巨大な虚無の円筒が巨大な怪物に風穴を開ける。  いつしか壁が正面に出現し、前後左右を囲まれて、その壁がどんどん迫ってくる。30㎜弾を二両がかりでぶちこむが、削れる程度だ。 「降りるぞ」と瓜生が叫び、サデルを呼び寄せ手を合わせると、メドローアをぶっ放した。  それで、何キロメートルもの大穴が開くが、まだ道の先は見えない。それでも短距離ルーラで一気に前進したが、別の壁が立ちはだかる。 「魔力吸収型の壁か」と、瓜生はローレルを見て指さした。  まだ小さい子がロトの鎧を着たまま、五寸釘を鞄から一本出して、壁に向かう。 「閃光注意」瓜生の声に、三人が目をふさいで顔を背ける。  すさまじい閃光が走り、魔力を吸収する胃壁のような壁が、飽和しゆっくりと霧に帰っていく。  気がついたときには、すさまじく濃い霧に包まれ、四人とも仲間から切り離された。  それぞれの前に、それが出た。  瓜生は、男を見て一目でわかった。 (おれが、なりたかった存在だ) (もう一人のおれ。彼なら、どの世界も簡単に救える。おれの故郷も。おれみたいに馬鹿でもないしヘマでもない。石を投げられるようなことにはならない。  おれは、こんな能力を持っていながら、自分の故郷を救うこともできない。故郷でも、目の前でたくさんの人を死なせている。異界を旅した仲間が何人かいるのに) (剣の達人。全日本個人戦で優勝するような) (女にもモテる) (ジニ。おれみたいに苦労せずに、あらゆる科学や数学を理解できる。東大模試すら、教科書をきちんとマスターして一度参考書で勉強したら、簡単に全問正解した。機械操作だっておれよりずっと覚えが早く、正確だ) (ミカエラ。正真正銘の勇者。剣と魔法の天才、おれは、どちらも遠く及ばない。しかも美しく、たくさんの人を思い通りにできるカリスマの持ち主) (もう一人の、別のおれ。欲望のままに破壊と殺戮にふけり、ハーレムを作る。際限のない欲望と、それ以上に無限の憎悪。あらゆる世界を破壊する、破壊神)  昔からの、激しい自己嫌悪。黒い霧。 (英雄願望、劇症の中二病。ついうっかり、本当に妖精を助けて、別の世界で勇者になるといわれて、能力をもらって) (そこで、何も知らず、妄想だけで)  胸を切り裂いて手を突っ込み、心臓を握る感触がよみがえる。  自分が引き起こしてしまった虐殺。それからの冒険でもたくさん失敗をした。たくさんの人を殺した。  絶叫が口から洩れそうになる、そのとき、瓜生の心にふっと光が浮かんだ。  光が、瓜生の心を満たしていく。静かに。  すっと、黒い霧の渦が消えていく。 (ああ)  ただ、瓜生は祈っていた。 (おれが殺してしまった一人一人)  たくさんの名前、そして名前を知る暇もなかった顔。死んだのだろう、という程度。  ただ、祈る。 (ルビス、ありがとう)  ミカエラと共にゾーマを倒した、その褒美としてもらった心の光。後悔や自己嫌悪に縛られず、今この時だけに生きることができる、光。  光が霧を払う。  そして静かに歩く。仲間を探すため、助けるために。  ジニは、ただ固まっていた。  自分を次々に蹂躙した、多くの邪悪。そして女が、子供が学ぶことを、工夫そのものを許さない、多くの人たち。 (一人では魔法が使えない) (あるのは、銃だけ)  背の、肌身離さないAK-74を構える。 (人は、工夫と知恵、改良でこれを作り出すことができる)  それだけが、打ちひしがれた心の中に自信となる。  そして思い出す。ハーゴンにさらわれた自分を、助けに来てくれたケエラとダンカ。 (ケエラは、わたしを憎んでいた) (ダンカの目。いつか殺して肉を食べ皮をはぐ家畜を見るのと同じ、注意深く不調を探っている、冷たい目)  その二人が、自分を守り命がけで戦っていた。  それから。治療され、リールとロムルの夫婦に、固く抱きしめられたことを思い出す。 『ごめんなさい、守ると約束したのに』 『ハーゴンは、ウリエルさまとジジ先生が封じてくれたって。今度こそ、もう大丈夫だ』  二人の熱い愛情が伝わってくる。  そして戻ってきた瓜生とジジ、それにアロンドも。工場の仲間や学校のクラスメート、教師たち……  満たされている、そんな感じがする。 (こいつらは死んでいる。そしてもし生き返って襲ってきたのだとしても)  支えられている、実感できる。一人でも、恐怖は感じない。 (戦える)  構えた銃を、そっと手が押さえた。  晴れた霧の中、瓜生の微笑がわずかに見える。  すっと霧が晴れ、亡霊たちが消えていく。 「大丈夫か?」 「はい」  言葉は必要なかった。愛されること、愛すること、信じること。そして加わり戦う勇気を、もう知っているから。  サデルにとって、目の前の……変わらぬ美しさで、首筋がしびれるほど邪悪な微笑を浮かべたアロンドこそ、最も恐れていた、そしてなりたかった存在だった。  小さいころから聞いていた、双子で駆け落ちしたミカエルとラファエラの伝説。二人のすさまじい強さ、デルコンダルを救ったいさおし。  サデル自身は竜王軍に両親を殺され、そして愛した男が竜王に挑んで死に、〈ロトの子孫〉のエリートとして子を育てつつ前線で活躍していた。コテツやムツキ、年下だが天才的なラファエラもいたが、勇者の最有力候補だった。  ある日、〈ロトの子孫〉たちが孤児に紛れて暴れていたアロンドを捕まえ、自分たちに加えた。  そのアロンドの、彼の両親の伝説からイメージした以上の、子供離れしたすさまじい強さ。  十三歳程度なのに、〈ロトの子孫〉の大人の平均以上。それが、ものの半年でトップレベルに達してしまう。  彼が勇者に名乗り出たときには、実際には〈ロトの子孫〉の誰一人かなわない強さになっていた。 〈ロトの子孫〉を滅ぼしかねない、竜王より大きな禍になりかねない恐ろしい存在。そう、長老たちも噂し、若くして長老に近い立場だった自分も同様に怯えていた。  組むようになってから、最初は自分のほうが上だった。姉ぶっていた。だが、あっという間に追いつかれ、追い抜かれた。  そして、ローラ姫がさらわれて、彼が勇者として立った時。そのすさまじい気迫とカリスマに圧倒され、押し流された。  ただ、意地だけで自分も勇者になると叫び、それからの試練に耐えた。  だが、ガライの墓……瓜生の故郷を模したような幻夢で生きた。優秀な成績を収め、政府機関でも出世して有能な対テロ捜査官として、ウォーターボーディングという名の拷問を繰り返した。ロトの掟に縛られた、サデルとしての人生は夢だと思ったまま。  目が覚めて、別の人生ではロトの掟を守り自殺したアロンドにあらためて圧倒された。  憎いほどにうらやましかった。まぶしかった。人間じゃない、そう叫びたいほどに恐れた。  だがそれも、ひたすら続く戦いに紛れ、自分の感情と直面することもなかった。悪夢を見る暇もないほどだった。  そしてアロンドが竜王を倒した時の体が飛んでいきそうな高揚感と、(なぜ、そこで牙を掲げているのがわたしではないんだろう)という強い思い。  それから、アロンドはローラ姫と結婚し、瓜生を連れてきて、〈ロトの民〉と再び連絡し統合、そして国の建設に向けて容赦なく歩き始めた。  誰にも彼を止められなかった。  ロト一族の変化に、長老たちはみな怯えていたし、その恐れはサデルにも伝わっていた。ひたすら隠れる民から、隠れながらも外の世界の人々と仕事をする経験を積む。〈ロトの子孫〉と〈ロトの民〉を多くの事業で、そして学校制度の改革を通じて統合し、ついに禁断大陸を解放して入植……  さらに、瓜生が次々と出してくる近代機械。その一つ一つが、社会を変える力がある。  変化についていくだけで精いっぱいだった。  ジジやゴッサ、ロムルやハーゴンなど、次々と出てくる新しい人材と交渉し、〈ロトの子孫〉の誇りを守るため、ロト一族のためにと必死で働いた。  そしてついに、戦争で勇者の立場を……だが、その戦争自体が、ハーゴンをだまし邪神の徒を引きずり出すための茶番でしかなかった……  何より、竜王を倒し、また瓜生と共に二度目のガライの墓の試練をきわめ、さらに満月の塔で修行したアロンドの、すさまじいカリスマと強さ。それは神そのものに他ならなかった。  見れば見るほど、知れば知るほど、その強さもカリスマも、政治力も人間とは桁が違いすぎる。  そんな、あこがれを通り越し、憎み恐れる存在が、自分に剣を向けている。  昔、アレフガルドで竜王軍の魔物たちと戦っていた時のように冷徹な殺気を噴き出して。  サデルは剣を構えたが、恐怖と、直視してしまった激しい憎悪に、手と足が震え剣尖は振り子のように揺れている。 「身の程知らずが」  普段のアロンドとは全く違う、傲慢な口調で、まるでなぶるように手を、足を切り刻んでいく。そして顔を。胸を。  激しい苦痛と、憎悪と恐怖に絶叫し、技も忘れて体ごと突き刺す……貫いて、顔がくっつきそうにせまる。  その顔は、自分自身の憎悪と傲慢に歪んだ表情だった。アメリカの某対テロ組織で、まさにその表情で出世していた。  絶叫し、心が折れた……その瞬間、サデルはなぜか冷静に剣をおさめ、複雑な呪文を唱え始めた。ザメハとシャナクの応用。  呪文を唱え終わると、目の前の影は、鏡のような石の塊でしかなかった。 「ジジさまの魔法、ね。事前に、心が壊れたら決められた通りの動きをするように、ってかけてくれてた」  今になって魔法を使えば、ジジの魔法ははっきりわかる。 「そんな、そんなに弱かったんだ」  底なしの闇の中、自分だけと向き合う。 「〈ロトの子孫〉という、傲慢な誇りだけ、弱い。アロンドのことも、自分のことも、誰のこともちゃんと見てなかった。偽りの自分だけだった」  激しく泣きじゃくり、身もだえする。  十分に泣いたとき、自分自身が何度も言った言葉を思い出す。  自分以外にも、〈ロトの子孫〉の傲慢な誇りだけしかない、特にロトの掟を破って心がくじけた者は多くいた。彼らを励ましてきた。 「笑えるわよね、同じなのに」  ジジ、それにリレムやラファエラたちと塔を登ったことを思い出す。特訓で心がくじけた子供たちを励まし導いた、つもりだった。  ジニがハーゴンにさらわれた事件のケアにもかかわった。年端もいかない子供たちが自分の弱さを認めて、それでも戦い抜いた。  特にケエラは、当時は意識していなかったが、自分の鏡のようだった。ケエラも勇者ロト直系で、人一倍その血を誇っていた。  彼女は静かに呼吸を鎮め、瞑想した。訓練通りに体を動かす。 「弱い、でも戦える、一人じゃないから。そう、ローレルさまを探さなければ」  ローレルは、あくまで幼稚園児でしかない。ただ、すさまじい力があるだけで。  ただ遊ぶだけで、膨大な破壊力があるだけだ。  突然攻撃してきた何かに、ローレルは激しく恐怖していた。何をそんなに恐れているか、自分でもわかっていない。  泣き叫びながら、いつもやっている練習通り鞄から五寸釘を抜き、突き出す。  巨大な閃光が吹き荒れ、襲ってきた人影が消え失せ……同じ威力が、自分に返ってこようとした。  それをロトの盾とロトの鎧が受け止め、ローレルのすさまじい肉体的な力がダメージを軽減する。  だが痛みはあり、それが激しい感情になって、泣き叫びながら虚空に拳を叩きこむ。五寸釘を抜き魔力を通わせることもせず。  そんなことをしていたら、力が暴走するのは当然のこと。  巨大すぎる力が、さしも頑強な神の鎧と盾すらも通して、幼い肉体を破壊しようとしたとき。  瓜生とサデルの魔力をジニが編んだ、強力な精神支配呪文がその心をとらえ、父母の胸に抱かれているような安心感をもたらし……強すぎる幼子はただ泣きじゃくりながら、サデルの胸で寝入ってしまった。  アロンドの前の、霧が集った人影が、空に浮かぶ三つの月の一つに手を激しく伸ばした。  その肘から先がない。そして、長く黒い霧が天に一瞬で伸びあがる。  アロンドたちが生まれた〈下の世界〉にも、瓜生の故郷と同様に大型の衛星がある。 (この空には三つも衛星があるんだな)と、初めて気がついた。  同時に、なぜかハーゴンの声で、(ウリエルの故郷の、火星程度の大きさ。地球と月より離れている)と、アロンドとアダンの心にささやきかける。  その、天に輝く円盤が黒く覆われると、トマトでも握るように潰された。いくつかの破片が高熱に輝きながら飛び散り、黒い闇がそのあとにたゆたう。  そのまま人影が開いた、黒い虚空が開いた口に黒い霧が吞みこまれる。 「ほう」  アロンドは、静かに笑った。  人影は、今星を砕いた手を、瞬間移動としか言いようがない速度で接近し、叩きつけてくる。  アロンドがいつの間にかかわすと、見える大地の四分の一ほどが黒い霧に包まれ、握りつぶされた。  その、穴とも何とも言いようがない……明らかに地平線の形が大きく変わり、底なしの穴になっている、その光景にアダンはただ驚嘆していた。  アロンドは驚いてもいない。ただ、剣も構えず自然体に、だらりとしている。  ふわり、とぎりぎりでよける。むしろゆっくりした、美しい動きで。  そうしているなか、アロンドとは別に影が、やわやわと形になっていく。  それは、アダンの巨体にも似ていた、だが顔はアロンドのようだった。 「お、おれか」  剣から人間の姿になったアダンが、すさまじい速度で襲う人の姿をした影に応戦しようとしたが、呪いで硬直する。  動けないまま、アダンは見ていた。  それは、アダン自身の影だった。その殺気と生命力が、何万倍にもなって襲ってくる。 (こいつは強ぇ)  そう、はっきり感じる。 (底の知れないアロンドとは、違う) 「アダン、応戦しろ」アロンドの言葉に、アダンの硬直が解ける。  絶叫して、アダンは自身の影と激しく戦い始めた。 「てめえも、破壊の剣か」 「そいつはハーゴンが、破壊の剣とキラーマジンガを融合させて霧の力を加えたようだな」  アロンドが言い添える。 「なら相手にとって不足はねえ!」  と、アダンが絶叫する。  アロンド自身は、むしろゆっくりと影の攻撃をかわし続けている。 (やっと、話せるな。とんでもない邪悪?) (鏡のような存在でもある。こちらから殺気を出して攻撃したら、悪意を学び、もっと激しい悪になっているだろう) (こちらから殺気を出さなければ、戦いにはならない) (戦いに来たんじゃない、目的を間違えるな)  自分の影との戦いを終えて合流したローレルたち四人の前で霧が渦巻くと、 「警戒しろ!」  と、瓜生がサイガブルパップを構える。  次々と出現する四体の怪物。  長い薙刀を持った、木のような表面のケンタウルス。  通常の二倍はあるキラーマジンガ。  20mぐらいありそうな、空を浮遊するクラゲ。  金属のような、15mぐらいのザリガニ。  その四体の周囲に、100mはある巨大な石像が四体地面から伸びあがる、と思ったら四体がその石造を襲う。  ケンタウルスは目にも留まらぬ速度で切り刻み、さらに音速を超えて走り衝撃波を叩きつけた。  巨大なキラーマジンガもすさまじい速度で襲い、剣が巨像の腕をあっさりと切落とし、その傷口に打ち込まれた棍棒、胴体に一瞬クレーターが生じ、そのまま全身が崩壊する。  クラゲの触手が巨像を捕まえると、軽々と持ち上げて地面に叩きつけ、一本一本の触手が石を、砂を揉み潰すように砕いていく。  ザリガニはただ、すさまじい速度で体当たりするだけで、あっさりと石像を粉砕した。 「強さを見せつけているんですね」  サデルが冷ややかに言う。 「あれには戦車は使わないほうがいいな」  瓜生が冷静に言って、近くに大量の火器を積み上げつつ、ピオリム・スクルト・バイキルトなどを唱える。  40㎜ボフォース機関砲。20㎜バルカンの対空砲版。Kord重機関銃。最新軽量のカール・グスタフ無反動砲。ゲパード14.5㎜セミオート狙撃銃。多数の個人用無人機と、つながったノートパソコン。  ジニが素早く、40㎜ボフォースの操縦席に飛び乗る。モーターで動かすので、非力な彼女でも使える。  サデルもロト直系の怪力で巨大ライフルと無反動砲を担ぐ。 「一度だけ言う。そちらから攻撃しなければ、こちらも攻撃しない。話せないか」  サデルの呼びかけに対する答えは、ケンタウルスの突進だった。あっというまに膨れ上がる。  瓜生に迫った、その目の前にそこらの一軒家より巨大な塊が出現する。  20トン以上の、巨大な鋼のトイレットペーパー。まともに激突した瞬間、鋼板ロールごと瓜生とサデルのメドローアで風穴を開ける、  だが冷静な声。 「回避している」  ジニはノートパソコンで無人機の情報を集めながら、40㎜ボフォースをザリガニに向けて発砲している。  強力な徹甲弾、だがそれでも突進を止められない。 「射撃停止」  瓜生が叫ぶと同時に魔剣の短距離ルーラで実質瞬間移動、ザリガニの目の前にまた鋼板ロールを出す。それをあっさりと跳ね飛ばしたパワーには驚いたが、さすがに止まった間に瓜生が背に乗るように短距離ルーラ、魔法のブルパップショットガンから短距離メドローアと極端に加速されたスラッグを5発ずつ交互にぶちこみ、サーメイト焼夷手榴弾を放り込んで離脱。  猛火が上がる間に、サデルは特大キラーマジンガの攻撃をかわしつつ巨銃で対抗している。スピードも速く、狙いをつけている間に鋭く動いてはクロスボウで反撃してくるので、落ち着いて狙えない。  カール・グスタフの対戦車弾はよけられ、フレシェット弾を注ぐがダメージがない。  巨大な剣の一撃目は受け流したが、巨大な敵に剣で斬り結ぶのも無茶だ。 「私には、かなわないかもしれない。なら」  と、素早く呪文を唱える。そこには、ジジの姿があった。  そして巨大な棍棒を叩きつけるキラーマジンガ、だがその棍棒は外れている。  さらに、彼女が幻覚呪文を使いつつ、ちょっとカードを操り銃撃したらクラゲと特大キラーマジンガが、激しい同士討ちを始めた。 「ウリエル」と、軽く呼んだジジのところに瓜生が飛ぶと、素早くメドローアで二匹まとめて消し飛ばす……と思ったら、それが跳ね返されて二人を飲む。  メドローアをはねかえしたケンタウルスが、これで脅威が消えた、とばかりにジニとローレルを襲う。 「ざーんねん、ベギラマでした」 「マンガそのまま真似るのもなあ、でも引っかかるこいつも単純だよな」  サデル/ジジが網状にかけた糸で転ぶケンタウルス、その人間部の胴体を両手剣がばっさりと断ち切った。  そこにサデル/ジジがメラゾーマをフィンガー・フレア・ボムズで三発ぶちこみ、とどめを刺した。火力は累乗で増すので、大岩を蒸発させるほどの熱量と温度になる。  空からクラゲが襲おうとした、そこで瓜生が短距離ルーラで消えて、即座にF-15Eを出して融合、空戦になる。  目覚ましい機動性で触手をかわし、爆発的な加速で逃れて距離を取り、対空ミサイルを連打する。  そのまま、激しい空戦を続けている。  元の姿に戻ったサデルとジニ、そしてローレルに、巨大なキラーマジンガと、傷癒えたかザリガニが襲いかかる。  ジニが精緻に呪文を編み、サデルに発動してもらう。その瞬間、ザリガニの動きがゆっくりになった。アロンドやローレルを運動させるための、バギ系とボミオスを応用した呪文。どんなに力があっても、力が強ければ強いほど負荷が増す。  それにローレルが、五寸釘を手に躍りかかる。  背後から襲おうとする特大キラーマジンガを、ジニが精緻に編んだ、増幅されたピオリム・バイキルトで加速されたサデルの魔法剣が貫いた。  行動を制御するジャイロを正確に。  何体も残骸を研究し、キラーマシーン系統の構造はよく知っている。  それで暴走し、まともに動けず暴れる特大キラーマジンガに、ジニの40㎜ボフォース、サデルが操る20㎜バルカンが注がれ、完全に潰す。  その時には横で、パワーは変わらず振り下ろされるハサミを片手で支えたローレルの五寸釘に、ザリガニが消し飛んでいた。  機関砲の操縦席でノートパソコンをいじるジニが突然、 「ウリエル先生から無線連絡です」  と言って、40㎜ボフォースで瓜生を援護する。  F-15Eが触手に捕まった、だがその瞬間上空に瓜生が出現し、即三人のところに戻って、 「ここに隠れろ」  と鋼板ロールの影に三人の仲間を引きこんだ。  直後、大爆発。鋼板ロールも大きく揺れ、ローレルが怪力任せに支えた。 「デイジーカッターぶちこんだ」  飛び出すと、きのこ雲が立ち上っている。  アロンドは、舞い続けている。  華麗な動きで、激しい攻撃を柔らかくしのいでいる。超高速の動きもあるが、ほとんどはゆっくりと舞っているだけだ。  だが、それは三手先の相手の攻撃を正確に封じ、四手先にはアロンドが望むとおりの蹴りを出させている。  舞いながら静かに語りかけることもやめていない。声が普通に出せるほど、呼吸が乱れていない。 「そいつ、とんでもねえ欲望だ。食いたい、欲しいの塊だ」  とアダンも戦いながら叫ぶ。  アロンドは沈痛に、敵に語りかけた。  両手での急襲を柔らかく背後に回りつつ。集中と動きの巧妙さ、微妙な呼吸と布石で、相手を事実上操り戦い続けている。 「ウリエルが残した本で、小さいころから両親から学んだ。人間を含む生物というのは、おおもとは病原体の細菌みたいな、単細胞生物だと。  それは栄養があれば、二つに増える。熱力学第二法則を、部分的に破り大きくは守って。周囲の、栄養というやや低い秩序をたくさんとりこむ。そして栄養を消費して二酸化炭素やアルコールのようなより低い秩序にして、それを代償に自分を複製する、という高い秩序を作る。  二倍二倍と増えていけば、短時間でとんでもない数になり、どんなにたくさん栄養があってもあっという間に食い尽くす。それほどの貪欲さが、生命の本質なんだ。  だが、人間は協力し、先のことも考えることができる。過ちも犯すが」  すぐに、人姿の影は立て直して襲ってくる。 「話せないか?その無限の欲望を抑えて、もっと丁寧に戦えないか?ほら、もっと先を見て戦わないと、こうして背後を取られるんだぞ」  アロンドはそう語りかけながら、激しさを増す攻撃を受け流していた。  アダンも、すさまじい力で打ちかかる、破壊の剣を持つ魔機械に苦戦していた。  破壊の剣でないほうの腕の一撃で、大地にキロメートル単位のクレーターができるパワー。今のアダンでも、力と力で圧倒されてしまう。  破壊の剣の魔毒も効かない、本質的に同じ存在なのだ。  力と力しかない、それはアダン好みではあるが、その力が遠く及ばないのが、はっきりとわかってしまう。 「アダン」  星をも砕く霧の人影と戦っているアロンドが落ち着いた声をかけ、激しくつかみかかる敵の腕をゆっくりととらえ、軽くひねって足を浮かせて鋭く蹴り上げ担ぎ投げる。  その動きに、アダンはふと子供のころを思い出した。  10歳の時には〈ロトの民〉でも屈指の怪力と巨体を誇る、乱暴すぎる怪童だった。  そんな彼に、ある日アレフガルドから来た〈ロトの子孫〉の老人が声をかけた。  力を自慢するアダンに、その老人は静かに、「では、なんとかわしを倒してみないか」と言った。  馬鹿にしていたが、なぜか知られていた弱みを巧みについた挑発にかっとなり、全力で押しつぶそうとした。  その小さい老人は、アダンの巨大な力を利用するように投げ倒し、関節を決めた。  どんなにもがいても、もがけばもがくほど痛みは激しくなるばかり。  絶叫しつつ自分で関節を外し、無事な側の手で襲いかかったが、一トンを軽くジャークする怪力がまたしても羽のように柔らかな手にそらされ、投げ倒されていた。 「これらの技も、そなたたちも子供のころから毎日やっているはずの、ゾーマ流48式烈光拳の中にあるんじゃぞ」  そういって、その老人……〈ロトの子孫〉最長老アスファエルは、套路の別の用法を一か月ほど特訓してくれた。ゴッサも特訓に入れてくれた。  一日二時間、なのに悪さは体力が余っているからと12時間、製鉄所で何十馬力もの動力をさせられたり、ちょっとしたホラから鎖帷子着用+丸太を引きずってフルマラソンを走ったりするより疲れた。ゴッサは常に変わらず一言の弱音も吐かず、アダンもそれを見て音は上げなかった。 「ウリエルさまの故郷では、合気道とか八卦掌とか言われる武術に似たものがあるそうじゃ」  徹底的に基本の、別の用法を叩きこんで去った老人……〈ロトの子孫〉最長老アスファエルと、再会することはなかった。その半年後にアレフガルドは竜王によって閉ざされ行き来はできなくなった。そしてアロンドが竜王を倒した時、アスファエルも犠牲になったと聞いた。 (そういうことか、くそじいい)  思い出したアダンが、手の破壊の剣をすっと、いつもと違ってゆっくりと振る。呼吸を整える。機械魔のすさまじい速度を受け止め、そのまま相手の剣が手元に滑ってくるのを、ゆっくり優しく手を添える。 (馬をなでるように優しく)  すっとすこしだけ引き、関節をひねりながら体を円にそって回す。  巨大な魔機械が、あっけなく転ぶ。 「そうだ!」  アロンドの声。  痛みを知らない魔機械が起き上がる。 「柔の動きを剛にも使え、剛柔は一体だ」 「くそじじいにも言われたな」  吐いたアダンは自分も打撃を受けつつ懐に飛びこみ、密着し相手が押す力を利用して相手の体勢を崩して、その動きをそのまま隙のない、集中した攻撃にする。  それまでのように豪快な斬撃ではない小さい動き、なのに威力は集約され、敵が完全に崩壊していった。  ローレルたち四人が門のような何かをくぐると、そこは虚無だった。踏みしめる大地もない。薄い霧で何も見えない。 「あ、あ」  無重量。ローレルを抱いたまま、パニックになりかけるサデル。目を閉じてしまうジニ。  その二人を、奇妙な力が引き、何かの上に《落ちる》。 「あ、床が」サデルがほっとして息をつく。 「ここは、ヘリポートですね」ジニが見まわす。「でもこの程度の質量で、大した引力は……ああ、重力呪文ですね」 「正解」  声が、どこかからする。 「もう、船に融合されているんですね」サデルが素早く魔力を読む。「それにしても、妙な船ですね」 「イージス艦」  サデルが抱いていたローレルがもがき出、ジニの手を握った。 「それどころじゃない。とんでもなくでかいのが多数いるぞ」と、瓜生がイージス艦のレーダーで周囲を分析する。 「この空間自体は半球形で、半径が最低一万キロメートルはありる。……どうやって方向指示するかな、今この艦もゆっくり三軸回転しているが……まあ、今だいたい左舷方向の半球面から怪物がこちらに接近している」 「ローレル王子は、それとは逆の方向に行きたがっているようです」  ジニの冷静な言葉。 「そっちには球形の建造物のようなものがあるな」と、スピーカーから声がする。 「あ、あっち」サデルがローレルの示す方向を見て、膝が踊り崩れ落ちる。 「どうしたのですか?」魔法の発動ができないので魔法探知もできないジニが、首をひねる。 「じゃ、おれがこいつらは迎撃するよ。行って来い。というか行ってもらわないと、そろそろおれの理性が限界だ。竜になって暴れる」  瓜生の声が響く。 「はい」  ジニは何の迷いもなく、ローレルの手を取る。 「すべての戦いを、勇者のためにせよ」  サデルは苦しげにそう言い、敬礼してローレルにつかまった。 『ダイの大冒険』は『グイン・サーガ』などと並び瓜生が百何十年前に持ち込んだ本だ。〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の間で広く読まれているし、ガライ一族があちこちで歌う人気演目でもある。  その「すべての戦いを、勇者のためにせよ」という言葉は、ロト一族共通のモットーだ。そしてサデルは、竜王との戦いで、身をもってそれを実践しアロンドを無傷で竜王のもとに送った。 「持って行けよ」  と、三人が立つヘリポートにSH-60Bヘリコプターが出現する。ヘルファイアミサイルとM2重機関銃の機載版、大量の重歩兵火器と弾薬が積んである。操縦ができるジニが乗ってサデルとローレルも乗り、そのまま浮上した。  竜として艦と融合した状態で、レーダーでヘリを見送った瓜生は、 「さてと……間違いなく敵だな、あの気配の邪悪さは」  あとは、竜の戦う心。そして、トカゲが体の細胞すべてを制御して動くように、すべての部品を戦いのために使いこなす。  瓜生以外にもロト一族には機械との融合が使える者もいるが、その場合には弾や燃料が尽きたらほぼ役立たずだ。だが、瓜生の場合には燃料や弾薬も出し続けることができる。 「とりあえず、あいつらを追う連中は叩く」  アーレイ・バーク級イージス艦の、VLSが次々に発射される。96発のミサイルが同時に吹き出し、霧よりも濃い煙と炎が立ち上る。  高性能のレーダーシステムが多数の標的を霧も無視して探知し、対空ミサイルが高速かつ正確に狙う。そしてまだ残っている巨大な標的は、核弾頭のトマホークが正確に狙い撃つ。  さらにヘリポートから無重力も活用して多数の無人機を発進させ、帰還を度外視して情報を共有、精密に遠距離の敵を爆撃させる。  ハッチを閉め、また全弾発射。瓜生の物資を出す能力で、VLSの再装填という本来なら港でしかできないことが、一瞬でできる。  ミサイル網をすり抜けて接近する小さい怪物は、ファランクスCIWSの正確にレーダーと連動しモーターで自動制御される20㎜バルカン、長砲身で連射速度の高い5インチ単装砲が射抜く。  超音速で飛行する怪物も多いが、もともとイージス艦は超音速の戦闘機やミサイルをレーダーでとらえ、撃墜するのが仕事だ。  すさまじい噴射炎・砲口炎・爆発の乱舞が、万単位の、人間の認識を超える巨大さの怪物を徹底的に粉砕し、蹂躙し続ける。  限界に達したので呪文を解いた瓜生は、想定以上の連続攻撃に焼けているイージス艦のヘリポートに立った。ただし、イージス艦にもレーダーで周囲を調べ、敵の位置を放送すること、ファランクスで自衛することは命じてある。 「これじゃらちが明かないな、数も十万単位、でかいのはキロメートル単位じゃないか」  そうぼやいて、即座にルーラで距離・方向だけ指定して百キロメートルほど移動。そこにまた巨大なオハイオ級戦略原潜を出現させ、また竜と化して融合する。  すぐさま、24基の巨大大陸間弾道ミサイルが分厚い水を破るほどの高速で射出され、火を噴き三段のロケットで一気に加速される。宇宙に飛び出すほどの超高速で、何千キロメートル単位で散らばる。  広く拡散したミサイルは先端部の、14発の弾頭を放出する。実戦ではあり得ない、全弾頭が最大威力の水爆。まあこれの実戦は、あってはとても困る。  怪物の、位置と速度のデータはイージス艦から得られる。狙いは正確だ。  すさまじい爆発は、何千キロメートルもの濃霧にはばまれて見えない。ひたすら、巨大な潜水艦がハッチを閉ざし、すぐまた開いて24基のミサイルを撃ちだすのを、繰り返すだけだ。  瓜生は、いつも自分はアロンドに比べて弱いと言っている。だが、惑星の陸地表面を焼き尽くすことぐらいはできる。  霧の向こうでは、小さくて超高層ビル、大きければマンハッタン島の大きさの怪物が多数、水爆になすすべもなく蒸発し粉砕されている。  何百回繰り返しただろう。一体の怪物が核の弾幕をも抜けて殺到し、170mを超える巨体をクマがサケでも食うようにへし砕いた。  瓜生はいち早く離脱していた。原潜を破壊し食いちぎった怪物は、食べてしまった原子炉が暴走して巻き起こした高熱と放射能で自滅した。  すぐに瓜生はイージス艦に戻り、 「でかいのは減らせてるだろ。なら、小さいのを潰す」  と、また融合してミサイルと火砲を乱打した。  瓜生も、ドラゴラムの応用呪文を三連発、しかもどれも限界時間以上。負担は小さくない。 「残念だな」  アロンドが、静かに言った。 「なにがだ?」 「いや、こいつにもし人の心があるなら、育ててやって……人として、神としてでも生かし、私のライバルになってくれるかと思ったんだが」  剣の姿に戻り、アロンドに握られたままアダンはあきれ返った。 「無理だな。人の心なんてこいつには、ねえよ。人の心とは、とことん違うんだ」 「ああ、違う。こいつは霧なんだ。ハーゴンに邪悪を入れられ、人間の姿と戦い方に押し込められてはいるがな」  アロンドは残念そうに言う。彼は強すぎ、それゆえに深い孤独を感じていた。  だが、激しい戦いで相手をはっきり理解した。自分が望む存在ではなく、ただ異質だと理解し……完全に戦法を変えた。  アダンは怯えていた。 (殺すための、正確すぎる……ジニが定盤削りだしてるみてえだ)  感情が暴走している状態にも見えるし、逆に何の感情もないようにも見える。  幼児が戯れているようにも見えるし、正確に職人が仕事をしているようにも見える。美しい踊りにも見える。  動きを封じ、相手が動き出す数秒前から行動して動き出す瞬間をぴたりと打つ。  星をも砕く攻撃を紙一重でかわし、あるいは受け流して、ぽんと一撃入れ、そのまま密着を保って打ち続ける。  その攻撃は、はたから見ればごくごくかるい。  だが確実に、急所に届いている。  何度切っても弱りもしない霧影、でもアロンドには何の焦りもない。  淡々と、まったく無駄のない美しい動きで、やわらかく斬りつけ続けている。  一発一発、常にカイザーフェニックスを放つように爆発増幅させたピオリム・スカラ・バイキルトで力を増して。稲妻の、何億倍ものエネルギーを瞬時に集中して。 「アダン、力をもっと集約してくれ。斧を研いで針にするように、螺旋を描いて一点に集めろ」  アロンドが何の感情もない、静かすぎる声で言う。  その声に、アダンは完全にふるえあがった。 (こいつは、化け物だ。神々から見ても、とんでもねえ)  そしてアダンが必死で集約する威力を、アロンドはさらに一点に集中して、ごくさりげない最小限の動きだけで敵の攻撃にカウンターを決め続ける。 (敵も、決して弱くない。いや、強すぎるだろう。一つの世界全部の力が、この人の姿に凝縮されているんだ。星すら簡単に壊せる)  アダンが見る通り、霧影が暴れる拳の先、蹴りの先には、今戦いの場になっている惑星が雪だるまのように砕かれ、切り裂かれ、えぐられている。  だがアロンドは、そのすさまじい力を柔らかい螺旋の動きで受け流し、相手の力を利用して、小さい動きだがじわりと重いカウンターを流し続けている。  相手の激しい拳を、ふわりと左手が受け流しつつ切り落とし、アロンドの体が勢いを止めずに回るとバックハンドの一閃が走り、遅滞なく次の動きにつながる。  爆発など起きない。稲光が漏れたりはしない。力の無駄はしない。すっと、針のように細い力が埋まるように刺さるだけ。そして密着したままわずかに動き、相手の動きをコントロールして、自分が出してほしいタイミングで出させた出ばなにすっと刺す。  それも刺し終わって動きが止まることなどない、まるで歩き続けているように、舞い続けているようにたゆみない動き。常にその動きは螺旋をなし、始まることも終わることもない。 (自分より百倍強い相手と延々とやり合うことに、いやっていうほど慣れてるんだ)  アダンがやっと気がついた。  アロンドが満月の塔から行った異界、精神と時の部屋でどれほどすさまじい相手と修行してきたか。また彼は子供の頃、竜王戦役が始まってからロト一族でも最強と言われた両親にしごかれ抜いた。そしてそれから、幼い身で実戦を戦い抜いている。  ヘリコプターの背後は、深い霧に包まれて何もわからない。だが、それは霧に守られているともいう……普通の大気であれば、衝撃波と放射線、閃光でヘリの中にいても人は死んでいる。  ヘリが空を飛ぶ怪物を重機関銃で撃墜し、ヘルファイアミサイルをぶちこんでから着陸する。  サデルが、勇者ロト直系の怪力でやっと持ち上げられる重火器を持つ。  ゲパード14.5㎜セミオート対物ライフル。  Kord重機関銃。  カール・グスタフM3無反動砲。  そして腰には隼の剣。  操縦席から降りたジニは愛用のAK-74を小さな体に負い、魔力を細かく編み上げている。  ふくらみつつある胸にはノートパソコンをスリングで吊るし、ヘリから飛び立った無人機を遠隔操縦してその情報を見ている。美しい顔は望遠鏡のようなものがついた赤外線暗視装置に覆われている。  ローレルは背には五寸釘を詰め込んだリュックを担ぎ、ジニの手を引いて魔宮に急ぐ。 「全員、それぞれの方法で警戒します」  ジニの言葉にサデルはうなずき、魔法で警戒する。  ジニは瓜生由来の機械、多波長の電波と赤外線熱源探知、光増幅、レーザー測距システムで。  そしてローレルは、幼子の純粋な感情と、巨大すぎる半神の力で。  道は短かくまっすぐだった。何体か、場違いにも出現した怪物はサデルがカール・グスタフとKord重機関銃で破壊した。  そこには、子供の姿をしたシルエットがあった。  男か女かもわからない。顔もあるのかないのかわからない。  ただ、そこには深い深い邪悪と、無尽蔵の力だけがあった。  ジニとサデルが、恐怖に硬直する。  そこを、ローレルが絶叫して、すさまじい速度で走り出した。  相手も速い。ローレルが五寸釘を抜く余裕もなく、がっぷり四つに組んで、ひたすら押し合う。  本来なら足が滑るか床が砕けるかするところだが、どちらもない。ひたすら、人間には想像すらできない力の持ち主が正面から押し合っている。  ローレルの顔が真っ赤になり、紫を通り越して黒くさえなる。  生まれて初めての、正真正銘の全力。  サデルはただ、息を吞んで見ている。  だが、ジニがにらんでいるパソコンから、無人機をローレルの背後に飛ばすのを見て、素早く走った。  無人機が、そしてサデルの体が、見えない何かに深く斬りつけられる。  無人機は崩壊し、サデルは素早くベホマをかけながら剣を構え、また斬りつけてくる見えない敵と観だけで斬り結ぶ。 「ジニ!」  サデルが叫ぶ。  ジニが恐ろしく複雑な呪文を編みつつ、無人機のレーダーが捉えている高速の影に向けてAK-74をセミオートで放っている。  サデルは彼女に魔力を渡そうと、血がついた斧槍だけが見える影を相手に切り結びつつ移動しようとしている。ジニは単独では魔法を使えず、だれか魔法使いが触らなければせっかく編まれている呪文も無意味だ。だが、下手に動けばローレルの背中を刺される。  ローレルは、まったく余裕なく必死で押し合っている。その顔は汗びっしょりで、涙目にすらなっている。  ジニが、白燐手榴弾と閃光手榴弾を手にし、迷っている。 (隙を作ってサデル先生のところに行きたい、でもそれでローレル王子が負けたら)  素早く考えて、ノートパソコンで無人機の一つを、血染めの斧槍に向かわせる。  邪魔だ、とばかりに斧槍がジニのほうに向かう。  恐怖に硬直するジニ。だが、目に激しいマズルフラッシュが映り、サデルが駆け寄ってジニの手を取る。  Kord重機関銃の弾幕である種の壁を作り、透明人間の動きを封じて走った。  素早くジニは霧散した呪文を編みなおす。  瞬間、ローレルから見て背中側の、この広い広間全体に、正確な三次元格子を描いて閃光が走る。その線がいくつか横切られた。  瞬間14.5㎜弾が正確に放たれ、斧槍を持っている透明人間がいるはずの場所をぶち抜く。  それに、斧槍が吹っ飛んで転がる。 (油断しちゃダメ。しっかりしなさい、戦いのベテランでしょう、ジジさまやウリエルさまにも、あらゆる罠について習っているはず) (影タイプの敵の場合、別に本体がある可能性がある) 「ジニ、こういう呪文はできる?悪意の核を探り出すとか」 「はい、対ブリザード用に研究されていました。インパスや盗賊系呪文の応用変形に加え、直感をバイキルトで増幅します」  と、ジニが呪文を編む。  瞬間、斧槍を持った透明人間は起き上がり、激しくジニに打ちかかってきた。それをサデルが巨大な銃身で受け止め、太い鋼筒がひん曲がる。  その背に触れたジニが呪文を発動させる。  驚いたことに、透明人間の姿など浮かばず、斧槍だけが激しく輝いた。 「人なんていなかったのね」  叫んだサデルがギガデインを唱え、剣に通わせて斧槍を十字に断った。  そのとき、ローレルは金剛力を振り絞って子供の霧影を投げ倒した。  激しく息をつき、膝をつく。ローレルが疲労するのは、生まれて初めてと言っていい。  そして立ち上がり、巨大化した霧影が襲いかかる。何千という数、さらに怪物たちも混じっている。  舞い続けていたアロンドが、突然全く違う動きをした。  左手の破壊の剣に、全く違う形を命じた。 (切れ味だけを極限まで優先) (おう)  息ぴったりの主従、左手の一撃は霧影の胸下を、メスのようにさあっと切り開いた。  すっとアロンドの右手がその傷口に差しこまれ、何かおぞましい、黒く暗い形なきものが抜き出される。 「これが、ハーゴンが与えた《邪》だ」と、それを右手に握ったまま、アロンドは左手の破壊の剣を突き立てる。  アロンドの表情も痛みにゆがむ。そして、絶対の破壊が《邪》そのものを虚無に返していく。  だが、その《邪》の一部が、どこかに逃れて妙なたゆたいに変わろうとしている。  人影は、みるみるうちに破裂し、広い空間全体を覆い尽くす深く白い霧に変わっていく。  あとは、人の形をした機械のような残骸が転がるだけだ。 「だが、あっちでローレルが戦っているもう一体がある限り、すぐに再生してしまう」  アロンドが言って、にっこりと笑った。  何かを狙って極限まで力をためながら。  サデルとジニが全力で背を守る。疲れきっているローレルも、ロトの鎧に回復されて立ち上がり、五寸釘を抜いては巨大な子供の影に突き立てる。  そのたびに全てを破壊する閃光がほとばしり、五寸釘も消えうせる。  ジニが編む精緻な呪文。小規模な核融合やブラックホールが、巨大な怪物を次々に内部から潰していく。  サデルも魔力をジニに貸しながら、Kord重機関銃とカール・グスタフ無反動砲を激しく撃ち続けている。 (きりがない)  その一言、絶望が漏れそうになった、そのときジニがサデルの力を借りて、敵の本体を探す呪文を唱えた。 「あれ!」  ジニがレーザー照準器を当てた、むしろ目立たない不定形の怪物。 「怪物は、霧の……免疫細胞みたいなものじゃなかった?」  サデルが言うが、 「とにかくあれです」  ジニの一言に、ローレルが五寸釘を抜いて、凄まじい速度で走り出し……瞬時に距離を詰める。  強烈な打撃は、ロトの楯がそらしてくれた。そのまま突き立てた五寸釘から閃光が迸り、不定形の怪物が半分消えうせる。すぐさま次の五寸釘、また次と、何度も何度も閃光が走る。  そのローレルを突然、腕が抱え上げた。 「もう十分だ。逃げよう」  三人と同じく傷つき、疲れている瓜生。  その上では超音速で飛んできて、乗り捨てられたF-15E戦闘機が怪物に激突し、凄まじい爆発が起きている。ドラゴラムの応用で融合して最高速で飛び、特に大きい怪物に衝突する寸前に呪文を解除、直後にリリルーラで味方に合流したのだ。  もはや統制もなにもない怪物たちにM202焼夷弾ロケットランチャーを四発同時発射、同時にイオナズンを唱える。即座に空ランチャーを捨ててジニに迫る影を両手剣で切り捨てる。向こうで超高温の炎が上がる。  その結果を見もせず、サデルがジニとローレルの手を握っているのを確認してその肩に触れ、もう一方の手で目の前の怪物を魔法のかかったショットガンの、短距離メドローアで消し飛ばし、変形されたルーラを唱える。  ちょうど同じ時、別の世界ではアロンドが、地球では見られないほどすさまじい稲妻を虚空に叩きつけ……そしてその絶叫に応えるように、虚空に巨大な門のようなものが出現した。それは、さきほど逃げた《邪》の一部でもあった。 「あちらで、ローレルも霧を倒しているな……脱けるぞ」  そう言って、アロンドがアダンを連れて門をくぐる。  そこは見覚えのある、湖の洞窟の最下層……そこでアロンドが、ためにためていた力を一気に解放した。 「邪門を破壊する。これで、霧はこの〈下の世界〉にはもう、侵入できない……そちらで霧でいるといい」 (こりゃあ、消滅するかもな……まあいいや、全力!全開!)  アダンは覚悟を決めていた。  アロンドは、何の力も入れずに自然体で立っているように見える。右手はかすかに雷神剣の白刃、左手にはすらりと細身の破壊の剣。だが、その中では魔力が極度に増幅されている……メラゾーマを放てばカイザーフェニックスになるほど。大魔王と呼ばれても仕方ないほど。  さらに魔力を高め続ける。天井知らずに。 (四万……五万……)  アロンドの冷静な部分が、静かに数値を刻む。修業の場で見せてもらった、戦闘力計測器をめやすに。 (五十三万……六十万……)  百万に迫るとき、アロンドの肉体も精神も限界が近づいていく。  両手の剣を振るのに、力は入っていなかった。舞うように、幼児が戯れるように破壊の闇を手にした左手が右腰下から左肩方向に振りぬかれ、一体の動きで柔らかい歩みとともに右腕が閃光と化し、風車のように大きく円を描いて振り下ろされる。  わずかに傾いた十字架。  それが門にすっと当たると、とてつもない破壊力が浸透していく。  静かに、異界との間をつなぐ門が崩壊していく。  異界である〈下の世界〉と霧の世界をつなげ……竜王を悪に導いた邪悪な《門》が、聞きとれぬほど深い重低音の絶叫をあげ、崩壊していく。 「仇は取ったぞ」  アロンドは静かにつぶやく。  左手の破壊の剣も、どろりと内臓が腐れ崩れるように……それを見て、背中に隠していたもう一本の剣を崩壊していく剣に重ねた。  アダンと戦っていた、ハーゴンが用意していたもう一本の破壊の剣。それで、アダンの崩壊は辛うじて止まる。 「私も、かなり体を壊しているな。しばらくは静養しなければ……下手をすると、一生」  そうアロンドは呟いて、全身に走りつづける凄まじい痛みを抑え、地上に向かった。  アロンドとアダン、ローレルたち四人がローレシア宮殿に戻ったのはほぼ同時だった。  アダンは人間の姿ではいられない、アロンドも立っていられないほど。  瓜生やサデルもダメージはひどく、ローレルも眠りっぱなしでローラ王妃をいたく心配させた。ジニも疲れきっている。  ローレシア・サマルトリア両国の国民をできる限り集める三日間が、よい静養期間となった。  まだ本調子には遠いが、気力で立ったアロンド。数万の民に向けて、瓜生が出した大型スピーカーの力と、アロンド自身知り尽くし、ジジとリレムが演出した舞台から、民全員に叫んだ。  今回は、家畜や幼児の世話で留守をしている人たちにも瓜生が乾電池式短波ラジオを配り、送信アンテナを作っている。 「この勝利を誇りに思う!」  アロンドの言葉に、誰もが顔を輝かせた。 「ムーンブルク、デルコンダル両国との和平もなった。そしてあの霧も、永久に排除した。  一人一人、総力戦に耐え抜いた奉仕を心から誇りに思う。一人一人、どれほど苦しかったろう。何度も霧から逃れ、戦に出、あるいは家族を戦に送った。学校に長く暮らし、家族とも会えずに耐えた。  ローレシア、サマルトリア、また大灯台の島も元鬼ヶ島も、どこでどんな形で戦争にかかわった人も、皆を誇りに思う。  だが、別の戦いが今始まろうとしている。平和という、ハーゴン軍よりずっと恐ろしい戦いが。  大陸を耕し、二人が結婚して六人の子が育てばどれほどの勢いで人口が増えるか。今の五万人から、五十万、百万と増えていくのに五十年はかかるまい。このローレシア大陸だけで、十億の人口は軽く保てるのだ。  その頃には科学技術も、ウリエルの故郷にさえ追いついているかもしれない。機関車。ハーバーボッシュ法窒素肥料。電話やラジオ。さまざまな技術が世界を変えていくだろう。  私も年老い、死んでいく。そして百万から千万、億と人口が増え、長い平和を楽しめば、国は変質する。確実に。それはウリエルの故郷の歴史では、大戦や帝政化によって解決されたことさえある。  どちらも許されない、ならば先の先を見て、よく考えて、増えた人口と莫大な生産力に合った国に、わが国そのものを作りかえる。私がいなくてもそれができるよう、全員自らを教育し、考えてくれ。  もちろんロトの掟を守って。優先順位を間違えるな、家族を、仲間たちを守り、ロトの掟も守って豊かに暮らすために、国を作り頑張るんだ。  過ちによる戦争だけは起こさないよう、十分に備えて。  今日は勝利を祝い、明日は遅れた種まきをしよう!」  すべてが終わったのは夏至の直前だった。前線で戦っていた兵士も、学校で生活していた子供たちもそれぞれの故郷へ、やっと戻った。  約半年の戦争。  確かに負担は大きかったが、ローレシア・サマルトリア・大灯台の島その他含めて、復活もできない死者は数百人しかいなかった。  それも多くは友軍誤射や誤爆、訓練中や戦闘中の事故だった。  ばかばかしいほどの戦力差が、最初からあった。  デルコンダルの死者は二万人程度だった。  ムーンブルクの死者は十万単位。ローレシア軍と戦って戦死した者より、魔物と化した暴徒に虐殺されたり、戦場で病死した者のほうが多かった。  戦争から半年以内をめどに、全員の貢献を確かめ、あらゆる立場から見た記録をきちんと作る作業が始まった。  全員に報告書を書かせる、というわけだ。  筆記用具だけでも大量に必要で、瓜生がまたかなりの量を出さなければならなかった。  特にローレシアは、ハーゴン自身による記録の改竄も激しいし、逆にハーゴンをだますためにヘエルらが改竄した書類も多くある。それを正すのが恐ろしく大変になる。  とりあえずハーゴンの手がついていない書類だけで、何人か褒賞することはできたが、きちんと戦争全体を総括し、賞するにはどれほどかかるかわからない。  ローレシア政府にとって、それが最大の懸案事項となっている。  歴史を管理するアムラエルがねじりはちまきで取り組んでいるが、彼女は教育の仕事もあるので二重に忙しい。  だが、「これは歴史家にとって最大の夢です。一つの大戦争を総括するなんて」と、夢中で仕事に励んでいる。  春も過ぎており、麦を刈るにはかろうじて間に合うが、田植えは難しい。  だが、今年の分の食料は備蓄もあるし、瓜生が出している。  そして夏から始めても収穫できるソバを、あちこちでまいている。  また、荒れた農地にはラツカ・ミラジ・キーモアなど繁殖の早い家畜を放しており、大喜びで小さい子が増えている。  ローレシアと大灯台の島では、サデルが主導して奇妙な試みをした。 「今年はみんな、好き勝手に実験してみよう。費用は税金から投資する」  と宣言し、様々な種を無料で配った。  どうせ今年の分の食料はちゃんと用意されている。  さらに、 「五年に一度ぐらいは、試す年にしてなんでもいろいろやってみよう」  とまで言った。  また、 「子供たち一人一人に小さな田畑を与えよ。好きなように植えて耕せ、その収穫または収益をおやつとする。『思い通りにならない』を学ばせるためだ」  という政策も発表された。  数日間、戦勝と再会を祝ってどんちゃん騒ぎ、慰霊、それからゆっくりと日常をつくりなおす。  敵軍に荒らされた家や農地は再建のために。  そうでないところも、再び家から子供たちを学校に通わせる。久しぶりに手元に戻った馬をなぐさめ、大砲ではなく農具をひくことを思い出させる。  人手が足りず手入れがおろそかになっていた堤防などを直す。  中断されていた建設の続きをする。  だが、戦前とは生活は大きく変化した。  今年は自分たちが食べるものは気にしなくていい、と言われたこともあるが、それ以上にみな、瓜生が出した戦争用の動力機械に慣れてしまったのだ。  大型汽船。戦車・歩兵戦闘車・大型軍用トラック。ヘリコプター。輸送機。  ディーゼルエンジン。クレーン。高性能爆薬。通信機。  教育用の、電池式DVDプレイヤー。娯楽・宣伝用の電池式CDラジカセ。  何千という人がその扱いに慣れ、修理工場の工具も使いこなせるようになっている。  その人たちに、その技術を忘れさせるわけにもいかなかった。 「自分たちでできる技術にするほうがいいんだ」と瓜生は言うが、やはり念のためにと、以前に倍する量の兵器をローレシア・サマルトリア両国に隠させてもいる。  アロンドたちとの話し合いの結果、最低限の通信機と小銃は引き続き全員に配っている。  さっそく、いくつもの企業が戦車から砲塔と装甲を外してトラクターを作っている。  トラックやヘリコプターで輸送業を始めようという者もいる。  そのパワーとスピードは圧倒的で、多くの人がそれを欲しがる。  そこで問題になったのは、トラックは舗装道路がなければかなりの環境破壊になってしまうことだ。  道路を作る余力はどちらの国にもなかったので、トラックはごく制限された地域でしか許可されなかった。  それらの燃料も、当分持つぐらい瓜生が用意はしたが、いつも彼は「おれはいつ消えるかわからないんだぞ」という。  そのことでは、皆がびくびくし……ジニたち技師たちは、それより先に石油精製技術を、と必死になって取り組んでいる。  幸い、〈下の世界〉にも巨大油田は多くある。リリザ周辺、ローレシア北東の山を越えた平原、サマルトリア北西の湾、湖の洞窟近く、メルキド周辺、炎のほこら周辺海域、ムーンブルク内海の東岸など。  まずリリザ周辺で小さな油井が作られ、その蒸留技術の研究が始まっている。  幸い、ディーゼルエンジンは比較的精製技術が低い石油でも一応動く。  だが、ロトの掟は大気汚染に厳しいので、こちらでの精製石油の販売許可はできる限り有害物質を除いてから、と条件がつけられた。  そして、ディーゼルエンジンそのものをこちらで作れるよう、製鉄・工作技術の向上にも力を入れている。  特に、製鉄資源に恵まれ、以前から製鉄がさかんなムーンペタから、ローレシアやサマルトリアに留学する者も多くいる。 「申し訳ないですが、あと十年もしたらムーンペタの単位に換算して百三十万セレムは確実です。それが少しでも市場に流されれば、あなたがたの製鉄業は壊滅することになる。  それを防ぐ唯一の方法は、同じものをそちらでも作ることなのですよ。  この戦で、十分以上に協力していただいた、そのお礼として、無償で技術を教えます」  アロンドの、物柔らかだが容赦ない言葉と、まだプロトタイプとはいえ見せつけられた高炉に、ヤフマとハミマ親子は呆然としていた。  さらにジニたちがパフォーマンスのようにやって見せた純酸素による製鋼を見せつけられ、ついに現実を受け入れたように、何人もの若い製鉄業者の留学に応じた。  彼らに、それこそアラビア数字の123から教えるのも、想像を絶するほど大変なことになる……そのことは承知の上だった。  ムーンブルクやアレフガルド、その他の国にも学ぶ意欲があれば留学を受け入れる、とは言っているが、特にムーンブルクは反科学技術の風潮が強い。  圧倒的な軍事力を見せつけられたからこそ、逆に怯えてしまっている。  アレフガルドも、戦中から何人かの観戦武官は誘っていたが、その言葉も本国で信じてもらっていないようだ。  ロト一族の実力を知るベラヌールからは、何人か留学生がいる。  ローレシア・サマルトリアそれぞれ、平和を取り戻してやっと開拓事業を再開し、技術を研究し工場を作ることをたゆみなく続けている。  ケエラは放課後は魔法の研究に協力している。芸能活動は半ば引退した。  ダンカは生きていたムツキに改めて厳しく鍛えられながら、獣医になるための選択授業も多く取るようになった。  そしてディウバラは、やっとバイオリンを弾くことができるようになり、だれよりも終戦を喜んでいた。ほかにも瓜生の世界の楽器を愛する仲間もでき、楽しく練習している。  夏が過ぎて秋、誰もが不安がり、いつでも霧から家畜と家族を逃がせるように準備していながら、ソバだけの比較的楽な収穫を終えた。  本当に、ごく一部地域の天然の海霧以外は霧がなく、無事に収穫を終え、初雪を迎えたときの喜び、感謝と誇りはいかばかりであったか。  その夏にみんながさまざまな試みをして、膨大なデータを集めていた。全員が読み書きでき、正確なカレンダーと時計を共有しているからこそできる芸当である。  まして、今は日付と時刻の確認には短波ラジオの恩恵もある。  そのデータは共有、研究され、特に機械を用いる農業のノウハウとして、農業技術水準を一層高めると期待されている。  冬至の建国祭りは、ローレシアとサマルトリアに分かれてはいても、実ににぎやかなものとなった。  サマルトリアで、ゴッサがみごとに集会を仕切り、高い政治力で国民に安心感を与えた。  ローレシアも、アロンドはやや引っ込んだ立場になってサデルを中心にした元老院を前面に出している。  技師たちは、戦争の経験も生かして熱心に技術開発を続けている。  上級学校もローレシア・サマルトリア・大灯台の島・元鬼ヶ島それぞれにあり、異なる雰囲気で研究を競い合っている。  銃の大量生産を始めることができたのは、終戦から二年のちだった。  瓜生の故郷では、博物館ものの銃だ。火縄銃同様の先込め、ライフリングもないフリントロック・マスケット銃。  だが、これこそ、瓜生の出したものを何も使わず、ロト一族だけで鉄鉱石を掘ってコークスで精錬し、純酸素吹き込みで精錬し、棒状鋼から筒にした、大量生産品だ。  弾頭の鉛も、火薬もすべてロト一族だけで、この〈下の世界〉の資源だけで作ったものだ。  事故も環境破壊もほとんど起きない、徹底的に試行錯誤で磨かれた鉱山と工場で。  部品もそれなりに制度を上げた旋盤で作られ、なんとか交換しても機能する。 「ついに、できました」  すべての細部を指導したジニ。全体を動かしたヘエル。人を組織し不正をチェックしたトシシュ。平凡な魔法使いの集団による空気液化・純酸素を指揮したラファエラ。若い人材、高度な教育の成果だ。  もちろん、以前から高い教育水準を保っていた〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉の大人たちも、瓜生が出した本や先進的な研究機材を活用し、必死で学び実験を繰り返した。  もう一つ、強力な火器が完成している。こちらは、瓜生の故郷の、遠い過去に用いられた大型前装砲に似ている。  砲尾がふさがり、砲口から弾を入れる。恐ろしく分厚く、水準の低い青銅で超高圧に耐えるようにできている。  とんでもない重さで、多数の馬などがなければ運べはしない。  瓜生の世界の砲と違うのは、火薬に火を入れるための孔が開いていないことだ。  火薬の代わりに水を入れ、その上から砲弾を詰める。  そして、正確な位置がわかるように印がついているので、その水の中央部に五人の魔法使いが魔力を集中する。  ジニが得意とする魔法の一つ、メラの攻撃力を集中することによる、極小の核融合。その熱で水を蒸発させ、高圧で弾を押し出す。  瓜生の故郷では、電気の熱を用いた同様の砲が研究されている。  その呪文は、一人ではジニのような百万に一人の天才しか使えない。だが、五人で分担することで、平凡な魔法使いでも可能なのだ。  ちなみに、竜王戦役以前から、イオを用いた火薬を使わない砲は研究されてはいた。だが、常に失敗し被害を出していた。  爆薬を火薬代わりにはできないのと同じことだ。イオの爆発は超音速の爆轟であり、砲身が耐えられないのだ。  瓜生の故郷の歴史でも、重い大砲を運ぶ必要性が運搬技術を大きく進歩させた。  それは、ロト一族も同じことだ。  鉄道や水運、馬力と車の技術も用いられたが、魔法を用いる技術もジジ・ジニ・ラファエラ・ケエラらによる魔法学校で研究開発された。  四人でのルーラだが、四人とも中級魔法使いにして、三人で重力をゼロにする呪文を編み、もう一人がルーラを唱えることで、従来の怪力二人・魔法使い一人で最大二トンから五十トン近い質量を一度に輸送できるようになった。  魔法使い四人を使うのは大変だが、それでも輸送重量の爆発的な増大は大きい。  馬の変化もある。特にサマルトリアでは、ゴッサをはじめ竜に乗る者が増えているし、竜と馬の直接混血である小型馬が増えている。  どちらも、飼料と仕事の比を桁外れに高めているし、魔法使いが乗った時には何倍も魔法を使うことができるようになっている。  小型の半竜馬はローレシアでも、都市生活を容易にすると期待されている。  研究開発で議会を中心に議論になったのが、ミスリル・オリハルコンなど魔法金属の解明に瓜生が出せる先進分析器具を使うかどうかだ。  それら魔法金属は、明らかに瓜生の故郷にはないものだ。  だがそれは、瓜生の故郷の物理学……元素は原子核の陽子・中性子の数で決定される、と矛盾している。  その解明は魔法そのものを科学の目で解明することにもつながり、大きな発展につながると思われている。  そう考えた者は、これまで高い教育を受け、試行錯誤を奨励されてきた〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉にも多くいた。  だが、彼らには本はあっても道具がなかった。高度な科学分析機器を維持できるほどの人口はなく、前に来た時の瓜生もそこまでは出さなかったのだ。  だが、今は読み書きできる人口はある。数学に優れた研究者も多くいる。食料の余剰も、瓜生がいなくてもある。  瓜生自身は、植民地主義的な弊害を常に恐れている。彼ら自身が技術を高めて、X線解析や加速器にたどりついてくれることを希望し、上級学校でもその方針で教えている。  だがジニたち若い科学者たちは、今知りたがっている。  ローレシア・サマルトリア・そのほかの議会でしばらく議論されて、研究を早めることが決まって瓜生が様々な機材を出した。  ジニはあこがれのX線解析機材に目を輝かせ、すさまじいスピードで必要なことを学んで次々と魔法のかかった品の分析を始めた。  同時に、瓜生の故郷の「物理法則」そのものをこちらで追試するプロジェクトも始まっている。  瓜生の故郷の科学史、その主要な実験をすべて追試する。それによって、瓜生の故郷とどの程度違いがあるのか、それとも同じなのかを確かめていく。  もちろん生物が生きている以上、ほとんどは同じはずだ、だが魔法が普通に存在していることは、微妙なずれがあることも意味している。  翌年も、その翌年も平和が続き、広い土地が開墾され治水が整備されていく。  製鉄技術が高まり、運河が作られて交通がより便利になっていく。  リリザの人々も少しずつロト一族のやり方を学び、自分たちで広い土地を開拓し、工場を作り、そして子供たちと机を並べてそろばんをはじくようになっている。  ザハンから耕してきた人たちも、特に順応性の高い子供たちはまるで生来〈ロトの民〉だったように暮らしている。ただ、幼児期の栄養状態の悪さで体格が少し劣るのは仕方ないが。  法律や税制も両国とも、突貫で整えられている。  建国から七年が過ぎたある日、ケエラとダンカの結婚式が告知された。  そして二人が、またその家族も意外だったことに、アロンド夫妻・ローレル・サマリエルを含め、主要な人たちの多くが参列することになった。  公式にはジニを助け、ハーゴンの悪事の証拠をつかんだ一戦は秘密にされているが、功績は高く評価されている。 「二人はサマルトリアに?」  と瓜生が尋ねた。 「はい、ただ王城とは少し離れた、湖のそばにできた新しいドームに」 「製鉄所も近いからな。ケエラはこれからも働きながら学んで、魔法の教師と製鉄のための酸素製造。ダンカは家畜の世話をしながら獣医学を学ぶそうです」  瓜生がアロンドに言うのに、二人が嬉しそうに頷く。  今の農業・工業の水準では、もう瓜生がものを出すことはほとんどない。彼はひたすら医師としてまた教師として、人を教えている。  二人が引っ越すことになったドームは、最近流行の標準的な集合住宅だ。  鉄筋コンクリートの二重外壁、半径8m前後。  百五十人程度、統制しやすい人数で暮らす。ただし閉鎖社会がいじめ・村八分にならないよう、移る自由はある。  ドーム群の周囲には広い森と農地、排水処理用の池もがある。  ほかにも風車と給水を兼ねた塔、畜舎、汚物処理場、公共浴場などの建物がある。  ドームの頂点には内部の広場に日光を入れる広い窓がある。  二重構造で徹底的に外断熱され、どの部屋にも小さいが南向きの二重ガラス窓があり、窓と物干しスペース以外は緑に覆われている。  南側の半分を、一つ一つは細長い人が住む部屋とし、北側には広い空間を備えて公共広場・作業場・倉庫などに用いている。    夫婦が入るのは四畳半程度の狭い部屋。だがロフトがあり広く空間を使えるし、子供が増えたら広い部屋に引っ越せばいい。ドームの外には好きな植物を植えていい庭畑もある。  サマルトリアの莫大な石炭をイオウや水銀を除きコークス化する炉を備え、どの部屋もセントラルヒーティングと水道あり。バイオガスプラントもあり、人畜の糞尿・生ゴミなども徹底的に処理する。石炭ガスとバイオガスを混ぜたガスは各戸に供給され、調理に使われる。  残った肥料と広い農地・果樹園で、多くの野菜、生乳とヨーグルト、卵は自給できるし、余剰を売ることもできる。果樹も多数植えてあるので、何年かすれば果物やナッツも自給できる予定だ。  農地は馬を利用した機械で、少人数で耕すことができる。地形を細やかに使った棚田も巧みに機械化し、過剰な人数を使うこともせず、また広すぎて粗放になり環境を破壊することも無いよう、知識をたくさん使って楽に耕す。  畜舎は掃除が不要な移動式でこそないが、コンクリートの床を大型風車の機械力で毎朝強制的に清掃し、新しい土を撒く。人手は最低限でいい。  ゲルで移動する畜舎を用いるところも多くある。  広い池、掟通り切り残された森が排水をきちんと処理する。特に厄介な重金属入りの工業廃水を処理する魔法や技術も次々に開発されている。  製粉や洗濯などにエネルギーを供給する風車塔は、見張りや気候・天体観測を兼ね、重機関銃がきっちりと国土防衛を担当している。  また多くの人が大都市に通い、より高い教育を受け、また教え、工場で働く。幼児と老人、病人や障害者の世話をする。小規模の手工業もする。  ルーラと馬、運河などがあるので、遠くからでも不自由なく通える。鉄道も建造が始まっており、完成すればさらに通勤可能距離は伸びるだろう。  ドームの間はケーブルで結ばれている。  人が足でこぐ車も市販されており、それは簡単に持ち上げられる重さで、持続的に時速40kmは出せるし、100㎏ぐらいなら積める。  馬にひかせることもできる。この世界の、竜の血が混じる強力な馬は200㎏ほどを一日50kmは運べるが、ケーブルカーをひかせれば軽く1トン運べる。  今はケーブルカーが運河や港につながっているが、将来的には標準軌鉄道の駅につなげる予定だ。  いくつかドームがつながり、その中心は学校に使われ、将来は鉄道駅も計画されている。現在は特に水運がいいところを中央ドームにしている。  王都などで試験的には、ドームの間を結ぶ鉄筋コンクリート道路や蒸気機関鉄道も作られている。  ただし、瓜生の故郷と違って道路の面積を丸々無駄にすることはしない。立体交差はもちろん、道路そのものを地上三階・地下一階の建物とし、一階部は道路と商店、二階に当たる部分は水道や倉庫、三階は防音の上学校などとなる。屋上も緑化している。  鉄道も、コークスを用いる蒸気タービンを先に実用化しており、ほとんど煙の害はない。  半径20km円……瓜生の故郷の東京から見れば、東京駅から川崎・三鷹・松戸・船橋を含み、大阪からなら宝塚・高槻などを含んでしまう……が通勤圏となり、百五十人前後がほぼ自給する集合住宅を作って暮らし、高速で行きかっている。  海路・運河での大量輸送網も、交易圏を広げている。  いくつかのドームが集まり、その中央には学校や公民館、イベント会場、スポーツ場などの機能を果たす大型ドームがある。  そこが結婚式場となった。  壇上でケエラとダンカが結婚の誓いをかわし、満場の客が拍手する。  アロンド上皇夫妻。サマリエル王とゴッサ摂政。ゴッサの妻となった、ムーンブルクのマリア王女。ローレル王。  サラカエル・ムツキ夫妻。サデル。ロムル・レグラント夫婦。ジジ。ジニ、リレム、ラファエラ、トシシュ、ヘエル。  イスサ、ストレッチャーの上のロムル、ケエラとダンカの家族たち。  小隊仲間。静かにバイオリンを弾いているディウバラと、その脇で演奏を合わせているガライ。  事情を知らない人はなぜと首をひねるほど豪華な人々だ。記者たちが意外なイベントに駆け付け、こちらの技術で作られたカメラで写真を取ってはマグネシウムフラッシュをひらめかせている。 「オリハルコンの分析ができたようだな」  サマルトリア宰相のゴッサがジニに話しかけた。 「アロンド上皇陛下の貢献が大きかったです。  ウリエル先生の故郷には魔法がありません。多様な元素の違いは、化学的には電子殻の構造で決まります。密度を決めるのは原子核の、陽子や中性子の数です。電子と陽子の数が一致していればより安定するので、それを通じて陽子数は科学的な性質も決めます。  それで陽子数が事実上原子番号とされます。  去年解明されたミスリル。かなりの多様性があり、もっとも純粋なものの化学的性質はアルミニウムと同じでしたが、比重がかなり大きく硬度や難燃性があまりにも違いました。  そして霧箱の宇宙線を用いた研究から、ウリエル先生の故郷では観測されない電気的に中性な、中性子の十分の一程度の質量の素粒子が発見されました。電磁気力や弱い力と反応せず、別の力で原子核と結びついているようです。  それがアルミニウムの原子核にくっついて、原子の結合を強化したりしているという結論が今のところ出ていますが、まだ研究中です。  電子と似た殻を作る、対になる素粒子があって化学結合を強化している、という説もあります。  大型の加速器ができなければ高水準の素粒子物理学は難しく、それはこちらで電磁気技術を発達させてから、と決定されています」  その決定をしたのはあんたたちだろう、と言わんばかりにジニがゴッサをにらむ。  ゴッサは眉の毛一筋動かさず、続きをうながした。 「現在は暫定的ですが原子番号を複素数として、ミスリルは『13+4i』と表記することになっています。  ミスリルもかなり多様性があり、不純物による合金となっているものもありますし、虚数番号が違うことで性質が違うこともあります。  オリハルコンは、ロトの剣から得られたサンプルは『37+21i』と特定されています。黄金に、仮称魔法核子がくっついているのです。  ですがロトの剣は魔の島のヤエミタトロン陛下が所有していて、それ以上のサンプルの提供は拒否されていますし、〈下の世界〉にはほかの鉱床が見つからないのでなかなか研究が進んでいません。  この研究が進めば、元素の多様性はウリエル先生の世界の何百倍、合金の多様性は何万倍にもなるでしょう。  今はブルーメタルの研究にかかっています。ロトの盾はサマルトリアに帰属していますが、サンプルの提供をよろしくお願いします」  ゴッサは静かにうなずいた。  この会話自体、人に聞かせるため、研究を進められるように先に根回しをしているだけだ。ゴッサが式の前に、そういう会話をするようにジニに話しているからだ。 「それに、〈上の世界〉の魔法金属でできたロトのかぶと。あれもアレフガルドに寄贈しましたね?サンプルがそろそろなくなりそうです」  だがこういう交渉になると、ジニは言いたいことをどんどん言いつくす。  そしてうまくいかなければ、ふいと別の研究を始めてしまう。 「人間なんかとの交渉でエネルギーを消耗して研究ができなくなるほど、馬鹿げたことはない」  といつも言っては、ケエラやラファエラ、ジジに叱られている。  披露宴がすすみ、素晴らしいごちそうが旺盛に食べられる。  レグラントがひさびさに腕をふるったもので、ジニやアロンドにとっては懐かしいものだった。 「さて、授業とさせてもらうよ」  瓜生がスピーチを始め、列席者がみんな耳を澄ませている。 「明日から、君たち夫婦は新生活を始める。その生活は、これまで暮らしてきた開拓ドームと同じだろう。  その朝から夜まで、ムーンブルクで同じぐらいの暮らしをするには、何人の奴隷が必要か。プリンさん、どうか教えてください。もちろん、トイレに関する話も全てもらさずに」  瓜生が呼び出したのは、サマルトリアに留学しているマリア王女の侍従の娘だ。 「はい、こちらに来てから半年、毎日が驚きの連続でした。ケエラさまのご実家にお世話になっていますので、その暮らしは見ております。  朝、夜明け前に目を覚ましてジュースとレバーソーセージをいただく、ムーンブルクではそんな暮らしができるのは貴族や大商人だけです。そのジュースを絞るのも、小さなナイフで丁寧に皮をむき、すり鉢で力を入れてつぶさなければなりません。こちらでは半分に切り、ガラスでできた絞り器に押しつけるだけ、リンゴもおろし器にかけるだけ。  ソーセージを温めるにも、炭火をちゃんと熾せるのは貴族だけ、母が生まれたような庶民の家では、家の真ん中に切られた炉の火を絶やさないことしかできません。もし火を絶やしたりしようものなら、殺されてもおかしくないのです。  そして朝食を作るにも、実家では五人の料理人が必要でした。  こちらでは、壁に作りつけられ、内部がどうなっているか教えていただきましたが、中に鋳鉄製ガスコンロがある大きな圧力鍋に、薄い鉄でできた鍋を二つ入れて、木のふたをねじ込んでレバーを引くだけです。  それだけで、火打石の火花が、石炭と……」それ以上話すのをためらう。 「人畜の、出すものから作られるバイオガス。ここでの話は、遠慮はなしで」と、瓜生。 「そう。人は食い、飲み、息をし、出し、交わり増え、群れる。その事実から目を背けないことこそ、ロト一族だ」とアロンドが笑いかける。  プリンは恐縮し、語り続ける。 「あとは笛が鳴ったらレバーを下げて放っておくだけ、四十分でお粥とシチューができています。同時に別のガスコンロでお茶を沸かし、スクランブルエッグを作る余裕すらあるのです。  ニンジンやリンゴの皮をむくのも、ピーラーのおかげで本来なら一時間かかる仕事が十分。  実家では、それだけの料理をするには三人の奴隷と奴隷頭が一人、三時間は重労働しなければならないでしょう。  そして食事をし、お湯とおこうこで箱膳をぬぐい、しまう……実家なら湯を沸かすのに、別の建物で火を見るのに一人、沸いた湯を運ぶのに一人奴隷が必要です。  また、ムーンブルクではいくつもの器を洗うのに、また一人奴隷が必要でしょう。水を汲んでくるだけでも。こちらではドームの中央でお湯と水の両方が好きなだけもらえます。  そして出かけるのにも、素晴らしい鏡が誰でも買える値段で売っています。あれほどの鏡は、ムーンブルク王ですら手に入りませんでした」 「ジニ、解説してくれるか?」とアロンド。 「はい。ガラスを窒素雰囲気下、溶融スズに浮かせて整形することで、大型で高精度の平面ガラスが可能です。この技術がこちらで実現したのは二年前です。ただしそれ以前、鉄粒上で吹きガラス管を切り開く製法でも、それなりのものはできていました」 「ありがとう。プリン、続けてくれ」 「はい。その鏡がなければ、髪を整え化粧するのにも、そのための奴隷が必要です。実家にはいました。  それから出かけるのにも、輿を担ぐ奴隷と先導が一人必要でしたが、こちらでは誰もが馬に乗り、またケーブルカーや、海辺の家なら小型ヨット、またルーラでさっと移動できます。  それから衣類の洗濯。これも、今ケエラ様のご一家……実家なら五人の奴隷が十日に一度、二日がかりで、汗だくのドロドロになってやるものです。そして小さいころ、母の知り合いの奴隷から聞いた話では、冷たく臭く悪夢のようなお仕事だったそうです。  しかし、こちらでは毎日、一人でひょいと洗濯物を水車まで運び、お湯や洗剤とともに樽に入れて、回っている六角の鉄棒につなぐだけ……子供一人が十分で準備し、一時間ほど勉強しながら見張って何度かお湯を入れ替えて絞り機にかけるだけ。それから物干し竿にかけるのに十五分程度。  子供が一人で、勉強に支障もなく、体力もほとんど使わずにできるのです。しかもあちらでは十日に一度でも贅沢だった洗濯を、毎日!王妃様のようです。  部屋を暖める、そのためにも実家では何人もの奴隷が、危険な火を室内で使っていました。薪を取り割るのにも、一人必要でした。  母は室内で煙だらけになって火をつけ、それで胸も目も悪くしました。  それでも寒くて寒くて」  涙ぐむプリンに、ロト一族以外の出身者は深くうなずく。 「ロト一族の辞書に、煙と煤はない」アロンドが笑みを浮かべて言った。  竜王戦役以前から、〈ロトの子孫〉〈ロトの民〉ともに二次燃焼のあるロケットストーブを作り、煙を燃やしてきた。また、鉱工業や製炭の排煙も徹底的に浄化し、エネルギーと資源を絞り出す。  開拓者には二次燃焼室のある鋳鉄ストーブが売れる。  ドーム型集合住宅の規格が固まってからは、石炭を燃やしてガス・コークスを得て、煙の硫黄などを除去する中央炉がある。その熱で作った蒸気が全戸に行きわたって、床下暖房や温水に用いられる。公衆浴場もある。  石炭ガス・バイオガス、あるところは天然ガスを混ぜたガスも各戸に送られ、調理などに用いられている。目や肺を痛めつける煙も、煙突掃除少年の必要もない。悪臭もない。燃料の節約にもなっている。火災のリスクも大幅に減った。 「こちらでは、ただノブをひねって月末に、あちらの薪代の百分の一にも満たないお金を払うだけで、床下から……なんという暖かさ。  そして、尾籠なお話になりますが、室内のおまるを運び、中身を捨てて掃除するのにも、実家は奴隷を一人使っていました。こちらでは、おまるに中身が見えない袋をかぶせてその中に……口を縛ってちょっと外に出て、タンクのふたを開けて放り込むだけ」 「バイオガスにしているからね」とアロンド。 「さらに衣類、それもどれほど贅沢か。ムーンブルクでは、貧しい人は一生に、片手で数えるほどの服しかないのが当然ですよ。こちらでは……いえ、実家でも、衣類を縫うための奴隷が一人いました。とても高い奴隷です。布を織るための奴隷も、大きい家では何人もいます。  それも、こちらでは道具を使うことで、奴隷の三倍の早さで縫えてしまいますし、信じられないほど安く服を買うこともできます。  それから夕食を作るのに、粉を挽くのにも奴隷が必要なのに、こちらでは水車小屋に持って行って回っている臼に入れるだけ。奴隷一人が半日かける作業が、十分もかからないのです。香辛料や卵を泡立てたりするのも、ハンドルを回してバネに力をためて、鉄臼や泡立て羽をつけてスイッチを押すだけ……それに塩も砂糖も安く、均質な粉が売られています。  夕食にパンを焼くにも、実家では大きなかまどに一人が薪を運び、一人が割り、一人が薪をくべ、一人が監督するのに……こちらでは壁に作りつけられたガスオーブンに入れて、レバーを引けばできてしまうんです。  肉を焼くにも、串を回し油を受ける子供奴隷、火を管理する奴隷、全体を監督する奴隷が必要なのに、こちらでは肉に塩と香辛料を塗ってホーロー鉄鍋に入れ、パンに並べてガスオーブンに入れるだけ!  一人で、実際の作業時間は十分もない、一時間ほどそばに座って絵を描いていてもいい……」 「二月に一度程度、ガスオーブンは清掃してください」とジニがまぜっかえす。 「半年ぐらい掃除してないけど平気だよ?」とケエラ。 「掃除しろ」と何人かが声をそろえる。ダンカも。 「うるさいわね」と、さっそく夫婦げんかが始まりそうになるのを、アロンドが軽く目で抑えた。 「厨房をのぞいたことはありましたが、暑くて煙くて地獄のようでした。人がやけどで死ぬこともちょっちゅうでした。それが一切ないのです」 「ちゃんと換気はしてください。室内ガスシステムでも一酸化炭素中毒の恐れはありますよ」と、ジニ。 「薪の無駄だってすごいよなあ、暖炉のような開放火は。二次燃焼ストーブならまだましだけど」と瓜生。 「そしてあたりまえのようにお湯で体を洗い、お風呂に入り、暖房された部屋で夜も魔法の明かりで勉強し、眠る……ムーンブルクでは王族の暮らしです!三十人以上の奴隷を使っている上級貴族より贅沢な暮らしが、一家七人助け合い、三人が仕事に出て、子供たちも学校に行きながらできるんです」  感極まったようにプリンが言う。ロト一族も、あらためて感動していた。 「奴隷のかわりに石炭と、そして知恵と工夫を使っているのがロト一族だ」  アロンドが静かにまとめる。 「石炭もいつかなくなるし、温暖化の心配もあるから、できるだけ早く、それも原理レベルで安全な原発を作れよ。それはおれの故郷の人々もまだうまくできてない。蛙飛びで追い越せ!こっちには、もう決まったんだから研究するなっていうお偉方はまだいない。そうなるなよ。それにこっちには、おれの故郷にはない魔法金属も呪文もあるんだ」  と、瓜生がジニを見つめていう。ジニは深くうなずき、 「後進を潰す権威になるより前に、いえ45歳になったら引退します、必ず。原発より先に、ブラックホールを使うことも考えています」  さすがに瓜生も絶句した。 「そのためにも、教育だ。ムーンブルクなどでは、多くの人にそんな単純な仕事をさせ、せっかくの頭脳を無駄にしている。われわれはそんなことはしない、全員の頭脳を活用する」  アロンドの言葉に、ゴッサが深くうなずく。 「これからも頭を使って工夫し、そして子供たちを教育し、清潔を保つことを教えて伝染病を防ぎ、一朝ことある時は戦って同胞を守ってくれ。二人の、そしてロト一族の未来に、乾杯!」  アロンドの声に、夫婦がひざまずき、全員が盃を掲げる。  そのとき、瓜生の周囲に光が、ふわりと舞い降りて輝き始める。 「ウリエル。……帰るときが、きたか」  アロンドが静かに言う。 「はい」瓜生は式場の全員を見まわす。愛惜をこめて。 「できたら、ここに骨をうずめたかった」  寂しげに目を伏せ、静謐な笑顔を浮かべる。 「どれほど、皆さんを愛しているか……おれの、心の子孫たち。学び、試行錯誤し、自分の弱さを認め、残虐行為を否定する勇気があるみんな。  信じている、これからも工夫し、悪をせず、正しく栄えていくことを」 「ロトの掟を、守ります」 「「「「ロトの掟を、守ります」」」」  式場の全員……アロンドたち、ケエラとダンカの新婚夫婦、全員が瓜生に敬礼し、大声で誓った。  瓜生は静かに微笑みながら、消えていった……  その後。  アロンド夫妻は上皇として、大灯台の島や元・鬼ヶ島を回る暮らしをしている。公務は最低限で、ムーンブルク・ムーンペタの再建と、心の傷を抱えた人たちのケアに力を尽くし続けている。  それを支えるのはロムル厚生大臣と、レグラント王立病院事務長の夫婦だ。  また、アダンもアロンドの傍らを離れず、誰であれ病に苦しむ者はその毒で癒した。人間の寿命よりはるかに長い生涯、いつまでも飽きもせず剣と拳の修行を続けたという。  リレムはガライの息子と結婚し、外交官、ローレシアの女官、宣伝やマスコミ操作、演出など多様な仕事をこなしている。アレフガルドの家族とも、和解というより籠絡したようで、すっかり「魔女二代目」の評価が定着している。  ローレシアを治めるローレル王は、自らに使える剣を求めて数年間の旅をし、帰ったのちはジニを王妃として、桁外れの力をもてあましつつも大過なく過ごした。  対照的に、サマルトリアのサマリエル王は後半生が活動的だった。  彼は父や兄と違って神々の力はなかった。〈ロトの子孫〉として十分に優秀ではあったが。  宰相として長くサマルトリアを治め、サマリエルの成人で潔く地位を引いたゴッサの教えもよろしかったか、サマリエルは為政者として力を発揮した。  サマルトリアの体制は、ローレシアよりは国王の実権があったこともある。  本来ならばコンプレックスから破滅しかねなかったが、アロンドの控え目な後見もあり、サマリエルは政治に打ちこんだ。父のカリスマを継いだように。  四十三年後に退位した時、サマルトリアの国力はローレシアを大きくしのいでいたという。  そして生まれてすぐに消え失せたマリア王女。彼女は数奇な冒険の末に、十三歳の頃にムーンブルクに出た。その人柄、そして隠されていた美貌でイリン王の心をとらえ、ムーンブルクの王妃となる。  もちろん両親兄弟とも再会し、長い心痛に苦しんでいたローラ皇太后にようやく心からの幸福が訪れた。その結婚式で、ロトの鎧はムーンブルクに寄贈された。  ムーンブルク自体は科学に激しく反発し続けていたが、ムーンペタがロト一族の技術を学んで豊かになったこともあり、のちの世にはムーンブルクもロト三国の一つと呼ばれるようになる。  そして平和な、急激に科学技術が進歩し、人口が増えていく百年が過ぎた。  百年後、ハーゴンは石のまま動くことを思いついた。  最後にジジがかけた言葉が罠だった……そう、ハーゴンは邪霊を体外に飛ばし活動していながら、百年の間「石化を解く」ことにばかりかまけたのだ。石のまま動くことを、考えなかった……考えないよう、ジジに誘導された。実際には、瓜生が食ったゾーマの力なしには……または、異世界と連絡し凍てつく波動を用いない限り……石化を解くことは絶対に不可能だったのだ。  そして、ロンダルキアの邪神たちとの絆を用いて魔軍を編制したハーゴンが、各国への侵攻を始め各地に魔物を跳梁させた。  衰退していたアレフガルドは王の逃亡もあり、ラダトーム周辺地域以外を失った。次に粉砕されたのが、科学を拒み続けたムーンブルクである。  だが、知らせを受けたロトの王国……ローレシアとサマルトリア、そしてその科学を受け入れていたムーンペタは、魔軍を迎撃した。  瓜生の遺した彼の故郷の歴史書から、あらゆる過ちの教訓は学ばれていた。科学の知識は充分にあり、ジニが科学技術と魔法を統合し、精密技術の基礎も築いていた。魔法の研究も進み、高度な集団魔法も多様にあった。  立憲君主制と三権分立、市場経済と確実な最低限福祉の混合経済による、政情の安定と経済的繁栄。義務教育と多様な高等教育の併存による人材輩出システム。  魔法使い率も三割はいるし、ソロバンが普及し分数計算までできる水準。人体生理・水理学・原子論と魔法元素理論・炭素窒素循環は必須科目。合計四千万人・識字率99%、鉄道・高炉・転炉とハーバー・ボッシュ法に至る工業力と農業力があった。  生活水準は、ローレシアは水田稲作を中心とした日本の江戸時代に近いもの。サマルトリアは遊牧性が高く、ジャガイモ・トウモロコシ・アルファルファ・テンサイ輪作も広く行われ、大規模な鉱工業も発達している。  特にハーバー・ボッシュ法で膨大な窒素肥料を得ており、農業生産力は桁が違う。また工業も石油精製・ディーゼルエンジンに達しているし、鉄鋼生産もきわめて多く、アルミニウムやいくつかの合成樹脂も量産されている。さらに魔法を用いた素材のいくつかは、瓜生の故郷にもない優れたものだ。技術的には第二次世界大戦水準に達している。  大軍とその兵站を蒸気船や鉄道、ケーブル輸送を発展させたモノレール鉄道、まとめてルーラが可能なコンテナで動かし、全員が保有する馬で駆ける。情報網を各国に張り巡らせ、世論を操る。 「情報力・機動力・生産力・輸送力・火力を集中し圧倒的な戦力による電撃戦により、残虐行為の必要なく圧勝する」をドクトリンとし、国民皆兵で訓練は行き届いている。  ちなみに、「敵がゲリラ戦を始めたら、報復対象者を保護し全面撤退、交易を断って貧困に落とす。必ず代替資源供給先を準備する」となっている。  竜の血が濃く混じる馬にまたがる屈強の大兵力が、一糸乱れぬ集団となり戦った。弾薬も含め自分たちで大量生産した、薬室を魔法金属で強化したボルトアクションのフレシェット/散弾/グレネード銃。高性能炸薬が詰められ魔法で射程が延長される投槍。  そして集団で複雑精緻な編み目を分担した魔法。  飛竜に乗った魔法使いが爆弾を落とし、綿密に偵察した。  解明された魔法金属で補強された大型の大砲が、集団ルーラで直接輸送され、強力で精密な砲撃を放った。  迅速に輸送され馬に牽引された重迫撃砲の弾幕が、百人の騎兵が制御する極小ブラックホール呪文が、ムーンペタ川を越えて渡河しようとする魔軍を徹底的に粉砕した。  大規模な戦争で、ロト三国……ローレシアとサマルトリアと、実質的に独立していたムーンペタに対抗できる戦力などない。だが、魔軍は無限であり、集団の戦争で戦い続けても消耗戦だとは分かっていた。  その対策もあった。敵の本拠、大軍が入れぬ洞窟の奥に少人数で分け入り、神を剣で切り倒せる超戦士も、別に育てていた。ロトと竜王の血を引く王族の、オルテガ家より続く高貴なる義務(ノブレス・オブリージュ)として。  すでに個人の剣技は、軍では……普通の人の間では半ば廃れている。義務教育ではゾーマ流48式の剣と拳は行われているが。  現実には集団で戦うための、大規模な武器を操作する技術と、素手および銃剣による白兵戦が主だ。馬上槍試合やデルコンダルの闘技場のように、実戦で役に立たない儀礼的な戦闘遊戯はやらない。オリンピックに近いものはあるが、陸上競技や騎馬集団での障害競走、射撃などが主だ。  魔法も、銃砲と統合し集団で使うものとなっている。  だが、王族だけは違った。徹底的に、個人で剣と魔法を使う修行を積む。特にローレシアの王族は、代々魔法を使えない……竜王の血筋が濃いゆえに。  魔法の武器に頼り修行を怠らないよう、旅立ちは粗末な武装だった。代々、若い王族は粗末な武装だけを手に世界を漫遊し、経験を積むのが伝統だった。かつての禁断大陸、ローレシアやサマルトリア、ムーンブルク移民の子孫が暮らすリリザには、ろくな剣は売っていなかった……銃ならあったが。  呪文も、戦闘に必要充分な最低限しか習わなかった。高度な呪文は集団で、組織で使うものとなっていた。  三人は母国の力に頼らず世界を旅し、剣と魔法の腕を磨いた。そしてロンダルキアの洞窟を制覇し、ついにハーゴンに挑んだ。  ハーゴンの死により邪神の像を肉体として復活したシドーも、三人の血に受け継がれた力と、ロトの装備と稲妻の剣が切り倒した。それで、シドーと〈下の世界〉のつながりは半永久的に断たれることになる。  勝利し即位し、ムーンブルク王国の再建にあたったサマンサ七世女王。彼女は、狂気ともいうべき大事業に、長い残りの治世を捧げた。  疫病が伝統でもある、沼になりやすい地形のムーンブルク城を廃し、内海の東岸に遷都した。ムーンペタの独立さえ承認して。  そこは沿岸は砂漠だが、巨大な油田があることが知られていた。東側は豊かな森、肥沃な草原が広がり、内海を通じて北に行けば、湖と大河に抱かれた大平原。ローレシアの技術があれば、膨大な水田になった。  さらにローレシアの図書館から本の写しを借り、石油精製施設と自動車工場を中心とした工業都市を計画し、実行した。  それだけでも大変だったが、さらに狂気と言えるのが、ロンダルキア超山塊の開拓である。  急峻な岩山を、棚田に削った。一段おきにアブラヤシ・ゴムノキ・カカオを中心とした木を植え、貯水池も削った。ディーゼルエンジンの力で。無尽蔵の水資源で。 〈破壊神殺し〉の、恐ろしい魔力で。海底洞窟やロンダルキアで、魔物の軍団を爆砕したイオナズンを、岩盤に向けて放って。  試算により、頂上にたどり着くには、瓜生の故郷をしのぐ指数関数的な人口増と技術向上があっても二百年かかる……そう算出されても、彼女は恐ろしい美貌で笑い押し進めた。二十年の間、雪玉の芯を固めて、それから大きく転がし雪だるまをふくらませた。  ローレシアとサマルトリアも、その計画が、数百年規模で巨大すぎるのは確かだが、現実に不可能な点が何もないことを認め、人手・技師・工具、そして瓜生が遺し印刷複製されてきた本を送った。  人手も難民たち、そしてローレシア・サマルトリア・ムーンペタの莫大な人口があった。  山脈が、等高線にそって幅数十メートル、そして長さは数百キロにわたって、水平な棚田となる。  それを巨大な馬のひく犂、ディーゼルエンジンのトラクターが耕し、機械により耕作される。アゾラと稲を交互に育てる。アゾラや田豆の窒素固定に、さらにローレシアのハーバー・ボッシュ法肥料も加える。時に病虫害の徴候があれば、周辺部の青田を刈って飼料にし、田芋や田ヒエに切り替える。水を抜いて広い畑にすることもあり、トウモロコシ・ピーナッツ・キャッサバ・サツマイモ・サトウキビ・ソルガムなどが育つ。多様な作物により飢餓を防ぐのも、瓜生の知恵だ。  あちこちにある有用鉱物の鉱脈を深く開く。  岩盤に掘られた家の前は屎尿処理も兼ねた畑で、実野菜が豊かに育つ。  だが、八千メートル級の山脈が、オーストラリア大陸に匹敵する規模でそびえるロンダルキア超山塊……そのわずかな片隅に、ひっかき傷をつけるだけでしかなかった。五十六年の治世すべてを費やしても。近代技術を、第二次世界大戦後の水準で投入しても。五人産んで99.9%育つのが三代続いても。  農地として、また鉱山としての生産は莫大だった。潤沢な水と亜熱帯の高温・日照は、アゾラと稲とポルトガ田芋の輪作には最適だった。ロンダルキアは黄金の山でもあったことが、笑っていた世界中の人に明らかになった。  反対のための反対を容赦なく踏み潰し、〈ロトの掟〉を破って啓蒙専制君主として君臨したサマンサ女王が老いて退位したのちも、その方針は続けられた。黄金の山を手放すことは、新政府にも誰にもできなかった。  彼女も勇者ロトの子孫、瓜生の心の子孫だった。試行錯誤を拒まず進歩し、惜しみなく与えて多数の人には平和で豊かな暮らしをもたらし、現実にある悪と戦い抜くために力を尽くした。  その頃、ローレシアは宇宙に挑戦しようとしていたし、サマルトリアは魔法を精神的な幸福のために進化させようとしていたが、それからはもう語れる物語ではない。  もはや、アレフガルドのある〈下の世界〉とは無関係な時。  ハイラルという国の、サリアという水辺の町が疫病と魔物に襲われたとき、一人の老人が魔物を倒し、病人を癒して、自らは病み倒れた。 「勇者ロトの仲間」を名乗る老人は、感謝する村人に看取られ安らかに息絶えた。息を引き取った直後、身体は消えうせたとも言われる。  その功績や本名も刻まれたが、はるか後にリンクが読んだ墓石では「勇者ロトここに眠る」という字だけが判読できたという。 登場人物 (年齢が書かれてあれば、「1の続き」本編開始時) (「奇妙な味のドラクエ1」含む) アロンド 1勇者。 本名メタトロン。「アロンド」は孤児時代に戦死していた騎士の名前からつけてもらった名前。 16歳。剣の天才で王としての迫力もグイン級。ミカエラによく似た美貌。 ドムドーラ出身。小さい頃両親を失い、しばらく一人旅をしてラダトームに流れ、孤児集団で暮らす。 その後〈ロトの子孫〉に見出され、代表する勇者としてローラ姫を助け竜王を倒す。 ローラ 15歳。アレフガルド王国の王女。 気丈で、諦めることを知らない。 竜王にさらわれて厳しい生活も経験しているので、新しい生活にも順応できる。 ローレル 胎児。アロンドとローラ、そして竜王とローラの受精卵が混じって分かれた双子の兄。人の姿。 本当の名前はサンダルフォン。 生来魔法が使えないが、アラレ級の怪力の持ち主で人間とは桁はずれのMPの持ち主。 魔力が強すぎて魔法は使えないが、ドルオーラを魔法剣にする。 彼の力に耐えられる剣も存在しないので、五寸釘を多数持っているがそれで十分。 ヤエミタトロン 胎児。アロンドとローラ、そして竜王とローラの受精卵が混じって分かれた双子の弟。 半竜半人の異形。金色の鱗、閃光と稲妻と白炎の吐息を放つ竜神。瞳と両手は人のもの。 後に魔の島を支配する。 サムサエル ローラとアロンドの三男。常人なのがコンプレックスだが十分優秀。 ローラ ローラとアロンドの長女。伝説となる美女。ムーンブルクに嫁ぐ。 瓜生(ウリエル) 「現実世界」から、時々あちこちの剣と魔法世界に呼び出されて冒険している。現実世界での現在では医者として扮装地帯のボランティアをしている。 「現実世界」で売られている、または軍が採用したものは、冷凍ピザから水爆まで何でも、手を伸ばすだけで虚空からいくつでも出現させられる。その能力は魔法を封じる区域でも封じられない。 出した火器や機械を使いこなす器用さもあり、医者や技師としての技量も確か。数学から経済学、生態学、技術史まで何でも知っている。 かつて〈上の世界〉、そして勇者ロトことミカエラとともにアレフガルドに来てゾーマを倒し、賢者となって全呪文を習得した。 マホカトールや、パートナーがいればメドローアも使える。またゾーマ・神竜を倒したことにより、ガブリエルも同じだがモシャスにより一時的にその力を出せる。 魔法を補助的に使うことで、事前に整備・装填・給油して《ハンマースペース》に入れた品を瞬時に出すこともできる。 また、戦闘機など独力では使えない品と、ドラゴラムを応用した呪文で融合することもできる。 体力も常人の十倍以上あり、魔力を帯びた装備もいくつか持っている。 ジジ 勇者ロトの時代の人間で、盗賊カンダタの部下。貴族生活をするようになってからジャハレイ・ジュエロメルと名乗ったりしたが、アッサラーム出身の孤児。 勇者ロトとも一時仲間だった。 〈下の世界〉に閉じ込められ、デルコンダルを統一しようとしていたカンダタが反乱で戦死してから逃亡、ずっと石化されていた。 ざっくばらんな性格で口が悪い。盗賊としての技術も持っている。魔力は強大で、奇術・マヌーサ(幻術)・魔法を組み合わせるのが得意。魔法使いだが生来マヌーサが使えた。 悪を知り尽くしているからこそ悪を防げる。彼女がいる限り何事も幻、自らの意思などない。 売春・盗賊ギルド・諜報組織の元締めでもある。 サデル 〈ロトの子孫〉の女性。マイラ生まれで魔法に優れる。子供が二人いる。アロンドと勇者の座を争ったこともある。 アムラエル 歴史家の中年女性。教育熱心で、孤児時代のアロンドとも知り合い。 リレム ラダトームの貴族の娘。12歳。ローラ姫(とアロンド)に幼い頃助けられており、その恩から暗殺計画をアロンドに密告した。 顔も広く、天性人を楽しませるのがうまく、広告や演出の素質がある。自らも瓜生から奇術用具をもらって衆を沸かせ、後にジジから高度な技術や闇の人脈とのつきあいかたを学んでいく。 ローラ姫のためには蛮勇を発揮する。 キャレスア アレフガルド王国の、ローラ姫を幼少時から育てていた女官。54歳。 ローラの結婚後も彼女に従っており、後には宮廷の重鎮となる。 ガブリエル 〈ロトの子孫〉の長老の一人で、やや表に出る立場。ガライの町の有力商人。 ガライ 勇者ロトと同時代の伝説的な吟遊詩人の子孫。ガライからロトに関する歌と、かなりの数の「瓜生の故郷」の歌も伝えられており、自らの歌声も優れている。 〈ロトの子孫〉を強く崇拝している。 ヤフマ ムーンペタを事実上支配する豪商。石化されていたジジを所有。 レアヤ ムーンブルクの有力貴族。風の塔の北方(2でラーの鏡が見つかる沼地になる)の領主。 アダン 〈ロトの民〉の若者。カンダタの子孫。巨体怪力、暴走バッファロー。シャキール・オニールの肉体に桜木花道の頭脳。 ゴッサ 〈ロトの民〉の若者。背は低いが、人間的な印象がきわめて強い。(はじめの一歩)島袋+西郷隆盛。 シシュン カンダタの隠し子。デルコンダルからジジによって守られ、〈ロトの民〉に預けられ多くの子を儲ける。100歳を越えている。 サラカエル 〈ロトの子孫〉。四十代前半男性、産婦人科医としても優れる。幼い子供がいる。 ムツキ 〈ロトの子孫〉。二十代女性。サラカエルの妻。アロンド・サデルと勇者の座を競ったこともある拳の名手。 ベルケエラ 〈ロトの子孫〉。老女、最も優れた産婦人科医。 イシュト(イシュトヴァーン) アロンドが孤児としてラダトームにいたころ入った孤児集団の長。 本名も知れず、名前は〈下の世界〉でも知られた叙事詩である『グイン・サーガ』から勝手に名乗った。 作中のイシュトヴァーンを模倣して王になる夢を持ち、明るく元気でカリスマ性もあり、ナイフ投げもうまい。 レグラント 通称リール。 イシュトとともに、ラダトームでアロンドの孤児仲間だった。 親切で料理がうまく、孤児たちを実子同様にかわいがる。 のちには巨大レストランをきりまわし、大病院を運営するほど統率力・新技術に順応する能力も高い。 ロムル アロンドの孤児時代、イシュト率いる集団のライバルの長。 当時はアロンドを憎み、彼が持つ強力な武器を欲しがっていた。 策略もこなし、孤児たちを巧妙に従える。 のちにレグラントと結婚し、アロンドの腹心となる。 ハーゴン 邪神教団の下級神官で、イシュト・リールとともにアロンドの孤児仲間でもあった。 ツッセエ アレフガルドの大貴族。非常に評判が悪いが有力。 竜女 ダースドラゴン。人間に変身でき、その状態では美女で優れた魔法使いでもある。 竜の女王の血族に忠実。 ケエラ 9歳。ミカエラ直系の〈ロトの子孫〉。剣も魔法もかなり優れている。 農業を学ぶため、親元を離れてサラカエル・ムツキ夫婦のもとに送られる。 ダンカ 9歳。元鬼ヶ島で生まれ育つ〈ロトの民〉の少年。 ディウバラ ザハンから旅の扉で禁断大陸に通い、耕していた人々の一人。 神殿の私生児の少年。音楽が大好き。 ラファエラ 〈ロトの子孫〉。血筋も優れ、勇者ロトことミカエラにそっくりな美少女。 魔法も天才的で、若くして竜王戦役では実戦を経験する。 ジニ ペルポイの奴隷少女。本来は神官階層に生まれたが、賊に家族を殺され奴隷にされた。 絶世の美少女であり、数学・工学・語学の天才。 イリン三世 ムーンブルク王。王妃や王弟たちの力が強く、ほとんど実権がない。 テアハス王妃 ムーンブルク王妃。きわめて残忍な性格で、強い実権を持つ。 イリン王太子 ムーンブルク王太子。病弱で足に障害があり、軽んじられている。 サマンエフ王弟 ムーンブルク王の弟。邪神教の信者。 ラミエ二世 デルコンダル王。言動がいちいち大げさ。 故人 ミカエル 〈ロトの子孫〉たちの祖。 勇者ロト、ネクロゴンド女王となったミカエラと、ラファエルの双子の王子の一人。下の世界ではガブリエラと、十数人の志願者に隠れて育てられる。 カンダタのところで剣を習ったこともある。 ミカエル(同名の子孫) ミカエルの孫にあたる直系子孫だが、双子として生まれたので〈ロトの民〉に預けられ、ずば抜けた武闘家となる。踊りにも優れ、世界各国を回って情報収集・交易をしていた。 ラファエラとともに邪神教団に支配されていたデルコンダルを救い、双子の姉である彼女と駆け落ちして一子アロンドをもうける。 竜王に殺される。 ラファエラ (上の)ミカエルの双子の姉。〈ロトの子孫〉で勇者・最長老の有力候補として育てられた。剣・魔法・医学ともに最高の実力は伝説的。 後半生はミカエルと同文。 アスファエル 〈ロトの子孫〉最長老。高齢だが実力は確か。 竜王戦役で犠牲になる。 コテツ 〈ロトの子孫〉。竜殺しと言われ、魔法剣を二刀で使いこなす大力の勇者。 竜王戦役で犠牲となる。 オサミツ 〈ロトの子孫〉。腕のいい武闘家。アロンド・サデルの二人と組んでいた。 竜王戦役で犠牲となる。 ゆきのふ ドムドーラの武器商人。アロンドの隣人だった。先祖代々同じ名を名乗っている。 古くからの名家で、古い魔法の武器防具も蔵している。 アレフガルド王室から、ロトの鎧を預かっている。 竜王戦役で家族とアロンドを連れて避難しようとして死ぬ。 ガブリエラ 勇者ロト・ミカエラの仲間である賢者。アレフガルドに残ってミカエルを育て、〈ロトの子孫〉をまとめていたが消息を絶つ。