FinalFantasyXI 〜さよなら、そしてこんにちは〜                           葵 綾狐 「さっむー…」  言って、乱暴に吹いている空っ風を避けるように身を丸くするのはメイプルリーフ。  知ってる人は彼女を避けるか、追い払うか。  ごく一部の友人を除いては、評判がとことん悪いのが特徴。 「そろそろ秋だからなぁ…こんなものじゃないか?」  でっかい身体に小さい荷物…ではなく、これでも小さい方なのですよ。とは本人の弁。  メイプルが身を寄せているLSで唯一のガルカであり、数少ない友人。  名前はクーシャ。  彼の格好とメイプルの格好はさほど差異はない。どちらも魔導士で比較的あったか系。それでもメイプルが寒がるのは種族の違いか。 「クーシャってば、しかけ何使ってンの?」 「んー、今は疑似餌をためしてる」  さっきから当たりがこないメイプルが落ち着かない手つきで、釣り竿を振るってる。  ひっぱりあげて、また投げて。  かたやクーシャは自分のバケツに釣った魚をぽいぽい入れていく。  現在の成果は、ひーふーみーよー…七匹。 「そんなに落ち着き無いとつれ釣れないぞ」 「坊主の気持ちがわかるわ」 「は?」 「あたまをなでても当たり(毛)がない。つまんでも(毛が)釣れない」 「それ、ギャグか?」 「わかんない」  念のために書いておくが、クーシャは禿げていない。ヒゲでもない。  そーいえば巷ではハゲのガルカ達が有志による自警団を組織しており、悪さをした冒険者に天誅をくだしているとか。  そんな事を会話から思い出したクーシャは、目をつむって首を振る。  その聞いた噂では、ひとたび招集がかかればハゲだけのガルカが三十人から最大で二千人もの集団で襲ってくるというのだ。  それは絶対あり得ない、と思ったから。  そうこうしている間にも彼の釣り竿には当たりがくる。 「…あのー、お客様。飛空挺の離発着場での釣りはご遠慮して欲しいのですが…」  突然、背後からの声。 「お金払ってここに居るンだからこれくらい大目に見るにゃーよ」 「そう言われましても、これから次の便が到着いたしますので、乗り降りするお客様の通行の妨げや、業務をしております我々の作業に支障が出てしまうので…」  あー、やっぱり言われたか。  声をかけてきたのは飛空挺旅行社のスタッフだ。一応、搭乗口付近での釣りは禁止されていないが、離発着時刻が迫って来れば話は変わる。  実は二人は飛空挺を降りて、その場で釣りをはじめていたのである。  つまり、今来ると言われた便は二人が利用した後の便で。  なぜこーなったのかを説明するのは簡単だ。メイプルのお腹がサカナを欲したからである。しかも、生で釣りたてのヤツで、おまけに自分で釣ったものを。  ざぽん、といい音をたてて本日八匹目の魚を釣り上げるクーシャ。交渉はメイプルに任せて、自分は釣った魚からハリを外しにかかる。 「そんなに大層なこと言っても私はやめるきはナイにゃーよ。第一まだ一匹も釣れてないんだから、ここでやめたら私のご飯がなくなっちゃうにゃ」 「あの、ここでは特にエサ撒きもしておりませんし、なにより飛空挺の離発着時の騒音でサカナはふだんよりつかないんですよ」 「じゃあ隣で釣ってる彼はどーゆーことにゃ。こんなに釣ってご満悦してるにゃ!」  メイプル特有のだんだんと会話の論点がずれていく攻撃が始まった。 「それはただの偶然ではないでしょうか…」 「いーや、絶対必然にゃ。すーぐとなりの私がボウズで彼だけこんなに釣れるのは水面下でなにか特別なことがあるに違いないにゃ!」  この攻撃の欠点は、仕掛けている本人まで訳がわからなくなって、最終的にオチすらつかなることだが特にメイプルは気にしていないようだった。 「ただ単純に腕の差では…?」  その一言に反応して、メイプルは旅行社の職員をキッと、鋭い目つきで睨みやる。  たじろぐ社員の横でハリをはずし終わったクーシャがふと空を見れば、彼方に黒いゴマ粒のようなものを見付けた。  ああ、あれがそうかな。  思い、簡単に手入れをすませた釣り竿とえさ箱を荷物のケースにしまい込んだ。 「ほらメイプルよ、このサカナ半分あげるから釣りはやめなさい」 「…はーい」  手渡されたサカナを尻尾振り振り、かぶりつくメイプル。  うわ、生臭っ。  そう思いはしたが、クーシャは口にはしなかった。  クーシャとメイプル、揃ってゲートに向かって歩き始める。  ため息をついて安堵するスタッフの肩をぽん、っと軽く叩いてクーシャは軽く笑った。 「ご利用有難うございました。良い旅を」  その声を背中で聞きながら、クーシャは幾筋も立ち上る煙の柱を眺めていた。  あそこにはクラフトマン精神を目一杯詰め込んだ工房があるはずだ。  風に混じる不純物の匂いに、ここがその地だと実感する。  バストゥーク、だと。  □e それは突然舞い込んだ落ち葉のように  メイプルが軽い怠惰を覚えながら身を起こしたのは、隣で寝ている男の寝返りを身体で感じたから。  体毛がタオル地の布団を滑らせ、メイプルの肌をあらわにしていく。  身を起こし、ベッドから離れても、布団は脇で裾を挟んで離さない男の物だった。 「ん〜」  全裸のままで、一つ、伸びをする。  久しぶりに優しく抱かれた。  多少のぎこちなさが引っ掛かって、盛り上がりには多少欠けたが満足はした。   何時も金で身体を求めてくる輩を相手にしていればこそ、そういうモノも大切に思えてくる。  …すっかり、年増思考になってきちゃったかも。  と、心の片隅に沸いた疑問をあわてて否定する。  経験していればこそ出てくる当然の思考よね。うん。  一つある部屋の窓は昨日の夜から全開で、潮の香りと特有の湿り気が肌に絡み付く。  正直言ってミスラであるメイプルにとっては湿気というものが大嫌いであった。つまり、肌がべたついて体毛が張り付いてしまうのだ。  まあ、ヤったあとの身体というものは広い意味でべたべたである。  さっさと帰るか、この場で水を借りるか。 「…目ェ覚ましたら、もう一回って言いそうよね。彼」  メイプルは呟いて、脱ぎ散らかした自分の下着に手を伸ばす。  帰ることにしたらしい。  ものの数分で支度をすると、名刺代わりの羊皮片にキスマークとメッセージを残して部屋を後にする。  外はもう真っ昼間だった。  ここが何階かを確かめるために、モグハウスとジュノの外部区画を繋ぐ陸橋までやって来てカベに書かれてある数字を確認する。 「よぉ。ねーちゃんは男の所から帰るのかい?」  そういったからかい半分の言葉を聞き流して、自分の部屋があるフロアへと階段を下りていく。  やっぱ臭うかなぁ。  自分の手をくんかくんか鼻を鳴らして嗅いでみる。…臭う。  しまったなぁ。こんな基本的なことも忘れてたんだ、私。  身体を使って商売を始めたのがン年前。それから娼館で客を取っていた時期が2年ほどで、そこを出たあとは相手をするのが酒の勢いでやるときくらいで。  こないだ冒険者仕事を受けたついてで仕事に戻って、それが終わって2週間かぁ。  何であいつと寝たんだっけ?  ああ…そうか。良く行く酒場に仕事してたときの客として来ていた彼が居たからか。 『すみません。失礼を承知で聞くのですが、…カデナさんですよね?』  突然にカウンターで呑んでいた私の隣にやってきて、彼はそう言った。  誰だっけ? と首を傾げていると、彼はすこし困った顔をして小声で言ったのだ。 『あの、一月ほど前に…劇場横の酒場でお会いしたの…覚えてますでしょうか』  いわれで思い出した。彼の顔。  店に連れ二人とやってきて、あたりをきょろきょろしながら、気まずそうにお酒だけ飲んでたのよね。  連れはさっさと個室にあがってって彼だけ呑んでいたから、私が相手したのよね。  あの時は…そう、お酒の相手だけしてそれでサヨナラだったっけ。  してみる? って聞いたら顔を真っ赤にしてそのまんまだったでしょ。 『次来たときに頼もうと思ってたんです。けど、お店なくなっちゃって』  そりゃ、なんか残念だったわねー。早く来れば良かったのに。 『あの、これから…ってのはマズイっスか?』  やっぱり、酒が入っていると身のガードが甘くなる。  あの時は仕事でやってただけなのよ、と説明するのも忘れていた。  なにより、する時のクセが身体に残っていたのがトドメだった。 「なんでメッセージまでのこしてくるのよ…私」  言っても仕方がない。  ただあーいう抱き方をしてくれるんだから、私を好いてくれては居たのかな。と、思う。  ありゃ、はじめては彼女とヤって、しばらくしてケンカ別れた後私に会ったってクチよね。きっと。  連れと店に来たのも別れたヤツなんかわすれちまえ、って事なんでしょうね。  …後、引くかなぁ?  そう思っていたのは自宅のドアをくぐったときまで。 「おかえりクポー」 「ただいま。なんか変わったことあった?」 「たった今あったクポ。ご主人、朝帰りだってのに全然酔っ払ってないクポー」  ゴン。 「悪かったわね!」  頭にゲンコツ喰らって床に突っ伏したモーグリに向かって、犬歯むき出しで怒鳴るメイプル。  いつもがいつもだから、余計にモーグリの言葉に腹が立つ。いや、そう思われている自分にも腹が立ったが怒りは全部拳に込めていた。 「ひ、ひどいクポ…」 「かかと落としじゃないだけマシだと思いなさい」  ふらふらと、身を起こすモーグリ。叩かれた箇所を二、三度手でなでてるとき、何かを思い出したようで。 「そーいえばホントに珍しいことにご主人に手紙が来てたクポー」 「ホントは余計でしょッ!」  ごん。  再び、床にモーグリは落ちたのだった。 「なになに…。ああ、差出人はキュレレか」  差出人は名前をみなくても特徴のありすぎる文字で、一瞥するだけでメイプルには事足りた。  『帰ったら手紙を出すからね』と言っていたキュレレの顔を思い出す。  モーグリが用意したペーパーナイフに目もくれず、厚手で高級と見て取れるその封筒を封も切らずに破ってしまう。  べびびびっ、っと内を蝋塗りされた封筒の悲鳴ととも中からバラの花びらが舞い落ちて、かすかに香ってくるのもバラの香り。  さすがに勿体なかったのかな、とは思ったが後の祭りとはこのことで、今となってはどうしようもない。後悔するのはあきらめて便せんを取り出し目を通す。  お元気で日々お過ごしでしょうか?  こんにちは。こんばんは? それとも朝帰りのお早うございますでしょうか。  先日、たいへんお世話になりました。キュレレ・アレッポトフです。  先ほど引っ越しの荷ほどきも終わり、心身落ち着かせる時間ができたのでまずは一報と思い、一筆したためた次第です。  と、堅苦しい挨拶は書いていて気持ちのいいものではありませんね。  本当はもっと簡単に連絡する予定だったのですが、あまりにも家を留守にしすぎたせいか、両親にしかられてしまいました。  しばらくは親元で謹慎というか、囚われというかまあ家事手伝いっぽい事をしてすごすことになりそうです。  近所にお立ち寄りの際は、是非おいでください。  数少ない親友として、精一杯おもてなししたいです。  それでは、お元気で。  追伸  クルジェさんのことを母親に話したところ、「そんなにいい人でしたら一度お会いしたいわね」と言ってくれました。  早速、速達でお誘いの手紙を出したのでとっても楽しみです。  ええ、とっても。  その手紙を読み終えて、メイプルはふと一末の心配と疑問を口にした。 「これ、行ったっきり帰って来れないとちがわない?」  モーグリも横からのぞき込んで言う。 「クルジェさんは確実に捕らわれると思うクポ」 「親にクルジェのことをどんな風に話したのかも、興味あるわよね」 「…行ってみるクポ?」 「冗談。ウチの親も居るのにのこのこと出て行ったら尻尾と耳が無くなるわ」  げっそりとした表情でメイプルはボヤく。  メイプルの親はバストゥークで冒険者が見つけてきた正規のルート以外で採掘された原石を、市場の正規ルートに流す仕事をしている。  真っ当な仕事かと聞かれてもメイプルは首を縦には振らない。  冒険者が許可を得て掘り出した物は当然、最初っから正規ルートで流されるからだ。  それ以外は法律ですべて盗掘された物、と言うことになっている。  通常闇ルートで取引された物は市場のン十分の一という低価格のレートで流されてしまう。  当然そんな低価格で流したくない冒険者達はなんとか正規ルートで物を売りさばこうとするだろうし、他にも獣人から巻き上げた物もあるだろう。そういった物をレートの十数パーセントのマージンをもらって正規ルートに乗せる職業がある。  それがメイプルの母親の仕事。  メイプルの母親も元々は冒険者である。その肩書きはいまでもそのまんまで、書類上では採掘許可を持った冒険者で組織されたカンパニーを経営している事になっていた。  余談になるが、メイプルは父親の事も知らない。  雄のミスラというのはもともと個体数が少なく、性格もおおむね保守的で悪く言えばひきこもりなヤツが多いのか見かける事すら珍しい。  しかもメイプルの父親について母親は何も言わなかったし、物心ついたときにはすでにサンドリアへと養子に出されていたから。  だから大人になっても両親がどんなミスラなのか知らなかった。  そんなメイプルが唯一知っている親の顔見たさに、母親の所に顔を出したのは当然だと思ってやろう。  しかし、母親は違った。  落ちぶれた格好で帰ってきたメイプルをみて激怒したのだ。  英才教育をうけさせて、サンドリアの国家に仕えうまくいけばエリートコースまっしぐらだったのに。それがいつの間にか、薄汚れた貧乏冒険者になっていた。  テメェどの面さげて帰ってきやがったコンチクショウ、である。  当たり前のようにメイプルはぶん殴られた。  今考えれば、何処の親だって自分の子供がこんなのになって帰ってきたら、それくらいで済むはずはないだろうと容易に想像はできる。人それぞれだが最低でももう二、三発は殴られたり説教喰らったりはあるはずなのに。  でもその頃のメイプルはそれくらいですむと思っていたのだから、オツムが少々幸せモンだったのだろう。  そんなんだから全然、見当違いだっことに大層驚いた。  あまりの出来事に訳もわからず殴られた頬に手を当て、目を白黒させているメイプルに母親は再度殴って、蹴って、あげくの果てに斬りかかって来たのである。 『耳と尻尾ぶった切って、簀巻きにして海に沈めてやるから覚悟しやがれ』  メイプルが怒り狂った母親からどうやって逃げ出したかは覚えていない。  気がつけば一人飛空挺のキャビンで息を切らして座り込んでいた。  後で母親が飛空挺パスを持っていなくて入れなかったのだと思いついたのは、ジュノにある自宅についた三日後の夜だった。 「あんな恐い目に遭うくらいなら、一人でトンベリと殴り合えって言われた方がまだマシだわ」  記憶をほじくり返しつくし、心なしか顔まで青ざめたメイプルが言う。 「たまーに夢でうなされてるクポ」 「え、マジ!?」 「嘘ついても意味無いクポ。ご主人、ベッドで『うぐー』とか『やめてー』とかゴロゴロ転がりながらのたうち回ってるクポー」  モーグリが身振り手振りでその様子を再現してくれたが、長さの足りない手足ではどうしてもミミズがのたくっているような、訳のわからない動作でメイプルには意味不明で。  それでも、グニャグニャしていることは判った。 「ま、来てくれ言われても行けないわよね」 「クポー」  これで話はお終い、とキュレレの手紙を便箋に戻してテーブルに置いたところで自分が帰ってきたまんまの姿だったことに気付く。  ついでに、風呂もまだだったのも思い出し、ご飯もまだで睡眠と言ってもそうなんぼも寝ていないのを時計で確認した。 「えーと」 「ご飯もないしお湯も沸いてないしベッドくらいしか準備してないクポ」 「まだなんにも言ってないけど、的確な答えをありがとね。…あーあ。水でもいいから浴びるわよ。準備して、準備」 「はいクポ」  ここで驚愕の事実をお教えする前に、一つジュノにあるレンタルハウスの間取りを想像してもらいたい。  その室内はワンルームのバスなしトイレなしキッチンレス。  暖炉はあっても調理には向いていない形状。  キッチンとトイレはこのさい抜きにして、これからメイプルが入るであろうお風呂は何処にあるのか。  正解は次の行で。 「いいよって言うまでそこから出てこないでよね」 「わかったクポー…」  部屋の真ん中にでっかいオケとタップリのお水。横には石けんとシャンプー・リンス、ブラシにタオルとバスタオル。横のテーブルに替えの下着と部屋着。  モーグリは布団の下に押し込んで、その上に着ていたモノを脱ぎ捨てた。  そして今の台詞。  モーグリの返答はかなり不明瞭だったがまあ判ったので良しとした。  風呂が家にない、というのがこれほど不便だとは部屋を借りるまで想像していなかった。  借り始めの頃はとにもかくにも家賃のことで頭がいっぱいで、『風呂がなくてもかなり安いんだから良いわよね。共同の銭湯もあるし食事はモーグリが作ってくれるから器具は無視してイイし』くらいにしか思っていなかった。  引っ越しの当日、入ってすぐにそのオケとたらいが目についた。  なんだこれは、と思ったもののそれが風呂道具だとはすぐに結びつかなかった。  引っ越してから、三日目。  さーて今日も銭湯いってくるかー、と出かけていったメイプルの目の前、共同浴場のドアに掛けられた一枚の札。  それは達筆な筆字でこう書いてあった。 『定休日』と。  がっくりと肩を落として帰宅したメイプルはその時とんでもないものを眼にした。 「あれ? 早かったクポねー」  と、のんきな口調でシャンプーハットなんぞを頭にかぶり、当然のごとく頭をシャボンだらけにして届かない手の代わりに頭にブラシをあててゴシゴシこするモーグリの姿。  その足下にはたらい。横にはお湯の張ったオケ。  この時の悔しさはなんというか、素手で月を握りつぶせそうな勢いがあった。 「まあ、風呂あったらあったで掃除たいへんでしょうね」  丁度あった鍋一杯分のお湯(モーグリ曰く、それは昼ご飯に使う予定)とシャンプーで髪の毛を洗いつつ、ついでにボディーソープ(ノミ取り入りミスラ専用)を使って身体をわしゃわしゃ洗濯しながら思い出す。  アルティとライズの部屋にはちゃんとバスとトイレがあったわけで。  二人は揃ってこういった。 『メイプル(さん)はいつも家を留守にすることが多いからべつに無くてもいいんじゃない(ですか)?』  なるほど納得。  メイプルが家に居るのは一月平均、十日間前後。  そんなら風呂はなくても困らない。公衆浴場の定休日が在宅の十日間にあっても一日くらいと考えれば。  そんなワケでメイプルはこの状況に多少の不便を覚えつつも、目をつぶってここに住んでいる。 「うは、冷たっ」  夏も終わり、汲み置きの水も肌に染みる温度になった。  そんなものだから身体についたシャボンを落とそうとしてもいきなり肌に水は掛けられず、タオルを濡らして間接的に肌を洗う。  何度も言っているが、メイプルはミスラだ。  その状況に、流石に忍耐がくじけて適当に身体を流し始める。 「う〜…」  身体が臭うのはイヤだが寒いのはもっとイヤだ。  結局は烏の行水程度でお茶を濁してしまった。 「出てきてもいいわよ」 「なんか早すぎる気がするクポー」  バスタオルで髪を拭うメイプルの姿をみてモーグリは肩をすくめる。 「水が冷たくて、ノンビリ出来ないわよ」 「もう秋だから仕方ないクポ」  床に転がった空の鍋を見て、あーあ、とモーグリはしょんぼりとする。 「このお湯つかっちゃったクポー…」 「お湯があったら使いたくなるじゃないのよ」  それが当然と言わんばかりに言い放つ。 「ご飯支度やり直しクポー」  そう言うのがモーグリの精一杯の抵抗だったわけで。 いつもより三十分ほど遅れた(何故遅れたかは推して知るべし)昼食も終わり、モーグリは後かたづけを、メイプルはベッドに腰掛けて爪の手入れをし始めた。  爪の形をネイルファイルで整える最中に自分の指が細くなっていることに気付く。  痩せたわけではない。  今までろくすっぽ使っていなかった腕と指に余計なお肉がついていた。それが無くなったからではないだろうか。  自分の身体が良くなっているのに気がつくのは、患者にとっていいことなのだとアルティが言っていた。  気持ち、口元がほころぶ。  なるほど、確かに自分の治療に対する姿勢が前向きになる。  それが励みになって一段と身体がよくなるのならば、それはとてもいいことだ。  そんなことを思いつつ、マニキュアの色はなににしようかと悩んでいると、不意にドアをノックする音。そして、通りの良い低音の声がドアの向こうから聞こえてきた。 「おーい。メイプルは居るかいのぅ」 「居るにゃー。一寸まってて」  声だけで誰か見当がついたメイプルは言うなり、ドアを開けてやった。 「クーシャがウチに来るなんて珍しいにゃんね」 「どーしても、直接話す用事があったからなぁ」  ガルカの標準でもあるデカい身体をソファーに下ろし、土産といって紙包みをメイプルに放る。 「あら」  包みを開けてみればそこにはこんがりと、見た目美味しく焼けたアップルパイ。 「もらっていいのにゃ?」 「スキル上げの余りだからの」 「じゃ、いただきまーす」 「トカゲの卵で作った方だけどナ」  その一言で、大口開けてかぶりついたメイプルの動きが止まる。 「ふ、ふぉあえのあまご?(訳:と、とかげのたまご?)」 「うん」 パイが口からぽろっと落ちる。 歯形の付いたパイは、そのまま床にぽとんと。 「もったいないのぅ」 「私はトカゲの卵がだいっきらいなの知っててやってんのかにゃ、アンタ!」 「実はリアクションがみたくて」 「だからってやっていいことじゃないにゃ! 見てよこの尻尾! ぱんぱんに膨れてるし背中にさぶいぼびっしりにゃー!!」 「それはスマンかったの。どれ、おにーさんがとびきり美味しいカレーを作ってあげるから、それで許しなさい」 「いまお昼食べたばっかりだからいらにゃい! それより用事あってきたんでしょ。さっさと用件言うにゃ」  ふてくされ、口直しの一杯とモーグリが淹れた温めのお茶を一息で飲み乾し、さっさと話せとクーシャをニラむ。 「あー、そうだの。…知っていると思うけど、バストゥークの鉱山採掘技術の見学でシャントット博士がお供つれて直々に行くって話があってね」 「遺跡の発掘にどうしても技術が必要だってダダこねたアレねー。そこまでは知ってるけどにゃ、それで?」 「実際に進展があった。というか、バストゥークからは『視察にくるなら案内します。ケド、それ以外のところは秘密です』って返事だったらしいのだな。ノウハウは秘密だけどそれを使っている場所は見学できます。監視付きで、と」 「そりゃそーでしょー。簡単にはいどうぞって教えて万が一、ウィンダスでも鉱山採掘だって話になったら洒落に何ないわけだしにゃ」  訳知り顔で頷くメイプルにクーシャも相づちを打ち、続ける。 「うん。実際ウィンダスでも鉱脈を探すために調査団結成してるし、内情を少しでも知ってる人間だったら誰でも教えたくはない、と。でも断固として拒否するような内容ではないし、まあ国間問題にならない程度は見せておこうってハラだろうなー」  「そんなとってつけた視察にシャントット博士がわざわざいくわけにゃ?」 「いや、それが今回の仕事。博士とは別にウィンダス所属の冒険者が、鉱山に抗夫として入り込んだり周辺の関係者に接触して情報仕入れたりしろって」 「へー。そりゃご苦労様にゃんね」 「うん。だからメイプルにもちょっと手伝ってくれないかと相談しにきたわけですね…って、なんだいそのイヤそーな顔は」  見ればメイプルの表情が苦虫かみつぶしたどころではなくて、それはまるでガンくれてる何処ぞの不良学生。 「だって。私の実家がバスにあってしかも親が大嫌いだから、帰りたくないのにゃ」 「なに子供の家出の理由みたいなこといってるんだね君は」  メイプル本人には切実でも、他人が聞けば当然駄々っ子の言い訳にしか聞こえない訳で。 「LS単位で依頼うけたんだから、キミも参加することになってるの。OK?」 「な、なん(ry」 「今日、隊長以下LSの1/3がバスに移籍したのよ。でほかのLSメンも各自バスに移動して明後日からの視察に備えるわけ。メイプルがパール外していて連絡とれないから直々に僕がお誘いに来たわけで」 「…」 「隊長の面目のためにも支度して一緒に来なさいよ、ね?」 「(´・ω・`) はい」  こうしてイヤとは言えないままメイプルはしぶしぶ飛空挺に乗り込み、一路バストゥークにー向かうことになったのだった。    □e 優しさと、厳しさと  バストゥーク湾から鉱山区にいくには途中の商業区を抜ける。  モグハウスがある区画を通って一気に抜けることも出来たが、メイプルは用事があると言って港と商業区を結ぶ橋をクーシャと共に歩いていく。  街のあちこちに見える住宅や、倉庫群はすべてにおいて白っぽい。それはこの地でよく取れる白色の角石をつみ固めた特殊な工法で、樹木が少ない風土を反映したものであり、この土地で生きる人間の知恵が詰まったモノだった。  なにより、年中乾燥しているこの大地でのこと。自身に適度な水分がなければ強度が出ない木材では役不足なのだ。  だから見渡す限り石造り。  当然二人が歩いている橋も石材で出来ている。その石畳のゴツゴツ感をジュノの町中と同様、歩きにくいとメイプルは素直に感じていた。  やがて橋の終わりまで来たとき、メイプルはクーシャが数歩遅れて歩いているのに気がついた。  見ればリンクパールを耳に当て、誰かと話している。顔は…『ああやっちまったか』という一種の徒労混じりの苦笑といった所か。 「今隊長たちがLS会話で、ウィンからの移籍組はみんな鉱山関係の就労に失敗しましたーいってたわ」 「えー、じゃ皆移籍しても意味無かったってことニャー!?」 「視察直前のこの時期に移籍する冒険者なんて、怪しすぎてつかえねーってことですな」  会話を終え、駆け足で追いついてきたクーシャの言葉に唖然とするメイプル。 「まあ移籍してすぐ仕事もらえるかも怪しかったけどネ…。で、計画がダメになったところで別の手だては考えてあるの?」 「今メンバー全員で思案中。メイプルも頭ヒネりなさいよ」 「なんか思いついたらおしえたげるにゃ」  とりあえずの返事と、言い訳程度のアイディアを出そうと頭をヒネねる。  考えながらメイプルは歩く。クーシャも時折リンクパールで誰かと話している。 「…私が考えると、どうしても犯罪者になるにゃ」 「国立図書館に無許可侵入、鉱山技術責任者を拉致・監禁、現場監督に賄賂…そんなとこかいの?」 「うん」  そんな非現実な答えを見付けた頃には、二人とも商業区の真ん中を歩いていたわけで。 「そういえば、クルジェから聞いたけど、友人がバスに居るって?」  そんな話が自然に出てきたのも雑踏にまみれた中、道行く人の顔を見ていたからであろう。 「まぁ。居るついでに一度遊びにいこうかなとは思ってるけ…ど」  言いながら目に飛び込んできた区画案内板の地図、そこに書かれてあった番地に違和感を覚えて立ち止まるメイプル。  記憶を辿って出てきたのはメイプルに届いた手紙、キュレレからの手紙に書いてあった住所。それは案内板の通りならば鉱山区の住居区画の一角、『鉱山技術者住居区画』と案内板に書かれていた所。 「なにかあったのかいの?」 「いや…、道に迷わないよう暗記してた所…」  自分の記憶違いであればいいと思った。 「あら、メイプルじゃない! わざわざ来てくれたワケ!? 手紙だしてからナンボも経ってないのに!」  家の外と内を仕切る扉を開けたタルタルは、満面の笑顔でメイプルを迎えてくれた。 「いやあ、仕事でこっち来る予定あったから顔を出してみたンにゃ。突然押しかけてごめんネ」  相手のテンションに気圧されつつメイプルは笑顔を返す。  クーシャとは看板を見付けた後すぐに商業区で別れて鉱山区にあるキュレレの自宅へと向かった彼女、心の隅で引っ掛かる疑問を思考の他所に押しやることが出来ずにドアをのックしてしまったため、どうしても相手のペースにノれない。 「こっちの事は気にしないで! ウチに来るのはムサ苦しい筋肉の塊みたいなガルカばっかりで退屈だったのよ」 「向こうではガルカのお客さんなんて居なかったからねぇ」 「そうそう。まぁ上がってってよ! 少しくらいはゆっくり出来るんでしょ?」 「うん、仕事終わるまではこっちに居るから」  メイプルの一言にキュレレは、殊更笑顔になる。 「よかった! なら是非ウチの両親にもカデナの事紹介させて? あと少ししたら仕事から帰ってくると思うんだ♪」  ドアを閉め、客間に通じる廊下を案内される間だキュレレはメイプルの周囲をくるくるまわって嬉しそうに笑っていた。 「こちらにどうそ! 今飲み物持ってくるから」 「おかまいなくー♪」  通された部屋は暖かく、見れば暖炉にはちろちろと小さい炎が揺れていて。  来客用の大きなソファに腰を下ろして、横にあった大小様々の暖色系のクッションの中からメイプルは小さめのを選んで、背中とソファの背もたれの間に挟んだ。  そして、手にしていたお土産はテーブルに、自分の手荷物は足下に置いたところでなんとなく辺りを見回してみる。  外から見て壁は石造りのままかと思っていたがそうではなく、木材を多用して補強とインテリアを兼ね備えた作りになっていて、今まで見てきた街並みの感触が無く、また家具もタルタルサイズの物と高さが同じになるよう、来客用の物には低めの物を選んでいる様子であった。 「なんか気になるものでもあった?」 「え? いや、この部屋にいるとバスに居る感覚がなくって」  大きめのマグカップを渡してきたキュレレに素直な意見を返したメイプル。  受け取ったマグカップをみればそこにはホットミルクが。 「お砂糖もあるからお好みで入れてね。一応カデナが飲める温度だと思うけど気をつけて」  ふっ、と心の緊張が解ける時間。  持ってきたプレゼントを渡したり、部屋の作りがウィンダスの家屋に似せて作っていることを教えてもらったり、親の仕事の都合でお客さんがよく来るため、客間には殊更気を遣っている事も聞いたり。 「やっぱり、ここに住んでるって事はご両親も鉱山関係の人?」 「うん。鉱脈を探すための試掘抗を掘る職人なんだ」  その答えにメイプルは内心どきりとした。 「あ、じゃあ来るお客さんってのは…」 「国のお偉いさんと現場の指揮監督とかそんな人。ヒュームとガルカのおぢさんばかりなのよ。だから変に肩こるのよね。自宅のはずなのに心が安まらないってのはイヤよね」  視線をマグカップにおとして呟いたキュレレ。 「私が小さいときからずっと。こっちに来たのは冒険者だった父親が、鉱山の仕事が好きになったから。そしたらいつの間にか身体がちっちゃいから試掘抗も小さくて済むなんて言われ出して、気がついたらここに骨を埋めなきゃいけないほどエラくなっちゃってさ」 「じゃあ…ウィンダスに帰ってないんだ?」 「ホントは帰りたいんだろうけど、私も含めてウィンダスへの渡航は禁止されてる。それでも私なんかは自由にさせてもらったのかな。…久しぶりに家に帰ってきたら父親の顔が老けててさ。びっくりした」  テーブルの角には一輪挿しの花瓶と、キュレレの家族であろう三人が葉書大の肖像画として飾られていた。  その中で三人は優しく微笑んでいて、その中心、父親に抱かれて居るのが彼女であろう事はメイプルにも判った。 「この部屋もずいぶん変わったのよ。昔はこんなにウィンダスっぽくなかったし。本当は帰りたいんじゃないのかな、って。そう考えたら少しの間、父親の側にいるのも良いのかなとか思うようになったり」  マグカップを持ったまま二人は肖像画を見ている。 「だめね。自分でどうにもならないことばかり考えてる」 「それは…」  言いかけて、言葉が詰まる。 『それは、自分がよく知っている。私の人生はどうにもならないで諦めたり、逃げてきたことの積み重ねだから』  その結果が貴方の目の前にいる自分だ。  親に家族に友人に世界に恋人にカミサマに。  貴方の方がまだ日の当たる道を歩いている。私が言うんだから大丈夫。貴方は私より不幸じゃない。 「…どうしたの?」  意識が思考の深淵から引き戻される。  あわてる必要もないのにミルクを一気にのみほして、メイプルは少し引きつった笑みをキュレレに返した。 「なんでもないのよ。一寸今回の仕事がキュレレのお父さんの仕事にも関係あったの思い出しただけ」 「関係…あるはずないわ。あったらこの国から出られない」  三度止まる会話。静寂の支配下におかれた二人。  メイプルがこの家に来てから一時間も過ぎてはいない。  余計な言葉だったと思う。仕事のことも秘密だったはずだ。フォローしたつもりが見事に滑った。  返す言葉も見つからないまま、メイプルはキュレレの顔を見ているしかなかった。 「聞かなかったことにする。お互いその方がイイと思うし」 「ごめん」  真顔になったキュレレの言葉がメイプルの心をえぐった。  それからキュレレの父親が帰宅するまでの間をメイプルはよく覚えていない。  ミルクのお代わりをもらって、ジュノの現在の流行を教えたり、仲間の噂を話したり。 「ただいま。今帰ったよ」  気がつけば日は傾き、キュレレの父親がお客を連れて戻ってきたのに気がついて会話が中断した。  玄関先まで迎えに行ったキュレレとその父親の会話がメイプルにも届いてくる。 「お帰りなさい。お父様、お客様ですの?」 「ああ、一寸込み入った話があったんで来て貰ったんだ」 「こんばんわ、お邪魔しますね」  三人して客間へと来て、メイプルはその『客』と目があった。 「なんだ。また、こっちに来ていたのか」 「…用事があって」  偶然ではなく当然だった。  メイプルの母親が同じ場所で働くキュレレの父親を知らない方が不自然だから。 「お知り合いでしたか?」  キュレレの父親がメイプルの母親に問いかける。  その答え次第ではここを出てからの自分の運命が決まると勝手に想像したメイプルは、ビクつく心を必死に抑えて出てくる言葉を待つ。  不出来な娘と言われるのか、はたまた親不幸者と言い捨てられるのか。  ところがが、出てきた言葉はメイプルの想像と全く違っていた。 「知人の娘さんですよ。親と違って好奇心からか冒険者になって世界中回ってるんですよ」 「ほほう、それはそれは」  呆然とするメイプルにキュレレの父親は手を出し、握手を求めてきた。 「はじめまして。バンノガンノ・アレッポトフです。ジュノでは娘が大変お世話になったそうで」 「あ。カデナ・メイプルリーフです。こちらこそ色々とお世話になりました」  タルタルの小さな手を握りメイプルも名乗る。 「ほう? ヤンナさんと同姓なのですか?」  バンノガンノの質問に答えたのはメイプルの母親、ヤンナ。 「知人というのがサンドリアでは少し名の知れた人でして。万が一の事を考えて外に居るときは私の姓を使うように言ってるのです。失礼とは思いますが、許してやってください」 「なるほど。そういう事情でしたか」 穏和な笑みで頷くバンノガンノ。  そう言う事…か。  握手したあとの手のひらをぎゅっと握って、今この場で母親に対して問いつめたい気持ちを心の内へと押し込む。  まず養子に出した子供、というのは他人に説明するのは難しい。  それに産みの親の姓を勝手に名乗っていたのは自分なのだとメイプルは思う。  それを怒りもせずフォローしてくれた母親に、感謝すべきなのではないか。  なにより、この場でする話でないのは自分も十分承知していたし、出てくるであろう答えは自分の気持ちをもっと沈めるものだろうから。  キュレレは目を丸くして、少なからず驚いているようではあったが。 「まあ立ち話というわけにもいきませんから、どうぞ腰掛けてください」  ヤンナをメイプルの横へと導き、自らはテーブルを挟んでヤンナの正面に座るバンノガンノ。  キュレレが淹れてきたウィンダスティーが全員に渡り、全員が落ち着いた頃合いを見てバンノガンノは『先ほどの続き』と断りを入れて話し始めた。 「カデナさんも冒険者なら耳に入っているかも知れませんが、近日ウィンダスから鉱山の採掘現場の見学と称した政府の一団がやってくるんです。問題なのは、こちらの鉱山技術には秘密にしておきたい部分もあるわけで。当然のことですが、お見せすることも話すことも出来ません。そこで、ヤンナさんにも義務が発生するのはご存じですよね?」  バンノガンノの視線を追いかけてメイプルもヤンナの顔を見れば、そこにはすまして微笑む彼女が居た。 「もちろん知ってます。…ウィンダスの冒険者があちこち歩き回って、情報を得ようとしているのも耳に入ってますし、こちらにウィンダスからの使者が来るという情報も把握しています」 「そちらも、ウィンダスからやって来た冒険者が多数所属していると聞きますが」  つまり、アレだ。  お互い監視し合うように焚きつけられた、と。  自分が頼まれた仕事のことを棚に上げることも出来ず、胸にチクチクと刺さる物を感じて他人事としては聞き流せないメイプル。 「今回の件についてはお互い得になるようなことはありません。それは存じてますよね?」 「当然。ですからお互いが何を聞かれても答えない、それで良いのではなくて?」 「使用している冒険者のこともあるでしょう。そのセンから情報漏洩があっても困るのですよ」 「何処のダルメルの骨かも判らない人間に、そんなことを話す意味もないですわ。第一それを言ったら貴方の方こそたくさんの部下をお持ちでしょうに」 「私の部下は全て政府関係者です。そんな輩はいませんよ」  猫と樽のにらみ合いが続くその横で、メイプルはすでにあきれ果てていた。  この二人が気にしているのは、自分の職務の中にある機密であり、ウィンダス政府が欲しがる情報としてはごく一部だろう。  ただ、二人はタルタルとミスラという種族の事がある。それに元々冒険者という出自も手伝って危険視されているのだと、メイプルは考えていた。  しかし、今妙なことを言っていなかっただろうか。  こちらにウィンダスの使者が来るとか。 「…使者が来るのは確定なのかにゃ?」 「今日の午前中に追い返しました。祖国に帰れるとか待遇はこちらよりも上だとか色々好き勝手言ってましたが、自分のことよりも家族のことや信用の方が大事ですからね」  メイプルの問いにバンノガンノは胸を張って大仰に答えた。 「はぁ」  しかし、追い返した…とは。  メイプルの脳裏には追い返されて、その事をどうシャントット博士に報告しようか悩んでいる可哀想なタルタルの姿が浮かんでいたわけで。 「その事を聞いて安心しましたわ」 「ヤンナさんも大丈夫ですよね?」 「商売ですから。信用が第一なのは重々承知しているつもりですわ」  涼しい顔で紅茶を飲むヤンナの顔に、キュレレも含めた三人の視線が集まっている。  バンノガンノとキュレレは納得顔で。  メイプルは信用できないぞ、と言う顔で。  そんなメイプルの顔にバンノガンノは気付かなかったらしい。 「それではお互いの意思も確認できたことですし、かたい話はこれくらいにしましょう。もし宜しければ一緒に食事でもいかかですかな?」  一転笑顔で二人に対して夕飯の誘いをしてきた。 「いえ、お誘いは嬉しいのですが今日はこれからカデナを飛空挺旅行社まで送りたいと思いますの。このようなときに冒険者が我々の所にいるだけでも、他人には意図のあることと思われますし」  それをやんわりと断ると、ヤンナはメイプルに向いて言う。 「申し訳ないけど、今回はこのまま自宅に戻ってもらえるかしら。ご両親も心配している事でしょうし、ね」  にっこりと微笑むヤンナの顔は目だけ笑っていなかった。  帰り道。  親子並んで歩くのはこれが初めてでないかと、メイプルは思っていた。  もう日が暮れて、街灯の明かりに頼り出す時刻の街は、帰路につく人々を早足にする。 「急がないと飛空挺飛んでいくかしらね」 「最終便はあと2時間後」  懐からサンドリア製の懐中時計を取り出して時刻を確認したメイプル。 「でも本当に私をサンドリアに帰すつもり? 今まで母親らしい事してくれなかったのに、いきなり心配されるのも恐いのだけど」 「勘違いしてるわね。お金の分働かせるのに返すだけよ」 「お金? え、なにそ…れ」 「汚い話って言われるから黙ってたんだけど、あんたを譲る時に私は現金を得ているの」  驚いて母親の方に顔を向けたメイプルとは対照的に、ヤンナは視線すら向けずに言う。 「サンドリアに向かう時お土産に渡した絵本、きっと向こうについて無くしたと思うのだけど、あれは絵本でもなんでもないの。中身は鉱山技術に関する設計図や図表」  言われて思い出した。  飛空挺乗り場の前、一人で向かうメイプルにヤンナはお土産と称してカワイイ表紙のついた絵本をくれた。 『むこうについてから新しいお父さんとお母さんに読んで貰ってね』  そう言って、送り出してくれた母親。  飛空挺に乗っている間中、サンドリアについて新しい家へとむかうまでずーっと両手に抱えて大事にしていた絵本は、ヤンナの言うとおり三日後には無くしていた。 「数式や文章はアンタに覚えさせておけば良かったからね。向こうからよく暗記できましたねってホメられてたのよ」  新しい父親に、バストゥークの事を教えてほしいと、四日間くらい言われ続けていた。 『前のお母さんが教えてくれたことをお父さんに教えてくれるかな?』  書斎の大きいデスクには何枚もの紙が置かれ、インク壺のキャップが外されて独特の匂いがしていたのを覚えていた。  父親に抱かれ、教わったことを話すと褒められた。  それがとても嬉しくて、頑張ってメイプルは思い出して話すのだ。  父親は用意した紙にペンを走らせ、メイプルの話すことを書きこんでゆく。  全く見たことのない文字で、これは何を書いているのかと尋ねると、父親はその文字が速記という物で、言葉を早く書き留めるために使う物だと教えてくれた。 「本当はアンタが成人してから、観光名目でこっちに来た時に何度か情報を渡してお終いだったけど、冒険者になんかなって家を飛び出したっきり。こないだ手紙が来て、アンタを見付けたら返してヨコセって言われたんだ」  なんだそれ。  話を聞いていく程に喪失感が身体一杯に充填されていく感覚。 「あちこち歩き回るから顔は知られてるし、どうやって『お嬢様』って顔してまたこっちに来るのか、私は知らないけどさ…」  飛空挺旅行社の建物が見えてきた。  その向こうには、夜になってライトアップされた特徴的な跳ね橋の姿が見えている。  ヤンナは立ち止まり、ようやくメイプルの方を見た。 「後何年かして、落ち着いて話すことが出来た時に話そうと思ってることはある。でも今は時間もないし言っても納得しないだろう。ただ、一つだけ言っておきたいのは、私は情報を売っただけでアンタを売ったと思ってない。私の元にいるより幸せになれると思ったからあの夫婦にアンタを預けたの」  自身を真っ直ぐ見据えるヤンナの目を見て、メイプルは言葉にウソはないのだろうと考る。  しかし嘘ではないが故、信じたくない言葉というものも世の中にはあるのだとメイプルは知っていた。 「考え方は人それぞれだってのは知ってる。だから言うんだけど、私は産んでくれた親に育てて欲しかった。名声とか、地位とかお金があるなしとか幸せには関係ない」  養子、の二文字は陰口をたたかれるのに十分すぎる重みがあった。  昔、いや現在でも耳を澄ませば聞こえてくる言葉。『ミスラのくせに』『養子のくせに』。  どんなに着飾っても、どんなに学んでも、変えられない過去は変わらない。他人の目を気にしないようにしていたが故に気になって居た自分は、何時しかそう思うことがプレッシャーとなって心にのしかかっていた。 「私の幸せは私が判断するよ。だから、今の自分の事であんたに文句は言わない。でもさ、私を養子に出して貴女が自分のことを幸せだって言うのなら、私は貴女を恨むよ。『なんで私を産んだんだ』って」  跳ね橋があがる。  遠くから聞こえてくるのは聞き慣れた飛空挺のプロペラ音。それはどんどん大きくなって、着水の大音声をひきつれて旅行社の桟橋に接岸した。  にわかに騒がしくなる周囲に急かされて、メイプルは歩き始める。 「後何年かして、落ち着くことがあればちゃんと話したいのは私も同じ。その時まで元気で居れば…だけど」  飛空挺旅行社の搭乗専用口に立ち、メイプルはヤンナの方を振り返る。 「またね」  その言葉の返事は帰ってこなかった。  □e 崩壊から始まる物語 「え、メイプルってば帰っちゃったの?」 「みたいだの。LSの方に「実家から呼び出し食らったから帰ります」って言ってきたらしいし」  メイプルがバストゥークを去って二日後、クーシャとクルジェの会話である。  場所は港区の普段から冒険者が多数押しかける酒場の中。  時刻は昼を過ぎたあたり。昼休みなんて定職の野郎ぐらいしか守ってないぜ的な、冒険者には関係ございませんとばかり、いまだに酒場はごった返している。  中にはすでに酔っ払ってる輩の姿も。 「本人から聞いた話、こっちに苦手な人居るって言うから逃げたんじゃないかと思うジョ」 「本当に逃げたんなら、何も言わずに消えてると思うがの」 「あ、そーか」  二人とも他と同じく昼食を終えてそのまま居座っている状態だ。  『お水はいかかですか?』と笑顔で問いかけてくるウエイトレスのおねーさんはの本心は『さっさと帰るか、なんか追加で注文しやがれ』であり、『お皿をお下げしても宜しいでしょうか?』と聞いてくる時はきっと、『早くテーブル片づけたいんだから退けやがれ』なのではないのかとクルジェは思うのだが、そんなことを確認できるはずもなく。  二人の食器はとうに片づけられ、手元にはあふれんばかりに水がはいったカップだけ。  クーシャはそのろくに冷えてない水を一口、 「帰ってこいと言われたのはいいんだけど、何時戻ってくるか、かの。こっちは依頼主からまだ今後の予定聞いてないから、ヘタすると長丁場になるかも知れないし」  テーブルに戻したカップの水は半分ほどすでに無くなっていた。 「流石に視察後は解放されるんじゃないかとおもうジョ」 「そう願いたいのぅ」  二人が話しているのは今回の仕事の事で、それは暗礁に乗り上げてから何も進展がないまま待ちぼうけというか、足止めされている状態が続いていた。  本来ならとっくの昔に依頼主から指示が来ているのだが『別途指示あるまで待機』と言われたままそれっきり。  裏仕事とはいえ政治というのはどうして民にはこうも好き勝手出来るのか。  いや、上司が『アレ』ではこれくらい我が侭になっても仕方ないのではないのか、そう言った感覚すらマヒしているではないのか。 「どーでもいいけど誰が言ったのか『ウィンダス最終兵器』ってピッタリな名前だジョ」 「敵も味方も不公平無く殲滅するしの」 「お水お注ぎしまーす」  そう言ってウエイトレスがクーシャのカップへと水を注ぐ。  氷くらい入れてくれ。  いい加減水だけでは胃もたれするし、居座ってもお店の反感を買うだけと判断した二人は、勘定をはらってお店を後にする。  二人とも行く当てや用事も特になく、町中をブラつきはじめる。 「しかし、世間は狭いの」 「まー、でも仕事の内容はいっさいお答えできませんって釘さされたけどね」  実はクルジェがバスに到着したのが昨日の話。  メイプルが来て帰って行ったと、家を訪ねた彼にキュレレがそう話してくれて、クルジェは大層驚いた。  いままでの経験上、訪問先にはメイプルが彼より早く来ることはなく、また彼より早く帰ることもなかったから。  なにかロクでもないことが起こる前兆ではないのか。そう真剣な顔で呟いたクルジェを見てキュレレは笑いながら言った。 「なにかあったらクルジェが守ってくれるでしょ?」  その時ばかりはそんなにオレっちは万能じゃないよと、考えたもんだ。  でもまあ、そう言われて悪い気はしなかったし。  出来るだけのことはしようと思う。出来る事は。  突然LSのリンクパールからコール音が鳴った。パールを耳に当てれば、聞こえてきたのはアルティの声。 『ごめーん! 今バスの港区にいて手空きの人居たら旅行社の出口に来て!!』  なにがあったとか、何人必要とか詳しいことはなにも言わずに、アルティの言葉は切れた。  ともかくヒマしていたクルジェとクーシャは飛空挺旅行社の出口にいってみた。  そこに居たのは黒ずくめの集団とアルティの姿だった。  出口の片隅に固まって動かない彼らを見て、一般の客も離れて横を通る姿が余計に恐い。  その一種独特な威圧的な雰囲気に圧されて、流石に二人は近寄れずに仕方なく、リンクパールのコールボタンを押した。 「来てるなら声かけてくれても良かったのに」 「ち、近寄るのも恐いジョ」 「別に何もないわよ。アレはただの飾りだから」  肩越しに振り返り、黒服の姿を見てアルティは笑う。 「権力と見栄を宣伝するための伝統行事よね。あとほんの少しの抑止力、かしら?」 「まあ、一般人には笑い事じゃないナ。…で、用事はなんですかの?」 「簡単に言えばお目付役になって欲しいのよ」 「あの黒い集団の?」 「違うわよ。サンドリアから療養に来た名家のお嬢さんがお相手」  肩をすくめてみせるアルティ。 「私が主治医でもあるんだけど、今回こっち来るのに、家の世話役がどうしても来れなくて、私が付くことになったんだけど…ほら、私だけってのもムリがあるじゃない。だから交代でおねがいしたくて」  どぱーんと、飛空挺の着水音があたりに響き渡る。 「お給料ははずむから、お願い!」  両手合わせて拝み頼むアルティを見て二人共顔を見合わせる。 「ヒマしてるし…いいジョ」 「日頃からお世話になってるしの」 「ありがと! じゃあ、早速で悪いけど今から働いて貰うから」  何とも忙しい話である。  黒ずくめの集団と共にスタッフ通用口から、たった今着いた飛空挺に乗り込んで大急ぎで荷物を運び出すアルティ達。  終わって荷物の運搬を指示して三人はまた走る。 「今度は何処行くジョ?」 「お嬢様に挨拶と紹介をする事になるけど、先回りして宿に行くわ。まあ、挨拶してもまともな返事してくれるか分かんないけど!」 「なんだそりゃ」 「見れば判るわよ!」  そう言いながら三人は黒服に囲まれて歩く一団を追い抜いた。  中心には侍女とおぼしきエルヴァーンの女性に手を引かれ歩く女性の姿。  白のドレスとセットであろう、大きな帽子を目深に被り、頼りなげに歩いていた。 「あれ、エルには見えないジョ?」 「そこら辺も後で説明するから!」  駆け込んだ先は港区の隅っこにある宿だった。  簡単に言えば豪華でキレイでサービスが良く、高価。それらの単語全てに『無駄に』をつけて丁度良くなる感じの。  当然と言ったら多少語弊はあるが、ともかく普段冒険者は利用しない。 「後で二人の部屋も用意するから。とりあえず先にお出迎えよね」  宿のスタッフに話を付けてきたアルティは、二人の先導に立って歩く。 「身の回りのことは一緒に来た従者がやってくれるわ。私は『お嬢様』の健康管理と診察・治療。クルジェとクーシャには遊び相手して貰いながら、変な所に行かないようにして欲しいの。…精神的に壊れてる人間だから、子供より注意してね」 「例えば?」 「部屋の中に居もしない人間と一晩中会話しているとかはザラで、危険なのは突然変な行動して自分で怪我する事。こないだは熱湯被って大やけどしたわ」  部屋の前、廊下のドアの前で部下やクルジェ達を整列させるアルティ。 「寝ていても安心できないから、三人で交代して番するの。順番は後で決めましょ」  廊下の向こう、入り口の方が騒がしくなった。どうやら、その『お嬢様』がきたらしい。  毛足の長い絨毯で足音は聞こえない。耳に届いてくるのは服の金物同士が当たる音や、遠くから聞こえるピアノのか細く艶のある旋律だけだ。  黒服の男が角から姿を現した。  従者と従者に手を引かれた女性も姿を見せた。  始終うつむいて歩くその女性は辺りを見ることもないままだ。 「お待ちしておりました。お嬢様」  そう言ってドアを開けるアルティ、返答もなくクルジェの前を通り過ぎる女性。 「…あ」  思わず、声が漏れた。  通り過ぎ、ドアの向こうへと女性は消え、整列した従者達は各自の持ち場へと戻る。 「少しここで待ってて。ドアの前で立ってれば護衛っぽく見えるから」  そう言ってアルティも廊下の向こうへと消えた。 「クーシャ」 「なんですかの」 「あれ、どう見てもミスラだジョ」 「おいらは帽子が邪魔で、見えなかったけど」 「パッと見はヒュームの女性ともみえるし、顔中包帯だらけで判別しづらいけど鼻の形で判るジョ」  問題は何故スカートから尻尾を出していないかと言うこと。 「おまけにサンドリアでミスラの名家なんて聞いたことないジョ」 「格式やら伝統の国だからのぅ。あったとしても、新しい家柄じゃないかの。そこら辺はアルティが説明してくれると思うけども」  ドアの向こうにいるはずのアルティがなにを教えてくれるのだろうか。  いきなり呼び出され出二つ返事で引き受けてしまった仕事のせいでもあろうが、クルジェには何処かひっかかるものを感じているのは確かで。  やがて出てきたアルティの疲労しきった顔を見て、その思いは一段と強くなったのだった。 「まったく、たいしたお嬢様ね」 「なにかあったのかの」 「自分の怪我なんかそっちのけで、お風呂に入りたい、包帯は嫌い、って騒ぐのよ。仕舞いにゃ、泣いてグズって顔の皮膚まだ突っ張ってるのに、動かすから裂けて血だらけになったし、それに涙が浸みて痛いってまた騒いで」 「お湯かぶるから悪いんだジョ」 「それもねぇ…」  『こっちへ来て』と二人を手招きして歩き出す。 「本人が言うには、髪の毛の中に虫がいて、いくら手で払いのけても出てくるからお湯をかぶったそうよ」 「本当に?」 「居るわけナイじゃない。お湯の跡をみてもそんなのは一匹も見つからなかった」 「嘘ついてたと?」 「幻覚じゃないかな。薬物中毒っぽい症状とも考えたけど、元々異常行動ある娘だったし今回もソレかなって」 「で、どうしろと?」 「三交代でこれから一週間ほどお嬢様の側にいるの。簡単よ」  アルティに案内されるまま、二人は通された部屋の中へ。  後ろ手でドアを閉めたアルティは物珍しそうに部屋を見渡すクルジェと、荷物を何処に置こうか考えていたクーシャに言う。 「個人的な感情は出さないで。出したら…辛いから。それに、お嬢様が傷つくわ」 「よく分かんないジョ」 「『一寸だけなら』とか『自分が見ているから』なんて事考えないで。私が許可したことだけがやれること。それ以外はダメ」 「そんな」 「つまり、何が原因でお嬢様が怪我するか判らないから、そのための措置ってことだの」  言いかけたクルジェを手で制し、クーシャがアルティの言葉に補足する。 「ありがと。早速で悪いけど今日の深夜からお願い。深夜から明け方まではクーシャ、昼間はクルジェが、夕から夜は私がするわ」 「…わかったジョ」 「あいよ」  知ることの罪、無知であることの幸せ。  今、クルジェはそんなことを考えながら目の前にいる『お嬢様』を見ている。  早朝、クーシャが交代の言葉を伝えにクルジェを揺すり起こした時まで、心は落ち着いていた。  部屋へ通されて、お嬢様と二人きりになってからクルジェは心の動揺を隠せないで居た。  閉じられた窓の横、淹れられたサンドリアティーを口も付けず、椅子に座ったままの彼女の視線は何もない空間を見ている。  そう、見えた。 「きれい」  時折呟く声音にクルジェはドキリとする。 「とても綺麗よ、ほら」 「な…、なに、が?」 「向日葵がたくさんあるの。とても楽しそう」  部屋には一輪たりとも向日葵などない。  返す言葉を見付けられなくてつぐんでしまった自分に、クルジェは罪悪感さえ感じた。  寝ぼけた眼に見た、クーシャの顔が脳裏に浮かぶ。  顔一面に広がった疲労の跡、それは少ない睡眠時間のせいなどではないのだ。 「違うの。向日葵は青色なのよ、黄色にしたら鳥さんが泣いてしまうわ」  青色の向日葵なんて存在しない、黄色が本当の色なのになにを言っているのか。  視線を外して、クルジェはそっとため息を漏らす。 「お人形さんみたいな、人」  また何か言ってる。 「小さいタルタルさん?」  タルタルと言われて自分のことかと思いつき、そらした目を元に戻した。  …彼女がこっちを見ている。 「…オレっちは小さくないジョ」  小さいと言われたことはとにかく訂正した。 「タルタルさん?」 「クルジェだジョ」 「クルタル?」 「クルジェ」 「…タルタルさん、絵本が読みたいの」  名前くらい覚えてくれよ、とクルジェ。しかし、言葉に出すのはもう疲れた。  無言で頷くと置いてある荷物へ向かい、それらしいものを探し始める。  絵本なんて持ってきていたっけか。いや、それより絵本を読む年齢か?  探しながら椅子に座ったままで待つその横顔を盗み見た。  …包帯だらけでわかりゃしない。  そもそも年齢が推測できる部分は服の下か、包帯が巻かれていているのだ。  服も白、包帯も白、髪の毛も白。 「小さなプレゼント…か」  荷物のなかからようやく見付けた絵本のタイトル、その下に描かれているイラストは小箱に赤いリボンがかかっていた。 「これでいいジョ?」 「読んで?」  包帯の隙間から覗いている唇が微笑む。  クルジェは自分の椅子に戻ると、拍子を捲った。  カザムというミスラの町がありました。  その町のはじっこに、ランとレンという双子のミスラがお母さんと一緒に暮らしていました。  ランはお姉さんで毎日、町の学校にかよっています。  レンはお姉さんが学校に行くといつもひとりぼっちでお留守番です。  それはお母さんも毎日お仕事に行くからです。  お母さんのお仕事は町で悪いことをするひとをやっつける仕事をしています。  お母さんはいつも出かける前にレンに言います。 「今日も家のお留守番、おねがいね?」 「任せてください!」  レンはいつもそう言ってお母さんにバイバイします。  お母さんもレンにバイバイをして出かけていくのです。  レンは『お留守番』の言葉を知っています。  家に来る悪い人をお家の中に入れないお仕事です。 「お留守番はね、お母さんもしている大事な仕事なのよ? お母さんは、町のお留守番をする人なの」  お姉さんのランが何時も一緒に行きたがる妹に、お母さんに内緒ので教えてくれたのです。  だからレンはお母さんが出かけると、お留守番をはじめます。  ドアに鍵をかけて、 「とじまり、よーし!」  と声を出して確認です。 「まど、よーし!」 「だいどころ、いじょうなーし!」  窓の鍵も、火の始末も確認します。  全部の確認が済むとレンは自分の部屋に戻ってノートに『○月×日 いじょうなし』と書きこむのです。 「レン隊長はこれから部下ににんむをひきついでたいきします!」  部屋にはレンの部下が二人います。  縫いぐるみのゴブッチとマンドランです。  二人はとっても優秀なレンの部下なのです。  レンが寝ている時はこの二人がお家をまもっているのです。 「…だからレンがお昼寝をしても大丈夫なのです」  近い。  すっごい近い。  絵本を読み始めるとクルジェのすぐ側に『お嬢様』が寄ってきた。   絵本だから当然イラストが付いて居て、見たくはなるだろうと言うことをクルジェは忘却していたのだから仕方ないのか。  顔をべったりとくっつけてのぞき込む彼女のせいで、どうにも読みづらい。  それでもなんとかここまで読んでいたのだが、顔に当たる相手の頬の感じが変わったのに気が付いて。  ちら、と顔を見るとそこには。  包帯に滲む紅の花があった。 「どうしたのぉ?」 「いや、血、血が出てるジョ!」 「ち?」  自分の事なのに、なにも判っていないような口調が、クルジェのパニックを増長する。 「とりあえず、ケアルけあ…ああ、包帯取るジョ!」  先刻探した荷物の中に、包帯があるのを覚えていたクルジェはすぐにそれを引っ張り出して、血に染まった包帯を外しにかかる。  この時すぐにアルティを呼ばなかったのは、クルジェ自身も赤魔導士でなんとかなると思ってしまっていたから。  はらりと肌から剥がれ落ちる包帯。 「…めいぷる?」  彼女の事は知っていた。  ついこないだまで一緒のLSで一緒に仕事をして一緒に飯をたべて一緒に笑っていた。  彼女は実家に帰った。  実家はサンドリアだと聞いていた。  その彼女が目の前で他人になっているなんて事は、あり得ない。  あり得ないはずなのに、火傷の跡がまだ癒えぬその顔の残った部分は彼女だった。  知らぬ声、知らぬ仕草、知らぬ匂い、知らぬ名前。  アルティが彼女を自分に紹介した時、なんと言っていた?  ふざけんなよ。  戸惑いと悩みのベクトルは全て合力となって、怒りの方向へと流れを変えた。  自分より年上の女性に対してなんで自分は子供用の絵本を読み聞かせてるんだよ。  オレっちの事が判らないフリをしているのか、ならせめて事前に教えろよ。  仲間だろ? オレっちとメイプルは仲間だろ! 「…タルタルさん」 「タルタルじゃない」 「タルタルさん、泣いてる」  そっと、頬に伝う涙を彼女は指で拭ってくれた。 「タルタルじゃないジョ!」 「…クルタルさんは泣かないで。泣かなくてもいいってそこにいるミスラさんが言ってる」  彼女が指さした空間には…誰もいない。 「ミスラさんはクルタルさんに謝ってる。『私じゃムリだった。ゴメンネ』って」 「意味がわかんないジョ! メイプルは君のはずだジョ! どうして別人のフリなんか!」 「メイプル…何? 私? わたしについてる…めいぷる?」  そして今更になって彼女は自分の頬を触り、べっとりと手のひらに付いた血糊を見た。 「このあかいのが…めいぷる?」  その言葉はクルジェを底のない絶望へたたき落とすのには十分すぎた。  夕方、アルティが部屋に顔を出すまで、クルジェは包帯だらけの腕に抱かれて、泣き続ける事しか出来なかった。  それから三日後。  二人は図書館にいた。  あの日から毎日クルジェはこの図書館で彼女に本を読み聞かせてやっている。  それは絵本だったり物語だったり、歴史だったり。  そしてクルジェが本を読み聞かせ終わると、彼女は一人で好きな本を探してくるのだ。  それも当然のように、声をだして読んでいたりする。 「ごちゅうい。このほんはおとうさんかおかあさんによんでもらってください」  とにかく声はでている。 「ごちゅうい。このほんはいちぶかげきなひょうげんがつかわれています。じゅうはっさいみまんのかたはおよみになることができません」  内容はさておき。  二日目からこの図書館にくる人はほとんど居なくなった。  毎日朝から晩まで、よく判らない本を大声で朗読されるのだ。勉強に来たり、静かに読書をしたい人間は絶対に来ない。  彼女が本を読む姿を、クルジェは少し離れた所で本を読むフリをして目で追いかけている。 「ガルカのタフィグはちからもちです。いつもこまってるひとのみかたで、おもいにもつをはこんであげたりしています」  棒読みの、抑揚のまるでない声が石造りの建物に反響してなんともいえない雰囲気になる。  それにしても。  シャントットがウィンダスからこちらにやってくるのが数日後となった今、はじめに請け負った仕事は散々な成果に終わっていた。  何処へ行くにしても、何をするにしてもバストゥークの兵士や役所の関係者の目があり、緊張感という壁が街中に蔓延しているこの状態でなにかを企てる事は難しい。  想像するに、シャントットは怒り狂って正気を失っているのではないのか。  …まぁ、目の前に正気でないお嬢様が一名いるが。 「タフィグは「そんなのかんたん」とじめんをつかんでやまをひとつもちあげたのです」  本のタイトルを見れば『国語辞典』と書いてあった。 「それにおどろいたまちのひとはタフィグのちからをこわがって、タフィグをさけるようになったのでした」  一体、国語辞典の何処に書いてあるというのか。  ここまでされると、自分のことすらマトモに見えてないのではないかという不安に駆られてしまう。  その事から目をそらすようにちらと時計を見れば、もう夕方近くになっていた。 「時間だからもう帰るジョ」 「かなしんだタフィグはいえにとじこもるようになってしまいました。そして、ながいつきひがすぎ、もりのなかにあったタフィグのいえのことをみんなわすれてしまったのです」 「それは今日借りてあげるから行くジョ」  国語辞典を広げて童話を朗読する彼女の手を掴み、クルジェは引っ張るように歩き出す。 「これ、今日借りるジョ」 「バストゥーク国語辞典第三版ですね。お名前は…?」  貸し出し備録に記入しながら、受付嬢は言う。 「クルジェでおねがいするジョ」 「畏まりました。貸出期限は3日間です」 「それからながいじかんがすぎました」 「ほら、行くジョ」  手を引いて歩くクルジェと彼女は西日の街中を宿へと歩く。 「クルタルさんはタルタルさん?」 「クルジェだジョ」 「クルタルさんはクルジェさん?」  何度となく繰り返したやり取り。  そしてその度に襲われる虚脱感をクルジェは悲しむ。  彼女がメイプルだと知って、その事をアルティに問いつめ、その答えを知った時と同じ悲しみ、痛み。 『あの子は自分を壊したのよ。自分の人生全部忘れてしまうことを選んだの』  吐き捨てるように言い放ったアルティの顔を思い出す。 『生きていればどんなことだって起こるわ。喜怒哀楽、そして生と死。全てを受けて入れこその人生なのにあの子はそれを拒んだ。生きることを放棄したのよ』  最初に聞こえた悲鳴は、断末魔という表現が当を得ていたと聞いた。  続いて、ばん、がん、とドアが叩かれて、廊下に転がり出てきたメイプルはすでに彼女の顔ではなかったらしい。 『2aと2bが混在する火傷だったからね。跡も残るし痛みも出るし…。面積から言って本当はシッョク死してもおかしくないと思うんだけど…、運悪く気絶しちゃったのね』  主治医がアルティに変わったのは、はじめに診た医師がアルティの友人だったから。  そして、偶然にも医師が呼び出された時、一緒にいたからだ。 『治療が終わった3時間後くらいに目を覚ましたんだけど…あとは見ての通りの姿ね』  国語辞典を大事そうにたき抱え、自身の半分ほどしかない身長のタルタルに手を引かれるミスラ。  生きた年月の全てを忘却し、紡ぐ言葉も頼りなげ。  なぜ、こうならなければいけなかったのか。  どうして、療養にここへ来ることになったのか。  アルティは知らないと言っていた。  クルジェは、アルティが嘘をついていることを知っていた。  帰宅後、クルジェはアルティと役目を交代して自室へと帰っていった。  今は、アルティがメイプルの器に入った誰かの顔を見ている。 「ティテッタはけがをしたおとうさんのためにまいにちやくそうをつみにでかけます」  借りてきたという国語辞典を先ほどから上下さかさまに開いて、書いてもない童話を朗読している。  疲れる。  昔だったら、バカなことやってもバカには見えないわよ、と笑って済ます事なのに。  辞典をじっと見つめて、言葉乱れることもなく童話を読んでいる彼女のそれは、とても笑えない。 「やくそうがあるところはティテッタにはすこしあぶないところだとおとうさんはいっていました。でも、ティテッタはがんばってまいにちやくそうをとりにいくのです」  クルジェとクーシャの二人には悪いことをしたと思う。  ウソだとバレバレの説明に文句なくつき合ってくれている。  メイプルに怪我を負わせて、療養目的で入国させる。現地で内通者から鉱山技術の新工法が書かれた書類を受け取り、帰還するのがアルティの仕事。  サンドリアは鉱山技術を必要としていない。地続きのバストゥークとは比較的穏和な外交をもって獣人の脅威を排除する。  表向きの話だ。  国の安全のためには他国が保有する技術がどのような物か、分析して知っておく必要がある。  そのため、ウィンダスが手に入れたがっている技術をサンドリアも入手して、危険度を知る必要がある。 『道具と根回しはこちらで用意した。あとは君が監視してくれるだけでよい。やることはすべて同行させる個人が把握しているよ』 「そのときです。ティテッタのあしもとのつちがくずれ、かのじょはがけからころがりおちたてしまったのです」  その個人にメイプルも含まれているのか。アルティは依頼主に聞いていた。  その答えはこうだ。 『本来はその予定だったのだが…、あんなものが役に立つとは考えられん。きみはあの猫を監視しておくんだ。仕事のひとつも与える予定だったが、まったく役立たずだよ』  本当なら役者の人選をやり直すはずだった。が、時間の都合があわず、お荷物と判っていてもメイプルをおくらざるをえなかった。  胃が痛む。 「きがつけばティテッタはがけにはえていたきのえだにひっかかってしまっていたのでした」  早く終わってくれ。  そう願い、アルティは痛む胃袋にサンドリアティーを流し込む。  予定通りなら明日で全て終わるはずだ。  深夜。  誰もが寝静まり、宿は静寂が支配する時間。  ランプの光が一輪の花のように暗闇の中で咲いている。  その灯りに照らし出されているのはクーシャの顔の輪郭。それと、部屋のおおざっぱな形だけ。  かたん。  物音に気づき、目を開けた彼は暗闇のなかで動いたお嬢様に声をかける。 「なんかあったかいの」 「あしたにいくの」 「寝て起きれば明日に着いてるからベッドにもどって寝なさい」 「でもマンドラさんがこっちだって」  何処にマンドラゴラが居るのだろう。  暗闇に目をこらしても、二人以外に生き物の姿形、気配すらない。 「…何処に居るのかいの」 「マンドラさんどっか行っちゃった」 「なら、また来るまでベッドで寝るのが良いと思うがの?」  何も言わず素直に戻るお嬢様。  そしてまた始まる静寂の夜。  クーシャは腰掛けていた椅子を一つ鳴らし、腕を組んで目蓋を閉じる。  …。  考えることは色々ある。  しかし考えて答えが出ない物を、それでも考えるのは時間の無駄だ。  じわりと心の闇が皮膚から染み出して、外界の闇に融和する感覚を味わいながらクーシャは朝を待つ。  …一番鶏の囀りはまだ届かない。  □e 生の終章  朝食が終わった直後に、お嬢様は本が読みたいと言い出した。  これで四日連続の事であり、日課となった国立図書館へ向かう道の二人だけの散歩。  クルジェはお嬢様の手をひき歩き、あちこちから飛んでくる視線を無視して通りを過ぎていく。  カウンターで前日に借りた国語辞典を返却する前に、お嬢様は勝手に一人で図書館の奧へと歩いていく。  クルジェは呼び止めることを二日目にして諦めており、返却を済ましてから彼女の後を追うのだ。  視線はお嬢様の背中に合わせつつ、クルジェはカウンターに借りていた本を置いて言う。 「返却するジョ」 「畏まりました」  台帳をめくる音と、記入するペンが紙にこすれる音がやけに耳に付く。 「確かに受け取りました。ご利用ありがとうございます」  受付嬢が笑顔で一礼して頭を下げたのを見て、愛想笑いの返事をしようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。  音を立てて床に沈むクルジェの背後に、角材を握りしめたヒュームが音もなく立って居る。  焦点の合わないボケた視界には石材の床と誰かの靴だけ。音は聞こえず、動かない身体と判らない状況にクルジェは何も思考することも出来ないまま、放置された。  どれくらいの時が過ぎたろう。  混濁する意識をなんとか押さえつけ、ようやく自由が利くようになった身体に活を入れたクルジェはカウンターに手をかけ、なんとか立ち上がる。  痛む頭を触ってみれば、切れ抜けた髪の毛と自分の血糊が指先について来た。  訳がわからない。 「…! 痛ぅ…」  カウンターに受付嬢は居た。自分と同じように頭を殴られてカウンターを鮮血に染めたまま、息絶えていた。  壁を支えに、歩みを進めた。  誰の気配もしない。  後一人、いや、クルジェを殴った人間を入れて二人か。  ひょっとしたらとっくにお嬢様も殺されていて犯人は逃走、生きてここにいるのは自分だけなのではなかろうか。  本棚の川を抜けて、奧の読書スペースへと向かう。 『クルジェ! クルジェ、聞こえてる!?』  リンクパールから聞こえてくるアルティの声、目の前には割れた窓と散らばったガラスの破片。吹き込む風に揺れるカーテンと、その側には純白の帽子が落ちていた。 『あんた仕事しないで何処にいるのよ! こっち今大変なことになってんだから!』 「こっちも…大変だジョ…図書館が…」 『図書館ね! すぐ行くから待ってなさい!!』  立っていることが出来ずに膝をついてへたり込むクルジェ。  何が出来るかも考えられないまま時間は過ぎた。 「なんだこりゃあ…」 「クルジェ、これ一体なんなのか説明できるの!?」  相当急いでいたらしく、アルティとクーシャかクルジェの所まで来るのに、たいして時間はかからなかった。  へたりこんだまま振り返ったクルジェを見て、アルティは足を止め露骨に表情を変えた。 「わかんない…ジョ。殴られて起きたら、こんなことになってたジョ」 「…今治療するからじっとしてなさい。クーシャ、ここの事は私に任せてすぐ宿に戻って撤収準備を指示して頂戴。お嬢様のことはできるだけ追って」 「あいさ」  短い返事を残し、ゴツい靴をならして走り去るクーシャを見送って、アルティはすぐにクルジェのキズを治療する。  頭皮が裂けて未だに流れる朱の色の隙間に、骨の白色が見えている。  手をかざし、修復イメージを決定して呪文の詠唱を開始する。  ケアルW。  貧血を起こして青白くなった顔のクルジェがつぶやく。 「ごめん…」 「私に謝っても問題は解決しないわよ」  私にも判らない。これが予定通りなのか妨害なのか。  お嬢様は…メイプルの命がどうなるのか。 『撤収準備は出来た。黒服達がどうなっているのか聞いてきたけど返事はどーするのだ?』  リンクパールからクーシャの声。 「私にも判らない。と言うか、急いでバスの保安庁に連絡して。誘拐事件だ、ってね」  考えたのは五秒ほどで、アルティはクーシャに指示する。  クーシャに任せれば間違いもないだろう。そう判断した。  保安庁の対応はまあ普通だった。  誘拐された人間の他に、殺害された人間も居たので初動から大量の人間が投入され、二時間後には犯人の居場所までわかった。  運が良かった、のかどうかは判らない。  保安庁が犯人を追いつめたのは、鉱山の中でも最深部に近い袋小路だったからだ。  今、アルティはクルジェと共に保安庁の職員とその穴の前にいた。 「犯人の素性は分かんないって事ですね…。お嬢様の安否も…?」 「いえ、それは目撃者が言う所だと連れ込まれた時は暴れていたとのことで」 「つまり、それまでは無事なのですね」 「ええ。現在は…何とも」  なんとも心許ない話だ。 「あと、ここの地盤はあまり良くないそうで、突入は地質の専門家でここの責任者の判断待ちになってます。…申し訳ありません」 「命かかってるときにそれはまたお役所仕事ね」 「今、その専門家が来るので…お待ち下さい。お気持ちは察します…」  察してねぇだろ。  反射的にそう思った。  じとり、と湿度の高い穴の中の空気は肌にべたついて、不快感を助長する。  何も出来ないのではなく、なにもさせてくれないのだから余計に焦れる。  少ししてその専門家がお供を連れてやって来た。  ヒュームを周りに侍らせて早足でやって来たのはタルタルで、クルジェを見て意外そうな声を上げた。 「クルジェくんじゃないかい?」  その人物が誰なのか、アルティは知らない。 「友人のお父さんだジョ」  アルティの顔を見て察したクルジェが、小声で素早く補足する。  そう、それはバンノガンノ・アレッポトフ。 「どうも、お世話になりますジョ」  一礼するクルジェ。  バンノガンノは状況の説明を受けて、ため息を吐いた。 「ここで何かするのは止めた方が良い。この湿度と足元の水たまりを見れば判ると思うが、ここは含水量の多い地盤だ。簡単に言えば…湧水するわ落盤するわで大変って事だな」 「それじゃ解決できないじゃないのよ」 「ここじゃなければいい話だろう。我々はもう少し戻った場所で待機すればいい。犯人とやらにも一言言っておけば、そのうち出てくるだろう。どれ、言ってくるか」  そう言い残して、バンノガンノはカルい足取りで奧へ続く道の角を曲がっていった。  時を置かずして犯人の声とバンノガンノの声が聞こえて来る。  ここは危ないから長居するのは危険だ、云々。  うるせぇ、ここにいるのは俺の勝手ださっさとかえらねぇとぶっ殺すぞ、等々。  やり取りを聞いていたクルジェとアルティは青ざめる。  ヤベェ、このオッサン交渉ヘタだ。 「つ、連れ戻してきなさいよあの役立たず!」  居ても立っても居られなくなったアルティ、クルジェの首根っこを引っ掴んで周りの制止を振り切ってバンノガンノの所へ走り込んだ。 「ここの責任者は私だっ! 私の言うことは絶対に正しいのだ!」 「ちょっとバカなにやってんのよ相手刺激してどーすんのよひっこみなさいよ!」 「うぬぅ、お前さんたちも邪魔するのか」  二人がかりでバンノガンノを押さえつけ、引っ込ませようとするが、当の本人は暴れて言うことを聞かない。 「うるせぇっ!!」  突然の怒鳴り声がひびき、三人は我に返った。  目の前のヒュームがお嬢様の腕をねじり上げ、押さえつけながら言う。 「後ろの役人共と一緒にさっさと消えろって言ってるだろ。それとも目の前でこいつ殺すか?」 「お嬢様を帰して欲しいのよ。要求があれば聞くから教えて頂戴」  バンノガンノの口を両手で塞ぎながら、アルティは男となんとか交渉しようとする。  が、それに対して男は殊更いらだちを隠さない。 「要求はさっさと消えろ、だ。そいつが言ってる大嘘も含めて全部消えちまえ。こいつは気が向いたら返してやるよ」 「ぐ…」  これ以上、なにか言っても逆効果だろう。 「判ったわ。引くからお嬢様は無事に帰しなさいよ!」  アルティは叫ぶ。そしてクルジェと一緒に下がろうと、した。 「あ? 無事ってなんだ?」 「なんですって?」 「悪いがこいつがあまりにも暴れるんで、両手折っちまったしな。このとおり」  男はグッタリして動かないお嬢様の肘を掴むと左右に振ってみせる。  完全に折れた腕は関節ではない所から曲がり、ぶらぶらと左右に揺れる。 「判ったらさっさと消えろや!」  アルティが言い返すより早く。  男は叫んで、装備していた両手斧を持つと、坑道の天井を支えていた坑木をぶん殴る。  その瞬間、それは起こった。  殴った坑木の周囲が湧水を伴って崩れ、一瞬にして壁と天井からの土砂で坑道を押しつぶしてしまった。  アルティが最後に見たお嬢様の姿は、男から少しでも遠ざかろうと駆け出す瞬間の姿。 「走れ! ここは危険だぞ!」  間髪入れず、叫ぶバンノガンノ。  坑道にサイレンの音が響きわたる。 「待避ーっ! 作業員は直ちに坑道から待避せよ!!」  あちこちで作業していたヒュームとガルカの抗夫達が一斉に出口へと向かう。  逆らうことも出来ず、アルティとクルジェも坑道から逃れる他、術はなかった。  □e 棺  それは一人のミスラの最後でもあった。  坑道の崩落、という一つの結果に付帯した出来事である。  崩落した坑道は袋小路であり、行き止まりであった。  バンノガンノはアルティとクルジェに対して言葉を選びつつ、伏せめがちに言った。 「今すぐにでも彼女を救出しに行きたい所だが…、あそこは条件が悪すぎるのだよ。多分、救出の許可すら出ないだろう。気の毒だが…」  何かを言い返す気力も体力も二人には残っていなかった。  後から駆けつけたクーシャがなんとか応対できているだけの状態。 「アルティ、役所の人間が話を聞きたいと」 「…判った」  呟きはか細く、聞き取るのには辛い声だった。  状況説明に二時間、サンドリアへ大使館への報告に一時間。  全ての事を終え、宿に三人が戻った頃、アルティはサンドリアから明日帰ってこいと命令を受けた。  仕事の完了。  しかし、アルティの手にはバストゥークの鉱山技術の資料はない。  それはこの仕事が失敗に終わったことを意味していた。  何のためにあの子は死んだのか。  バストゥークの保安庁の調査官の話では、あのヒュームの犯人はウィンダスの冒険者であり、鉱山技術を盗もうとして図書館員を殺害し逃亡する際人質を取った。  その人質というのが死亡した彼女であると言うのだ。  犯人が宿泊していた宿のゴミ箱からは行動を計画するために使用したメモ書きが残っており、それには毎日図書館へ寄る彼女のことも書かれていたという。 『護衛は一人。午前中の図書館員は受付の一名のみ。目的の書架から技術書を盗み、人質を連れて鉱山区から鉱山を抜け国外へと脱出を謀る、と書いてあった。つまり…計画に利用されたのだね』  保安庁の係官はファイルを閉じながら、アルティに言った。 『計画を未然に阻止できなかった落ち度はこちらにあり、その事については素直に謝罪させていただく。補償云々については機密もあり、ここではなく国同士の交渉になるだろう。君には申し訳ないが、理解して欲しい。こちらとして運が良かったのは犯人が道を間違え袋小路に入ってくれたこと。そして我々にとって不幸だったのはそこが崩落の危険があり、立ち入り禁止の区画だったと言うことだ』  アルティは係官から言われたことの全てを二人に話さなかった。  翌朝。  クルジェは三人の中で一番最後に目覚めた。  アルティは帰る前に仕事があると言って、黒服達と出かけていった。  クーシャはLSの皆に挨拶をしてくると言って出かけていった。  二人とも宿には戻らず直接飛空挺旅行社へいくと言い残して。  クルジェは二人より遅れて宿を出た。  キュレレの自宅へ行き、これからサンドリアに寄ってから自宅に戻ると告げ、それ以上のことは話さなかった。  クルジェが置いてあった荷物をを取りに宿に戻ってくると、廊下には既に部屋を掃除するスタッフの姿があった。  今まで滞在していたお嬢様の部屋も掃除の手が入り、家具の移動も行われていた。  ふと目に入ったのは一枚の絵画。  それは部屋に飾られてあったもので、ある夏の風景を切り取ったように子細に描かれて居た。  よく見れば丘一面に向日葵の花。 「この絵に興味が?」 「あ、いえ、一寸気になって…」  突然声をかけられ途惑うクルジェに隣で男は笑う。 「ああ、この絵を見た人はみなそうやって途惑われます。これは鬼才と呼ばれたブゴ・ノッフェの絵画を模したものなんですけどね…違うのは向日葵なんです」 「向日葵?」 「ええ。ノッフェは風景の一部を現実にはない物で置き換えているのが特徴でして、本物はこの向日葵、青色で描かれて居るんです。お客様もそこに違和感を感じたのでは?」 『違うの。向日葵は青色なのよ、黄色にしたら鳥さんが泣いてしまうわ』  メイプルが言っていた言葉。  まさか、この絵のことを言っていたのか。 「あの、鳥は…?」  男は目を丸くして驚いた。 「そちらでしたか…。現実には無い物と同色の動物を描くのもノッフェの特徴です。この『ある夏の丘』に描かれていたのは鳥です。青色の」  絵を指さし、 「この絵では鳥はそのまま描かれていますが…、この夕焼け空、青と呼べる色は本物では鳥と向日葵だけですね。これもノッフェの特徴です。無い物に使われた色は同色の動物以外、他の部分で一切使わない。『ノッフェの遊び心』なんて言われてます」  つまり、目の前にある絵画は青色はこの鳥だけの色と言うことか。 「ノッフェは有名で贋作が良く出回っていますが、この鳥はあまりに小さいので贋作では描き忘れている事がほとんどです。この絵も本物はは三羽いるのですが、この贋作では二羽しかいないのです。…お客様はサンドリアの国立美術館でこの絵を?」 「あ、いや…まぁ」 「これは失礼をいたしました。数々の無礼をお許し下さい」  突然口調が改まったのに驚いて見返せば、男は姿勢を正してこちらに向かって一礼をしていた。 「お、オレっちは何もしてないジョ」 「いえ、サンドリア王家に縁のある方に対して、私めのような人間が蘊蓄を語る事ではありませんでした。どうかお許しを」  よく見れば、今まで歩き回っていた従業員全てがこちらに向かって礼をしていた。 「お名前を伺っても宜しいでしょうか」 「く、クルジェ・ガンドバントだジョ」  ここまでされで今更『違います』とも言えなくなったクルジェ。 「クルジェ様、御用がありましたら何なりと」 「あー、いや、荷物取りに来ただけだから…」 「畏まりました。すぐお持ちいたします」  従業員の対応は素早かった。  クルジェがどうやってこの場を切り抜けるか考えるまもなく荷物が運ばれてきて、チェックアウト後も荷物を運ぶために従業員は付いてきた。  飛空挺の待合室でクーシャがクルジェを見付けた時、クルジェの肩書きは完全に『サンドリアのエライヒト』になっていたのだった。  最後にアルティが黒服の一団と共にやってきた。  男達は棺を抱えている。  棺には一冊の聖書が入っているだけだと、アルティは言った。 「サンドリア大使館で受け取ってきたのよ。このまま埋葬するって」 「つもる話は…戻ってからにしようかの」  クーシャが寂しそうに呟いた。  □e その名『ハルヴァナ・Y・アルギーニ』 「アルタナ様の御許でこの魂が安らかに眠りにつけますよう…」  鐘の音が墓地に響き渡る。  そこはサンドリアの共同墓地から少し離れた木々に囲まれた一角で、名家と呼ばれるサンドリア王家に特別仕えた家柄に用意された専用墓地だった。  葬儀は終わり、親戚知人が帰る中、墓主の両親もしばらくは墓前にいたが、風が吹き始めた頃にそろって戻っていった。  今はアルティとクルジェ、そしてクーシャの三人が風にざわめく木立の中、墓前に立って居る。 「軽い棺に土をかけるのは何回目かの…」 「数えたことはないジョ」 「慣れ…ないわね…。こればっかりは…」  冒険者として、こういう事は何度もあった。 「次は自分の番かも知れない。そう何度も思って、今回も違った。引退するまで何度あるかも判らない儀式、か…」  墓石に墓主の名はまだない。  昨日の今日の話で、石工の仕事が間に合わなかったという話だった。 「メイプル…居なくなったって実感がないジョ」 「名前も…、この墓石には違う名前が入るんだろ?」 「エリーシャ・Y・アルギーニって名前になるそうよ。カデナ・メイプルリーフというのは養子になる前の名前だそうから」 「アルギーニ家か…。結構なお家柄で」 「あの家は三男二女の子供が居て、メイプルは二番目の子供だって」 「他に女性の子供が居たなんて初耳だの」 「私も見たことがないわね。公式の場でも何時も欠席してるって噂だし」  風が一段と強くなる。  ひょう、ひょうと木々の隙間を風が抜ける音も強さを増し、色づいた葉が枝から何枚も振り落とされはじめた。 「帰りましょうか」 「ああ」 「わかったジョ」  墓地を抜け、サンドリアへと戻る三人。  帰り道で、どうせならメイプルの両親に一言挨拶していこうという話になった。  家に着き、執事に通された客室で待たされること数分。  戻ってきた執事がアルティに一礼して微笑む。 「旦那様と奥様は先ほど公務に戻られました。大変失礼とは存じますが替わりに長女であるハルヴァナ様がこちらに。是非あなた方に挨拶がしたいとかで」 「会うのは初めて…でしたね」  戸惑いを隠せず、困惑の表情でアルティは言う。 「さぁ…それは私ごとき者には判りかねます」  こちらも困った顔で、執事は言葉を濁した。 「ともかくお嬢様をお呼びしますので…。それでは」  笑顔で一礼し、再びドアの向こうへ消える。  そして執事と共に現れる女性。 「青い向日葵は太陽の方を向かなかった。全て三羽の鳥を見ていたの。どんなに強い光でも、魅力がなければ振り向かない。向日葵は個性より友情の方が眩しかったのね」  マホガニーのドアの向こうからやって来た女性は、姿を見せる前から言葉をアルティ達に投げかけた。 「ありがとう。私のために」  ドアの前で一礼したまま不動の執事の横を、それは優雅な足取りで女性は通り過ぎる。  三人はその女性の顔を複雑な表情で見る。それはまるで全ての感情をミックスしたような、とても一言では言い表せない酷い顔だった。 「そしてごめんなさい。あの絵のように、私は嘘つきだわ」  待っていた侍女に椅子を引かれ、女性はその椅子に腰掛け微笑んだ。 「私の名はハルヴァナ・Y・アルギーニ。妹は5年も前に死んでるの。病気でね」  言葉の一つも出てこない三人を見て、どこから説明しようかハルヴァナは考える。  持ち帰った棺の中の聖書の中身が、全て鉱山技術の書物になっていたことからか。  あの崩落の瞬間、自分はデジョンを使って逃げ出していたことからか。  襲った男もサンドリアの密偵で、誘拐されることも予定通りだったことからか。  受付嬢も共犯で、口封じのために殺害されたことからか。  毎日読んでいた書物はすべて内容が鉱山関係の資料になっていたことからか。  火傷はその気になれば何時でも完治させられたことからか。  昔から病気がちだった妹のエリーシャを名乗って、二役をこなしていたことからか。  妹は養父母の実子であると言うことからか。  それとも、自分は幼い頃から多重人格者であることからか。 「そうね、まず最初から説明するわ。私がカデナ・メイプルリーフだった頃の話から…」                              終